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私のiPhoneを盗んだ人の生活!?

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life of a stranger who stole my phone  は,iPhoneを盗まれた人(パトリックさん[仮名])がiPhoneを盗んだとされるhafidさんの生活を逐一報告してくれるサイト.パトリックさん[仮名]によるとイビサで酔っ払って遊びまくっているときに,一瞬の隙をつかれてiPhoneが盗まれたとのこと.それからドイツに帰国してパソコンを見てみると,Dropboxのフォルダにあたらしい写真がアップロードされていました.hafidさんがDropboxの写真自動アップロードに気づくことなく,iPhoneで写真や動画をとってしまっているということです.そして,パトリックさん[仮名]がその写真や動画をコメントつきで,せっせとTumblrにあげています. (コメント欄にhafidさんが現れて「iPhoneを返すよ」と書き込んでいたりますが,もうひとりのhafidさんが「返さないよ」といっているなど,誰が真のhafidさんであるかは不明です.そこに「こちらはパトリックです」とあったので,iPhoneを盗まれた人の名前をパトリックさん[仮名]にしました.) 多分,本当に,パトリックさん[仮名]がiPhoneをhafidさんに盗まれたんだろうなと思いつつも,どこか嘘くさい感じもします(パトリックさん[仮名]はパスワード設定しなかったのかなとか,何でリモートでデータを消去しないのかなど).でも,サイトにあげられている画像やコメントの一連の流れが興味深いのでよしとしましょう. hafidさんがあげている写真や動画に映る人たちの無防備さは,まさにiPhoneなどのスマートフォンで無造作に撮れられた感じで「リアル」ですが,盗んだものでこんなに写真って撮るものなのかなと思ってしまう.画像は撮られてそこで見て終わりではなくっていて,そのあとにウェブに意識的にせよ(Instagramなどの表現として),無意識的にせよ(Dropboxなどのバックアップとして)上げられることがセットになっているんだと思う.ところどころにGIFアニメがありますが,これはDropboxにあげられた写真からパトリックさん[仮名]がつくっているのかな. hafidさんがスカイプでパトリックさん[仮名]の友人の女性に通話してきたときがあって,そのときの通話を女性が記録し...

MAPSが示す「正しい」画像とズレの吸収

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TRIANGULATION BLOG で取り上げられていた Kim Asendorf さんのあたらしいプロジェクト MAPS .MAPSはGoogle  Mapsを抽象的な画像にしてしまう. ズームアウトしてみているとそこには確かに地図が現れているのだけれど,ズームインしていくとだんだんと抽象的な画像になっていく.この抽象的な画像が何かに似ていると思ったら,ラファエル・ローゼンダールさんの作品だった.「ベクター画像」のような鮮明さが似ている感じをつくっている. ただMAPSでは地図を拡大するときに,ときおり「ラスター画像」になるような感じがする.実際は「ラスター画像」と「ベクター画像」が入れ替わっていないちがう方式で拡大しているのかもしれないけれど,スムーズに拡大しているときに現われる一瞬の「不鮮明さ」は興味深い質感を示している.拡大前と後の画像に生じるズレを吸収して「正しい」画像を提示しているというところだろうか.ここでの「正しさ」とは地図を明確に示すという目的のためのプログラムに基いているということであり,その意味では一瞬見える不鮮明な部分も「正しい」画像ということになる.しかし,その画像を見ているヒトにとっては,その切替のプロセスが「ズレの吸収」に見えてしまう.

