tumblrmemo300-399

memo300
memo300まできた.このあいだに常勤の職に就職できなかった.ため息がでる.それだけが進む道ではないとアタマのどこかで言いきかせつつ,それもまた言い訳ではないのかと思いつつ,どこかに道を見つけようとしているが,その場で足踏みを繰り返しているのみのような気もする.でも,チャンスは与えてもらっているので,それを最大限活かすように努力するしかない.自分ができることをやってそこで何を掴めるか,それを楽しみにmemo400を目指す.

memo301
お手伝い先の引越業務4日目.今日が最終日.もう疲れ果てていて,それで今日はとても暑いところの作業.気が滅入るが,終わりも見えてきているので,がんばるしかない.それしかない.

memo302
チェルフィッチュの岡田利規さんの『遡行』を読んでいる時に,iOS7が「フラットデザイン」を採用したことの意味に考えが及んだ.演劇からiOS,このつながりはおもしろいかもしれない.『遡行』という本全体から考えが及んだということではもちろんなくて,そのなかにある「演劇/演技の,ズレている/ズレてない,について」(『ユリイカ』2005年7月号所収)に書かれた「言葉」と「しぐさ」はほとんど同期しないということから,iOS7が思い浮かんで,「フラットデザイン」という視覚言語とガラスをスリスリするという行為との関係,いや,フラットデザインとSkeuomorphism(スキューモーフィズム)とのあいだの視覚的ちがいと,タッチのジェスチャーとマウスとのちがいを考え始めてしまった.

Skeuomorphism(スキューモーフィズム)が現実をディスプレイに移行させる「究極のメタファー」だとすれば.それはデスクトップ・メタファーに連なるもので,そこにはマウスがあって,マウスをクリックして,アイコンを「押し」ながら作業を行っていた.マウスというモノを掴んで押して,コンピュータにコマンドを与えていた.それは,現実にあるものをメタファーとして使ったというだけではなくて,現実で行っている行為も同じように使っていることになる.

iOSはデスクトップ・メタファーを使ってはいないけれども,そこで得られたメタファーの有効性をSkeuomorphismで推し進めるとともに,マウスによる身体感覚も残していたといえる.マウスは実際に使うことなく,自分の指で多様なジェスチャーを使うことができるとはいえ,多くのことが現実のモノを模した「ボタン」や「アイコン」を押すということで行われていた.
現実をディスプレイにうつすさいにジェスチャー・行為とイメージとをどのように結びつけるのかはとても重要になってくる.デスクトップ・メタファーはそこに「言葉」の力を使ったわけであるが,iOSは「イメージ」そのものを使ったといわれていたが,実際は「Skeuomorphism」にかたちを変えたメタファーであった.行為は変った,しかし,それと同期していく「言語」の本質的な部分は変わらなかったのがiOSだった.それでもiPhoneの操作ができているのは,デスクトップ・メタファーで培った身体感覚と言葉との結びつきがとても強固であったからであろう.

しかし,身体はつねに「変形」していく.iPhoneを使い続けていれば,そこにはiPhoneのための身体感覚が生成されていく.それはデスクトップ・メタファーとマウスとの感覚とはちがうものになってくる.それゆえに,ジェスチャーとディスプレイのイメージとのあいだに徐々にズレが生じてくる.ボタンがない画期的なユーザーインターフェイスをもつ「Clear」 の開発者であるフィル・リュウ(Phill Ryu)の言葉はこのことを端的に示している.

「ボタンというものはタッチスクリーン端末において最も不満を募らせるインタラクションです.ちょっと考えてみれば明らかなことです.マウスを使っているときなら,ボタンをクリックするときに,実際に指でボタンを押しているわけだからまだ許せます.でも,スマートフォンを使うのであればガラスを擦っているだけで,まったくフィードバックがないわけですよ.
リュウは「フィードバック」のあるなしを問題にしているが,問題はそれを含めた身体感覚そのものにある.マウスとモノをもっているのか,それともガラスの平面を指で擦るのか,そのときの手の動き,画面との距離などがすべて影響してくる.とくに「ガラス」というなめらかな質感をもつマテリアルが,ヒトとコンピュータとのあいだに入り込んできたことは重要である.「ガラス」は以前からヒトとコンピュータとのあいだにディスプレイというかたちで存在していたけれど,それは「触れる」対象ではなかった.しかし,現在ではそれは「触れる」対象となっている.それは,ディスプレイそのものもそうであり,トラックパッドにも使われている.ガラスが示す「なめらかさ」はSkeuomorphismで表された「革」や「フェルト」の質感とは相容れないものである.

ディスプレイはもともと「光」でイメージを表示しているものであるから,そこでは「革」や「フェルト」の質感は再現できないとアーティストのラファエル・ローゼンダールは書いている.ディスプレイにあるのは「赤青緑の3色の光」にすぎないのだから,そこで現実を再現することはできない.ならば,そのような「質感」を与える必要はないというのが,ローゼンダールの考えであり,そのような作品をつくっている.IOS7が発表されたときに,ローゼンダールは多くの友人から彼の作品とiOS7のフラットデザインが似ているのではないかと指摘された.このことから考えると,フラットデザインはモノの質感を廃して,光の質感を利用しているといえるのではないだろうか.そして,その光はガラスを通してやってくる.その光とガラスから生じる「質感」を介して,私たちはコンピュータをジェスチャーで操作する.デスクトップ・メタファーとの「別れ」がここにある.

デスクトップ・メタファーの感覚を残しながら,徐々に蓄積されていったジェスチャーの感覚に合致する視覚言語がiOS7で示されると期待してしまってもいいのではないか

memo303
クレア・ビショップがデジタル技術が現代美術界に受け入れらない理由を端的に述べたテキスト「digital divide : contemporary art and new media」を参照したい.ビショップによると現代美術界は写真やヴィデオなどのあたらしい技術を常に取り入れてきたのだが,デジタル技術に対してはどこかに「デバイド[格差]」があるとしている.そしてその理由としてビショップは,デジタル技術が通常は認識できない「コード」に構成されており,しかもそれが視覚的なものはなく,言語的なものであることを挙げている.ビショップはグロイスとは異なり「見えない」領域が「見える」領域を成立させていることはさほど問題にしていない,それよりも「見えない」領域が「言語的モデル」で構成されているという部分を重要視する.双方ともに「見える−見えない」領域をもちながらも,その「見えない領域」が写真やヴィデオは視覚的でありデジタルは言語的であるという決定的な差が,現代美術界におけるデジタルデバイドを引き起こしているということになる.

memo304
ロサ・メンクマンはグリッチを心象にするけれども,同時に画像ファイルを可視化している.不可視な領域をどこにつくるのか,これがひとつの問題になっているのかもしない.でも,不可視な領域なんていらない.オリジナルなんていらない.そんな感じがいい.

memo305
夏休み,すこし時間があくととても憂鬱になる.自分が何をやっているのか,それが次にどうつながるのか,まったくわからずに憂鬱になっていた.もう本当に,ちょっとでも時間があくと憂鬱になっていた.そんなとき,『仕事や人生や未来について考えるときにアーティストが語ること』に書かれいてたエキソニモのことばを読んで,とても心が晴れたというか,なんか元気がでた.価値を見出して提示すること,先が見えていたら面白くなくて,先が見えていないからこその現在とのヒリヒリとした接触とももに生じるリアリティ.エキソニモには作品から多くのことを考えさせてもらっていて,リアリティを共有していると思わせてもらっていますが,その考え方でもとても多くのことをもらったような気がします.時代のリアリティを提示していけるようにがんばる次第です!

memo306
2007年に書かれたHito Steyerlの「In Defense of the Poor Image」は,高解像度の画像の劣化としての低解像度ではなく,独自の存在となった低解像度画像のことが書かれている.2007年といえば,iPhoneが発表された年であるが,インターフェイスでの大変動ともともに,画像の認識においても大きな変化が起こっていたと考えるべきであろう.

「In Defense of the Poor Image」の出だし一文「The poor image is a copy in motion.|貧しい画像は動きのなかでのコピーである」は,「貧しい画像」のすべてを表している.それがもともと「コピー」であること,そしてそれがネットでの画像流通という「動き」に関係しているという,ふたつのことを表している.「貧しい画像」が実際にコピーであるかどうか問題ではない.「貧しい画像」と呼ばれる低解像度画像が「コピー」に近い存在であるという認識が重要なのである.ここには低解像度の画像に対してはどこかに「高解像度画像=オリジナル」があるという認識が対として存在している.Steyerlはこの認識を間違ったもとして糾弾する.低解像度画像は高解像度画像とは異なる存在意義をもつというのが,Steyerlの主張である.

そのひとつのが低解像度はネットを流通しやすいということである.ネットは通信速度の制約から高解像度画像は流通しにくい.それゆえに,それは解像度を落とされ,データ量を減らされたかたちで流通していく.画像は流通すればするほど人目につくようになる.このことこそが「貧しい画像」が求められていることなのである.そこには解像度の高さによる画像の真正さではなく.いかに人目につくのかというあらたな評価基準が適用されている.あたらしい評価基準のもとでは「アウラ」の出現もまた変わってくると,Steyerlは主張する.いつまでも確かにある「オリジナル」ではなく,「コピー」のはかさなさゆえに「アウラ」が生じるというわけである.ここで「アウラ」という言葉を双方に適用していいのかは疑問であるが,現在において「アウラ」という存在も変わっていることは間違いない.

Steyerlは「貧しい画像」はリアルな存在が放つオリジナルなオリジナルではなく,リアリティに関する画像だとしている.確かに,「貧しい画像」は圧縮画像であり,それは見た目を保ちながらデータ量を減らしたものであり,それは「欠損」を前提とした画像である.オリジナルのオリジナルたるゆえん,もとのものをそのまま伝えるという画像の役割は「貧しい画像」にはない.しかし,見た目はあまりかわらない.これはデジタル画像ゆえに出来たことであるが,見た目はあまりかわらなくても,そこには画像データの欠損がある.その欠損はネットに流通するためのものである.そして,「貧しい画像」はネットに流通することで,多く人が見る.そこでリアリティを生み出す.「貧しい画像」はリアリティをつくりだす.この画像が示すアウラは移ろいやすい,不確かな,でもそこにあるリアリティについてのものなのである.

memo307
2007年から6年たった今,「貧しい画像」はもうない.低解像度の画像はネットに出回り,それを主に見てきた若い世代にとってはそれはリアリティをつくりだすあらたな画像ではなく,それ自体がリアリティなのである.リアリティにオリジナルもコピーもなく,それはそこにただあるものであり,そこから創作をはじめるものなのである.

イメージ・オブジェクトというかたちで,ネットの画像とギャラリーなどでの展示を組み合わせるアーティ・ヴィアーカントにおいて,ネットの画像とギャラリーでのオブジェクとのあいだに優劣はない.ともに等価に彼の作品なのである.ここにはどれがオリジナルでコピーということはない.あるのはただ彼の作品としての画像であり,オブジェなのだ.彼の作品においてはどこかに「ソース」がある.しかし,「ソース」が絶対というわけではない.ひとつの「ソース」は,他の画像・オブジェの「ソース」であり,そこから生まれたものは,他のものの「ソース」となるのである.

Tumblrをひとつのネットにおける生産システムと考えるブラッド・トルメルもヴィアーカントと同じような考え方をしている.ネットの生産システムに投稿される「オリジナル」の作品は,それが唯一無比であることが重要ではなく,その投稿によって「レスポンス」が生じることが重要なのである.レスポンスによって改変されていき,それがよりおおくネットに流通していくことが重要なのである.そのときその作品は「貧しい画像」ではない.それはあくまでもひとつの作品である.しかし,それは低解像度であり,コピーである.だが,そのことはまったくもって関係ない.それが流通さえすればよい.作品として,あるいは作品としてでもなく,また「貧しい画像」というあらたな基準でもなく,ただただネット上を流通していき,どこかで誰かの作品の「ソース」となる画像が,Tumblrをリブログされていくことが求められている.

Tumblrをリブログされ続ける画像と「貧しい画像」とは低解像度であること,流通しつづけるという意味では似ている.しかし,Tumblrを流れていく画像には「貧しい」という形容詞をつけることはできない.それはシステムのなかで生産者と消費者との距離を近づける画像であり,それはつねに誰かの,そしていつか作品になる「ソース」としての画像として機能している.

memo308
谷口暁彦の《無修正◯ロ画像.jpg(バイナリ)》には,タイトルに「画像」と書かれているのに「文字列」しかない.立派な額のなかに小さな字でびっちりと書かれた文字列がある.この作品を見る人は,もちろんそこに文字列を見るのだが,同時に「画像」を見る人もいるのではないだろうか.この文字列が画像を表示させるためのものであることを知っている人は,文字から「再生」される画像のことを想像するはずである.それがどんな画像であるかはタイトルにある「無修正◯ロ画像」が影響すると思われる.また,文字列が画像を「再生」させると知らない人も,そのタイトルと立派に額装された文字から,なにかしらの「絵画」を想像する人がいるであろう.文字列の機能を知っていようがいまいが,何かしらの「画像」を見る人の想像のなかに立ち上げる力を《無修正◯ロ画像.jpg(バイナリ)》は持っている.

この作品の興味深いところは想像にだけ画像が立ち上がるのではなく,文字列をバイナリエディタに実際に入力して「jpg」で保存すれば「画像」を見ることができるところにある.想像上の画像ではなく,実際にディスプレイに画像が表示される.「文字列=画像」というわけではなく「文字列→画像」ということで,文字列を適切に「再生」すれば,画像が表示される.私も画像を見ようと実際に購入した作品の文字列を入力しているが,まだ完璧に入力できていないどころか,最初の4行目で止まっている.意味をもたない文字列を一字一句間違わずに入力するというのはとても骨の折れる作業である.なので,まだまだ入力は終わらない.なので,額のなかの文字列は文字列でしかないのだが,それでも私はそこに画像を想像してしまう.もう「文字列=画像」となっているような感じもする.でも,文字列は文字列にすぎない.そこに画像を見るのは,その文字列が画像の「ソース」であるということと,そこにタイトルと額があるからである.分けがわからない状態になっている.

