「あいだを移行する『↑』」で使われなかったテキスト

この連続を,私たちはよく「インタラクション」と呼んでいる.実際のところは,インタラクションとは,カーソルによって,ディスプレイ上のどこかのアイコンやメニューを「ここ」「これ」と指し示し続けることだといえる. 
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上下左右斜めを意識することもなく,ディスプレイという平面を「↑」が動くことは,カーソルを手の代理だとみなすために必要なことだといえる.
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川崎は論考の最後で「交代」でも「並置」でもない「根拠なき分身」という存在を提唱する.カーソルはカーソルでありながらマウスでもあり,マウスはマウスでありながらカーソルでもあるような状態.カーソルとマウスはヒトとコンピュータを使うヒトを二重化したものなのではないだろうか.つまり,コンピュータと接するヒトをモノとイメージへの「分岐の可能性を孕んだ存在」へと変容させる.しかも,私たちはこの存在の根拠が曖昧なカーソルを簡単に受け入れている.「カーソル」をそのまま「分身」として認識し,それを根拠を欠いたまま受け容れること.カーソルはヒトの分身でありながら,コンピュータの分身でもあり,モノでありながらイメージでもある.私たちはGUIでコンピュータを操作するときに, このような曖昧な存在をそのまま「分身」と受け容れている.
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カーソルをヒトの「分身」と考えるならば,それはヒトが属している大きな秩序のひとつである物理法則に則っていなくてはならない.
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カーソルをめぐる言説を集めてみると,それは「手の代理」であったり,「視線の代理」であったり,ただの「分身」だったりしながら,コンピュータがヒトの意識を我が物にする記号であったりする.さらに,デスクトップ・メタファーの中で,現実世界にないのに存在している記号であって,まさに「カーソルって何だ?」という状況になってくる.
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だから,私たちはカーソルというよく分からない映像を語るときに,身体やマウスといったモノとして確かにある既知のものと関係付けるのかもしれない.
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ここで「カーソルとは何か」を改めて考えるために,カーソルを動かすことを考えてみよう.哲学者のフレッド・ドレツキは次のように書く.

私のコンピュータのキーボードにあるバックスペース・キーを叩くことは,カーソルを左へと動かす.運動の原因は,バックスペース・キーへの圧力であり,この出来事およびそのコンピュータの完全な機械的電気的条件ではない.もちろんもし我々がコンピュータの配線を変え,プラグを抜き,ソフトウェアを変え,接触を腐蝕させるなどすれば,そのときバックスペース・キーを叩くことはもはやカーソルを動かさない.確かにそうだろう.しかしながら,これが示すのは,バックスペース・キーを叩くことがカーソルを動かさない,ということではなく,それが常に動かすわけではない,ということである.そうするのは特定の条件においてのみ,すなわち背景条件が正しいときのみである. (pp.67-68)

「特定の条件においてのみ,すなわち背景条件が正しいときのみ」カーソルは特定の動きをする.カーソルを動かすためにある部分までは物理法則に従い,プログラムが関与するようになる物理法則は無視される.すべてはプログラムが決定する.
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それは物理法則から逃れているからこそ,ヒトの心的な部分に作用するような部分を持つようになる.
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私たちはカーソルという訳のわからない映像を「身体の拡張」や「分身」という言葉で説明しようとしている.
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「スケッチパッド」を開発したアイヴァン・サザーランドは.プログラムでカーソルのXY座標と入力装置との組み合わせを工夫することで「カーソルがあなたがしたいことを「理解」しているようかのようにする」ことができるとしている.カーソルは映像だが,それはプログラム次第でユーザのことを「理解」しているかのような動きをする存在なのである.しかしその動きは煎じ詰めれば単なるXY座標にすぎない.サザーランドはXY座標をうまく入力装置と結びつけることで,カーソルにヒトの心のような部分が生じているとユーザに思わせることが可能だとコンピュータの初期の段階から考えていたのである.カーソルは実際は単にXY座標を示しているにすぎないが,それを動かし,その動きを見るヒトが,そこに自分が理解されていると思ってしまうこと.これはとても興味深いことである.カーソルはヒトとコンピュータとのあいだにコミュニケーションを成立させてしまう存在なのである.
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エキソニモは「モノ⇄プログラム⇄イメージ」のつながりのコミュニケーションを破壊し,一時のコードもなかったことにしてしまう.しかもそれを,モノ,プログラム,イメージの各部分で行っている.そしてその3つがバラバラになっても,バラバラのまま別のコミュニケーションが始まることを示している.

