出張報告書_20151106,もしくは,むくみ,たるみをパックでとって透明感ある肌になる
展示室に入ると「スキンケア」と題されたテキストがある.そこにはこの展示の作品の制作手順が次のように記されていた.数字は報告書のために報告者:水野が挿入した.
(1)スーパーでお菓子を買ってくる.
買ってきたお菓子のパッケージを採寸し,表面のテクスチャをフラットベットスキャナでスキャンする.
採寸した情報とスキャンしたテクスチャ画像から,お菓子のパッケージの3Dモデルを制作する.
制作したお菓子のパッケージの3Dモデルを,物理シミュレーションのプログラムの中でパラメーターを変えながら落下させる.
(2)お菓子のパッケージをテーブルの上に置く.
テーブルの上のお菓子のパッケージを3Dスキャンする.形態の3Dデータと,表面のテクスチャのデータが別々に得られる.
お菓子のパッケージを白く塗りつぶす.
フラットベットスキャナでスキャンした表面のテクスチャを,白く塗りつぶしたお菓子のパッケージに貼り付ける.
(3)3Dスキャンして生成された表面のテクスチャ画像を大きくプリントアウトする.
大きくプリントアウトしたテクスチャ画像をリアルタイムにカメラで撮影し,プログラムで形態のデータに貼り付ける.
テクスチャ画像を形態のデータに貼り付けたものをプロジェクターで壁面に投影する.
テキスト全体から谷口の個展「スキンケア」は3Dモデルとそのテクスチャの関係を扱ったものだと考えられる.3Dモデルの多くは形態を示すモデルデータとその表面に貼り付けられる画像データ=テクスチャからつくられる.谷口は上記の手順によって3Dモデルとそのテクスチャの問題を扱う3つ作品《むくみ、たるみ》《パック》,《透明感》を制作している.
(1)の手順で《むくみ、たるみ》が制作されている.
壁に掛けられた液晶ディスプレイには白い空間のなかに,これもまた3Dスキャンされたテーブルの天板があり,その上に青いランチョンマットが置かれている.そこに制作されたお菓子のパッケージが落とされる.この3D空間の法則を決めている物理シュミレーションには2種類あり,ひとつは現実と同じようにモノとモノとが交わらないようにパラメーターが設定されているもので,もうひとつはモノとモノとが交わるものである.現実を模したものは机の天板の表面にパッケージの表面が触れるとお菓子の箱が弾み,パッケージ同士も表面が互いに反発するようになっている.対して,モノとモノとが交わるパラメーターでは,パッケージの表面は机の天板に少しめり込んだところで弾みだし,パッケージ同士の表面はそこが他のモノとの境界とはなっておらず,相互に入り込んだ状態になる.
《むくみ、たるみ》は見れば見るほどよくわからない感じになる.それはモノとモノとが相互に入り込むという現実とは異なる世界をお菓子やわさびのパッケージという日常的なモノがつくりだしているからかもしれない.物理シュミレーションではパラメータを操作することでモノの境界=スキンを無効化することができる.スキンは見えているけれど,そこには「はり」がなくなっている.かと言って,「むくみ,たるみ」があるわけではない.スキンは見えているだけで,そのままの状態で私たちが存在する空間に引っ張りだすと,恐らく触れることができず「はり」や「むくみ,たるみ」という状態を確認できないと考えられる.モノとモノとが相互に入り込まないようにするスキンの機能が無効化されていることで,モノの形態も無効化されている.けれど,モノは表面に貼られたテクスチャ画像によって元の形態で見えている.不思議である.今回の展示でもっとも惹きつけられた作品である.
(2)の手順で《パック》が制作されている.
