tumblrmemo900-999
memo900
モノとイメージとを一元的に扱うための平面,あるいは支持体として記号的なデータが存在する.そしてそれらは,表裏一体の存在になっている.それがもっともはやい段階でかたちとなったのがディスプレイである.モノと画像という二項対立を支えるソースコード/データという構造.データは表裏一体を形成する平面を透過してモノと画像とソースコードとのあいだを行き来する.モノとイメージとがソースコード/データという平面と表裏一体の存在になった.モノ|イメージ=光とソースコード/データとがひとつになったかたちとしてスマートフォンがあり,それを手にもつヒトがいる.
清水さんの『実在への殺到』を読んでいたときにでてきた「経験一元論」と「記号一元論」とその先のアニミズム的世界.このことをいち早く見せていたのが,コンピュータと接続したディスプレイだと考えられる.そして,今,ディスプレイはコンピュータが解放され,「経験一元論」と「記号一元論」とが表裏一体に重なり合う理念的な場になりつつある.モノとしてのディスプレイが理念的なディスプレイ場へとスライドして,ソースコードはあらゆる記号的存在に書き換えが可能であることが示されつつある.
ディスプレイにおいて,モノとイメージとの二項対立がソースコード/データによって操作可能になる.そして,モノであるディスプレイ自体に「霊=データ」が宿るようなアニミズム的状況が生まれる.この状況はディスプレイにとどまることなく,他のモノにも波及していく.そこで生じるのがディスプレイ場というモノとイメージとを一元的に扱える場なのである.ディスプレイでイメージを自由に扱うように,モノが操作されていく.世界のディスプレイ化といえるかもしれない.
モノとイメージ,そして,それらを照らす光は物理空間に遍在している.あとは,これらにちょっとした変化をあたえると,モノの変化が光を変化させ,イメージを変化させて,さらに,モノを変化させて… という循環的な連鎖反応が物理空間に起こる.そのなかでディスプレイはソースコード/データと一体化した存在として特別なものでなくなり,あらゆるものがソースコード/データと表裏一体の存在となっていき,世界のモノとイメージとそれを包む光の関係を変えていく.
memo901
紀要論文は新視覚芸術研究会の発表をテキスト化しようと思い始めている.永田さんの作品に加えて,Joe Hamiltonの作品も扱えたらいい.両眼,小鷹さんが言っていたふたつのシステムからの情報をひとつにまとめる時に起こる,情報の直列化というか,どうしても齟齬がでることがふたつの平面の切り替えにあらわれるということを考えるといいかもしれない.両眼,もしくは,視覚と触覚.このように考えていくと,クレーリーの『観察者の系譜』にしっかりと取り組む必要もある.視覚と触覚ではなくて,見ることと操作なんだと思う.操作すること,ふたつの平面の動きのちがいからできる視差効果.
memo902
あたらしいMacBook Proになった.キーボードのペタペタの感じはもう慣れたというか,かなり好きかもしれない.Touch Bar は使い方がわからない.キーボードは慣れたと書いたけれど,打っているときの音にはまだなれない.なんかポコポコとした音が気持ちいい気もするする反面,ちょっと耳障りな感じもある.ちょっと音を小さくしたいと思って,あまり力を入れないで打つということになるのかもしれない.
memo903
「アナログ/デジタル」で考えるのではなく,「アナログ/unknown/デジタル」で考えるというのは,誰かが言っていたけれど,「アナログ/穴(形相体・非質量体)/デジタル」で考えるのはどうだろうか.モノから一足飛びにデータにいくのではなく,「穴」のような形相体・非質量体を経由すると考えてみる.「穴」がふたつの平面の接着剤として機能する.「ひとつの平面にあいた穴からその先の平面が見える」ということを考えてみたい.
そこから,再び,ベイトソンの本を読む必要があるかもしれない.ベイトソンの「スイッチ」は「穴」の開閉だと考えられる.形相体/非質量体に質量をあたえるものとしてのスイッチ.「穴」はその先が見えるということで,穴自体がスイッチなのかもしれない.切り替えがないスイッチ.だとすれば,単に穴といえばいい.平面に空いた穴.平面,そして,空間の至る所に穴が空いて,平面の先を見せて,手前と奥とをつくる.穴によって,手前と奥とができあがり,ふたつの平面の重なり,それらがヒトの2つ眼を通して,交差して,そこに透き間が生まれる.透き間にあらたな空間が挿入される.デュシャンのいう「アンフラマンス」が生まれるのかもしれない.
memo904
XYグリッドという水平のルールに「重なり」という垂直のルールをつくる.しかも,この重なりは最前面という特権的な平面以外はすべて等価である.見た目にはヒエラルキー=重なり順はあるけれど,クリックひとつで最前面に来れるという点ではすべての平面は等価である.
透き間が生じるけれど,それはAからBに行く経路の空間ではない.AとBのあいだには空間はない.すべてが一瞬で最前面に来れる.ここにはヒトが歩くことができる空間はない.経路はない.単に透き間があり,重なりが表現されているだけにすぎない.AとBがもつ情報は身体の移動を伴うことなく,一瞬で入れ替わる.複数の平面は切り替え可能なスイッチとともに現れる.平面はスイッチであり,平面は奥にあるときは穴のように存在しない.見えているけれども,存在しない.少なくとも情報の一部は存在しない.情報は手前の平面の裏に隠れているのではなく,穴のようにあるのだけれど,ないじょうたいになっている.それは,情報を表示する記号的なソースコード/データのように非質量的な存在となっている.そこには質量が折り重ねられていない.最前面の平面にのみ質量が折り重ねられる.複数の平面を回路だと考えると最前面の平面のみが導線の両端が接続した状態であり,そこにあった「穴」が塞がれているのである.
memo905
『マルセル・デュシャンとチェス』を読んでいる.とても興味深い言葉が次々に出てくる.重ね合わせはもちろんのこと,「蝶番」が興味深い.「蝶番」で折り返す.しかも,次元を折り返して,重ねてしまう.今のことを考えるのに,デュシャンに戻るのは嫌だなと考えていたけれど,中尾さんの本を読むと,アートとチェス,絵画空間とゲーム空間とを重ねてしまうことで,現在の物理空間と仮想空間とを重ねわせるヒントが多くあることに気づく.「4次元」に強く関心をもったデュシャンだからこそ,次元の折り重なりという言葉を使った私は,中尾さん経由でデュシャンを考える必要があるのかもしれない.
memo906
『マルセル・デュシャンとチェス』を読み終える.そして,写経も終える.興味深い単語が多く出てきて,良かったということは,前のmemoに書いた.今日は写経しているときに,やっとMacBook Proのペタペタのキーボードに慣れた気がした.キーボードを打つという感じではなくて,キーボードの上を滑るように指を動かすといい感じがする.打鍵音も小さくなるし,疲れも少ないようなきがする.でも,この打ち方にはまだ慣れないので肩とかに余計な力が入っている感じがする.肩こりになったらどうしよう.
memo907
紀要論文の案だけは9月中に少し書いておきたい.永田康祐とJoe Hamiltonを取り上げつつ,前回の新視覚で発表したふたつ眼の透視仮説をつなげたい.クレーリーも読んだけど,使えるのどうかはわからない.今夜配信されるらしい,ゲンロンβの東さんの論考が楽しみ.ふたつの眼でふたつの層を透かし見るということをインターフェイス的観点から考えてみることが重要.ここに「穴」をもってきたい.Joe Hamiltonの《Indirect Flight》に見られる効果的な穴の使い方はきっと考えるべきことが多い.操作を前提とした,つまり動かされることを前提にした穴と穴が依存する平面との関係を考えてみたい.
memo908
二つの平面が重なっている.二つではなくても複数の平面が重なっている.重なり合う二つの平面を操作するなかで,多くの情報を得ていく.身体を中心に二つの平面を動かす.窓の奥に三次元空間があるのではなく,窓の奥に見えるものも二次元平面だと考える.平面と平面とを重ね,ズラしながら,そこに「透き間」を見ていく.透き間は三次元空間のように見えるが,それは二枚の平面の間に生じる錯覚のようなものでしかない.錯覚というか,「そのように見えてしまうもの」と考えた方がいいかもしれない.仕組みがわかっていても,そのように認識してしまう.そのような平面の重なりが「デスクトップ」とともに生まれたのではないだろうか,と考えてみたい.三次元空間を絶対とするのではなく,平面の重なりを基本として考えてみること.
memo909
クレーリーの『観察者の系譜』の抜書を読み返す.現在の私の関心からすると,ステレオスコープの両眼の記述が興味深い.複数の層を見透す透視仮説とステレオスコープの両眼がつくりだす「空間」のちがいを考えたい.クレーリーが「真空めいた空間」とよぶステレオスコープの中景と二つの平面の重なりとズレとを見透すことができる「透き間」との関係.真空めいた空間も透き間もともに遠近法的ではない空間となる.遠近法的に統一されない空間として二つの空間がある.真空めいた空間よりも透き間はコントロールされている.真空めいた空間をつくりだす両眼の差異が縫合されてているのが「透き間」なのかもしれないと思ったりしている.コンピュータという別の論理によってヒトの両眼に与えられる平面の情報が縫合されている.しかし,透き間の存在自体が裂け目であることも確かな気がする.ステレオスコープの真空めいた空間と透視仮説のもとでの複数の平面の重なりがつくる透き間はとも裂け目に生じている.認知的にコントロールされた裂け目とコンピュータにコントロールされた裂け目.ステレオスコープがつくる見る空間にいながらにして,もうひとつ別の裂け目を見るようになり,操作しているのがコンピュータのインターフェイスなのかもしれない.
memo910
日本語入力をMacのライブ変換にしてみた.いまのところ,全く慣れていない.どのような変換のルールなのかもわからない.漢字とひらがなの部分の部分が自分のフィーリングと会ってない感じがあるから,この辺りが使い続けるかどうかの境目になるかもしれない.
勢いでバーっと書いてしまう下書きの時は,ライブ変換はいいかもしれない.スペースキーを全く押さなくていいので,どんどん書ける.バーっと書いてから,あとで修正していけばいいのかもしれない.書く行為をコンピュータに合わせるような感じがして,嫌ではない.けど,やはり慣れない.1ヶ月くらい使った時に,自分がどんな感覚になっているのかは興味がある.けど,書くことにストレスが多いとダメだから,1ヶ月も使えないかもしれない.
memo911
ライブ変換にも慣れてきた.スペースキーを押さないことに慣れてきた.英語と日本語との切り替えもcaps lockにしてみた.これまでどれだけスペースキーを押してきたのだろう.今も押すけれど,明らかに回数は減っている.入力のスピードが上がったかどうかはまだわからないけれど,たった2日くらいで新しい入力方法に慣れるものなんだなと思うと,興味深い.
ライブ変換に慣れてきたら,次はテキストをしっかりと書きたい.紀要論文を書かないといけないけど,いろいろと忙しくて,全然書けていない.
透き間に押し込まれた3次元空間.平面と平面とのあいだに押し込まれた3次元空間.3次元空間が絶対としてあるのではなく,2つの平面との関係のなかでのみ3次元空間が生じると考えると面白いのではないかと考えている.そのためには,まずベイトソンの精神と自然に出てきた,二つのシステムがひとつに合流するときの図についてのテキストを読む必要がある.
memo912
永田さんの《Function Composition》の新作にGUIの要素が入ってきていて,興味深かった.GUIの要素がディスプレイは引き離されて,物理空間に入り込んでくる.それを写真で撮影する.GUIの二次元性が写真の二次元平面で表現される.三次元空間の重なりとGUIの二次元平面での重なりとが同じ写真平面のなかに置かれる.三次元空間の置かれた紙がつくる影とGUIの要素がつくる影は質感が異なる.いや,影だけは次元を超えることができない.影は帰属先を明確に示す.GUIの要素の影は三次元空間には投影されない.けれど,GUIは三次元空間のなかにあり,モノの重なりのなかにある.絶対的な平面のさきに三次元空間が現れる.けれど,それもまた写真平面の上にある.スクリーンショットされた画面は「穴」のように非質量的存在であり,形相的存在なのかもしれない.形相的でありながら,モノとしてこねくり回されている感じがある.二次元と三次元,モノとデータといったような二項対立では捉えることができない質感がある.見ることと記述することの解像度を上げる必要がある.癒着と乖離,透き間,穴といった言葉を手掛かりに考えていければいいなと考えている.《Function Composition》にはディスプレは出てこないけれど,ディスプレイが投げかけている問題意識がより鮮明に出ている感じがしている.ベゼルというモノを失ったディスプレイの状態が示されているのかもしれない.
memo913
風邪をひいてしまい作業があまり進んでいない.そんな中でグレアム・ハーマンの『四方対象』を読み終えた.まだ読み終えただけで,何も書くことはないけれど,面白かった.これから写経して行きたい.頭が働いていない.もう寝ないといけない.
できるだけ早くグレゴリー・ベイトソンの本を読み返したいと思いつつも,なかなか読めないまま,あたらしい仕事が舞い込んできた.その仕事のためにはレム・コールハースの『錯乱のニューヨーク』を読んだ方がいい気がしている.XYグリッドに垂直性を与えたものとしてマンハッタンを考えて,それを再びディスプレイのXYグリッドに落とし込んで考えるう.水平的なXYグリッドの垂直性と垂直性を圧縮した平面としてのディスプレイのXYグリッドという流れで考えると,永田さんの作品も別の視点から考えることができるのではないかと思っている.
また,谷口さんの《何も起きない》も考えたい.保坂和志の小説との関係やラファエル・ローゼンダールの何も起きないスクロールされ続ける都市の作品との比較などを通して,谷口さんの作品を考えてみたい.
何も起きないということで,ライブ変換もまたスペースキーを押して変換を確定しないという何も起きないことから文章が出来上がっていくということも興味深い考察対象かもしれないと思っている.
memo914
ベイトソンのテキストを読むと,両眼で見ることでうまれるのは「奥行き」と呼ばれていた.しかし,気になるのは,「奥行き」以前にふたつの眼で見て,そこでは見比べるということが起きていると指摘している点である.「奥行き」以前にふたつの視界が見比べられている.ふたつの視界の重なりの部分が透視されたり,奥行きをつくる.そして,透視と奥行きというふたつの見方で見比べることによって,もうひとつの重なりがうまれて,別の見え方が生じるのだろう.それがデスクトップだと言うことができるれば興味深いものが書ける気がする.
