tumblrmemo001-099

memo001
memoの後の数字を日付じゃなくする.
ただそれだけ.なんとなく.
999まで書けるかな.
とにかく早く図書館へ行って『劇場としてのコンピュータ』を読むことが先決.
こんな作文をしている場合ではない!

memo002
昨日は,親子丼を食べてすぐに寝てしまった.午前中の散歩で疲れていたのかもしれない.今日は高校で,補習もしないといけない.今やっている洗濯を終えたら,高校へ行く.特に何かを考えているわけでもない.

思想地図βの東浩紀さんの巻頭言を読む.そうだよなと思う.

震災後,日本は変わるかなと期待したけれど,日本は変わらなかった.そんな状況の中で,人のせいすることなく,笑って生きて行くためには何が必要なのだろうかと日々考えている.もともと日本は「笑って」生きていくことが難しい国だったけれど,震災後はもっとひどくなっている.そんな状況の中で,日本で生きて行くこと,日本語で考えることの意味を,僕は僕なりに考えている.

memo003
昨日は一度寝たのですが,少し経ったら起きてしまって,その後なかなか眠ることができなかった.寝不足のまま高校へいって,2時間連続授業.生徒が作ったポスターを印刷しては,コメントをし続けて終わる.そのあとは,文化祭の準備を進める.高校の先生はやることいっぱい.専任の先生は本当に大変そうだなー.

と,とても寝不足&疲れたので,家に帰ったら爆睡.爆睡する横でモランをつくる人がいるような不穏な部屋.

起きたら,紀要論文の直しを少しする.日本語がどうにもこうにもダメですね.それ以外も色々問題ありですが,これからの考えていくことが見えてきたような気がするのでよかった.インターフェイス・リアリティとインターネット・リアリティはつながっているのかどうか.インターネットを研究してきた自分としては,なんとなくつながっていると考えやすいなーと思いつつ,どうにかつながりを見つけたような気がする.当事者でありながらも,傍観者でもあるような立ち位置が,インターフェイスとインターネットをつなぐのではないかなーと思いつつ.AでもありBでもあるというな存在を認めていくことが重要なのかな.分人主義とかあるし.

今は,鍋ができあがるのを待っている時間で,ビール食べながら,チータラ食べてる至福のとき,でもお腹減っているので,集中できない.だから,このmemoを書いているわけです.

memo004
お昼は屋上カフェへ.文字通り「屋上」にあるカフェ.だから,通称「屋上カフェ」.本当の名前は知らない.そこまで歩いて約1.5キロくらい.行きはよいよい帰りは暑くて暑くて,死にそうになった.

紀要論文の修正.どうにかかたちになってきたなーと思いつつ,最後の「人称」のところがまだまだ考える余地があるなー.

そのあとインターネットに関する英文読んで,Tumblrの話が出ていた.あとはここでも人称の話があったような気がする.“I am this(私がこれ)” .リブログなどが当たり前になったインターネットで作品との関わり方をどうするかということで,I am this とあったような気がする.「私がこれ」っていうこと.人の作品も,自分の作品もリブログされてひとつの流れを作って,それを見る.

「私がこれ」「私はこれ」「これが私」「これは私」.三人称と一人称との往還から生まれる四人称.それはヒトとモノだけの人称だけではなく,コンピュータという新しい思考を含んだ「もうひとつの」人称といういう意味での四人称の設定.

memo005
昨日は,インターネット・リアリティの ust に参加した.話を振ってくれてどうにかしゃべれるという感じで反省.そこで出ていた話「ハッキングVSデフォルト」は,自分の中でも「メタファーVSリテラル」と通じるところもあるなーと,寝て起きた,次の日の朝に思いつくという頭の回転の遅さ.この遅さを活かして,「インターネット・リアリティ」を考えていければいいなと思う,レンタルデスク初音のように.

これからギャラリーで仕事.今日は搬出が2個.また釘をぬくぞーと思いつつ.雨が振りそうだから地下鉄で行くか.帰りにはニロに行って,スコーンを食べよう.

紀要論文『身体|複合体|人称』にケリをつけたくなってきた.もうそろそろ次のことを考え始めないと.インターネット・リアリティから得た感触も次のことには活かしていきたい.

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公募書類書けてないなー.分類が社会科学のメディア論で,メディアアートを軸にした教育・研究は受け入れられるかな? 自分がやっていることがニッチすぎて,大学への門は固く閉ざされている.けど,ニッチゆえに,それを研ぎ澄ませば,扉をこじ開けることなく,スルッと隙間から入り込めないかなーと考えみたりする.そうするには,よりニッチに鋭くならなければならない.

自分がやってきたこと.GUIを人文学的に考察する.そこで得た知見を活かしてメディアアートを考察する.インターフェイスのリアリティ,インターネットのリアリティを探求する.ソーシャルメディア論とかではなくて,なんていうのかインターフェイスそのものとか,インターネットそのものとかを考える.iPadとマウスとのあいだを考える.Googleを,Tumblrを考える.こういったことを考えていくことが,これからのメディア論につながっていくと思うのだけれどなー.ソーシャルメディアももちろん大切だけどね.

memo007
明日から大学の講義が始まる.もう5年お世話になっている大学.実技と講義の3時間.終わると結構ぐったりする.講義の準備でブログを作り,コメントを集めるアンケートを作ったり,スライドを見なおしたりしていると,あっという間に時間がたって,緊張もしてくる.今は布団の上でこれを書いているわけですが,もうそろそろ寝ようと思っているわけですが,いつも寝れないんだよねー.

10月の発表をどうするかを考える.『あたらしい美学をつくる』を仮想敵とした発表を考える.秋庭+田中浩也組をどう考えるか.自然計算ではない世界.もうひとつの世界.垂直統合の世界.カーソル的存在ということを考えればいいのか,しかし,消えてしまうカーソル.Tumblrのにおける見ることと作ることおあいまいさを考えつつ,デスクトップ・リアリティとインターネット・リアリティをつなげる.国立国際美術館でやる「世界制作の方法」のエキソニモの作品を見てから考えを膨らませてみるとか,Supernatural をしっかり考えることで,「垂直」というキーワードを探求していくことも考えよう.ここで考えたことを,できるかぎり英語での発表にも活かしたい!

memo008
昨日は後期初講義で疲れて,そのまま帰って寝たかったのだけれど,いつも行っているお店が移転したので,そこに行って,お話しながらちょこちょこと買って,その後カフェに行って仕事をして,東北料理のお店で夕飯を食べて帰ったら,爆睡.家の中,行き倒れ状態.何も考えることができなくなり,眠りの深い深い底へと入り込んでいってしまった.

「情報技術」って言葉から思い浮かべるのは,コンピュータではなくインターネットなんですよね,今の大学生は! インターネットを構成しているコンピュータは意識されなくなって,インターネットそのものが意識されている.じゃあ,インターネットそのものってなんだって説明してっというとどうなんだろう? 「インターネットは情報技術」という堂々巡りになるのだろうか? 今度質問してみよ.

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台風で午後の授業中止.午後の授業のために高校に行ったが,無駄であった.文化祭の準備があったからいいけどね.生徒は帰っても,先生は結構残って仕事していたなー.

授業がなくなったので,準備も早く終わり帰宅.ご飯を食べてから講義の準備をして,公募書類も書いて終わり.公募書類でこれからの研究・教育計画を書く.Google のデータへの貪欲さを考えたいなーと思いつつも,それだけだと「メディア論」にならないので,ソーシャル・メディアとの対比で Google を考えるにしてみた.でも,メディアとしての Google という考えは面白そうです.データをかき集めてきて,想像できないような形で情報をヒトに伝えるメディアとしての Google!

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今日は誕生日会.楽しかったですよー.お肉食べた,ビールのんだ,モバイル手袋と靴下もらった.良い時間をすごした.でも主役は,モランだった.

モランっていうのは,ムーミンにでてくるトロールで,女性.とても孤独に生きている女性なんです.そして,誰もが怖くて近づいて来ない.モランがしばらく座ったところには一生草がはえない.フィンランド人には大人気の孤独キャラです.日本での人気はそれほどないかもです.

講義も本格的に始まってきて,論文も仕上げ時期に入って,次の作業に移りつつある.どんなことを考えていくかをゆっくりと探りながら,見極めていこう.「レイヤーではない重なり」としての「最前面・前面・背面・最背面」を考えてみるー.レイヤーは横からの見る.最前面ー最背面は上からしか見ることができない.視点の移動がない.垂直構造・統合.視点の移動がないから,そこに重なりが起こっているのかどうか,重ねてみなければ分からない.イラストレーターのオブジェクトの重なりのように.オブジェクトの重なり順はレイヤーのようにすべてを見渡すことができない.レイヤーはマノヴィッチを始め,多くの人が言及しているので,そこの知見を応用しながら,次を考えるために「最前面ー最背面」のあり方を探っていきたい.

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紀要論文は文献リストもつけた.文字数も収まっているので,すこし時間を置いて,もう一回読んで終了→提出といきたい.最後に出てきのが Google だった.Google つながりで,東浩紀さんの新刊『一般意志2.0 ルソー、フロイト、グーグル』楽しみだー.ということで,ドミニク・チェンさんと大向一輝さんだけ読んで放っておいた,現代思想の「Googleの思想」を通勤のお供にして読もう.

講義のために伊藤計劃『ハーモニー (ハヤカワ文庫JA) 』を再読.メモりながら約3時間.学生さんはどのくらいで読めるだろうか.5時間もあれば読めると思うのですが,どうだろうか.近未来のプライバシーを考えるには,とてもいい小説だと思います.もちろん,それ以外の論点も刺激的.

