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出張報告書_20170128:Malformed Objectsと他者を理解するためのオカルト

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28日は7時過ぎに自宅を出発し,新大阪を経由して品川に行き,そこか天王洲の倉庫街にあるギャラリー山本現代まで歩いて,「Malformed Objects − 無数の異なる身体のためのブリコラージュ」という展示を見た.「Malformed Objects」は,現代思想やインターネットの感覚を多様に取り込んだ考察や展覧会企画を行う上妻世海によってキュレーションされた展示である.ギャラリーに入ると,台の上に紙が置いてある.それは通常の作品解説ではなく,鑑賞者への指示書になっている.指示書の最初には,先程降りたエレベーターにもう一度乗るようにと書かれていた.私は面倒なので,その指示は無視した.指示は必ずしも従う必要はないと指示書に書かれていた.しかし,指示書に従わない場合は,「観察者」として扱われる.指示書に従った場合は「制作者」として扱われる.この指示書は,作品と鑑賞者の相互作用を「制作」と考えようとする上妻の考えを反映したものである. 指示書は特別なことが書いてあるわけではく,作品を見る順番とその見方が簡潔に書かれている.私は普段,解説を読みながら作品を見ないので,テキストを読みながら作品を見るという行為自体が煩わしくも,新鮮であった.けれど,一番の驚きは,指示書に従って最後まで見たあとに,指示書に「以降電子機器を開くことが出来る」と書かれていたことである.電子機器についての記述はそれまでひとつもなかったので,私はiPhoneで写真を撮りまくっていたのである.電子機器の使用までは指示されていないだろうと勝手に思っていたのである.鑑賞のはじめに,ギャラリーのスタッフに「写真とってもいいですか?」と聞き,「いいですよ」と返事をもらっていたので,まさか電子機器についての指示があるとは思わなかったのである.それほど,電子機器は私という身体から離すことができないもので,許可されているならばiPhoneで写真を撮るというのは「見る」という鑑賞行為の一部になっていたことに,上妻の指示から気づいたのである. 池田剛介《Translated Painting》シリーズ 永田康祐《Function Composition》 作品で興味深かったのは,池田剛介の《Translated Painting》シリーズと,永田康祐の《Function Composition》...

出張報告書_20150212−0215 あるいは,アスキーアート写経について

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12日は六本木の東京ミッドタウン・デザインハブに行き「 デジタルメディアと日本のグラフィックデザイン その過去と未来 」を見た.展示は「現在までのデジタルメディアとグラフィックデザインの関係を,プレデジタルメディアの時代(70年代以前),CGの時代(80年代),マルチメディアの時代(90年代),ウェブ広告の時代(00年代)に分け,コンピュータを道具ではなく環境として、あるいは素材として制作された先駆的な作品を集め」たものであった.展示方法で興味深かったのは,記録映像や紙媒体での展示ではなく,発表当時のコンピュータを使って作品が体験できるようになっていたことである.また,各時代のキーパーソンのインタビューも行われていて,その映像も視聴できた.時間の都合で,CGの時代の藤幡正樹,ウェブ広告の時代の田中良治のインタビューしか視聴することができなかったが,コンピュータとともに表現の領域を切り開いてきたふたりの言葉はとても示唆に満ちたものであった.藤幡がコンピュータのアルゴリズムに美を見つけていたのに対して,田中はコンピュータをインターネットにつなぐための道具と見なしていた.このコンピュータに対する感覚のちがい,それはまたインターネットという環境に対するちがいでもあるものは,とても興味深いものであった. 13日は午前中に六本木の国立新美術館に「 第19回メディア芸術祭 」を見に行った.アート部門の大賞作品はCHUNG Waiching Bryanによる《 50 . Shades of Grey 》で,これは様々なプログラミング言語で50段階の灰色のグラデーションの画像を制作したものである.ここでのメインは50段階の灰色のグラデーションの画像ではなく,それを生み出すプログラミン言語である.同一画像であっても,プログラミン言語によってその記述方法は全く異なる.全く異なる記述から同一の画像が生みだされるのも興味深いことであったけれど,この作品の展示で一番興味があったのは額装された6つの「プログラミン言語」の横にそれぞれつけられた作者の「思い出」である.そこにはそれぞれのプログラミン言語に対して,CHUNG Waiching Bryanがいつ,どのようにそれを学んだのか,その言語を最後に使ったのはいつかなどが書かれていた.私はほとんどのプログラミン言語を理解することはできなかった...