透視と立体視とを別々に考えるのではなく,このふたつもふたつの眼の重なりうまれるものとして,重ね合わせて考えてみる.ただここで考える必要があるのは,立体視が絶対ではない.つまり,三次元空間が絶対ではないことを前提に考えること.デスクトップを基準面として考える.複数の基準が入り交じる平面であるデスクトップを基準面として考え,そこに透視と立体視とが入り交じり,交錯しているのが,現在の平面の状況であり,永田さんやJoe Hamiltonの作品なのではないかと考えてみたい.
memo915
紀要論文を書き進めている.意外と順調な感じではあるけれど,書き直しの時間があまり確保できないので,これからどうなるかという感じです.今回から,ライブ変換とiPad+Apple Pencilを使って執筆と修正をしている.ライブ変換は使い込んで,馴染んでくるとスペースキーを押さなくてもどんどん変換されるので楽です.キーボードを長く打っていても疲れがない感じがあります.でも,やはり勝手に変換されてしまうところがあるので,そこが気持ち悪くもあります.
iPadとApple Pencilは今のところ思った以上にいいです.Dropbox Paperで書いて,PDFでiBookに送って,修正するのですが,赤が入れやすい.ペンの色を変えられるから,どんどん書き込める.一つのペンで蛍光ペンにもサインペンにもなるという感じが,なんともいい感じです.当たり前ですが,iPad自体が硬いので,わりどとこでも修正作業ができそうなところもいいところだと思います.時間がないなかで,紙に印刷する時間がいらないというところもいいです.そんな感じで,紀要論文を書いています.
memo916
モデルがなくなり,スキンが剥ぎ取られている.スキンだけの世界がペラペラと存在している.ネガティブに考えるのではなく,この状況をポジティブに考える.アートという領域であれば,ペラペラのスキンをポジティブに考えられるのではないか.世界はスキンになって,ペラペラになって表と裏とがまさに表裏一体になっているから,ニュースもフェイクニュースも単なるひとつの平面の両面になっている.モデル,構造にスキンが張り付いているときは,構造を探せば,フェイクかどうかはすぐにわかった.フェイクには構造がなかった.でも,今は全てに構造がない.構造があっても透けてしまう.透過してしまう.通り抜けてしまう.だとすれば,そこにはスキンしかない.スキンだけの世界では何がフェイクかを考えるのは難しい.フェイクであっても,単なるスキンでもあっても,それは表裏一体の平面でしかない.だからこそ,平面を扱ってきたアートの領域で,スキンに構造とは異なるかたちでスキンにスキンを重ねるかたちで,スキンを肯定することができるのではないだろうか.
memo917
平面の前と後ろだけがある.そのあいだの空間はないものとする.でも,そこには隙間があるのだから,空間はある.空間を前提としないと,それは二つの平面のあいだでしかない.けれど,空間はあるとしてしまうのは,物理世界が三次元空間だからだあろう.表象世界で空間を前提にする必要はない.だとすれば,二つの平面の前後関係だけでの表象もあるはずである.その一つとしてデスクトップとウィンドウがあると考える.ここには最前面とそれ以外の面という二つの層がある.それ以外の面は複数の平面で構成されているが,どの面をクリックしても,重なり順に関係なく最前面にくるので,ここには最前面とそれ以外の面の二つの平面があり,そのあいだがあるといえる.そのあいだは見えはしない.しかし,重なっているのだから,そこに空間があると考える.しかし,そこに単眼によるパースペクティブではなく,二つ眼で世界を見ることを持ち込んだとしたらら,そこにはその眼から見て,手前に見えるか,奥に見えるかの順番だけが重要ではないかだろう.どこに行っても,手前にあるもの,奥になるものの平面の重なりで世界は見えている.それを極端に最前面とそれ以外の面にしたのが重なるウィンドウである.そして,デスクトップなウィンドウの基底の面としてその先がない平面として存在している.どこまでも重なる平面の基盤としてデスクトップは存在している.無限後退を止める平面としてデスクトップが存在している.二つの眼は手前と奥の二つの平面を見て,情報を摂取している.そして,その二つの面が二つ平面として存在できる基盤を提供する平面としてデスクトップがある.
memo918
永井均がマクタガートの時間のA系列とB系列を論じているのと同じ構造がデスクトップにもある.より前とより後の順番しかないB系列としてデスクトップと重なるウィンドウがある.そこには空間は前提とされていない.より前か後を示す順番だけがあり,デスクトップは始まりの平面となっている.重なりだけが生じている.厳密にいえば,重なりも生じていない.たんに,重なったように見える描写がされているに過ぎない.それは最前面とそれ以外の面とデスクトップという三つの平面の重なりであって,そのあいだに空間はない.しかし,そこに「未来⇒現在⇒過去」の変化と同等の「奥行き」という変化が入る.奥から手前へという変化のなかで,重なり順は空間のなかに置かれる.単なる平面の重なり順であったところに奥行きがお持ち込まれる.それは重なり順の番号ではなく,どの平面も「ココ」と扱えるようになる.実際のウィンドウの重なり順はクリックひとつで「ココ」と指定したものが,最前面にやってきて文字通りの「ココ」になり,コンピュータ的にはその平面がアクティブなモードになる.デスクトップだけは「ココ」になることはできない始まりの平面としあり続ける.
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マーク・チャンギージーはどの方向を向いても二つの層を見る能力を活かすために,写真やテレビ,ディスプレイといった不透明なものの前に障害物を加える提案をしている.「障害物があると,立体視ができなくなることが多いとはいえ,平らな表示は,そう,平面だからだ.平面のものは立体視する必要はない.立体視しても情報が増えるわけではないのだから」というのが,その理由である.そして,ディスプレイの前に「葉が幾重にも重なり合っている木」を置き,葉にメモを貼れば,何層にもなった情報を得ることができる「低木掲示板」が出来上がると,チャンギージーは述べている.
「低木掲示板」をディスプレイ内に実現したのが重なるウィンドウと言えないだろうか.文字通りには,言えないだろう.ディスプレイは平面で,先が見通せないし,ウィンドウも重なりの隙間から,その先が見えるわけではない.しかし,ディスプレイはウィンドウを重ねて,何層にもなった情報を得ることができるようになった.立体視することはなかったが,層を重ねることで,情報を多く表示できるようになったことは事実である.デスクトップは向こう側を見ることができる平面として存在し,その上に幾つかのウィンドウが重なり,層状に情報を提示する.ここは透視能力がリテラルに用いられているわけではないが,層状の情報提示,重なり合う平面によって情報をより多く提示する方法が採用されている.立体視で情報を増やすのではなく,平面だからこそ,二つの層を見る能力を十分に活かす方法として,ウィンドウは重ねられていると考えられる.そのことを示すように,ウィンドウは複数重ねられているけれど,実質は最前面のウィンドウとその他のウィンドウの二つの層からできている.そこに向こうが見渡せない平面としてデスクトップがある.
memo920
デスクトップとウィンドウとは,立体視と透視という異なるヒトの視覚能力が重なり合った場をつくる.それは異なる原理が否応なしに同時に駆動する場になっている.デスクトップとウィンドウではでは,一つの絶対的基準に収斂していくのではなく,常に二つの層,能力,感覚が交錯しながら,ヒトとコンピュータとの行為が遂行される場がデスクトップであり,重なり合うウィンドウなのである.デスクトップとともにあるヒトは二つのシステムが重なり合うなかで,従来のモノのように画像を能動的に扱いながら,モノと画像とを重ね合わせつつあらたな思考をかたちつくっている.デスクトップ的リアリズムとは,画像をモノのように能動的に扱いつつ,立体視と透視という視覚の二つの原理の重なり合う部分で世界を認識するという一見,乱層状態にあるものを常態として行為・認識し続けることなのである.私たちは常に二つのものを調整して,重ね合わせながら,行為・認識をする世界に生きている.
memo921
この論文の目的は,インターネットの接続が常態化したポストインターネット時代の身体と世界との関係を考察することである.そのために,まずは,インターネットへのゲートウェイとして機能しているデスクトップがつくる「デスクトップ的リアリズム」を考える.「デスクトップ的リアリズム」の根幹にあるのは,重なるウィンドウを操作する体験である.コンピュータ科学者のアラン・ケイが実装した重なるウィンドウは,一つの画面にできるだけの多くの画像を配置し,それらを操作するために生まれたものである.それは,一つの画像を受動的に見るという絵画や映画とは異なり,画像の前の身体に能動的な行為を求めるものとなっている.また,重なるウィンドウがつくる多重平面的な画面構成は,二つの眼のための装置であるステレオスコープがつくる遠近法によって統合されない無秩序的な画面と類似している.重なるウィンドウとステレオスコープはともにヒトの二つの眼が元来持っている層状の知覚を活かすものとなっている.デスクトップで作業するヒトは多重平面的な層状の知覚と遠近法的な立体的知覚とが否応なく重なり合う体験をすることになる.この二つのシステムが重なり合うという現象が,デスクトップ的リアリズムの基底にあるものである.デスクトップは身体を,単眼が示した統合された世界ではなく,ステレオスコープを覗き込む二つ眼が示したようにあらゆる存在が否応なしに重なり合う世界に置くのである.
memo922
The purpose of this paper is to consider the relationship between the body and the world in the Post Internet era when the connection of the Internet became normal. First of all, consider “desktop realism” created by a desktop functioning as a gateway to the Internet. The root of “desktop realism” is the experience of operating overlapping windows. An overlapping window implemented by a computer scientist Alan Kay was invented to arrange as many images as possible on one screen and manipulate them. Unlike paintings and movies that passively see a single image, it is demanding for active acts on the body in front of the image. In addition, the multi-planar screen structure formed by overlapping windows is similar to a chaotic screen which is not integrated by the perspective created by the stereoscope which is a device for two eyes. Both overlapping windows and stereoscopes make use of the stratified perception originally possessed by two human eyes. Humans working with the desktop will experience an overlapping experience of multi-planar layered perception and three-dimensional perception inevitably. The phenomenon that these two systems overlap is the basis of desktop realism. The desktop puts the body in a world where every existence overlaps inevitably, as the two eyes looking into the stereoscope show, rather than the unified world shown by the monocular.
memo923
本論文の目的は、インターネットの接続が正常になったポストインターネット時代における身体と世界との関係を考察することである。まず、インターネットへのゲートウェイとして機能するデスクトップによって作成される「デスクトップのリアリズム」を考えてみましょう。 「デスクトップリアリズム」の根源は、重複するウィンドウを操作することです。コンピュータ科学者のアラン・ケイ(Alan Kay)によって実装された重なり合うウィンドウは、できるだけ多くの画像を1つの画面に配置して操作するために考案されました。単一のイメージを受動的に見る絵画や映画とは異なり、イメージの前で身体に活発な行為が求められています。さらに、ウィンドウを重ね合わせることによって形成された多平面スクリーン構造は、2つの目のためのデバイスである立体顕微鏡によって作成されたパースペクティブによって統合されていないカオススクリーンに類似している。重なり合うウィンドウと立体視の両方は、もともと2人の人間の目が持っていた層化された知覚を利用する。デスクトップを扱う人間は、多面的な階層化された知覚と三次元的な知覚との重複した経験を必然的に経験することになる。これら2つのシステムが重なっている現象は、デスクトップのリアリズムの基礎です。デスクトップは、単眼で示された統一された世界ではなく、立体視を見ている2つの目のように、あらゆる存在が不可避的に重なる世界に身体を置きます。
memo924
ゼミでやった15分間のフリーライティング1(途中か参加して,7分程度)
- ツイッターのアプリを使っているけれど,ダークモードのが入ってっからはよく使うようになった.暗いということだけで使うというのはどうかとお思うけれど,それでもダークモードは目に優しいのでいいのともう.
- 時間軸をシャッフルしてツイートが表示されるのはどうかと最初は思っていたけれど,それも慣れた.ハイライトでみる.それでいいという思う.結局はリアルタイムの情報というよりは,知りたい人のツイートが見た勝っただけなのかもしれない.きっと,そうなのだおる.近頃は,知り合いがツイートをしなくなってきているので,ツイッターを見ていてもとくな情報を得ることが少なくなった.それでも,ツイッターを見てしまうのはどうしてだろうか.情報を見るためだけではなくて,単にスクロールがしたいだけなのかもしれ愛.愛フォンのガラスを親指でなぞることだけが楽しいのかもしれない.情報がツイートが途切れることなく,次々に出てくる.情報が湧き出る感じは,ブログにはなかった感じです.
- 情報はいつか止まる.ストックされた情報はいつか全て見れてしまう.そんなイメージをツイーッタ=の前は思ったいた.けれど,ツイーッタは情報が流れていく.流れの中で情報を受け取る.それが気持ちいと今も思っているのかもしれない.では,その気持ちよさの根源はどこにあるのあるのだろうか・無限にあると思われる情報に触れること? そうではないだろう.やはりここでスクロールに戻るような気がする.会いフォンのインターフェイスの気持ちよさというのがあるのかもしれない.では,マックで使っているツイッターはどうだろうか.こちらではあまりスクロールはしない.全んぜんしないことに今気がついた.だとすると,やはりタッチインターフェイスのスクロールの気持ちよさというがツイッターにとって相性がよかったということになるだろうか.これは今まで考えたことがなかった感覚である.
- スクロールする,会いフォンですクロールするとはどんな行為なのだろうか.単にガラスの面を親指が滑っっていく.ただそれだけのことが気持ちいい.
memo925
ゼミでやった15分間のフリーライティング2
- スクロールすることの気持ちよさとツイッターの相性がいいとするる=ると行為と言語とは密接に関わっているそんなことはわかっているよという感で開けれども.それでもここでもう一度考える必要はあるだろう.短い言葉のリズムとiPhoneのインターフェイスとの相性.ガラス面と指が作るスクロールの気持ちよさ.指だけの問題ではなく,画面の表示速度も問題だろう.指の動きにひっついてくるような感じが作ることができれば,それは気持ちいいはず.
- ボタンを押すのではなく,スクロールで引っ張って話して再読み込みというインターフェイスがツイッターから出てきたことも,今までのように考えて見ると,納得がいく.引っ張ることが楽しい,そして,引っ張ることで新たな情報が出てくる.行為に対して,新たな価値がつく.これまでは単にスクロールするだけだったものが,「再読み込み」という価値というか,機能が行為に付加され流.新しい行為と機能との結びつきが生じる.それが重要.そういった新たな行為の創出に私たちはたちああっている.どこまでも立ち会っている.コンピュータとともに新たな行為が多く創出されている.だから,面白い.
- ツイッターの話から逸れていっている.でも,ツイッターというこれまでにないアプリというかサービスだったからこそ,新しい行為と機能との結びつきが生じたことは事実だろう.そうでなければ,そこには何も生まれなかったはずです.それでもなお,そこに起こることを考える必要がある.何をだ.何ん穴.もうわからなくなってきた.ツイッターでツイートボタンをおす.ここにはスクロールは取り入れられていない.ツイッターのメインの行為がスクロールだとすると,ツイートにもスクロールを取り入れた方がいいのではないか.でも,ツイートという行為は創造的なものであるから,スクロールの消費的な行為とは異なる.押すという行為が,それまでの文字入力を確定する.でも,入力して,引っ張って話してツイート,投稿ということもできるはずである.それはアングリーバードのような感じで気持ちいいのではないか.これまでのアプリの操作感とは異なるかもしれないが,だからこそ試す必要があるのではないだろうか.
- 引っ張って話すときの抵抗的なものは何だろうか.画面のアニメーションを調整することで,スクロールと引っ張ることとが区別される.ヒトも行為を決めるが,iPhoneも行為を決める.ヒトの行為が同じだとしても,プログラムによって,行為の価値・昨日は異なっていく.それでもヒトは混乱しない.見ている画面にヒントが示されているから,混乱しないのだろう.視覚情報は重要である.iPhoneの触覚情報はiPhoneの情報でしかない.iPhoneの触り心地から画面デザインをした例はあるのだろうか.そうすると,機種ごとにデザインを変える必要があるから,アップルはそのようなデザインは嫌がるだろう.しかし,機種ごとの触り心地からアプリの設計を考えるというのは考えて見ると,当然というか,ハードがソフトの機能を決めるのは当然と思ったけれど,ソフトはハードと分離するからこそ,自由なのであって,ハードに縛られていると,そこに自由さはなくなる.アプリの設計をハードの触り心地というスペック外で決めるというのはやはり,面白い発想かもしれない.そんなアプリを見て見たい.けれど,探してみればあるのだろう.最新機種に合わせて,アプリはデザインされているわけだから,そこにはハードの触り心地というのも考慮されているはずではないのか.単なるスキンとしてソフトを考えるのではなく,ハードの延長として,まさにスキンとしてアプリを考えることは興味深い発想となるだろう.機種が変われば,そのアプリは消えていく.そんなアプリデザインを見て見たい.
- それでだけハードの触り心地は重要だ.継ぎ目が
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影もなく重なる画面.段差もなく,重なっている.フラットという言葉で示すのもちがう感じがする.表面,サーフェイスといった感じ.異なるサーフェイスが一つのフレームの中にある感じ.選択範囲を決める.選択範囲という一つのフレーム.三次元が二次元に畳み込まれる.ペラペラとしてサーフェイス.「ペラペラ」としているときに入る皺が示す三次元生.社会そのものを画面のサーフェイスから考えることは可能だろうか.画面がレイヤーでもなく,フラットでもなく,異なるサーフェイスの混在ということ.影なく重なるサーフェイスの境目を考える.ピクセルの違いでしかない.
memo927
インターネットと常時接続するようになった世界は,厚みを剥ぎ取られてきている.モノの厚みは剥ぎ取られて,液晶ディスプレに表示される.それは3Dモデルであっても,実際にはピクセルの光でしかない.コンピュータの計算が光らせる物理的な光の集積によって,厚みを失った世界が現れている.「失った」と書くと否定的な意味合いが出てしまうけれど,あらたな世界として肯定することはできないだろうか.厚みを放棄して,身軽になった世界と言えばいいのかもしれない.けれど,ことはそうは簡単には進まない.「放棄」と書いても,そこには否定的な意味合いが出てしまう.厚みを失った世界に「ハロー」と声をかけると言った雰囲気がいいのかもしれない.けれど,やはりことはそう簡単にはいかない.これまで当たり前に思っていたものがなくなるということは,そこにはどうしても否定的な意味合いが出てしまう.