白く塗りつぶしたお菓子のパッケージの上にテクスチャを貼り付けたものだが,白いモデルとテクスチャとが一致することなく,テクスチャが歪んでいる.テクスチャとモデルが一致していないからこそ,鑑賞者はパッケージの白く塗りぶされた部分が見えるのである.白く塗りぶされる前まではパッケージの表面=スキンであったものが,ここではモデルとなっている.テクスチャを白く,あるいは単色で塗りつぶすとモデルになる.ただ,その上にテクスチャが貼られない限りは,その単色がテクスチャとみなされる.テクスチャがモデルをモデルにしているのかもしれないということを考えさせられた.
しかし,ボンタンアメはRITZと一体化するかのようなテクスチャに包まれていることや,《むくみ、たるみ》を見てみるとテクスチャ=スキンがモデルを示さないことも起こりうることもあるではないだろうかとも思った.
(3)の手順で《透明感》が制作されている.
この作品では一度テーブルの上に置かれたパッケージから採取されたテクスチャ画像が拡大されて印刷されている.その画像は箱をつくるための展開図のようなものではなく,どうしてそのような画像になったのかが想像できない画像になっている.なぜなら,その画像をつくったのがヒトではなくコンピュータであり,さらに,それはヒトに見せるために制作されたものではなく,3Dモデルを包むために制作されたものだからである.このあたりの問題意識は,123D Catchで制作された3Dモデルからテクスチャマップのみを抜き出しつづけるClement Vallaのtex-archiveと似ている.それはコンピュータがつくる本来は見る用途ではない画像をヒトに見せてしまうというものである.ヒトはコンピュータに制作のルールを与えるが,そのルールから画像を制作するのはコンピュータである.その結果,ヒトが考えつかないような画像が展開されることになる.
谷口はヒト向けではない画像を鑑賞者に見せると同時に,その画像をコンピュータにも見せている.コンピュータは設置されたカメラによって「大きくプリントアウトしたテクスチャ画像」を見て,その画像をプログラムでデータに貼り付けて,その結果をプロジェクターで投影している.カメラとテクスチャ画像のあいだに自分を入り込ませると,自分の身体がプログラムに処理されて,プロジェクターの映像に反映される.それまではお菓子のパッケージであったテクスチャが,鑑賞者の身体から得られたテクスチャへと変化する.変化するのはテクスチャだけであり,モデルは同一のままである.それは鑑賞者も同じである.鑑賞者もモデル=身体は同じまま,カメラによって採取された自分のテクスチャ=画像がほかのモデルに貼り付けられる.
《透明感》でカメラのレンズを覆うように手をかざしてみると,お菓子のパッケージが「お肌」そのものになった.このときも手のテクスチャは断片化されてつぎはぎされているのであるが,単色に近いためパッケージの3Dモデルの境目が明確ではなくなり,あたかもひとつのモデルのように提示された.ここでおこっていることは,スキンがモデルを無効化して呑み込んで,あらたなモデルをつくったように見せることかもしれない.
最後に個展のタイトルと展示作品のタイトルを合わせて考えると,「むくみ,たるみをパックでとって透明感ある肌になる」というスキンケアの流れができあがる.けれど,このことに意味があるのかはまだわからない.もしかしたら,最初に「《むくみ、たるみ》がない世界」があることを示し,私たちが存在している物理法則の世界ではスキンがモデルとなり,そのうえにまたスキンがつくられるという新陳代謝があるため,モデルを包むスキンには「むくみ,たるみ」が生じることを(あるいは,《むくみ、たるみ》がないせかいのスキンをリアルなモノに貼り付けると「むくみ,たるみ」が生じることを)《パック》するという行為で分かりやすく示し,だったらあなたのスキンをテクスチャとして「むくみ,たるみ」のない《透明感》あふれる世界に貼り付けてあげますよ,という鑑賞者の「スキンケア」が行われていたのかもしれない.
今回の出張で見た谷口暁彦個展「スキンケア」は,出張者が行っている「ポストインターネットにおけるモデルとテクスチャ」の研究にとても大きな示唆を与えてくれるものである.