テクスチャを透してモデルを見てみると:ポストインターネットにおける2D−3D_発表メモ ver.3.35

テクスチャを透してモデルを見てみると:ポストインターネットにおける2D−3D 1.偽造の惑星からGoogle Earthへ 「モデル=テクスチャ→世界」をつくるアルゴリズム 現象をコンピュータの中で構築可能な形に解釈し直す必要があるのです. 解釈の正しさはでき上がった画像の質に表れます.解釈が間違っている画像に,われわれはリアリティを感じられません. このことを裏返しに考えてみると,コンピュータの中に現象を再構築する作業とは,じつは世界をとらえるための新しい方法を研究するのと同じ作業なのではないでしょうか?(p.2)  ハイパーテクスチャー ケン・パーリン この3次元テクスチャアの考え方では,テクスチャアはただ表面のみにあるのではなく,空間全体に潜在的に拡がっているのです.表面に見える色は,じつは中身のつまった素材(たとえば木や大理石)から,たまたま切り取った面によって見えているといったほうが近いのです.(p.47)  そういう意味で,すべてのコンピュータ・グラフィックスは,なんら本質をつかんだことにはならないのかもしれませんが,まったく新しい方法を私たちが用いたことによって,対象に対する新しいアプローチが生まれ,結果的に対象そのものに対する私たち自身の認識が変わってしまうことも起こりうるでしょう.この偽造の惑星を見るにつけ,現実の惑星の見え方が,この惑星の1パラメーターの状態に見えるようになってしまうかもしれないと思うのです.(p.175)  藤幡正樹『コンピュータ・グラフィックスの軌跡』1998  [「モデル=テクスチャ」をつくるアルゴリズムをつくり,現象をコンピュータのなかに再構成する.そこにできるのはもうひとつの惑星であり,パラメーターの変化させればその惑星は地球になりうる.アルゴリズムによってモデルとテクスチャを不分離に含んだ世界そのものをつくりだす.] モデル>テクスチャ コンピューター・グラフィックスの世界には,マッピングという技法があります.これは,物質の表面の色彩をそのまま画像ファイルとして保持しておき,これを3次元の物体を構成しているポリゴンに張りつけようというアイデアです.物体の色彩を,そのままその表面からいただいてきて,つくられ...

画像とテクスチャー:ポストインターネットにおける2Dと3D_発表メモ ver. 1.03

5月30, 31日に京都造形芸術大学で開催される日本映像学会第41回大会で発表をすることになっています.スケジュールはまだ来ません.学会委員が3人だけだったのでとても大変なことになっているのではなかと勝手に想像しています.そして,自分の発表も大変なことになっています.こちらは勝手な想像ではなく,とてもつよいリアリティとともに言い切ることができます! (;´д`)トホホ… −− 画像とテクスチャー:ポストインターネットにおける2Dと3D 1 藤幡正樹───世界をとらえるためのあたらしい方法 現象をコンピュータの中で構築可能な形に解釈し直す必要があるのです. 解釈の正しさはでき上がった画像の質に表れます.解釈が間違っている画像に,われわれはリアリティを感じられません. このことを裏返しに考えてみると,コンピュータの中に現象を再構築する作業とは,じつは世界をとらえるための新しい方法を研究するのと同じ作業なのではないでしょうか?(p.2) 藤幡正樹『コンピュータ・グラフィックスの軌跡,藤幡正樹』 レフ・マノヴィッチ───4種類のデータが「くっついている」あたらしい表象 メインのグーグル・マップウィンドウに現われる地球表面の表示は「3Dビューワー」と呼ばれ,衛星写真,3Dの高度データ,建物の3Dモデルと紙の地図で馴染み深いグラフィック要素(ベクターグラフィック,道路,国境などを示すテキスト)で構成される.重要なことは,その4種類のデータが「くっついている」(例えば,それぞれが直接的に重ねっている)ことである.それゆえに,4種類のデータはひとつの視覚的資料としてあらわれる.これはハイブリッドについての完璧な例である.異なった種類のメディアが集まって,ひとつのあたらしい表象をつくるのである. (p.193) レフ・マノヴィッチ『Software takes command』 2 ポストインターネット リアルとネットとを区別することなく扱う. リアルな世界とをコンピュータのなかに構築された世界とを特に区別することなく扱う. すべてがインターネットの影響を受けている. ハイブリッドな画像を日常的に接している. リアルとネットを相互に透かし見る状態 3 Clement Valla, The Universal Texture ヒトの解釈に基いてつくられたプログラムの処...