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絵の具を塗られた顔にはパターンが出来上がる.パターンはカモフラージュとして顔を見えなくする.それは通常は顔の外部にあるパターンに顔を同化させることで機能する.しかし,今回の場合はパターンが顔を透過してしていく.背後のパターンが顔に現れる.このとき,顔のモノとしての厚みは失われるような感じがあるとともに,透過するからこそ顔の厚みに意識が向けられているという両義的な感じがある.パターンは形を与えると同時に奪っている.カモフラージュは周囲に同化していき自己の境界を破壊してしまう擬態に近いけれど,自己を透過してしまうこともありうる.前面が透過して背面が現れる.そのとき,前面は形を失うと同時にその厚みを意識させることになる.もともとが厚みを失ってイメージになっていたものに厚みが付加される.モノとイメージとのあいだの両義的関係が見えてくる.もののリアリティをリッピングすると,モノの個別性を形づくっていた境界が混じり合っていく.デジタル編集の場で生まれる三次元から二次元への変換のなかで,モノのサーフェイスは流れだしていく.輪郭がなくなったものは,ほかのモノとなめらかにつながっていく.いや,なめらかにつながりすぎると言ったほうがいいだろう.これまでの輪郭が失われていくモノは以前のモノの痕跡を示しながらも,少し異なる存在なっている.モノがイメージへと融解していき,表面をかたちづくる.表面だけがこの世界をかたちづくる.そこはフラットでありながらも幾層にもモノが重なり合った表面である.モノの表面は境界ではなくなり,「アップデート可能な表皮」として映像やソフトウェアと同一化して,個別のモノが消去されていく.
memo929
インターネットが脳の構造を外部化したものだとすると,どこかに「隙間」があるはずです.シナプスには隙間が必要である.この隙間がディスプレイのピクセルとしてあるのではないか.ヒトの顔がピクセルの点に融解していてく.それゆえに,顔に可塑性が与えられる.いや,整形手術のように顔に可塑性が与えられるのではない.「顔=face」は「上の」という意味を与えられて「表面=surface」になっている.同時に,その厚みを失っている.厚みを失っているからこそ,顔は自在にできる表面となってディスプレイに表示される.顔を表面化するために鼻を切り落とす.鼻が切り落とされた顔がInstagramに放たれ,多くのディスプレイに表示される.「鼻」があると,ディスプレイの表面に凹凸が生まれてしまう.ディスプレイに表示される顔に鼻はいらない.たとえそこに鼻があったとしても,鼻はディスプレイの表面に出っ張りをつくることはない.それはすでに厚みを失った表面であって,顔ではないのである.
memo930
表面はモノをつないでいく.鼻は表面から突き出ている.表面に凹凸をつくる.指でカモフラージュする.鼻は残る.ディスプレイが示す情報機器の身体性においては鼻がつくる凹凸はない.ディスプレイは表面があるだけである.顔はディスプレイの表面に埋め込まれる.鼻は隠される.いや,隠されていないくても,鼻は出っ張りとしては存在しない.鼻は表面にある.ディスプレイの表面は鼻を取り込んでいる.絵文字の顔は鼻を切り落とされる.何度も何度も指でタップされる絵文字に鼻があると邪魔なのである.
小林 指が大事な気がしていて。写真って実際の行為は、いろいろ身体を動かすにしても、ボタンを押し込むっていうそれだけで、そのボタンを押し込むっていう行為と、出て来た画像との間に、動作的な分断がある。その感じが面白いと思っていて。一方編集では指先と、そこから延びる筆致に連続性があって。
分断と連続との接点としての指があり,顔が表面となるために鼻が切り落とされる.鼻は指に押されたり,鼻は指によって引き伸ばされて表面化される.指は顔を平面化する.指は顔を含めたもの形を破壊していく.指は顔に可塑性を与え,表面化する.いや,ディスプレイの表面が顔の厚みを奪い,可塑性を与えていく.そこで,鼻が残ったり,引き伸ばされたり,隠されたり,切り落とされたりする.
memo931
透視仮説と重なるウィンドウは相性が良かった.その後,透視仮説を補強するようにデスクトップメタファーが導入され,物理空間の感覚がコンピュータの論理空間に移されていった.その後,大きな変化はなかった.
重なるウィンドウを採用しないタッチ型インターフェイスを採用したiPhoneがこの状況を大きく変える.デスクトップメタファーによる感覚は継承されているが,重なるウィンドウと透視仮説は破棄される.メタファーの感覚を強めるスキューモーフィズムが採用されるが,これもまた破棄されて,フラットデザインへと至る.フラットデザインはメタファーも破棄して,あらたな感覚をつくろうとした.
マテリアルデザインはふたつの面を重ね合わせはしないけれど,物理世界とコンピュータの世界というふたつの原理を重ね合わせる.物理世界を透かしながら,コンピュータ独自の世界をつくりあげる.そこでは,計算と光とが重なり合い,光とガラスとが重ね合わされ,このふたつの重ね合わせ自体が重ね合わされる.そして,これらの複数の重ね合わせをヒトは擬態語で翻訳しようとする.
memo932
透視仮説とかではなくて,たんにマテリアルデザインを考えてみるのもいいかもしれない.「マテリアル」とは何なのか.計算と光の明滅とのセットで現れるサーフェイス=表皮.そんなものが現れている.その表皮は二つの原理の重ね合わせ,物理世界と計算世界との重ね合わせの中に生じている.それはディスプレイの厚みと言う制限のなかにある.しかし,その制限はZ軸だけで,それ以外のXY軸は自由に動ける.Z軸の問題がある.影の問題.平面から立体になる.そこにマテリアル原理というものが生まれる.いや,マテリアル原理を決定するからこそ,平面から立体が生まれるのかもしれない.
memo933
マテリアルデザインの触り心地を考えると,それはルールの触り心地なのかもしれない.しかし,ルールをどこまでとするのかは意外と面倒かもしれない.物理法則もルールで,それがハードウェアを縛っている.ソフトウェアも物理法則から抽出したルールを使っている.だとすれば,マテリアルデザインで触れているのは物理法則そのものなのかもしれない.モノではなくルールに触れることは可能なのだろうか.抽象的な計算自体に触れることはできないが,計算と密接に結びついた何かに触りつつあるのが,インターフェイスを提供しているパソコンであり,タブレットであり,スマートフォンだと考えてみたらどうなのだろうか.
memo934
「ない」ところからマテリアルを立ち上げる.もしくは,「ない」ところから立ち上がったマテリアルとはどんなものなのだろうかを考えてみたい.ソフトウェアはハードウェアに依存し,ハードウェアもソフトウェアに依存している.相互依存の関係において,立ち上がってくるディスプレイ上の画像とジェスチャーとのあいだで立ち上がってくるマテリアルとはどんなものなのだろうか.タッチパネルの薄さというか表面(サーフェイス)とジェスチャーとの関係.表面で触れているガラスと画像とのあいだにある隙間=透き間を考えてみたい.タッチインターフェイスでは「インターフェイス」が消失しているのかもしれないと思うようになってきた.そこにはサーフェイス=表面しかない.二つの面が向かい合った状況としてのインターフェイスではなく,私たちは単にサーフェイスに向かい始めているのではないだろうか.ヒトとコンピュータとのあいだにインターフェイスがあった時代は終わりつつあって,そこにはもはやサーフェイスしかないからこそ,フラットデザインになり,マテリアルデザインになったのではないだろうか.フラットなサーフェイスはインターフェイスという二つの面を一つの表面に融合して,そこにあらたなマテリアルを質感が曖昧で,もしかしたら「ない」ところから立ち上げた.もしくは,質感を持たないかもしれない計算に質感を与えて,質量をハードに依存しつつも,質感はソフトが担当するマテリアルが生まれたのかもしれない.
memo935
サーフェイスからマテリアルデザインを考える.フラットデザインからサーフェイスを考える.そこにはサーフェイスには裏と表がある.でも,裏を気にしないで,表を考える.サーフィスは表面であって,その上に何を乗せることができるプラットフォーム.サーフェイスはメディアではない? サーフェイスはプラットフォームなのか? サーフェイスは表面である.ここから考える.表面に何かを置いてみる.ここから考える.サーフェイスに触れる.サーフェイスを見る視点はどこにあるのか? サーフェイス=表面を捉える擬態語を考える.ツルツル,ヌルヌル,サクサク,ピカピカ,どれがいいのだろうか.
memo936
マテリアルデザインはソフトウェアとハードウェアを一つのサーフェイスとして扱ったデザイン原理であると考えらえれる.ハードを通した屈折率とソフトを通した屈折率の違いから微妙に異なる感覚をヒトに送り返す=反射させている.ハードウェアとしてのガラスとピクセルとピクセルを制御するソフトウェアとのあいだがあり,そこでヒトの行為が微妙に異なるかたちで反射され,それらを重ね合わせたかたちでヒトは自らの行為の感覚を把握する.ガラスの表面だけではなく,ピクセルの精細さと明滅だけでもなく,それらを統御するソフトウェアとソフトウェアを設計する上での原理とそれらのハードウェアとがヒトの行為を反射する.これまでインターフェイスではコミュニケーションはヒトとコンピュータとのあいだの双方向性があると言われていた.けれど,今では,それはヒトの行為をいかに反射させるかのレベルになっている.タッチパネルはサーフェイスではあるけれど,それはハードウェアとソフトウェアとがつくる一つの膜となっている.二つの平面が重なり合って,一つのサーフェイスをつくり,ヒトの行為を反射するのである.
コンピュータとディスプレイが見せる世界はもはや探索するものではなく,ヒトの行為を反射するサーフェイスとなっている.そこはヒトとコンピュータとのコミュニケーションの場ではない.単に,行為が反射する場である.それはヒトもコンピュータも一つのオブジェクトとして鏡に映るように,ヒトもコンピュータも行為を反射し合いオブジェクトなのである.そこにコミュニケーションというものはない.二つの層の屈折率のちがいをいかにデザインするか,行為をいかに反射させて,重ね合わせるかが問題になっているのである.
memo937
ディスプレイがサーフェイスとなり,行為を反射と屈折と重ね合わせていくようになるために,行為は最小化する必要があった.光の反射率と屈折率が計算できるようにヒトの行為を最小化する必要があった.ボタンを押すという最小化された行為だけではなく,タッチパネルではジェスチャーも入ってきた.これは行為の最小化とは異なる方向性であるが,結局はサーフェイスの一部に触れている部分をいかに計算するかにかかっている.サーフェイスでヒトが触れている部分だけがインターフェイスとなり,ヒトの行為を数値化していく.数値がコンピュータで処理されて=屈折させられて,ディスプレイに表示される=反射としての画像,アニメーション.行為は屈折を伴いながらディスプレイのサーフェイスを透過していき,コンピュータのソフトウェアがつくるもう一つの底で反射して,画像として表示される.その際に,屈折した行為の結果としての画像とディスプレイのサーフェイスで反射するヒトの行為とが重なり合って,あたらしい行為とその意味が生まれていく.サーフェイスで起きる行為の反射と屈折とが行為を複数化し,重ね合わせていくのである.
memo938
インターフェイスではなくサーフェイスで考えてみる.光が反射するように,行為も表面に反射する.表面が二重になっている.ハードウェアとソフトウェアという二重になっている.上面にハードウェアがあり,ガラスがある.底面にソフトウェアがある.上面による行為の反射と底面による行為の反射でズレが生じる.これがモノの表面に反射してきた従来の行為とは異なる部分となっている.ハードとソフトによる行為の反射のズレによって,あたらしい行為が生まれる.そして,ハードとソフトの両方をデザインする必要が出てくる.これをうまく統合したのがマテリアルデザインだと言える.
マテリアルデザインの前のフラットデザインは,ヒトの行為がコンピュータに侵入して屈折するように設計されていたデスクトップメタファーや重なるウィンドウの流れを断ち切ったものだと言える.フラットデザインになって,ディスプレイの表面はインターフェイスとして侵入されるものではなく,行為を反射するサーフェイスになった.しかし,表面にも多少は行為は侵入する.表面自体を二層に考えるということに,重なるウィンドウ,透過仮説による層による認識が活きていると言えるだろう.
二層のうち,上面には行為は侵入し屈折するけれど,底面では完全に反射される.行為を反射するようにつくられた画像・アニメーション,モーショングラフィックスによって,行為は完全に反射される.上面を透過して,屈折した行為が,底面で反射して,もう一度屈折しいく.上面での行為の反射と底面からの反射された行為とが重なり合って,あらたな行為をつくっていく.
デスクトップメタファーは行為の屈折を言葉で行なった.行為は最小化されていて数値化されて,ソフトウェアに届いていた.だとすれば,もともと2層構造だったと言える.けれど,ここでハードを通したサーフェイスを透過していくことがメインに考えられていた.ヒトの行為がハードとソフトの二層を透過していく.いかに透過していくことが求められている.行為の反射はそれほど考えられてはいない.行為は屈折しながらも,ハードとソフトとの二層の透き間に侵入していく.ヒトの行為を透き間に侵入さえていくこと,これがデスクトップメタファーや重なるウィンドウで目指されたことであったといえる.
タッチパネルのインターフェイスというマウスとカーソル,重なるウィンドウから成立していたインターフェイスとは異なるものが出てきたときに,インターフェイスはサーフェイスとなって,ヒトの行為を反射するものとなった.しかし,いきなりヒトとこんぴゅーたとのコミュニケーションのためのインターフェイスがサーフェイスになったわけではなく,インターフェイスのモデルも二者の関係性から,ヒトとコンピュータとを別々のオブジェクトと捉えて,その表面を問題視するものに変わっていっていた.インターフェイスのオブジェクト+サーフェイスモデルといったものが考えられていた.それは,ヒトとコンピュータとが対話するのではなく,ともにオブジェクトとして,単に互いを反射するものとなったことを意味する.ヒトもコンピュータも光の乱反射のなかの一要素となったのである.これがヒトとコンピュータのオブジェクト化されています.
memo939
わたしたちはインターフェースを通じて交信しながら、実際にはその向こうの対象と交流している。そこでコミュニケーションが成立するのは、対象の知性を信頼しているからだろう。その信頼が大きければ大きいほど、インターフェースは透明化する。これは没入というよりも、すこし前の現実がより「もっともらしい」ものへと更新される感覚に近い。
逆に、コミュニケーションする相手の様子がいつもと違うとき、わたしたちは顔や受話器といったインターフェースに注意を向ける。コミュニケーションの信頼が保証されない事態になって、はじめてインターフェースはその姿を見せるのだ。これがインターフェースの見え隠れする質感になっている。
そう考えていくと、先ほど見てきた「ユーザーインターフェース」のモデルのように、インターフェースは二者の間に置かれてもいないし、共通で単一のインターフェースを通じてコミュニケーションしているわけでもない。インターフェースは、コミュニケーションにおいて指向すべき「ファサード」のようなものとして、それぞれのオブジェクトに備わっている。
インターフェース、その混血した言語性,大林寛
大林さんによるオブジェクトのファサードとしてのインターフェイスモデルが気になっている.大林さんは「インターフェースは二者の間に置かれてもいないし、共通で単一のインターフェースを通じてコミュニケーションしているわけでもない」と言う.この一文は,従来のインターフェイスモデルを完全に破棄している.二者の「関係」としてのインターフェイスではなく,インターフェイスを個別のオブジェクトのファサードとすることで,インターフェイスは個別の存在となる.インターフェイスが「関係」から「モノ」になっている.だから,もはやそれはインターフェイスではなく「ファサード」であり,私はそれを「サーフェイス」と考えたい.
大林さんはヒトとモノとがコミュニケーションを行うとしている.しかし,「共通で単一のインターフェース」を破棄した時点で,コミュニケーションもまた消失したと考えるのがいいのではないだろうか.ヒトもコンピュータもオブジェクトであるならば,そして,その間にインターフェイスがないのであれば,個別のサーフェイスを通じて,行為やデータを反射しあっているのみなのではないだろうか.もはやコミュニケーションを前提としたインターフェイスはなくなり,オブジェクトのサーフェイスが行為を反射し,一部の行為が屈折して別のオブジェクトに侵入し,その先で反射されていく.乱反射する光が物理世界を満たすときに,光を反射するオブジェクトとしてヒトとコンピュータがある.そんな状況を考える必要があるのではないだろうか.
memo940
二つの平面を見通す透視仮説と重なるウィンドウによって,イメージは見るだけのものでなくなり,あたらしい身体がつくられつつある.透視仮説と重ねるウィンドウによって,ディスプレイに探索する空間というフィクショナルな奥行きが生まれ,ヒトはマウスとキーボードとを用いて,ディスプレイに表示されるオブジェクトをカーソルで操作する合生的行為が生まれている.ヒトはコンピュータに行為を委譲していった.「見て指差す」ことで行為は完了した.その際に,ヒトの感覚はデスクトップメタファーとしてしてコンピュータの論理と直結するディスプレイの平面に移植されていった.
memo941
スマートフォンになって,カーソルが画面からなくなった.それは,ヒトがディスプレイのXYグリッドから締め出されたことを意味する.カーソルとともに培ってきたヒトの身体感覚がディスプレイから締め出され,ヒトの指はガラスにしか触れることができない.ガラスが一枚のサーフェイスとして,XYグリッドへのヒトの侵入を阻止する.同時に,XYグリッドはデスクトップメタファーではなく,スキューモーフィズムを強調しだす.ヒトはもはや触れることはできないで,スキューモーフィズムがつくるもう一つの世界を見て,ガラス越しに「触れる」しかない.
カーソルから指への変化とともに,スマートフォンはスキューモーフィズムというごつい世界をディスプレイに表示しながら,ヒトともう一つのごつい世界である物理世界とのあいだに入り込んできた.ディスプレイが表示する世界は,ヒトの手を締め出し,ヒトの身体感覚を締め出したもう一つの物理世界を提示する.ヒトはスマートフォンを見ているけれど,それはより大きな枠組みである物理世界とヒトとのあいだに差し込まれたものである.ヒトと物理世界とのあいだで「目の前とシンクロしない世界が自分の中に自由自在に入り込んでくる」ことが起こった.目の前の世界が身体感覚を締め出したXYグリッドと物理世界とに二重化してしまったのである.