3つがバラバラになっても,データは流れ続ける.
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エキソニモはアナログとデジタルのどちらが中心と問いかける.

キュレーターの四方幸子はエキソニモの作品制作に関して次のように指摘している.

彼らの作品ではアナログ,デジタルにかかわらず,異なるコードへ情報が変換されるプロセスとそこに生じるノイズが,偶然性とともに創造的可能性として取り込まれていく.使用される「素材」は日常にありふれたものであり,彼らの「創造」とは情報を自動的に操作・変形するシステム,およびそれを介して現れる情報のプロセスといえる.

「異なるコードへ情報が変換されるプロセスとそこに生じるノイズ」としてカーソルという日常的なイメージがある.カーソルは座標データというXY座標のデジタルな存在でありながら,その座標間をなめらかに移動することで,デジタルには必要ない距離というアナログ的なものをコンピュータの画面に持ち込んでしまうからである.カーソルはデジタルでもあり,アナログでもある.双方にとってノイズにすぎないもの.ここにエキソニモは注目する.
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「マウス⇄プログラム⇄カーソル」のつながりの全体がひとつのコード,行為のコードを作り上げている. プログラムは行為のコードを瞬時に切り替えることができる.けれど,いつもはそのコードというか,そのコードを成り立たせたコミュニケーションを受け入れている.ちょっとプログラムを変えることで,道具とヒトとのコミュニケーションと,それが成立させた一時のコードが破壊される.そのために,「用具的」から「非-用具的」への「移行」が起こる.

エキソニモは「モノ⇄プログラム⇄イメージ」のつながりのコミュニケーションを破壊し,一時のコードもなかったことにしてしまう.しかもそれを,モノ,プログラム,イメージの各部分で行っている.そしてその3つがバラバラになっても,バラバラのまま別のコミュニケーションが始まることを示している.
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物質とデータのあいだ|データと映像のあいだ
破壊という行為が,カーソルを動かす.つまり,モノの破壊が,ディスプレイ上でイメージを指さす行為になっている.破壊と指さしの間には「プログラム」がある.

破壊されるマウスは二通りの仕方で表象に変えられる.1.破壊されるマウスを撮影した映像.2.破壊されるマウスからコンピュータに入力されるデータ.
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カーソルは映像であるということから,何がいえるのか.カーソルは映像ではないということから,何がいえるのか.カーソルは映像であり,かつ,映像ではないから何がいえるのか.
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《断末魔ウス》では,映像とともにカーソルの動きが記録されている.カーソルは映像だが,映像ではないように扱われている.だから,映像とは別にその動きが記録されている.
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ソフトウェアを起動して映像を再生すると,一時的にマウスが制御不能となるため,否応なしにユーザーは「マウスの死」を疑似体験させられることになる.なかには,PCやマウスが故障したのかのような不安に襲われるユーザーもいたという.まるでマウスに生命が宿っているかのような生々しいリアリティを伝える恐るべき作品「断末魔ウス」.このサディスティックかつ強制的な拡張映像体験によって,ユーザーは普段何気なく使っているマウス(物質)と,デスクトップ上のカーソル(データ)の不可分性を再認識させられることになる.(p.76)
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カーソルとは差異を作り出す差異なのである.
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普段カーソルに感じているような「身体の拡張」であったり「分身」であったりということが無意味になる.それらが無意味になった後でも,コミュニケーションが成立することを示している.
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「スケッチパッド」を開発したアイヴァン・サザーランドは.プログラムでカーソルのXY座標と入力装置との組み合わせを工夫することで「カーソルがあなたがしたいことを「理解」しているようかのようにする」ことができるとしている.カーソルは映像だが,それはプログラム次第でユーザのことを「理解」しているかのような動きをする存在なのである.しかしその動きは煎じ詰めれば単なるXY座標にすぎない.サザーランドはXY座標をうまく入力装置と結びつけることで,カーソルにヒトの心のような部分が生じているとユーザに思わせることが可能だとコンピュータの初期の段階から考えていたのである.カーソルは実際は単にXY座標を示しているにすぎないが,それを動かし,その動きを見るヒトが,そこに自分が理解されていると思ってしまうこと.これはとても興味深いことである.カーソルはヒトとコンピュータとのあいだにコミュニケーションを成立させてしまう存在なのである.
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《断末魔ウス》でディスプレイだけではなく,その周辺も含めて見てみる.そこには恐らく壊されることがないマウスがあるであろう.カーソルは動くが,マウスは動かない.カーソルが動くように,自分の机の上のマウスが動いたらどう思うだろうか.マウスを動かさなくても,カーソルが動く.しかし,カーソルが動いても,マウスは動かない.ここにはモノとしてのマウスと映像もしくは位置情報としてのカーソルのあいだの非対称性がある.
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カーソルは,写真や映画のような「かつてそこにあった」タイプの映像ではない.では,ライブ映像のように今起こっていることを映し出しているような映像だろうか.確かに,カーソルは,今の状況を映し出しているので,ライブ映像と言える.しかし,《断末魔ウス》は「かつてそこで起った」破壊行為を記録した映像である.カーソルの動きもその過去の破壊行為とともに記録されている.ということは,カーソルは,ライブ映像なのではないだろうか.