お仕事:メディア芸術カレントコンテンツへの記事_18

記事を書きました→ 「いま、映像でしゃべること?- Orality in Moving Image -」が開催 12月7日、8日に渋谷ヒカリエ 8/ COURTで開催された東京藝術大学大学院映像研究科オープンラボ「いま、映像でしゃべること? – Orality in Moving Image -」presented by GALAXY Lab. について書きました. 記事のなかで「私はここ1年くらいのあいだ,スマートフォンを使った作品に対して言語化できないモヤモヤしたもの感じていた」と書いていますが,このモヤモヤのキッカケは今回も出品していた谷口暁彦さんの個展「 思い過ごすものたち 」でした.この展示を見てブログを書いたのですがそのタイトルが「 ユラユラフラフラしているモノ 」なので,ユラユラフラフラしたモノに対してモヤモヤをずっと抱いていたといことになるでしょうか. 「いま、映像でしゃべること?」ではサムスン電子のGALAXY というスマートフォンが使われていました.タッチ型インターフェイスを備えたデバイスですが,今回は「タッチ」という部分ではなく,その板状のかたちがフィーチャーされていました.板状のデバイスがつくることができる映像の可能性を探るという感じです.ただその際に「映像」だけが取り上げられていることが気になりました.1日目のトークに出ていた徳井直井さんは私とは逆の観点ですがこのことを上手く指摘してくれています. モバイル端末を使った映像表現というとどうしてもOSが取り込んだ映像データをソフトウェアの上でごにょごにょすることを考えがち.  一方で開発者でない芸大生はまず端末を設置するフレームをレーザーカッターで作ったり,カメラにつけるアタッチメントを作ったり,端末をのせて走らせるラジコンを作ったりと、 OSがデータとして取り込む前の映像,そしてディスプレイに表示され出力される映像の見せ方,端末の「外」を最大限に利用していました. Nao Tokui loves to write.  私は徳井さんとは逆に端末の「外」を利用したものよりも,「センサーをハックする」というテキストを会場で販売されていたブックレットに書いていた谷口さんの作品のように端末の「内」も最大限に利用したものに惹かれました.それは目の前にある一枚の...

「薄さ」を与えられた平面:藤幡正樹の作品における平面の諸相

名古屋大学大学院文学研究科付属日本近現代文化研究センター が発行する『 JunCture 』第2号に「「薄さ」を与えられた平面:藤幡正樹の作品における平面の諸相」が掲載されました. この論文は藤幡正樹の作品《禁断の果実》《Beyond Pages》《未成熟なシンボル》における「平面」の性質を GUI の「平面」などとと対比しながら考察したものです. はじめに コンピュータと出会い、コンピュータ・グラフィクスにとりつかれてとうとう十年経ってしまった。私にとってアニメーションというメディアがコンピュータへの入り口であったなら、立体物を作ることはそこからの出口であるのかも知れない1。 このテキストは、アーティストの藤幡正樹が今から20年前に書いた「四次元からの投影物:デュシャンのオブジェからアルゴリズミック・ビューティーへ」の冒頭部分である。しかし、藤幡はこの立体物《禁断の果実》(1990)を作った後も、ZKMのパーマネントコレクションになった《Beyond Pages》(1995-97)ほかコンピュータを用いた作品を作り続ける。そして、いまでは日本のメディアアートを代表するひとりとなっている。 藤幡正樹と言えば、コンピュータを用いたインタラクティブな作品を誰もが思い浮かべる中、2006年にアニメーション作品《未成熟なシンボル》が発表される。自らコンピュータからの出口と書いた《禁断の果実》の制作後もコンピュータを使い続け、インタラクティブな作品で世界中の評価を得た藤幡が2、なぜインタラクティブではないアニメーション作品を作るのであろうか。 きっかけから言えば、平面性という問題なんです。トランプは平面でできています。写真などをはじめとするイメージ画像というものは、平面であることが前提になっていますので、平面的な物はイメージと実体のあいだの行き来が可能ですが、立体的な物は扱い難いんです。その意味で、テーブルとトランプという組み合わせは、イリュージョンを作りやすいということがあったんです3。 《未成熟なシンボル》をつくるきっかけのひとつに「平面性」の問題があったと藤幡は述べている。アニメーションという平面から作品を作り始めて CG に行き着き、CG を立体化した彫刻を作り、インタラクティブな作品を数多く作った後に、再...

2010年の簡単なまとめと,2011年へ

2010年は,「カーソル」の研究からはじまって,それがエキソニモさんのカーソルを使った作品《断末魔ウス》と《↑》への論考につながった. エキソニモ論文 と同時に,藤幡正樹さんの作品における「薄さ」を考える論文を書いていた(エキソニモ論文は無事刊行され,藤幡論文は今印刷中).幸い,このふたつ論文は査読を通った.このふたつの論考を足がかりに,これまで研究してきたユーザ・インターフェイスから,メディアアートへと研究の幅を広げていきたい.もともとはメディアアートの研究をしていて,そこからユーザ・インターフェイスへと向かったので,やっと元に戻ったとも言える. 論文以外では,「 間主観的な映像 」というタイトルで学会発表を行った.ドナルド・ディヴィッドソンの「三角測量」という考えを使って,映像を理解していこうという試みでしたが,まだまだこちらの方は考えがまとまっていない.しかし,ディヴィッドソンの考えは,メディアアートとユーザ・インターフェイスでなぜ,ヒトとコンピュータとのあいだにコミュニケーションが生じるのかを考えるうえで重要なのではないかと思っているので,少しずつでも考察を進めていきたい. 2011年は,「情報美学概論」という講義を行うことができるので,メディアアートとユーザ・インターフェイスとをパラレルに扱いながら,ヒトとコンピュータとのあいだの「美学」を考えていきたい. また,伏木啓さんの 《Fragmentation》への論考 を書きながら,ショットを繋げていく映像と固定ショットにおいて選択範囲を作りそこだけの時間・空間の在り方を変える映像との違いを考えた.そこで,前者は平倉圭さんの『 ゴダール的方法 』で極限までに考察されているけれど,後者にはまだまだ「分からない」領域が広がっているような気がした.ユーザ・インターフェイスの映像は,動かない映像の中に次々と選択範囲,もしくはカーソルの「縄張り」の領域をつくっていくものだと考えているので,ここを解明していくことで,固定ショット&選択範囲の映像のことが少し「分かる」のではないかと思っている.あとは,ユーフラテスさんの映像も固定ショット&選択範囲の映像の一種だと思うので,ここもまた,2011年にはじめて行う「映像文化」という講義で考えていきたい.

