メモ:「唐突ですが、カーソルは、半死状態なのかもしれない」

《断末魔ウス》では,映像とともにカーソルの動きが記録されている.カーソルは映像だが,映像ではないように扱われている.だから,映像とは別にその動きが記録されている.

カーソルは映像であるということから,何がいえるのか.カーソルは映像ではないということから,何がいえるのか.カーソルは映像であり,かつ,映像ではないから何がいえるのか.

カーソルは,写真や映画のような「かつてそこにあった」タイプの映像ではない.では,ライブ映像のように今起こっていることを映し出しているような映像だろうか.確かに,カーソルは,今の状況を映し出しているので,ライブ映像と言える.しかし,《断末魔ウス》は「かつてそこで起った」破壊行為を記録した映像である.カーソルの動きもその過去の破壊行為とともに記録されている.ということは,カーソルは,ライブ映像ではなくなるのではないだろうか.

《断末魔ウス》はDVD-ROMに収められたソフトウェア作品である.しかも鑑賞の方法が,フルスクリーンとそうではないものと2通りある.フルスクリーンのときは,カーソルは記録映像に近い振る舞いをする.過去に記録された動きを画面いっぱいに行う.しかし,その際に,鑑賞者が自分の手元にあるマウスを動かすと,カーソルはマウスの動きに一瞬従う.マウスに引っ張られているときにカーソルは,記録映像からライブ映像に切り替わる.もしくは,映像からPC環境に切り替わっている.エキソニモが書いているようにカーソルは,記録映像とライブ映像,映像とPC環境のあいだを揺れ動く.

フルスクリーンで鑑賞しない場合は,カーソルは振る舞いはさらに複雑になる.基本は,上記の2つのあいだの行き来をすることになるのだが,ここでは位置情報に基づいた動きの変化だけではなく,PC環境に応じて,カーソルはその形を変えたり,周りのイメージを選択したりする.また,Macでエクスポゼやスペーシーズを行うとマウスの破壊行為が行われている映像が見えなくなり,カーソルだけがその破壊行為を示すようになる.こうした見方は想定されていないのかもしれない.ソフトウェア作品として《断末魔ウス》は,OS上の他のソフトウェアと同列の扱い受け,その中で破壊行為の記録映像が見えなくなり,カーソルの動きだけがその行為を示すということも起こりうるのだ.

カーソルは,映像であり,同時に位置情報でもある.カーソルがある位置が他のイメージの位置に重なるとそこでひとつの出来事が起こる.カーソルは記録映像の一部でありながら,位置情報でもあることで今ここで出来事を起こすこともある.しかも,作品が終わると,すぐさま手元にあるマウスとを接続されて画面上を動き回るようになる.

位置情報は過去に記録されたもので,鑑賞者が見ている「↑」のかたちは,今ここでコンピュータによって生成されている.過去に記録された位置情報が,現在コンピュータが生成している環境で再生される.そのときのカーソルは,過去に記録された動きをただ忠実に反復しているが,「今ここ」の存在である.決して,過去の存在ではない.過去に記録された映像と重ね合わされているので,過去に引きずられる力が強いが,カーソルは現在のここで生成されている映像なのだ.

《断末魔ウス》では,マウスとカーソルとのあいだのデータのやり取りをプログラムで変化させる.それだけで普段は,ユーザが自由自在に動かし,その存在もあまり意識しないカーソルとは何なのかという疑問を抱かせる.すると,エキソニモが指摘するようにカーソルは様々なあいだにある存在ということが気になり始めてくる.

唐突ですが,カーソルは,半死状態なのかもしれない.

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