仮にすべての文字列を間違えなく入力できて,そこから画像を「再生」できたとしよう.その画像は文字列に対してどのような存在なのだろうか.画像が文字列でもあることは,データの見え方を変えることができるコンピュータでは当たり前のことである.だが,それはコンピュータ上での話であって,《無修正◯ロ画像.jpg(バイナリ)》では文字列がプリントアウトされている.それゆえにコンピュータから離れてしまっている.この文字列はアプリをかえて立ち上げると画像になるとか,コピペしてできるとか,そんなことを一切受け付けない.それは額装された文字列としてただそこにある.横にコンピュータを置いても何も変わらない.そこにあるとされる画像を「再生」するには,そこにある文字列をコンピュータに打ち込むしかない.それであったら,もうこれはこれでひとつの《無修正◯ロ画像.jpg(バイナリ)》としてその文字列を楽しむべきものではないだろうか.いや,文字列を見ながら微かに想像される画像を楽しむべきなのではないだろうか.

谷口には《夜の12時をすぎてから今日のことを明日っていうとそれが今日なのか明日なのかわからなくなる》という作品がある.それは「壁掛け時計を12時間撮影,その映像に映る時計の時刻が,現在の時刻と同じになるように動画を再生する作品」である.モノとしての壁掛け時計と映像としての壁掛け時計がぴったり同期していると,どちらも「時刻を示す」という時計の機能を果たすことになる.この言い方はすこしおかしいかもしれない.モノとしての時計は常に「時刻を示す」を示しているのだから,モノとしての時計と同期することで,映像の時計だけが「時刻を示す」という機能を与えられたのだ.しかし,そうだろうか.ふたつの時計を見るとき,そのふたつが同じ時間を示しているからこそ,その時刻があっていると瞬時に分かるのではないだろうか.少しズレていたら,時刻を知ることにちょっとした遅延が生じる.2つの時計を見て,片方がモノで片方が映像,ということは,映像は過去の時計である可能性が高いから,モノの時計が今の時刻を指しているだろうとなるだろう.いや,モノとしての時計は電池が切れてかかっているのかもしれない,だとすると映像の時計の方があっているのではない,いやいやもう両方とも間違っている可能性が大きいから,自分の腕時計や携帯で時刻を確認するかもしれない.

《夜の12時をすぎてから今日のことを明日っていうとそれが今日なのか明日なのかわからなくなる》と《無修正◯ロ画像.jpg(バイナリ)》はどこか構造が似ている気がする.モノとしての時計と額装された文字列はともに,映像としての時計や文字列から想像もしくは「再生」されるであろう画像に対しての「ソース」として機能している.「オリジナル」というわけでなく「ソース」である.映像の時計が時計ととして機能するのは,その横に「ソース」となったモノの時計があるからであり,文字列が「ソース」となってそこからそれに対応した画像や,対応はしていないが想像でこしらえた画像が生まれる.しかし,この「ソース」というのは決まったものではなくて,モノの時計に対して映像の時計が「ソース」にあるときもあるし,「再生」された画像が文字列の「ソース」となることもある.「ソース」という言葉で示したいのは,そこから複数の関係性が生じるということであるから,そのどれが唯一正しいということはなく,関係のなかで「ソース」が移っていくのである.

memo309
collectheworld:
Evan Roth, Internet Cache Portrait: Constant Dullaart, June 2013. Vinyl Print, Paris 2013. More documentation
Source: collectheworld

memo310
Three Questions for Brad Troemel
towerofsleep:
I was hoping to meet up with artist/writer Brad Troemel while I was in New York but, more or less due to personal irresponsibility (partied too hard, got sick, spent all my time at mainstream museums), it didn’t happen. However, Brad was nice enough to answer some questions via email.
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memo311
アーティのことを書こうと持っていて,テキストを読んでいたけれど,結局書けずに1日が終わってしまった.イメージオブジェクトは,デジタルファイルから始まって,それがオブジェクトになって,それがドキュメントとして撮影されて,その画像を加工して,ウェブにのせる.そのどれもオリジナルかもしれないし,コピーかもしれない.アーティは「オリジナル コピー」はないと言っているので,どちらでもないのでしょう.「ソース」という言葉は使っているので,これが「オリジナル コピー」に代わるものなのか.代わるというよりも,デジタル・ネットにおける画像流通に合わせた言葉として使っているのかもしれない.オリジナルは否定して,ソースは認める.ソースはある.アイディアとしてのソースはあるという感じ.このあたりをもっとつめないといけない.アーティの作品をソフトウェアに基づいた作品だと書いている人がいたけれど,その意味ではアーティのイメージオブジェクトはフォーマットを変更して保存する感じなんだろうか.

memo312
thejogging:
Brad Troemel Sympathy Like (Installation View), 2013
Eh
= )

memo313
グリッチを考えるとアタマがコんガらガっち.オリジナルの画像ではない画像を示すのグリッチだとしたら,そこに示されているのは「オリジナル」ではない画像になるけれど,それは単に想定されていない画像が映し出されているということで,オリジナルではないけれどそのときに表示されているものは唯一の「オリジナル」の画像ではある.そのときのソースと一対一で対応しているという意味ではオリジナルなのか,それともコピーなのか.どちらなのか.ここでは「オリジナル|コピー」という区分けは役に立たない.その都度,ソースから生じる・プレイされる画像と考えるのがいいのだろうけれど,その画像に対しては「グリッチ」としか言えないような気がする.

さらに,ucnv氏のTurpentineのこのテキストを見るとさらにアタマがコんガらガっち.
もはやここに一般的な映像表現は無い.そこに提示されているのは,差分フレームの特性でしかない.デジタル映像を構成する 要素のひとつがそこに表出しているだけだ.たとえるなら,油彩に使われるテレピン油がよく燃えるという事実を,それを燃やして見せることによって提示しているのと同じことだ.

Turpentineの映像を見ていると,何を見ているのかなと思う.ucnv氏が説明している通りで,それ以上のことは考えることが難しいけれども,そこで表示されているのが「差分フレームの特性でしかない」のだとすれば,ソースそのものを見ているわけではないけれど,オリジナルというものでもない,オリジナルを成立させている要素の一部もしくは形式を見ているということになるだろうか.オリジナルを「破壊」して,そこにソースがリークしてくる画像といえるだろうか.でも,この言い方ではまだまだ「油彩に使われるテレピン油がよく燃えるという事実を,それを燃やして見せることによって提示している」には追いつけていない.ソースをそのまま見せるのではなく,その特性,ここではファイルフォーマットだろうか,その特性を際立って見せるように設定して見せること.そうするとオリジナルが「破壊」される.

memo314
足元のバランスがいい.ブーツはもっているからパンツを買えばいいのか.この人いつもバランスがいいな.

memo315
幸村真佐男展を見た.次々のプロジェクションされる画像を見続けた.どのくらい見たのかわからないけれど,見ているあいだに,いろいろいろと考えていたのだけれど,最終的には何を見ているのかわからなくなってしまった.膨大な量の画像を見続けて,それを撮影した幸村さんの時間とを結びつけて,そこに膨大な時間があるということもできるけれど,それだと簡単すぎる気もするし,第一,自分だってその膨大な時間を生きている.日常的に撮りためた300万枚の画像.これがどんなものかは想像できない.見続けていると,想像できない膨大な量ということがどうでもよくなり,「終わらない」という言葉ができきた.「終わらない」ということはどういうことなのだろうか,それもわからない.いつかは終わるだろうけれども,見ている限りでは終わらない.そんな感じではなく「無限」といったことを感じるみたいな.ネット上にある膨大な量の画像.それは多く人が日々あげているものであるが,幸村さんはひとりであげている.ただ,現在では幸村さんと同じくらい画像を撮り続けている人いるのではないかとも思う.そんな人がいるということは問題ではなく,ただただ膨大な回数シャッターを押して画像をつくり続けていることの意味を考える必要があるのか否か.ここにリアリティを感じるか否か.この辺りもう一度考えると「わからなさ」が少しはわかるかもしれない.

memo316
ボードリヤールのシミュラークル→東浩紀さんの超平面的なABCD→秋庭さんの間接的相互作用ではなくハーネスの思想へ→ヒトが最低限理解できる=最小限の人為として「ソース」を定義する→模倣・シミュラークルの先を目指す! 構成的計算のみの世界に神託的計算を入れ込む!そのためにソースを規定する!

memo317
インスタグラムに「オリジナルの写真を保存する[Save Original Photos]」という項目があり,そこでの「オリジナル」は消されてしまうような儚い存在であると指摘した.しかし,現在社会はボードリヤールが「シミュラークル」という語で予測したように「オリジナル」も「コピー」でもない存在に溢れている.だから,「オリジナル」や「コピー」を問題にすること自体が既に時代遅れなのではないかという指摘もありえよう.しかし,ではなぜインスグラムは「オリジナル」という語を使っているのか.「オリジナルの写真を保存する[Save Original Photos]」という短いフレーズは,インターネットが当たり前になった今,「シミュラークル」ではなく「オリジナル」や「コピー」が戻ってきたことを示している.「シミュラークル」に溢れかえるインターネットとともに過ごす時間のなかで,そこにこそ「オリジナル」を見出すような感覚が出てきている.しかし,それはボードリヤールが亡きものにした「オリジナル」とは異なるものである.

思想家の東浩紀は『動物化するポストモダン』で,ボードリヤールの「シミュラークル」を用いながら,ポストモダンの世界像は文化全体をデータベースとして捉え,検索などで辿りつくデータを組み合わせていく「データベース型世界」だと指摘した.そして,その世界の特徴を「超平面的」という言葉で捉え,「コンピュータのスクリーンに代表される超平面的な世界は,平面でありながら,同時にそこから超えるものを並列して並べてしまう」とする.さらに東は,ひとつのファイルが「画像」「画像を表示させる指示を示すテキスト」及び「テキストを示すバイナリーコード」といった3つの形態で同時にディスプレイに並べられることを示す.「バイナリーコード」は普段見ることはないが,コンピュータはブラウザの「ソースを見る」で簡単にウェブページを成立させている指示書である「ソース」が見えてしまうように「そのような見えないものを,環境さえ整えば即座に見えるものにしてしまう性質をもっている」.コンピュータではこれら3つの形態はひとつの情報が《「画像」→「画像を表示させる指示を示すテキスト」→「テキストを示すバイナリーコード」》といった流れを辿るツリー型の階層構造で捉えるよりも,ひとつの情報が《「画像」でもあり「画像を表示させる指示を示すテキスト」でもあり「テキストを示すバイナリーコード」でもある》といった並列関係で捉えたほうがよいとする.

東は同じ情報が示す3つの形態のどれもが「本体」ではないとしている.本体があるとすれば「ハードウェアのどこかに格納された電磁気的なパターン」だとしている.「本体」ではない3つのファイルはオリジナルもコピーもないシミュラークルの状態にある.しかし,ここで素朴に見て理解できる範囲を「オリジナル」と考えてみたらどうだろうか.「画像」はもちろん理解できる.「画像を表示させる指示を示すテキスト」も解読できる人が多い.「テキストを示すバイナリーコード」はごく少数ではあるがそこから「画像」を読み取れる人がいるかもしれない.その読み取れる範囲は人ごとに異なるかもしれないが,その読み取れる範囲の果てにあるものを「オリジナル」だと考えてみよう.そうするとコンピュータにおいては「ソースコード」というものがある.
Source code (usually referred to as simply “source” or “code”) is the un- compiled, non-executable code of a computer program stored in source files. It is a set of human readable computer commands written in higher level programming languages. 
Source Code, Joasia Krysa and Grzesiek Sedek in Software Studies

ヒトが読むことができるコンピュータ・コマンド」とある.「ソースコード」を「オリジナル」と規定してみる.しかし,「ソースコード」は改良や最適化,カスタマイズ,修復などの「修正」が行われる場である.この「修正」が常に加えられるという点が従来の「オリジナル」と異なる.そのため「ソースコード」はオリジナルとはなるが従来の「オリジナル」とは異なる機能をもつ.そして既に見たように「読み取れる範囲」はユーザによって異なるため,「ソースコード」を見ても理解不能な人もいるであろう.そこで,「読み取れる範囲」の果てにある存在を「ソース」と呼ぶことにする.「ソース」はユーザが「読み取れる範囲の果て」にあり,常に修正を受け入れる存在である.

「読み取れる範囲の果て」において,ヒトはその対象に対して最小限に修正を施すことができる.Photoshopで画像を修正する際にはPhotoshopレベルでの修正しかできないが,psdファイルをバイナリエディタで開き,バイナリの一字一句を変更することで,Photoshopでは可能ではなかった修正を加えられるようになる.ときには「グリッチ」と呼ばれる表現のように画像ファイル自体を壊してしまうことになるかもしれない.しかし,それもまた「読み取れる範囲」を拡げることで生じる操作可能領域の拡大の結果の表現なのである.「読み取れる範囲」ごとにヒトが加えられる修正の細かさは決まってくる.よって,「読み取れる範囲の果て」ではヒトは対象に対して最小限の変更を加えることできる.この最小限の修正はグリッチのように意図しない結果を招くこともある.それはヒトの介入が最小限になり,その他はコンピュータが行うからである.このことを説明するために美学者の秋庭史典が『あたらしい美学をつくる』で提唱した「ハーネスの思想」を導入したい.
一般に,ハーネスということばは,馬の遮眼帯などのように,自然の力をうまく利用して(当の自然に苦痛を与えることなく),人間に有用な流れに自然を導く,という意味があります.(羊の群れを追い込む羊飼いになぞらえて「シェパーディング」,あるいは流れを導くという意味で「ガイダンス」という言葉を使うこともあります.)それは,最小限の人為(人工物,たとえば遮眼帯)の投入により,自然のシステムを動かし,動き始めた自然のシステムが今度は人工物を含めた自然の全体を動かしていくことを目指したものなのです.p.155
ヒトがすべてを決めるのではなく,あくまでも「最小限の人為」に留めること.秋庭の場合は,「最小限の人為」が効果を及ぼすものが「自然のシステム」となっているが,ここではヒトとは異なる作動原理で動いているコンピュータもまたヒトの最小限の介入によって常に修正され,それが「インターネット」のような生態系ようなものになり,社会全体を変えるように機能しているものと考えるととそこに「ハーネスの思想」を取り入れることができるだろう.「ハーネスの思想」のもとでコンピュータを考えた場合,「ソース」とは「最小限の人為」を加えることができる存在だと考えられる.

