画像とテクスチャー:ポストインターネットにおける2Dと3D_発表メモ ver. 1.03

5月30, 31日に京都造形芸術大学で開催される日本映像学会第41回大会で発表をすることになっています.スケジュールはまだ来ません.学会委員が3人だけだったのでとても大変なことになっているのではなかと勝手に想像しています.そして,自分の発表も大変なことになっています.こちらは勝手な想像ではなく,とてもつよいリアリティとともに言い切ることができます! (;´д`)トホホ…

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画像とテクスチャー:ポストインターネットにおける2Dと3D

藤幡正樹───世界をとらえるためのあたらしい方法

現象をコンピュータの中で構築可能な形に解釈し直す必要があるのです.
解釈の正しさはでき上がった画像の質に表れます.解釈が間違っている画像に,われわれはリアリティを感じられません.
このことを裏返しに考えてみると,コンピュータの中に現象を再構築する作業とは,じつは世界をとらえるための新しい方法を研究するのと同じ作業なのではないでしょうか?(p.2)
藤幡正樹『コンピュータ・グラフィックスの軌跡,藤幡正樹』


レフ・マノヴィッチ───4種類のデータが「くっついている」あたらしい表象

メインのグーグル・マップウィンドウに現われる地球表面の表示は「3Dビューワー」と呼ばれ,衛星写真,3Dの高度データ,建物の3Dモデルと紙の地図で馴染み深いグラフィック要素(ベクターグラフィック,道路,国境などを示すテキスト)で構成される.重要なことは,その4種類のデータが「くっついている」(例えば,それぞれが直接的に重ねっている)ことである.それゆえに,4種類のデータはひとつの視覚的資料としてあらわれる.これはハイブリッドについての完璧な例である.異なった種類のメディアが集まって,ひとつのあたらしい表象をつくるのである. (p.193)
レフ・マノヴィッチ『Software takes command』

ポストインターネット
リアルとネットとを区別することなく扱う.
リアルな世界とをコンピュータのなかに構築された世界とを特に区別することなく扱う.
すべてがインターネットの影響を受けている.
ハイブリッドな画像を日常的に接している.
リアルとネットを相互に透かし見る状態

ヒトの解釈に基いてつくられたプログラムの処理とそれを見たヒトの解釈とのあいだのズレをGoogle Earthに見出す.そして,ヒトがコンピュータとともにつくった世界をあたらしく捉える方法を3Dモデルとテクスチャのズレに着目して,二次創作していくなかで,あらたらしい表象の「くっついている」要素を分離していく.

私たちは写真を通して,テクスチャーを見る

グーグル・アースに見られるような3Dの画像はテクスチャー・マッピングと呼ばられる処理から生成される.テクスチャー・マッピングは1970年代にエド・キャットムルによって開発された技術である.3Dモデリングにおいて,テクスチャーマップは3Dモデルの表面にあてがわれるフラットな画像で,ソーダの缶や瓶に巻かれるラベルのようなものである.テクチャーは一般的にはフィールドのとても小さな奥行きをフラットな広がりで表現して,オブジェクトの表面の特徴を真似る.テクスチャーは写真というよりもスキャンにちかいものである.描写平面を超える空間を表現する写真とは違って,テクスチャーで表現された表面は描写表面と一致している.このちがいはこのようにまとめることができるかもしれない:私たちは写真を通して,テクスチャーを見る.これは3Dモデリングにおける重要なちがいである.なぜなら,テクスチャーは3Dモデルの表面に沿って伸ばされるのであって,本質的にはモデルのスキンになるからである.


グーグルアースの二重の空間

しかし,グーグルアースのテクスチャは浅くもなければ,フラットでもない.それらは私たちが再現されているものを超え空間を見ることになる写真である.その空間は私たちの脳がそこに三次元と深さがあるものとして解釈したものである.光と影のために,そして,その空間を体験したことがあるという知識のために,私たちは航空写真のなかに空間を見る.これらの写真が地球の三次元的地勢に沿って歪んだり,引き伸ばされたりした際に,私たちは歪んだ写真表面を見るとともに,その同じ表面を通してテクスチャに描写された空間を見ることになる.言い換えると,ふたつの空間を同時に見ることになるのである.ほとんどの場合,グーグルアースの二重の空間は意識されない.しかし,たまにこのふたつの空間が著しく異なり,事物が奇妙に,不安定に見え,平面がねじれるのである.しかし,それらは間違っているわけではない.それらはグーグルが地球をマッピングするために使っているシステム:ユニバーサル・テクスチャを明らかにする.