スキューモーフィズムはスマートフォンによって,世界を二重化するために表示されたとも言える.世界の表皮を剥ぎ取って,ディスプレイのXYグリッドに移植した.それは,スマートフォンというヒトと物理世界との入り込んでくるデバイスが一般化するために必要な世界の表皮の移植だったのかもしれない.
memo942
透明なガラスに閉じ込められたモンスターについて考える.透過する視線のなかにモンスターがいる.モンスターはガラスに挟まれている.ガラスにはおもて面と裏面があって,表と裏とで一つのガラスの板として成立している.ぱっと見,どちらが表か裏かはわからない.こういった場合,表と裏ということは成立するのであろうか.表裏一体と言ったとき,表と裏とが一体となっているだから,表も裏もないのでだろうか.
第一ステップ───光子は空気の中を進みますが,これには短縮はなく,回転だけです.第二ステップ───光子はガラスの前面を通りぬけます.ここでは回転はなく,0.98に縮まるだけです.第三ステップ───光子はガラスの中を進みます.ここでは回転だけで短縮はありません.第四ステップ───光子はガラスの裏の面にあたってはね返ります.ここでは回転はなく,0.98の0.2(つまり0.196)に縮まります.第五ステップ───光子はガラスの中をまた戻ってゆきます.ここでは回転だけで短縮話です.第六ステップ───光子は前の面に当たってはね返ります.(光子はこのときまだガラスの中にあって外に出ていないのですから,正確には「裏の面」と言うべきかもしれません.)この段階では回転はなく,0.196の0.2(つまり0.0392)に短縮されます.第七ステップ───光子はガラスの中を再び戻ってゆきます.ここでは回転だけで短縮はありません.第八ステップ───光子はガラスの裏の面を通過します.回転はなく,0.0392の0.98(つまり0.0384)に縮みます.そして最後の第9ステップ───光子は空中を進んで検出器に達します.この場合は回転だけで短縮はありません.p.98
光と物質のふしぎな理論,R.P.ファインマン
ガラスの表面に表と裏とがあって,ガラスの中で光が反射すると表の裏に反射することが起こる.表と裏とはあっという間に入れ替わってしまう.でも,ガラスは単一のモノであるから,表も裏も変わりがない.だから,表裏一体.でも,言葉では表と裏とが別れる.そんななかに閉じ込めれたモンスターについて考えることで,ディスプレイの先にある(に限定されない)表現が考えられないだろうか.
memo943
シンポジウムは久保田が提起した「コードの実行的価値」に対して,美術家の永田康祐,建築家の市川創太,松川昌平が応答するものであった.特に,永田の発表は私の研究領域である「ポストインターネット」にも言及していて,とても勉強になった.永田は現在の状況を「ポストメディアのポストメディウム的状況=条件」のなかで,コンピュータをメタメディアとして既存のメディアを結びつけるハイブリッドメディアとして考えることのできなくなってきたとしている.永田のスライドには「物理的=技術的支持体にとどまらないメディアの条件=状況下で,かつ超越的なメタメディアの存在しない状況で,コードの記述や実行をどのように考えるか」と書かれていた.この問いへの回答の一つが,永田が自分の発表を一度終えた後でopenFrameworksとの関連で述べた「糊」ということになるだろう.ディスプレイのフレームの外側でコンピュータを考えてみると,コードは他のメディアを接着する「糊」のような存在となっているのではないだろうかという,永田の視点は私に大きな示唆を与えてくれた.この問題に対して,久保田がコードは「メタオブジェクト」であると反応していたのが興味深かった.
memo944
次の連載のブレストをしているのだけれど,これまではサーフェイスということにこだわっていた.表裏一体のサーフェイス.どちらが表で裏かがわからないサーフェイス.ここに「接着」という要素を入れたらどうだろうか.表と裏とが接着して一つのサーフェイスが出来上がる.Sticky Surface,ネバネバした表面,粘着性の表面.これはメタファーだけれど,何かが否応無しにくっついてしまうという感じはいいかもしれない.ツルツルとしてサーフェイスではなくて,ステッキーサーフェイス.そんな感じ.意味が留まる場としてサーフェイス.そして,意味が留まるための粘着性という感じだろうか.
memo945
サーフェイスのリフレクションとカタカナで書くとそれとなく漢字が出てくるような気がするけどどうだろうか.粘着性のある表面ということを考えたいのかもしれないけれど,「粘着」とは何だろうか.「接着」ということを考えて見たいのだろう.二つの平面が重なり,接着する.接着する身体という感じだろうか.結びつけることと接着と同じなのだろうか.別々のものを接着するのであれば,それは結びつけることと同じ.接続と接着.
(d)次の点を付け加えておこう.統一をより確実にするために,われわれは同時に最も古い原則に依拠するのだが,これに従えば必要な場合には接着をより強固にできる.二つの表面を可能な限り近づけねばならないだけではなく,それらの表面に可能な限り多くの接触を与えねばならない.それゆえ,接合面が広げられる.本書の略画は,それには単純にどうすればよいかを示している.次第に巧くひっかけるのである.p.284
ネオ唯物論,F・ダゴニェ
このあたりが接着独自のことだろうか.二つの表面を可能な限り近づけ,接触させる.接触させるというところが,気になる.接触が与えられなくても接着してしまうということがあるのだろうか.比喩としての接着.openframeworksが「糊」として機能するときの接着から表面の接着を考える必要があるかもしれない.メタオブジェクトの接着.となると,メタオブジェクトをまず考える必要がある.「メタオブジェクトの表面を接着する」ということだろうか.モノではなく,表面を考えて,その表面がネバネバしていたり,ツルツルしていたりする.表面の質感の話.擬態語の話.表面と擬態語.表面と擬態と粘着.表面と粘着と擬態語
memo946
image
接着成分に表と裏とがあって,それぞれが接着体と接着し一体化する.そのとき,接着面は二つとも表ということになるのであろうか.表面が二つ.裏のない表面.考えてみれば,水にも表面しかないような気がする.二つの平面にただ挟まれていれば,そこには表と裏とがありそうだけれど,それもひっくり返せば表と裏とが入れ替わる.接着という機能があったとしても,サンドされた真ん中の層の表と裏とはひっくり返るのだろうか.表裏一体で機能する接着成分が二つの接着体を一体化する.でも,それぞれは接着成分で分離している.でも一体化している.モノとディスプレイとの重なりの先にあるのは,接着成分=An adhesive agentとしての表面を考えるということだろうか.
memo947
フラットデザイン/マテリアルデザインの質感と擬態語との関係は考えたい.あたらしい擬態語というか,質感を示すための擬態語.
サーフェイスとしてパッケージする.サーフェイスが重なり合っている状態を一つのサーフェイスとするのは難しいから,このあいだを接着して一つのサーフェイスとする考えるといいのかもしれない.
非物理世界も含めた物理世界の表面を考える方向に変わってきている感じがある.二つの平面を一つの表面として扱うということ.それは結局は一元論になるのだろうか.
物理世界がダーティーであるがゆえに接着・粘着性があるからベクター画像が接着していくのかもしれない.このときにデータとテクスチャとを接着するものはなんなのだろうか?
ここで「画面」と書いているものがサーフェイスなのではないではないだろうか.モノと映像とが重なり合うディスプレイがつくるディスプレイの外でつくるディスプレイ場を一つの表面と考える.場とサーフェイスとの関係を考える?
接着剤としてのヒト.蝶番も一つの接着方法の一つであるが,もっと平面で接着したいという感じだろうか.
水平ではなくて垂直のモデル.今は,その接着部分に興味がある.接着されていない場合の「空間」はどんな意味を持つかとか? 水平と垂直とが交差するところにデスクトップがある.水平と垂直とが混じり合うところのサーフェイスが生まれる.
「折りたたまれたディスプレイ」という言葉から「折り重ねる」という言葉が出てきたのだと思う.私はミルフィーユのような折り重なりを考えてしまったが,谷口さんの「折りたたまれた」はちがう感じがある.谷口さんはこの後,ディスプレイの「奥」にスルスルと入り込んでいった感じがある.そこには「奥行き」がある.「世界」がある.ディスプレイを徹底的に平面的なモノと扱っていたヒトがディスプレイに奥行きをつくり,世界をつくっていく.この観点で,谷口さんの今の作品を考えてみたらどうだろうか?
インターフェイスという「関係」で二つの世界を考えているけれど,それらは個別であるものとして重なり合っているとすれば,二つの世界のサーフェイスが重なり,接着している状態として記述した方がいいのではないか.しかし,接着面がもつ二つのサーフェイスを考えるには二つの世界のインターフェイスをまず考える必要がある.二つの世界のインターフェイスが硬化してサーフェイスとなる.二つが一つとなり,一つが二つとなる.
ディスプレイ場で考えていたモノと光との重なり合いを一つのサーフィスとして考えようとしているのかもしれない.今はまだ二次元の平面に縛られている状態ではあるけれど,いずれは三次元そのものを操作可能にしていき,次元を自由に折り重ねた表現を生み出すだろう.これはコンピュータ科学の可能性であって,それがそのままアート作品の可能性になるかはわからない.三次元そのものが操作可能になったときに,サーフェイスという概念は残るのであろうか.
単純にヒトの身体に回帰にするのではなく,グリッドシステムやコンピュータの別の論理で操作可能になっているヒトの身体を介して,グリッドシステムやコンピュータをハックすることが可能かどうかを試さないといけないのである.このレベルでサーフェイスを考えると,サーフェイスはモノでなくてもよくて,永田さんが言っていたoFは「糊」というメタオブジェクト(久保田さん)で考えてもよい感じがする.グリッドシステムを経由したサーフェイスとそこでの「接着」を考える.接着の上と下.何と何とを接着するのか.そして接着面という二つの表面を考える.n次元にマッピングされた行為を再びXYグリッドを経由したサーフェイスにマッピングするというか,反射=リフレクションすることを考える必要があるのかもしれない.サーフェイスとリフレクションからヒトの行為を考える.レイヤーではなくて,サーフェイスで考えること.一度レイヤー化したものを接着して表裏一体のサーフェイスと扱うこと.透き間が接着剤であり,サーフェイスなのだろという考えになってきている.二つの層は重なり合っている,そのあいだの透き間を硬化させて捉える必要がある.硬化した透き間が指標的な役割を果たすのではないだろうか.
イメージではなくディスプレイを影として考えるのは面白いかもしれない.そう考えていたから,「ディスプレイ場」ということを言ったのだろう.「ディスプレイ場」をイメージや意味が張り付くサーフェイスとして捉え直してみるのが,2018年の課題なのかもしれない.書き込み可能なサーフェイスをつくること.いくつもの書き込み可能なサーフェイスをつくるために,さまざな領域を接着していくことが重要なのだろう.
memo948
そして私は,このプログラムのことを,ここでパラフィクションと名付けようと思う.「上位の/高次の/超えた」などといった語義の「メタ」ではなく,それに近い意味を有しながらも,「近傍の/両側の/以外の/準じる/寄生する」というようなニュアンスを含む「パラ」を冠することで,何が起ころうと究極的には作者の権能へと回収されるフィクションとは決定的に異なった,読者の意識的無意識的な,だが明らかに能動的な関与によってはじめて存在し,そして読むこと/読まれることのプロセスの中で,読者とともに駆動し,変異してゆくようなタイプのフィクションのことを,パラフィクションと読んでみたいと思うのだ.p.222
あなたは今、この文章を読んでいる。 パラフィクションの誕生,佐々木敦
佐々木さんが書いているような意味で「パラ」を用いて,「パラ-サーフェイス」論が書けないだろうか.接着面の「両側の」表面のことや,永田さんがポストインターネットはインターネットを「メタ」化したわけではないといって,メタでは方法でインターネットを扱ったと言っていた.ポストインターネットはインターネットをパラ化した.インターネットに寄生するリアルとも言える,リアルに近傍するインターネットともその逆も言える.
パラでサーフェイスを考えると,これまでうまく言い表すことがスッキリと言えるのでないだろうか.接着面という両面を持つサーフェイス,接着することで生まれえる寄生する感覚など.「パラ-サーフェイス」という言葉からサーフェイス=表面=表裏一体=接着を考えていく.
memo949
二つのサーフェイスとそのあいだの透き間=接着剤と考えて,それを表から裏から,外から内からといった複数の視点から見る.サーフェイスの表を透過した視線は,サーフェイの裏に届くかと思えば,サーフェイスのなかの接着剤のなかからの外を透かし見ると,サーフェイスの表と裏とが入れ替わる.それぞれの視点からの視線を重ね合わせて,サーフェイスを見たら,どのように見えるのだろうか? いや,ヒトはそのようにサーフェイスを見ている.サーフェイスは否応なしに視線を重ね合わせてしまう.
memo950
切断面があるということは接着面も同時にうまれているということになるのではないだろうか? 切断面ー接着面という絶対矛盾的自己矛盾するサーフェイス!
切断されたものが,それでもなお一つであろうとすることもあるし,切断したらこそ接着しようとすることもあるだろう.インターフェイスは切断されているものを接合・接着することが目的となる.インターフェイスの両面はそれぞれの対象の表面=サーフェイスとなっている.インターフェイス自体を一つの接着面としてサーフェイスと扱うこと.次元を一つ減らすことで,「インターフェイス」と呼ばれているものを抽象化する? 次元を減らすのではなく,実体化するといったほうがいいのかもしれない.いや,インターフェイスと言ったときに忘れらがちになる,対象との接合・接着面の性質やインターフェイスそのものの表面と裏面とを考えるために,インターフェイスをサーフェイスとして捉える必要があると考える.
memo951
サーフェイスとインターフェイスとの関係を考える必要がある。サーフェイスとインターフェイスは入れ子の関係にあるというか、見方を変えるとインターフェイスはサーフェイスで、サーフェイスはインターフェイスとなる。常に状態遷移していると考えといいのかもしない。けれど、状態の変化というよりは、見方、パースペクティブの変更の方が強い感じがある。何も変わっていないけれど、そこに変化が起こる。反射干渉との関係でも考えたい。二つの表面があり、その間に透き間がある。透き間では光は屈折することなく、表面でだけ光は反射して、屈折していると考えられる。けれど、ファインマンによれば、光は表面で反射しているのではなく、一度、透き間に入って、そこの粒子が表面から出てきているということになっている。光を波で見るのか、粒子で見るのかで表面とその先の物体、透き間との関係が変わってくる。光を粒子で考えると、表面とその先の透き間とは一続きになっていることになる。どこにも表面が存在しなくなる。表面が存在しないのであれば、インターフェイスもまた存在しないことになる。
memo952
二重化されたサーフェイスというか、二枚重ねのサーフェイスを考える。ハードとソフトの二枚重ねのサーフェイスがヒトとの接触によって、行為と一時的に接合してサーフェイスの性質を変え、インターフェイスとなる。そして、行為がサーフェイスから反射される。接合と反射という相反するような現象が起こるのがヒトとコンピュータとが互いにもつサーフェイスであり、インターフェイスなのではないだろうか? インターフェイスとして接合したと同時に、サーフェイスとして反射する。しかも、そのときにサーフェイス自体から行為が反射されているのではない。行為はサーフェイスを透過してモノの内部から反射される。ハードを透過してソフトから反射される。
memo953
サーフェイスには表と裏とがある。表と裏とのあいだには透き間があると考えられる。だどすれば、サーフェイスはそのうちに「透き間」というインターフェイスをもつことになるだろう。サーフェイスのうちのインターフェイスである透き間は同一のサーフェイスを2つのモノに分けるのか? いや、単に呼ばれ方、位置の違いでしかない。モノとしては同じである。サーフェイスを見るヒトの位置によって、表と裏とが代わる。裏は通常、意識されない。けれど、サーフェイスには表と裏とがある。サーフェイスは表裏一体であるといえるけれども、モノにおいて、上の面であるサーフェイスは接着面としてその内部のモノとは異なることも確かである。このような流れのなかでフラットデザインやマテリアルデザインを考えることは可能だろうか?
memo954
「コンピュータの登場以前に今日のようなインターフェイスの概念はなかった」とすれば、そのときあったのはモノのサーフェイスしかない。情報と身体とのあいだで、リアルタイムという概念とともにインターフェイスという概念が生まれたとすれば、そこには情報と身体とをリアルタイムで接合と反射を繰り返すための透き間が必要であったと言えないだろうか? 2つのサーフェイスが向かい合ってインターフェイスを構成する前に、透き間がさきにあって、それによって2つのサーフェイスが接合されインターフェイスになった。先に透き間があり、その後にインターフェイスが生じた? 透き間がつくる「捏造された因果関係」とともに2つのサーフェイスと1つのインターフェイスが生まれている。情報と身体とのあいだにあるものを考える必要がある。モノとモノとのあいだではなく、情報とモノとのあいだ、そして、情報がモノになりきる前のディスプレイ平面におけるイメージとして機能することの意味を考える必要がある。ソフトウェアキーボードと物理的キーボードとのちがいはどこにあるのだろうか。ともにインターフェイスであるが、ソフトウェアキーボードはよりサーフェイスに近い。モノとしてのサーフェイスとイメージとしての機能? 情報がモノになりきる前、こう書くと情報がモノになる必要がありそうなので少し違うかもしれない。しかし、現時点での価値観で言えば、やはり情報がモノになりきる前というのが一番しっくりくる。情報の観点からすれば、データはモノを必要としている。情報とモノとあいだに透き間があるときは、そこにはインターフェイスがある。けれど、情報とモノとが密着しているときには、そこにはサーフェイスしかないのではないだろうか?
memo955
物質の存在のあり方と空間の物理量の分布が,等価の計算で行われるということは,物体の内部機構まで含めた形質と,それを取り巻く環境の形質が,数式,ひいてはそれを書き下ろしたソースコードとプログラミングによって接続されることを意味しています.