秋庭は従来の美学とは異なり,自然科学に寄り添いながらあらゆる世界のなかに「美」を見出す「あたらしい美学」の構築を目指している.そこにはこう書かれている.
自然模倣ではない,その先を構想すること.しかも,自然が技術に模倣しつくされたあげく両者の境界が消失するなどというありえない想像ではなく,構成的計算と神託的計算との「自律的」かつ「相互触発的」な「連動する運動態」として構想すること.これはハーネスや間接的相互作用に導かれたわたしたちの美学にとってきわめて重要な倫理観です.p.169

「構成的計算」はヒトが構成できる範囲であり,「信託的計算」とはヒトの理解を超えるような自然のあり方である.秋庭は自然科学のなかで,すべてを計算可能なものとして考えるのではなく,「神託的計算」を取り入れた研究結果が多く出てきていることに注目している.このことは計算可能なモデルから生じるシミュレーションとそこから派生するシミュラークルが世界を覆っていくとしたボードリヤールの考えとは全く異なるものである.世界は再び「神託的計算」のもと,ボードリヤールのもとで葬り去られた「リアル」な世界を組み込もうとしている.それは「画像」の領域でも同じである.「画像」はもはやシミュラークルなのではなく,そこには「オリジナル」も「コピー」も再び出現し,そのもっとも奥には改変可能なひとつの「リアル」として「ソース」が存在しているのである.最後に秋庭のテキストに最小限の人為を施したい.

「オリジナル|コピー」ではない,その先を構想すること.しかも,「オリジナルが技術に「コピー」しつくされたあげく両者の境界が消失すたシミュラークルなどというありえない想像ではなく,「オリジナル|コピー」と「ソース」との「自律的」かつ「相互触発的」な「連動する運動態」として構想すること.これはハーネスや間接的相互作用に導かれたわたしたちの美学にとってきわめて重要な倫理観です.

このことを考えたい.

memo318
東は同じ情報が示す3つの形態のどれもが「本体」ではないとしている.本体があるとすれば「ハードウェアのどこかに格納された電磁気的なパターン」だとしている.「本体」ではない3つのファイルはオリジナルもコピーもないシミュラークルの状態にある.東浩紀は見えるものを増やすが「オリジナル」を決めない.グロイスは見えないものを「オリジナル」としてしまう.これらはひとつの態度である.態度で「オリジナル」を決めてしまっていいのかともいえるが,インスタグラムは「設定」で決めてしまっている.「オリジナル」という語はそれを用いるかどうかで,画像を論じている人の態度を明らかにする設定項目になっている.私の態度は見えるもののなかで「オリジナル」を決めるというものである.オリジナルは見えるものであり,それは決定されるものなのである.オリジナルなきコピーであるシミュラークルではない,この時代における「オリジナル」を考えたい.

見える範囲で「オリジナル」を決めて,この時代の画像はその表面の下にもまた見える「ソース」を持っている.そして,オリジナルはソースとセットになることで機能する.例えば,テレビゲームの作品をオリジナルと考えたとしても,その下には「ソースコード」がある.「ソースコード」の下には「バイナリーコード」があるといったように,常にその下がある.それは最終的には電子信号にまでいってしまうわけであるが,ここでは見える状態の「ソース」とセットとなり機能するものを「オリジナル」としたい.電子基板も見えるもので,これもまた「オリジナル」と考えられるが,そこを流れる電気信号を見ることはできない.電気信号を「ソース」と考えることができないので,電子基板は「オリジナル」ではなく,バイナリーコードやソースコードの「ソース」としてのみ機能する.

memo319
オリジナルとコピー,もしくはシミュラークルを考えていると「オリジナル」はひとつと想定されている.では,オリジナルが複数あると考えてみたらどうだろうか.普段は見えない部分の集合を「ソース」として,その「ソース」のある状態が「オリジナル」であると考える.そうすると「オリジナル」は「ソース」の構成要素の組み合わせの分だけ存在することになる.
状態遷移の始まりとしての「元の画像」 画像は文字,電気信号とその状態を遷移させる.その結果としての画像であり,それを「オリジナル」と呼ぶ.

常に見えていることはひとつの特権と考えると、それを「オリジナル」と呼ぶ必要がある?

memo319

memo320
大きな枠組みというか概念を構築しようしましたが,それは自分には難しい.力不足,勉強不足を痛感する.できる限りやってみるが,それと同時に作品分析を多くやっていく.

memo321
グロイスが見えなものを「オリジナル」と言ったことの意味を考える.この論文は「オリジナル」を考えることが第一目的! グロイスが「オリジナル」を持ち出してきた意味を考え,ucnvの展示とテキストにおける「オリジナル」の意味「play-再生」から考え,からの秋庭さんの「状態遷移」を用いて,オリジナルはソースというか,見えない部分の集合の状態遷移の表現であるとしてみる.七転び八起きというか,右往左往というか,転がる石に苔むさずというか,そんな感じで論文φ(`д´)カキカキ’

memo322
オリジナルなきコピーである「シミュラークル」が溢れる現代において「オリジナル」を明言することは,オリジナルとコピーとの結びつきを回復させることを意味する.この結びつきはこれらふたつが「似ている」ことは問題ではない.オリジナルとされた電子基板を流れる電子信号のパターンとディスプレイ上の画像は似ていない.そもそも電子信号は直接見ることができない.しかし,パターンから画像を結びつけるひとつのアルゴリズムがあれば,その始点がオリジナルとなり終点がコピーとなる.そこには2つの点とそれを結びつけるひとつのアルゴリズムがあればよい.ボードリヤールによる「シミュラークル」が世界をシミュレーションすることでオリジナルを消失させたのだとすれば,グロイスやインスタグラムの制作者が使う「オリジナル」はアルゴリズムによってコピーの先に結びつけられたものである.その結果として今度は「コピー」が消失する.なぜならここでは,オリジナルがアルゴリズムによってその状態を遷移させていった結果が表示されるからである.ここにはアルゴリズムによるオリジナルの状態遷移しかない.アルゴリズムはその規則を変えることで,オリジナルをいかようにも状態遷移させられる.

memo323
論文を書いていて,それがまとまってきたような気がする.昨日なんやかんや12時間くらい書いて,それでいろいろ書いてきたものを捨てて,最初のバージョンに戻したりした.いろいろ書いたのに捨てるのもどうかなと思いつつも,まとまらなくなってきたので,最初に戻した.それでもいろいろ考えたあとだから,そこに核となるテキストを付け加えることができた.それがmemo322.ずーっと「オリジナルとコピー」に付け加える「ソース」ということを考えてきたのだけれど,それをどうしたらいいのか分からなくて,いまでもスッキリとは分かっていないけれども,なんとなくは理解の糸口は掴めたような気がする.まだまだ考えることはたくさんあるけれども,今はちょっと気が抜けてしまっている.

memo324
このニットほしいな.暑がりで,汗かっきだけど…

memo325
グリッチは,グロイスが重要視する画像ファイルの「見えない」領域を直接操作して,画像を「破壊」しているわけではない.グリッチでは画像の「本体」は不可視のままだが,適切なアプリケーションを使って画像を文字列へと変化させてその文字を操作したり,電子基板をいじるなどの様々な表現・実験が試みられている.「実験」と書いたのは,文字列や電子基板の変更がどのように画像に影響を与えるのかはやってみなければわからないからである.グリッチはソースの特性である状態遷移を繰り返しながら,様々な状態で「実験」を行う.実験結果の画像に対して「破壊」とカッコ付けにしたのは,その画像は壊れているのではなく状態遷移を繰り返すソースのひとつの状態にすぎないからである.グリッチは画像の状態遷移を繰り返すことで,その画像を成立させていながら普段は目にすることがアルゴリズムを「文字列」ではなく「画像」として可視化する.それゆえに,画像がオリジナルやコピーに固定されているのではなく,状態遷移を繰り返すソースであることを強く意識させてくれる現象であり,表現となっている.

memo326
論文やお仕事でずーっと書いていたので,頭の芯が麻痺してきた.論文の方は面白い視点を提示できていそうだけれども,それは自分が思っているだけで大したことはないのかもしれないなと思う.論文としての体裁が整っているのかもあやしい.なんか論文が書けなくなってきている.これはまずいような気もするし,「次」を探しなさいという徴候なのかもしれない.
ここには,道具立ての大きな変化があるのです.それは,フォルムの類似性による分類判断を基にしたカント的枠組みから,動的秩序を可能にする仕組みの記号による表現とその探求というまったく別の枠組みへの転換,一言で言えば,フォルムからアルゴリズムへの転換なのです.p.98

秋庭さんの『あたらしい美学をつくる』は枠組みの転換を示してくれた.その後で作業できるのは嬉しいけど,つらくもある.「フォルムからアルゴリズムへの転換」を考えると,藤幡正樹さんにもつながるところがるような.でも,つながってしまっていいのか.つながってしまった後のことを考える必要があるので,これはまた考えればいいか.手元に藤幡さんの本がないので,今日,明日は手元にあるものだけで考えよう.

Evernoteにあった抜き書き.

言い換えると,アルゴリズムとパラメーターとの組み合わせから立ち上がる感覚によって,この世に見えている部分は,それが内包している世界の一部に過ぎないような感じがして,しょうがないのである.つまり,普通の人はこの夕日が美しいと思う,それはこの時間によって切り取られた任意の太陽が美しいと言っていることでしかないのだが,アルゴリズミックにこの夕日を考えると,この美しさを形づくっている方程式とその実現のプロセスのことを,考えざるをえないということなのだ.p. 111  
アルゴリズミック・ビューティー ,アートとコンピュータ:新しい美術の射程,藤幡正樹
memo327
藤幡正樹さんの三次元物質を「四次元から投影物」と考えるものは,モノが固定的なものと見なすのではなくて,時の流れのなかでとらえる.コンピュータが提示する画像は文字列にもなる.時間の流れでの変化ではなく,提示するアルゴリズムによる違いであるが,固定的ではないという部分は同じなのではないだろうか.

藤幡さんはコンピュータはマルセル・デュシャンが辿り付いた場所からスタートしていると考えている.記号操作でモノの意味が変わっていく.モノを記号操作で変化させる.

常に変わっていくものに「オリジナル」という言葉を当てはめること.メディアではなくフォーマットと考えた人もいる.常に変わっていくことフォーマットをメディアの上位概念としておいて,フォーマットの流れが固定化ことをメディアと呼ぶとすれば,ソースの流れのなかで固定的になったものをオリジナルと呼んでいたとかもしれない.ソースは変化しつづけるので,コピーとの関係が見えづらくなったときに,それはシミュラークルと呼ばれたのかもしれない.

memo328
その先にあるものを手元で信じる.ソースのあり方! エキソニモの作品.三輪さんとの対比として 三輪対談

memo329
美術史家のDavid Joselitは現代美術や現代建築の分析を通して「循環」という条件のもとにあるイメージのあり方を考察する.ここで言及されている「イメージ」はデジタル画像のことであり,それは「潜在的に無限の修正にさらされている」ため,様々なネットワークを循環していくなかでそのかたちを次々に変化させている.Joselitは現在のイメージを分析するために「メディア」の上位概念として「フォーマット」を提案する.メディアは最終的には物質に固定化してしまうが,フォーマットは予想できないつながりをつくり続けるなかで,あたらしいコンテンツへのチャンネルになると,Joselitは考えている.そこでは,作品によってあたらしいコンテンツをつくるという意識ではなく,作品によってこれまでなかったようなつながりのパターンを見出していくことが重要とされる.現在のアーティストは溢れかえる画像の「流れ」を変更することが作品となるため,ネットがスケールアップした際に検索可能性を高めたGoogleがでてきたように,検索能力を高め画像を次々とリンクしていくが求められることになる.
Joselitの「フォーマット」における「オリジナル」を考える必要がある.常に変化するなかでの「オリジナル」とは何であろうか.Joselitは画像を変化しつづけるものと捉えたが,画像が他の「メディア」に変化することはないと考えている.画像は画像として変化し続けるが,その他のものにはならない.この認識はJoselitが扱う対象にネットアートやメディアアートの作家が入っていないことが影響しているようにも思われるが,それ以上に「フォーマット」という柔軟な枠組みを提案するJoselit自身が「画像」というメディアに囚われている可能性がある.

memo330
Untitled: Turpentine / ucnv
taku-yokoyama:
グリッチとは、単なるエラーではない。
グリッチとは、意図されておらず予測されていなかった状態が再生装置によって再生される事である。
たとえば、Windowsのブルースクリーンはグリッチではない、それは予測されているエラーだからだ。たとえばランダム生成によるホワイトノイズはグリッチではない、それは予測範囲内の結果だからである。たとえばある画像の各ピクセルを色値でソートし再構築した画像はグリッチではない、それは意図通りに生成されたただの画像にすぎないからだ。
ところで、ここでやむなく「再生」という単語を用いているが、再生とはplayの意味であり、再生装置

memo331
「フォルムからアルゴリズムへの転換」という枠組みの変化によって,アルゴリズムから世界を見ることによって既存のルールが組み換えられていくことを考察してきた.はじめに,インスタグラムの制作者とグロイスは「オリジナル」という語を使っているが,それは「真正さを形づくる」とベンヤミンが指摘し,ボードリヤールが亡きものにした「オリジナル」とは異なるものになっていた.それは複製技術のなかの画像から情報の流れなかの画像へという大きな枠組の転換のもとで起こった変化であることを確認した.次に,「グリッチ」という現象をucnvの作品《Turpentine》の映像とテクストをもとに考察しながら,アルゴリズムのもとでは固定的な「オリジナル」という状態がなくなり,それが常に変化していくものになっていることを確認する.そして,それは単純に「オリジナル」と呼べるものではなく,「ソース」というあたらしい言葉で呼ぶべきものであることを示した.そして,ネットを中心に活躍しているアーティスト,ラファエル・ローゼンダールの作品及び作品売買の契約書,及び,「イメージ・オブジェクト」というプロジェクトを進めるアーティ.ヴィアーカントの試みから「ソース」とその状態遷移における作品のあり方を考え,そこで示されるのは枠組みの転換後の作品は動的秩序のもとにあり,ひとつに留めることはできないということを示した.最後に,ブラッド・トルメルの「あたらしい生産システム」論を読み解き,Tumblrというウェブサービスが状態遷移を繰り返すソースをウェブサービスに応用したことを示した.

memo332
紀要論文を書きながら,次のビッグイベントである三輪眞弘さんの対談のために三輪さんの本を読んでいる.読んだ部分ではないのだけれど,三輪さんの音楽は神への奉納と言っている部分が気になる.なぜ気になるのかは,エキソニモの「ゴットは、存在する。」と対比させてみると面白いかなと思っているから.

