今書いているものたち
夏の暑い中,どこにも行かずに部屋で書きつづけている2つの文章.月末までにすべて書ききれるのか?
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カーソルをめぐるエキソニモの冒険(仮)
はじめに
本稿が考察の対象とするのは,ユーザ・インターフェイスにおける「カーソル」である.とはいえ一口に「カーソル」といっても,それはCUIにもあり,GUIにもあり,iPadに代表されるタッチ型インターフェイスではその存在が消えかかっているように,その現れ方も当然一様ではない.そこで本稿はさしあたり,GUIにおける「カーソル」に焦点を絞る.なぜならこの30年間私たちとコンピュータとを結びつけてきたGUIの中で,「カーソル」ほど訳のわからないイメージはないからである.まずは「カーソル」という映像の「訳のわからなさ」を明確にした上で,そこでの問題を積極的に受け容れつつ創造的に乗り越えた作品として,エキソニモのカーソルをめぐる3つの作品《断末魔ウス》(2007),《ゴットは,存在する.》(2009)の中の《祈》と《gotexsit.com》,《↑》(2010)を論じる.カーソルがインターフェイスのみに留まらない,ヒトとコンピュータとの関係から生じた現実と仮想とを切り替えながらループしていくスイッチのような新たな存在様態の可能性を明らかにすること.それが本稿の目的である.
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藤幡正樹の作品における平面:平面を組み立てる(仮)
はじめに
藤幡正樹と言えば,コンピュータを用いたインタラクティブな作品を誰もが思い浮かべる中,2006年にアニメーション作品《未成熟なシンボル》が発表される.自らコンピュータからの出口と書いた《禁断の果実》の制作後もコンピュータを使い続け,インタラクティブな作品で世界中の評価を得た藤幡が,なぜ今,アニメーション作品を作るのであろうか.
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カーソルをめぐるエキソニモの冒険(仮)
はじめに
本稿が考察の対象とするのは,ユーザ・インターフェイスにおける「カーソル」である.とはいえ一口に「カーソル」といっても,それはCUIにもあり,GUIにもあり,iPadに代表されるタッチ型インターフェイスではその存在が消えかかっているように,その現れ方も当然一様ではない.そこで本稿はさしあたり,GUIにおける「カーソル」に焦点を絞る.なぜならこの30年間私たちとコンピュータとを結びつけてきたGUIの中で,「カーソル」ほど訳のわからないイメージはないからである.まずは「カーソル」という映像の「訳のわからなさ」を明確にした上で,そこでの問題を積極的に受け容れつつ創造的に乗り越えた作品として,エキソニモのカーソルをめぐる3つの作品《断末魔ウス》(2007),《ゴットは,存在する.》(2009)の中の《祈》と《gotexsit.com》,《↑》(2010)を論じる.カーソルがインターフェイスのみに留まらない,ヒトとコンピュータとの関係から生じた現実と仮想とを切り替えながらループしていくスイッチのような新たな存在様態の可能性を明らかにすること.それが本稿の目的である.
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藤幡正樹の作品における平面:平面を組み立てる(仮)
はじめに
コンピュータと出会い,コンピュータ・グラフィクスにとりつかれてとうとう十年経ってしまった.私にとってアニメーションというメディアがコンピュータへの入り口であったなら,立体物を作ることはそこからの出口であるのかも知れない.(p.119)
藤幡正樹『アートとコンピュータ』(1990)このテキストは,アーティストの藤幡正樹が今から20年前に書いた「四次元からの投影物:デュシャンのオブジェからアルゴリズミック・ビューティーへ」の冒頭部分である.しかし,藤幡はこの立体物《禁断の果実》(1990)を作った後も,ZKMのパーマネントコレクションになった《Beyond Pages》(1995-97)ほかコンピュータを用いた作品を作り続ける.そして,日本のメディアアートを代表するひとりとなっている.
藤幡正樹と言えば,コンピュータを用いたインタラクティブな作品を誰もが思い浮かべる中,2006年にアニメーション作品《未成熟なシンボル》が発表される.自らコンピュータからの出口と書いた《禁断の果実》の制作後もコンピュータを使い続け,インタラクティブな作品で世界中の評価を得た藤幡が,なぜ今,アニメーション作品を作るのであろうか.
きっかけから言えば,平面性という問題なんです.トランプは平面でできています.写真などをはじめとするイメージ画像というものは,平面であることが前提になっていますので,平面的な物はイメージと実体のあいだの行き来が可能ですが,立体的な物は扱い難いんです.その意味で,テーブルとトランプという組み合わせは,イリュージョンを作りやすいということがあったんです.(pp.120-145)
藤幡正樹『不完全さの克服』(2007)《未成熟なシンボル》をつくるきっかけのひとつに「平面性」の問題があったと藤幡は述べている.アニメーションという平面から作品を作り始めてCGに行き着き,CGを立体化した彫刻を作り,インタラクティブな作品を数多く作った後に,再び平面へと至るこの藤幡の作品形態のプロセス.「平面的な物はイメージと実体のあいだの行き来が可能」という藤幡のモノとイメージに対する認識.藤幡の20年の作品制作のプロセスと「平面性」への問題意識から,このメディアアーティストがコンピュータの登場によって変わっていく「平面」の概念を作品で提示しようとしているのではないかと,私は考えるようになった.藤幡は新しい技術を使いながら,アートにおいて最も古い問題のひとつである「平面」の問題を考えているのではないか.そこで本論考は,CGを立体化した《禁断の果実》,インタラクティブな本の作品《Beyond Pages》,アニメーションに回帰した《未成熟なシンボル》とを取り上げて,今まであまり考えられてこなかった藤幡の作品における「平面」を考えていく.