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昨日は久しぶりしっかりとブログを書いた.Chrome 15 beta のMac版だとスワイプすると矢印がでてページが戻ったり進んだりするのが興味深くて書いたのだけれど,どうもよくわからなかった.矢印の力はすごいなと思いつつ,それが行為と一致しないなかでも機能する.これらのズレを含んで自分に帰属しているという意識をもってしまうような,情報処理のプロセス.Chromeとユーザとの複合体による情報処理プロセスが生じている.なんかオリジナルな感じがするんですよねー.現実を模していない,行為をしているけれども,それを見ているだけにもなっているヒト.見ているだけでありながら,自分が行った行為をコンピュータが続行してしてくれている.しかも,自分の行為とは異なった方向で.行為の意図には沿っているけれども,そこから生じるイメージが異なるというか.異なると言っても,それはコンピュータ以前,ヒトと道具とのあいだでは想像出来なかったというだけで,今は実際に目の前に起こっている.それを受け入れている.

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まだ木曜日の一日に同じ講義を2つするという恐らく最も疲れるであろう仕事が始まっていないのに,体が疲れている.思いやられます.今週はじまった講義は比較的うまく導入ができたから,それはそれでよかったけれど,これからも頑張っていかないいけない.あと再来週くらいには大阪行きたいし,その次は東京にも行きたい.体調を整えないといけないと思いつつ,発表が2つ続く,しかもひとつは英語なので,それの準備も少しづつ進めながら,公募書類を書くなどする.memoをいっぱい書いておいて,いろいろなところで使いたいなー.

メディアとしてのカーソル.メタメディアとしてのコンピュータ.メタメディアとしてのコンピュータでおこるメディアの垂直統合をひょっいと跨ぐトランスメディアとしてのカーソル.
もうひとつの自然としてのコンピュータやインターネット.生態系,エコシステム.主観を排した美学のなかに「複合体としての主観」を入れ込むことができるのか,そのプロトコルを考える.入れ込むことで生じるプロトコルの重なり? グレイボックスの重なり?

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自分が高校生のときにはまともにしたことがない文化祭の準備を,先生という立場でやることになるとは思わなかった.僕が教えているのはコンピュータ・グラフィックスという名前の授業で,やっていることはイラストレーターとフォトショップを教えるということ.コンピュータでの作業なのでデータ提出で作品制作が終わることが多い.だから,いざ文化祭で授業紹介を兼ねて展示なると大忙し.延々と作品をプリントアウトしたり,スライドショーにするために作品の枠を広げて,名前を入れたりする.ということは,来年からは名前の欄を課題ファイルに入れておけばいいのかー.でもまあ,これくらいの作業はしましょうかということで,来年もたぶん一生懸命,文化祭の準備をするのでしょう.それがいいのでしょう.がんばるのでしょう.

文化祭の準備や講義が本格的に始まってきてけれど,研究メモを手書きでこつこつやりつつ,次の発表に備えよう!

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うん,なんかもやもやしている.講義準備だけで時間が過ぎて行っていることにもやもやしているのか,なんなのかわからないけれどもやもやしている.下半期に入ったからもやもやしているのか,それとも久しぶりに英語を話したけれど,ぜんぜんだったことにもやもやしているのかもしれない.

とりあえずのメモ.ダグラス・エンゲルバートはシステム論の枠内でヒトとコンピュータとを考えていたからこそ重要.フルッサーの装置と複合体の中でのエンゲルバート.ということは,システム論の本を読めということか.GIFアニメのように技術の制約によって意図せずに新しいヒトの認識が生まれてくること.あたらしい「痛み=痛み」をつくる! ヒトとコンピュータとの複合体としての「痛み=傷み」.外部をなくしていくデータの中での「痛み=傷み」.台風は情報を伝えるけれども,ヒトは台風を偏頭痛などの「痛み=傷み」とともに知覚する.そこで,ヒトとコンピュータとの複合体として,情報の流れの中に「痛み=傷み」を感じることができるようになるというか,そこを見つけること.流れの中のノード??? 流れを強制的に変えるようなポイントを見つけだすこと→(メディア)アート.地味な作業..

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講義を終えて,パンプキンモンブランプリンをセブンイレブンで買って食べる.おいしかった.講義はマウスについてで,ここは力が入る.ヒトの能力を一度フラットにしてしまうこと.マウスを扱いながら,カーソルについてはふれないで,のちほど.
映像に関する講義で,学生からのオススメ映像をまとめようとして,やってみたら,思いの外時間がかかってしまった.

あとは,紀要論文を提出した.そんな一日.

回路としてのプロトコルが作る情報の流れの中でのJPEGとGIFのあり方というか用いられているところを考えると,流れの中の質感を考えることができるかもしれないと講義をしているときに思った.

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台風は情報の流れを作る.それがヒトに影響する時,偏頭痛などの痛みを伴うことがある.情報の流れを作り出すコンピュータ.それはもう一つの流れかもしれないが,「自然」になっている.この流れの中でも「痛み=傷み」を感じることが出来るかどうか.それはGIFを認識すること.技術的な制約のもとでのGIFを認識することは,ヒト本来の認識に合わせた映画やテレビとは異なる.技術に合わせたヒトの認識.ヒト中心主義からの脱却で,もっとも日常的で話題にもならない地味な現象.でもそこにこそ,ヒトとコンピュータとの複合体としての認識及び主観が生じているのではないだろうか.情報の流れという「水平」に広がっていくレイヤーの中に,面を垂直に重ねて最背面・最前面を作り出すこと.黒崎政男さんがカントを超越的統覚を「垂直構造」と呼んだように,情報の流れに「垂直」に重なる面を作り出すこと.『protocol』という本に書いてあるTCP/IP は「水平」で,DNS が「垂直」ということも,まだ読めていないが気になっている.

ということを,グラフの服部さんの話を聞きながら考えていた.服部さんの話は上の考えとは全く異なることであったけれど,まあ全く異なる話を聞いている時だから,考えがすすんでいったのかもしれないと思いつつ.

memo018
月末に発表があるけれど,なかなか手がつけられないでいるような,考え始めてはいるような.講義が本格的に始まった最初の1.2週は体が馴れていないから,とても疲れる.夜はゼーゼーとなっている.眠いし,ゼーゼーだしで,夜もなるべく早く寝たい.早く寝て,早く起きて本を読んだり,空いた時間にメモを取ったりして考える.で,どうするか.なんか.どうか.もう.足裏から何かが抜けているような感じがしている.マウンテン・リサーチのアノラックを買ってしまった.衝動買いというか,疲れているから元気づけるためというか.そんなことを書きながら,なにかアイデアがでてこないかなーと思っているのですが,今日は出てこないみたい.protocolという規則を発表でどう使うかが問題かな.protocolを壊すことで見えてくるもの.痛み=傷み.ちかごろこの辺を回りまわっているなー.もうそろそろ大きなメモ帳にアイデアを書きなぐるときかなー.一度,出しきって整理しよう.

memo019
スティーブ・ジョブズが亡くなって一週間がたとうとしている.彼と彼のチームが開発した多くの製品が世界のあり方をすべてとはいわないまでも,一部で確実に変えているような時代に,その変化を感じつつ生きて,しかもそれを研究の対象にしてこれたことはとても幸運なことではないだろうかと思っている.うまく距離をとれないという意味では,優れた研究になることはないだろうが,時代感覚は捉えているのではないかと思う.さて,iPhone もってお出かけしよう!

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これから考えることを考える.イメージの重なり.最前面ー最背面.これはイメージだけでなく,薄型ディスプレイというモノにも実はあるのかもしれない.ディスプレイ面とその背後.もっともっとディスプレイが薄くなっていくと,モノとしても最前面ー最背面の問題が出てくるかも知れない.しかし,今のところは,Illustratorなどのひとつのレイヤー上で起こるイメージの重なり,もしくは,デスクトップ上でのイメージの重なりを考える際に最前面ー最背面を使う.最前面にあるイメージとしてのカーソルの意味を考える.カーソルを考え始めて,はや2年が経過しつつある.もうそろそろケリをつけるためにも,ここは頑張る必要がある.イメージの最前面が,意識の最前面になるとき,あたらしい痛みが生じる.だから,カーソル痛い!

一見平面に見えるのに,そこに「手前」「奥」,前面ー背面という言葉を使うことの意味を考える.何度も同じところをグルグルしているが,なんとなく「レイヤー」とは異なる感じがしている.横から層の重なりを眺めることができないというか,重ねてみないと,重なり方がわからないというか.レイヤーとして意識に上らないような重なり方としての最前面ー最背面なのか?

それで,重なりを考えるための3D.ということで,ニンテンドー3DSを買うかー

memo021
3DS は買わないことに決定.ハードの問題ではなくて,決定的に自分が3Dというものに適応していない身体を持っていることが判明したため.酔う,疲れる.なんか,眉間のところで,猛烈に情報処理しているような感じがする.3Dは確かに面白かったけれど,自分の身体をまずアップデートしないと楽しめないよー.3Dの重なりとカーソルを考えようと思ったけれど,からだが拒否するのでこれはなしになった.

memo022
上海での英語の発表の下書きをしようと思ったれけど,まだ書けない感じがしたので,関連する英語のテキストを読む作業をしてみた.「メタメディア」を確認するために,アラン・ケイのパーソナル・ダイナミック・メディアを読んで,それから,レフ・マノヴィッチを読む.マノヴィッチの「メタメディア」をめぐる論考を読んでいたら,「ハイブリッド」という言葉がでてきて,これは僕がヒトとコンピュータとの複合体といっている「複合体」の英語になる.ヒトとコンピュータとの複合体=ハイブリット,これが「allo」とつながって,それをメタメディアとの関係で考えるとどうなるか.そこに「カーソル」を入れ込む.上海でのセッションのテーマは「トランスメディア」なんだけれど,カーソルがメタメディアを垂直方向で超越していることから,つまり,常に「最前面」にあることから何か考えることができないかと考えつつ,水平=垂直|メタメディア=トランスメディアなんて関係を考えることができればなんとなくわかるかもしれないなーと思いつつ.なんとなく,英語を書き出せそうな感じがでてきたという雰囲気を得ることができたのが,今日の収穫.

memo023
カーソルは中途半端な存在ということが頭の中にずっとあって,今,英語でカーソルについての発表の準備をしてして面白かったのが,「中途半端」が英語だと「up in the air」という表現になること.カーソルは文字通りの意味でデスクトップで常に最前面にあるわけであるから,それは浮いているような感じであって,だから「up in the air」な状態にあるわけで,それが「中途半端」という意味もあるということ.だからどうしたというわけではないけれど,ちょっと面白かった.

