tumblrmemo500-599

memo500
Send me the jepgs は「フィジカルな体験」を問題視している.ギャラリーで作品を見るという体験が,インターネット以後どうなっていくのか,その問題を扱っている.

ギャラリーにとって「JPEG画像」はセールスツール! 投資のためのアートになっているなかで,いかにフィジカルな体験を保持していくか.先物買いではないアート体験.

でも,JPEG画像での先物買い状態も面白い.JPEG画像というほぼ無価値なものが価値を生み出す媒介となっていること.「ほぼ無価値」というのは,流通コストがほぼゼロなことと結びついている.「フィジカルな体験」にはそこにいく移動コストがかかる.流通コストがゼロのJPEGなら,家のディスプレイでみるから移動コストもかからない.無価値な流通のなかで生み出されるアート作品の価値への疑問がSend me the jepgs.

そこでは「場所」は問われていない.あるいは,場所を無価値するためのJPEGの展示.でも,JPEGにすることで,場所がファンタジー化するというギャラリーのステイトメントは面白い.普段は一堂に会さない所属作家の作品が,ギャラリーにすべて展示できるという意味でのファンタジー.JPEGは空間を変えてしまう.それは無価値に近いものではあるが,それはそれでまた別の場所をつくりだしている.

この「別の場所」をつくりだすという感覚が「インターネットヤミ市」につながるのかもしれない.あるいは,この感覚をメインに打ち出すかどうかが,問題なのかな?

memo501
「イメージ・オブジェクトの置き方」というタイトルを思い浮かんだ.下書きも書いたけど,これか先が長そう.

もうひとつの方は「画像は2ないしそれ以上の状態[=要素の集合]を包含する可変的条件」という長いタイトルだけ先に提出済み.「2D→automation[computer processing]→3D」の自動化の部分をうまく書ければいいのかな.ヴィアーカントの自動化は全然コンピュータではないけれども,3D→2Dの変換は作品のプロセスで自動化されているかもしれないし,Photoshopに画像を入れ込んだ時点で,あるいはもともと写真にするということが3D→2Dなわけです.Photoshopにするとその2Dの2D性が更に際立つ操作が行えるということで.どんどん3Dが消えていくのがイメージ・オブジェクトなのでは?

ISEA2014 の方は,インタビュー修正が終わらなくて,作業が滞り気味.「残念」感をどのように英語化するのかという部分が重要かもしれない.でも,IDEAにネットの「日本化」と書かれていたのはひとつのヒントになるかもしれないので,もう一度巻頭言を読もう.「残念」感というのは「コラージュ」の仕方なのかもしれない.どんどんコラージュしていくことで生まれる「コレジャナイ感」を楽しめるかどうか,あるいは楽しむ感覚をつくるかどうか,なのかな?

memo502
「インターネットヤミ市」に関する考えが進まない.これはヤバイかもしれないので,考えるべきことを箇条書きで書きだす.

インターネット的な感覚が「リアルな場所」に落とし込まれていく意味を考えること.
「残念」感を考えること

インターネットの日本化がおこっているのかどうかを考えること.文脈を考えないコラージュ感.これって日本はじまりなのか.そればかりを考えていると「日本文化論」になってしまう.それは避けたい.けど,インターネットと日本ということは考えないといけない.
フリーを「コストゼロ」か「自由」と考えるのは重要だと思う.

インターネットヤミ市が「商品売買」であること.ネットアートの作品が「経済」と絡んでいたこと.

非物質的なものと物質的なものとの関係性

考察よりも記述なのか

ヤミ市が日本を代表しているわけではないけれど,インターネット的感覚のひとつの表出であることは確か.それをBYOB,Paddles On!,Send Me the JPEGS,SPEED SHOWと比較する.

海外でヤミ市どのように取り上げられているのか,それを参照する.

memo503
Paddles On! が前提としているのは「アートマーケット」.これはオークションだから当たり前だけれど,「ブラックマーケット」の「インターネットヤミ市」とは決定的に異なる部分.
Paddles On! はアートマーケットを前提としているけれども,そのアートマーケットでは「デジタルアート」と「現代美術」は決定的に異なる存在とされている.現代美術は「とても形式的なビッグリーグ」であるが,デジタルアートはそこに入り込めていない.Paddles On! はデジタルアートを現代美術のなかに組み込むためことを目標としている.だから,デジタルアートを1960年代からアートの流れに組み込む言説をつくりあげる.