魔法の世紀、落合陽一
このテキストと絡めて、サーフェイス論を書きたい。行為を計算可能とかんがえてみること。表面だけでなく「物体の内部機構まで含めた形質」を考えること。表面と内部とを一体として考える必要があるのだろう。サーフェイスと内部という裏面とを表裏一体として考える。
ここまでソフトウェアキーボードで書いてきたけれど、打ち間違えが多い。どうしてだろうか? ちょっとでも触ると反応してしまう。まさに反射という感じ。でも、キーボードの考察のどこがフラットデザインとマテリアルデザインとに結びつくのであろうか? 物体の内部機構がないことに対して慣れていないのかもしれない。内部機構がソフトウェアであることへの不慣れな感じがある。しかし、フリック入力が速い人にとっては、内部機構がモノでも情報でも関係ないのだろう。いや、今の私の入力速度や打ち間違えは、ハードウェアキーボードでも同じかもしれない。もっと、別のところで慣れていないと思っているのかもしれない。
memo956
ヒトとサーフェイスとの接着を考えると、カーソルではヒトとコンピュータとがともに点接合されている。スマートフォンだとカーソルが消えるので点接合ではなくなる。画面全体がカーソルとして機能しているとすれば、点と面とで接合されているし、その接合は常に起こっているわけではない。画面に直接触れ続けている感覚を、インターフェスとサーフェイスとの違いとして意識的に記述する必要がある。そこでマテリアルデザインとフラットデザインとその手前のガラス面との重なり合ったサーフェイスと接合を繰り返すヒトの感覚を考えること。物理世界の表皮としてのスキュモーフィズムから、汚れなき光の面としてガラス面との一体化を試みているフラットデザイン、ガラス面を含めたハードウェアと物理世界から抽出したルールをピクセルに適応して「厚みをもったピクセル」という「メタマテリアル」をつくりだそうとしているマテリアルデザイン。これら3つのデザインがつくる表面がどのように物理世界と結びついたサーフェイスをつくるのか、そして、そのサーフェイスとヒトとの関係を考える必要がある。
memo957
ソフトウェアという接着剤が実在を何かに還元することなく,接着していく.そして,実在が背後に退いていくと同時にソフトウェアがその表面に出てくる.実在はソフトウェアに還元されない.複数の実在が接着された実在は一つの実在である.ソフトウェアが接着剤として機能することで,実在をかき集めることが可能になった.表面は内部に比べて危うい状態にある.だからこそ何かと接着できる.接着したもの/接着されたものは一つのオブジェクトなる.ソフトウェアをデザインすることは,接着をデザインすることであり,周囲のオブジェクトをいかに引き寄せるかをデザインすることである.オブジェクトそのものに手を突っ込めないのであれば,接着剤として機能するソフトウェアによって表面とその接着からオブジェクトの関係を改変することができるのではないだろうか.そのためには,まずはソフトウェアが表面を形成しなけれならない.
memo958
メディアアーティストの藤幡正樹は「重力の問題は,イメージ生成の問題と非常に密接な関係がある」と指摘し,光学的手法のイメージとコンピュータによって生成される映像の隔たりを指摘する.この発表では,ユーザ・インターフェイスが接続する重力ありの物理世界と本来は重力がないディスプレイのXYグリッドの比較を行う.「ゼロ・グラビティ」や宇宙をモチーフにしたGIFのループアニメーションなどのコンピュータが生成した画像・映像や小鷹研理がHMDを用いて研究を進める幽体離脱研究などを参照しながら,ディスプレイの内と外において「重力」が果たす役割を考えたい.
memo959
渡邊恵太さんのexUIというアイデアが面白かった.ハードのインターフェイスをすべてスマートフォンに担わせてしまって,ハード自体には電源ボタンしかないようにしてしまう.そうすると,まさにハードはサーフェイスしか持たないことになる.スマートフォンが物理ボタンを持たないようなサーフェイスになっていくと同時に,家電などもまたインターフェイスをスマートフォンに外在化して,単なるサーフェイスを持つようになる.ハードウェアのインターフェイスを外在化させたとき,インターフェイスの支持体としてのハードウェアではなくて,ハードウェアの支持体としてのインターフェイス=ソフトウェアが生まれてくるのではないか.ハードウェアがメタ化したときのデザインはどんなものになっていくのだろうか.ハードウェアからインターフェイスがなくなり,サーフェイスとなるのは興味深い.
memo960
ハーマンの『四方対象』を再読していて,感覚的対象と実在的対象をソフトウェアとハードウェアに分けるのではなくて,感覚的性質と感覚的対象をソフトウェアとハードウェアに割り振るといいのではないかと思った.けれど,ハーマンに則って考える必要もないと思いつつも,ハーマンのオブジェクト=対象の議論はとことんオブジェクト同士の接触がないので,インターフェイスではなく,サーフェイスを考えたい,今の私にはうってつけの考えだとも言える.
ハーマンのテキストを読んでいると,引き離すとか剥がすとかが出てきて興味深い.感覚的対象と感覚的性質とのあいだの断層をそのまま互いのサーフェイスとして捉えることができたら,面白いかもしれない.あるいは,常に付着しているとされる感覚的性質と感覚的対象とを引き離すものとしてのサーフェイスというのを考えてもいいかもしれない.分離のサーフェイスもあれば,融合のサーフェイスもある.そんな曖昧なサーフェイスを考えることができればそれでいいのかもしれない.
ディスプレイ場をサーフェイスとして考えて,サーフェイスを一つの分極の場として捉えてみること.ディスプレイから離れつつも,光とデータとの接着の場としてのディスプレイを,モノとデータとの接着の場として具現化するのがサーフェイスであって,ディスプレイだけなくて,コンピュータのインターフェイスを経由して,モノもインターフェイスを持つようになったけれど,それが今度はサーフェイス化していくという流れを考えられたらいいな.
memo961
インターフェイスはいつからサーフェイスになるのか? コンピュータと向かい合っているときは,それはインターフェイスである.しかし,ノートブックのパソコンを開いたまま,遠ざかっていくと,いつしか,それが単なるサーフェイスになるのではないだろうか.いや,いつまでもインターフェイスであることには変わりがない.しかし,それがコントロールできないような距離になったり,スクリーンショットだったりしたときに,それは突如,サーフェイスになるのではないか.ハイデガーの手元存在と手前存在のような感じもある.けれど,それとは異なる変化がそこにあると考えたい.インターフェイスからサーフェイスへ,ここにはヒトとコンピュータとの関係をアップデートするような何かがあると思う.
memo962
気持ちがモヤモヤしているので,あまり考えることができない午前中であった.そんな中でサーフェイスについて考える.ディスプレイの延長でサーフェイスを考えるべきなのだが,サーフェイスとディスプレイとのあいだには断絶がある気もするので,心機一転でサーフェイスで考え始めて,ディスプレイ,ディスプレイ場,インターフェイスと接続できるところがきたら,接続を考えるという方針にしたほうがいいのかもしれない.
memo963
肝要なのは,全面化されたeコマースにおいては常に「物」(=商品)の「情報」がその“実質”に先行し,そのことで従来であれば自己完結的であるはずの「物」(=商品)が「情報」と“実質”とに乖離と“ブレ”を起こすことである.「物」は「情報」に遅れて遣ってくると言ってもよい.そして「物」(=商品)におけるこうした乖離,“遅延”を埋めるオペレーションこそが顧客の観点からのあるいは情報社会に固有な意味での〈流通〉に他ならない.
〈流通〉の社会哲学 アマゾン・ロジスティック革命の情報社会における意義,大黒岳彦 in 現代思想 2018.3月号 物流スタディーズ
大黒さんは物を「情報」と「実質」との分離させているけれど,『融けるデザイン』のように物を「情報」と「持続」とに分離させてもいいのかもしれない.どちらにしても,情報が先行していくというのは,イメージ主導で生まれるあたらしいオブジェクトで「イメージがモノの支持体になる」と書いたことにつながると思う.
ヴィアカントの「イメージ・オブジェクト」に代表されるポスト・インターネットではイメージが前面に出ていましたが、徐々にオブジェクトの状態が注目されるようになりました。そして、ポスト・インターネット以降とも言える現在は、シトレイアとトロエメルによる「UV Production House」やエキソニモの《キス、もしくは2台のモニタ》が示すようなイメージに主導されるかたちのあたらしいオブジェクトが現われてきています。それは、イメージの可変性をオブジェクトそのものに適応させて、イメージでオブジェクトを覆ってしまう試みなのです。
イメージ主導で生まれるあたらしいオブジェクト
先行するイメージに覆われるようなかたちでオブジェクトを作成すること.物=オブジェクトの情報=表面は先行して作成される.それに合わせて,オブジェクトが持続するようにつくられる.イメージとオブジェクトとが分離している.イメージに合わせるかたちでオブジェクトをかたちづける.しかし,Amazonなどのeコマースで一度分離しているならば,イメージを分離したままのオブジェクトも存在として可能ではないないだろうか.乖離したブレを情報に担わせたままインターフェイス化したのがexUIではないだろうか.
memo964
フルスクリーンかつツールバーを表示しないスクリーンショット,フルスクリーンでツールバーを表示したスクリーンショット,フルスクリーンを解除した状態のスクリーンショットまではハードウェアは介在しない.私たちがスクリーンショットと呼ぶものにはハードウェアは写り込まない.フルスクリーンを解除するとウィンドウの重なりが生まれて,画面に奥行きが生まれる.画面が「向こう側」に引っ込んでいくような感じがある.ここまでは,ディスプレイ手前には自分がいるような感じがある.「私」がそれらを操作できるような感じがある.
そして,フルスクリーンを解除した画面が映るように別のカメラで撮影すると,そこにディスプレイやキーボードといったハードウェアが映り込む.そのとき,奥行きを持った画面の手前に空間が生まれる.ディスプレイの前に空間が介入していくる.デスクトップはディスプレイ内に重なりをつくったが,その重なりを持ったまま,ハードウェアとしてのディスプレイが空間とともに介入してきて,空間を硬化させて,ヒトとイメージとのあいだのソフトウェア的な柔らかな接着を引き離す.ハードウェアが写っているけれども,それを操作できる感じはしない.ハードウェアとともにそこに映っているイメージを含んだ空間が硬化して,私との関係が剥ぎ取られた感じが出てくる.このとき,インターフェイスはソフトウェアが示す柔軟性を失い,ハードウェア的なサーフェイスとなっている.
memo965
「未だ名づけ得ない平面」としてサーフェイスを追求していこうというのが,次の連載の目標なんだろう.それは,きっとグリーンバーグの「平面」をインターフェイスを経由して,もう一度,一つの平面=サーフェイスとして考えることになっていくような気がする.その時,インターフェイスはサーフェイスのおもてと裏とその透き間から成り立つもので複雑なものとなるだろう.この複雑さを追って行ったのがエクリの連載と「モノとディスプレイとの重なり」だとすると,次は,その複雑さをシンプルにサーフェイスとして一つのものとしてみることになるのだろう.表と裏という二つのサーフェイスとそのあいだの透き間という三つの存在を一つのサーフェイスとして扱って考えてみること.そこから何が見えてくるのか.3つの存在からなるインターフェイスと一つのサーフィえすとのあいだを行き来しながら考えてみることをしていきたい.
memo966
Queさんの個展「apple」のブログ記事を書きたい.1時間でできるだけ書くということでブログ記事を増やしていきたい.「apple」での作品は,サーフェイスとその内部である「バルク」で考えてみると「窓」のメタファーを更新できると思う.ウィンドウの重なりではなく,サーフェイスから続いていくバルクとして,iPhoneやiPadを考えていくこと.バルクのなかに物理世界が吸収されていくような感じ.私たちはサーフェイスしか見ていないような感じであるが,全ては内部へと取り込まれていく.ガラス面に着けられた塗料がサーフェイスを強調するけれども,この塗料があるからこそ,サーフェイスに奥にバルクがあることが際立ってもいる.バルクに存在する私たちは塗料によってこちらにそのままのかたちで現れることができなくなっている.向こうにいくことガラスが阻んでいるのではなく,バルクへと私たちがあっさりと取り込まれていて,そこには一枚のサーフェイスがあることを蛍光塗料は示しているのではないのだろうか.「apple」の作品における塗料は,これまでのディスプレイに塗られた塗料とは異なる性質を示している.
memo967
二つのサーフェイスとその透き間を一つのサーフェイスと捉えること.サーフェイスはその内部にそのままつながっているものと考えてみること.これらのことからインターフェイスとグリーンバーグの平面論を改めて考えて見ること.
そんなことを考えながら,千葉雅也さんの「勉強の哲学」のメイキングを読んで,本文の打ち込みをしていた.千葉さんの試行錯誤はとても勉強になるので,この本を3年ゼミで読んでみたいと思う.難しいとは思うけれど,難しくて,意味のわからないものを読んでいくという経験も大切だと思う.
Queさんの「apple」を考えるためには何が必要だろうか.鏡でも窓でもなく,まさにサーフェイスとなったインターフェイスを考えるキッカケとしてのappleデバイス.まだ公開されていないけれど,Queさんと須賀さんとの二人展「WINDOWS」展は,最後にマイクロソフトの「Surface」の話になっていて,「こちらとあちらとが混在する表面」ということを書いた.これが,上の「二つのサーフェイスとその透き間を一つのサーフェイスと捉えること」につながってきているのかもしれない.
memoをしっかりと19時から15分間,それまでやっていたことを休止して,書いてみることにした.15分だけ,気になっていることをただ書き続ける.1日の仕事の終わりに書き出して,次につなげてみる.千葉さんは朝にこう言った作業をしているみたいだが,私は夜,仕事の終わりにするのが適していると思っている.そして,また仕事に戻るなり,できることなら,仕事を終えたい.仕事をダラダラと行わないためにも,強制終了を兼ねてメモを書く.そして,Tweetする.
memo968
Queさんの「apple」展のブログが書けた.サーフェイスとバルクとの関係から,iPhoneとiPadを考えてみること.それは,インターフェイスとサーフェイスとのあいだを行き来することである.サーフェイスがその奥のバルクへと連続的につながっていて,サーフェイスとバルクとをひとつのモノとして捉えること.それは,ソフトウェアとハードウェアとの関係に近いのかもしれない.だとすると,世界はソフトウェアをサーフェイスとするモノに溢れかえっていることになるだろう.
このように書いてくると,Paul Dourishが「The Stuff of Bits」で書いているエミュレーションの話が気になってくる.
エミュレーションは、同じロジックによって、仮想的に二重になります。一つのソフトウェアを使用して別のソフトウェアのアクションを生成することは、ソフトウェアをハードウェアからさらに根本的に分離し、既に仮想オブジェクトを操作するための完全な仮想環境を作り出します 。 ロケーションNo.1387 / 5110
仮装の上に,ハードとソフトとをもうひとつつくってしまうこと.エミュレーションはヴァーチャルとは異なる.ヴァーチャルの上にソフトウェア的にハードとソフトをつくってしまう.ハードもソフトになる.ソフトがハードを包み込んでいく.ハードの上にハードをソフト的につくって,ソフトを実行する.実行されたソフトはハードから分離される度合いが強くなっている.
