GIFとの遭遇:選択的認識と低解像度のデフォルメされた世界(3)
3.GIFと初期映画
3−1.映像
GIFは「動画」であるにもかかわらず,物語の一部にもならない「動き」を切り取った「静止画」のような特殊な性質をもったものである.GIFは「物語」ではなく,デフォルメされた「動き」が強調される.ここで初期映画とGIFとを対比してみたい.なぜなら,初期映画とGIFはとともにそれぞれのメディアの黎明期に現われた映像の形態であり,映画研究者のトム・ガニングが「初期映画は,その後あからさまに映画を支配するようになる物語への衝動に屈服していたわけではなかった22」というように,初期映画は「物語」を強調した映像ではないなど,物語の要素がうすい「短い動画」であるGIFと多くの類似点が見出されるからである.
ガニングは1906年頃まで映画を支配した映画と観客のあり方を「アトラクションの映画」と呼ぶ.そして,映画が「物語」を積極的に活用するようになったあとも,アトラクションの映画は消えることなく,物語映画の要素としてあり続けているとしている23.アトラクションの映画について,ガニングは次のようにまとめている.
アトラクションの映画は観客の注意をじかに引きつけ,視覚的好奇心を刺激し,興奮をもたらすスペクタクルによって快楽を与える───虚構のものであれドキュメンタリー的なものであれそれ自体が興味をかき立てる独特のイベントなのである.展示に供されるアトラクションは映画的特性も備えていて,それはたとえば今しがた述べたばかりの初期のクロース・アップやトリック映画だが,後者は映画的操作(スロー.モーション,逆回転,変身,多重露出)が物珍しさを提供する.虚構の状況はというと,ギャグやヴォードヴィルの演目,衝撃的で好奇心を煽る出来事の再現(刑の執行,最新の事件)に限定されがちだった.映画製作へのこうしたアプローチを規定するのは観衆への直接的な呼びかけであり,それに基づいて映画興行師が観客にアトラクションを供するのである.ストーリー展開や物語世界の想像と引き換えにショックや驚きのような直接的刺激を強調することで,物語に没入させることよりも演劇的な誇示の方が優位に立つ.アトラクションの映画は,心理的動機や個人的人格を備えた登場人物を想像することにエネルギーを費やすことはほとんどしない.フィクションとノンフィクションの双方のアトラクションを活用することによって,そのエネルギーは,古典的物語には不可欠である登場人物本位の状況へと内向きに作用するよりも,そこに居合わせていると想定された見物人に向けて外向きに作用するのである24.
ガニングのアトラクションの映画の特徴は,GIFと重なるところが多い.初期映画が「動き」を映像の世界にもたらしたように,ウェブにおいてGIFは静的な世界に「動き」を持ち込み「驚き」をつくりだした.しかし,既に100年以上も動く映像を見てきた人たちにとって,その「驚き」は初期映画のそれとは比較にならないほど弱いものであり,すぐにその状況に慣れてしまったと言える.さらに,ミリアム・ハンセンはガニングの論を受けて「初期映画のスタイルは,再現前的であるというよりはむしろ現前的なものであった25」としているが,GIF自体が初期映画的な「現前的」映像として見られたのではなく,映像を見る者の物語的映像への慣れから,GIFは「再現前的」な映像として受け止められたと考えられる.それゆえに,ウェブ上の動画のトレンドはGIFからQuickTimeやFlashなどのより高解像度の「再現前的」な映像へと急速に移っていったのである.
しかし,インターネットがあたり前の存在になるとともに,GIFは見る者にクリックを求めず,ただそこでループし続ける「現前的」な映像として,その「動き」が生み出す独特な意味の圧縮及びデフォルメされた「直接的刺激」や「演劇的誇示」のリアリティを楽しむものと認識されはじめ,GIFがもともともっていた映像の「質感」が意識されるようになったのである.谷口の次の指摘はこのことを的確に表している.
GIFの場合,色数を減らさなくてはならなかったりするので,その時点で何らかの恣意的なデフォルメとかが行なわれちゃう.だから,そこでいったん対象物から切り離されちゃうというか,リアリティの距離が離れてしまう.また,GIF自体,アニメーションで画像がループしはじめると,同じ世界を延々と何回も繰り返すことで,この世界の時間軸からも切り離されてしまう26.
映画があたり前のものとなった状況でガニングによって初期映画が発見されたように,「ポスト・インターネット」的状況になったからこそ,GIFのループ映像が示している「動き」とそれが示すひとつの閉じた世界としての「現前性」が認識されるようになったと考えられる.
3−2.インターフェイス
中村秀之は「アトラクションの映画」の解題のなかで「論文が実定性を与えようとしている真の対象は,映画という出来事がそこに現出する境界面[インターフェイス]にほかならないのだ27」と書いている.この中村の指摘を受けて,次に「インターフェイス」という観点から,GIFと初期映画を考えてみたい.ガニングは「効果は飼い馴らされたアトラクションである28」と書き,ニューメディアの理論家で制作者でもあるアレクサンダー・ギャロウェイは,インターフェイスが「モノ」ではなく「効果」であるという観点で『インターフェイス効果』を刊行する29.ギャロウェイが示す観点と著書のタイトルは,ヒトとコンピュータを結びつけるインターフェイスに,「飼い馴らされた」ものかもしれないけれど「アトラクションの映画」の要素が入り込んでいる可能性を示している.
