THE COPY TRAVELERSとのトークのメモ
マテリアルはメタファー
光と影
ギャラリーで作品を見続けても意味がないと思った.
これらの例において,それぞれの作品や展覧会は,インターネットと現実の空間との間にある齟齬や,緊張関係にその成立条件があったと言える.それは,一つの閉じた窓として成立する絵画や画像ではなく,その作品の周囲をぐるりと見て周ることができる「彫刻」であるからこそ,必然的にその作品の周囲で空気のように充填された空間を巻き込むことになるからだ.そしてその空間は,たんにヴァーチャルか現実かという対立にあるのではなく,その両者が対立と調停を繰り返すような,展開された場としてあるのではないだろうか.(p.89)
11/21/15, 07:47:23
THE COPY TRAVELERS(コピトラ)とのトーク
来週のTHE COPY TRAVELERS(コピトラ)とのトークについて考えていたけれど,ブログを書くほどにはまとまらなかったのでmemoする.
ポストインターネットでネットと対比される「リアル」とよく言われるし,自分も「リアル」という言葉を簡単に使っていたけど,リアルとネットが等価値になったときの「「リアル」って何だ?」と考えると,それは重力があってモノが貫入しない世界のことではないかと.これは谷口さんのスキンケアを見てきた後に出てきた考えで,物理世界で当たり前のことなんだけれども,このことを「リアル」という言葉に与えることは,ネットやデジタルの現象を考えるときに必要のような気がする.
Googleのマテリアルデザイン[Material is the Metaphor=融けるデザイン/モノを考える=モノの法則−身体のつながり]は重力があってモノが貫入しない世界のうち,貫入しないというパラメーターをデザインに取り込んで,重力はないことにしている.重力はないけど,モノとモノとが貫入しないから重なって,影ができる.でも,実際はその影はモノとモノとが重なってできる影ではなくて,「影」ができることによって,モノとモノとの貫入がないことになり,重なることになる.
こんなことを考えてたいたら,コピトラの作品には影が多いなと気づいた.それらはリアルな作品で,それを見ているときにネットやデジタルな現象を思い浮かべることは少ないなということも気づいた.谷口さんの作品やアーティ・ヴィアーカントのイメージオブジェクトにはあまり影を見ないなと思いつつ,実際は見ているのだけれど,それが気にならない.影が気にならないというか,作品がモノであることを気にしていない.どこか重力がなく,モノとモノとが貫入する(貫入してしまう)世界を想定しながら作品を見ているところがあるような感じがある.
コピトラとのトークに向けて毎日memoを書くぞと決めたのに,書けてなーい.リアル=重力があり,モノが貫入しない世界としたけど,それはそのようにパラメーターが決められた世界といえるし,ここで「パラメーター」という操作する要素が入ってくる時点で,世界の見え方は大きく変わっている.でも,それは「神」という言葉で言われてきたことでもあるから,ヒトの考え方は大昔からあまり変わらないような気がする.変わったのはやはり,アイデアを画像・映像化できるようになったことにあると思う.それこそコピーという手法でアイデアを拡散させたように,シミュレーションという手法で世界をいじることができ,リアルがシミュレーションの一部となり,それを見ることができるようになった.現実をまねるためにパラメーターを調整し,アルゴリズムを洗練させてきた.しかし,ここで洗練の先に何があるのかという問いも生まれた.それはシミュレーションが「リアル」を凌ぐようになったときにも言われたことだけれど,今は,多くの人がシミュレーションをある程度出来るようになったから,思いつきがシミュレーションされるようになった.そこには科学的な裏付けとかないけれど,とにかく頭に浮かんだことをやってみる.そこから考えるようなシミュレーションの使い方が出てきたのかなと思う.そこでは重力はなくなくるし,モノも貫入しまくる[谷口暁彦個展スキンケアでの《むくみ、たるみ》].けど,それが何を意味しているかはわからない.でも,それでいい.そこでうまれた画像・映像を見ることで,世界の見え方が変わればいい.そんなシミュレーションの世界のなかでの「コピートラベル」[レイヤーの入れ替わり/単眼的視点ースキャンという平面の読み取り]とは何を意味するのか? このあたりを考えればいいのかもしれない.
シュミレーションの世界のなかのコピートラベルはどこに辿り着くのか.どこにも辿り着かないのかもしれないし,「辿り着く」という発想自体がいけないのかもしれない.シミュレーションの世界で写真は無数の可能性,選択の集積になった.もともと写真は選択の可能性の集積であるが,ディスプレイとプログラムによってそれはまさに膨大な選択肢からの選択になった.それがコピトラと関係しているのか,していると思う.そして,写真の加工にPhotoshopを使うこと自体を作品のなかに明示したり,議論に取り入れようとする動きが写真家のなかにあることもコピトラに関係していると思う.Photoshopで作業しているときにふと出来てしまった表象を作品に選択すること.それはいままでの表象ではなかったものを取り入れることに近い.「いままでの」という発想がだめかもしれない.Photoshop由来の画像・イメージを見せること,これはコピーの世界とはまた異なったこと? わからない.Photoshop由来の画像・イメージを見せることはPhotoshopをつかっているという行為を見せることとは異なっているような気がする.コピーは空間を平面化するが,Photoshopは空間をえぐるというか,これもまた空間を平面化するだが,その平面化したときに空間自体が平面になるというか.Photoshopによって表象の平面が示す空間が一度消去されるけれど,見る人のなかには根強くというか基本的に空間概念があるから,Photoshopによる空間の消去を打ち消して平面を見ようとしてしまう.そこによくわからない,どこにあるのかがはっきりしないような空間平面場がうまれる.そんな感じ.