三輪さんの「神」は奉納する「先」にいるわけで,それは見えないものであり,且つ,見えないものとなっている.身体的修練を積んだ演者による演奏によって,演者自体とそれを見ている人も「神」の存在を感じるようなものでしょうか.そこまで行かなくても「奉納」という言葉から,「神」に差し出すという雰囲気がある.

対して,エキソニモの「ゴットは、存在する。」はどうか.もともと「神」は存在しない.それは「ゴット」から連想される存在でしかない.連想するのは自分であるから,「神」は自分のなかに生じる.自分のなかに勝手に「神」が生じてしまう.そこには身体的修練は何もいらない.そういった意味では誰でも使える「マウス」的なものを感じる.となると,ダグラス・エンゲルバート的な意味で,三輪さんのは「五本指キーボード」かな.「ゴットは、存在する。」の連作のなかでTwitterを使った《噂》なんかは,「神」にまつわる語が「ゴット」に変換されるわけですが,そこにも「神」を感じてしまう.「ゴット」と変換され,「神」がTLからいなくなるわけですが,その不在が,不在というのはちょっとちがうか,「ゴット」がそこにあるのだから.なんだろう「ゴット」という神ではないけれど,神のようなものがそこにあって,しかもそれは,「神→ゴット」というアルゴリズムがわかれば,自分で「神」を含んだツイートをすることで,そのTLに参加できてしまう.

エキソニモにおける「神」というか「ゴット」の位置づけを考えていると,それはなんとなく「手元」にある気がする.奉納されるものではなくて,手元にある「ゴット」.作品を見ているときに「神」を感じるという意味は三輪さんの音楽と同じかもしれないけど,この「神」の手元感みたいな感じはもう少し突き詰めて考えると三輪さんが行っていることを相対化できるかもしれない.そのまえに三輪さんについてもっと知らないといけないのだけれど,三輪さんを経由したエキソニモへの理解が自分のなかで進んでくれるといいなと思う.

エキソニモに感じる「手元」感というのが,三輪さんが考えているテクノロジーへの感覚との違いを示しているような気がする.「手元」というとハイデガーの道具性とかでてくるかもしれないけれど,それとも違う感じがする.コンピュータが手元にあること.それはいつも触れているものなんだけれど,手元で起こっていることは何もわからないのに,手元にあり続けているもの.それを使うこと.使っているのだろうか.使われているのだろうか.奉納以前に,手元にあること.

memo333
そこあるもの
あり得たかもしれない音楽
あり得たかもしれないインターフェイス
カーソルの位置づけ
言及されないコンピュータとともにある身体
マルチタッチとともにある身体
コンピュータがもたらした世界
コンピュータとともにある世界

memo334
あり得たかもしれないものを考えつつ,いや,そこにあるものの今まで気づかれなかった.いや,感じとるができなかった部分にフォーカスすること? 自分の中での流れ,メタファー→リテラル,この流れでコンピュータを捉えていくと,コンピュータとともにある世界は,コンピュータとともにあることで,どんどんリテラルになっていくというか,言葉そのものになっていていくということなのかもしれない.メタファーではなく,言語の構造,なんかちがう.語用論というのでもなく,プログラム? 自分はプログラムの初歩の初歩しかできなきけれど,できないからゆえの憧れ?

memo335
情報の流れのなかでは,作品にオリジナルでもなくコピーでもなくアルゴリズムを見出すことが求められている.そして,アルゴリズムとともにあり状態遷移を繰り返すものは,「グリッチ」という現象が示すように「オリジナル」と簡単には言えないほど無意識的で不定形なものとなっている.そこで,ここではこの「アルゴリズムとともにあり状態遷移を繰り返す不定形なもの」を「ソース」と呼びたい.ソースはコンピュータ用語の「ソースコード」が示す「ヒトが読むことができるコンピュータ・コマンド」という意味や,そこで「ソフトウェアの改良や最適化,カスタマイズ,修復などが行われること」を意識したものである.なぜなら,ソースは不可視な潜在的なものではなく一定の手順を踏めば可視化されるものであり,アルゴリズムというある一定の条件のもとで「改良や最適化,カスタマイズ,修復」が行われ,別の状態への移行を繰り返すものだからである.そして最も重要なのは,ソースはその存在を単独で示せないということである.ソースはアルゴリズムの流れにあるときのみ現れる.つまり,ルールに基づいた少なくとも2つの状態のあいだを遷移するなかでソースは一定のかたちを示すのである.フォルムからアルゴリズムへと転換した枠組みのもとでは,「オリジナル」と呼ばれた単独の固定的な存在はなくなり,アルゴリズムとともに複数の状態を遷移していくなかで「ソース」が現れるのである.

memo336
三輪眞弘さんの『三輪眞弘音楽藝術』を読み終える.最後まで読むと,三輪さんにおける「神」も手元に降りてきている感じもする.このあたりはよくわからない.テクノロジー,コンピュータへの距離感をどのように考えるべきか.三輪さんの本には三輪さん自身や他の誰かがコンピュータを使っている時の身体の話はでこない.身体から離れた論理を扱うコンピュータを扱う身体をどのように思っているのか,気になる.

memo337
なんとも言えない週末感.土曜の夜は週末を感じる.どうせ日曜も月曜の講義準備になるので休みというわけではないけれど,それでもなお週末な感じがする.だから,ボケーとしている.論文の詰めとかしないといけないなーと思いつつも,ボケーとしている.論文を早く終わりにして,次のことを考えないといけないなーと思いつつも,ボケーとしている.
ボケーとしているが,これを書くことでスイッチが入って,論文でも三輪さんとのトーク,あるいは他の何かでもいいからアイデアが出てこないかなーと思っている.書き続けていると,いきなり,これかーというものがでてくるので,書いているわけだけれども,今回は今のところ,それはない.ないままで終わるのはやだなと思っていると,ライダー・リップスのことを思い出す.インタビューというかアンケート,ダメッだったのかな.気になるが,しょうがない.悲しいが,しょうがない.

memo338
身体のあるなし.身体の不在.共進化のなかでの身体.身体の不在を印象づけることによって生じる「幽霊」的なもの.ここでの「幽霊」は三輪さんの幽霊とは異なる.自動機械の幽霊ではない.いや,同じ.谷口さんが言っている「幽霊」.同期すること,不在であること,顕現させること.これらの違い.

memo339
三輪さんのテキストを読んで,作品解説の映像を見ていると,だんだん良くわからなくなってきた.三輪さんの「逆シミュレーション音楽」は「テクノロジー」と「身体」との関係で,特に「身体」が全面に出てくる.これはよくわかる.でも,その身体を模した機械である「Thinking Machine」になると身体が消えてしまう.「コンピュータを模した身体を模した機械」となるから,身体が消えて,コンピュータと機械とが直結している.「身体」を経由する意味があるのだろうかと否定的に考えていたが,逆に言えば,コンピュータが示しているのが「論理的な宇宙」だとすると,それをヒトの身体が表そうと機械が表そうとそこにはちがいはないということになって,機械がやったら身体がきえるし,身体がやったら機械が消えるということだけかもしれない.いや,身体と機械とで区別をつけている時点でダメなのかもしれない.

論理を模した人間,指は2本あればいい的なキットラー的な考えもいいけれど,コンピュータが今のかたちで普及したことも考える必要がある.アルゴリズムそのものに直結した考えができるヒトがとても少ないこと.カーソルとマウスでひとつの点を選びなら作業することで,コンピュータを使っているヒトが多いこと.いずれはもっとアルゴリズム中心になっていくのかもしれなくて,その過渡期にあるのかもしれないけれど,それでも今はまだカーソルとマウスだし,マルチタッチの段階である.カーソルとマウスにおいてはエキソニモの作品が「痛み」を感じさせてくれた.このときの「痛み」はどこからくるのか.ヒトとコンピュータとを結びつけている「ハーネス」が切られることから来るのだろうか.ヒトでもなく,コンピュータでもない中途半端な存在としてのマウスを壊すことから生じる「痛み」.単純にモノを壊すことから生じているのか,カーソルと結びつくことで生じるあたらしい「痛み」.この「痛み」の出処と三輪さんが書く「人間の感覚や尺度から離れた「神なき」漆黒の宇宙空間に直接晒され続ける「痛み」のようなもの」とはつながりがあるのであろうか.インターフェイスは「痛み」を宿す場なのかもしれない.いや,痛みを緩衝している場所.「インターフェイス=緩衝地帯」という考え.

三輪さんの作品には「インターフェイスがない」ということも思った.それはインタラクティブ性がないということではなくて,ヒトとコンピュータとがまさに直結してしまている.ヒトが素のままで論理的宇宙に投げだされている感じがする.「インターフェイスなし」の直接性を緩和するための「命名」行為なのかもしれない.「という夢を見た」ということでつくられる物語的なインターフェイス.論理的宇宙とのあいだに置かれる緩衝地帯としての夢.論理と夢を対置させて,そのなかでヒトに感じてもらい,考えてもらう.「もらう」と書いて思ったのだが,三輪さんの作品には「距離感」があるような気がする.エキソニモの作品が持つような暴力的というか,強制的に感じさせ考えさせるようなものがない(これは私の個人的な部分が大きいのかもしれない).エキソニモの作品は「インターフェイス」を用いて,それを破壊などすることで,ヒトとコンピュータとの緩衝地帯をなくすことで,ヒトが普段触れ合っているものが何であるのかを顕現させる.三輪さんの作品はヒトとコンピュータとのインターフェイスを用いることなく,そこには「音楽」と論理があり物語がある.ヒトとコンピュータとのあいだいにあるインターフェイスなしで,ヒトとコンピュータとをつなぐ試みといえるのであろうか.どちらも目指しているところは近いところ(三輪さんの言葉でいえば「コンピュータ語族」の表現)にあるのかもしれないけれど,その方法が異なっているような感じ

memo340
紀要論文の締切も近づいてきて,もうそろそろ終わりの予感.と言うか,終わらせないといけない.締切がきたら終わり.もっと理路整然と書きたいなと思いつつも,それができないまま.いつもできない.論文書くの向いてないと思いつつも,書くと,今まで考えきたことがまとまっていくので,論文を書くことをやめられない.いや,論文でなくてもいいのかもしれない.とにかく書けば,考えはまとめる.でも,ちょっと単発的な感じもしている.論文だともうすこし大きな塊.単著だともっともっと大きな塊なんだろうな.でも,僕が単著を書くとしたら,なんか細かいパーツがあっちにもこっちにもそちらにもつながる感じにしたい感じもする.いまさらだけど,あえてかもしれけど,まだまだな感じのハイパーテキストを目指すような感じでしょうか.

memo341
「インターフェイスがない」で言うと,サインウェーブオーケストラにはインターフェイスがあって,インターフェイスがあるからこそ音源を持ち運びできる.いや,身体そのものがインターフェイスだったら,持ち運び可能か.身体=インターフェイスということ.身体以外のインターフェイスをもつ.論理にとって身体そのものがインターフェイス.でも,それを意識することはなかなか難しい.修行するしかない.やはり,五本指キーボードとマウスのちがいがあるのかな.インターフェイスはありえたかもしれない歴史をもっていて,そっちのありえたかもしれない方向に「逆シミュレーション音楽」があるということか? 単純すぎる考えだけれども… 

memo342
講義が始まり,まあまあの出来で導入ができたような感じだけれども,「私語」の問題がありますね.可視化された「罰」がないと注意の効果がないというのは嫌だなと思いつつも,そうせざるを得ないのかな.モヤモヤする.「注意する」と虚しくなって,時間もすぎてもったいないけれども,しっかりと聞いてくれる人がいるから注意をしなければならない.もっとうまく注意できるようになりたいものです.何かを決断するには人間性すらも捨てなければならない.そんな大げさなことでもないけれども,進撃の巨人のアルミンの言葉を思い出す.

memo343
“However, despite the element of critique in this gesture, I really do see modernity as a moment we are very much still in. I think artistically reformulating things from the past is very much in keeping with the modernist tradition, the same way poets like Pound, for example, were committed to reformulating older poetic forms. At the same time, I have this post-post-Internet consciousness of playfulness and irreverence that is part of our contemporary moment.”
Jon Rafman on Delving Into the Melancholia of Digital at Zach Feuer | BLOUIN ARTINFO
Source: blouinartinfo.com

memo344
 “However, despite the element of critique in this gesture, I really do see modernity as a moment we are very much still in. I think artistically reformulating things from the past is very much in keeping with the modernist tradition, the same way poets like Pound, for example, were committed to reformulating older poetic forms. At the same time, I have this post-post-Internet consciousness of playfulness and irreverence that is part of our contemporary moment.”
Jon Rafman on Delving Into the Melancholia of Digital at Zach Feuer | BLOUIN ARTINFO
Source: blouinartinfo.com

memo345
CGの映像を見て,そこに規則を見ようとして,それが実写だったとき,そのときCGは実写へと見ているヒトのなかで変わります.でもそれは,別のものとして見るのではなく,CGから実写へと映像の状態が変っただけともいえます.でも,これら2つの映像は全くの別物です.似ているという観点からすれば同じようなものですが,その出自がやはり全く異なります.でも,やはり似ているというか,見まちがえてしまう.頭のなかでCGと実写とが互いに変換されます.でも,「実写→CG」と「CG→実写」では変換のされかたが違う感じがします.「実写→CG」は似てる似てないのメタファー的な視点.「CG→実写」はもっとアルゴリズミックな規則的な視点.

memo346
これまでの教育と研究の概要かー.これまで映像と情報技術という名のもとで行われてきたことは確か.これからの研究はポスト・インターネットを観察していきたいという感じかな.
インターフェイスも軸かな.インターフェイスを身体論から考える.そこから映像,情報技術への広がりを教育で行ってきた.だから,映像といっても映画やテレビとともに,インターフェイス上での映像体験を取り上げてた.スマートフォンなどのアプリは現在のポピュラー文化のひとつだろうと思う.