Paddles ON! NY はデジタルアートを現代美術のプラットフォームであるオークションで扱うこと自体にとても「興奮」した雰囲気がある.そして,ウェブサイトやGIFといったまさに「非物質的」な「デジタルアート」を選んでいる.これはとても挑戦的である.アート界の外からは「なんで壁に掛けられない作品にお金を出すの?」といった感じである.まだまだ作品としてその価値を認められていないものを買うという行為は,ヤミ市に近い部分がある.

Paddles ON! London はデジタルアートは本当に現代美術に組み込めるのかというシビアな評価がなされている.デジタルアートは21世紀のアートの大きな潮流になるだろうが,20世紀初頭のシュルレアリスムやダダのような作品は出てきていないと指摘される.「作品」としての価値はまだまだ劣るということであろう.確かにロンドンに出品された作品はデジタルそのものではなく,デジタルな意識を応用した「絵画」「写真」「彫刻」が多かった.それらは「意識」はデジタルであたらしいかもしれないが,作品としての完成度は既にある「絵画」「写真」「彫刻」には敵わないものだったのかもしれない.この評価はあくまでも既存の評価軸のなかでの評価であるから,デジタルがあらたな評価軸をたてることになるとしたら,またその評価は変わってくるものであろう.

「アートマーケット」を前提とすることは,常に既存のアート作品と同じ評価軸でデジタルやインターネットの意識が評価されるということだから,これは意外と難しいのかもしれない.物質的なアートワールドにいかに非物質的なデジタルやインターネットを持ち込むかではなくて,最初から別のマーケットをつくってしまおう,あるいは意図的ではなくてもつくってしまったのが「インターネットヤミ市」なのだろう.確かに「ヤミ市」で扱われているものも,インターネットをモノ化したもので「物質的な」ものに意識が還元されているいるが,そこで評価の基準となっているのは「還元の面白さ」であって,モノ自体の完成度ではない感じがする.このあたりは「ヤミ市」独特の感覚なのではないだろうか.やはり,「非物質的な」デジタルやインターネットが示す質感をどのように汲みとっていくのかが重要な感性になっている.その点では「Paddles ON! NY」のほうが「London」よりもヤミ市と同じような既存のアートマーケットへの挑戦的な意識が見られたのかもしれない.

memo504
モノの一部を色に置き換える.色の一部をモノに置き換える.すべてを置き換えるのではなくて,その一部を置き換える.その連続した置き換えの真っ只中にある質感? 色とモノの部分置換ループを存在させてみること.ブラウザという枠のなかでの意識の飛ばし方.非物質的な質感を示すお手本はない

memo505
藤幡さんをまた参照するのか.たしかに色は物性から逃れた.けど,いまその物性から逃れた色に対して「質感」を感じる人たちが出てきている.もう「カラー・アズ・コンセプト」ではなく「カラー・アズ・テクスチャー」になっているのだ! と書いてみても,きっと藤幡さんは書いているのだろうな.藤幡さんは物性から離れた色を否定しているわけではなくて,その可能性をいち早く追求したアーティストなのだから.

memo506
As part of its fabrication process, Rachel’s work appears behind the screen of a computer, in a photo retouching software. This could explain why the computer screen has been a very adequate way of witnessing de Joode’s work over the years subtly questioning the status of the sculpture-object, the pedestal or the photographic-object. In this show, 3D collages becoms 2D surfaces exhibited in a playful 3D context (gallery) ending up being re-photographed and spread on the internet.
http://www.ofluxo.net/rachel-de-joode-the-matter-of-it-being-a-stone-swg3-gallery/

その制作プロセスの一部において,レイチェルの作品はコンピュータのスクリーンの背後だったり,写真のレタッチソフトのなかに現れる.このことは何年ものあいだ彫刻的オブジェクト,台座や写真的オブジェクトの状態を巧妙に問い続ける彼女の作品を見るには,コンピュータの画面がとても適した方法であることを説明してくれる.今回の展示では,3Dのコラージュが楽しげな3Dの文脈(ギャラリー)のなかで2Dの表面になり,それが再び写真に撮影され,インターネットに拡散していく.

memo507
インターネット上のイメージをカーソルで選択,クリック・アンド・ドラッグして,デスクトップに保存する.画像がカーソルに引っ張られる感じで,そのまま半透明になりながら少し小さくなって,デスクトップまできてそこに「落とされる」と,一度「JPEG」ファイルなどになって,直後にそのファイルがサムネイル画像になる.イメージそのものをブラウザから引っ張りだしてくる感じ.右クリックで保存でもいい.デスクトップにできる画像ファイル.そのファイルを動かす.モノを動かすように,イメージを動かす.オブジェクト指向と GUI がもたらした簡単なシンタックス「物を選んでからアクションを選ぶ」のなかでのイメージの扱いと,モノの感覚のあり方.


