Domenico QuarantaのIn Your Computerを読み終える
Domenico QuarantaのIn Your Computerを読み終える.2000年代のネットアートの状況が書かれていた.最初のほうに「セカンドライフ」が出てきて時代を感じつつ読み進める.後半は,ペトラ・コートライトなどもでてきて「ポストインターネット」な感じ.そして,ネットアートの初期と現在のあいだの「ちがい」というのを感じられた.この「ちがい」は,あくまで僕個人のものでしかないものだが,現在の方がネットに対してよりナチュラルになったというか,大きな問題を提起していない感じがする.また,Quarantaは「ネットアート」という言い方にこだわっていて,「ポストインターネット」は何を言っているのかよく分からないのでダメという感じ.
「オリジナルとコピー」の問題を,ヴァルター・ベンヤミンとボリス・グロイスを使って論じているところは,とても参考になった.ただ問題意識が少し,僕とは違う感じで「見えないオリジナルが存在する場所」について書かれていた.ネットアートの「URL」がひとつのオリジナルの「場所」になるのではないだろうかというのが,Quarantaの見解.僕としてはグロイスの「オリジナルが見えない」ということを考えつつ,ディスプレイに見えているものの「パフォーマティブ」な感じを考えてみたい.Quarantaは「場所」を考え,僕はその場での「パフォーマンス」を考えたい.Quarantaも本のなかで結構な長さで「パフォーマンス」について論じており,このあたりを接続して考えみるといいのかもしれない.
Quarantaはペトラ・コートライトについて,「彼女の生活はTwitter,Facebook,Flickrで継続的に行われているオンライン・パフォーマンスである.彼女の作品はメディアについてではなくて,ペトラ・コートライトについてのものである」と書く.このような視点から考えると,彼女はまさに「選択的認識」を実践しているアーティストといえる.コートライトについて自分で考えたときは,全く分からなくて,次のように書いている.
私は「メディアの条件を問う」ような作品を考えることが好きなのだが,Petra が扱っているメディアが「インターネット」だとすると,「そこには『条件』なんてものはないですよー」とアッケラカンと示されているのが,Petraの 作品群のような感じがする.インターネットの「条件」を問うこと自体がナンセンスというか,「『デジタル特有のものは知的・美的に貧困』だとしたら,それでいいじゃないの!」みたいな感じだろうか.
とにかくPetraの作品を見ていると「底が抜けている」感じがする.だから,私には「わからない」のだけれど,それはそれで「まあいいか!」という感じにもなる.それでも無理して考えると,ここでの「無理」というのはあくまでも私だけに当てはまることだが,ウェブカムの作品で,そこで使われている「効果」や「素材」が「カメラ」に付属してくるってどういうことなのだろうかということや,彼女はデジタル特有なものを「ピクセル」単位では求めなくて,もっと大きな枠組み求めているのかなーとか考えてしまう.「もっと大きな枠組み」とは何か,と問われても今はわからないけれど… ずっとわからないかもしれけど… なんか「知的ゲーム」ではない,もっと底抜けに陽気なインターネット・リアリティーとアートがそこにあるような気がする.
Petra Cortright わからない まあいいか!
過去に書いた自分のテキストをQuarantaと比較してみると,コートライトが「メディア」を問題しているのではないというところは一致している.私が「もっと大きな枠組み」と言っているところを,Quarantaは「ペトラ・コートライト自身」と簡潔に指摘している.確かに,自分のことを「Twitter,Facebook,Flickrで継続的に」表現していることは確かなのだが,その表現が成立する基盤として「選択的認識」があるのではないかということを,僕はこれから考えてみたい.つまり,「選択的認識」を大きな枠組みに設定できるかどうかを考えてみたいのである.