これからもインターネット・リアリティは考えていきたし,どうなっていくのかとても興味がある.海外と日本とのちがいもそうだし,世代間のあいだでのちがいも取り上げていきたい.
まだ締切までは少し時間があるので,もうちょっと考えよう.

memo347
Paddles On!というオークションについて考えて,記事を書こうとしているのですが,どうもアタマが働かない.イレギュラーな出来事もあって,三輪眞弘さんの対談もあって,アタマの働きが追いつかない感じ.

Paddles On!はオークション会社のPHILIPSがはじめて行うデジタルアートのオークションで,Tumblrも絡んでいる.オンラインオークションとプレビューはもうはじまっていて,そのサイトはOKFocusがつくっている.

デジタルアート,ネットアートを売るということはこれまでもやられてきたけれど,コンテンポラリーアートを扱うオークション会社が絡んできたことはなかった.現代美術の側から,デジタルに触手を伸ばしてきたところが興味深いところ.

個人的にはラファエル・ローゼンダールの作品に注目している.ローゼンダールは2作品だしていて,ひとつはウェブサイトそのものを売るもので,もうひとつはレンチキュラーシートをもちいた「絵画」.ネットとモノ,どちらが高値で売れるのだろうか? エスティメートだとモノの方が高い.

あと,作品全体でどのくらい売れるのかも気になるところ.2012年にThe creaters projectがデジタルアートとお金の問題を特集していて,そのときにパカー・イトーがデジタルアートは売れるようになるだろうけれども,それにはコレクターの世代交代が必要ということを言っていた.僕もそうだと思う.デジタルというかたちがあるようでないものにお金を払うという行為が成り立つかどうか,買う人の意識の問題だと思うから.買う人の意識というと現代美術の作品すべてそうだとも言えるけれども,デジタルアートは買ったとしても,ローゼンダールのウェブの作品のように一人占めできるものでもない.自分だけが所有できないものに対して,大金,あるいはどこまお金を払うことができるのか.ここのところが興味ある.
こんなことを書こうという下書きをしているわけですが,論点はたくさんありそうです.

memo348
1.オークションが開催される.
2.現代美術がネットアートを取り込む? コレクターの代替わりを待つ
3.ローゼンダールの2つの作品
4.日本との比較でインターネット・ヤミ市
5.インターネット・リアリティ と資本=意識の変化?
Tumblrization 
単独で作品を見ることから,流れで作品を見ることへ
オークションは単独で作品を吟味する場だから作品売買にそぐわないのではないか.でもTumblrが関与することでひとつの流れをつくっている?
ネットアートという変わりものがビックリーグへ
コレクターの代替わりが必要
インターネットヤミ市との対比.現代美術というビックリーグではなく,アンダーグラウンドへ インターネット・リアリティ 英語圏と日本との比較?

memo349
三輪さんとのトークとのために自分の立ち位置を確認する必要があるのではないかと思いつつ,なかなかできないでいる.

インターフェイス研究で知ったエンゲルバートのヒトとコンピュータとの「共進化」というのが,僕の基本的的スタンスを決定している.コンピュータという「種」が出てきたことによって,人間が「ヒト」という生物種として進化する可能性がでてきた.もちろんコンピュータがなくても進化するものだけれど,「知的」というか「論理」を扱うもうひとつの種が出てきたことで,それまで唯一の種であったヒトにこれまでとは異なる進化の可能性がでてきたということ.

ヒトがコンピュータをつくったと考えるのが普通だが,コンピュータがヒトに自らをつくり出させたと考えても面白いのではないかと思う.現時点ではヒトがコンピュータをつくったということになっているけれども,1000年後には立場が逆になっているのかもしれない.コンピュータがつくられるためにヒトが存在したというふうに.

生物種の「ヒト」ということになると,今朝,エキソニモのセンボーさんが「理解できないほど複雑すぎるものは生物と呼んでいい」という感じのツイートしていて,なるほどと思った.コンピュータが複雑になればなるほどそれは「生物」と見なされる.生物種となったヒトとコンピュータとは共進化していく.インターネットも生態系と呼ばれているから,ここにも生物が生まれている.

「コンピュータがもたらした世界」とは,ヒトが生物種として改めて進化していく世界であり,ヒトと共進化していくもうひとつの生物種としてコンピュータが存在する世界でもあると考えることができるのではないだろうか.ヒトをリセットするわけではないけれど,これまでのアイデアを刷新していく必要はあるのだろうなと思う.そういったものとして「メディアアート」や「ポスト・インターネット」,さらに「インターネット・リアリティ」を考えていく必要がある.

memo350
「着任後の研究計画」かー.んー.「インターネット・リアリティ」「ポスト・インターネット」という概念・実感は追求していきたい.今の日本のアカデミックではそれほど扱われていないものだけれども,今後の「インターネットがただそこにある世界」を考える際には必要なことだと思う.特に,アートを考えるうえでは必要.でも,提出先が求めているのはメディア論だからなー.メディアの中心もネットに移っているのだから,ネットで活躍するアーティストが提示する価値観はモノからメディア,そしてその先を考える上で重要になってくるのかなという感じがする.

コンピュータ語族,ヒトとコンピュータとの共進化のなかでこれまでの概念を刷新していく作業を行いたいと書いたらどうなんだろうか.そのような考察をすすめていくためのひとつの拠点づくり? 拠点は言いすぎかもしれないけれど,考え続ける場は必要かなと思っている.それが大学内に必要なのかどうかはわからないけれど… となると,三輪さんとのトークのあとに「着任後の研究計画」を考えた方がよさそうな感じもしてきた.

memo351
三輪さんとのトークが近づいてきた.「コンピュータがもたらした世界」というタイトルのもと考えをまとめようとしているのだが,どううまくまとまらない.身体とコンピュータ,身体と演算,身体とテクノロジー.音楽とオリジナル,アルゴリズムとオリジナル,三輪作品におけるオリジナル.音楽だからリミックスといったほうがいいのかもしれない.三輪さんがリミックスされる可能性.あるいは,ブラッド・トルメルが言う起源・オリジナルを失うことを良しとするプログレッシブ・バージョニングが三輪作品に適用される可能性.

三輪作品のリミックスというのはどういうものになるのであろうか.アルゴリズムが決まっていて,それは論理というモノとは異なる体系にあるがゆえにいかなるモノにも適用することができる.だから,論理演算子を模倣するヒトもありえるし,論理演算子を模倣するヒトを模倣する機械もありえる.ヒトと機械以外を入れてみても,大元の論理演算の規則は三輪さんが決めている.アルゴリズムを変えてしまえば,それはもう全くの別の作品であって,それはリミックスでもなんでもない.となると,アルゴリズムを体現するものをいくら変えても,それは三輪さんの手のひらで踊ることになる.あるいは,規則の由来を変えてしまうことで,リミックスをすることができるのであろうか.「という夢を見た」の「夢」を変えてしまうことで,アルゴリズム自体は変えずに,そのガイドラインを変える.

三輪さんの作品における身体は極めてシンプルな行為を行っている.コンピュータが登場するまで身体は複雑な動きを行うように訓練されてきた.しかし,コンピュータとともにある身体は,ボタンを押すというシンプルな行為のみを要請される.その要請はカメラが出てきた時から行われてきた.ヒトがボタンを押し,コンピュータが演算する.この「最小の行為と組み合わされた演算」によって複雑な情報がつくられる.普段,コンピュータを使っているときは「演算」はヒトの外部にあるコンピュータに委託されている.けれど,三輪作品ではヒトが「演算」を行わなければならない.行為自体はシンプルかもしれないが,そこで同時に演算が行われている.しかし,それは外から見たときには,その行為が演算でその都度決定されているものなのか,あるシーケンスが予め決まってそれに沿って行われているのかが,わからない.三輪さんの作品の意図を知っている人は演奏を「演算」の結果として聴くだろうが,そうでない人はどうだろうか.さらに,演奏者が熟練者であり,演奏がスムーズに移行していけばいくほど,三輪さんの作品意図を知っていても,そこに「演算」を聴くことは少なくなっていくのではないだろうか.アルゴリズムによって規定された行為を自ら演算して次々に行っていく身体は,その行為自体はシンプルかもしれないが,これまでの演算なしで行為していた身体とは別のものに変化している.しかし,ヒトは演算とともにある世界で生活をしていながら,演算をコンピュータという外部に委託しているので,多くのヒトには演算そのものを看取する能力がまだほどんどないと考えられる.

memo352
明日は三輪眞弘さんとのトーク.トークが終わると,次は公募書類と1000字の原稿,そして公募の面接&模擬授業! そのあいだにいつも通りの講義.少し救いなのは高校が定期考査だったために1日お休みになったこと.三輪眞弘さんという作曲家とトークできると同時に,就活生でもある自分を認識できる一週間.乗りきれるかなー

memo353
アルゴリズムから世界を眺めることは藤幡正樹さんがもう10年以上前にいっていた.三輪眞弘さんはアルゴリズムを生身の身体で体現させる.それが2007年にアルス・エレクトロニカで賞をとった.それから6年がたった今.アルゴリズムから世界,身体を考えることは続いているのだろうか.「続いている」という言葉はおかしいかもしれない.もちろん「続いている」.けれど,アルゴリズムは後ろに引きつつあるのではないだろうか.いや.特に意識することもなく,アルゴリズム的な考えになっているというべきか.アルゴリズムに行き着く前のグラフィカルなインターフェイスで留まり続ける.そこでマウスとカーソルを使って1点を選択しながら,メニューの階層をたどり,知らないうちにアルゴリズムのパラメーターを変化させる.アルゴリズムを知らないうちに,パラメーターの1点を変化させる.多くのヒトはそんな行為をし続けているのではないだろうか.

memo354
アルゴリズムとともにあり状態遷移を繰り返すものは設定次第で「画像」にも「文字列」にもなるような不定形なものである.その不定形さはやはり「オリジナル」とは言い難い.そこで,フォルムからアルゴリズムへの枠組み転換後に見出だせる「アルゴリズムとともにあり状態遷移を繰り返す不定形なもの」を「ソース」と呼びたい.「ソース」は流れの「源」という意味であるとともに,コンピュータ用語の「ソースコード」が示す「ヒトが読むことができるコンピュータ・コマンド14」という意味や,そこで「ソフトウェアの改良や最適化,カスタマイズ,修復などが行われること15」という性質と密接な関係をもつ.この2つの関係は,ソースコードはソースが文字列として表示されている1つの状態であり,ソースはより広範囲な状態を含んだものと言うことができる.ソースは不可視で潜在的なものではなくソースコードのように一定の手順を踏めば可視化されるものであり,アルゴリズムという一定の条件のもとで「改良や最適化,カスタマイズ,修復」が行われ,別の状態への移行を繰り返す.そして最も重要なのは,ソースはその存在を単独で示せないということである.ソースはアルゴリズムの流れにあるときのみ現れる.つまり,ルールに基づいた少なくとも2つの状態のあいだを遷移するなかでソースは一定のかたちを示す.ソースは「源」なのだが,それはアルゴリズムという「流れ」があってはじめて姿をあらわすのである.フォルムからアルゴリズムへと転換した枠組みのもとでは,「オリジナル」及び「コピー」と呼ばれる単独の固定的な存在はなくなり,アルゴリズムとともにある「ソース」と呼ぶべき複数の状態を遷移していく存在が現れるのである.

memo355
三輪眞弘さんとの対談で,最後の方に「インターネットが…」「インターネットで…」「インターネットでは…」と「ネット,ネット,ネット」とバカの一つ覚えのように言っていたなと反省していたのだけれど,今の僕には「インターネット」がひとつの中心になっていて,そこからはじめるしかないのだなと再確認できたとも言えなくもない.

インターフェイスについて話しているときは,エンゲルバートという人の言葉を使ったが,インターネットではそうした言葉ない.だから,三輪さんが背負っている「西洋音楽の伝統」と比べると,薄っぺらいような,事象しか追っていないような感じなる.でも,それはそれでいいのかもしれない.でもそうやって開き直ってしまうと単なるポジション・トークになる感じもする.そもそも「開き直る」ほどに,僕は自分の考えに「薄さ」を悪いものとして感じていないではないだろうか.そういってしまうと,先に進めない感じもする.