THE COPY TRAVELERS(コピトラ)とのトーク
来週のTHE COPY TRAVELERS(コピトラ)とのトークについて考えていたけれど,ブログを書くほどにはまとまらなかったのでmemoする.
ポストインターネットでネットと対比される「リアル」とよく言われるし,自分も「リアル」という言葉を簡単に使っていたけど,リアルとネットが等価値になったときの「「リアル」って何だ?」と考えると,それは重力があってモノが貫入しない世界のことではないかと.これは谷口さんのスキンケアを見てきた後に出てきた考えで,物理世界で当たり前のことなんだけれども,このことを「リアル」という言葉に与えることは,ネットやデジタルの現象を考えるときに必要のような気がする.
Googleのマテリアルデザイン[Material is the Metaphor=融けるデザイン/モノを考える=モノの法則−身体のつながり]は重力があってモノが貫入しない世界のうち,貫入しないというパラメーターをデザインに取り込んで,重力はないことにしている.重力はないけど,モノとモノとが貫入しないから重なって,影ができる.でも,実際はその影はモノとモノとが重なってできる影ではなくて,「影」ができることによって,モノとモノとの貫入がないことになり,重なることになる.
こんなことを考えてたいたら,コピトラの作品には影が多いなと気づいた.それらはリアルな作品で,それを見ているときにネットやデジタルな現象を思い浮かべることは少ないなということも気づいた.谷口さんの作品やアーティ・ヴィアーカントのイメージオブジェクトにはあまり影を見ないなと思いつつ,実際は見ているのだけれど,それが気にならない.影が気にならないというか,作品がモノであることを気にしていない.どこか重力がなく,モノとモノとが貫入する(貫入してしまう)世界を想定しながら作品を見ているところがあるような感じがある.
コピトラとのトークに向けて毎日memoを書くぞと決めたのに,書けてなーい.リアル=重力があり,モノが貫入しない世界としたけど,それはそのようにパラメーターが決められた世界といえるし,ここで「パラメーター」という操作する要素が入ってくる時点で,世界の見え方は大きく変わっている.でも,それは「神」という言葉で言われてきたことでもあるから,ヒトの考え方は大昔からあまり変わらないような気がする.変わったのはやはり,アイデアを画像・映像化できるようになったことにあると思う.それこそコピーという手法でアイデアを拡散させたように,シミュレーションという手法で世界をいじることができ,リアルがシミュレーションの一部となり,それを見ることができるようになった.現実をまねるためにパラメーターを調整し,アルゴリズムを洗練させてきた.しかし,ここで洗練の先に何があるのかという問いも生まれた.それはシミュレーションが「リアル」を凌ぐようになったときにも言われたことだけれど,今は,多くの人がシミュレーションをある程度出来るようになったから,思いつきがシミュレーションされるようになった.そこには科学的な裏付けとかないけれど,とにかく頭に浮かんだことをやってみる.そこから考えるようなシミュレーションの使い方が出てきたのかなと思う.そこでは重力はなくなくるし,モノも貫入しまくる[谷口暁彦個展スキンケアでの《むくみ、たるみ》].けど,それが何を意味しているかはわからない.でも,それでいい.そこでうまれた画像・映像を見ることで,世界の見え方が変わればいい.そんなシミュレーションの世界のなかでの「コピートラベル」[レイヤーの入れ替わり/単眼的視点ースキャンという平面の読み取り]とは何を意味するのか? このあたりを考えればいいのかもしれない.
シュミレーションの世界のなかのコピートラベルはどこに辿り着くのか.どこにも辿り着かないのかもしれないし,「辿り着く」という発想自体がいけないのかもしれない.シミュレーションの世界で写真は無数の可能性,選択の集積になった.もともと写真は選択の可能性の集積であるが,ディスプレイとプログラムによってそれはまさに膨大な選択肢からの選択になった.それがコピトラと関係しているのか,していると思う.そして,写真の加工にPhotoshopを使うこと自体を作品のなかに明示したり,議論に取り入れようとする動きが写真家のなかにあることもコピトラに関係していると思う.Photoshopで作業しているときにふと出来てしまった表象を作品に選択すること.それはいままでの表象ではなかったものを取り入れることに近い.「いままでの」という発想がだめかもしれない.Photoshop由来の画像・イメージを見せること,これはコピーの世界とはまた異なったこと? わからない.Photoshop由来の画像・イメージを見せることはPhotoshopをつかっているという行為を見せることとは異なっているような気がする.コピーは空間を平面化するが,Photoshopは空間をえぐるというか,これもまた空間を平面化するだが,その平面化したときに空間自体が平面になるというか.Photoshopによって表象の平面が示す空間が一度消去されるけれど,見る人のなかには根強くというか基本的に空間概念があるから,Photoshopによる空間の消去を打ち消して平面を見ようとしてしまう.そこによくわからない,どこにあるのかがはっきりしないような空間平面場がうまれる.そんな感じ.