「動詞から名詞へ,名詞から動詞へ」という感覚の切り替え

「それは「場所」ではない,もしくは,それは「選択範囲」ではない」という記事で論じた Jan Robert Leegte の《 Selection as an Object 》(2013)から《 The Act of Selecting Objectified 》(2013)という作品が派生していた. 前作は予め描かれた選択範囲を示す点線の明滅とその影を見るだけだったが,今作は選択範囲を自分で決めることができる.カーソルを対角線上に引っ張ることで明滅する点線の四角を描くことでき,その下に影ができあがる.画面上でもう一度クリックすると選択範囲が消えるので,選択範囲とその下の影を何度でも描ける. 選択範囲を描くもしくは決めているときは,「選択範囲」そのものをつくりだしているという感覚が強くなるように感じた.それはPhotoshopなどで選択範囲を決めているときに感じるいつもの感覚にとても近いものである.そこには《Selection as an Object》で感じた「機能」が突如ひとつの「画像」及び「実体」になってしまうような感覚がなく,機能としての「選択範囲」を使っているという感じである.実際は何ひとつ選択していないし,選択範囲には不必要な影が示されるにも関わらず,そこで行われているのは「選択行為」でしかない.けれど,選択範囲を描き終えてしばらく明滅している点線の四角を見ていると,徐々にそれが実体化してくる.自分の手から離れるとそれは突如して影をもった実体としてそこに存在し始めるのである. もう少し詳しく見てみると,選択を決めた最後のクリックの後にカーソルを動かさなければ,選択範囲の四隅のどこかにカーソルが残り続けて行為の痕跡を残している.だから,カーソルをその隅から動かさないあいだは機能として描かれた選択範囲と選択範囲の実体化とがせめぎあっている感じを受ける.カーソルをその隅から離すとそれを合図にしたかのように選択範囲が実体化する. 前作が《Selection as an Object》という名詞によるタイトルであったとのに対し,今作は《The Act of Selecting Objectified》となっており「実体化される」ものを選択していくというような動きとともにある行為を示唆している.このタイトルの変化からも今回の作品は,ヒトがコンピ...

オリジナルか,コピーか? 「PSD」が示す微妙な感覚

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Width: 700px; Gallery  で Michael Bussell の個展《Original Copy》が開催されている.《Original Copy》は2012年の作品であるが,今回のオンライン展示に合わせて再解釈され,作りなおされている. Bussellのウェブサイトの《Original Copy》のページにいくと作品の画像が展示してあり,画像のタイトルをクリックするとPhotoshopのファイル「PSD」をダウンロードすることができる.Busselは展示されている画像そのものではなく,ダウンロードした画像を編集してもらうなどのインタラクションにフォーカスが移ってきていると考えている.そして,Bussellはこの考えをWidth: 700px; Galleryの展示で自らの作品を改変することで実践している. Bussellのウェブサイトの《Original Copy》のページにある画像 Width: 700px; Galleryでの展示 Bussellの考え方自体は作品を見るためには「PSD」ファイルをダウンロードしなければならない「 The. PSD Show 」や展示作品を改変可能でネットにアップした展覧会「 new jpegs 」などにも通じることがあり,ポスト・インターネット的状況においては「当たり前」となった考え方といえる. ここで注目したいのはBussellの作品タイトルに使われた「オリジナル」と「コピー」という言葉である.Bussellが書いているように,Photoshopは現在の暗室のような存在であり,そこで使用される「PSD」ファイルは写真の「ネガ」のような「オリジナル」的存在である.しかし,その「オリジナル」は劣化なしで「コピー」可能である.Bussellの《Original Copy》ページから「オリジナル」の「PSD」ファイルをダウンロードした場合,それはデータ的には「オリジナル」な感じがあり,心情的には「コピー」という感じがする.ファイル形式が「JPEG」ならそれはもう「コピー」という感じになるが,「PSD」だと微妙な感覚である. Width: 700px; Gallery Width: 700px; Galleryでの展示は会場に合わせて低解像度の画像が展示されていることもあり...

「Like」の価値をあげてしまって(やっと押せたヒト限定)もいいじゃないですか〜

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MAADONNA (aka Emilio Gomariz @ Kim Asendorf ) による《 Can You Like This 》は,「Like」ボタンをカーソルで押そうとするボタンが逃げてしまって,押せないという作品.それだけといえばそれだけの作品. 僕はいまのところ「Like」できてないけれど,この作品を知ったサイト「 prosthetic knowledge 」にあった画像ではLike数が「343」で,僕が押そうとしているLikeは「614」なので,がんばれば押せるのかもしれない. カーソルからボタンが逃げるのであれば,直接ボタンを押してやろうと,iPhoneで 《Can You Like This》を試してみた.すると,ボタンは押せるけど,押した瞬間にボタンが違う場所に移動してしまう.数字は変わらない.やはりズルはだめということなのでしょう. カーソルでボタンを押そうとして押せないようなゲームは昔からあったかもしれないけれど,そのボタンが「Like」ボタンになるだけで,俄然意味が生まれるところが面白いです.それほどにFacebookの「Like」は「ボタンを押す」という単純な行為に大きな意味をつけたのでしょう. 「Like」ボタンといえば,インターネット上の秘密結社である IDPWのポルト から《 どうでもいいね!》が世に出され, メディア芸術祭エンターテイメント部門で新人賞 を受賞したこともつい最近の出来事.「どうでもいいね!」の説明は以下です. インターネット中に溢れる「いいね!」ボタン.増えすぎちゃってそろそろ溺れてしまいそう.いいも悪いも義理もとっておきも全部まとめて「いいね!」したい. そんなあなたにお届けする“どうでもいいね!”ボタンはワンクリックで画面上に表示されている 「いいね!」 を自動でだいたい全部をクリックしてくれる,Google Chrome機能拡張です. 《Can You Like This》も《どうでもいいね!》も,なんでも「Like」してんじゃねーよという批判精神,それは僕たちヒト側もそうだし,「Like」ボタンだって「もう押されたくない!」と逃げまわってもいいじゃないですか.クリックするごとに 良いにしろ,悪いにしろ あらたに情報が発生するわけだから,...