はっきりとしない.モヤモヤする.モヤモヤしておこう.

memo356
2012年1月に東京初台にあるメディアアートの展示施設NTTインターコミュニケーション・センター(ICC)で開催された [インターネット アート これから]展に「インターネット・リアリティ研究会」の一員として関わって以来,現実とインターネットとの関係を主にネットアート,メディアアートと呼ばれる領域から考えてきた.その後の考察で,現実とインターネットとの関係は以下のプロセスにあるのではないかという考えに至った.

1.[現実ーネット]がある.事実・現象としてあり,これを対象とした作品もある.
2.[現実ーネット]の意識が生まれる.事実・現象としてあったこの関係に対して,私たちが「リアリティ」を感じられるようになる.[現実ーネット]の関係が意識のなかに入り込んでくる
3.[[現実ーネット]の意識]の作品化・モノ化.現実とネットという二項対立が崩れて,そのふたつを自由に行き来できるようになった作家が現れて,作品をつくりだす.

インターネットが生まれてからしばらくのあいだは1,2の段階に私たちはいた.しかし,ここ数年のあいで,その自分たちの環境を意識的に作品化・モノ化できるようになってきた.そして,[[現実ーネット]の意識]の作品化・モノ化が為されている現在,私たちが体感しているのは,現実に対して「ネット」というあたらしい領域を得て,私たちの意識のフレームが拡大したと思っていたが,実はそうではなかったということである.

[[現実ーネット]の意識]が改めて作品化・モノ化されると[現実ーネット]という二項対立の枠組みはもともとなく,それらは地続きの存在だということが多く示されている.[現実ーネット]というフレームが無効化されて.フレームレスゆえに私たちの意識が拡大し,その結果,現実でもありネットでもあるという今まで考えられてこなかった既存の枠組みでは捉えることができない領域が出来上がりつつある.これからの2,3年のあいだはこの手がかりのない領域が作品化・モノ化されていくと,私は考えている.そして,それを研究していきたい.

memo357
Zoom In, Zoom Out
(Multi-Touch Series)
2013
Lambda prints face mounted on acrylic, dibond backing (diptych)
65cm x 120cm
Courtesy XPO Gallery

memo358
作曲家の三輪眞弘さんとトークをしてから2週間になりつつある.トークのあとに友人の結婚式や公募の面接があってバタバタしていた.そのあいだ,memoを書く暇もなかった.いや「暇」はあったような気がするけれど,余裕はなかった.そして,今もまた余裕はない.面接の結果待ち状態なので,気持ちはぐらぐらしている.

memoを書き始めたら少し落ち着くかなと思ったのだけれど,そんなことはなかった.いまもまだ気持ちがぐらぐらしていて,三輪さんとのトークを振り返ることができないでいる.三輪さんとのトーク及び面接で僕は「インターネット!インターネット!」と連呼した.「インターネット」がすべてではないと多くの人からツッコミが入れられるほど「インターネット!」と言っていたよう気がする.そのことに反省した.けれど,それでもいいような気もした.

インターネット以前があって,今があることはわかる.それは,三輪さんが西洋音楽の伝統のなかから逆シミュレーション音楽をつくりだしたことと同じ.三輪さんは西洋音楽と逆シミュレーション音楽とのあいだを切断しないで,両者をつないでいる.それはとても難しい作業である.対して,僕はインターネット以前と今の状況を「切断」して考えている,ということが三輪さんとのトークで明確になった.困ったときの拠り所が「インターネット」だった.インターネット以前を切断してしまうと,それはなんかインターネット万歳の楽観主義者のようにみえる.楽観主義者であることはいいし,自分は多分に楽観主義者だと思う.ただ楽観主義者で在り続けることが難しいとは,多く人は思わないのではないだろうか.楽観主義で今を考え続けることもまた難しいし,それを人にわかってもらえるように表現するのはもっと難しい.精進あるのみ.

memo359
「ヒトはこれまで複雑な行為をしすぎてきたのではないだろうか?」というようなことを三輪さんとのトークで言った.行為−身体,ここが僕の拠り所になっていたような気もする.
千葉雅也さんの『動きすぎてはいけない』を読む.タイトルと「中途半端さ」の哲学というところに惹かれた.ドゥルーズの生成変化.千葉さんは生成変化をしすぎてはいけないという.いい.

コンピュータを前にしてヒトは動きすぎてはいけない.動きすぎるとコンピュータになってしまう.いや,コンピュータのような論理演算を身体にインストールされる/してしまう.そうしたら,もうヒトではない.ヒトがヒトでありつつも,コンピュータをうまく組み入れていくためには,ヒトは動きすぎてはいけない.マウスで操作するくらいが丁度いいのかもしれない.ジェスチャーは動きすぎているのかもしれない.それは一見ヒトの自由をコンピュータに組み込んでいるようであるが,それはコンピュータがヒトの自由を利用しているにすぎないのかもしれない.

考えというか演算はコンピュータにやってもらおう.それでいい.思考の外在化を押し進める.そのためには身体を動かしすぎてはいけない.演算を完璧に組み込まれた身体はマシーンとなる.それではいけない(ような気がする).「ヒトはこれまで複雑な行為をしすぎてきた」と考えるならば,コンピュータを手に入れて演算を引き受けてもらうことで,ヒトは複雑な行為を行わなくてよくなるはずである.より単純な行為を行うなかで,単純だからといって動きすぎてはいけない.単純でいて,動きすぎない行為をしていく身体をコンピュータによる演算の外在化とともに考えていく必要がある.

memo360
まどか☆マギカの新編を見てきた.物語的にいろいろと語られていくんだろうな.そうした物語的な部分は語ることに興味がないというか,その場で見て,涙してそれで終わりという感じが,自分のなかにあって,それはそれでいい感じ.

memo361
もろもろ落ち着いてきて,気がついたら11月.紀要書かないといけない.どうしよう.どうしよう.どう書こう.IAMASは受験したことがあって,見事に落ちた.ここから書き始めよう.頭でかっちだった.東洋哲学とフルッサーとマクルーハンみたいなことを書いていたような気がする.でも,それだけでは何も書けない.メディアアート史におけるIAMASというのもかける気がしない.何を書くか,どう書くか.迷う.迷っているうちに時間だけがすぎていく.どうするか.不合格だったことは書く,そして以前卒展について書いた記事を読み返してみる.さらに,三輪眞弘さんとのトークも含める.そうしたなかで自分のなかでのIAMASをたどり直してみるという内容にすればいいのではないかということは,少し前から考えているけれど,文字数が足りないという感じもしている.リマインダーのメールが来たのでがんばろう.

memo362
幸村先生のグリッチ展で,ガラス面に展示された作品が興味深かった.ガラス面のほうにグリッチ面,印刷された面を向けているので,展示室内からみると印刷面の裏を見ることになる.単に印刷の裏面なんだけれども,グリッチの「裏」を見ている感じがして面白かった.「グリッチの裏」ってなんだろうという疑問自体が面白い.グリッチがデータの不具合だとすると,その「裏」.そもそもデータに裏表はあるのだろうか.ない.でも,グリッチの裏面は画像データをそのまま印刷したものを裏から見たものとも違う.画像データが何の不具合もなく印刷されたものも,それはデータのひとつの具体化である.グリッチであってもデータの具体化という意味では同じなのに,その裏面をみることの意味がちがう感じがする.あくまでも「感じ」というところが興味深い.

印刷されたものの表と裏.データの印刷の表と裏.グリッチの印刷の表と裏.データの表と裏.グリッチの表と裏.

memo363
エキソニモの個展「#猿へ」が楽しみ.ネットにあげられている画像から想像を膨らませて事前レビューを書きたい.いや,どんなものなのか一度想像してから見ることで,想像とのズレを楽しみたい.そんなことを考えているけれども,なかなか書く時間がないまま,あっという間に火曜日.水曜に福岡に行くので,行く前の空港で考えてみよう.いや,飛行機の中かな.
「ゴットは、存在する。」がプロジェクションされていて,それがはじめの方に設置されていることだけは画像からわかった.そこからどう広がっていくのか,それとも狭まっていくのか.コンピュータの前では動きすぎてはいけないのか,それともネットでどんどん動くのか.エキソニモがそのあいだをどう考えているのか,このあたりを考えたい.逆なのかもしれない.ネットで動きすぎず,コンピュータの前で存分に動く.

memo364
明日は高校で授業してから福岡へ飛びます.エキソニモの個展「#猿へ」見てきます.タイトルからしてグッとくる個展を見てきます.そして,考えて,書いて,また見て,考えて,見て,書いて,という感じで福岡を堪能して,名古屋に戻り,次の日は講義です.楽しみです.

memo365
エキソニモ #猿へ
手書きのキャプション
「いにしえ」という言葉
狭い通路
時計 谷口暁彦さんとの比較
演算のちがう形 
平川さん 久保田さんとはちがう形
身体の演算 三輪さんともちがう形
DesktopBAM を背景に「ゴットは、存在する。」を見ること
マウスがない作品とマウスだらけの作品
この先にある風景2013

memo366
エキソニモの「#猿へ」を見てきた.考えるべきところはたくさんあって,ひとつひとつ潰していくと次の風景が見えてくる感じがする.

最初の狭い通路.期待感を持たせるし,「ナローバンド」という言葉とも結びつけられる.狭く長いからこそ「ネット」のオリジナリティが今よりもあったのかもしれない.狭い通路の先にで回り続ける「地球」はネットがよりネットだったときの象徴としてあるのかもしれない.そして,そこで語られるエキソニモのステートメント.インターネットを手に入れた人類とその急激な進化は,ネットそのものの変化でもあった.

ステートメントのさきには「1999」という文字が床にある.今から14年前の風景.ネットが一般化して行く過程.みんながつくったRGBのきらめきがプロジェクションされ,ネット上の構造=意味が剥奪された画像が飛びかっている.このあたりはとても「今」を感じさせる.それは集合知やその反対といってはあれだけれどもタガが外れてしまった「集合愚」にもなりうるような麻薬のような効果をもった「インターネット」を感じさせるそして,Googleの検索窓がひとつの風景だった時代.今はない風景であって,懐かしい感じがする.

「#猿へ」の展示は「1999」「2005」「2009」と続いていくが,「2013」に近づくにつれてネットから離れていく感じがある.「2009」セクションにある「ゴットは、存在する。」シリーズのなかにあるTwitterを題材にした《噂》があるようにネットを用いているものはあるけれども,どこか「インターネット」そのものを扱っているという感じはしない.もう「ネット」を「ネット」として単体として切り離すことが難しいからかもしれない.

また年代が今に近づくにつれて,「パソコン」と呼ばれるものからも離れていく感じがある.最後の作品はマウス・キーボード・ディスプレイといったコンピュータのかたちを離れ,スマートフォンからの「プロジェクション」になっている.「インターネット」という技術から始まって,最後はプラトンの洞窟ではないけれど「プロジェクション」という古の技術で終わるのは興味深い.技術の変化に呼応するように大人が書いたものから子供が書いたものへと変化していく手書きキャプション.そしてプロジェクションには「#猿へ」の文字.ネットを手に入れて進化していった人類を考察した結果得られたひとつの答えが「#猿へ」の回帰? 「回帰」ではなく,猿に似た「#猿」というもうひとつの存在への着地だとすれば面白い.

memo367
エキソニモの「猿へ」2回目.「2005」の謎を解明しに行くためにというか,ひっかかりを探しに.あと「2005」セクションでの《断末魔ウス》のあり方を考えてみた.

「2005」セクションにあった《Object-B VS》(2006)を結構長いあいだやった.銃を撃ちまくって,相手となる(?)転がっているヒトも何度も撃った.撃ちまくっているとスクリーンの向こうにある「オブジェクト」が動きだす.唸りだす.ずっとやっていくなかで感じる気持よさと,銃を撃っていることとオブジェクトの唸りが重なり「あっちの世界」との関係を感じたりする.なんとなく感じる「あちらの世界」.ヒトではないものが存在するあちらの世界.そんなあちらに向かって銃を撃ち続ける.実際の銃は撃ったことはないけれども,ここではあちらに向かって銃を撃ち続けている.と言っても,銃からでてくるのは「弾丸」ではなく,様々なオブジェクトであって,これは絶対にこちらの世界では体験できない.

その後,《DEF-RAG》(2008)を見続けた.時間操作されたスクリーン.連続して流れる時間から切り離されたコンピュータの時間とそれを映し出す映像.かつていた自分がスクリーンに映っている.でもそれは,「メディアアート」と呼ばれる作品ではよくあること.では,エキソニモの独自性はどこにあるのか.それは「見せている」ことなのかなとおもった.スクリーンの映像をつくりだすコンピュータ,そこから伸びるケーブルの類がすべて隠されていない.コンピュータの基盤までは見えないけれど,ケーブルが見えるだけでも,ここから映像がつくりだされるということが分かるし,電源ケーブルで電気の流れも可視化される.作品を作り出している部分が顕になっており,映像に写り込んでいる.時計の裏を覗くと,時計を動かしている機構が露わになっている.「あちらの世界」をつくりだすものがすべて「こちらの世界」にあることを示す.ケーブルで結ぶばれたかたちで「こちらの世界」にある様々な機械が「あちらの世界」をつくりだす.

こちらとは異なる時間-《DEF-RAG》と空間−《Object-b》をつくるものがすべて見えていることの面白さ.「魔法」ではない感じ.ここで「魔法」はつくられていますよ,という種明かししつつも,明らかになればなるほど,外見はわかったけれども,実際にそこで何が起こっているのかはよくわからないという感じで,不可解なものが強く残る.
 
《Object-B VS》と《DEF-RAG》ともに展示されているサーキットベンディングという方法論でつくられたオブジェもまた電気の通り道が可視化されている.3つのオブジェはかつては暴力的な音をだしていたらしいが,今は静かにそこにある.