memo508
写真の強度は,どこまで現実のものを否定し,新しい場面を作り出すことができるか,によって決まる.ある対象[オブジェ]を写真に変換するということは,そこからあらゆる特性をひとつひとつ引き剥がしてくることだ───重さ,立体感,匂,奥行き,時間,連続性,そしてもちろん意味を.このように実在を削ぎ落としていくという代価を払って,イメージは魅惑する力を身につけ,純粋に対象を志向する媒体となり,そしてモノの一層狡猾な誘惑の形態を透かしてみせる.もっとよくしよう,もっとリアルにしよう,つまり,もっとうまくシミュレートしようとして,立体感,動き,感情,観念,意味,欲望等のあらゆる次元をひとつひとつまた付け加えることは,イメージに関する限りまったくの逆行である.しかも,技術そのものまでがここで自縄自縛に陥っている.p.10)
消滅の技法,ジャン・ボードリヤール
>Compression Artifacts は「もっとうまくシミュレートしようとして,立体感,動き,感情,観念,意味,欲望等のあらゆる次元をひとつひとつまた付け加えることは,イメージに関する限りまったくの逆行である.しかも,技術そのものまでがここで自縄自縛に陥っている」を良しとする.できるだけそぎ落として「1」にしていくのではなく,要素を付け足して「2」以上の関係として画像を仕立てていく.

>>ボードリヤールが言っている意味では「スクリーンショット」の写真としての強度は強い.スクリーンショットはソフトウェアの機能を削ぎ落とし,数値=概念で指定された色のみを記録する.スクリーンショットは実在を削ぎ落として,その概念=コンセプトのみを記録する.この意味で,新津保建秀が『\風景』でスクリーンショットを「写真」として扱ったのは正しい.しかし,そこに留まってられないのが「今」という時代である.「写真」としての強度が強ければ強いほど,逆説的にスクリーンショットは「スクリーンショット」という写真ではないものとして扱われる.写真というひとつの存在に収斂してしまってはダメなのだ.スクリーンショットは写真になってはいけない.スクリーンショットはスクリーンショットであり続ける必要があり,そのためにはスクリーンショットが写真をシュミレートしているように見せかけなければならない.それがスクリーンショットという概念の塊に「物性」を与えるプリントという技術であり,それをまとめた「写真集」というメディアなのである.

memo509
Yeah, I think this massive flow of images also reveals how limited images are. Images are always in the present tense. I read this really funny thing that models have to be really thin because they have to fit into two dimensions. And I think that’s something really funny about images. They’re really thin objects. They’re not objects, they’re so thin that they’re not even objects. I’m not very optimistic about it or I don’t have a lot of faith in images, in a way.

Original Page: http://www.aqnb.com/2013/05/31/an-interview-with-jaakko-pallasvuo/

私はこのイメージの圧倒的な流れは限定されたイメージがどんなものかを明らかにしてくれると思う.イメージは常に現在形である.二次元に適応しなければならないためにモデルが本当に薄くならないといけないというとてもおかしなことを読んだ.そして,私はこれがイメージについての本当におかしなことだと思う.彼ら・彼女らは本当に薄いオブジェクトである.彼ら・彼女らはオブジェクではない,彼ら・彼女らは薄すぎてオブジェクトですらない.私はこのことについてあまり楽観的ではないし,ある意味ではイメージをそれほど信頼していない.

memo510
Combination Game is an allegory toward photographic activity, or rather all technical image activity, whose initiative is to carry out its program and generate all manners of possible and improbable combinations, including every composition of objects down to the mosaic arrangement of the pixels themselves.

Original Page: http://www.lavalette.com/a-conversation-with-joshua-citarella/

《Combination Game》は写真活動に対するひとつのアレゴリーであり,もしくは,むしろすべての技術的イメージに関する活動に対してのアレゴリーであり,それらのイニシアティブは,オブジェクトのすべてのコンポジションをピクセル自体のモザイクに配置していくことを含んだ,そのプログラムを実行することであり,可能もしくは不可能な組み合わせのすべての方法を生成することにある.

memo511
“DISown – Not For Everyone,” is an art exhibition posing as a retail store. Or maybe it’s the other way around. As Karl Lagerfeld for H&M is a diffusion line for fashion, DISown is a diffusion line for art. Set as an examination of taste and consumerism, DISown presents a new model for cultural critique. Presenting products from over 30 world-renowned artists including Ryan Trecartin, Jon Rafman, Bjarne Melgaard, Amalia Ulman, Telfar and Hood By Air (HBA), DISown will be featured in a retail installation by artist Lizzie Fitch. Art collective DIS and curator Agatha Wara present the month long exhibition, starting March 6th at Red Bull Studio New York.

