テクスチャを透してモデルを見てみると:ポストインターネットにおける2D−3D_発表メモ ver.3.35
テクスチャを透してモデルを見てみると:ポストインターネットにおける2D−3D
1.偽造の惑星からGoogle Earthへ
「モデル=テクスチャ→世界」をつくるアルゴリズム
現象をコンピュータの中で構築可能な形に解釈し直す必要があるのです.解釈の正しさはでき上がった画像の質に表れます.解釈が間違っている画像に,われわれはリアリティを感じられません.このことを裏返しに考えてみると,コンピュータの中に現象を再構築する作業とは,じつは世界をとらえるための新しい方法を研究するのと同じ作業なのではないでしょうか?(p.2)
ハイパーテクスチャー ケン・パーリンこの3次元テクスチャアの考え方では,テクスチャアはただ表面のみにあるのではなく,空間全体に潜在的に拡がっているのです.表面に見える色は,じつは中身のつまった素材(たとえば木や大理石)から,たまたま切り取った面によって見えているといったほうが近いのです.(p.47)
そういう意味で,すべてのコンピュータ・グラフィックスは,なんら本質をつかんだことにはならないのかもしれませんが,まったく新しい方法を私たちが用いたことによって,対象に対する新しいアプローチが生まれ,結果的に対象そのものに対する私たち自身の認識が変わってしまうことも起こりうるでしょう.この偽造の惑星を見るにつけ,現実の惑星の見え方が,この惑星の1パラメーターの状態に見えるようになってしまうかもしれないと思うのです.(p.175)
藤幡正樹『コンピュータ・グラフィックスの軌跡』1998
[「モデル=テクスチャ」をつくるアルゴリズムをつくり,現象をコンピュータのなかに再構成する.そこにできるのはもうひとつの惑星であり,パラメーターの変化させればその惑星は地球になりうる.アルゴリズムによってモデルとテクスチャを不分離に含んだ世界そのものをつくりだす.]
モデル>テクスチャ
コンピューター・グラフィックスの世界には,マッピングという技法があります.これは,物質の表面の色彩をそのまま画像ファイルとして保持しておき,これを3次元の物体を構成しているポリゴンに張りつけようというアイデアです.物体の色彩を,そのままその表面からいただいてきて,つくられた形状に張りつけるわけです.これは音楽の世界におけるデジタル・サンプリングと同様の技法で,利用価値はたいへん高いといわざるをえませんが,きわめて直接的な解法であって本質的な解法ではないのです.まさに対象を表面的にしか見ていないということです.(pp.81-82)
藤幡正樹『カラー・アズ・ア・コンセプト:デジタル時代の色彩論』1997
テクスチャの貼り方2次元の画像を3次元のオブジェクトに貼り付けるには,その座標変換を設定しなければなりません.ここでは,この変換の方式をテクスチャの貼り方として,いくつか紹介していきます.ソフトウェアによって多少呼び名や扱いが異なりますが,基本的な考え方は同じです.いつくか用意されている投影方式からそれらの特性を十分吟味して,オブジェクト形状にマッチするものを選び,投影する軸(XYZ),大きさ,タイリングなどを決め,できるだけテクスチャの伸びや歪みなどの不具合がない,あるいは,できるだけ目立たないように調整するというのが一連の流れになります.(p.28)
武田哲也『テクスチャ教科書[Texture Imaging]』2004
テクスチャ=立体の表面を包むために3D→2Dの座標変換が行われて歪んだ画像
[世界そのものをつくるのではなく,世界のかたちだけをある程度つくって,そこに世界を写しとった画像を貼るというのがテクスチャ・マッピングという手法である.世界を解釈することなく,その表面だけを借りてきて,「世界っぽい」「現象っぽい」リアリティを生み出す.その際にテクスチャとなる画像はモデルの表面を包むために3D→2Dの座標変換が行われて歪むことになる.]