映像はかつてあったものやいまあるものを写し取ったものである.それは同じ現実世界を写し取ったものである.PC環境は現実とは異なる世界を生成する環境である.PC環境は映像を映し出すことができる.現実世界の写し取った映像が仮想空間に置かれる.仮想空間自体も映像であるために,映像が二重化する.二重化した映像は平面で展開されているので,すべてが見渡せるように感じられるが,そこでは映像同士の重なりなどで今までのようにすべてを見ることができない.見通しの悪い世界なのだ.そこにカーソルが現れ,二重化した映像を跨ぎながら次々に切り替えていく.

カーソルは映像であり,同時に位置情報でもある.位置情報は過去に記録されたもので,鑑賞者が見ている「↑」のかたちは,今ここでコンピュータによって生成されている.過去に記録された位置情報が,現在コンピュータが生成している環境で再生される.そのときのカーソルは,過去に記録された動きをただ忠実に反復しているが,「今ここ」の存在である.決して,過去の存在ではない.過去に記録された映像と重ね合わされているので,過去に引きずられる力が強いが,カーソルは現在の「ここ」で生成されている映像なのだ.カーソルがある位置が他のイメージの位置に重なるとそこでひとつの出来事が起こる.カーソルは記録映像の一部でありながら,位置情報でもあることで今ここで出来事を起こすこともある.そして,映像のマウスが破壊されると,カーソルはすぐさま手元にあるマウスと接続されて画面上を動き回るようになる.
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《祈》ではマウスを重ね合わされるカーソルはどちらのマウスの分身なのであろうか.見た目にはわからない.《断末魔ウス》では,カーソルはマウスの分身である.
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カーソルという「↑」がヒトの感情をコントロールする.それは言い過ぎかもしれないが,ある感情を想起するトリガーになっている.
《祈》では,コンピュータの「意思」みたいなものがカーソルによって表象されているように鑑賞者は解釈してしまう.コンピュータに「意思」などないとしても,カクカクと動きながら延々とループするカーソルに対して何かしら意味を付与してしまう.
《祈》では「それがかつてあった」という意味での映像からの解放が起こっている.それはデータからその場で生成されている.どこかにあるGoogleのサーバーから送られてきたデータと,2つの重ね合わされたマウスから生じるデータから,その場で生成されているディスプレイ上の映像.
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今日の朝,Twitter をチェックしていたら上のツイートが気になった.私の場合はすぐにマウスとカーソルのことに結びつけて考えてしまうのだけれど,だから,両腕が使えなくなったらどうなるどうかと.マウスは勿論使えない,タッチ型のインターフェイスも使いようがない.手が使えなくなったらディスプレイ上のどこかを直接指さすことはできなくなる.だから,音声認識を使って,ディスプレイ上のイメージにつけられたラベル名を言って選択するようになると思う.
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《gotexist.com》では,逆にカーソルが消えることでループが成立する.カーソルがなくなって何ができなくなるのか.それは指さすこと.指さすことができなくなる以上に,画面上に「上下左右」がなくなる.カーソルが画面上からなくなることによってヒトの行為が変わる.ヒトの行為の差異を作り出す画面上の差異がカーソル.
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そのとき,カーソルはどうなるだろうか.意外と活躍するのではないだろうかと思った.カーソルが画面上にあれば,それを「右」,「もっと左」,「上」,「もうちょい下」とか言いながら操作できるはずである.ディスプレイ上のイメージを相対的な指示で選択することが可能になる.というか,今もそうである.常に画面に映し出されているカーソルは,ディスプレイの中の基準点になっているのである.でも,手が使えているときは,直接指さしている感覚があるから,そのことに気づきにくい.