慣れた世界に関するメモ

コンピュータという論理機械を通して,物質を再構成して行く.もちろん,その物質は物理法則の中に置かれる.私たちは物理法則には慣れているが,コンピュータの論理世界には慣れていない.しかし,人間は何にでも直ぐに慣れる.私たちは,コンピュータが作り出した論理世界とその物理世界への介入に慣れてきている.慣れの具合に個人差があったとしても,あとは程度の問題である. 慣れた世界は,コンピュータの論理世界でも,物理法則に単に則った世界でもない.そこは,人間の世界である.人間の認識によって,モノの輪郭が与えられる世界.いくら天板が薄くても,テーブルはテーブルなのだ.プロジェクションされているとはいえ,トランプはトランプなのだ.そして,テーブルはテーブルのモノとしての輪郭があり,トランプにはトランプの輪郭がある.それは論理で決まっているわけでもなく,物理法則で決まっているわけでもない.ただ,人間の認識において現れるのだ.この慣れ親しんだ世界に,コンピュータは介入する.モノを支配している物理法則を,コンピュータは巧みに操作することで,今までにはなかったようなモノの輪郭を作り出す.私たちは,この新たな輪郭と今まで慣れ親しんだ世界の輪郭との対比させて,新たな輪郭に新しい認識を与える.

カフェで平面についていろいろと考えたメモ

カーソルがあるGUIとカーソルがないタッチにおける平面の差.これは単にインターフェイスの問題だけなのだろうか. カーソルを動かし,スクロールバーを上下させて,平面を上下させる.スクロールバーを手で動かしている感じ.対象を掴むという感覚.対象は,平面から独立している. タッチの場合は,対象が載っている平面自体を動かすという感覚.平面が動くから,その上に載っている対象も動くという感じ.平面の上に載っている対象は,対象として独立していない.載っている平面に結びつけられている. 平面に対する感覚の違いは,インターフェイスの問題だけにとどまるものであろうか.ここからアートやアニメの問題に広げて行けば,ひとつの平面論が構成できるのではないだろうか. 石上純也のとても薄い天板を持つ《テーブル》における,極限にまで薄い平面とそれを支える構造との関係. 藤幡正樹のインタラクティブではない作品《未成熟なシンボル》におけるプロジェクションが作り出す極限にまでに薄い映像世界とモノの厚さとの関係. 藤木淳の《無限回廊》における二次元と三次元とのあいだの関係. パターンがはめ込まれたアニメにおける平面.(このパターンが二次元と三次元とのあいだにある次元を作り出していると指摘する論考があるらしいので読んでみる.) これらは二次元と三次元とのあいだに漂う新しい平面の問題を提起しているような気がする. カーソルをもつGUIの平面は,二次元でもなく三次元でもない新たな平面を作り出したと言われるが,タッチのインターフェイスは,とても二次元的な気がする.どこまでも二次元だけで成立している平面.これはこれで今までとは異なる仕方で,平面が構成されている気がする. GUIが一般化して,それがタッチに変わろうとするときに,建築やアート,ゲーム,アニメの領域でそれぞれ新しい平面を示すような作品が生み出されていること.ここに共通する何かを見つけ出すことはできるであろうか.コンピュータによって可能になったGUIが示してた新たな平面.そして,その新たな平面を自ら更新するコンピュータ. 二次元と三次元とのあいだに漂う新たな次元を探る一方で,二次元であり続ける平面が生み出されてきていること.

ドイツには行けなかったけれど……

ドイツでの「翻訳」をテーマにしたシンポジウムに応募したアブスト.ここに上がっているということはボツ.この大元の文章をここまで修正してくれた mzkawa さんに感謝.いっしょにドイツで発表したかった……. これを頭の中で反芻しつつ, .review のアブストも別のテーマで書いてみようと思っている今日この頃. ーー 藤幡正樹の作品における行為と出来事(仮) 日本を代表するメディアアーティストとして知られる藤幡正樹の作品は,多くの人がインタラクティブ、即ち人とメディアとの相互作用性/対話性に特徴があると思っている.しかし,藤幡は「インタラクティブ」という概念自体に疑問を投げかけている.最近の藤幡の作品は,インタラクティブなものではなく,ループするアニメーション作品であったりする.しかし,アニメーション作品であっても,そこにはインタラクションがあると,藤幡は考えている.本発表は,藤幡作品におけるインタラクションを,行為と出来事という観点から考察するものである.ここでは、ドナルド・デイヴィドソンに代表される分析哲学の言語観に依拠し, 人間とメディアとの間で生じる一種の「コミュニケーション」の問題としてインタラクションを捉える.そして,人間とメディアという非対称な関係において生じるコミュニケーション成立の可能性の要件――言語一般で言うところの「翻訳」の問題――について考えることになるであろう.