このように書いてくると,渡邊恵太さんのexUIも気になってくる.ハードウェアからUIを取り除いてしまって,スマートフォンにUIを担わせてしまう.Dourishのエミュレーションの話とexUIは意外と近い関係なのかもしれない.だとすれば,「The Stuff of Bits」の第6章の「The materiarities of internet routing」は読まなければいけいない.流し読みではダメでし,しっかりと読まないと.恵太さんのexUIがインターネットを前提としたモノのあり方を示しているのだとすれば,それは,インターネットのマテリアリティと深く結びついたものになっているだろうから.
memo969
exUIはモノからインターフェイスを剥ぎ取って,サーフェイスにする.今の語感だと「サーフェイスにしてしまう」という感じかもしれない.何もない表面にしてしまって,もう一つの表面であるスマートフォンにインターフェイスを表示する.「インターフェイス」が移植される.モノからイメージへとインターフェイスが移行される.電話の受話器がアプリのアイコンとなるように,モノがアプリになる流れがここにある.インターフェイス=イメージ側によってモノの定義が変わる.イメージが「支持体」となって,モノを規定するともいえる.物理世界にあるものを重視する感じだと,インターフェイスがスマートフォンになっても,結局,物理世界に干渉するのはモノだということなって,モノこそが支持体となるだろうけれど,そこにはイメージを介して,もう一つの別のサーフェイスを通さないとアクセスできないとなれば,そこは別のサーフェイスこそが機能を規定するという意味で大きな役割を持っているし,これまでのモノとイメージ,サーフェイスとインターフェイスという関係を変えてしまっている感覚がある.「イメージがモノの支持体となる」と書いたときに感じたうまく想像することができない感覚が,exUIにはある.
memo970
モノからインターフェイスがなくなるということはどういうことなのだろうか.もともとはモノに「インターフェイス」はなくて,必然的な形態がそこにあるだけであった.けれど,コンピュータによって,ハードウェアとソフトウェアとが分離して,そこにインターフェイスが生まれた.いや,「ボタン」が生まれたときにインターフェイスが生まれたとしたほうがいいのかもしれない.サーフェイスが機能と直結しなくなったときに,インターフェイスが生まれたということかもししれない.
インターフェイスはサーフェイスに張り付いていた.exUIはサーフェイスからインターフェイスを剥ぎ取り,もともとあったボタンも剥ぎ取る.ピアノから鍵盤を引き離してしまうものだろうか.ピアノはまた違う問題かもしれない.いや,音が出る四角い箱があって,スマートフォンにインターフェイスとしてピアノの鍵盤が表示されて,それをタッチする,箱からピアノの音が聞こえてくるとき,四角い箱が「ピアノ」となる.このように考えると,exUIはハードウェアからインターフェイスを引き離すだけではなくて,スマートフォンというハードウェアとソフトウェアとが一体化したモノから,ハードウェアを引き離したものとも言えるのではないだろうか.
スマートフォンが一枚の板としてハードウェアとソフトウェアとを一体化したモノとしてのインターフェイスを提供していた.exUIはスマートフォンからハードウェアを引き離し,モノのハードウェアに引き渡す.そのとき,モノはインターフェイスをスマートフォンに引き渡す.モノはサーフェイスを持つようになり,スマートフォンはインターフェイスを持ち続ける.このとき,スマートフォン自体はほとんど変わりないが,サーフェイス化したモノは,これまでの機能と直結した形から切り離される.この機能と形との切り離しは,スマートフォンがフラットデザインになったときに起こったことだといえる.そのときに「メタファー」がスマートフォンから消えたとすると,exUIを付与されたモノもまた「メタファー」で語られるなるようなあたらしさを示すことになるだろう.このように考えてみるとexUIというのは,モノのフラットデザイン化であり,それはアフォーダンスを示さないサーフェイスをつくるということなのではないだろうか.
memo971
アフォーダンスがないサーフェイスをいかに感じるのか? これは問題であって,ここには自己帰属感もなくなってしまうのではないかということも考えられる.アフォーダンスと自己帰属感は結びつけられて考えられているというか,ギブソンが軸となっている.何も引っかかりがないサーフェイスというのはあり得ないかもしれないけれど,少なくともモノとしての特徴,ボタンというインターフェイスが持っていたアフォーダンスは失われる.そのとき,モノはこれまでのモノとは異なっている.ボタンなど機能と結びついた凹凸を失うという意味で,電気の時代以降の凹凸を持ったサーフェイスとは異なることになる.
スマートフォンのフラットデザイン化がガラスに合わせて凹凸を無くしつつも,Z軸を仮想的に導入したように,モノにもあらたらしい凹凸が付与されるかもしれない.それがQRコードだとすると興味深い.「QRコード」というサーフェイスを考える必要があるのかもしれない.QRコードではなくても,モノのサーフェイスにスマートフォンのサーフェイスをかざす.二つのサーフェイスが重ね合わされるときに,インターフェイスが生じるというのは面白いと思う.
インターフェイスだけの話ではなく,アートからサーフェイスを考えるときには,山形さんの《ミュータント・スライム》から考えたい.表と裏という二つのサーフェイスに挟まれたようなミュータント・スライムを考える.アクリルの裏面にUVプリントされたミュータント・スライムは,表から見るとき,必ずアクリルのサーフェイスを通して見ることになる.私たちがイメージを見るときに必ずガラスのサーフェイスを通して見ている体験がここにはある.でも,普段は,裏のサーフェイスからイメージを見ることができない.しかし,《ミュータント・スライム》では裏からも見ることができる.
memo972
古谷さんがフリードの「没入」とハーマンの「脱去」は相性がいいのではないかと書いているけれど,私はここでハーマンの「実在的対象」をグリーンバーグのモダニズムの末の平面性が相性がいい,もしくは,ねじれた関係として考えるべきなのではないかと考えている.ソフトウェアによって世界が記述されている世界ではオブジェクトの「引きこもり」は難しいのではないか.もともとオブジェクトが引きこもることはないのではないか.ソフトウェアはそれを実証するような存在なのではないか.記述によって,世界の構造を書き,実装する.世界は引きこもることを許されなくなる.「許されなくなる」というのは言葉の綾で,もともと「引きこもる」ことはなかった.オブジェクトは常にそこにある.実在的対象,実在的性質,感覚的対象,感覚的性質はすべて一緒にそこにある.感覚されるし,実在もしている.そして,私たちは実在を記述することができる.実在は感覚することはできないかもしれないが,記述することができる.そして,記述かつ実装というかたちで存在に効果を与えるソフトウェアがこのことを明確にしたのではないか.ソフトウェアという記述が「サーフェイス」として現れていたのではないか,ということを考えたいのだろう.
memo973
アクリル板に表と裏という二つのサーフェイスがあって,そのあいだに閉じ込めラエなのである多様に見えるミュータント・スライムがいる.ミュータント・スライムには3Dの情報が与えらえれていて,表と裏とがある.平面作品には表はあるけれど,裏は見えなくなっていることが多い.だから,2次元平面と言われる.だけれど,それは3次元立体であって,表と裏と厚みがある.裏は見えなくて,厚みは忘れ去れている.ディスプレイの裏側も見えないことが多い,ピクセルの裏側は,ほとんど見えることがない.けれど,ミュータント・スライムを挟み込んでいるアクリル板は裏を見ることができる.裏から表を透かし見ることができる.そして,ミュータント・スライムは裏のサーフェイスにプリントされている.ミュータント・スライムは裏のサーフェイスに表から見たときに正面になるようにプリントされている.プリント面としては裏のサーフェイスが「表」だけれど,ミュータント・スライムの表はアクリル板の厚みの向こうにあるもう一つのサーフェイスとなっている.裏の裏は表みたいな感じで,サーフェイスがねじれてつながっているメビウスの輪みたいになっている.ここで,山形さんが制作したMVの話につないでいきたい.
memo974
水戸芸でのエキソニモの新作を考えたい.インターフェイスだけを切り出してきて,ディスプレイに表示する.インターフェイスを問題にしてきたエキソニモがこのような作品をつくることが面白い.ディスプレイに表示されているのは,操作可能性を失ったサーフェイスであるが,それはインターフェイスを切り取ったものである.インターフェイスがディスプレイに表示されている.このことだけを考える必要がある.インターフェイスのレイヤーのみを切り取った.インターフェイスをハードウェアとのつながりを切り取り,ソフトウェアとしての見た目を切り取る.そこに意味を吹き込む.操作はできないが,意味が生じる.ディスプレイも必要としないのかもしれない.切り取られたインターフェイスが表示されるサーフェイスだけがあれば良い.コンピュータには接続されていることを示すコードが伸びている.この作品は,とてもペラっとしたサーフェイスを感じさせる.見ているものが何であるのかを考えさせられる気がする.メッセージアプリのインターフェイスと言えばそうなんだけれど,そのインターフェイスのみを剥ぎ取ったとき,剥ぎ取られたインターフェイスは何と言えばいいのか.Instagramのライブのインターフェイスは,自分が入り込むことから,Queさんの「apple」に近い「バルク」を感じさせる.
とすると,《I randomly love you / hate you》はサーフェイスのその先が一見見ないように感じられる.けれど,💬の表示がどこかに,隣のディスプレイとのつながりを示し,一つので完結したサーフェイスではないことを示している.何か,その表面以外の気配を示すこと.それは,インターフェイスではないのか.最小の要素でサーフェイスをインターフェイス化しているのが,《I randomly love you / hate you》ではないのだろうか.では,どうしてそれが可能なのか.私たちは何を《I randomly love you / hate you》に見ているのであろうか.テキストを読むことによって生じる意味とディスプレイの表示との関係とを考える必要があるのではないだろうか.文字の意味だけではなく,インターフェイスも考える.そして,その延長でサーフェイスとしても考える.
memo975
「接着剤としてのソフトウェア」ということを書いたけれども,それがどのようなイメージになるのかをあまり思い描けていなかった.けれど,それを図にしてくれた人がいた.ヒトの行為がソフトウェアの衣をつけたハードウェアにグニューと伸びていっている感じ.ソフトウェアがノリのように機能しているから,ヒトの行為がサーフェイスの接着する.結果して,行為が伸びているような図になる.この図がとてもよかった.行為した結果というか,その後に,行為がサーフェイスに付着する.それは.行為からのデータがバルクに入り込んで行くことでもある.ヒトの身体はひとつの行為を終えるたびに,サーフェイスから離れるが,その行為で生じたデータはヒトとサーフェイスとを結びつけ続ける.だから,行為が伸びた状態になる.行為はサーフェイスとその奥のバルクに留まり続ける.ヒトの身体はサーフェイスから離れるけれど,行為はバルクに留まる.さらには,ハードウェア群がソフトウェアによって結びつく.その中心に,ヒトがいて,あらゆるところに行為を伸ばしている.これはヒトが中心にいるといるというよりは,ハードウェアとソフトウェアとが便宜的にヒトを中心に置いているのであろう.効率を考えると,ヒトを中心にしたほうがいい.ヒトが中心にいるけれども,それはヒト中心であることを意味しない.ハードウェアとソフトウェアとが効率的に結びついた結果として円形になり,そこで一番効率良いところにヒトが置かれているといったほうがいいだろう.いや,この図が一つの縁だからヒトが中心にいるように見えるのであって,もっと多くの円が連結していたら,中心も何もないだろう.単なるパターンのなかに置かれたヒトということになるだろう.
memo976
《I randomly love you / hate you》を書いてから,さらに,この作品の「薄さ」というか,何を示しているのかが気になってきた.山形さんの《ミュータント・スライム》は表と裏とがあることが興味深いのだけれど,エキソニモの《I randomly love you / hate you》にも表も裏もなくて,一切の厚みがないような感じがある.それが何なのかはわからない.この前も書いたように,インターフェイスを切り出してきたものだからであろうか.では,いや,それはインターフェイスそのものではないのか? いや,生成されている映像といえば済むとも言われそうである.しかし,生成されている映像とは言っても,そこに厚みや深さを感じることはある.《I randomly love you / hate you》にはそのような気配が一切ないのが面白いと思う.山形さんにも《Message》というメッセージングアプリのUIを使った作品がある.この二つの作品を比較してもいいのかもしれない.
山形さんの《Message》はスクロールできることもあって,そこにはインターフェイスのレイヤーある感じがする.インターフェイスが一つの平面になっている.対して,エキソニモの《I randomly love you / hate you》はスクロールすることなく,生成される会話を見ているだけである.それゆえに,そこにはインターフェイスのかたちはしているけれど,それはかたちを借りているだけになっている.だから,そこにサーフェイスを感じるのかもしれない.また,《Message》には文字がなく,バルーンだけが表示されている.肝心の情報がないけれど,バルーンの配置でなんとなく話の盛り上がりがわかるような気がする.対して,《I randomly love you / hate you》では,生成された文字が一定のリズムで入力され続けている.共通しているのは,入力中を示す「💬」である.ここではないインターフェイスで文字が入力されていることを示す💬.それを見ているとき,こちら側のインターフェイスは💬のためのサーフェイスになっている感じがある.向こうを思いつつ,こちら側では何もしない.ただ見て,待つ平面=サーフェイスがそこにある.
気配を向こうに感じつつも,こちら側にあり続ける平面がサーフェイスなのかもしれない.
memo977
このスクリーンショットが気になった.というか,気になったからスクリーンショットを撮った.カワイ ハルナさんのイラストにTweetのウィンドウが重なっている.ただそれだけなんだけれども,「サーフェイスから透かし見る👓👀🤳」というタイトルにあっているようなあっていないような.透かし見ていない気もするけれど,サーフェイスの重なりではある.透かし見れないサーフェイスの重なり.でも,ここに重なりを見てしまうこと自体が「透かし見る」というような気がする.「透かす」ということをしっかり考えないといけない.イメージしているのはマクルーハンの「looking through」.ステンドガラスやテレビのようにこちらからも透かし見るし,向こうからも光が透かしてやってくる.向かい合った線が出会う場所としてのサーフェイス.そして,その線がインターフェイスのように相互作用をすることなく,互いが関係なくサーフェイスをすり抜けているような感じだろうか.インターフェイスとサーフェイスとのあいだで揺れていく平面的な何かを捉えようとすることが大切かなと思っている.
サーフェイスを互いの線=矢印が交わることなく並行に走っているというのは面白い関係のような気がする.「並行」でなくてもよくて,様々な向き,角度の矢印がサーフェイスを透過していく.それらが丁度向き合ったときに,サーフェイスはインターフェイスになるのかもしれない.小さな矢印が様々な向きと角度で透過していくなかで,矢印の関係のなかで,その平面がサーフェイスになったり,インターフェイスになったりする.
memo978
イリュージョンは二つの平行する平面性───描かれたキュビスムの平面性と絵具の表面の文字通りの平面性───の間に閉じ込められて,いささか深まっているが,と同時によりいっそう曖昧になっている.
コラージュ,クレメント・グリーンバーグ
グリーンバーグのこの言葉から,山形さんの《ミュータント・スライム》を考えてみたいと思った.ミュータント・スライムはアクリルの板に閉じ込められているように見えるけれど,実際には,裏側のサーフェイスにプリントされている.そして,ミュータント・スライムは3Dデータが与えら得れていて,チューブになっていて,光源も設定されている.それが裏側のサーフェイスにプリントされて,透明のアクリルのあいだと表のサーフェイスを通して見えている.プリントされた「絵具の表面の文字通りの平面性」は裏のサーフェイスといなるだろうか,いや,表のサーフェイスを通して見えているのだから,アクリル板そのものが文字通りの平面性となるのかもしれない.
《ミュータント・スライム》では「文字通りの平面性」が一つの表面ではないことを指摘しないといけない.「文字通りの平面性」だと考えられるアクリル板は表と裏の二つのサーフェイスから出来上がり,そのあいだとして透明で向こうが見透せる「透き間」がある.グリーンバーグの平面性は,ほぼカンバスなどの物質の表面のことを指すけれど,実際には,その表面には表と裏,見えている表面と透明な場合は「透き間」となるバルクがあり,その先にもう一つの表面がある.このとき,二つの表面をそれぞれ表と裏のサーフェイスと呼ぶ.サーフェイスは「表面」を見えている表と見えていない裏とそのあいだのバルクに分割した際の表と裏の「表面」のことを言いたい.つまり,サーフェイスは常にその先にバルクにつながっている.グリーンバーグの表面ではその手前と上が問題となるが,サーフェイスではその先につながるバルクが問題となっていくる.そして,なぜ,バルクが問題となるかといえば,現在のサーフェイスは「インターフェイス」を経由しているからである.インターフェイスはこちら側とあちら側とを接続する.ここでこちら側があちら側に回り込み,あちら側がこちら側に回り込む可能性が生じる.だから,サーフェイスの先が問題となる,同時に,もちろん,グリーンバーグが平面性で論じたように,サーフェイスの手前とその上とは引き続き問題となり続ける.なぜなら,インターフェイスは,グリーンバーグが追求した平面性で問題となるその手前とその上の問題を明確に示したものだからである.サーフェイスはその手前と上の問題をグリーンバーグから引き継ぎつつ,さらに,インターフェイスを経由した結果として,バルクというその先の問題も示すものなのである.
この問題意識のもとで,山形の《ミュータント・スライム》を改めて考えてみたい.
memo979
変に緊張している.授業が始まるからだと思うのだが,授業期間が始まるときは変に緊張する.授業前も緊張する.緊張していて,どこか集中できない状態が続く.緊張をほぐすためにメモを書き始めたのだけれど,それも効果なく今も緊張はほぐれない.けれど,こうやって書いているうちに,緊張がほどけて,別のことが思い浮かべて,そちらに没頭できるかもしれない.
