2つのメモ:「セミトラ=ディアファネース」となるのでしょうか
少し前に「田中一光→セミトランスペアレント・デザイン」を書きました,今回はその続きを考えるためのメモ.
上のテキストを書いた後に,展覧会「田中一光とデザインの前後左右」のカタログを読みました.そこに中沢新一さんの「田中一光の妖怪」というエッセイが載っていました.その中の一文.
妖怪的構造をした美の現象は,永住をめざさない.妖怪は神ではないから,「無」と「有」のあいだを往復しながら,つかの間の生命を享受することを好む.(p.67)
もうひとつ.
私たちは琳派の描く自然の中に,具体と抽象の間を行くような,形態となる以前の自然という理念的なものの表現を見出すことになる.(p.67)
中沢さんのこのようなテキストの直後に「継ぐものたち」のセクションが置かれ,三宅一生+Reality Lab. とセミトラが紹介されています.ここに編集の意図を感じてしまいました.とても簡単につなげてしまうと,三宅一生+Reality Lab.は「2次元と3次元とのあいだ」を,セミトラは「ネットと現実とのあいだ」を行き来しているということになるのでしょうか.
セミトラの作品における「妖怪的構造をした美の現象」や「形態となる以前の自然という理念的なものの表現」を考えてみることはとてもおもしろいかもしれないです.
あともうひとつメモ.
「セミトランスペアレント=半透明」ということで,以前読んだ岡田温司さんの『半透明の美学』を再読.岡田さんは「半透明の美学」は「プロセス/移行の美学」と書いています.岡田さんは,アリストテレスの「ディアファネース」という概念を「透明性のさまざまな度合い」と捉えてあれこれ考察して,「視覚のうちに「分解」や「変化」をもたらすことこそが「ディアファネース」の積極的な働きなのである」(p.63)と書きます.
田中一光さんがつくり出した「形態となる以前の自然という理念的なものの表現」を,「半透明」の意味を示すセミトラがデジタルを介して「分解」し「変化」させていくこと.「セミトラ=ディアファネース」となるのでしょうか.