手との繋がりを失ってもカーソルは機能する.そんなカーソルは,つるっとしたコンピュータの論理世界に落とされた「ヒトの染み」みたい存在なのではないだろうか.もちろん,タッチ型のように,カーソルはなくてもかわない.でもあることで,コンピュータの作り出す空間の中に,何かしらのものが置かれることになる.そこを基準に「上下左右」が生まれる.「X=1024,Y=546」のような場所の指定ではなくて,「もうちょい左」とか言えるようになる.それが「↑」の形をしていたら,「↑」の方へとかも言えちゃったりする.この「向き」は必要かどうかは分からないけれど,今のカーソルが「↑」になっていることからも,ヒトが空間を把握するときに「上下左右」だけでなく「向き」も大切なのかもしれない.そして「↑」はそれを端的に示した記号なのかもしれない.
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「↑」はイメージでありながら,イメージであることを拒む抽象と考えてみる.「↑をこのように組み合わせることができる」を示すことで,カーソルと向き合う私たちの思考の在り方を作り出しているのではないか.そして,その思考は《ゴットは,存在する.》とつながる.消滅も含めた「↑」の組み合わせで作り出される「ゴット」.
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エキソニモは「カーソルをこのように組み合わせることができる」を示すことで,カーソルと向き合う私たちの思考の在り方を作り出しているのではないか.カーソルの「ループ」と「消失」で作り出される「ゴット」.ここではヒトとの関係が断たれたカーソルが作り出されている.何かの分身であり続けたカーソルが,ここではカーソル自身のある/なしの「あいだ」を2つの作品のあいだで行き来する.「ループ」するカーソルと「消失」するカーソルの「あいだ」.
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デスクトップとその向こう側の空間
モノとしての矢印を撮影→ディスプレイ上の映像としてのカーソル→モノとしてのカーソルを探すヒト