《Object-B VS》と《DEF-RAG》のあいだの2007年につくられたのが《断末魔ウス》.展示構成的は《断末魔ウス》が「2009」セクションへの橋渡しとなる位置に置かれている.《断末魔ウス》もマウスとカーソルの結びつきを可視化することで,マウスの「断末魔」を見ている人に感じさせる.「結びつき=絆」を見えるようにすることで「痛み」を感じさせる.「『こちら』と『あちら』の結びつき」を感じさせること.

《断末魔ウス》に関してはこれまでも考えきたけれど,《Object-B VS》と《DEF-RAG》との関係で考えたことはなく,「2009」セクションに展示された「ゴットは、存在する。」シリーズや《DesktopBAM》との関連で考えていたので,また0から考えてみてもいいかもしれない.

memo368
2時間近く見てしまう映像の秘密とは何だろうか.映画のように椅子に座っているのではなく,水面に浮かぶ5つのスクリーンに映る物語性が明確にはない映像を見る.スクリーンに映った映像が水面に反射し,ゆらゆらとした映像が気持ちいいのかもしれない.映像の切り替えのリズムが気持ちいいかもしれない.自分で動いて,映像を様々な角度から見たり,木々のあいだから見たりするのがいいのかもしれない.いや,単に,といっては失礼だけれども,夜に光っている現象を見ること,それもいつものビルや家の光ではなく,プロジェクターによる強烈な光を見ることがいいのかもしれない.そんなことが積み重なると映像を2時間見てしまうのかもしれない.

memo369
エキソニモの個展を「まちがい」という点から考えてみる.「エラー」の感覚.コンピュータにはエラーは存在しない.グリッチとの関係性.エキソニモ=ハッカー=コワイみたいな等式がなりたっていたこともあるのではないか.初期のエキソニモの作品は人のコンピュータを落とす.マウスを壊すという行為=まちがい? ギリギリのラインを狙い続ける.

memo370
DesktopBAMと逆シミュレーション音楽とを対比したら興味深いのではないだろうか.コンピュータ音楽の「正しい」突き詰め方.コンピュータの身体性とヒトの身体性との関連性と,そこに入り込む「演算」という要素.

演奏する人が苦しい顔をしている方がいい.演奏者に完璧,間違えないことを要求する作曲家.間違えないコンピュータにぎりぎり「間違い」を誘発するようなプログラムを施すアーティスト.間違える存在に間違えないことを要求することと,間違えない存在に間違えを要求すること.「間違え」ということは要求していない.間違ってしまう可能性を常に孕ませるということが肝かもしれない.でも,「演算」の結果の「間違い」とは,そもそも「間違え」なのだろうか.

エキソニモの「猿へ」の2009セクションを考える際にDesktopBAMのキャプション「あとはPCにまかせた」がヒントになるのかなと思っていた.ヒトはいらない,あとはPCそれ自体が動く.PCそれ自体が動くときに,インターフェイス越しにコンピュータと対峙する存在は,もうヒトでなくてもいい.それはリンゴでもいいし,猿でもいい.ヒトという存在がどうでも良くなりつつ,作品はスピリチュアルというか,精神世界へと向かっていく.このセクションでは「カーソル」はなくなっていない.けれど,ヒトとのつながりは絶たれている.機能の一部を果たさなくなったカーソルが画面上を横切ったらり,画面の下の方に置かれている.

VideoBomberが最後に展示されている意味.なぜ他の作品ではなくVideoBomberなのか.PCからスマートフォンへ.マウスとカーソルからタッチへ.でも,触れない.でも,iPhoneはそこにあって,プロジェクターに接続されいるのが見える.プロジェクターを担いでいたヒトはここにはいない.ロッキングチェアがその代わりとなって,揺れている.ヒトはいない.ロッキングチェアは揺れている.iPhoneには触れない.そこから「#猿へ」で終わるテキストが流れている.

memo371
“じゃあその画像を編むのに最適な道具は何かって言うと、どう考えてもコンピュータだと思う。スマートフォンの登場で僕達は液晶に表示される像に対する触覚がかなり高くなってると思うので、実際に「触っている感」 も強くなった。画面の中のイメージとは言え、画像の操作には身体感覚みたいのがどうしても忍びこんでくるし、コンピュータで画像編集すると凄く豊かなデバ イス体験得られる。実際凄く豊かなんだけど、なかなか言葉にしずらいのでそれも画像と一緒に編みこむ。その結果、質感とか量感みたいなものがシミュレートされてると良いなと思う。”
http://arawatari.blogspot.jp/2013/11/blog-post.html?spref=tw (via mmmmm-mmmmm)

memo372
IAMAS(情報科学芸術大学院大学)という学校に三輪眞弘さんという作曲家がいます.三輪さんは生身のヒトがコンピュータによって検証されたアルゴリズムを演奏を行う「逆シミュレーション音楽」という手法を考えました.そこでは演奏者は楽譜に基づいて演奏するのではなく,ルールに基づいた演算をしながら演奏を行います.ヒトがコンピュータのようにリアルタイムで演算をしながら次の行為を出力していくのです.なので,演算を間違えれば,演奏も間違えます.ミスが起こります.三輪さんは作曲家という立場からは,この「ミス」は望んでいません.演奏者は「完璧」に演算・演奏を遂行することが求められています.演算とそれに基づいた身体的出力を完璧していくと,演奏家集団「方法マシン」がつくられます.ヒトがマシンとなるのです.

memo373
「エキソニモの猿へ」の最後の作品についてのセンボーさんの言及.ここから考えること.カーソルのようなコンピュータよりのもので「ヒト」の気配を感じるのではなく,「ページめくり」というヒト寄りの行為でヒトを感じさせる,いや,いつまでもページめくりするという行為がヒトを感じさせない.そのあいだを考えること.動きすぎてはいけない.

memo374
punkarcade:
Today marks the first day of The Wrong, a mega new artbiennial with hundreds of online artworks by dozens of curators and artists, and IRL exhibition/events as well. My favorite online “pavilion” so far is pl41nt3xt.com, curated by A. Bill Miller. And within that pavilion, check out the bizzare 8bit-inspired Animal Romantics by Raquel Meyers, evilpaul and Goto80 with remixes by Limonious, Dr. Vector, The Toilet, Steve and Ljudit Andersson. Created in javascript.
The Wrong - New Digital Art Biennale opens its “online” doors, here at http://thewrong.org , and in a more relaxed pace, its “AFK” doors in more than ten different cities around the world.
What is The Wrong’s mission? To create, promote and push positive forward-thinking contemporary digital art to a wider audience worldwide through a biennial event that gathers the best selected by the best, while embraces the young talents of today’s digital art scene.
A team of 30 top curators/artists have been working for more than 6 months to feature what they like best in the new digital art world. The biennial is divided into pavilions; virtual spaces in which selected works are exhibited. In total, there are 30 online pavilions, including an “unlimited” pavilion open to public participation and a “meta” pavilion exclusively featuring exclusively the artwork of the curators. More than 300 artists have been invited officially, and have their work featured in the pavilions, and several hundreds are still applying to until the end of the event to participate of the “unlimited” open pavilion. The Wrong is the only free biennial that is fully accessible both to participate and to attend, and everything just one click away. 
systemsapproach:
pl41nt3xt.com of The Wrong on fffffartsy.com
Source: systemsapproach

memo375
とにかくmemoをしよう.インターネット展はむずかしいと感じた,the wrong.だって,クリックするだけだもん.クリックしても何もでないブースもあるし.3D空間を移動して,ブースに入ると動画再生はわりとよかったかな.でも,それらにたいして「リアリティ」は感じないわけですよ.どういったものにリアリティを感じるのかを考える必要があるし,the wrongには谷口暁彦さんをはじめてとして日本人も参加しているけれども,日本はthe wrongからは遠くはなれたところにいくのかもしれないなーと思いつつ,中南米のパヴィリオンの真面目さも興味深いなと.そんな感じのことを書こうかと思いっているが,時間がないー

memo376
mobilemoviews-hikohiko:
真っ暗な部屋の中で歩き回ってandroidで撮影。内蔵されているライトを点灯して撮影したシーンで、実際にこの端末のライトが同期して点灯します。映像もライトも再生。

「いま、映像でしゃべること?」に展示されていた谷口暁彦さんの作品のテスト映像.会場よりもこちらの方が作品の感じが掴めていいです.この作品を見ていると,谷口さんはデジタルデバイスに「幽霊」を呼び出すのがうまいと感じる.谷口さんの作品を見ていると,「結果とプロセス」「表と裏」など2つのことを同時に見せることで「幽霊」を生み出している感じがする.このあたりはまた考えたい.

memo377
反重力展のクワクボリョウタさんの作品《ロスト・グラヴィティ》,よかった.《10番目の感傷》の「武器」でもあった「物語」をすっぱりと切っても,影だけで,抽象的な影だけで見事に成立していた.「物語」を切るために投影のための枠をつくっているところも面白い.拡がる影を切り取ることで,影を抽象化する.物語を想起させないことで「重力」から解放された影は延々と投影され続けていた.

memo378
あたまがボーっとしているのか,講義に追われているのか,memoが全く書けていない.考えることができていないと書きつつ,物語シリーズセカンドシーズンの録画をミスったことを知り,まあいいかという気持ちになっているので,そのまま寝るのが一番いいのだろう.キーボードを叩き続けることから何か生まれると思っているけれども,叩かなければ始まらない.でも,なかなか叩けない.録画はミスったというよりも,別のものを録っていた.でも,それは撮りためて見る時間がないので,結局は見ないのかもしれない.それでいいのかもしれない.

memo379
黒瀬陽平さんの『情報社会の情念』を読んだ.一読して思ったことメモ.

この本のを読みながら,つねに頭のなかには「インターネット・リアリティ研究会」があって,黒瀬さんのテキストとIR研とのちがいを考えながら読んだ.黒瀬さんはすべてが(ほとんどが)コントロールされるネットに,コントロールできないものとして入り込んでしまう「情念」が入り込むことを期待している.運営のコントロールにあたらしいものを放り込む制作の「情念」.クリエイターは招き入れる「情念」.「情念定形」という語も使っている.

制作は「外」を外部を用いて制作して,運営に「偶然」をつくりあげる.その「外」が「情念(定形)」であったりする.いや,もっといろいろと書かれているのだけれど,とにかく制作は運営の「外部」を想定し,それを用いた表現を行う.

IR研は「インターネット・リアリティ」を研究しているということになっている.となると,対象が「インターネット」そのものだから,そこに外部は想定していない.外部を用いることなく,インターネットのなかで考え,表現を行うこと.外に開かない.内に篭っている.だから,わかりにくいところもある.外に開くべきなのかもしれない.けれど,無理に外を考えるよりも,内側で起こる事象を考えることで「内破」が起こって,インターネットか,ヒトかどちらかわからないけれど,そこに変化が起こるのではないかと思っている.

自分のなかで来年は「エキソニモ」を外に開くようなかたちの思考をしたいと考えていたけれども,もう少し内に篭っていてもいいのかなと,黒瀬さんの本を読んで思った.

memo380
情報社会における「外部」や「他者」を描くこと.「外」「他者」はあるのだろうか? それを想像できないから,私はダメなのか.そんな「外」なんてなくて,ただただ「流れ」ていくのが情報社会なのではないかな.

結局,インターネットではないどこか(外部)に行って,そこにデータベース,キャラクターがでてくる.データベース自体をハックすることが必要ななのではないか?

ばけを呼び出すことが情念だとすると,データベースに対して優位に立てるのは情念ということになる? 工学・情報科学を推し進めた結果として「おばけ」がでてくることは,「スピリチュアル」に至ることと土同じような違うような.ここを考える必要がある.

ということを黒瀬さんの本を読んだ翌日にツイートしたわけですが,「外部」はどうしてもでてきてしまうものだけれども,僕の場合だって「ヒト」と「コンピュータ」という二項対立はお互いに「外」にあるようで,その外にさらに「猿」なんて配置してしまうこともできるわけですが,その中にありつづけること.ヒトでありながら,コンピュータにもなって,猿にもなるということができないか.そんなことをmemoを書きながら考えるわけです.外部を呼ぶのではなくて,外と中との隙間に何かを挟み込むことができればいいのかな.

memo381
眠い感じがするけれども,何かmemoを書いたほうが良さそうな気もするけれども,やはり特に何も書くことがないような感じがする.年末年始にインターネットに関するテキストが読めるといいな.溜まっているので倍速で消化したい気分ですが,テキストは倍速では消化できないので,ちょっとずつ消化していこう.

インターネット・リアリティが遠のいていく感じがする.インターネット・リアリズムなんて言葉あるのだろうか? 2013年は何を考えてきたのか,それをもう一度考えて,2014年に向かいたいなー

memo382
LEDスクリーンの映像を照明にしてしまうという発想,とてもおもしろいし,グルングルン回るロボットアームに取りつけられたカメラ.こうやって撮影していたのか!

fuckyeahbehindthescenes:

To shoot the spacewalk scenes a LED screen was folded into a box, the actor was put inside, and the light from the screen was used to light the actor. That way, instead of moving either Bullock or Clooney in the middle of static lights, the projected image moved while they stayed still. The “light box”, key to the spacewalk scenes was a nine-foot cube just big enough for one actor.

