お仕事:メディア芸術カレントコンテンツへの記事_5
記事を書きました→スクリーンショットと「死」:Feréstecの2つのオンライン展
http://www.sametitled.org/ferestecforst/ |
1980年にバロセロナに生まれ、現在はマドリッドを拠点とするフェラン・プラ(Ferran Pla)さんによるひとりアートユニットFeréstecの2つのオンライン展についてです.プラさんも「ポスト・インターネット」の範疇に入るだろうかと思いつつ,新津保建秀さんの『\風景』以来気になっている「スクリーンショット」についての考察をしてみました.
FeréstecのTumblrを見ていると,プラさん,今,日本に来ているみたいです.
新津保さんの写真集や,ラファエル・ローゼンダールさんのブラウザを用いた「動的なコンポジション」とも絡めてテキストを書きたかったのですが,文字数と私の思考がたりませんでした.改めて考えたい.
以下,ボツテキストから.
ここで考えたいのは「スクリーンショット」という機能である.Feréstecは画面のスクリーンショットをとることで作品をつくる.それは完成した絵画などを記録したものなのだろうか.それとも,スクリーンショットで「撮る」という行為自体が作品なのだろうか.ネットアートが作品を記録するために用いていたスクリーンショットというフレームを,Feréstecは自らの作品を成立させるフレームとして用いている.ラファエロ・ローゼンダールはウィンドウを用いたコンポジションは,常に動き続けるものだと指摘した.スクリーンショットはデスクトップ上のウィンドウを「静物画」にする.ウィンドウというフレームでありながら可変的であった枠をスクリーンショットは不動のものに変える.つまり,スクリーンショットはウィンドに「死」を与える.しかし,スクリーンショットで撮られて画像は,再び動的なウィンドウに表示され「生」のなかに放り込まれ,動的な構成の要素となる.しかし,それは再びスクリーンショットで撮影される.どこまでも続く繰り返しを終えるのもスクリーンショットであれば,それはあらたな繰り返しのはじまりでもある.
写真家の新津保建秀も「スクリーンショット」で撮影した画像を写真集『\風景』に組み込んだ.タイトルにある「\(バックスラッシュ)」とは「意味を無効化する」という働きをもつので,「\風景」といは「風景を無効化する」ということになる.撮影した画像をデスクトップ上で開き,そのウィンドウを含めたスクリーンショットをとるという新津保が『\風景』で行なっているプロセスは,Feréstecの作品制作と同じである.新津保とFeréstecはそのプロセスにそれぞれ「風景の無効化」と「そこにある死」という言葉を与える.一度リセットした後にさらに続いていくプロセス.スクリーンショットによって画像とそれと結びついた機能が無効化されて,「ただの」画像になって,あらたなウィンドウに収められる.あらたなウィンドウの上の枠にある画像は機能するが,ウィンドウないのスクリーンショットで撮影されたウィンドウの上の枠の画像は機能しない.そこにはあるのは機能しない「死んだ」画像である.