「『薄さ』を与えられた平面」で使われなかったテキスト

きっかけから言えば,平面性という問題なんです.トランプは平面でできています.写真などをはじめとするイメージ画像というものは,平面であることが前提になっていますので,平面的な物はイメージと実体のあいだの行き来が可能ですが,立体的な物は扱い難いんです.その意味で,テーブルとトランプという組み合わせは,イリュージョンを作りやすいということがあったんです.(pp.120-145) -- 藤幡作品を考えるためのキーワードとして「平面」,「投影」,「重なり」があると考える.「投影」は「平面」を必要するし,「投影」すれば「平面」に「重なり」が生じる.「重なり」が生じた「平面」は立体なのではないかという疑問も起こる. 《Beyond Pages》と《未成熟なシンボル》の共通点.記号.行為と出来事.シンボルとオブジェクト.意味と無意味. 本という平面の重なりでできた物体.「平面の重なり」 -- 言語というある意味1次元な連なりが3次元のオブジェを作るのだが,それはひとつだけではなく,多くの可能性のなかのひとつであり,その可能性すべての言葉のつながりは2次元の地図を構成する. -- 平面(?)→立体 「形をめぐる探検隊の残した地図」 ところがここに提示された地図というのはそこでの出来事,プロセスが二次元的に拡げられて示されている.例えば,ヴィデオを再生するようにプロセスをトレースするリニアなヴィデオを再生するようにプロセスをトレースするリニアな「ホット・プロセス」ではなく,ノンリニアに示された「コールド・プロセス」として示されているのだ. この図版はコンピュータに対して行われたすべての行為の時間軸を忘れさせるようなかたちで,フラットにして見せてくれているのである. 密着する平面 -- 《Beyond Pages》は,行為と出来事の地図を立体化した作品なのだ.《禁断の果実》では作品を支えるためにあり表には出てこずに,制作者である藤幡のためにのみ存在していた地図が,3次元化することで観者が体験できる出来事として出てきたのである.ここでも,問題は「平面」と「立体」のあいだの行き来なのである. -- ヒトが言語によってコードを作り上げていて,そのコードに基づいてコミュニケーションを行っているというのが普通の理解である.しかし,ドナルド・ディヴィドソンは言語には...

ふたつの英語の要旨の初稿へのリンク

今書いている文章の英語の要旨を書いてみた.まだ字数を埋めただけという感じ. 英語で書く(単語を並べるてるだけですが)と,自分の考えを別の方向から眺められていて,なんとなく行き詰まってところが突破できるような気がする.でも,また日本語で書くと行き詰まったりするんだけど…… ーー First draft: The cursor is the switchover entity between the real and the virtual: Two works about the cursor by exonemo First draft:A ‘plane’ on Masaki Fujihata’s works: Gravity/Projection/Overlapping

今書いているものたち

夏の暑い中,どこにも行かずに部屋で書きつづけている2つの文章.月末までにすべて書ききれるのか?  ーー カーソルをめぐるエキソニモの冒険(仮) はじめに 本稿が考察の対象とするのは,ユーザ・インターフェイスにおける「カーソル」である.とはいえ一口に「カーソル」といっても,それはCUIにもあり,GUIにもあり,iPadに代表されるタッチ型インターフェイスではその存在が消えかかっているように,その現れ方も当然一様ではない.そこで本稿はさしあたり,GUIにおける「カーソル」に焦点を絞る.なぜならこの30年間私たちとコンピュータとを結びつけてきたGUIの中で,「カーソル」ほど訳のわからないイメージはないからである.まずは「カーソル」という映像の「訳のわからなさ」を明確にした上で,そこでの問題を積極的に受け容れつつ創造的に乗り越えた作品として,エキソニモのカーソルをめぐる3つの作品《断末魔ウス》(2007),《ゴットは,存在する.》(2009)の中の《祈》と《gotexsit.com》,《↑》(2010)を論じる.カーソルがインターフェイスのみに留まらない,ヒトとコンピュータとの関係から生じた現実と仮想とを切り替えながらループしていくスイッチのような新たな存在様態の可能性を明らかにすること.それが本稿の目的である. ーー 藤幡正樹の作品における平面:平面を組み立てる(仮) はじめに コンピュータと出会い,コンピュータ・グラフィクスにとりつかれてとうとう十年経ってしまった.私にとってアニメーションというメディアがコンピュータへの入り口であったなら,立体物を作ることはそこからの出口であるのかも知れない.(p.119)  藤幡正樹『アートとコンピュータ』(1990) このテキストは,アーティストの藤幡正樹が今から20年前に書いた「四次元からの投影物:デュシャンのオブジェからアルゴリズミック・ビューティーへ」の冒頭部分である.しかし,藤幡はこの立体物《禁断の果実》(1990)を作った後も,ZKMのパーマネントコレクションになった《Beyond Pages》(1995-97)ほかコンピュータを用いた作品を作り続ける.そして,日本のメディアアートを代表するひとりとなっている. 藤幡正樹と言えば,コンピュータを用いたインタラクティブな作品を誰もが思い浮かべる...