オブジェクトに没頭することができるののか.緊張というどこか,二つのあいだを繋いでいるような状態から,孤立するというか,個物として引きこもることをしたい.没頭したい.でも,「没頭」という感じでは,「頭」がなくなっている.没頭するとは,身体になること.いや,頭と身体とを同じように使うことなのかもしれない.頭が出過ぎてはいけない.けれど,緊張は,身体的な感じがある.頭ではわかっているけれども,身体が勝手に緊張という状態になっている感じがある.頭も身体もコントロールはできない.
コントールしなければいいと思うけれど,それは難しい.こうしてキーボードを打っているのもコントロールの結果であるから,何もコントロールしない状態になるのは難しい.でも,自分でコントロールしているとは思わなくて,環境に応じて動いているといえば,半ばコントロールから離れる感じがある.近頃,考えている「サーフェイス」は,半ばコントロールから離れる感じを言語化したいのだと思う.インターフェイスというコントロールされた平面を経由した後で,少しだけコントロールを離れるとはどういうことなのか.ここを考えたいのだと思う.
スクリーンショットはインターフェイスからコントロールを引き剥がしてサーフェイスに変えてしまうが,それはまだインターフェイスのなかにあるので操作可能性の中にある.けれど,そこに映るインターフェイスの要素は,サーフェイスとして操作可能性の外側にある.インターフェイスにはコントロールするべき向こう側があるけれど,サーフェイスには向こうを操作できない.けれど,そこにはサーフェイスから続く,バルクがある,それはサーフェイスを形成するものであり,私たちからすれば向こう側のような存在であるが,それはサーフェイスそのものでもあるから,向こうではない.
memo980
山形一生さんの《Untitled(bird)》と《Untitled(stingray)》を見ていると,ディスプレイの裏側というか,ディスプレイの向こう側とこちら側とのあいだに何かがある感じがある.文字通りに,こちらから向こうへ行けないという話ではなくて,《Untitled(stingray)》だとペットボトルの水はディスプレイの向こう側に入っている.ディスプレイのガラスの裏側にあるピクセル表面に入って,エイが存在する空間へと水は放物線を描く.作品記述をした際に気がついたのだが,ディスプレイのガラスの裏側が一つのサーフェイスであり,エイが存在する空間を示すピクセル自体がバルクなのではないだろうか.
ピクセルは「サーフェイス」のように見えるけれど,それはいかようにも深さを持つことができるバルクとして捉えた方が良いのではないか.では,そのサーフェイスはどこにあるのか? これが作家ごとに設定が異なるのではないだろうか.山形さんの場合はディスプレイのガラスにサーフェイスが設定されている.だから,ガラス裏側はバルクとは異なる性質が与えられるがゆえに,ピクセルで描かれた水がそこから生まれるのであり,鳥がそこに衝突するのである.それらはピクセルのバルクとガラスの裏側というサーフェイスとの境目が生じる.それは仮想的なものでしかないのかもしれないが,ピクセルという変幻自在の光であり,マテリアルによって,サーフェイスが設定されることを示しているといえるのかもしれない.
memo981
モノの内部=バルクとサーフェイスはつながっているけれども,その性質は大きく異なる.では,どこから変化するのかは,連続的になめらかに変化しているから,ここで変化という断絶はない.サーフェイスはバルクへとつながっているけれど,それは別の性質を示す.では,そこにインターフェイスという概念が入ってくるとどうなるであろうか.そもそも,サーフェイスは常に何かに接しているから,いつもインターフェイスとなっている.となると,サーフェイス=インターフェイスということになる.しかし,ここには違いがある感じがある.そこを考えたい.バルクとセットのサーフェイスであり,インターフェイスとなるとバルクとのつながりというよりも,その向こう側にある別の存在となる感じがある.別の存在を措定しているとき,サーフェイスはインターフェイスになる.
サーフェイス/インターフェイス/バルクと同じところをぐるぐると回っている感じがある.一度,この流れを断ち切るためにも山縣さんの作品をじっくりと考えてみよう.ピクセルがつくるバルクからサーフェイスの流れがあって,それはなめらかにこちら側に入り込もうとしているが,そこには断絶がある.こちら側も向こう側もない.サーフェイスがこちら側と向こう側とを引き離してしまう.双方の別の存在とは離れながら,サーフェイスはバルクという別の性質へと変わっていく.
アングル上では、意図的に窓の”外側”から観測した部屋の風景であり、3DCGにおける部屋以外のオブジェクトを一切として制作せず、外の光源すら設定しないことにした。そうすることで、外は存在しなくなり、「窓」の意味・状態が一旦融解される。
本来、窓が内側から外側を観測する機能をもつオブジェクトならば、この世界において外は存在せず、むしろそれは内側(部屋)が外側であるように忽然と、むき出しに佇まうようになる。端的に言うならば、この部屋が窓から見える”風景”となる。この部屋は角銅の姿勢そのものとも考えられるであろう
https://newreel.jp/reel/618
山形さんのインタビューから引用したが,ここで言われている外側と内側とが入れ替わるというか,設定によって内側が外側になっているということが起こるその瞬間というか,その条件から「窓」というインターフェイスがサーフェイスに変化する瞬間を記述したい.
memo982
ラファエル・ローゼンダール 寛容の美学を見た.ローゼンダールは「回廊」をつくろうとしたような気がする.十和田市現代美術館が展示室を廊下で結ぶような感じになって,Haikuはそのような廊下に展示されていた.ウェブサイトを16個選び,2分ずつにまとめた映像作品は,展示室の2つの壁面に4つずつ縦長に映像を投影していた.8個の同じ映像の中央を歩いているときに,ローゼンダールは映像の「回廊」をつくろうとしたのではないかと思った.ウェブサイトを見ているときのように,正面から見るのではなく,もちろん,今回の展示形式でも正面から見れるけれど,それよりも,視野の両側で動き続ける作品を見ながら,歩くという体験が新鮮であった.普段と異なる形式だから新鮮なのは当たり前だけれど,それ以上に,ローゼンダールの作品が平坦に見えたことが驚きであった.とは言っても,彼の作品はもともと平坦なものが多いので,これも今回特有のことではないかもしれない.けれど,それでもローゼンダールの作品がこれまで以上に平坦で,プロジェクターがつくる光のサーフェイスに閉じ込められている感じがあった.その平面が抜け出そうとしているように見える映像もあれば,そのサーフェイスで自由に遊んでいるような映像もあった.8個の巨大な映像でできた回廊を歩きながら,作品を見ていると,映像は視野のはしでどんどん平坦になっていった.そして,自分は映像の色に染めれていた.どこか,ダン・フレイヴィンの蛍光灯の作品を想起した.作品を構成する光が空間を再構成していく.
memo983
モノを「サーフェイス-バルク-サーフェイス」で考えてみると,サーフェイスの部分にソフトウェアが接着されたということになるだろうか.サーフェイスにソフトウェが接着されてインターフェイスになって,サーフェイス-バルク-サーフェイスというフレームが,インターフェイスに一括りにされて,向こう側の主体とのやりとりをする場になった.ソフトウェアによってハードウェア=サーフェイス-バルク-サーフェイスが無効化されたのかもしれない.サーフェイスがインターフェイスになったときに,モノにどのような変化が起きたのか.サーフェイスにソフトウェアが接着されて,インターフェイスになり,インターフェイスは「サーフェイス-バルク-サーフェイス」を包み込んだ.
そして,現在,モノを包み込んだインターフェイスを引き離す動きがある.そうすると再び「サーフェイス-バルク-サーフェイス」が現れるが,それはインターフェイスを経由した「サーフェイス-バルク-サーフェイス」であって,インターフェイスだけが別の平面に移植された「サーフェイス-バルク-サーフェイス」になっている.他者とのコミュニケーションを引き離されながらも,それは別のインターフェイスを介して,機能する.exUIはどこか奇妙な感じがする.
exUIに行く前に,「サーフェイス-バルク-サーフェイス」を包み込んだインターフェイス=ソフトウェアのことを考える必要があるし,その状態でインターフェイスを「サーフェイス-バルク-サーフェイス」として考えてみる必要がある.インターフェイスをこちらと向こうとの界面ではなく,インターフェイスを構成しているのは文字通りの一枚の限りなく薄いサーフェイスであり,それは,その薄さ出会っても「サーフェイス-バルク-サーフェイス」という,表と裏をその間を持つモノとして考える必要がある.それは,モノを「サーフェイス-バルク-サーフェイス」と分解して考えることであり,インターフェイスというソフトウェアと「サーフェイス-バルク-サーフェイス」との接着の仕方を考えることにつながってくると思われる.
memo984
山形一生さんの作品を《ミュータント・スライム》から考えてみる.押し花のようにアクリルの表面に押しつぶされたように見えるミュータント・スライムであるが,実際は,アクリル板の裏面にプリントされたものである.表面に押し潰されたと書いたけれど,イメージとしては,アクリル板のあいだに入れ込まれたチューブがミュータント・スライムになっている.
透明なアクリル板の裏面にプリントされたミュータント・スライムは表面から見られることを想定されている.ここではアクリルの板に裏と表の2つのサーフェイスとそのあいだがあることが前提となっている.私たちが画像をみるとき,ディスプレイを見るとき,画像やテキストは常にディスプレイのガラス越しに見える.ならば,アクリル板の裏側にプリントして,アクリル越しにミュータント・スライムを見るのが,私たちのディスプレイの視覚的体験に近いものになるだろう.3Dデータを与えられたミュータント・スライムには前と後ろがあり,前を向いたミュータント・スライムがアクリル板の裏のサーフェイスにプリントされている.そして,それはアクリル板の厚みに押し込められたチューブのように見えるように計算されている.
ここではアクリル板が厚みを持つことが前提となっている.表と裏の2つのサーフェイスとそのあいだのバルクによって構成された厚みが前提とされている.ミュータント.スライムは実際にはバルクに入り込めず,裏のサーフェイスにプリントされている.サーフェイスとバルクとは連続的な変化で1つの物質を形成しているが,そこには確かな違いがある.そして,ディスプレイを見るという体験は,常にガラスの裏側に画像やテキストを見ることになっている.
赤岩さんのスクリーンショットではディスプレイの手前の空間を問題にしたが,山形さんの作品ではディスプレイの奥の空間が問題なっている.ガラスという表のサーフェイスの奥に広がる空間=バルクのその先にあるサーフェイスとが問題となる.そして,《Untitled(bird)》《Untitled(stingray)》では,そのバルクからこちらに向かってくる鳥が手前のガラスのサーフェイスに衝突し,エイに与えられる水は,ガラスのサーフェイスの裏側から注がれる.そこでは手前の空間はないことになっているが,ガラスのサーフェイスの奥のバルクの存在が強調される.その奥のピクセルの最深部とでも言える裏面のサーフェイスと,鳥とエイとが活動するバルクがあり,鳥が激突し,エイに与えられる水が生じる手前のサーフェイスがある.山形は《Untitled(bird)》《Untitled(stingray)》で,ディスプレイというモノの厚みに生じる2つのサーフェイスとそのバルクがつくりだす厚みをCG映像で切り出す.サーフェイスとバルクとのちがいから鳥はどうしてもこちら側に来ることができず,エイに与えられる水もまた,こちら側から向こう側に行くのではなく,ガラスのサーフェイスを透過するかのように,その裏側からバルクへと注がれて,背面のサーフェイスと一体化するかのように活動しているエイへと至る.
memo985
VRと身体も考えないといけない.サーフェイスから考えることができるのであろうか.そもそも「サーフェイス」とは何なのだろうか.ものの表面.ものの表面はその他のものの部分とは異なる.だから,双方に別々の言葉,表面=サーフェイス,その内部=バルクという言葉が与えられている.しかし,私たちは,そこにある「もの」としてみる.VRの世界の方が「モデル」と「テクスチャ」で明確に分けられている感じがある.VR,もしくは,ARというのは,世界をサーフェイス/テクスチャのレベルで見ることなのかもしれない.
0から「もの」をつくるとモデルとテクスチャに分離するのは興味深いことである.このあたりのことは谷口さんの作品で一度考えたことがあるから,そこから改めて考えてみたい.そもそも,「透かし見る」という言葉は,谷口さんの作品の考察から出てきたものであった.テクスチャという「もの」の表面が「もの」自体となっている.テクスチャは硬化してモデルに接着されている.いや,隈研吾展でみた木目をプリントされたアルミの板のように,テクスチャは「もの」を他の「もの」に擬態させる.プリントという「接着」と技術によって,「もの」のサーフェイスが書き換えられる.「もの」自体というかバルクは変わらない.サーフェイスに別のテクスチャをプリント=接着することで,見え方を変えてしまう.サーフェイスにはテクスチャを付着させることができる.この点では,サーフェイスは「もの」と連続している.テクスチャは「もの」の側にないで,後から与えられるものである.となると,サーフェイスは,ノーテクスチャのモデルの一番外側の部分だということができるのかもしれない.
memo986
プリントと接着というのはある意味,同じことなのかもしれない.いや,違うけれども,何かが密着するのは同じかもしれない.では,プリントされた表面というのは「もの」のサーフェイスの上に別のテクスチャが付加された状態と考えたらいいのであろうか.平面をサーフェイスとバルクとのに分けて,サーフェイスにプリントが施されるとき,それはテクスチャとなる.バルク-サーフェイス-テクスチャということだろうか.テクスチャはバルクとは関係ない質感を示すことになるだろう.
普段,「もの」をバルクのレベルで考えることはないだろう.サーフェイスのレベルで考えて,サーフェイスを基準面としてこちら側と向こう側に主体が位置するときは,それはインターフェイスと呼ばれる.「主体」でなくても,ものとものとが接していたいたら,つまり,接着していたら,それもまたインターフェイスと呼ばれる.サーフェイスが気体と接しているときだけ,それはインターフェイスではなく,サーフェイスと呼ばれる.そこにプリントが施される.そうすると,サーフェイスはテクスチャを持つことになる.しかし,プリントのインクとサーフェイスとの関係はインターフェイスということになるだろうか.しかし,サーフェイスとプリントを1つのものと考えると,それはテクスチャと言ったほうがいいだろう.
《ミュータント・スライム》はアクリル板にUVプリントされている.このとき,サーフェイスに《ミュータント・スライム》のテクスチャがプリントされたと言えるのだろうか.サーフェイス一面にプリントが施された場合は,「テクスチャ」という言葉が合っている感じがあるけれど,《ミュータント・スライム》のようなプリントが施されたとき,それはテクスチャとは異なる感じがある.しかし,《ミュータント・スライム》がプリントされることで,アクリル板ではなく,《ミュータント・スライム》の質感が前面に出てくることを考えると,それはアクリルのサーフェイスに施されたテクスチャと考えることもできるだろう.
《ミュータント・スライム》では裏面にプリントされている.アクリルが透明だから表も裏もないかもしれないが,実際にプリントされているのは裏面で表面にはまるまるサーフェイスが残っている.しかし,裏面にプリントされた《ミュータント・スライム》が表のサーフェイスに影響を与えていることは無視できない.逆にいえば,《ミュータント・スライム》は表に来ることができないでいる.ここが,山形さんの作品では重要な感じがする.私たちが表しか考えないものに裏面があることを示し続けている感じがある.表と裏とがあるということは,それは2次元ではなく,3次元の「もの」としてそこにあることを示している.平面作品などあり得ないということを山形さんの作品は示している.表と裏とは重なり合って,そのあいだを示す.それは,隙間であり,透き間であり,バルクである.
memo987
自分は一体何を考えているのだろうか,という自問から始めてみる.自分が考えている単語を中心にして,作品や事象を位置づけてみること.
PUGMENTも気になっていて,IMAに載っていた林央子さんのテキスト「報の民主化が,PUGMENTを生んだ」に書かれていた写真と画像とに関する言葉が気になっているので,写経する.
「写真というものは,撮影する人の身体性を感じるもの.撮影する人に身体があることを感じられるものが写真だと思ういます.その場所に行って撮影した,重いカメラを持って行ったという行為,あるいは手軽に撮られたスナップショット写真.Instagramのイメージも,その場所に行って撮られたものという身体性を感じるものは,写真.機材の重い軽いにかかわらず,カメラや撮る人にの身体性を感じるものが,写真だととらえています.PUGMENTが服づくりの素材にするものは,画像にあたるもの.撮影する人の身体性を全く感じないスクリーンショットや,ネットにあふれる服の広告のイメージなのです.作家性のある写真ではなく,情報として扱える画像であれば,それを拡大したりきりぬく行為をすることに,ためらいを感じません.画像をさらに変換したイメージをコラージュしてして,服にして,人の身体の上に置く.それは画像に身体性を与える行為になると思います.PUGMENTは,画像から得たイメージを加工して,それを素材に服をつくり,人に着せます.着る人の身体を得た画像の服は,人に着せられたことではじめて,写真になるんだと思います」
身体性を持つ写真と身体性を持たない画像.これほど鮮やかに「写真」と「画像」とを区別したものはないのではないだろうか.