[世界そのものをつくるのではなく,世界のかたちだけをある程度つくって,そこに世界を写しとった画像を貼るというのがテクスチャ・マッピングという手法である.世界を解釈することなく,その表面だけを借りてきて,「世界っぽい」「現象っぽい」リアリティを生み出す.その際にテクスチャとなる画像はモデルの表面を包むために3D→2Dの座標変換が行われて歪むことになる.]
2005_Google Earth
モデル<テクスチャ/モデルとテクスチャの密着
→あたらしいイメージの生成これは板というイメージが別の物質によって実体化されたモノである.表面を覆い尽くしているイメージが,その下にある支持体とぴったりと寄り添っているために,それがイメージであることがバレにくいだけだ.(p.220)
こうした事例の究極的な予測を Google Earth は見せている.それは地図が場所を指示する代名詞としての作用をもっていたことの延長線上に出現したページだが,問題なのはそれが自分自身の場所も含み込んでいることである.このページにアクセスして,誰もがすることは,「私の住む場所」を探すことだろう.それを外側から見ること.しかも,ディスプレイ上のイメージとして見ることは,それとこれを同一視しようということであり,現実をイメージと同等の対象として扱うことである.(p.226)
藤幡正樹『不完全な現実:デジタル・メディアの経験』2009
メインのグーグル・マップウィンドウに現われる地球表面の表示は「3Dビューワー」と呼ばれ,衛星写真,3Dの高度データ,建物の3Dモデルと紙の地図で馴染み深いグラフィック要素(ベクターグラフィック,道路,国境などを示すテキスト)で構成される.重要なことは,その4種類のデータが「くっついている」(例えば,それぞれが直接的に重ねっている)ことである.それゆえに,4種類のデータはひとつの視覚的資料としてあらわれる.これはハイブリッドについての完璧な例である.異なった種類のメディアが集まって,ひとつのあたらしい表象をつくるのである.(p.193)
レフ・マノヴィッチ『Software takes command』2013
[アルゴリズムでひとつの世界を再構成された惑星は,2005年にテクスチャでパッチワークされた地球として私たちの前に現れた.「地球っぽさ」を示すGoogle Earthは,地球のモデルに膨大なテクスチャを貼り付けてできあがっている.藤幡はGoogle Earthによって現実がイメージになってしまったと言い,レフ・マノヴィッチはGoogle MAPのデータの密着をハイブリッドなあたらしい表象と呼んだ.いずれにしても,Googleは膨大なテクスチャを密着させることで,もうひとつの地球っぽいものをつくってしまったのである.]
2.ポストインターネットにおけるテクスチャと3Dモデルの分離
ポスト・インターネット「ポスト・インターネット」という言葉は,2008年にアーティスト・批評家のマリサ・オルソンがインタビューで言ったことがはじまりとされている.このときのオルソンは,この言葉でオンラインとオフラインの区別がもはや成立しないことを意味していた.2011年になると,オルソンは「ポスト・インターネット」は単に「インターネットの後」という意味で使ったほうがいいと書く.わずか3年のあいだに「ポスト・インターネット」が強調していたネットとリアルの区別はもはや意識されることすらなくなり,インターネット以後の表現に対するラベルとして「ポスト・インターネット」が使われる状況になったのである.ポスト・インターネット用語20 水野担当
インターネット上のイメージやそれが作り出す空間は,もはやハッキングやコーディングによって開拓しなければならない新大陸ではない.それは単に現実を構成する一つの素材であり,素朴だがフィジカルでリアルな“物質”のような,あるリアリティをもちはじめたように思われる.(p.119)
谷口暁彦「ググっても出てこない,ぼくが知りうるネットアートについての歴史の断片,そして最近のこと」in IDEA No.366,2014
[Googleがつくった「地球っぽい」ものは,ネットと現実との関係を変え,ネットとリアルとの区別がもはや意味のないものにしてしまった.その区別のできなさを,藤幡やマノヴィッチは「イメージ」から捉えたが,ポストインターネット世代のアーティスト・谷口暁彦はGoogleが展開する「イメージ」に対して「素朴だがフィジカルでリアルな“物質”のような,あるリアリティをもちはじめた」という感覚を示す.「イメージ」と”物質”という言葉のちがいに「テクスチャ」に対する感覚のちがいが示されている.それはネットとリアルとの関係に対する感覚とつながっているのではないだろうか.谷口の言説をもう少し追ってみたい.]