Gravity (2013)
Video Source
Thank you to Rita for the video link.
Source: fuckyeahbehindthescenes

memo383
【作品中継】新津保建秀「「 監視中 映像を監視・録画しています」を見ながら,東野芳明「虚像の時代」を読む
– 
インターネット・リアリティと『虚像の時代』を考える.というか,インターネット・リアリティと虚像.虚像って.インターネットにも虚像ってあるの? ないの? あるかもしれないし,ないかもしれない.でも,あるような気がするけれども,「虚像」という言葉ではないような気もする.画像/虚像?

memo384
ベクター画像のボケというのが気になった
toukubo:
fileth:
「一航戦」/「小強」の漫画 [pixiv]
写真のボケ(boke)が二次元アニメに入ってるのが面白い。遠近法ではない3次元性感に被写界深度があったか。アフォーダンスを学ぶと、視差や遠近法と匹敵するほど肌理の情報が知覚に重要であるといったことを知ることができるが、被写界深度はなおそうだろう。さらに人には動的視野と静的視野があり、中心には静的な視野があり三次元とは時間的な要素とは異なるが、フォーカスの中心にはオブジェクトがあるが、周辺にはそれを取り囲む不可解だが重要な情報があるという「時間的にとまった状態での分離」もあるし、時間軸、という第四の軸がある。

村上隆などは、漫画表現は抽象的でフラットであるといった。昔からが日本画はフラットだったというようなことをいってた。僕が読んだ限りでは彼らは経済インフラ、流通と情報としての抽象度の高さと二次元性、全体に記号が散らばっているデジタルな絵が強度を増していくというようなことを2000年頃にいっていて、今それはもっとインターネットというかデジタルの制圧とともに強化されていて、しかも閾値を越えようとしてるんじゃないのかという言い方もできる。

それでボケってのは、経済的フラットになりつつある、誰もがカメラを持ってネットワークに接続していて、美しいボケを持つ絵をどこでも目にするようになった後に、被写界深度による立体(フラットの逆)の方を持っていたのだが、この方法で二次元がZ軸表現に入っていくことでフラットが立体に入ってくる感じがする。

これはアニメにボケが加わってるわけだけど、ベクターで書かれたグラフィック全体について、ベクターで書いた後に、ボケさせるというの面白い。ツールとしても、フォトショップ的なもので処理する。ベクターツールではなくラスタのためのツールで。本来写真のようなもののために用いる。

時代背景に寄り添った新しいテイストになりそう。すごく面白い気がしてきた。

memo385
昨日は一日中,長谷敏司『BEATLESS』をKindleで読んでいた.ヒは環境と道具の総体であるということは,普段自分も考えていることだったので,うんうんと言いながら読んだ.でも,最終的にはヒトはヒトに似た「かたち」を求めるというか,そこに「情感」を読みとるのかなーと思いつつ,そのヒトのかたちをしていたロボットが「インターフェイス」と呼ばれていたので,やはり「インターフェイス」にはスピリチュアルなものが宿るかなとも考えた.「やはり」というのはなんだか変な言い方だけれども,「あいだ」には何かどっちつかず,あるいはどっちでもあるものが存在するのであって,そこにスピリチュアルが発生する.あるいは,ヒトがスピリチュアルを読みとる.では,ロボット側から見ても,ヒトが見えているのと異なるかたちでスピリチュアルが見えるのかなと思ったら,そうしたものがクラウドのデータとして表されていて,この作品は面白いと思ったわけです.

memo386
インターネットがもたらしたものは必ずあって,それがじわじわとフツーな感じで広がっているのだけれど,それに自分が適応できているのかというと,まだまだ自分は理想の部分を追っている感じがするというようなことを,MASSAGE 9 を読みながら思ったわけです.
インターネット・カルチャーが「切り開く」と書こうとしたのだけれど,ここには「切り開く」といったような前進していくような感じはなくて,そこにある,あるいは,そこにあったという感じしかないような気がする.そうした前も後ろもなく,そこにあったという「ムーブメント」,いやこれは「ムーブメント」とも言えないようなものなんだと思う.インターネットから考えることをするには,前も後もない感覚,ゼログラビティが描いたぐるぐると回る宇宙の無重力感のなかでぐるぐると考え続けることなのかもしれない.自分的にはそれは模倣してどうにかすることができるものだけれど,それが「模倣」ではなくてそこで考えることなフツーな人たちの言葉を知りたいなと思いつつ,それは言葉で表されないのかもしれない.だとすると,もっとアンテナの感度と受信領域を拡げないといえない.ビビる.

memo387
レフ・マノヴィッチは「アヴァンギャルドがソフトウェアになった」と言ったけれど,フォトショップなどを当たり前に使う人たちはその質感に飽きつつあるとインタビューで応えていた.だとすると,アヴァンギャルドがソフトウェアになって,フォトショップなどでアヴァンギャルドを日常に使い,tumblrでアヴァンギャルドと日常が混じって,それに飽きてきたとすれば,もうそれは本当の意味で前も後もないところに僕たちは来たのかもしれないと思った,
インターネット・リアリティとしてそこに現われた質感は即座に飽きられていく.飽きられたといって,特にその先があるわけでもない.それらはあっという間に過ぎ去っていく.「過ぎ去っていく」ということでもなく,「飽きられる」.飽きるってどういうことか.あっという間に飽和する量がつくられるということかもしれない.飽和する.飽きる.どちらにも「飽」という字が入っている.このあたりからインターネット・リアリティを考える必要があるのかもしれない.

memo388
グリーンバックにグリーンマン
catastrofe:
dream job
Source: catastrofe

memo389
Massageの「インターネット・カルチャー」を読んでいたら,どんどん進んでいくインターネットって感じでした.そして,その渦中にいる人達自身がそのように感じている.歴史をつくることなく,歴史に捕らわれることなく,速く進み続けるインターネットでクリエイティブなことをし続けることは難しい.それを見て,それを批評することも難しい.どんどん遠ざかっていく,赤方偏移!

memo390
無重力感が漂っている.この先に行くことができるのかどうか.前後左右,よくわからない.でも,この状態は面白いし,この状態こそ興味があると思っていたら,ラファエル・ローゼンダールのブログの言葉にグッと来た.彼もまた今の状態が,ほとんど何もないとほぼすべてのものがあるのあいだにあるというようなことを言っていて,何か自分の状況と重なるところがあるなと思った.これがインターネット・リアリティの現状だとは言えないけれど,ローゼンダールの言葉と今の自分が感じている状況とが重ねっていることはとてもおもしろいなと思っている.

悪い場所でも,復興でもなく,無重力な感じや,ほぼすべてのものがあるのあいだにあるのような場所としてインターネットを考えてみてみること.

memo391
MASSAGE no9に掲載されていたヌケメさんのテキストから興味をもってリブログ.インターネットのなかで完結するイメージ,というのがいい.でも,洋服なので,少しだけ手触り感がある.そのビミョー感じがよく出ていると思ったの上のチェックのもの.

memo392
GIFになるとさらにイメージ・オブジェクト感というか,イメージの完結性が強まり,手触り感がなくなるが,ネット独自の感覚みたいなものがでてくるような気がする.

memo393
MASSAGE no.9 の紹介記事を書こうとしていて,書けないでいる.制作とアイデアとのあいだのスピードがインターネット・カルチャーのひとつのポイントだと言いたい.だから,習作をいっぱいネットにあげる.それはネットが習作を受け入れるほど広大だからでもあり,そしてすぐに流れていくスピード感があると思う.制作とアイデアのあいだ,そして,ネットそのものスピードが相まって,「アイデアの手触り」みたいなものが生まれているのではないか.頭に浮かんでは消えているアイデア.その速度と同じような環境がコンピュータとインターネットによって生まれたのかな,そんなことを書きたいのだが,うまく書けないというか,全く書けていない.困った.

「頭に浮かんでは消えているアイデア.その速度と同じような環境がコンピュータとインターネットによって生まれた」

意外と重要かもしれない.

memo394
MASSAGEについて書いて以来,インターネットから遠ざかっているような感じがする.つかずはなれずインターネット.ベルリンでのヤミ市には参加できないのはくやしい.どんな感じになるのか,レポートを待つしかない.デジタルな作品を扱ったアートフェアは作家のインタビューなどを多く上げているので,それを読んでいくしかない.部屋のなかでネットをしていて,世界中のいろいろなことを知れるけれど,それらがリアルな場所で出来事で行われると,やはりキョリを感じてしまうということを痛感している今日このごろ.

4月まで忙しくなりそうだけれども,ちょっとずつでもインターネットに関わる表現を考えていければいいいな.考えを継続していくしかないなー

memo395
モヤモヤしている.大学の講義は終わっていって,高校の授業のみを残すだけでになったが,来年度のことなどがあって,なんかモヤモヤしている.もっとあれを読みたい,これを調べたいというのがあるのだけれど,ほとんど手がつかない状況だからなのかもしれない.もう少し上手く時間を使わないといけない.モヤモヤする.

memo396
メディア芸術カレントコンテンツで明貫さんがドメニコ・クワランタさん(Domenico Quaranta、1978年-)のテキストをあげていて,それ以来気になっていた“DON’T SAY NEW MEDIA!“, in FMR Bianca, n° 5, Franco Maria Ricci, Bologna, December 2008, pp. 92 – 107. Republished in In Your Computerを読んでみた.明貫さんが書いているように,このテキストでクラワンタさんはレフ・マノヴィッチさんを引用しつつ「チューリングランド」としてのメディアアートと「デュシャンランド」としての現代美術という対立はもう古いものになっていて,デュシャンランドのなかにチューリングランドが入り込んでいると言っている.

で,この流れのなかにポスト・インターネットやインターネット・リアリティは入るのか,それとも入らないのか.もちろん入るわけだけだけども,それほど華々しいわけでもない.でも,軽い感じで入っていることは確かだし,あとは多少の「困惑」を通して受け入れられている感じがする.この「困惑」がオラファー・エリアソンさんやカールステン・ニコライさんとはちがう気がするわけです.「デュシャンランド」の何でもありの枠組からもほんの少しだけ逸脱しているような,もうそこは理解できないなーみたいものが「困惑」というかたちで出ている気がする.あくまでもそんな気がするというだけだけど.

あるいはこの「困惑」は僕の願望なのかもしれない.そこに「困惑」を見出している僕自体の願望.枠組みからはみ出してもらえっていれば,それをファーストハンドで掴めるといったような願望.そんなことを日本語で書いているうちに,英語圏でガッシと掴まれて,書かれてしまうんだよねー 

memo397
Josephine Bosma “Nettitudes Let’s talt net art"を読み始める.そのなかで,Florian Cramer "Net art back to squre one"が本の紹介文みたいな感じであって,そこでポスト・メディウムの流れのなかでのnet.artという話しがあった.これは面白い.メディアの差異がなくなってくポスト・メディアの流れが現代美術のなかにあったなかで,net.artは「ネット」というメディアの特性からアートを制作しようとしていたわけです.現代美術でネットアートが扱われてこなかったひとつの理由がここにあるのかも.「いまさらメディアかよ!?」というような,現代美術から見ると一周遅れの感じがあったのかもしれない.でも,net.artがもっていたメディアを考えるという感じは,web2.0で瓦解していっていってしまう.ネットの独自性といったものが,Google,Facebookなどのサービスに飲み込まれていってしまう.飲み込まれていった結果,若い世代の作家たちは現代美術にせよ,ネットアートにせよインターネットを使うようになった.もうネット特性云々なんか言ってないで,とそのへんがごちゃごちゃしているうちに,ラファエル・ローゼンダールなんかが出てきたんだろうなと書いてみたけれど,ローゼンダールは「メディアスペシフィック」の意識が強いなと思う.現代美術がもう一周してメディアスペシフィックになったのか,と同時に,インターネットがメディアとして認められたのか? 

memo398
ポストメディアか,メタメディアか.メタメディアという考えの方がいいと思う.けど,「メタ」に何を与えるかが重要な感じ.メタ=アラン・ケイとすれば,デュシャン/チューリングとは異なる領域が生まれるのではないだろうか.でも,「メタ」ってなんだ.それは「ひとつ」ものが「多」であるということになるのではないだろうか.ひとつの存在が状態遷移を繰り返すものと見なすこと.これが「メタ」なのではないだろうか.だとすると,中途半端な存在として画面上でその状態を遷移し続けるカーソルも「メタメディア」ということになるのではないだろうか? 

memo399
「インターネットおじさんとデジタルネイティブ第二世代との間に横たわるもの 〜ポスト・インターネットと世代論 〜」がとても興味深かったので,それに乗っかって「インターネットおじさん」について書こうと思ったのだけれど,上のテキストにすべて言われている感じがして頭真っ白状態.

上のテキストで,世代の同期のエッジにインターネットおじさんがいて,世代間の「イミグラント」性がインターネットおじさんを「おじさん」にしていると指摘しているところは,「そうだったのか!」と膝を打ったところ.

僕は1977年生まれだから,デジタル・ネイティブではなくて,インターネットの第一世代よりも少し下のような感じ.その視点から上のテキストとは異なることを考えようとするインターネットおじさんの「身体」の強さとかいう,いかにも的な枠組みしか出てこない.それでは「インターネットおじさん」をつまらなくしてしまうという感じがする.

エッジで同期するリアルな身体としての「インターネットおじさん」.これはもう言われている.これだけでもういい感じがすると思っているなかで,粘ってみていると,「白タイツ」という衣装が肝なんではないかと思った.なぜに「白タイツ」.白タイツゆえに強調される身体と言ってしまうと,「身体性」といったベタな話しなってしまう.白タイツゆえに消える「身体性」というのもベタか.「インターネットおじさん」に関してはベタな捉え方しかできないというとろころが,僕の限界なのでしょう,世代間の同期をしようとして,そのズレを認識できずに,世代間の動きをとめる「ベタさ」でしか「インターネットおじさん」を考えることができない.

こうした「ベタさ」から「インターネットおじさん」って生まれたのではないのかな? インターネットにおける複数の世代のあいだで強制的に同期をとるためにリアルな身体を「ベタ」に導入して,世代間のズレを停止させた結果,「インターネットおじさん」が生まれたと考えてみる.その「ベタさ」ゆえにインターネットおじさんは多くの世代や領域をまたぐ感じで注目された.そして,「ベタさ」に回収されない枠組みで「インターネットおじさん」を考えるような上のテキストが出てきたことによって,また世代間のズレが動き始めたのではないでしょうか.

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