http://www.redbullstudios.com/newyork/events/disown

DISown−Not For Everyone(万人向けではない)は小売り店を模したアートの展覧会である.もしくは,その逆かもしれない.ファッションでH&Mのためにカール・ラガーフェルドがディフュージョンラインをつくったように,DISownはアートのためのディフュージョンラインである.趣向と消費至上主義に関して,DISownは文化的批評のあたらしいモデルをしていく.Ryan Trecartin, Jon Rafman, Bjarne Melgaard, Amalia Ulman, Telfar and Hood By Air (HBA)を含む30の世界的アーティストの商品を扱いながら,DISownはLizzie Fitchによる小売り店のようなインステーションを行うだろう.アートコレクティブDISとキュレイターのAgatha Waraは3月6日からRed Bullのニューヨークスタジを1ヶ月に及ぶ長い展覧会を行う.

memo512
Every single image can be an object, and vice versa. And every image and every object can be part of a succession of different images and objects thereafter. I think that notion of the object was probably the primary motivating factor that I was thinking about while I was trying to frame the Image Objects for myself. When you have an object, even a mass-produced object, it doesn’t really have a fixity anymore. You can take an image of it and do something else with it, you can take an object and do something else with it…You can perform a bunch of different DIY operations on either: scan it, alter it, make it your own. Acknowledging that lack of fixity is very interesting, and important, to me, and to the work I create in turn.

Artie Vierkant
Photography Stef Mitchell Interview Thor Shannon, NYU
http://artievierkant.com/pdfs/OutOfOrder_Vierkant.pdf

すべてのイメージはオブジェクトであり,その逆もある.そしてそれ以降,すべてのイメージとオブジェクトは異なったイメージとオブジェクトの遷移の一部となれる.私が自分にとってのイメージオブジェクトの枠組みをつくろうとしているあいだ,オブジェクトに関する考えは最も重要なやる気を起こさせる要素であった.あなたがひとつのオブジェクトを持つとき,それが大量生産されたオブジェクトであっても,それはもはや不変のものではない.あなたはそれのイメージを撮影できるし,他のこともでき,オブジェクトを持っていくことも,それで何かすることもできる.また,それをスキャンして,別のものにして,あなただけのものにするといった日曜大工的なこともできる.不変であることの欠如を認めることはとても興味深く,重要なことであって,今度や私がそのように作品をつくる.

memo513
インターネットヤミ市に似たような位置にするのはDIS MagagineがやっているDISOWNかもしれない.DIS Magagineエンターテイメントの文脈でアート的表現をしている「ハイ・エンターテイメント」の領域で活動しているといえるだろう.エンターテイメントとアートとのハイブリッド感がDISにこれまでにない質感を生み出している.その質感を「マーケット」へと形態変化させたのが,DISOWNだろう.DISOWNを象徴する「NOT FOR EVERYONE」Tシャツが示しているように,そこで売られているものは決して万人向けではない.そこには「インターネット・オンリー」という感じがある.実際,ネットを中心にして活躍しているアーティストが多く出品している.アート作品であると同時に,それを商品としている.このあたりはそこに売られているものの多くを「商品」と位置づけるヤミ位置と異なるところかもしれない.しかし,ヤミ市でも谷口暁彦のように「作品」としてブツを売っている人もいるので,一概に言うことはできないが,全体の雰囲気として「商品」という感じが強い.

DISWONで売られているものはインターネットの「コラージュ」感が強いものが多い感じがする.このあたりはひとつひとつの作品の説明を読んでいかないとならない.そして,40ドル〜3500ドルの価格範囲で一番多いのが200ドル前後の値段設定がヤミ市に比べて高いといえる.このあたりにも「作品」感が漂っているのかもしれない.そして,DISOWNはもともとRed Bullの企画のなかでアートコレクティブDISとキュレイターのAgatha Waraが行った小売り店の模した展示から始まっていることも指摘して置かなければならない.アートの作品ということを念頭に置きながら,そこにネット的感覚でコラージュされた無用の日用品や,作品そのものを布にプリントしたものがDISOWNの商品の特徴だと考えられる.ここで注目したいのは「布」という素材である.プリントアウトして,ネット的感覚を「具体物」に落としこむことができる布.布のドレープ,襞の感じが,なぜかネット的感覚を示しているように思えてならないが,このあたりはもう少し考察が必要であろう.