モデル<テクスチャ
≠イメージ
=素朴だがフィジカルでリアルな“物質”
谷口 最近,Googleストリートビューがインターネットにあるトドメを刺したと考えています.現実と異なるオルタナティブな場所としてのインターネットがストリートビューの登場で死んだんじゃないかと.インターネットの中に地球のほとんどが記録され,「現在地ボタン」を押すとブラウザが現在地を取得して「あなたはここにいます」って指示してしまう.現実を指し示し,構成する,ひとつのレイヤーになってしまった.(p.91)
谷口 僕はインターネットが特別なものでなくなり,現実を構成するいち要素になってしまっても,現実とのズレや齟齬の中に,インターネット固有の場所性を見出すことができるんじゃないかなと思います.ここ数年,ネット上に3DCGで構築したバーチャルなギャラリー空間で行われる展覧会が数多くありました.Chrystal GalleryやBarmecidal Projectsなど,それらの多くでは現実のギャラリー空間を忠実に再現した場所に,ほんの少し現実では不可能な形態や,違和感のある作品を配置して固有の物質性をつくり出そうとしていた.また「An Immaterial Survay of Our Peers」(2010年)という展覧会では,記録写真を捏造することで現実には存在しない展覧会を開催していました.(p.91)
谷口 むしろ,インターネットと現実の関係が密接になったからこそ,わずかな操作でこうした両者の間の奇妙なリアリズムを生み出せているように思えます.この「間」のリアリティーがポスト・インターネットっぽさなのかなと思います.(p.91)
谷口暁彦×HouxoQue「ディスプレイの内/外は接続可能か?」in 美術手帖 2015年6月号
現実とインターネットとの「間」をモデルとテクスチャとの「間」に見ることができるのではないだろうか?
モデル<テクスチャ
≠イメージ
=素朴だがフィジカルでリアルな“物質”
→テクスチャを“物質”と見なすと,モデルとテクスチャの密着が解け,そこにできた隙間にあたらしいリアリティが生じているのではないだろうか?
現実とインターネットと「間」を,谷口やほかのポストインターネット世代の作家たちがつくる表現における「モデル」と「テクスチャ」の「間」に見ることができるのではないだろうか.藤幡・マノヴィッチはモデルとテクスチャの密着によるあたらしい表象をGoogle Earthに見ていたが,谷口はGoogle Earthやストリートビューで展開するイメージを”物質”として扱う.これはモデルを覆うテクスチャを”物質”として捉えてみるという実験なのではないだろうか? テクスチャはモデルのリアリティを強調するために歪んだ画像であったが,ネットとリアルとの区別をしなくなったポストインターネットでは,モデルとテクスチャの意味も変化し,テクスチャという画像=イメージもまた物質のように捉える感覚/扱える操作がでてきていると考えられる.]
