アンドレアス・グルスキー展を見て,谷口暁彦さんの習作《live-camera stitching》を思い出しました

名古屋から神戸に引っ越しました.それで国立国際美術館にアンドレアス・グルスキー展を見に行きました.グルスキーの作品を一言で言うと「大きい」.それは写真として「大きい」ということですが,とにかくに大きい.普通の写真を見る距離でグルスキーの縦構図の作品を見ると見上げるかたちになるので,クビが痛くなります.このあたりはとても重要かと思われます.神の視点の前ではヒトは小さなものだなと,クビの痛みともに感じられるからです.

といっても,グルスキーも神ではなくてヒトですから,その大きな作品を「チチンプイプイ」と言って簡単につくっているわけではなく,コンピュータで複数の画像をくっつけてつくっているわけです.


パリのモンパルナス地区に位置するアパルトマンを捉えたこの作品は,グルスキーがデジタル技術によるイメージ加工を始めた頃に制作されました.二つの撮影ポイントから映された画像を組み合わせて一つの画面を作り出すことで,写真家は,建物の全体を正面から眺めることができ,かつ,アパルトマンの窓の中の一つ一つの世界を見ることの出来るイメージを完成させました.
アンドレアス・グルスキー展パンフレット(国立国際美術館) 

ふたつ以上の視点が入り込むから作品を見ていると混乱してきます.「あっちの視点で見ていると思ったら,いつの間にかこっちの視点に移動している」ということを写真でやられると僕の視覚はついていけずに混乱して気持ち悪くなったりしました.でも,グルスキーの作品で多い神の(上からの)視点において気持ち悪くなることなく,首の痛みだけを無視すれば自分も神になったような感じを味わっているような気がします.「神のような感覚」を味あうだけなら,グルスキーではなくて,もっと広大な俯瞰視点をとれて,自由に動き回れるGoogle Earthの方がいいかなという感じでもあります.グルスキーとGoogle Earthを比較するなんてと思うかもしれませんが,これらは「画像」として同等なものだと思います.


上の画像は「アンドレアス・グルスキー」とGoogleの画像検索してみたものです.なんで画像検索をしたかというと,多く人がこんな画像でグルスキーの作品を見ていると思われるからです.グルスキーの作品をネットで見るとちっとも大きくありません.クビも痛くなりません.神の視点とか感じないで,Googleさんの方に「神」を感じるような感じです.

展覧会場で大きな作品を見ながら「グルスキーの作品とそのネット上の画像との関係が面白な」と思ったわけです.グルスキーは世界を複数の視点から撮影してそれをコンピュータ上でひとつに結びつけるわけです.コンピュータの空間がなければグルスキーの作品は出来上がらないのですが,コンピュータでつくったそのままの大きさでは大きすぎて=(データ的に)重すぎてネットにあがって流通しない.大きさとデータの重さを圧縮されたものがネット上を流通していく.もとのデータをネットにあげようと思えば上げられるでしょうが,そうすると「オリジナル」が拡散することになって,超大型な高精細なインクジェットプリンターがあれば誰でも(企業しか持ってないでしょうが)プリントできてしまう.このようにデータサイズや「オリジナル」の問題から,コンピュータの空間でできたものがネットにはそのままで広がらないというところから今のネットとアートの関係性が見えてきたりします.

そんなことを見ながらうっすらと考えていたわけですが,そのとき谷口暁彦さんの習作《live-camera stitching》を思い出しました.谷口さん自身の説明をどうぞ.

監視などの目的で設置されたライブカメラが世界中にある.アクセスの制限がない場合,指定座標の静止画を640×480px程度の解像度でリアルタイムに取得できる.それらの画像をつなぎ合わせていき,1枚の高解像度の写真を撮影/作成してみた.
撮影に使用したhtmlは,すべての座標の撮影が終わるまで3〜5分程度かかる.ライブカメラの設置場所が夜間の場合,真っ暗で何も見えなかったり,ライブカメラのアクセス権の設定が変わったり,撤去されたりなどの状況の変化で作動しなくなる場合がある.

神戸のあたらしい部屋に帰ってきて,谷口さんの《live-camera stitching》を見てみました.「こっちの方がブラウザ上では大きさを感じるぞ!」と思ったわけです.単純に上下左右にスクロールしないと見えない大きさであるということもあるし,リアルタイムで撮影されていく様を見ていくと,撮影の時間とそのプロセスがどこか「大きさ」を感じさせてくれました.

http://okikata.org/study/livecam_stitch/60.45.63.26_b.jpg
これは谷口さんがサンプルであげているものですが,実際に見てみると画面解像度にもよると思いますが,僕のMacBook Airだと上下左右に大分スクロールをしないとみれないものでした.そのあとこれを撮影したウェブカメラがまだリアルタイムでも動かせたので見て見ました→ [html(real time) >>http://okikata.org/study/test56/].その際に画像ができるまでにいくつか撮影したスクリーンショットがこちら.