ギャロウェイは哲学者のスタンレー・カヴェルの映画論を参照しながら,映画とコンピュータのインターフェイスの違いを考察している.ギャロウェイは古典的映画を考察したカヴェルが,映画を見る者は世界との距離をとって,映像を見るという考えに同意する30.そして,「一幅の絵はひとつの世界である.一枚の写真は世界の写真である31」というカヴェルの言葉から,ギャロウェイは「映画は世界のための(for)のもの」とし,「コンピュータは世界の上に(on)にあるもの」と考える.そしてこの違いから,映画は人を泣かせるが,ウェブサイトを見ても泣く人がいないとする32.それは,映画がひとつの世界をじっくり見せる「ための」映像なのに対して,コンピュータはあくまでも世界の「上」につくられたシミュレーションでしかなく,ヒトとのインタラクションのなかですぐに「次」の映像が求められるものだからであろう.さらに,ギャロウェイは映画のスクリーンが見る者に向かってくるものだとすると,コンピュータのディスプレイは使う者から離れていくものであり,それゆえに映画では背もたれによりかかり,コンピュータでは前のめりになるという33.これは大きなスクリーンと小さなディスプレイという画面の大きさに由来する見る者の態度の違いでもあろう.映画とコンピュータで映像を見る者は,全く異なる姿勢で目の前の映像に向かっていることになる.
「映画とは何か」を考えたカヴェルを経由したギャロウェイのインターフェイス論から,映画とコンピュータとのインターフェイスの違いをみたのだが,カヴェルが考察した古典映画とガニングが再発見した初期映画のあいだにも違いがある.先に引用した「アトラクションの映画」のまとめのなかで,ガニングは「[アトラクションの映画は]フィクションとノンフィクションの双方のアトラクションを活用することによって,そのエネルギーは,古典的物語には不可欠である登場人物本位の状況へと内向きに作用するよりも,そこに居合わせていると想定された見物人に向けて外向きに作用する34」と指摘している.ここで言及されている古典的物語の作用は,ギャロウェイが考える映画を見る者の姿勢と逆向きとなり,スクリーンのなかに映像を見る者を招き入れる力を示している.それは,ギャロウェイが映像そのものの効果を考えることなく,専らインターフェイスの効果を考えているからだと言える.だからギャロウェイは,映画はひとつの世界の「ための」映像を見るためにゆっくりと腰を落ちつける場とされると同時に,巨大なスクリーンでもって見る者に迫ってくるものとする.しかし,このときガニングが指摘するように物語映画はスクリーンのなかに見る者をその世界との距離を保ちながら招きいれようとしている.つまり,物語映画では大きなスクリーンというインターフェイスとひとつの世界を示す映像との協働によって,見る者と映像との適切な距離が成立しているのである.
対して,世界からサンプリングされたデータを元に世界の「上に」重なるように作られたコンピュータが示す映像は,常に「次」を求めるヒトとのあいだのインタラクションを構成する要素のひとつとなっている.そこには「全体」を眺めるようなひとつの世界はなく「次々」に出てくる映像があり,ヒトはマウスなどのインターフェイスを用いてリンクを辿りながら映像の世界を「内へ内へ」と進んで行く.「次」を求めてもらうために,コンピュータのディスプレイに表示される映像は観る人の注意を画面のなかの数箇所のみに惹きつけ「内へ内へ」と誘うように作られている.だから,コンピュータを使う者は,仮に大きなスクリーンにその映像が表示されていたとしても,映像に対して前のめりになるのである.
初期映画と物語映画がそれぞれ示す映像の効果の違いをインターフェイスの効果に組み入れて,GIFを考えてみたい.物語映画は「内へ内へ」と見る者をスクリーンのなかに惹きつけながらも,大きなスクリーンというインターフェイスが見る者を席にゆったり座らせる効果をつくり,映画と見る者とのあいだに適切な距離が生じる.対して,初期映画は映像そのものが「外へ外へ」とスクリーンとともに見る者に迫ってきて,気持ちを落ち着かなくさせる.コンピュータでは映像が「内へ内へ」と見る者を招きいれながら,小さなディスプレイとそこに映るカーソルやアイコンなどの映像,そしてマウスといった様々なインターフェイスを組み合わせて見る者を「次へ次へ」と求める使う者へと変化させて,映像の「内へ内へ」と引きずり込む.そのような状況のなかで,初期映画と同じ映像的特徴をもつGIFアニメは「外へ外へ」と向かってくる.それゆえに,インターフェイスによって「次へ次へ」と促されながら,画面の「内へ内へ」と引きずり込まれていくコンピュータを使う者は,「外へ外へ」と向かってくるGIFとディスプレイ平面で「遭遇」することになる.
注
22 トム・ガニング「アトラクションの映画───初期映画とその観客,そしてアヴァンギャルド」(中村秀之訳),長谷正人・中村秀之編訳『アンチ・スペクタクル───沸騰する映像文化の考古学』東京大学出版会, 2003,304頁.
23 同上書,305頁.
24 同上書,308頁.
25 ミリアム・ハンセン「初期映画/後期映画───公共圏のトランスフォーメーション」(瓜生吉則,北田暁大訳),吉見俊哉編『メディア・スタディーズ』せりか書房,2001年,282頁.
26 座談会「『ポスト・インターネット』を考える(β)」
27 中村秀之「解題───アトラクションの映画」,長谷正人・中村秀之編訳『アンチ・スペクタクル───沸騰する映像文化の考古学』東京大学出版会, 2003,317頁.
28 ガニング,前掲書,313頁.
29 Alexander R. Galloway, The Interface Effect, Polity Press, 2012, p.vii.
30 Ibid., p.11.
31 スタンリー・カヴェル『眼に映る世界───映画の存在論についての考察』(石原陽一郎訳),法政大学出版局,2012年,52頁.
32 Galloway, pp.11-12.
33 Ibid., p.12.
34 ガニング,308頁.