出張報告書_20170128:Malformed Objectsと他者を理解するためのオカルト
28日は7時過ぎに自宅を出発し,新大阪を経由して品川に行き,そこか天王洲の倉庫街にあるギャラリー山本現代まで歩いて,「Malformed Objects − 無数の異なる身体のためのブリコラージュ」という展示を見た.「Malformed Objects」は,現代思想やインターネットの感覚を多様に取り込んだ考察や展覧会企画を行う上妻世海によってキュレーションされた展示である.ギャラリーに入ると,台の上に紙が置いてある.それは通常の作品解説ではなく,鑑賞者への指示書になっている.指示書の最初には,先程降りたエレベーターにもう一度乗るようにと書かれていた.私は面倒なので,その指示は無視した.指示は必ずしも従う必要はないと指示書に書かれていた.しかし,指示書に従わない場合は,「観察者」として扱われる.指示書に従った場合は「制作者」として扱われる.この指示書は,作品と鑑賞者の相互作用を「制作」と考えようとする上妻の考えを反映したものである.
指示書は特別なことが書いてあるわけではく,作品を見る順番とその見方が簡潔に書かれている.私は普段,解説を読みながら作品を見ないので,テキストを読みながら作品を見るという行為自体が煩わしくも,新鮮であった.けれど,一番の驚きは,指示書に従って最後まで見たあとに,指示書に「以降電子機器を開くことが出来る」と書かれていたことである.電子機器についての記述はそれまでひとつもなかったので,私はiPhoneで写真を撮りまくっていたのである.電子機器の使用までは指示されていないだろうと勝手に思っていたのである.鑑賞のはじめに,ギャラリーのスタッフに「写真とってもいいですか?」と聞き,「いいですよ」と返事をもらっていたので,まさか電子機器についての指示があるとは思わなかったのである.それほど,電子機器は私という身体から離すことができないもので,許可されているならばiPhoneで写真を撮るというのは「見る」という鑑賞行為の一部になっていたことに,上妻の指示から気づいたのである.
作品で興味深かったのは,池田剛介の《Translated Painting》シリーズと,永田康祐の《Function Composition》である.池田の作品は,デジタルフォトフレームの表面に透明の樹脂を施し,ディスプレイの上に水滴がついているような状態を作り出していた.ディスプレイは白く光るだけであるが,水滴が光をRGBの三原色に分解して見せていて,鑑賞者の動きに応じて見え方が変わっていく.モノと自然現象との重ね合わせに,鑑賞者の感覚が重ねられる心地よい体験であった.永田の作品は,平面の合成画像と言えるものであった.平面の上に平面が合成され,その結果として,平面と平面とのあいだの時間の流れ,空間の流れ,モノの生成と消滅といったものが表わされているようであった.両者の作品は,引き続き考えてみたいものである.
その後,初台のNTTインターコミュニケーション・センター [ICC]に移動し,特別対談:藤幡正樹×千房けん輔(エキソニモ)「アートと社会とメディア」を聞いた.世代は異なるが,メディアアートの黎明期から活躍してきた藤幡とエキソニモの千房のトークは,メディアのこれまでとこれからを考える上で,多くの示唆があった.トークの流れは西洋のアートと日本のアートとの接点,コンテンポラリーアートとメディアアートとの関係がメインに扱われた.
しかし,私が興味深かったのは話のメインではなく,千房が90年代のメディアアートはオカルトぽい感じがしたという指摘である.コンピュータやインターネットがどんなものかわからなかったときに,訳がわからないものへの恐怖からオカルトが要素として作品に入ったのではないだろうかと千房は言っていた.これ自体も興味深い指摘であったが,千房はその前に,2009年に制作されたネットやマウスなどのインターフェイスを用いた連作「ゴットは、存在する。」について,インターネットがポケットに入ってあとでは,他者がブラックボックスになっているとして,他者を理解するためにオカルトが必要だったと言っていたことである.コンピュータやインターネットが当たり前になった今では,ヒトの方がブラックボックスになっているという指摘は,エキソニモの作品,そして,現在のメディアアートと呼ばれうる作品を理解する上で重要な点だと考えられる.
トークを聞いた後は,すぐに新幹線で神戸に帰った.
指示書は特別なことが書いてあるわけではく,作品を見る順番とその見方が簡潔に書かれている.私は普段,解説を読みながら作品を見ないので,テキストを読みながら作品を見るという行為自体が煩わしくも,新鮮であった.けれど,一番の驚きは,指示書に従って最後まで見たあとに,指示書に「以降電子機器を開くことが出来る」と書かれていたことである.電子機器についての記述はそれまでひとつもなかったので,私はiPhoneで写真を撮りまくっていたのである.電子機器の使用までは指示されていないだろうと勝手に思っていたのである.鑑賞のはじめに,ギャラリーのスタッフに「写真とってもいいですか?」と聞き,「いいですよ」と返事をもらっていたので,まさか電子機器についての指示があるとは思わなかったのである.それほど,電子機器は私という身体から離すことができないもので,許可されているならばiPhoneで写真を撮るというのは「見る」という鑑賞行為の一部になっていたことに,上妻の指示から気づいたのである.
池田剛介《Translated Painting》シリーズ |
永田康祐《Function Composition》 |
その後,初台のNTTインターコミュニケーション・センター [ICC]に移動し,特別対談:藤幡正樹×千房けん輔(エキソニモ)「アートと社会とメディア」を聞いた.世代は異なるが,メディアアートの黎明期から活躍してきた藤幡とエキソニモの千房のトークは,メディアのこれまでとこれからを考える上で,多くの示唆があった.トークの流れは西洋のアートと日本のアートとの接点,コンテンポラリーアートとメディアアートとの関係がメインに扱われた.
しかし,私が興味深かったのは話のメインではなく,千房が90年代のメディアアートはオカルトぽい感じがしたという指摘である.コンピュータやインターネットがどんなものかわからなかったときに,訳がわからないものへの恐怖からオカルトが要素として作品に入ったのではないだろうかと千房は言っていた.これ自体も興味深い指摘であったが,千房はその前に,2009年に制作されたネットやマウスなどのインターフェイスを用いた連作「ゴットは、存在する。」について,インターネットがポケットに入ってあとでは,他者がブラックボックスになっているとして,他者を理解するためにオカルトが必要だったと言っていたことである.コンピュータやインターネットが当たり前になった今では,ヒトの方がブラックボックスになっているという指摘は,エキソニモの作品,そして,現在のメディアアートと呼ばれうる作品を理解する上で重要な点だと考えられる.
トークを聞いた後は,すぐに新幹線で神戸に帰った.