あとは中途半端に宙を漂っているカーソルが消えてしまう→自己喪失.「トランス」は英語で「trance or trans」.前者は夢現な感じで,後者は超えるということ.なんかいいねと勝手に思っている.

見落とされているカーソルに注目というところまでは,どうにか書けそうな感じがする.そこからどのようにエキソニモ《断末魔ウス》につないでいくか.「up in the air」なカーソルとマウスの破壊.マウスを破壊しているだけれど,それはカーソルを破壊していることにもつながる.でも,カーソルは文字通りの意味では破壊されない.ただ動きを止めるだけ.でも,また動き出す.いっときの「死」がもつ意味を考える.マウスの文字通りの破壊とカーソルのメタフォリカルな破壊.その意味をコンピュータが示す「自然」の中で考えてみること.メタメディアという「自然」を超える(taras),そしてトランス(trance)状態になってしまうような存在としてのカーソル.すべてを宙吊りにしてしまうようなカーソル.

とここまで書いて,このテキストをもうひとつのブログに貼りつけて公開した.

眠くなってきた.明日は,カーソルについて講義する.《断末魔ウス》の感想が楽しみです.

memo024
トランス:超越,超える,意識がとぶ→宗教的体験.そんなこんなのトランスメディア.それでいいのかトランスメディア.それでいいのだトランスメディア.ぶっとんだー,手前の存在.最も手前にあって,意識に張り付いてしまった存在.そんなこんなのカーソルをめぐる冒険で,そこに痛みを感じつつ.それでも続くのだー,何が,何も,そして,どうやって.わからないけど.それでいいのだー.手前と奥とメタメディアとトランスメディア.トランスするのが手前にあって,奥にメタメディアがあって,それは今までのメディアでもあり,今までにないメディアでもある.キメラような,ハイブリットのようなヒトとコンピュータの複合体.サイボーグといってしまえばそうかも知れないけれども,なんか複合体という言葉,それはハイブリットなわけだけれど,それでいいのだ.メディアが今までにはなかったような性質をもったように,コンピュータとのハイブリットになったヒトも,今までとは異なる性質をもつ.その最も手前,意識の手前にカーソルが位置するようにたまたまなっているのかもしれないし,それが本質なのかもしれない.それはわからない.

memo025
ぼーとした時間を過ごしている.やることはあるけれど,時間がぽかんとあいた.こういった時間にも何かしなくては,このメモを書いているわけだけれど,それは全く役にたたないことが多い.でも,書く.とりあえず書いておく.何を書くかは分からないけれど,書いておく.自分の講義が「白熱教室」になったことがないなと思いつつ,白熱教室という文字が入ったツイートを眺めつつ.僕は「慣れる」ものに対して,それがどうして多くの人が慣れてしまうのかということに興味があるのかもしれない.「慣れる」ということは「成れる」ということでもあるわけで,言葉遊びの上では,そうなわけで,別の何かなってしまうこと.それもで別の何かでありつつ,今までのままでもあるわけで,そんなバランスの上にあるものを考えていきたいと思っているわけであります.

memo026
手書きで下書きした英語のテキストを入力している.自分の英語が読めない.まさにミミズが這っているような感じで,何が書かれているのかよくわからない.あとは考えがまとまらなくても,いきおいで書き飛ばしているから,何を言っているのかもよくわからない.そんなものを入力していると疲れる.とりあえずは最後まで入力して,あとは月末まで時間を見つけて直し続けよう.英語も,日本語も同じで,書いたら直して,直したら書くの繰り返ししかない.書かないと考えがまとまらないし,まずは分量がないと不安でしょうがなくなる.とりあえず規定の分量を超えて書いておいて,あとは削っていくほうがいい.

memo027
memoを書く頻度が落ちている.ここもそうだし,手書きのメモも.いけないなーと思いつつ,うん,やっぱり書くことがない.いけない.ネタを探さないといけないのになー.ホンマタカシさんの個展の図録をようやく買ったからそれを読もうと思いつつも,もう2時半だから寝ようとも思っている.思考に刺激を与えないと.コンピュータをヒトがコントロールすると同時に,ヒトをコンピュータがコントロールする.そんなことで,これを書いている時に,コンピュータにコントロールされているヒトになっている自分に,ある程度なれれば,慣れれば,そこに突破口が開けるのではないかと思いつつ,今日はコンピュータにコントロールされる前に,眠くなってきたので,寝る.

memo028
憂鬱な気分.散歩の間もずーっと憂鬱な気分.やらなくてはいけない仕事はたくさんあって,それはとてもいいことなのだけれど,きっと,あれだ,あの補習がうまくいっていないからだ.どうやってモチベーションをあげようかと考えているのだけれど,どうしてもだめでうまくいかない.人によってモチベーションに差がありすぎると,授業はうまくいかない.どうしたらあのような態度がとれるのか,うーん,わからない.自分も含めて,これから日本で生きていくことを決めた人は,きっとたいして面白くもなく,なんとなくくらい感じの未来が待っていると思う.僕よりも若い人は,まだそんなことを考えもしないのかもしれない.この先も,すべてがうまくいくと思っているのかもしれない.地震も起きてないのかもしれない,原発も何もなっていないで,ただ電気を送り続けているのかもしれない.そんな世界で生きていくには,もっと世界に対して耳を澄ましていかなくてはならないと思うんだけれど… この世界で,日本で生きていくから憂鬱になっているのかということではなくて,ただたんに補習の運営がうまくいっていないから憂鬱になっているのだけれど,それはきっとループしている.

memo029
ブログを更新するのが流行っているらしいw CBCNETのブログ欄に書かれていることが,とても刺激的でそこから考えることがはじまる.作る側の人が書くブログはいろいろな視点がサラっと書かれていて,いい.もう眠い.近頃のこの疲れのたまり具合は,前期に毎週東京にいっていたときよりもひどい気がする.なぜだろうか.そんなことよりも,某女子大への公募書類をがんばって仕上げなくてはならないよ.結構書くところがあって大変です.ここでブログを更新する時間を使って,書類を書けということですが,まあそれはそれ,これはこれで.身も蓋も無いということが思い浮かびつつ,とくに疾走感もなく,ただ眠り向かう.

memo030
ハル・ハートリー,懐かしい名前がタイムラインに流れている.好きだなー,彼の映画.彼の映画を好きだった女の子がいたなー,好きだなー.ということばかりも書いてられないくらい,いろいろと仕事があるような気がする.明日は,大阪にいって「世界制作の方法」展のシンポジウムを聞いてくる予定.また鈍行でゆっくりと大阪へと向かう.そこでしっかり本読めるかな.ゲームの本を読んでいる.上海のことももう一度考えないといけないと思いつつ,ちかごろ放置.公募書類を書くことに集中しているような気がするけど,あれだけ確かめよう.

これだ→These devices conveyed the oresebce of a presence of a spirit in information devices where there should not have been any. 

memo031
最近,memoも書いていないなと思ったので,書く.忙しいというわけでもなく,ただただ授業準備をしていると,時間がたっていく.公募書類も書いているし,英語の発表原稿もあったと書くと,忙しいそうだけれども,やっぱり忙しかったのか.なんか,ずーっとアウトプットをし続けている感じで,インプットがない.講義ごとに学生のコメントからインプットはあるけれど,もっとガーッとインプットしたい.頭の中で上海の発表が終わったらと思っているので,どうも時間をどうにかして作ってインプットするように体が動かないので,ここはこの体を受け入れて,上海から帰ったらインプットをガーッとする.インプットをガーッとすれば,小刻みにアウトプットも出てくるはず.ひとつの区切りがやってきているかもしれないし,まだまだ詰め切れていないのかもしれないけれど.

講義準備から.夢を夢のままで終わらせないように,仮想現実を実装した.実装した仮想現実が現実に食い込んできて,現実を仮想現実のようにしていく.現実は実装された仮想現実のひとつのバージョンになる.と書いて,ツイートした.

あとリンクって,AとBとを結びつけることだと思うんだけれど,近頃,まったくそのように感じない.ただ文字列にURLを貼りつけている感じがする.

memo032
インターネット・リアリティの座談会のテキストの前半を読んだ.長くて面白いのがいいな.僕はGIFの硬さは感じ取れないところがあるけれど,そういった感覚が出てきたことがとっても興味がある.エキソニモの活動歴が15年.この年月があれば,あたらしい感覚が出てきてもおかしくないし,僕たちもずーとネットと接しているのだから,そこからあたらしい感覚が出てきたとしてもおかしくないし,出てきてくれないと面白くない.博論では「ディスプレイ行為」というあたらしい行為を設定したのだから,あたらしい感覚も考えなくちゃと思うわけです.後半もはやく読まなくちゃ.「ちゃ」って,なんで書いているのだろうかと思いつつ.

memo033
講義の関係で平野啓一郎さん『ドーン』を読んでいる.「可塑整形」という顔を自由に変形できる技術があったり,「散影」という監視・検索システムがあり興味深い.肝心の「分人主義」はいまいち理解できていないが,まだ途中なので読みきったら分かるのかも知れない.ふー.講義準備に追われているなーと思いつつ,日曜日に山口に行こうかと準備中.公募書類は出すけれど,反応はない.これからどうなのか,心が折れそうにもなるけれど,それはその「分人」にまかせて,今これを書いている「分人」は,と書いていると分からなくなってくる.