谷口さんの《live-camera stitching》こんな感じでウェブカメラが少しづつ撮影して,それをくっつけてひとつの画像にしていきます.谷口さんはこれをプログラムで自動的に行なっているために,僕もリンク先にいくだけで「大きな」画像ができあがる様子をリアルタイムに見ることができます.グルスキーも,彼の場合は多くは自分で撮影しているわけですが,やっていることは同じだと思います.でも,画像をつなぎあわせる部分の正確さという洗練具合が圧倒的に違うわけです.また,谷口さんはこれを習作でネットにアップしていて,画像ができあがるプロセスを誰もが見ることができるのに対して,グルスキーはその辺りは見せずに結果として出来上がったとても大きくて圧倒的な写真のみを展示します.どちらがいいというわけではないですが,僕は谷口さんの《live-camera stitching》の方に「大きさ」を感じてしまいます.それはブラウザで見た時に大きいということと,出来あがるまでのプロセスの時間があるからです.できあがったものの解像度・正確さがグルスキーよりも低いとしても,それは結果のちがいであって,プロセスとしては谷口さんの方がネットで誰でも見られるという点でも,いいなと思います.

「いいなと思います」というどうでもいい感想で終わってもあれなので,もう少し書きます.書きますといって,すぐに引用です.

ドバイからオーストラリアに向かう飛行機に乗り合わせたグルスキーは,機中のモニターに映されたインド洋の画像を見て,大いに感銘を受けました.6点を数える「オーシャン」シリーズは,このときの経験に着想を得て制作されました.グルスキーは,自分自身で撮影した写真ではなく,衛星から撮られた高精度の画像を,何ヶ月にもわたって丹念に加工しました.複雑な海岸線を示し陸地はほとんどそのまま用いられましたが,広大な海面は,グルスキーが生みだしたものです.デジタル技術を駆使して入念に調整された濃青色は,驚くべき深さを表現しています.私たちは,途方もない距離を含む壮大で崇高なイメージを前にして,広い宇宙に生きる自分自身の居場所に思いを馳せるのです.
アンドレアス・グルスキー展パンフレット(国立国際美術館)  

ここで言われているグルスキーの「オーシャン」シリーズこそGoogle Earthなんかに結びついてくるものなので,また改めて考えてみたいものなのですが,今回はそこではなくてこの引用の最後にある「私たちは,途方もない距離を含む壮大で崇高なイメージを前にして,広い宇宙に生きる自分自身の居場所に思いを馳せるのです」という部分です.このテキストは僕たちはあるひとつの場所にいることを前提にしていると思います.居場所がひとつだから,途方もない距離に思いを馳せる.でも,谷口さんの作品にも見られるように,僕たちはインターネットを介して今どこかで動いているウェブカメラの視点を得ることが,ひとつの場所にいながにしてできるのです.それはひとつの場所にいながらどこかの場所に,地球上のどこかの場所にいることを体験できることを意味します.広い宇宙に生きている自分の居場所に思いを馳せるのもいいですが,そんな大きな思いを馳せることなく,どこにでも視点をとれる時代で,気がつけば「こっち」と「あっち」がつながってしまうような作品ができる状況に僕たちは生きていると考えた方が面白いのではないかと思います.


追記[4月20日]
誤字脱字などを修正してきて,最後の部分「どこにでも視点をとれる時代で,気がつけば「こっち」と「あっち」がつながってしまうような作品ができる状況」を写真という媒体でやってしまったのがグルスキーなのか!,と思ったりしました.このグルスキーの手法を成立させたのがコンピュータのデジタル空間であることと考えると,ありきたりかもしれないけれどコンピュータ前後で私たちの空間概念は大きく変化していると言うことができるのではないでしょうか.

伊藤俊治さんが『電子芸術論』を書いたときには「テレプレゼンス」などと呼ばれて「イマココ」からの離脱がとても大げさに言われていたけれど,結局は「テレプレゼンス」という大げさな言葉は消えていって,SkypeやGoogleハングアウトのようなテレビ電話やTwitterなんかで私たちは世界に遍在しつつ遍在するようになっています.このあたりのちがいを考えてみても面白いかもしれない.

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