データとしてのヒトは,インターフェイスによってその表示の仕方をいく通りにも変えることができるようになる.「〜として」の連鎖がおこる.データとしてのヒト,カーソルとしてのデータ,手としてのカーソル.「〜として」として表示されることが,ヒトとしてあり続けるよりも重要なのだ.プログラムが変化すれば,カーソルのあり方が変わる.カーソルのあり方が変われば,ヒトのあり方も変わる.
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エキソニモの展示もう一回見たいな.カーソルというドアで様々な空間的要素がリンクする.ディスプレイという環境下では,あらゆる環境はねじ曲がり,等価に扱われる.誰でもそのねじれがわかるし,主観と客観をジャンプできる.この経験自体が,世界を別の視点で認知するきっかけになっている.
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マウスはヒトの行為に密接に関わっていると同時に,コンピュータにも密接に関わっている.だから,こちらの行為は正常なのに,カーソルの動きがカクるとコンピュータの調子が悪いのではないかと不安になる.カーソルは現実と仮想との結び目であると同時に,プログラムを少し変えることで裂け目ともなるスイッチなのだ.
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エキソニモは現実と仮想をズラし続ける.現実の中に仮想があって,その仮想のなかに現実が生まれ,新しく生まれた現実に再び仮想が生まれる.現実と仮想はそれぞれがそれぞれに対して切り貼りされ,次々と切り替えられていく.切り貼りが「コピペ」としてボタン一つで簡単にできるようになったように,現実と仮想は次々に切り貼りされていく.エキソニモは現実と仮想との切り替えを行うときに,その切り替えのスイッチとしてカーソルを用いているのだ.
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「Web Designing」誌のエキソニモ特集号での《↑》の作品解説の一部である.解説文からも分かるように,《↑》ではカーソルが現実世界に設置されている.それがカメラで撮られることで,ディスプレイの中に入り込む.《↑》では,もともと仮想空間にあったカーソルが現実空間に設置されて,それが再びディスプレイの中に入れられる.ディスプレイに映っているのが今自分がいる作品空間仮想空間にあるものとして認識される.しかし,ディスプレイにパソコンを操作している自分を真上から撮った映像が映されると,今まで見てきたカーソルを含めた映像がすべてこの作品の現実空間のどこかを撮ったものなのではないかという疑念が生まれる.それでインスタレーションの中の歩いてみると,至るところに「カーソル」があることに気づく.「↑」の存在に気づいた瞬間にそこにある物理的な「カーソル」ととにも自分がディスプレイの中に,つまり仮想空間に入っていってしまったような感覚に襲われる.
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カーソルが画面上にあることで,いくつもの「あいだ」が生じる.カーソルは,その「あいだ」を行き来して,これでもあり,あれでもある存在になる.どちらにもなれるが,どちらかでしかない.
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ところがほんとうの対比は,現実的なもの,可能的なものというひと組の次元と,移行という捉えがたい次元との対比なんですね.そこでこの関係にひとつの仮定をおいてみるわけです.現実的可能的という次元と移行という次元との位置をあたりまえの知覚と入れ替えて読んでみるわけです.アンフラマンスということを知覚するのは,このような入れ替えをしてみたときではないか,という気がするからなのです.アンフラマンスについての感受性は,このように逆にすると生じてきます.そんな見方をとると,このメモのなかで語られていることが,それなりにわかってくるように思います.ちょっと言いすぎかもしれませんが,仮定ですからよいとして,アンフラマンスの方が真の実在で,現実や可能的なものは,それを介して生じる次元なんだということになるわけです.(p.110)
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エキソニモは現実空間と仮想空間のあいだを移行し続ける.現実の中に仮想があって,その仮想のなかに現実が生まれ,新しく生まれた現実に再び仮想が生まれる.現実と仮想は次々と切り替えられていく.エキソニモはカーソルが「捉えがたい移行の次元」にあることを,私たちに教えてくれる.現実と仮想との切り替えを行うときに,その切り替えのスイッチとしてカーソルを用いているのだ.私たちはカーソルというスイッチで現実と仮想とを切り替えながら,この2つの空間のあいだを延々とループしていくのである.
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カフカの異質さは外部にある対象を指し示しているわけではないことにある.ある言葉を読んだとき,読者は事前に知っている物や事をそこに安易にあてはめてはいけない.Ungeziefer は「虫」ではなく,イメージされることを拒む抽象なのだ.カフカの小説の中では空間は,ただ言葉として直列的に並べられた一次元しかない時間の連なりであって,平面の中に一挙に(つまり.見取図や組織図のように)配置することができない.(p.197)

エキソニモの異質さは外部にある対象を指し示しているわけではないことにある.ある作品を体験したときに,体験者は事前に知っている物や事をそこに安易にあてはめてはいけない.「↑」は「カーソル」ではなく,イメージされることを拒む抽象なのだ.エキソニモの作品の中では空間は,ただ「↑」として直列的に並べられた一次元しかない時間の連なりであって,平面の中に一挙に(つまり.見取図や組織図のように)配置することができない.
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カフカの異質さは外部にある対象を指し示しているわけではないことにある.ある言葉を読んだとき,読者は事前に知っている物や事をそこに安易にあてはめてはいけない.Ungeziefer は「虫」ではなく,イメージされることを拒む抽象なのだ.カフカの小説の中では空間は,ただ言葉として直列的に並べられた一次元しかない時間の連なりであって,平面の中に一挙に(つまり.見取図や組織図のように)配置することができない.(p.197)

