《One Terabyte of Kilobyte Age Photo Op》が示しているかもしれない「デジタル」や「ネット」にある質感に対する普遍的な感覚
デジタルフォークロアで有名なオリア・リアリナ(Olia Lialina)とドラガン・エスペンシード(Dragan Espenschied)による《One Terabyte of Kilobyte Age Photo Op》.
《One Terabyte of Kilobyte Age Photo Op》は,2009年に閉鎖されたアメリカのジオシティーズのまるごとを保存したArchive Teamのデータを使って(このあたりの経緯はHGWのBLANKの「インターネット時代の民藝品 3—メディア芸術プラザの閉鎖を、米ジオシティーズの閉鎖から考える」に書かれている),ジオシティーズにあったホームページのスクリーンショットを延々とTumblrにあげ続けるプロジェクト.
netartnet.netによると,《One Terabyte of Kilobyte Age Photo Op》は2013年2月7日に始まり,2027年年2月7日に終わる.14年間のあいだ20分に1枚のスクリーンショットがTumblrに上げられる.そして,ただ画像が上げられるだけでなく,ホームページを分類するためタグが詳しくつけられている.膨大な量のスクリーンショットが詳しいタグとともに延々と上げられていくことに驚くとともに,14年後に「Tumblr」があるのかどうかも気になる.Tumblrがジオシティーズと同じ運命を辿らないとは限らない.
デジタルでもアナログでも記録は残そうとしなければ,残らない.そんなことを考えさせられる.10年後,20年後の人たちが《One Terabyte of Kilobyte Age Photo Op》を見たら,何を思うのだろうか.どこか「懐かしさ」を基本にしたことしか考えることができないでいるが,オリア・リアリナとドラガン・エスペンシードがやっていることは単に「懐かしさ」だけで片付けることはできないもので,未来の人のための確固たる「資料」をつくっているのである.しかし,その「未来の資料」に対して,私が抱くのは「懐かしさ」だけでしかないというのも事実である.ここには消された「過去」とそこから生じる「未来」のあいだのなんとも落ち着かない感覚がある.
「落ち着かない感覚」はある一定の世代しか感じないのかもしれないと思って書いていたけれど,もしかしたらこれは「普遍的」なものなのではないかと思い始めていた.「デジタル」や「ネット」にある質感に対する普遍的な感覚,それは「儚く消える,しぶとく残る」という消去もできるし,コピーがコピーをつくり続けるというものと結びついたものかもしれない.