と上まで書いて,MacBookAirを閉じて,講義に向かって,今,大同大学の講義室で続きを書いている,で,おわり.

memo034
YCAMにいってきた.エキソニモのEyeWalker 体験した.セミトラのeyeFontは,僕の眼の小ささとメガネというダブルパンチで,うまくキャリブレーションがとれずに体験出来なかった,残念.エキソニモの作品はすぐにしっかりと考えて,自分のためにまとめておきたい.「ちょっと手前」というのが体験した後に,ふと思い浮かんだ言葉.意識のちょっと手前.没入のちょっと手前.何回か作品を体験しているうちに,ちょっとずつ視線入力になれていっている自分もいて,それによって作品に対する距離感が変わっていったような気がする.The EyeWriter のワークショップもとてもよく練りあげられていて,とても面白かった.オープンな感じがとてもよかったー.

memo035
上海へ.発表.英語で発表.かれこれ2年くらい考えているエキソニモ《断末魔ウス》.エキソニモのこの作品にULTRAというアートフェアで出会ってから,インターフェイスの研究からまたアートの世界に戻って来れたような気がする.インターフェイス研究で得たこと,それは僕たちが日々向かっているマウスやカーソルやキーボードといったかたちのコンピュータによってヒトの感覚とか,行為なんかが形成されていっているということ.そのはとてもするするとヒトに入り込んできているから,なかなかそれを意識することはできない.けど,確実にヒトはコンピュータとのあいだで変わっている.そんなところに,エキソニモの《断末魔ウス》.ヒトとコンピュータとのあいだをつなぐ紐帯となっているマウスとカーソルのつながりを破壊してしまうことで,ヒトの感覚をとても鮮やかに示してくれた.カーソル痛いし,哀しい.ここまではいつも考えていることかもしれないけれど,改めて書いてしまった.とにかく明日,上海へ行く.(もし自分がふたりいたら,大阪にいってエキソニモのライブを体験して,デスクトップ・リアリティやコンピュータの身体性について考えたかった)

memo036
上海に行く直前にレフ・マノヴィッチの新論考  Inside Photoshop が流れてきたのでちょっと読む.フォトショップの「フィルター」に注目するらしい.デジタル・ネイティブというようなこともでてくる.フィルターで「wind」という項目は,現実と照らし合わせると何か強い風が吹いて,木々がゆれているかなーとか,なんとなく分かる.けど,マノヴィッチはこう書いてたような気がする.イメージに「風」のフィルターかけるとはどういうことか.wind+image=? なんじゃないのって.これってあたらしいことなんじゃないのって.

これ以上書いていると上海へ行けなくなるので.終わり.

memo037
コンピュータに関して,マノヴィッチは「ハイブリッド」,ポルドは「キメラ」という言葉を使っていること.そうした得体のしれないものをしめす言葉を使っているということ.それを文字通りの意味で受け取ってみること.コンピュータには不気味なものが棲みついている.それを手懐けるための「矢」としてのカーソルと考えてみると面白いかなーと思ってみたりしている.カーソルでコンピュータに馴れたから,次は自分の手で直に「ハイブリッド」や「キメラ」に触れてみる.そんな物語.ここに「ポストヒューマン」を絡めてみると,「カーソル的ヒト」みたいなものが考えられるのではないかなーと思ってみたりしている.

memo038
今読んでいる論考はテレパシーとインターフェイスみたいなものなのだけれど,そこに日本のことが書いてあって,それはケータイでブランクメールを送って,コミュニケーションを行なっているということで,それを読んで,僕は,スペーサーGIFのことを思い起こしたりしたわけで,なんか空白が役にたつというか,コミュニケーションを空白で成立させてしまうようなケータイのメッセージという技術と,インターネット上ではスペイサーGIFでつくらないと「空白」が生じないというのが,なんか結びついているようで,遠くにあるような,でもなんか気になったわけです.

memo039
版ズレとスペーサーGIFについて書いていたけれど,なんとなくまとまったのでもうひとつのブログに移した.

高校の時は,どうして制服なんかで冬を越せたのだろうかと,今日思った.ただ若いというだけで,乗り越えたのだろうか.今では考えられない.今日だって,ニット帽かぶって,フリーズの裏地のついたマウンテンパーカーに,首元にはネックゲイターをつけたら,「先生,どれだけ防寒すればいいんですか」と高校生に言われた.確かに防寒しすぎかもしれない.でも,そうじゃなくてはやっていけない,どんどん防寒,どんどん防寒.今はライター型のカイロが欲しくなっている.もっと防寒,もっと防寒.

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夢を見た.エキソニモと作品を作っているという贅沢な夢を見た.マウスを使った作品.マウスを操作しているところを恐らく,上から撮影していて,それが前にプロジェクションされている.普通にマウスを操作していると,やがて,映像の中のマウスと手が,自分の操作とは関係なく,動く.そのときに,アレっと思う.そんな作品,カーソルは出て来なかった.夢memo.

memo041
久しぶりにiPhoneにBluetoothでキーボードをつないでテキストを打っている。ただそれだけなのですが、なんか新鮮な感じがしている。文字変換のリズムがMacとは異なっていて、違和感がある。あとは、カーソルがないこと。カーソルを動かそうとすると、自分の手をiPhoneに伸ばさないといけない。ちょと面倒くさい。もっと何か考えることがありそうなのだけれど、今のところはこれくらいしか思い浮かばない。

memo042
秋庭美学による可能性を勝手に探っているのですが,Interfave Criticism という本があって,そのななかに,Florian Cramer: What Is Interface Aesthetics, or What Could It Be (Not)? というテキストがあります.タイトル通り「何がインターフェイス美学か?」ということですが,このテキスト中で,美学にとってインターフェイスは盲点であって,うまく扱うことができない対象だったとあります.でも,秋庭美学を使えば,インターフェイスに美のありかを見つけることができるのではないかなーと思っています.そうすれば,Florian Cramerとは異なる可能性が開けるし,彼が批判しているレフ・マノヴィッチとも異なる方向を,インターフェイス美学に見つけることができるはず.でも,これを日本語でこんなふうに書いていてもダメなわけで,英語で書け,自分ということになる.

秋庭美学とインターフェイスについて考えていたときに,秋庭さんは自然科学に寄り添うが,僕は情報科学に寄り添っている.情報科学といってもインターフェイスですが.秋庭さんは自然科学→自然計算と進み,自然計算はすべてが分かっているのでもなく,全く分からないでもない,グレーボックスだとなっている.僕が寄りかかっている情報科学もすべてが分かる計算機科学ではなく,その上にのっけられる(と言ったら怒られそうだけも),インターフェイスを扱っているわけです.計算ではなくインターフェイス.そう考えていたら,インターフェイスというのは「グレーボックス」なのではないかということをが思い浮かんだわけです.というか,横にあったふたつの単語「グレーボックス」と「インターフェイス」を結んでみただけなのです.全てが分かっているわけではないが,全てが分からないでもない,グレーボックスな状態にあるのがインターフェイス.

memo043
散歩しながら,iPhone4Sでテキストを書いて投稿したのだけれど,どこかにいってしまったらしいので,MacBookAir で書く.何で書いても同じような気がするが,万年筆では書いたことがないというのは正確にいうと違って,小学生ときに,万年筆もどきの筆記具を使ったような気がする.今使っているのはラミーのノック式の水性ボールペン,とまで書いたけれど,なんかここまで.書くということを書いてみようと思ったままに書いてみようとしただけで,書く気がなくなったので,ここまで.

memo044
今年ももうすぐ終わり.東京芸大で講義をしたり,いろいろと充実した一年だったと思う.公募はダメですという感じですが,もっとがんばってみましょう.カーソルつながりのポスト・ヒューマンとデスクトップ・リアリティの延長してのポスト・インターネットというふたつの題材を考えてみたいと思いつつ,あっという間に終わってしまう冬休みを過ごしている.「人間以後」「インターネット以後」考えてみると,何が見えてくるのだろうか.「以後」に生きる,僕達は何を考えるのだろうか.

memo045
ポスト・ヒューマンとポスト・インターネットとの関係もあるのではないだろうか.インターネットで,僕達のCPUを外に出したという考え自体は面白なと思うのだけれど,そんなに簡単に身体のことをほかっておけるのかという問題も,ヘイルズが言っている.僕も,身体は捨て去ることができなーと思いつつも,Googleがやろうとしていることがとても気になっているわけです.

memo046
Appleの初売に31日にたまたま街に出たから,買ってしまった Air のスリーブがでていた.1200円の差なんて大したことないような気がするけれど,損したという気持ちになってしまう.でも,普段の価格って何だろうなと思いつつも,結局,1200円分得しても,それでまた1200円以上のモノを買ってしまって,モノは増えるし,お金は減るし,ダメなんだろうな.そんな気がする.まあいいか.

memo047
『人間の終わり』を読み終える.ポストヒューマンだけど,バイオよりだから,あまり関係なかもしれない.バイオではなくて,ITで既に私たちはポストヒューマンになっているという点で,ヘイルズの方が参考になる.ポストヒューマンとカーソル的ヒトの関係を考えるときに,キメラ・ハイブリッドの扱いが重要になる.ヒトもキメラ・ハイブリッドになるし,コンピュータもキメラ・ハイブリッドになっている.ヒトとコンピュータとをキメラ・ハイブリッドで結びつけて考える.

memo048
意識の先にカーソルがある.カーソルの先に意識の先がある.という堂々巡りがある.渡邉大輔さんの映像圏における映像のまわり方とポスト・インターネットにおける画像・映像のまわり方は似ている.キメラ・ハイブリッドのポスト・ヒューマンになんにでもなれる物質・プラスチックが入ってくる.なんかつながっていっている.なにが中心かはまだわからないけれど,どこかをぐるぐるとまわっている輪はできあがってきているような気がする.

memo049
ifttt を使ってすべてのevernoteへと集約しようとしている.こんなサービスがあって,しかも僕が使えるような簡単さでびっくしている.インターフェイスが変わると書くことも違ってくるので,こういったサービスはありがたい.ということを書きつつ,連携のテストです.

memo050
久しぶりのmemo.リュックが欲しいと思っていて,今いろいろと見ている.買おうかなと思っているのを名古屋では見たことがない.アメリカから直接買ってしまおうと思っていもいる.買うかどうか迷いながら,過ごす日々.