テクスチャは画像からつくられる.そして,画像平面は2Dであるが,そこには平面を超えた3Dが示しされている.2Dと3Dという2つ異なる空間を保持する画像は3Dモデルのリアリティを強調するためにその表面に貼り付けられ3Dモデルの一部になる.もともと2D/3Dの異種空間空間を保持する画像がテクスチャになるからこそ,3Dモデルのリアリティが強調されるのだが,アルゴリズムがこの異種空間を適切に処理できない場合,モデルとテクスチャのあいだに大きなズレが生じて,そこに二重の空間が発生する.

二重の空間をキャンバスという「テクスチャ」にプリントして実体化する.そして,キャンバスを物理的に「歪ませる」ことで,ディスプレイ内の二重空間が持つことがなかったもう物理的次元を与える.プリントされたモデルとテクスチャのズレとキャンバスの歪みというもうひとつのズレが提示される.

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「テクチャ」というリンボを表示する

リンボ
マッピング装置はほとんど完全に自動化されている.私たちは大概,入力と出力の部分を見ているのだけれど,デバイスが取り込み,アルゴリズムが処理するデータは「中間の」画像をつくる.それは他の画像(出力)のために使われる画像である.これらのテクスチャーマップはインターネットのブラウザ上で3D空間をつくるために使われるデータの一部である.しかし,テクスチャーマップそれ自体はまだ消費のための用意がされないだけでなく,それらはデータリンボのなかにあり,必要不可欠ものではあるが大抵は隠されている.http://www.3d-maps-minus-3d.com
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3Dモデルでつくられたオフィスやリビングといった空間に近代・現代絵画をテクスチャに変換したものを張り付けていく.3D空間を写し取ることをやめ,2Dの性質=平面性を追求していった絵画がテクスチャにされていく.

3次元のモデルと2次元のイメージの並列に関する秩序

《Brand New Paint Job》は3次元のモデルと2次元のイメージの並列に関する秩序だった結果を見つけたいという欲望から生まれています.私は表面とそれらの下にある構造との対話から始めたかったのです.だから,モデルが絵について何か言ったり,その逆からも何か言われるような双方向の意味をつくるために,3Dモデルに20世紀の絵画を無理やり衝突させたのです.このように高級な現代の絵画と大量生産の方法とのあいだで生じる文化的重みの衝突は,単に高級と低級文化の区別をぼやけさせるもうひとつの方法ではなかったのです.オブジェクト(例えば戦車)はあるレベルでは文化的重要性をもっているかもしれませんし,絵画(例えば,ポロック)は別のレベルで重要性もっていて,記号の意味についての疑問は今でも別の方法で私たちを不安にさせるのです.BNPJは絵画に装飾的なオブジェクトになってしまうという歴史的な怖れを突きつける試みです.

コンピュータの処理の正しさを利用して,2Dの絵画を3Dモデルに貼り付ける.そこには,3Dモデルの一部になりながらも,2Dであることを強調するテクスチャがうまれる.ヴァッラの作品のようにここでもコンピュータの処理は論理的に正確である.しかしながら,それを見る者に生じる解釈にはどこかに絵画の2Dが入り込んでくる.

ラフマンはディスプレイ内で3Dモデルに絵画のテクスチャを貼るだけでなく,絵画のテクスチャを貼りこんだ3Dモデルをリアルのモノとして出力している.しかし,この試みは失敗だったと,ラフマンは述べている.その理由として,テクスチャをモノに描き込む際に手数が多くかかり,コンセプトのシンプルさをうやむやにしてしまったということを挙げている.リアルのモノにはコンピュータの処理のようにボタンひとつでテクスチャを貼ることができなかったのである.