「身体/記号の拡張の手前」を考える一歩手前のメモ

《Beyond Pages》は,とてもスムーズに身体を拡張し,記号を拡張する.モノとイメージとのあいだに身体を入れ込んで,そこで新たな記号が生じる.モノとイメージのあいだに入り込んだ身体が新しい体験をする.これまでにない仕方で林檎を齧る. 本という平面の重なりでできた物体.平面と立体.机の上に投影された本には重なりがない.机の天板という平面に隙間なく密着している本の映像.本はモノだが意識はページという平面に集中している.だからこそ,《Beyond Pages》での「ぺらぺら」ともすることができない本の映像を誰もが受け入れる.それは本のような映像だと知りながら,本として受け入れる.本というモノが,平面に投影されたイメージになる.この「本」を受け入れた瞬間,私たちにの身体はイメージとモノとのあいだに入り込む.そして,インタラクションがはじまる. インタラクションの中で拡張した身体は,いつもの馴染みの身体になり,拡張した記号は記号全体のネットワークに組み込まれる. ここで,投影されている本の薄さに戸惑ってみよう.それは机の木の天板に密着している.ページが重なっているように表現されているが,それは映像上だけで,机の上には何ひとつ立体的なモノがない.なぜこのような映像を本のようなものとして受け入れてしまうのか. インタラクションの手前に留まること.それは身体と記号を拡張する一歩手前のわからなさで止まること.

フラットベッドについてのメモ

フラットベッドではあらゆるモノがコラージュされる.あらゆるものが平面に重ねられる.垂直ではなく,水平であること.机の上に映像をプロジェクションするように. デュシャンの大ガラスはヒトが直立姿勢で知覚した世界を表しているのではなく,情報のマトリックスが垂直状態に都合よく置かれているのだ.デュシャンのレディメイドは90度,モノを回転させる. 「平面的な物はイメージと実体とのあいだの行き来が可能です」という藤幡の言葉. モノをどんどんキャンバスという平面の上にコラージュしていくラウシェンバーグ. 藤幡とラウシェンバーグの比較を行いたいわけではない.平面にいろいろとコラージュしていくことの意味を考えたい.というか,藤幡の重ならないモノとイメージとのコラージュ(《未成熟なシンボル》)と平面の重なりから作られた立体(《禁断の果実》)における「平面」を考えたい.そこで,レオ・スタインバーグの「フラットベット絵画平面」での「平面」に言及してみること. 「フラットベット絵画平面」における「平面」は,なんでも受け入れる概念的な「平面」である.デュシャンやラウシェンバーグは,この「平面」にモノを置いていく.どれだけモノをおいても平面でありつづける不思議な平面を作っていく. 「フラットベッド絵画平面」はGUIでの不思議な平面と似ている.コンピュータは可能にしたなんでもシミュレートすることで,あらゆることが可能になるような平面.藤幡はこの概念的な「平面」を基盤にしている.そして,《禁断の果実》では「平面」を重ねて立体にしようとする.重さを感じさせない立体ができがある.それは重さを持たない概念が具体化したモノだからである.《未成熟なシンボル》では,「平面」の上に平面的なモノとイメージとを並べる.いや違う.平面的なモノとイメージという重ならない2つの存在を並べることで,普通の机の上を概念的な「平面」に変えてしまう.