ポスト・インターネットについての調査も進めている.展覧会も始まるし,一度東京にいかないと.今日は,オブジェクトについてのインタビューを読んだ.インターネットとは全く関係無かったけれど,オブジェクトを考えるうえでは必要かな.あと,海外のポスト・インターネットが現代美術との関係のなかで考えられているとすると,今回のインタビューは現代美術の作家さんのだったから.これはこれで海外の流れでは重要なのかな.日本ではどうかなとも考えつつ.

memo051
久しぶりにここでのmemoを書いていることになります.さっきも違うところに文章を書いていたけれど,いろいろなとこで書き続けていくと何か見えてくるかなーと思いつつ.todoは集約するようにしたけれど,書くことも集約したほうがいいのかなと思いつつも,いたるところにいろいろなかたちで書いているのが気持ちよかったりする.あたまのなかがシャッフルされる感じで,それが同期していくと面白なーと思ってみたり.本当は,「同期」についての何かを書こうとしてこれを書き始めたのだけれど,全く違ったことを書いてしまってから,同期の話になっている.このくるくる感.くるくる・パーなのかもしれないが,くるくるしているのはいいのかもしれない.

memo052
同期にはズレが含まれている.というか,ズレがあるから同期しようとする.だから,同期しようとしようとしているものには,ズレがある.で,同期しているとズレが生じる.だから,また同期しようとする.異なるふたつの存在を同じようにしようとするのだから,大変である.で,もしかしたら重要なのは,同期しようとするふたつの存在を意識する,考えるのではなくて,「同期」そのもの,そしてそこにある「ズレ」を意識して,考えることなのではないだろうか.ここから,「Aでもあり,Bでもある」ということを考えると,AとBはどうでもいいわけではないけれど,ちょっとわきにおいておいて,「でもあり,でもある」ということを考えることが重要.最初の「でもあり」と言った時点で,次の「でもある」とは異なるものが,「でもあり」の前にある.でもそれは次の「でもある」と言った時点で,「でもあり」とは異なるものなる.なので,「でもあり,でもある」の流れのなかで,そこで言われている存在が完全に同じものになる,同期することはなくて,どことなくズレている.この「同期しようとするがズレている」という関係を意識することが重要なのではないかと思う.と考えると,もともとはズレはなくて,同期しようとするから,ズレが生じてくるのかもしれない.

memo053
版画とGIFということ.コミュニケーションのための画像形式という切り口で見えてくるものがあるのではないだろうか.そこにはヴィレム・フルッサーの「テクノ画像」も入ってくるだろうか.ミュニケーションのための画像ということは,それはメディアとしても考えられるのだろうか.このように考えると,メディアはメッセージであると言った,マクルーハンも絡むのかもしれない.版画のアイヴァンズの著作を褒めていたのは,マクルーハンだから,つながるのかもしれない.

memo054
ペトラ・コートライトさんについて書こうと思いつつ,まったく書けていない.きっと,まったくわからないからだなーと思いつつ,そのわからなさをそのまま書いてみればいいのではないかと思いつつも,今の今まで書けていない.ICCでのパーカー・イトーさんのアーティストトークは面白そうだった.仕事先で,少しだけ,音なしで見たけど.やっぱりわからない.けど,紹介される作品やサイトが面白そうだったので,あとで見てみる.版画とGIFを考えるために読みはじめた,アイヴァンズの「ヴィジュアル・コミュニケーションの歴史」は面白い.この本ははじめて査読を通った論文の時にも参照したのだけれど,また読むことになるとは思わなかった.僕は同じ所をクルクルまわっているのだろうか.それでもいいなと思いつつ,自分の中での昔と今を考える.サザーランドのスケッチパッドからGIFへということになるのだろうか.お絵かきということになるのだろうか.ヒトとコンピュータとのコミュニケーションということになるのだろうか.ヒトとコンピュータとのコミュニケーションでの無意識的な何かを探す.というか,あまり考えられてこなかったところを考えるということになるのだろうか.

memo055
村上春樹の小説を大学時代に読んで,その時に思ったことは,ひとりの人が深く深く自分のなかを掘り進めていくことのすごさと限界だった.あんなに掘っていくことができるのかー そして掘り下げると,そこにいきりなり他の人とつながるような拡がりをもってしまうようになる.垂直に掘り進めたものが,いきなり水平になる.でも,そこにあるのはやはりひとつの井戸でしかなくて,どんなに掘っても掘っても,別のところを掘っても,結局は同じ構造をもってしまう.同じ構造をもってしまうからこそ,ひとりの人が書いていることの証拠だろうし,同じ構造だからこそ,とてもひろい広がりをもつようになっていくのだろうかけれども,そこに限界もあるような気がしたのでした.

memo056
昨日書けなかったら今日書いているけど,昨日書きたいことは特になかった.今日は高校の教科会議にでて,年度のまとめをして,ホワイトデーだからケーキかって,パルコいって,VANSのスニーカーを買った.とても久しぶりにスニーカーを買ったような気がする.右肩がちょっと痛い状態が続いているのですが,いろいろ考えたいこともあるけど,まあいいかと思いつつ.書いているうちになにか思い浮かぶかなーとしているうちに,U−23のサッカー代表が2点目を決めていた.ICCのトークも聞きつつ,これを書いている.そういえば,関東の方では地震があったので,親に電話した.そしたら,去年の地震がすごかったから,別に普通ということでした.インターネットは生の情報がくる.これは確かにそうかもしれない.インターネットはカウンターカルチャーだったけれど,今ではそうでもなくなってきている感じはある.そうではなくなったから,ポスト・インターネット.何かのカウンターとしての,アンダーグラウンドとしてのやくわりを終えてしまったら,あ「カウンター」「アンダー」でもなく「ポスト」であること.

memo057
昨日,Twitterを見ていたら,バンクシーの映像が限定公開ということで見た.これはこれで面白かったけれど,見終えて,またTwitterをみたら,ちょうどバンクシーの映像を見始めたときぐらいから,インターネットのゴット,センボーさんも参加しての「君と僕とインターネット」の第2部が始まっていたらしい.諸般の事情でiPhone片手に「君と僕とインターネット」を見始めたときには,もう終盤.jepg はヒトをバカにしているとか,gifは完全に制御できるとか,拡張子差別とか,もう面白くて,興味深い言葉が連発でした.最初から見たかったと悔やみつつ,文字おこしして参照資料にしたい! この番組に集まった人たちの言葉というのはまったく資料になっていないので,このあたりの「感覚」を狩猟していくようなことをしていくことは,インターネットを考える上でとてもとても重要だと考えています.

memo058
この2日の夢日記.1日目.カラスが蛇を丸呑みしていた.確か,うさぎも丸呑みしていたような.こわい.夢だった.2日目.新垣結衣とつき合う流れの夢.2日目の夢はまあいいとして,1日目のカラスの夢はフロイト先生に精神分析してもらいたいものです.ゆっくりと蛇を丸呑みしていくカラスはとても恐ろしいものでしたが,それでも少しづつ着実に,蛇を呑み込んでいく姿に感動もしました.フロイト先生に考えてもらいですね.2日はフロイト先生に頼むことなく,単なる願望がでてきたのでしょう.でも,なぜに新垣結衣なのか?

memo059
家庭教師をしていた男の子と会う.全く変わりなく,部屋の綺麗なままで安心した.家の雰囲気も明るくなったような気がする.今年で20歳になるらしい.そうかー.時間がたつのははやいなと,当たり前のことを思いつつ,一緒にアニメや仮面ライダーを見たり,おしゃべりした.それはそうと,昨日は全く眠れなかった.気がつけば朝の7時になっていた.今ももう4時だけれど,昨日は本当に眠れなかった.久しぶり.新年度へ向けて,体が緊張し始めているのかもしれない.

memo060
昨日はIAMASの卒展にいってきた.その行き帰り,30分ほど歩いたのだけれど,ちょっと雪が降っていてとても寒かった.展示のほうは,IAMASの学生が作品について説明してくれるのでとてもよかった.いいなーと思った作品が,先生の作品だったりと,卒展だけではなくIAMAS自体の紹介・展示になっているところもよかったなー.帰りにニロでハンバーグプレートとスコーンを食べて帰り,少し寝てから,GIFアニメーションの論文を書いた.

memo061
GIFの論文を書いていて1日が終わった.「GIFの衝突」というフレーズがでてきたのだけれど,これをうまく活かすことができればいいかなとも思うが… 「GIFとの衝突」と言った方がいいのかもしれない.「衝突」という感じで,インターフェイスを超えてくる感じがでればいいのかなー

memo062
今日で高校の授業が終わった.自分の経験のなさを思い知った一年だった.なかなかうまくいかないものです.動物園に言ったけれど,またウォンバットはいなかった.ぜんぜん見れてない.コアラの子どもの後ろ姿がかわいかったなー.GIFと一眼レフムービーのつながりの話は面白いなと思いつつ,トンちゃんを食べたのは昨日の話.目に見える部分での解像度への満足と満足からくるオルタナティブとしてのGIF.

memo062
ふー,論文書きはじめるといろいろと見えてくることがあって,それはそれで楽しいのだけれど,なんか負荷が高い感じで,昨日は髪を二度洗ってしまった.坊主なので,一度でいいのに,無駄に二度も洗った.ショックだった.