それは「場所」ではない,もしくは,それは「選択範囲」ではない

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Michael Manning の《 This is Not A Place 》(2013)と Jan Robert Leege の《 Selection as an Object 》(2013) This is Not A Place Selection as an Object Michael Manningの《This is Not A Place》は,ルネ・マグリットの《これはパイプではない》みたいな感じでしょうか.作品のサイトに行くと,パソコンやスマートフォン,タブレットの画像が積み重ねられ,それらのフレームのなかに「場所」の画像が表示されていて,その画像を連想させる音が再生されます.カーソルをフレームの中の画像にあわせると波紋が広がります.フレームの中の「場所」は画像でしかないし,そのフレームもまた画像でしかない.フレームも画像でその中も画像ですが,波紋のひろがりはフレームの画像でとまります.なので,波紋がフレームの画像となかの画像とは異なる次元にあることを示していますが,それらすべてが画像でしかありません.パソコンなどの画像の他に表示されている「花」もまた画像でしかありません. Jan Robert Leegeの《Selection as an Object》のサイトにいくと,選択範囲を示す点線が表示されていて,それが背景に影を落としています.選択範囲が「影」をおとす「実体」として扱われています.《Selection as an Object》の方が《This is Not A Place》よりも,メタな感じがします.画像を選択するためのツールが示す画像に「影」を付与することで「実体化」がされています.選択範囲は「影」がなくても「画像」として表示されているわけだから「実体化」しているとも言えます.しかし,それだけだとそれは見えてはいるけれども「画像」でもなくて,「選択範囲」という「機能」でしかないのかもしれません.「影」がつくことで,選択範囲はひとつの「画像」であることを示しつつ,「実体」をもつかのような感覚を見る者に与えるようになっています.今まで使ってきた「機能」が,突如ひとつの「画像」及び「実体」になってしまうのは,とても不思議な感覚です. Michael Manningの《This is Not A Place》と...

そこに見えているのは「雷雨」か,それとも「何か」か?

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CLICK | GALLERY で Jon Satrom  《Storm Cloud Computing》 ( Gallery_A ) が開催されている.Jon Satromはシカゴ在住の「ダーティ[dirty]」ニューメディア・アーティスト. 《Storm Cloud Computing》はAppleのiCloudの「雲」を用いた作品.ところどころグリッチした背景に多くの「雲」が表示されていて,ところどころはループで動いていて,音も流れている.クリックすると,別の画像が表示されていく. グリッチ自体は珍しいものではなくなった.この作品を興味深いものにしているのは,《Storm Cloud Computing》というタイトルだろう.「クラウド」を示す画像を文字通り「雲=Cloud」として捉えて,「嵐=Storm」を「グリッチ=Computing」つくりだしている.コンピュータが生み出す世界を「もうひとつの自然」と捉えることが多くなってきている.そうれであれば,データ上に発生する「雲」を使って「嵐」という現象を起こすこともできる. これは単に言葉遊びというか,モチーフ=メタファーの選択の仕方にすぎないともいえる.けれど,この作品のとなりに ラファエル・ローゼンダール の《 looking at somethin g》を置いてみると「もうひとつの自然」の「自然さ」というか,その考え方の枠のようなものがネットで活動する作家にはあるのではないかという感じになる. 《looking at something》はカーソルに位置に応じて,ウィンドウ内が「晴れ」であったり,「雨」だったり,「雷雨」になったりする.このシンプルなインタラクションに惹きつけられるのでだが,ここで見ているのは何かと考えると,よく分からなくなる.「ウィンドウ=窓」というメタファーを活かして,外の「自然」を見ている感じもするのだが,もちろんそれは現実の自然ではないし,リアルさを求めているわけでもない.「デスクトップ・リアリティ」というか,作品のタイトル《looking at something=何かを見ている》が示すように,それはブラウザのウィンドウ内に生じている「何か」としか言えないものであり,その「何か」を示すのに「自然」が使われているに...