「四次元からの投影物」に関するメモ

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藤幡は「四次元からの投影物」というテキストを書いている.その冒頭には次のようにある. コンピュータと出会い,コンピュータ・グラフィクスにとりつかれてとうとう十年経ってしまった.私にとってアニメーションというメディアがコンピュータへの入り口であったなら,立体物を作ることはそこからの出口であるのかも知れない.(p.119) 「四次元からの投影物:デュシャンのオブジェからアルゴリズミック・ビューティーへ」 実際は,この立体物《禁断の果実》を作ったあともコンピュータを用いた作品を藤幡は作り続ける.しかし,2006年にコンピュータを用いないアニメーション作品《未成熟なシンボル》を作ることになる.アニメーションからコンピュータと出会い,アニメーションでコンピュータを別れる.そしてこのアニメーション作品をつくるきっかけは「平面性」の問題であったと藤幡は述べている.アニメーションという平面から始まり,立体を作り,また平面へと至るこの藤幡の作品制作のプロセスから,今まであまり考えられてこなかった藤幡の作品における「平面」を考えてみたい. そのためにアニメーションに回帰した《未成熟なシンボル》と立体物の《禁断の果実》,インタラクティブな作品《Beyond Pages》を取り上げる. -- 冒頭に引用した「四次元からの投影物」の最後には次のように書かれている. 形の変形や生成をめぐる私的アルゴリズムへの探求は,おのずと四次元感覚に触れることを意味する.ここではイメージも立体もその根源において同一のものとして扱われ,なんの区別もされないのである.(p.124) 「四次元からの投影物:デュシャンのオブジェからアルゴリズミック・ビューティーへ」  冒頭に引用した「四次元からの投影物」の最後には次のように書かれている.コンピュータを用いる中で,イメージと立体が区別されない領域を見つけたことは藤幡の作品における「平面」を考える際に重要である.藤幡はコンピュータを,平面と立体が別々の形態としてあるのではなく同一のものとして扱える場所として考えている.現実世界では平面と立体とのあいだに超えられない境界があるが,コンピュータにはその境界が存在しない.藤幡はその境界があたかもないこととして作品を制作する. 《禁断の果実》をつくる際に用いたステレオリソグラフィーというシステムに対して藤幡は次の...

100802 実家へと向かうバスの中で書いたメモ

藤幡正樹の《未成熟なシンボル》における平面への問いは,村上隆が提唱した「スーパーフラット」と関係しているのであろうか. 村上隆の「スーパーフラット」は2000年に行われた展覧会で大々的に提唱された.それに対して,藤幡の《未成熟なシンボル》は2006年の作品である.また藤幡の作品の平面性を考えるために取り上げた作品はいずれも2000年前のものである(《禁断の果実》は1991年,《Beyond Pages》は1996年).作品の発表年だけをみれば,藤幡の作品のスーパーフラットとはずれている. しかし,スーパーフラットはGUIの不可思議な平面をはじめとするコンピュータに影響されていることは確かなことである.コンピュータはまさに藤幡が探求してきた世界である.また,藤幡はそのアーティストとしてのキャリアをアニメーションからスタートさせていることからも,藤幡とスーパーフラットとのあいだは時期のずれほど大きな隔たりはないと思われる.しかし,村上のスーパーフラットがそのまま藤幡の平面を説明できるかというとそれは難しいと言わざるを得ない.藤幡は,すべてを平面で語るためにはコンピュータを知りすぎている.藤幡はコンピュータの深層を知りすぎているのである. スーパーフラットに影響を与えたGUIは私たちに「at interface value」というすべては表面の出来事であるという価値観を与えた.村上とともにスーパーフラットを推し進めた東浩紀は,GUIがすべてが見えているイメージの効果であるという大きな認識論的転換を起こしたものであるだとしている. 藤幡はすべてが見えるイメージの効果にすぎないになる前から,コンピュータに深く関わっている.それゆえに,その表面に密着するかたちで「行為と出来事の地図」が存在することを知っているのである.さらに,その地図が描く世界はまっさらな論理空間であることも知っている.その論理空間では3次元のオブジェを文字で記述することできるも知っている.藤幡は,GUIが表示している「不可思議さ」がなぜ生まれるのかを知っているのである. その「不可思議さ」をそのまま立体にしようとしたのが《禁断の果実》であり,GUIの表面で起こっている記号とモノとの振幅運動を表したのが《Beyond Pagae》である.《未成熟なシンボル》は,モノとのイメージとを平面で重ね...

昨日カフェで書いたメモ

《Beyond Pages》は,藤幡の作品の中でも数多く言及される.インタラクティブの体験で,意味が立ち上がると指摘される. 私はこの問題を,藤幡がCG時代から考えざるをえなくなっている「平面と立体」の問題と捉えてみたい. 《Beyond Pages》は,行為と出来事の地図を立体化した作品なのだ.《禁断の果実》では作品を支えるためにあり表には出てこずに,制作者である藤幡のためにのみ存在していた地図が,3次元化することで観者が体験できる出来事として出てきたのである.ここでも,問題は「平面」と「立体」のあいだの行き来なのである. イメージとモノとインタラクションが混じる状況で,私たちは普段とは異なる体験をすることになる.藤幡が言うように,リンゴにペンで触れると,それが齧られる.そんなことは,普通では起こらない.その体験を文字にすれば「ペンでリンゴに触れると,リンゴが齧られた」であり,どこかの小説の中にでも出てきそうな感じである.しかし,藤幡の作品はこれを見る人の行為とイメージとを組み合わせて表象してしまう.行為とイメージとを組み合わせているのは,コンピュータである.コンピュータが普通ではいっしょに起こることがない出来事をくっつけてしまう.物理法則が無効化される.それでもそこに意味を認めてしまう. ヒトが言語によってコードを作り上げていて,そのコードに基づいてコミュニケーションを行っているというのが普通の理解である.しかし,ドナルド・ディヴィドソンは言語にはコードなどなく,その場その場でそのテキストの真偽を決めつつ,場当たりてきにコミュニケーションを行っていると主張する.ディヴィドソンの考えによれば,私たちは常に手探りでコミュニケーションを行っていることになるのだが,それは藤幡が「形」をめぐって行ったコンピュータとの対話そのものである. 藤幡はCGを作成する際に自分が体験していた地図を3次元化して私たちは提示する.なぜ地図を立体化する必要があったのだろうか.それは時間を地図を中に取り入れるためである.時間を捨象してフラットになっていた地図では,私たちは出来事を出来事として体験することはできない. それは,論理の関係から,「そして」の因果関係へと変換である.コンピュータは論理の世界であるから,そこには時間がない.しかし,ヒトは時間の中に生きている.論...