来年度から,アニメ論を受け持つので,ちょっとずつアニメを見ている.昨日は,ディズニーの『ファンタジア』.音と映像.あと,よく動く.「動き」をテーマにした講義にしたいので,とても参考になったけれど,その動きをアニメーターなど作り手を目指さない学生さんに,僕がどう教えることができるのか,とても心配になってきたけれど,GIFアニメから流れがあるので,「動き」を考えることは重要だと思うね,自分的に.

リアルインターネットおじさんについて何か書きたいなと思いつつ,時間がとれなくて書けないので,ここで勢いで何かを書くかなーと思いつつ,書いてみたのだけれど,やはりリアルインターネットおじさんはネットが降りてきたなーという感じがするというか,でも,それは勝手に降りてきたわけではなくて,IDPWや渋家の人たちのコミュニケーションのなかからできているんだよなー ネットを通じての対話が「リアルインターネットおじさん」に降りてきている.なので,さっきは,「IDPWや渋家の人たち」と書いたけれど,ザッカーバーグだって,ラリー・ペイジだって,東浩紀だって,津田大介だって,いろいろな人たちがいるネットが「リアルインターネットおじさん」に降りてきているんだよなー.ネットが降りてきていると書いたけれど,見た目は白の全身タイツのおじさんなんだけど,その話のドライブ感とかが,なんかよかったんだよね.「リアルインターネットおじさん」について,みんなワイワイ書いたら面白そうだなーと思いつつ.なんか,ひとりで考える現象・人物ではなさそうだなーという感じです.

memo063
「GIFとの衝突」から「視覚的無意識」へ行って,「擬態」へとたどり着いて,擬態による空間との同一化と言うことが気になりつつも,GIFそのものが画像に擬態しているものかもしれないと思いつつ,いやいや,GIFへとヒトが擬態し始めた,というか,GIFが擬態的な画像だから,真っ先にGIFというだけで,ヒトが画像ファイルへと擬態し始めたのかもしれない,それはつまりオリジナルなき存在として,パフォーマティブな存在となるということで,それは「ディスプレイ的存在」ということになるのかなーと思いつつ,そこに現実の不完全さを完全に擬態していくGIFとの絡みを考えることができたとしたら,面白いなーと思いつつ,コンピュータとの第三項を経ながら,ヒトのあり方は変化しつつあるなーと,マウスからカーソルを経て,さらにGIFを経由して思っているわけです.

memo064
インターフェイスに関して「見る」と「触れる」で考えたきたのだけれど,近頃,それがどうでもいいというか,その段階はすっ飛ばして考えたほうが面白いのかなと思い始めてきている.見てないわけでも,触れてないわけでもないのだけれど,もうインターフェイスと同化しているというか,インターフェイスに擬態したヒトみたいな感じで考えていくとまた見えてくるものがあるのかなーと考えつつ.

向こうのブログに書こうか,こっちに書こうか迷うけど,しっかりと時間を書けたものをあちらは書いていくということで,こちらh10分くらいで書いてしまうという感じで.どんどん書いてみよう.

memo065
インターフェイスとインターネット.ともに身体というか,インターフェイスをすっ飛ばしたものが面白いとすると,インターフェイスを考えることはどうなるのか気になる.身体に密着というか,常に持ち歩くようになって,タッチもあたり前になったときに,インターフェイスを意識しないでネットにつながるようになったいまだからこそ,ネットに身体を持ち込ませるようなアプリが出て来ていること.インターフェイスとネットとのあいだにある身体の役割というか位置というか,ここが気になる.

memo066
完全さを求めるのをやめて,不完全な現実であることを良しとする.コンピュータの世界を完全でグロテスクなものだとは考えず,そこもまたいい加減な世界だと思うこと.実際に.通信システムとしてはいい加減だし.考えてみれば,GIFの鑑定士もまったくGIFを見ていないという点ではいい加減なもんだ.ネットはいい加減な空間をつくり,そこから誘惑してくる.
ネットの不完全さを受け入れるということは,リアルでの「制約」を受け入れて,それをネットに持ち込むことかもしれない.いや,ネットそのものがもともと「制約」されたものであって,改めてそこに更にという感じでリアルの「制約」を持ち込んでみることをしているのかな.

memo067
GIF論文書いていて,二転三転どうなるのだろうか.いいなと思った「視覚的無意識」や「擬態」といった偉い人の言葉は,結局しっくり来なくてポイしてしまった.論文としては,いれた方が「らしい」だけど,しっくりこないのだから仕方がない.締め切りギリギリまで粘って,GIFを起点とした現時点でのヒトとコンピュータとの関係を考えていきたい.

memo068
世界遺産を見ている.バリ島.行きたいなと思うけど,それはテレビで見ているからにすぎなくて,行ったらそこにはそこの日常があるだけなんで,自分の日常と同じなんだよな.テレビで見るから行きたいくなるんだよな,多分.こういったテレビから受ける感じと,ネットから受ける感じのちがいってなんだろう? ネットでは感じないことをテレビに感じるというか,世界遺産の番組には感じる.

memo069
今日の夢.シンガポールに行っていた.何処かに行こうとタクシーに乗った.とても気のいい黒人の運転手で,いろいろなところに連れて行ってもらって,草履を買ってもらった.そうこうしているうちに帰りの飛行機のために空港に行かなかいとダメな時間になってきた.でも,それをなかなか言い出せないうちに,なぜかプールにいた.そして,そこでは運転手が全裸でウォータースライダーで遊んでいた.僕はそれを眺めていた.

memo070
昨日は就活と仕事についてということを話したあとに,芸大20代女子のインターネットの話を聞く.小中学生のころからパソコンを使い,ホームページをつくり,お絵かき掲示板で絵を描きという歴史ででてくる単語はまったくもって未知なものばかり.ここにも「もうひとつのインターネット・リアリティ」があるなーと思いつつ,うんうん言いながら聞いていたわけであります.勉強になった.とてもとても遠いインターネットのお話であった.このとてもつなく遠い距離感は如何ともし難いけど,話はとても面白い.それをとても楽しいそう話しているのもとてもよい感じだった.

memo071
GIF論文,はじめて「書き終えた」感触を得た.良かった感じがするけれど,まだもうちょっと直すところが必要な感じもあり,またこの高揚感が突き落とされそうな感じもしなくもない.同時に書かないといけない,Tumblrのアートシンポジウムもがんばらないと.Tumblrとアートというテーマで,12本ものエッセイと3時間以上に及ぶシンポ,そして,その盛り上がり.ニューヨークって面白なと思った.

GIF論文を書いていてとても気が滅入っていたので,ご飯もつくるにならず,冷凍もののチャーハンを買ってきて,フライパンで炒めた.なんか,とてもチャーハンが食べたかったんだよね.ただそれだけだけど,もう一袋買ってあるので,明日もチャーハン.

memo072
これ欲しいと思い始めてきた.けど,UNEVENにはチャコールしかないんだよなー.グレーが欲しいんだよね.本店にいってみるかなー.でも,なぜか,これ本店のネットにのってないんだよね.

memo073
お昼はチャーハン.高菜チャーハン.いいでないのかな.なぜかムショーにチャーハンたべてたくて,2食続けてチャーハン.夕飯もチャーハンにするか迷いつつ,英語のアブストを書くというお仕事を午後にして,そして,記事を一個仕上げて送信する.チャーハンのことを考えつつ,3月11日の午後を過ごす.

「3月11日の午後を過ごす」なんて書いてしまうと,それでもう気分は重くなるというか,なんというか.震災のことを書かないと,考えないといけないような気がしてくる.考えること,行動すること,よいこと,あるいこと.

ふと思いついたことのなかに震災があるというのも,それはそれでいいこと,わるいこと.考えること,行動すること,行動しないこと,考えないこと.

memo074
朝方までGIF論文に注というか参考文献・URLをつけていて,どうにか5時半くらいにおえて,少しネットをのぞいて,寝て.起きて,シャワー浴びて,洗濯を終えて,これからご飯を食べるところで,食べたら論文の直しをやって.終わるといいな.GIFのことを書いているのだけれど,結局という,やっぱりというか,最終的には現在のネットとコンピュータを介しての認識の話なっていったような気がする.それを語るための,そしてそれに気づかせてくれるのがGIFという感じかな.GIFをめぐるインターネットのお友達によるGIFをめぐる言葉,これだ大事.ナイス,earth.gif!

memo075
GIF論文を書き終えた気がする.注もいれたし,回らないearth.gifも入れたし.書いていたら,GIFが離れていったような,近づいたような.これまた不思議な感覚になったような文章になった.1年間考えていたことが,2万字程度にしかならないというのは悲しいような,濃密なような,もっともっと書きたいな.いや書け,自分.書かないと次はない.書け.書け.書け.はい.はい.はい.

memo076
GIF論文を終えて,一眠りして起きたら,手元にあったポテトチップスうすしおを食べて,これからOさんの送別会.うんうん,モンゴル料理.パオがあるよお店には,なにが食べられるのか.Oさんは元気なのか.とりあえず一段落のひととき.

memo076
こんなバランスが好きです.腰回りにボリュームがあって,足元にもボリュームありな感じ.

memo077
伊藤計劃・円城塔『屍者の帝国』をKindleで一気に読んだ.意識とか,言葉とか考えさられる.なんだその感想はということですが,なんだろうね.もっと何かを書きたいなと思いつつも,書けない.意識とか言葉について考えさせられる.

論文を書き終えて,頭の変換するために読んだ.そう,だから,読んだ.で,変換された.明日から,またがんばる.そんなこと書きたくてmemoを書き始めたわけではないようなきがするけれど,こういう言葉が出てくることがひとつの感想でもあるような小説.