SEAN ROY PARKER:VHSそのものの粗さ

Desktop Residency でSEAN ROY PARKERの個展が4月17日から5月6日まで開催されている.Desktop ResidencyにいくとSEAN ROY PARKERによる画像があり,左上に「download」がありクリックすると,パソコン,iPad,iPhone用の壁紙がダウンロードできる.右上にはDesktop Residencyについての情報を表示する「about」がある. Tubelord ≈ My First Castle from Sean Roy Parker on Vimeo . SEAN ROY PARKERは映像作家として活躍している.YouTubeに「 VHSモード 」が( 1日限りで? )実装されたけれど,PARKERはVHSで撮影した映像を用いて作品をつくる.だから,当然画質が粗い.PARKERは画質の粗さをVHSという素材そのものだと捉えている.そして,彼はビデオ編集のときによく使われた,画面に画面を重ねる手法をよくつかっている.この編集の仕方による複数のビデオ画像平面の重なりと画質の粗さは,GIFを思い起こさせるものであるが,彼自身は「ネットアート」とは距離をおいている.(→ http://www.mintmagazine.co.uk/art/sean-roy-parker/ ). VHSという素材そのものが示す「粗さ」と,GIFという画像ファイルが示す「粗さ」を対比させてみても面白いかもしれない.素材そのものの劣化が大きく影響するVHSと,もともと圧縮されており,それ以上劣化することがないGIF. また,PARKERは「 new displays 」という画像コレクションのTumblrをやっている.Desktop Residencyで展示されている画像はここからとられている.「new」というところが「new jpegs」や「new aesthetic」を思い起こさせる.自分がやっていることは「ネットアート」ではないが,ネット自体からは大きな影響を受けているという部分がここに現れている感じがする.「new displays」を見続けても何が「new」なのかはわからないが.延々と画像がポストされている感じが「new」なんだとも思う.「延々と」画像がポストされていくこと自体がいまの世界認...

「Nicolas Sassoon: Pixel Painter」を読んでみた_Nicolas Sassoon(2)

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Nicolas Sassoon について補足するために,インタビュー「 Nicolas Sassoon: Pixel Painter 」を読んでみた. http://nicolassassoon.com/index.php?/onlineworks/2009---freecuts/ 興味深かったところは,Sassoonが初期コンピュータ・グラフィクスに興味があるというところ.そして,彼がコンピュータ・グラフィクスにはじめてふれたのが80年代後半のAtari 2600や, Minitel ということ.とくに,Minitelというのがフランス人らしい.これらのことから,Sassoonが考えるコンピュータ・グラフィックスの「初期」とは,80年代の8ビットのグラフィックスになるといえる. 彼は「初期のコンピュータ・グラフィックス」の魅力を,それが低解像度であるがゆえに見る人の想像力による補足が必要であるところに見出している.そして,コンピュータのスクリーンには形式があり,それをもっともよく見せることができるのが「初期のコンピュータ・グラフィックス」だと考えている.だとすると,マクルーハンが映画に対してテレビは低精細なメディアだから,参与性が高くなるとしたことを,Sassoonはコンピュータ・グラフィックスの歴史で繰り返していることになる. 「初期のコンピュータ・グラフィックス」とここで言われている80年代の画像の特質などはまだ十分に考察されているわけではない.なので,そこに「ノスタルジー」だけではなく,コンピュータのスクリーンのひとつの特徴を見るSassoonの試みは,その80年代の画像の特質とコンピュータ上の画像の質感を考える上で有益なものになるだろう.