テクスチャの直接性と制作プロセス

写真とは,すべての対象を光学的な現象として一元化した上で,行なわれる直接的な写像である.音楽において写真に対応するのは録音技術だろう.彫刻で言えば立体物を直接,型取りして,ハリボテの複製を作ることも手続きは同じである.写真であれ録音技術であれ,そこで写し取られるのは対象の外的な現れ,客体的延長としての属性だけである.その条件において写真は対象を選ばず,録音技術も音源を選ばない.複製技術として見れば,それは,技術を持たない人間でも自動的に(ボタン一つで)複製を作り出せる手段だと言えるだろう.しかし,こうして獲得される複製は,オリジナルとなった対象それぞれの技術,生産プロセスのちがいについて,何の知識ももたらすことはない(対象を分節することなしに,見かけのまま,まるごと受容する一般の消費者と同じである).かつてプラトンが事物の見かけだけを写して,その事物の制作プロセスを決して知ることのない画家を批判したように(『国家』),録音技術や写真は既成の事実の現れ,外形をまるごと(分節のない全体として)写し取ることで,かえって人を,その対象が生産される技術過程の把握から遠ざけてしまう.そこで対象とされた事物は分割不可能かつ不可触(触れることのできない),不可逆的に完結してしまった事実として扱われるのである.(pp.36-37)

芸術の設計:見る/作ることのアプリケーション,岡崎乾二郎編著


ラフマンは「絵画」をテクスチャとして使う.そのために,テクスチャをリアルに移し替えるときに「制作プロセス」が発生する.その制作プロセス自体をラフマンは把握していない.ラフマンは絵画の「写真」からテクスチャをつくっているからである.「完結してしまった事実」として絵画の画像をつかい,さらにボタン操作で,それを3Dモデルに貼りこむラフマンの《Brand New Paint Job》には固有の制作プロセスは不必要なものなのである.ラフマンは「対象を分節することなしに,見かけのまま,まるごと受容する一般の消費者と同じ」であり,その立場を利用して,絵画を分節することなくテクスチャに引き伸ばし空間に貼り込んだのである.


3Dスキャンした風景は,薄っぺらで裏側にも回り込めて,すべて均質な素材感

谷口暁彦は3Dスキャンで日常を記録した《日々の記録》(2012)をTumblrにアップロードし続けた.谷口はカメラで写真を撮るように日常を3Dスキャンする.それは3Dの世界を3Dのまま記録することであるが,まだその精度は3Dを2Dにして記録するカメラには遠く及ばない.谷口は日常から切り出した不完全な3Dモデルとそこに密着したテクスチャをラフマンやヴァッラのように「スクリーンショット」で2D画像化しない.谷口は日常から切り出された3Dモデルをコンピュータ内の3D空間で提示する.そして,谷口は「3Dスキャンした風景は,薄っぺらで裏側にも回り込めて,すべて均質な素材感で,すごく変です.そうした写真とはまったく違う質感もいい」と指摘する3.谷口の《日々の記録》は3Dスキャナとソフトウェアの「解釈の正しさ」が,「写真=2D画像」と同じような平面的な薄さを持ちながらも,2D画像とは全く別の質感=テクスチャをつくっていることを示している.

ふたつの参照項をもつモノ

study for sculptureで提示されている谷口作品が興味深いのは,固体から液体へというモノの状態遷移を示しているからではない.モノと情報とを同列に扱い,モノを3D化して表現するようになった後では,モノがモデルとテクスチャというふたつの参照項からできあがっていることを踏まえていて,そのテクスチャのみに固体から液体へという状態遷移を適応させるから,そこでテクスチャとモデルとのあいだにズレが生まれて,テクスチャが流れ落ちていく.

モノに張り付いているもの

物的証拠 / Physical Evidence
- 出来事は,ある特定の時間の範囲であり,それはすぐに過ぎ去っていってしまう.固定化も物質化もされないし,反復しない.けれど,その出来事の外側の,雌型のような部分で,物質に出来事の痕跡/証拠が残る事がある.そうしたもののうち,人以外の有体物による痕跡/証拠を物的証拠と呼ぶ.

- 物的証拠は,それが何であるかという事よりも,出来事の痕跡として,それがどのように落ちていたか,傷ついていたかというような事が重要な意味を持つ.そこに残された物自体は物語の主題にならず,そこから既に過ぎ去ってしまった,不在の出来事が物語の主題になる.

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