どこかに「笑い」があり,どこか「パーソナル」な感じがするアートユニット
芸術係数@genron cafe エキソニモ×辻憲行「夜の世界のネット・アート」に行ってきた.1週間ちょっとしかたっていないのけれど,もうすごく昔のように感じる.
エキソニモがふたつのあいだの境界を意識しはじめたのは第2期のあいだで,その最後あたりに「断末魔ウス」があるのが興味深い.そして,「断末魔ウス」が2007年というiPhoneが発表された年につくられていることも,物語的に面白い.そして,《断末魔ウス》以後のインターネットⅡ期に当たる作品群《↑》(2010)や連作「ゴットは、存在する。」(2009-2010)を通じて自分の関心の輪郭もかたちづくられたような気がする.ふたつのあいだの境界の測定を行うこと.
連作「ゴットは、存在する。」は「神」をめぐる物語が見る人の意識に勝手に作られる作品であるが,エキソニモ自体は「物語」を拒否する感じがある.だが,今回のトークでは自分たちの「物語」を「笑い」とともにつくっていた感じもする.ただ「笑い」とともにというところで,自分たちで自分たちの歴史化を曖昧にしている感じもする.
トークは辻さんによるネットアートの歴史のレクチャーからはじまった.初期のネットアートは,冷戦とも関係していて,とても政治的であったという指摘や,ダダやフルクサスとの西洋美術史との流れとも関係しているということは,改めて勉強になった.この辺りは,辻さんが読書会をやっていたレイチェル・グリーンの『インターネット・アート』にまとめられているはず.エキソニモは『インターネット・アート』には取り上げられていない.
その後,辻さんが,JODIの作品の説明しているときに,Chromeが「日本語に翻訳しますか?」ときいてきて,翻訳すると意味不明な「半角」の文字が「全角」になったのは面白かった.JODIが作品を作ったときは,Chromeもないし,「翻訳」機能もなかったので,予期しない面白さがあった.
JODIの作品もソースを見ると「原子炉」が現われたりするなど政治的なものなのだが,そこで赤岩さんが「この作品を作っているのはきっとおじさんだと思っていたら,若い男女のふたり組で驚いた.結局,ネットアートは『部屋』からはじまっているだよね」と言ったら,辻さんが「エキソニモもそうですよね~」と突っ込んでいたのが面白かった.シリアスでありながらも,どこかに「笑い」があり,どこか「パーソナル」な感じするところが,エキソニモを独特な立ち位置にしていると思われる.
「笑い」の雰囲気は,エキソニモの紹介のスライドの最初に自らの説明としてあった「怒りと笑いとテキストエディタを駆使し、さまざまなメディアにハッキングの感覚で挑むアートユニット」につながっている.さらに,千房さんがこのテキストを読み上げたときに,赤岩さんが「そうなの?」って突っ込むところにも現れている感じがするのだが,冷静に物事を観察して,作品や言葉にしつつ,同時にそれに対して自分でツッコミを入れているところが,エキソニモにはあるのだと思う.
だから,スライドを用いてのエキソニモ自身による「エキソニモの歴史化」とでも呼べるトークはとても分かりやすくまとめられていて,ところどころ「笑い」も仕込んであり,「エキソニモ」を楽しく勉強することができた.まず,自分たちの活動を3期に分けていたのはとても興味深かった.
- 1996~2000:初期インターネット期
- ブラウザ上の作品
- ネットでしかできないことをする
- 2000~2008:リアル期
- インスタレーション作成
- インターネットから離れていく
- 2008~:インターネットⅡ期
- 自作品の表層に対する疑問
この3期を通して,エキソニモは「作家中心主義」や「ネットの匿名性」を意識しながら活動を行なっていたとのことであった.そうした活動のなかで,自分たちがやっているのは「2つの世界の境界」に関してのことだと言っていた.それは主には「ネット」と「リアル」との境界であったり,マウスやカーソルというインターフェイスを介しての「ヒト」と「コンピュータ」だと言える.
そして今回のトークでは,「エキソニモ」自体ががひとつの境界になって,オスラウンジ,ギークハウス,渋家といった人たちが交わっていたのがとても興味深った.
と,ここまでがトークの振り返り.
ここからは,エキソニモのトークから考えた,私のなかでのエキソニモとの関係の振り返り.
私がエキソニモを知ったのは,スタジオボイスで四方さんが紹介していた記事で,それは「初期インターネット期」のころだったと思う.その時は,「ハッカー」という言葉が自分とは異なる世界だなと考えていた.
その後,大学院後期で「インターフェイスの研究」をすることになって,マウスとかカーソルとか云々しているうちに,エキソニモの《断末魔ウス》(2007)をアートフェアで買った.「これは!」と思った.「インターフェイス」が示す「ヒトとコンピュータとの境界」をこんなかたちで示すことができるのか! と,とても考えさせられた.
ヒトとコンピュータとの境界というか,それはネットとリアルとの境界でも,リアルとバーチャルというか,ディスプレイの中と外とでも言えるものですが,ふたつの世界のあいだにある「境界」を,ふたつの世界を切り分けることなく示すことができることが驚きだった.それは,「デスクトップ・メタファー」にある「メタファー」という言葉の力を使って,あたかも「地続きの世界」のようにカモフラージュされていたふたつの世界のあいだにある「境界」を鮮やかに示すと同時に,カモフラージュではなく,実際に繋げてしまったような感じがした.
連作「ゴットは、存在する。」は「神」をめぐる物語が見る人の意識に勝手に作られる作品であるが,エキソニモ自体は「物語」を拒否する感じがある.だが,今回のトークでは自分たちの「物語」を「笑い」とともにつくっていた感じもする.ただ「笑い」とともにというところで,自分たちで自分たちの歴史化を曖昧にしている感じもする.
「笑い」からエキソニモを考えることが必要かもしない.
ふたつのあいだとその境界で起こる「笑い」.「笑い」による曖昧化というか,「笑い」によって,ふたつのあいだがつながってしまうことがあるんだろうと思う.