このテキストは作家の保坂和志がカフカの小説の「訳のわからなさ」を論じたものである.カフカの「訳のわからなさ」は,カーソルに通ずるものがある.エキソニモの作品の中で,カーソルは外部にある対象を指し示すという機能を削ぎ落とされる.
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映像であるカーソルを自分の手だと感じるということ.しかしこのことはあまり問題にされない.なぜなら,何か行為をするときに自分の手を普段意識しないように,カーソルも意識せずに扱えてしまっているからである.デザイナーの長谷川踏太もカーソルに関して「もうそこに自分の指先として存在しているので,気にしている人はあまりいないかもしれません」と指摘する.
どうしてカーソルを自分の手のように感じるのであろうか.GUIを視覚文化の中に位置づけて考察したジェイ・デイヴィッド ボルター, ダイアン・グロマラは,マウスによってカーソルを二次元的に自由に動かせることがCUIに慣れた人たちに驚きを与えたとしている.GUIではあたりまえのカーソルの自由な動きはCUIでは当たり前ではなかった.自分が動かしたいようにディスプレイ上のカーソルが自由に動くからこそ,ユーザの多くはこの映像を自分の指だと感じてしまう.
カーソルを自分の手の代わりや延長と考えることは,マーシャル・マクルーハンが指摘する「身体の拡張」に近いものであろう.しかしここでひとつ指摘して起きたいのは,カーソルはモノではなく映像だということだ.身体というモノがハンマーなどのモノによって物理的に拡張されているのではない.身体がマウスというモノを通して「↑」というイメージに拡張されることは,どんな意味を持つのであろうか.
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カーソルと「根拠なき分身」

カーソルを「根拠なき分身」と考えることは,カーソルがモノとイメージとに二重化した存在であることに根拠を与えてくれる.

この「↑」が常にモノとイメージへの「分岐の可能性を孕んだ存在」だと考えることができる.

しかし,「分身」ではカーソルがカーソルであることの説明ができない.役所広司が役所広司であることに説明はいらないが,カーソルがカーソルであることには説明がいる.

カーソルが「身体の拡張」であったり,「根拠なき分身」であったりで説明していることは,カーソルと身体,マウスとの関係から説明しているにすぎない.「根拠なき分身」は,カーソルがモノとイメージとのあいだで二重化していることを説明してくれるが,カーソル自体が持つ意味の説明はしてくれていない.
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カーソルは独自の法則に従っている.ベネディクトによれば,カーソルがサイバースペースにあるからだということが.独自の法則の理由になる.同じような指摘をデザイナーの永原康史はしている.
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私たちはカーソルという訳のわからない「↑」を「身体の拡張」や「分身」という言葉で説明しようしているが,マウスとカーソルとの間に物理的な因果関係がないのだ.カーソル自体は,サイバースペースにあり,物理法則も関係無いような訳のわからない映像なのだ.それでも私たちはカーソルを当然のように受け入れている.しかしそれでは,カーソルという物理法則に従わないことが当たり前の存在を,私たちが受け容れていることを何一つ説明していない.だから,私たちはカーソルを語るときに,身体やマウスといったモノとして確かにある既知の存在と関係づけてしまうのだ.
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私たちは存在の根拠が二重化して,曖昧になったカーソルを受け入れている.カーソルをマウスの「根拠なき分身」として認識し,その在り方を受け容れることは,マウスを操作するヒトの身体もまた「分岐の可能性を孕んだ存在」になることであり,それはモノとイメージに二重化されることを意味する.だから,カーソルというイメージを身体の拡張と感じてしまうのである.そして,カーソルはマウスだけでなく,ヒトの「分身」にもなる.カーソルは,私たちの身体を「モノでもあり,イメージでもある」ような曖昧な領域に導き入れる役割を果たしていた.さらに,そのカーソル自体が「モノでもあり,イメージでもある」という「分岐の可能性を孕んだ存在」,つまり「根拠なき分身」としてディスプレイ上に存在しているのだ.
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そして,映像のマウスが破壊されると,カーソルはすぐさま手元にあるマウスと接続されて画面上を動き回るようになる.
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私たちは現実世界と仮想世界の存在を自明ものだと思い始めている.そして,そこに明確な境界線を引こうとする.しかし,カーソルはその境界線を攪乱してしまう.これまで考察してきたように,カーソルは単なる映像,位置情報でありながら,私たちの身体の拡張であり,また分身でもあるからだ.カーソルの「↑」は,映像・位置情報からヒトの身体への,ヒトの身体から映像・位置情報への「移動の方向」を示しているのだ.そしてその移動の方向が受け入れられるほど,それは私たちの「知覚閾を超えた」状態で起こる.それゆえにカーソルが私たちにどんな効果を与えているのかに気がつかないのだ.
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「↑」が現実と仮想というふたつ世界の存在を受け入れさせ,そこに「あいだ」をつくるのだ.
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もうひとつの世界を感じること.デュシャンがもうひとつの世界を感じながら,アンフラマンスを考えたように.今,私たちは現実空間とは異なるもうひとつの世界として,仮想空間の存在を日々感じながら生活している.エキソニモは,現実空間と仮想空間とのあいだに境界線は引けないと考えている.このような環境の中での映像を考えるために,カーソルが必要なのだ.