「撮影する人の身体性を全く感じないスクリーンショット」というのは,「スクリーンを透かし見る」で,赤岩さんのスクリーンショットに対する考察にも繋がりそうである.ディスプレイとの0距離のスクリーショットには身体性を感じる余地がないけれど,ディスプレイ手前に空間が広がると,そこに撮影者の身体性が生じる.となると,赤岩さんのあの「スクリーンショット」はスクリーンショットではあるが,それは「画像」ではなく「写真」という別物になっているのかもしれない.
memo988
グリーンバーグがキャンバスの表の平面における表面と奥行きのあいだを絶えず往還する効果を見たように,インターフェイス以後の私たちはあらゆる平面に対して,表と裏の二つのサーフェイスとそのあいだのバルクを意識してしまうようになってきている.平面はこちら側と向こう側とのインターフェイスを切り出したサーフェイスとなっている.そして,インターフェイスとサーフェイスとのあいだを絶えず往還しているのである.
と書いたけれど,これでいいのだろうか.インターフェイスを経由したのちの平面を考えるということはいいと思う.それはこちらと向こうというの二つのものを一つのものの表と裏として捉えることになるような気がする.二つのものがバルクを両端にあり,一つのモノになっている.矛盾している感じもあるけれど,これが自然な状態になっているのが,現在の平面,つまり,二つのサーフェイスとそのあいだのバルクなのではないはないだろうか.
memo989
VRにおける呼吸を考えてみると面白いかもしれない.「重力」と並んで「呼吸」というのは物理空間で絶対的なもの,少なくておも生物にとってはしなくてはならないものであるから.そして,呼吸の動作というのは内部器官と結びついているから,その様子をテクスチャとして記録しても,それは必ず,内部器官と関係を示すことになる.テクスチャとモデルとの関連を示す動作として考えると面白い.それを,ゼログラビティの光のリフレクションとともに提示することができたらいいのではないだろうか.物理世界をシミュレートしたVRの光を受けながら生身の身体が呼吸する様子を撮影して,VRに戻して,モデルに生身の身体のテクスチャを与える.それを,さらに内と外との境界となっているヘルメットのバイザーの描写で強調してみる.
バイザー越しにみる世界は,バイザーを透過してみる世界であって,See throughはVRにとって大きな問題だと考えられる.電脳コイルのメガネ越しにみる世界とそうではない世界の差は今でも印象に残っている.これらは,全てヒトの形をしているものであるが,VRはもっと魔術的にヒトの身体のかたちを変えてしまってもいいはずである.テクスチャの変化だけではなく,モデル自体を変化させて,認識を変更していくことができるのがVR空間ではないだろうか.そして,ヒトはすでにビデオゲームのインターフェイスにおいて,ボタンと十字キーのみで身体を動かしすることをしている.それは身体の縮減である.そこで,縮減した身体を別のかたちにかえることもできるはずであり,そこでは呼吸法も変わるかもしれない.
memo990
インターフェイスをめぐって,上のような変化が起きているのではないだろうか.インターフェイスを形成していた二つの面が,文字通り,二つのサーフェイスとして表と裏とを構成するようになり,「インターフェイス」と呼ばれていた部分が「バルク」となって,一つの「もの」の全体として機能する.「インターフェイス」の実体化といってもいいのかもしれない.しかし,そのインターフェイスは二つのサーフェイスに挟まれていて,「もの」のようになっている.私たちとの距離によってサーフェイスはバルクに抱えたインターフェイスを表出するようにもなるし,単なる二つの表と裏のサーフェイスとしても存在する.サーフェイスからつながるバルク自体がインターフェイスとなっていること.バルクはバルクであり,インターフェイスにもなる.だから,サーフェイスとが常にインターフェイスと入れ替わる可能性を示すと同時に,バルクとのつながりも示すのである.
インターフェイスという関係が,二つのサーフェイスとそのあいだのバルクというかたちで「もの」のようになること.インターフェイスの関係性を二つのサーフェイスが囲い込んでしまう.「インターフェイス」を切り出すことの意味を考えてみないといけない.インターフェイスという関係を「もの」のような状態として扱うことは可能だろうか.このように切り出したとき,インターフェイスの状態は変化するのか,そもそも,それまで向かい合っていた二つの存在の状態は変化するのであろうか.
memo991
インターフェイスというこちら側と向こう側を接続する平面を考える必要がなかったグリーンバーグにとっては,「こちら側」しかないのであり,こちら側を示すキャンバスの表の平面に生じる奥行きを考えることが,平面を考えることであったのである.対して,インターフェイスはソフトウェアを接着剤として,こちら側に向こう側のものを引き寄せる二つの平面の重なりである.
グリーンバーグの考えたキャンバスと絵具が構成するサーフェイスとディスプレイという表面にガラスと裏面にピクセルとをソフトウェアで接着したサーフェイスとを,再度,ソフトウェアで接着してあらたなサーフェイスがつくられているのではないだろうか.
ディスプレイとグリーンバーグが示したサーフェイスとを接着してみると,そこにはインターフェイスに似た構造が出来上がる.というか,インターフェイスという向こう側をこちら側に抽出する二つのサーフェイスの重なりを経由しているからこそ,グリーンバーグの平面とディスプレイとを重ねて考えてみようという気になるのだろう.ディスプレイの向こう側にはグリーンバーグの平面が広がっている.その手前には透明なガラスがあって,それは透明であるがために,ディスプレイが表面と裏面とそのあいだから成立する一つのサーフェイスであることを見えづらくしていた.しかし,近年,ディスプレイを一つのサーフェイスとして扱う作品が多くなってきているし,ディスプレイが示すサーフェイスを別の素材で表現することもできてきている.
memo992
グリーンバーグが問題としていた平面は,キャンバスの平面とそこに描かれたものがつくる奥行きとが問題となっていて,その手前の空間は問題となっていない.ディスプレイにおいても通常はその手前の空間は問題とならない.しかし,ディスプレイがインターフェイスの一部を構成するようになると,ディスプレイ手前の空間が重要視される.そこでの行為が問題となるからである.同時に,ディスプレイはピクセルとガラスとが互いに裏面と表面として密着するように構成されているが,ピクセルの手前に厚みのある空間が生まれているように見えるときがある.ディスプレイの表示面をピクセルという裏のサーフェイスとガラスという表のサーフェイスとの組み合わせで考えた場合,ピクセル手前であり,同時にガラスの奥の空間が問題となってくる.ディスプレイを構成する二つのサーフェイスの手前と奥行きとが一つになって「バルク」となる.さらに,同時に,インターフェイスを経由した私たちは,ディスプレイ手前の空間が意味あるものであることを知っている.ディスプレイ手前での行為が問題になるからこそ,ガラスの向こうでピクセルの手前に出現するこれらのサーフェイスとは異なる性質を持つバルクが問題になってくるのである.
memo993
VRをやっている人を外側から眺めるのと,ゼログラビティの撮影風景とを重ね合わせて考える,というようなメモを書いた.テレビでVRで遊んでいる人の映像が映っていて,その身体の動かし方が,ゼログラビティの撮影での俳優の不自由な感じというか,機械のコントロールされた身体の不自由さと似ているような感じがしたから.身体の不自由さという観点からVRを考えてみてもいいのかもしれない.VRの表現の質,インターフェイスとしての質感というのは,物理空間の身体の不自由さというか,「VR」によってあたらしく制限された身体の動きに寄るところもあるのではないかと考えてみたい.その点では,ゼログラビティは宇宙というあたらしい制限のもとでの身体を物理空間とコンピュータという制限のもとで映像化しようとしているから,最適な教材なのかもしれない.でも,求められているのは,これではない気がするけれど,認識の変化ということを考えるのであれば,この辺りから探っていくのがいい感じがする.あとは,VRではどこかサーフェスとなっているのかとか.でも,サーフェイスはバルクに至るのではなく,サーフェイスのみであるところも面白い.いや,サーフェイスが突き抜けるという制限のもとでのバルクとの関係を考えてもいいのかもしれない.サーフェイスとバルクのつながりとテクスチャとモデルに適応させることは可能なのだろうか.それは,VRを見ているのか,それとも体験しているのかでも変わってきそうな感じがある.
memo994
今や建築における「装飾」という概念を、ポストモダニズム建築のように、単なる記号的なスタイルと捉えては、その本質をとりのがしてしまうだろう。すべての様式から等しく自由となったポストモダン以降、われわれはその概念をより拡張して思考すべきである。つまり、装飾という概念は、もはや、物の現われ、様相、いわばテクスチャーと同義に扱われるべきなのだ。
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マテリアルを問わない表層の加工技術として、プリント、コーティング(塗装)、ブラスト、磨き等も挙げておく。とりわけ、プリントという技術はおおよそすべての素材に適用可能であり、あらゆる素材の持つ差異を(少なくとも表面的・視覚的には)消し去り、また新たな様相を生み出しうる技術である。そこではあらゆるものがスキャンされ、コピーされ、編集されていく。その発展は、物質とは、認識とは何なのかという問題をわれわれに提起するだろう[fig.15]。また、プロジェクション(映像投影)の発展もまた、物の様相や装飾に対して、より本質的な問題を提起することになろう。
http://10plus1.jp/monthly/2018/04/issue-02.php
装飾=テクスチャ=サーフェイス=プリントという流れで考えてみてもいいかもしれない.サーフェイスへのプリントによって,バルクへの侵入が阻害される.でも,それだと,異なるものを一つのモノとして扱うことに反することになってしまう.全てはバルクに通じる.物質とは何なのかが問われていると考えるといいのかもしれない.
memo995
《Body Paint》を見る体験の流れを考えてみる.
- 一部を絵具で塗りつぶされたモニタを見る
- モニタのフレームのなかに絵具を見る
- 通常はフレームで区切られた表面にはピクセルの光が存在する
- フレームのなかの表面にピクセルの光と絵具というモノが混在する
- 光とモノとのあいだで,見ている人の認識に混乱が生じる
- モニタの表面から「ヒト」がニュッと出てくるように見えてしまう
畠中 ディスプレイに映し出される人体の背景をペイントで塗りつぶしてしまうエキソニモの作品《Body Paint》(2014)も,そもそもディスプレイという,そこに映っているものに没入させる機能があるものを実体化させる行為だったと思います.そうすることで,実体が,映像であるはずですが,ディスプレイの向こうからニュッと出てきてしまう.そういうメディアとオブジェクトのあいだをすり抜けて映像が立ち上がる作品で,とても秀逸な作品だったと思います.p.94
メディア・アート原論 あなたは、いったい何を探し求めているのか?,久保田晃弘・畠中実編著
さらに,Body Paintのニュッと出てきた映像の流れで《キス、または二台のモニタ》を考えてみる
- モニタの表面から「ヒト」がニュッと出てくるように見えてしまう
- 2台のモニタを重ねたら,ニュッと出てている二人のヒトはキスできてしまう
- 実際にはモニタが重なっているだけれども…
- モニタ一面に表示された顔(フェイス)を考えて見る
- モニタの表面(サーフェイス)がヒトの顔(フェイス)になる
- Body Paintのように「ニュッ」と映像が実体化していると感じるのではないか?
- 2台のモニタが重なって見ない部分ができることで,映像がニュッと実体化する?
《キス、または二台のモニタ》を《Body Paint》の流れで考えると,《Body Paint》でニュッと出てきてしまった実体化した映像を重ね合わせたのが,《キス、または二台のモニタ》ともいえるのではないだろうか.
しかし,フレームのなかのサーフェイスからニュッと押し出される感じで実体化された映像が,モニタを重ねわせて,グニュと再度,モニタのサーフェイスに押し返したのが《キス、または二台のモニタ》とも考えることもができる.《キス、または二台のモニタ》ではフェイスがサーフェイスを覆ってしまっているいて,それゆえにフェイスが実体化するというか,モニタのフレームを超えた存在感を持っているとも言える.けれど,サーフェイスを超えたフェイスは二つのサーフェイスを重ね合わせたときに,「キス」という行為とともにフレームに押しとどめられて,フェイスとして機能しているともいえる.でも,フレームが重ねられたときにこそ,フェイスはサーフェイスから自律した存在になっていて,だからこそ,キスが成立するともいえる.「キス」というフェイスの重ね合わせの状態において,モニタのサーフェイスとフェイスとが混在し,混乱する.
memo996
ゼログラビティの撮影風景で,プリビズのCGに合わせて俳優が動くのは,鏡に真似て動くのと似ているのだろうか.決められた動きをして,決めれられた光を受ける.その結果として,「リアル」な光が顔に当たる.この時,真似ているのはリアルの身体なのだろうか,それともプリビズの身体なのだろうか.計算で生まれた光に実態を与えるための,反射体としての身体.それはヴァーチャルとリアルとを文字通りつなぐ存在なのかもしれない.デジタル的存在に実態を与える言った方がいいのかもしれない.「実態」なんて言葉は使わない方がいいのだろう.計算どうりに放たれる光を受け止めるサーフェイスとしての身体.光を発するサーフェイスとしてのライトボックスと光を受け止めるサーフェイスととしての身体.二つのサーフェイスのあいだで光は反射し,その光をカメラは捉える.捉えられた光が,CGに戻される.ここで起こっていることはなんなのだろうか.
memo997
「相似的な同一化」であれば,VRでも可能なのか.ゼログラビティで,ライトボックスで囲まれた環境は,物理空間とCG空間とを同一化はできないけれど,相似的な同一化を促すことはできる.このように考えると,ヒトではなく,環境の方が相似的に同一なものになったとき,ヒトはどのような行為を行うのであろうか.ヒトも環境の一部として,求められた行為を行うことになる.そのとき,行為はCG空間の求めによるものであるが,それは無重力の物理空間でヒトにそのように振舞って欲しいということに基づいて計算されたからつくられた行為であるから,物理空間から求められた行為だとも言える.物理空間とCG空間とを相似的に同一化していくライトボックス環境のなかで,双方の空間のあいだで乱反射する行為をヒトは遂行していくことになる.そして,ヒトが遂行した行為をカメラは撮影して,CG空間に当てはめる.そうして,あたかも無重力空間にいるかのような映像が生まれる.このとき撮影されているのは,ヒトに反射する光であり,表情であり,そして,呼吸である.
memo998
上田 良 個展「A Magpie’s Nest」を見た.写真のなかに背景でもなく,確固としたものではないけれど,どこかしらにサーフェイスを感じた.それは背景でもなくて,どこかの面でもなく,恐らくは,上田さんが言っていた「格子」をサーフェイスだと感じたのだろう.穴と線とでできる格子をひとつのサーフェイスだと感じで,その手前と奥とが別れる感じ.それは「穴」が大きな役割を演じているのであろう.依存的存在としての穴と影ということを論じたけれど,穴と影とができる依存的? 仮想的なサーフェイスが生まれている.それがグリッドとなっている.穴と線,あるいは面がないという穴の部分がサーフェイスとなる.背景でも,写真平面でも,手前のアクリルの板でもなく,どこかにサーフェイスが生まれること.「手前」と「奥」とを分ける存在としてのサーフェイスを見てしまうこと.
穴と影ということでラファエル・ローゼンダールの《Shadow Objects》を思い出した.上田さんの作品の影はどこかキワが曖昧で,そこがローゼンダールの作品とは異なった.影のキワの曖昧さが,影それ自体が存在を主張していない感じがあった.影をつくりだすモノのキワの存在の方が強調されている.だからこそ,影よりも,モノの延長としてのサーフェイスを意識したのかもしれない.
手前と奥とを生み出す基準面としてのサーフェイスを穴と影とから考えて見てもいいのかなと,ここまで書いてきて思った.「基準面としてのサーフェイス」というのは,しっかりと考えてみたい.そのサーフェイスがあることで,はじめて奥と手前とが生まれる.背景でも,写真平面でもないサーフェイス.
memo999
memoが「999」までやってきた.タイトルで連番で書くことで「999」までは書こうとモチベーションをもってやってきた.それが終わってしまった.なので,別のウェブサービスにメモを移そうと思う.
もともとBloggerを使っていて,今も使っているけれど,インターフェイスが「メモ」するには向いていない感じだったので,Tumblrを使って,日々のメモを書くようにしたのであった.Tumblrのインターフェイスだからこそ気軽にかけたということも多くあった.その後,Bloggerにテキストをコピペしてさらに考察したということも多々あった.インターフェイスによって書けることが変わってくるというのが面白い経験であった.
メモは公開する場所に書くというのが,程よい緊張感でテキスト入力できるので,次はnoteにでもメモの場所を移そうと思う.連番にするかどうかは別にして,noteでメモを書いて,良いメモが書けたら,これまで通り,Bloggerでさらに考察していきたい.