書きたいときにmemoを書き続けて,それが何になるというわけでもないのですが,それでも書く書くしていくと,( ..)φメモメモしていくと何かになるのかなーと思いつつということを何度も書いている気がしている.実は,というほど,実はではないのですが,もっと自分では考えないようなことをmemoりたりのですが,どうしても自分では考えないことはmemoれないということにもなるわけで,うーん,「誰かになる」みたいな感じで,課題を立ててmemoをしていくといいのかな.

memo078
後もう少しで仕事にいかないとならない時間になる.土曜日に仕事をして,もう何年になるだろうか.天気がいいと休みたいなと思いつつも,仕事にはいく.いい仕事場だからかな.仕事だからかな.そんなことを考えつつ,何か他のことを考えないかなと思っていていも,なかなか思いつかないまま,時間だけが過ぎていく.そんなことなら,ドン・ハーツフェルトの資料を読んでアニメ論の講義準備をしたほうがいいような気がしてくるけれど,何かを書いておきたくて,これを書いている,でも,ハーツフェルトの資料を少し読もう.

memo079
気持ちが塞ぎこむ感じある今日このごろ.季節の変わり目だからか,また4月がくるからなのか.なんかぎゅーと胸のあたりがくるしいのであります.この前まで論文を書いていたから,それが終わってなんかボーとしている期間になっている感じもあるし,来年度からのアニメ論が重荷なっている感じもある.要は,不安なわけですね.あたらしく担当した講義ははじまるまで不安で仕方がない.でも,アニメを考えることは,次につながるはずだから,がんばると前向きにしてみるが,書いてみても,気持ちは変わらない.でも,やる.それしかない.

話のひろがりかたのパターンがある.物語のパターンを村上春樹に感じた大学時代.ひとりの人間が考えることができるパターンは数少ないのではないのか,今もまたそれを思っている.論文にしても,小説にしても.そして,僕はパターンが大好きです.でも,抜け出たいとも思っている.でも,パターンを持っている人を信頼している.でも,そこから抜け出たいと思っている.でも,パターンを信頼している.こんなことを書いていると,保坂和志が読みたくなってきた.

memo080
次の座談会に向けて「インターネット」について考えたけど,だんだんというか最初からからもしれないけれど,いや,やはりだんだんわからくなってきた感じがする.追いつけない感じがする.もともと一周半くらいの遅れでついていっていたと思うんだけど,いまは同じところを周っていないような感じもする.いつも使っているものだから,考えることができるような感じがするのだけれど,なんか実体がない感じがする.実体なんてなくていいかもしれないなと思いつつ,実体というか言語化ができない感じ.

でも,それを捉えようとGIF論文を書いたわけですが,書いた結論が即,Pokeに否定されている感じもする.ネットとリアルを膨大な低解像度の認識が埋めていく.でも,埋められたら,それってとても気持ちわるいから,もう消えて!みたいな感じ.Facebookの実名主義がなくてもこの気持ち悪さはいずれ出て来たものが,実名で加速されただけかもしれない.

デスクトップメタファーについて書いたことは,まだまだ有効な感じがするんだけど,それはデスクトップメタファーとかをつくった人も言語化できる範囲での実装を行なっていたのかとも思う.だから「メタファー」.今は「メタファー」はない感じ.まずつくりましょう.

MAKE! そのあとに言葉がないまま,次々とつくられていく.これはきっといい意味で言葉がないんだと思う.言葉を超えていく感じがある.インターフェイスを超えてしまう感じと言葉を越えていく感じ.ここには共通点があるのかな.

memo081
今日は高校の教科研修でタコが美味しい日間賀島に行くらしい.タコを食べる.高校へ非常勤で行き始めてもう結構になるけど,ここでは人ととして教えられることがたくさんある感じがする.年上の人たちと関係をもつ仕事場であることが大きんだろうな.あともう少しで出発の準備をしなくてはならないなー.

“One Gif Compositions” by Evan Rothについてブログを書きたくて,朝からブレスト.この作品に「膨大な低解像度の画像がリアルとネットのスキマを埋めていく」感じがあるような気がしている.それが気持ちいいときもあれば,大量のGIFアニメの動きのズレがとても気持ち悪い時もある.この感覚の振れ幅が面白いなと.CBCNETでの紹介記事タイトル「同じGIFアニメを別名称で大量に再生することによって生まれるモーション表現」にある「同じ」「別名称」「大量」「再生」という言葉が結びつているところがディスプレイでのパフォーマンス感があって気になる.実際,ブラウザとキャッシュという仕組みをうまく使っているみたいなので,画像ファイルのパフォーマティブな部分が活かされた作品なんだろうなと思う.

memo082
高校へ行く途中で,とりあえず書きまくるしかないという考えに至った.いつもいつも結局はここに辿り着くのだけど,書くしかないのです.目の前で起こっていることを書き続ける.そうすることで問題の「輪郭」が浮かび上がってくると信じるしかない.インターネットやコンピュータに関連する作品について書き続けること.今までも書き続けると決めていたけれど,講義などで忙しなるとついサボってしまっていたので,この一年はどんことでも書き続けていきたい.しかも,それを公開のかたちでしていたい.どこかで他の人が見ているという意識のなかで書くのはとてもいい緊張になるし,ネットに残しておけばいつかそれが,それは100年後とかかもしれないけど,誰かの役にたつかもしれない.

memo083
谷口さんの3D GIF Galleryのことを書いていて,そこで今のネットの作品を考えるのに「メタファー」が有効ではないということに気づいた. 藤幡正樹さんの《Beyond Pages》では「本」とか「ページ」というメタファーが機能していて,そこでの「薄さ」ということも考えることができた.でも,谷口さんの作品での「薄さ」は,言葉を当てはめているだけでという感じがして,そのことば現象と一致していない.ここのズレはしっかりと考える必要がある.

memo084
そもそもインターネット体験ってなんなのだろう? やっぱりインターフェイスの問題なのかなと思う.インターネットの向こうで,犬がコンピュータに向かっていても気づかないということがあったけれど,犬の前足ではキーボードは押せないのではと思うわけです.今は,スマホがあるからインターフェイスの変化があるから,インターネットも変化していく.あのオフラインでのネット展で印象的だったのは,みんながスマホ片手に作品の鑑賞しているところ.これが今のひとつのネット体験ってことなんですよね.机の上においたパソコンでも,膝の上においたノートブックでもなく,片手に持ったスマホからのインターネット体験.もちろん,パソコン,ノートパソコンでもインターネット体験できるけど,ここ5年くらいの変化.

memo085
教科研修できた篠島で露天風呂に入る.気持ちいいですねー いろいろと忘れられるような感じもするけど,隣には高校の先生がいるので,すぐに現実に引き戻されるけど,大きなお風呂はいいですね.何かを忘れるというのはどうゆうことなのだろう.忘れることはあるのだろうか? 思い出せないだけ.では,思い出せないってなに? 認識することが「選択的」になっているとすれば,どこかに穴ができる.でも,それはもともとの記憶のありような感じもする.コンピュータと共にあるヒトの記憶のあり方は変わっているのだろうと思うんだけど,この共進化を考えるにどうするのがよいのかな?

memo086
センボーのブログ「インターネットと無意識」はとても刺激的だった.ここから考えることはたくさんありそうだけど,まずは「プッシュ通知」とスマートフォンの関係かな.memoでもインターネット体験を「インターフェイス」の問題として改めて考えてみる必要があるかなと書いいたけど,ここに「プッシュ通知」というのが入ってくるとどうなのか? 常に持ち歩くことができるからこそ「プッシュ通知」で,それゆえに無意識に入り込んでくるような感じ.そして,「プッシュ通知」によって「選択的認識」が促されるような感じ.いろいろな通知がきて,それに対応するように世界を認識していく.一度為された「選択的認識」が「プッシュ通知」で連鎖していくような感じ.他のヒトの認識と記憶が自分からとりにいくことなく自分の元に入り込んでくるというのは面白い.電話もそうだけど,受け取った時の選択が多いというのが違うところだろうか?

memo087
インターネットとインターフェイス.ふたつの「インター」,あいだ.と,書いてみたものの特に案が出るわけでもなく,でも,何となくここにヒントがあるような義気がしている.iPhoneで書くことと,パソコンで書くことの違い.そこでの無意識的なこと,意識的なこと.何がどのように作品に影響するのか.この辺り考えるためには何が必要なのか?

マクルーハンに戻ってみる? 透過光と反射光.でも,今考えるべきはディスプレイを見ると,ディスプレイを通して見る.い,そこまではいかない.今はディスプレイを見る段階.いつでもどこでもディスプレイを見る段階.ここは違う気がしてきた.

言語とインターフェイス.スマートフォンに対する「言語」持たない状態なのではないだろうか? 「メタファー」から解放されたところ.インターネットも「メタファー」から解放された.いや、視覚表現はメタファーだらけだった?

文脈からの逃れ.タンブラーによるアートの見え方.ここはとてもネット展に重要な気がする.しかし,そこで何をすればいいのか,わからないでいる.「プッシュ通知」と絡めて,更新だらけで「ウザイ」展示?

memo088
昨日の座談会ででた「アンケート」や「作品がないのに解説がある」という提案はとてもいいなと思った.それは,そこから「言葉」が溢れてくるから.もちろん,アンケートの結果や解説が「言葉」である必要はないのだけれど,そこには今の「インターネット」を理解するためのとっかかりができる感じがある.インターネットを使ってなにかをするのではなく,その周辺を回ることで「インターネット」を浮かび上がらせるというのに可能性を感じる.

「コンピュータの身体性」を感じることができなくなってきたから,自分の身体を賭けるみたいなところがあるのかな.身体性をインターフェイスの部分では感じることができないのに,ネットは「身体性」をディスプレイでの行為の部分に今まで以上に導入しつつあるのかな.どこかしらに「身体性」を感じさせるレイヤーをつくるように仕向けられているのかもしれない.何に仕向けられているかは「コンピュータ」かもしれないし,「ヒト」かもしれないし,「ヒトとコンピュータとの複合体」かもしれない.この3つはレイヤーであるのか,それもひとつのレイヤーのオブジェクトの重なりであるのか.レイヤーというほど別れていない感じがするので,オブジェクトの重なりのような.レイヤーとオブジェクトという言葉の違いがどれほど有効なのかはよくわからないででいる.

memo089
エキソニモのトークに行ってきた.エキソニモによるエキソニモの歴史化のような内容でとても勉強になった.自分たちの活動を3部に分けていていたのが興味深かった.僕がエキソニモを知ったのは,スタジオボイスで四方さんが紹介していた記事だと思う.その時は,「ハッカー」という言葉が,自分とは異なる世界だなーと考えていた.