もうひとつの世界との関係の中での映像の役割を考えるために,カーソルの考察は小さいながらも有効な視座を与えるものである.
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── では,この10年間にウェブはどのように変わってきたと感じていますか? ナローからブロードという意味でも,ウェブの世界は成熟してきているわけですが.
千房 やっぱり,昔はバーチャルなものだったけれど,今となってはもうバーチャルとは言えないじゃないかな,という気がする.もうほとんど生活に入ってきているし,携帯でも見られるし,バーチャルと呼んで線を引くこと自体が不可能になってきている.昔は本当に自分たち自身がバーチャルな世界にいたから,世間の人と距離感をものすごく感じていた.作品の説明をする前にまず,インターネットの説明をしないきゃいけない・・・・・・みたいに.(p.74)
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カーソルという「↑」から,もうひとつの世界を感じること.今,私たちは現実空間とは異なるもうひとつの世界として,仮想世界の存在を日々感じながら生活している.エキソニモは,現実空間と仮想空間とのあいだに境界線は引けないと考えている.もうひとつの世界との関係の中にある,カーソルを現実世界と仮想世界との「あいだ」を移行していく存在とする本考察は小さいながらも有効な視座を与えるものである.
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CUIほどコンピュータに直結していなく,タッチ型インターフェイスほど人間に寄り添っていない GUI は仮想と現実との関係を表す徴候が
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今,私たちは現実世界とは異なるもうひとつの世界として,仮想世界の存在を日々感じながら生活している.エキソニモは,現実世界と仮想世界とのあいだに境界線は引けないと考えている.AR(拡張現実感)などの新しい技術によってますます現実と仮想とが入り混じっていくであろう.そのような状況で映像はどのような役割を担うのか.現実世界と仮想世界との関係が新しい段階になりつつある今だからこそ,私たちはふたつの世界と映像との関わりを考えなければならないのだ.カーソルという映像と現実世界/仮想世界との関わりを論じた本考察は,現実と仮想とに跨がる映像が担う役割を論じたものとして有効性をもつのである.
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川崎は論考の最後で「交代」でも「並置」でもない,「根拠なき分身」という新たな存在の在り方を提唱する9.「根拠なき分身」では「ひとつの身体がそのまま二重化する10」.カーソルもまたディスプレイ上の映像でありながら,マウスというモノでもあると見なされている.このことから,カーソルを「根拠なき分身」だと考えてみたい.カーソルがカーソルでありながらマウスでもあること.カーソルはイメージ:カーソルとモノ:マウスとのあいだで存在が二重化したものになる.カーソルを「根拠なき分身」と見なすことで,モノとイメージとに二重化しているカーソルは,常に「分岐の可能性を孕んだ存在11」だと考えることができる.カーソルを「根拠なき分身」と考えることは,カーソルがモノとイメージとに二重化した存在であることに根拠を与えてくれるのだ.
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カーソルをマウスの「根拠なき分身」として認識し,その在り方を受け入れることは,マウスを操作する人間の身体もまた「分岐の可能性を孕んだ存在」になることである.それは,身体がモノとイメージに二重化されることを意味する.だから,カーソルというイメージを身体の拡張と感じてしまうのである.そして,カーソルはマウスだけでなく,人間の「分身」にもなる.カーソルは,私たちの身体を「モノでもあり,イメージでもある」ような曖昧な領域に導き入れる役割を果たしていた.さらに,そのカーソル自体が「モノでもあり,イメージでもある」という「分岐の可能性を孕んだ存在」,つまり「根拠なき分身」としてディスプレイ上に存在しているのだ.
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移行する次元であるカーソルが最前面に存在していることの意味を考える.それは,移行からすべてがはじまるということである.タッチ型インターフェイスには,この移行がない.そこには,仮想世界と現実世界との対比が起こらない.それゆえに,新しい体験を生み出す.タッチ型インターフェイスの経験については,稿を改めて論じたい.

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