「テレビの砂嵐」のようなGrey #2_Nicolas Sassoon(1)

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http://cloaque.org で展示されている Nicolas Sassoon によるGrey #2.「テレビの砂嵐」のようなGIFアニメ.Sassoonは1981年生まれで,現在カナダ在住.彼のページにいくと「PATTERNS」という項目があって,そこには「Grey #2」同じような抽象的なパターンがいくつかあげられている.それらのパターンはGIFアニメもあればFlashもある.「PATTERNS」のほかに,「STUDIES」「OBJECTS」「OBJECTS」「INSTALLATIONS」などがある. 描かれているのは,総じて8ビット風のもの.なので,「あたらしい美学」として考えられるのかもしれないが,今まで名前を聞いたことがなかった.けれど,検索してみると結構いろいろと記事がでてくる.2011年にSara Ludyとともに行った「WALLPAPERS」という展示が Rhizome でレビューされていたり, http://societeperrier.com/ というサイトで「 Nicolas Sassoon: Pixel Painter 」といインタビューが掲載されている.また,2008年にKrist Woodらとともに Computers Clu bという作品を展示するオンラインスペースをつくっている. はっきりいって,Grey #2だけ見ると,何だかよくわからない.なので,もう少し調べてみることする.

netartnet.netにはいつもお世話になっています

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ネットアート探訪をしておりますが,その情報源は netartnet.net です.ネットアートの展示をリスト化しアーカイブすることに特化したサイトになることで,ネットアートを紹介してきた既存の Rhizome などのサイトとの差別化を図っています. netartnet.netは,アーティストの Anthony Antonellis によって2012年5月につくられました.最近では「 news 」というカテゴリーを新設し,ネットアートの世界を広げるような記事やインタビューを掲載しています. 広大なネットのあちこちで開催されているオンライン展を探すのは一苦労ですが,netartnet.netにいけば,今どんな展示が行われているのかがわかります.そこにレビューなどが掲載されていない分だけ,とてもシンプルに展示に辿り着けます.このサイトがあるから,僕は「ネットアート探訪」をしてみようかなと思いました. この記事を書いて,Anthony Antonellisのことを調べると,彼はいま「 The Photographer's Gallery 」で展示を行なっていました.このギャラリーは去年.GIFアニメの展示「 BORN IN 1987: THE ANIMATED GIF 」を開催したところです[以前書いたこの展示の紹介記事→ ロンドンのフォトグラファーズ・ギャラリーで「Born in 1987」展 開催 (0713].いろいろとつながっています.そして,どんどん情報がでてきます.その情報は英語がメインです.それをかいつまんで日本語にしていくだけでも勉強になります.でも,勉強するだけでなくて,日本からも英語で情報をだすことも考えないといけないと思うものの,とても難しい…

《One Terabyte of Kilobyte Age Photo Op》が示しているかもしれない「デジタル」や「ネット」にある質感に対する普遍的な感覚

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デジタルフォークロア で有名なオリア・リアリナ(Olia Lialina)とドラガン・エスペンシード(Dragan Espenschied)による《 One Terabyte of Kilobyte Age Photo Op 》. 《One Terabyte of Kilobyte Age Photo Op》は,2009年に閉鎖されたアメリカの ジオシティーズ のまるごとを保存した Archive Team のデータを使って(このあたりの経緯はHGWのBLANKの「 インターネット時代の民藝品 3—メディア芸術プラザの閉鎖を、米ジオシティーズの閉鎖から考える 」に書かれている),ジオシティーズにあったホームページのスクリーンショットを延々とTumblrにあげ続けるプロジェクト. netartnet.net によると,《One Terabyte of Kilobyte Age Photo Op》は2013年2月7日に始まり,2027年年2月7日に終わる.14年間のあいだ20分に1枚のスクリーンショットがTumblrに上げられる.そして,ただ画像が上げられるだけでなく,ホームページを分類するためタグが詳しくつけられている.膨大な量のスクリーンショットが詳しいタグとともに延々と上げられていくことに驚くとともに,14年後に「Tumblr」があるのかどうかも気になる.Tumblrがジオシティーズと同じ運命を辿らないとは限らない. デジタルでもアナログでも記録は残そうとしなければ,残らない.そんなことを考えさせられる.10年後,20年後の人たちが《One Terabyte of Kilobyte Age Photo Op》を見たら,何を思うのだろうか.どこか「懐かしさ」を基本にしたことしか考えることができないでいるが,オリア・リアリナとドラガン・エスペンシードがやっていることは単に「懐かしさ」だけで片付けることはできないもので,未来の人のための確固たる「資料」をつくっているのである.しかし,その「未来の資料」に対して,私が抱くのは「懐かしさ」だけでしかないというのも事実である.ここには消された「過去」とそこから生じる「未来」のあいだのなんとも落ち着かない感覚がある. 「落ち着かない感覚」はある一定の世代しか感じないのかもしれないと思って書いていたけれど,も...