3.テクスチャを透してモデルを見てみる方法_谷口暁彦の場合
最近「彫刻」に可能性があるんじゃないかと思っています.「彫刻」というジャンルではなく,「彫刻」的な考え方ですね.モホリ=ナギが著書『ザ ニュー ヴィジョン』(1928年)の中で,彫刻がどういう歴史をたどっているかについて書いているんですが,ガラスや透明な樹脂を使った彫刻のようにマッスが希薄になり,そこからモビール的な動く彫刻へ,最後は光や映像のようなものへと,非物質的になっていく変遷が記されているんです.そこでは今で言うところのプロジェクション・マッピングみたいなものも示唆しています.(p.89−90)
谷口暁彦×HouxoQue「ディスプレイの内/外は接続可能か?」 in 美術手帖 2015年6月号
こうした一連のチャレンジには,イメージをモノ化して,彫刻にする作用があると言えるだろう.Google Earthが,現実をイメージと等価の対象としてゆくのに対して,イメージをイメージのまま空間化することで現実を新しく更新する,という言い方でもいいのかもしれない.それは動画像であれば,さらに複雑なことが可能であるし,たぶんインタラクティヴな環境を上手に作ることで,イメージの中の対象物が,モノとして認知されるされるような状態を作ることも可能だろう.それは言葉が生まれる瞬間に立ち会うように,イメージがオブジェクトとして機能してしまうような新しい言語記号の発生に立ち会うことを意味するだろう.(p.230)
藤幡正樹『不完全な現実:デジタル・メディアの経験』2009
プロジェクション・マッピングが現代の彫刻だと言うと面白くないんだけど,そうした非物質化の先にネットワークやインターフェースといった,目に見えないものによる立体性,彫刻性がありえるかもしれないと考えるのは面白そうかなと.(p.89−90)
谷口暁彦×HouxoQue「ディスプレイの内/外は接続可能か?」in 美術手帖 2015年6月号
[モホリ=ナギが言った非物質化の先にあるものを,藤幡はナギの考えに沿ったプロジェクトション・マッピングに見出す.プロジェクトション・マッピングという操作は,藤幡が「イメージ」にこだわり続けていることを示している.対して,谷口は「彫刻的」な考えでネットワークやインターフェイスという目に見えない非物質的存在を捉えようとする.そこでは「イメージがオブジェクトして機能する」ではなく,「テクスチャがオブジェクト=モデルなのだ」と言える映像をつくり,それを「彫刻のためのスタディ」というTumblrサイトで発表していた.]
暫定的にですが,コンピュータ上で一度のシミュレーションで完了するもの,つまり単にファイルを開くだけのものを画像/絵画として,逐次リアルタイムにシミュレーションされつづけ,画面が更新され続けるものを立体/彫刻としてとらえるのはちょっとアリかなと思っています.一度で全体が見渡せるものが絵画,周囲を回って見なければならないのが彫刻だという普通の話なんですが,コンピュータ上での計算,シミュレーションの時間的差として現れてくることに着目して何か考えられるんじゃないかと.(p.90)
谷口暁彦×HouxoQue「ディスプレイの内/外は接続可能か?」in 美術手帖 2015年6月号
モデル<テクスチャ
≠イメージ
=素朴だがフィジカルでリアルな“物質”
→谷口は従うべき3Dモデルをもっていない「見えないもののテクスチャ」とも言えるものをつくる.そのテクスチャは“物質”のように液化・硬化しつつ,「モデル」を透かし見れるような空間をつくりだす.
それぞれの作品や展覧会は,インターネットと現実の空間との間にある齟齬や,緊張関係にその成立条件があったと言える.それは,一つの閉じた窓として成立する絵画や画像ではなく,その作品の周囲をぐるりと見て周ることができる「彫刻」であるからこそ,必然的にその作品の周囲で空気のように充填された空間を巻き込むことになるからだ.そしてその空間は,たんにヴァーチャルか現実かという対立にあるのではなく,その両者が対立と調停を繰り返すような,展開された場としてあるのではないだろうか.(p.89)
谷口暁彦「彫刻とポスト・インターネット」のための覚え書き in MASSAGE 10
モデル<テクスチャ
≠イメージ
=素朴だがフィジカルでリアルな“物質”
→テクスチャを液化・硬化させる実験のなかで,谷口はモデルを前提としない理念的なテクスチャを抽出し,そのテクスチャを透してはじめて見える「見えないもの」とそれを取り巻く空間を示す.
(コンピュータのなかに再構成された現象=「物質っぽい」ものをその周囲の空間とともにリアル空間にもってくる試みが「滲み出る板」?)