インターフェイス研究をすることになって,マウスとかカーソルとか云々しているうちに,エキソニモの「断末魔ウス」をアートフェアで買った.「これは!」と思った.「インターフェイス」が示すヒトとコンピュータとの境界をこんなかたちで示すことができるのか! と,とても考えさせられた.

ヒトとコンピュータとの境界というか,それはネットとリアルとの境界でも,リアルとバーチャルというか,ディスプレイの中と外というか,ふたつの世界の境界を,ふたつに切り分けることなく示すことができることが驚きだったのかもしれない.

「メタファー」という言葉の力を使ってどうにかいれたというか,言葉でカモフラージュされていたふたつの世界の境界を鮮やかにふたつともに示していた感じがする.
エキソニモの作品を通じて自分の関心の輪郭もかたちづくられたような気がする.ふたつのあいだの境界の測定を行うこと.

エキソニモがふたつのあいだの境界を意識しはじめたのは第2期のあいだで,その最後あたりに「断末魔ウス」があるのが興味深い.そして,「断末魔ウス」が2007年というiPhoneが発表された年につくられていることも,物語的に面白い.

でも,エキソニモは「物語」を拒否する感じがあるような.でも,今回のトークでは「物語」を笑いとともにつくっていた感じがする.「笑い」とともにというところが,自分たちで自分たちの歴史化を意識しているのかいないのかを曖昧している感じがする.意識できないところは確実にあって,それが「笑い」としてでてきているのかもしない.

「笑い」からエキソニモを考えることが必要かもしない.ふたつのあいだとそこに起こる「笑い」.「笑い」による曖昧化というか,「笑い」によって,ふたつのあいだがつながってしまうことがあるんだろうなー.

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あれこれ試着させてもらって,結局買ったのはこれ.ブッシュパンツを自分が買うとは思っていなかったのに.サマーウールでとても軽い.まだ裾上げができてないので,名古屋に帰ったら裾上げへ行かなくては.

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谷口暁彦さんの個展については,いろいろなところで書かれてると思うのですが,僕的にはタッチデバイスしか使っていないというところが面白いなと思ったわけです.「思い過ごすものたち」というタイトルの掴めなさ.ここにはメタファーがありそうでなくて,物語が紡がれそうで紡がれることもなく,「思い過ごしたものたち」でもなくて,「思い過ごすものたち」ということで,時制が行ったり来ている感じがして,どことどことが触れ合っているのかもわからない感じがする.とりあえずメモを取るしかないという,でも,メモを残す必要があるという感じがする.そんな感じにとらわれている.

谷口さんがiOSデバイスを使っていて,そのなかでも「吊るされている」ものたちがとても気になった.天井から吊られてゆらゆらしているものたち.ディスプレイと一体となっているものたちがゆらゆらとしている.その掴みどろころのなさというのか,なんだろう.そこには吊られているものたちがゆらゆらしているものがあって,それは平面的なデバイスを際立たせている感じがした.「ものたち」なんだけど,そこにはディスプレイという平面がある.なんかものではない感じ.でも,それは「ものたち」.その平面はたしかにモノたちということが重要な気がする.

なんかこの言葉の届かなさ.でも,谷口さんは自分でテキストを用意していたりする.なにかこの「ものたち」と「言葉」のあいだにあるものを考える必要がある感じする.いや,言葉は必要ないのかもしれない.吊られているものたちとテキスト.水で書かれるテキスト.iPadからつられる鉛筆.鉛筆が書くテキストと水が書くテキスト.そして,風に揺れるiOSデバイスというものたち.そして,プリントされたテキスト.なんかぐるぐるしてきた.

最初は「吊られているものたち」ということを考えようとしたのだけれど,書いていくと,テキストとか鉛筆,水などのキーワードが出てくる.iOSデバイスというカーソルとマウスというGUIのデバイスとは異なるコンピュータ体験から生じてきたひとつの作品群として考えようとしていて,それは今も僕の立ち位置としては変わっていないのだけれど,「なにかそれだけではない」ということを書いてしまえばそれまでなんだけど,そう書いてしまってはダメなような気がする.延々と書いていくなかで見えてくる,あるいは見えてくるまで書き続けることが必要な感じがする.

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深夜に週末のことを書こうと思っていたのに,酒に溺れてしまった.実家で酒があるからだけれど,それでなくても,なんだろうか,なにか,うん,それでなんだろう.お酒に手が伸びるときは,どこかに不安があるのかなーと思う.次が見えないというか,次のためになにをするべきか,ということが見えないというか,ぼくの場合それは書くということなんだけれど,「書く」ことで何が起るのかが分からない.分からないから書くのだけれど,この姿勢のまま「研究」ということができるのか.無理に通すことも難しいなと思いつつも,この姿勢だからこそこれまでやってこれたとも思っているし,今の環境がある.「次」を考えずに書くことは難しけれど,それでも書くと「次」がくる.それを求めて書く.いや,求めることなく書く.そうすると,「次」がくる.いや,もう「次」に行くという感じが,その姿勢がいいのかもしれない.

「かもしれない」では済ませられないことが多くでてきている.だから,考えて,かもしれないを,少しでも「こうです」と言えるようにしていくまで考える.目の前のことを考えつつ「輪郭」を浮かび上がらせていくこと.そのためには考えて,書くしかなくて,それを続けることしかない.

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散歩していたらレコードが落ちていた.

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会田誠展を見に行こうか迷いつつ,実家から出れないでいる.実家回りを散歩して,ノスタルジーに浸りつつ,かつてあった遊具がなくなっている公園を通りながら,ノスタルジーってなんだろうと思ったりしていた.ノスタルジーとは関係ないけれども,これも見て,あれも見て,それも見てと,どんどん見ていくことに興味がなくなってきている自分の考えはどこへ向かっているのかも気になってきている.見る先にあるものを絞ることしか,次を考えることができないとすれば,絞った見る先はとことん見るしかない.これもまたあたり前のことをするだけなのかもしれない.そんなことを考えているうちに,バスの時間が過ぎようとしている.次のバスで行くか,それとも歩いて駅までいくか.

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鼻がつまって花粉症なんだよなーと思いつつ,呼吸をする.テレビでは高校野球をやっている.外は曇りでちょっと寒い.太陽が出ていない.何をするべきかを迷いつつ時間だけがたっている.特に何もないときなのかもしれない.でも,ここで頑張らないと,と思う.ネットと画像についてどのような切り口で考えるか? この問題を扱うことで見えてくることは何なのだろうか? まだまだ見えてこない…

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昨日は1日寝ていて,今日は復活してお仕事.ということことは全く関係なく,「地球」が気になっている.「丸くて青い地球」と「データとしての地球」ということで,池田純一さんの『ウェブ×ソーシャル×アメリカ 〈全球時代〉の構想力』をもういちど読みたくなってきている.ぼくの場合に第一にくる地球は「earth.gif」だけれども,この回り続ける低解像度の地球と「丸くて青い地球」とGoogle Earthとの関係を考えてみると面白いのかなと思いつつ.単に思っているだけですが.面白いかなと.

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maps-and-sons:
Update! MAPS Weblog
MIZUNO Infinity Moc.003
“Infinity Ring Moc”
Additional photos
これ欲しい.買えるかな?

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深夜に換気扇の掃除を遂行した.以前はいつやったのだろう.油がギトギトになっていていた.やばいね.こまめにやらないといけないなーと思っていても,と書いたけど,普段は全くそんなこと思ってもいないのです.だから,気づくともう換気ができないものになっている.それはまずいので掃除した.それだけの話.どんな話.そんな話.ちかごろ「地球」に惹かれている.重力に引かれているのかもしれない.

このまえ「一人称」の話がされていた.私が知らないあいだにあなたになって彼になるような文章が読みたい.私はいつまでも私ではないし,それはあなたになって彼女になり,彼になる.そんな話.そういったことを説明する保坂和志さんの文章が好きというか,ひとつのリアリティがそこにある.では,人称が次々に変わっていく話にリアリティがあるかというか,これまた困る.ない感じがする.説明にはリアリティがある.

このまえ「物語」の話がされていた.僕はあまり物語に興味がない.物語を作る人はとてもいろいろと考えている.あたり前です.物語は勝手には物語にならない.物語が物語になるためには配置が必要.それを作者は行う.それを解釈する人がいる.物語と解釈.この関係ではない方法で物語を考えることは可能か.そんなことを考えている限り,次にはすすめない.僕は何も考えない.そちらではない方向に向かいたい.そこがどこにあるのかわからないけれど,とりあえずはそちらではない方向に進みたい.

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ブログを書いて,そこでカーソルとプッシュ通知についてのつながりを見つけつつ,そこでの身体性の喪失みたいなものがインターフェイスの喪失と結びつき,それがまた押井監督の言う身体の喪失を経由して,攻殻機動隊の電脳にもつながるのではないかと思ったら,テキストが書けそうなきがしてきた.ちょっとドライブした感じがする.

ラファエル ローゼンダールのhttp://www.lookingatsomething.com/ について書こうとしたのだけどなかなか書けないまま.ブラウザを「窓」と見立てるメタファーが機能しているのか否か,ここが分かれ目な感じがするのだが,書いてみると機能していない感じがする.それでも,シンプルなインタラクションで惹きつけられる.これはブラウザの枠が「窓」とか言うよりも,ドメインにある通り「何かを見ている」という文字通りのことなんだろう.そう思うと,とてもいいな.

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