ひたすら待つのみ:Alain Barthélémy「Time Extended」

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Alain Barthélémy の「 Time Extended 」.場所は  Fach & Asendorf Gallery . 「時間が延長された」というタイトルの個展.Alain Barthélémy については,調べたけれど情報が出てこなかった.個人のページに行くと,風景画像の中央に「hello@alainbarthelemy.com」とあるだけ. 「Time Extended」のページにいくと真っ白な画面にURLが書いてあるだけ.カーソルを合わせると,白黒反転するだけ.URLをクリックするとそのサイトにとんでそこに「作品」がある. 「Time Extended」で問題なのは,URLが表示されているページのアドレスバーにある.アドレスバーには「http://fa-g.org/special/alainbarthelemy-timeextended/#32.3%」のような感じで,「/#32.3%」という数字がある,最初は「/#99.9%」でこれがどんどん減っていく.ある程度減っていて,「/#15.3%」くらいや「/#0%」になると,次のURLが表示される. URLをクリックした先の作品は延々と「Floooooooooow」をスクロースするものだったり,上の画像の作品は,「色のコード」と対応した色が文字の色になっており,それが高速に切り替わるというもの.といったように,ワンアイデアなものが多い.だから,「Time Extended」は「待ち時間」を考えるための作品なのかなと思う. ネットの通信が「はやく」なり,「待ち時間」ということをあまり意識することがなくなった.あるいは,ちょっとでも「待ち時間」があると,「もういいや」と次にいってしまう.GIFが流行ったのが待ち時間がなく,再生時間も短いからというのとは,真逆の作品である.「Time Extended」を体験しても,「のんびりとしたネットの時間がいいな」とは思うことはなくて,「早く次!」だったり,「他のサイトに行こう」としたけれど,次の作品見たさやURLが切り替わる瞬間を見たいという気持ちもあり,じっと我慢してディスプレイを見つめたのは面白かった.という意味では,「時間が延長」というか「間延び」した感じを味わえる作品である.

Evan Roth《One Gif Compositions》が示すパフォーマティブな画像(群)

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http://officechair-on-greenyellow.com CBCNET で紹介されていた  Evan Roth の《 One Gif Compositions 》には,文字通りの意味で「膨大な低解像度の画像がディスプレイのスキマを埋めていく」感じがあるような気がしている.単一のファイルを多くの別の名前にすることによって,ブラウザはそれぞれを独立したファイルと認識するので,ダウンロードやキャッシュに時間差が生じて上のような画像が生まれる.同一の画像のコピーがとても簡単にできるデジタルの特性とGIFのループをうまく組み合わせて,大量のアニメーションが画面を埋め尽くすようになっている. 「複製技術技術時代の芸術」での「複製技術」の範疇を超えてしまった「コピー」の連鎖みたいなものをこの作品に感じる.それは「オリジナル」と「コピー」という関係の消滅につながる.美術批評家のボリス・グロイスは「画像ファイル」に関して,ファイル自体は見ることができない,つまり「オリジナル」を見ることができないものだとしている.その上で,「画像ファイル」に基いてディスプレイに表示される「画像」は「コピー」ではなく,楽譜に基づいた演奏などに似た一回限りのパフォーマンス的なものであると指摘している[Boris Groys, From Image to Image File—and Back: Art in the Age of Digitalization in Art Power, MIT Press, 2008, pp.84-85.] ディスプレイに表示されている画像は「オリジナル」と「コピー」という関係が成立しないもので,パフォーマティブな画像だというグロイスの指摘は興味深い. グロイスの指摘を経由すると,CBCNETでの紹介記事タイトル「同じGIFアニメを別名称で大量に再生することによって生まれるモーション表現」にある「同じ」「別名称」「大量」「再生」という3つの言葉が結びつているところが「画像ファイル」のひとつの特徴をなし,ディスプレイでのパフォーマンスに深くつながっていると考えられる.実際,ブラウザとキャッシュという仕組みをうまく使っているので, Evan Rothの《One Gif Compositions》は「画像ファイル」のパフォーマ...