昨日カフェで書いて,そのあと日曜の午前中に書いたメモ

《未成熟なシンボル》では,ヒトの身体は平面化されない.モノとしてのトランプとイメージをトランプとの重なりでひとつの不可思議な平面が成立しているにも関わらず,ヒトの身体は作品に招き入れられない.それはただ単にインタラクティブでないということだけではない. 平面は身体を招き入れないという意味では,平面のままだが,平面的なモノであるトランプとプロジェクションされたトランプのイメージとの重なりによって不可思議な空間が生まれる.そこで,出来事が記号化される.空間でありながらも平面でもあるということが生まれる. 平面的であるがゆえに立体とみなされないモノとしてのトランプ.それは単なる記号として扱われる.平面の記号にヒトがアクセスする.ヒトはモノとしてのトランプを動かすことができる.当たり前のことであるが,机の表面という平面の上で,平面的なトランプを動かすヒト.動かす瞬間にモノとしてのトランプは立体となる.手で持つことで,かすかな厚みが生じる.平面的なモノとしてのトランプは.平面と立体とのあいだを行き来している. 対して,イメージとしてテーブルの上にプロジェクションされているトランプは,常に平面的である.ヒトはこのイメージとしてのトランプにアクセスすることができない.触ることができないが,手の上に「のせる」ことはできる.触るのではなく,「密着」させること.テーブル,トランプ,ヒトの手.このトランプはあらゆるモノの表面に密着する.それは「かさなる」という言葉が単に与えられているだけで,今までの意味での密着とは異なる新しい体験である. 《未成熟なシンボル》は,インタラクティブな作品ではない.しかし,それ故に,プロジェクションの意味に意識が向けられる.モノの表面にイメージが「かさなる」こと.「かさなる」ことでイメージは単なる平面のままでありながら,立体となりそうになる.今までの感覚では「立体になり損ね続ける永遠の平面」.映画は常にそうであったが,スクリーンは手を触れてはいけないモノであるから,このことを忘れることができた.しかし,テーブルという触れられるモノの上に,トランプという手で扱うモノをプロジェクションすることで,藤幡はそこで投影されているイメージが「立体になり損ね続けている平面」であることを意識させる.しかも,このイメージはインタラクティブではない.ゆえに,操作...

100731 深夜の「平面|データ|立体」に関するメモ

平面|データ|立体 藤幡正樹はコンピュータ内のデータを中心として平面と立体とのあいだを行き来する. コンピュータの中では,データの記述が「形」を決める.それは3次元のデータを持っている.しかし,それを現実の世界に出力するには,当時は紙への印刷しかなかった.それは立体が平面に切り取られることを意味していた. データが3次元で記述されているのに出力が2次元になってしまうことに苛立ち,そのままの「形」でこちら側に引っ張り出した作品が《禁断の果実》である. 藤幡はデータの履歴を「形をめぐる探検隊が残した地図」と呼ぶ.コンピュータとともに形を探った出来事が2次元化される.それは「コンピュータに対して行われたすべての行為の時間軸を忘れさせるようなかたちで,フラットにして見せてくれている」ものである. データの記述は3次元であるのに対して,それを行うヒトの行為は2次元で記録されている.オブジェは立体になろうなろうとし,それに平面で記録されるヒトの行為が密着している. 「形」をめぐる行為と出来事は,多くの選択によって成り立っている.その行為・出来事を選ぶか,選ばないかの積み重ね.ある形が生じたとして,その形に至る選択の真偽をめぐる選択が多くの行われる.ここにはコードはない.今だ見知らぬ土地で,経験したことがない出来事が起こり,その真偽を毎回手探りで探っていかなければならない.そんな行為と出来事の履歴の集まりが平面を作る.その平面から,多くの立体が生まれる. データ(の記述)を中心として,立体と平面とのあいだを行き来するなかで,「形」が出来上がっていく. 言語というある意味1次元な連なりが3次元のオブジェを作るのだが,それはひとつだけではなく,多くの可能性のなかのひとつであり,その可能性すべての言葉のつながりは2次元の地図を構成する. オブジェクトのレベルでも,3次元で記述されたデータをそのまま3次元で出力するか,2次元で3次元のように嘘をつきながら出力するかという立体と平面との問題がある.ともに,そのオブジェには,その形へとたどり着くための地図という平面が付随している.立体は行為と出来事のレベルで平面と密着しているのである.