DISOWNとの比較のなかでインターネットヤミ市を捉えてみると,ヤミ市も「ハイ・エンターテイメント」の領域に入るものだと考えることができる.「NOT FOR EVERYONE」というところも似ている.では,違いはなんだろうか.先にも指摘した「商品」と「作品」というちがいが一番大きかもしれないが,ここははっきりとしない曖昧なものでしかない.はっきりとした違いは,ヤミ市が「リアル」でしか買えない残念なECであることだろう.DISOWNもはじめはリアル展示=小売りであったが,今ではネットで買えるようになっている.ここは明確なちがいである.お互いのマーケットが示している質感は似ているところはあるが,一方はリアルであり続け,もう一方はネットでも展開していく.このちがいはとても大きい.「ハイ・インターネット」におけるリアルとインターネットということを次に考えていく必要がある.

memo514
「#BCTION #10F」で3枚の画像の重なり方と透過の仕方がシャッフルされる.レイヤーを自由に動かす.10階にあるインターネットは,5階にもあるし,8階にもあるし,3階にもある.リアルに行くと階段を登って,1階,2階,3階といく.3階から5階へは階段ではいけない.でも,エレベーターならいける.機械と電子ではできるけど,身体ひとつではできない.リアル会場でエレベーターを使わなったので実感がないが,エレベーターで3階,7階,2階といったようにバラバラの階で見たら印象は変わるのだろうか.あるいは変わらないのだろうか.

3枚のシャッフルも最終的な「密着」して,ひとつの画像になる感じだから,3階,6階,9階というは別に問題になっていないのかもしれない.最後はひとつの画像になってしまうけれど,やはりそこには3つの画像が重なっている.その3枚の重なりに隙間を見るかどうか.エレベーターでは7階,1階,4階と行けると書いたけれど,7階から1階にいくには,やはり6階分の移動時間がかかるので,1階から4階にいくよりも長くエレベーターに乗っていることになるから,その時間を考えると,シャッフルとは言い難い.時間を無視すれば,階段だって4階,9階,3階とシャッフルで作品を見られることになるが,リアルではどうしたって時間は無視できない.時間は無視できないかもしれないけれど,7階,6階,9階と見た印象,9階,3階,5階と見た印象ではちがう.いや,そもそも時間があるので,3つの階の印象を重ねることができない.「#BCTION #10F」は印象が重なる.

「#BCTION」のハッシュタグを見ていくと,どこかの階で撮影した写真のなかに「#BCTION #10F」が入ることになって,階の重なり,画像の重なりへの意識がおかしな感じになる.階が混ざらないことで時間と空間が固定している画像と,「#BCTION #10F」でそれらが流動的になった画像.「#BCTION #10F」では時間も空間も「BCTION 」から遠く離れた画像も入り込んでいる.それが「#BCTION #10F」というひとつの流れのなかにおさまる.それをスクロールしていくことは固定した時間・空間と流動化した時間・空間を次々に体験していくことになる.この感じが今のリアルなのかなと思いつつ,画像の流れのリアルなのかなと思いつつ.

memo515
In my work I put to the test the paradoxes of a material world bathing at the source of digital intangibility: relationships and value in networked communities; perception of the self and expectation, performance anxiety in condition of overexposure to information; space and time in over-excited lifestyles into an accelerated culture; reality as mediated through the screen; arrangement and re-interpretation of pairs of opposites such as “presence/absence”, “real/virtual”, “actual/possible”, in form of intertwined concepts; language in the age of digital image; hearing and sound, relations between harmony and noise in Western civilization; strata of hybridization between substance and data; abrupt of the immaterial into a tangible environment; the quasi-post-human condition split among the contradiction of immaterial labour vs. physical needs, everyday demands vs. the universal texture, sexual desire vs. pristine dematerialization.

http://www.spcnvdr.org/statement/

私の作品では,触れることができはないデジタルというソースのなかにある物質的世界というパラドックスをテストしている.それはネットーワークのコミュニティのなかでの関係性と価値であり,自己と予期の近くであり,情報に過度晒されている状態のなかでの不安のパフォーマンスであり,加速した文化へと過度に生活が突入しているなかでの空間と時間であり,スクリーンを介したリアリティであり,「現前/不在」「リアル/バーチャル」「実在/可能」という二項対立の配列と再解釈であり,概念を組み合わせていくことであり,デジタル画像時代の言語であり,聞くことと音であり,西洋の文明化のなかでのハーモニーとノイズの関係であり,物質とデータのハイブリッドの層であり,不意に非物質を触れることができる環境に置くことであり,非物質的労働と物理的必要性,日常の要求と普遍的な質感,性的欲望と穢れ無き脱物質化の闘争という矛盾のなかでの擬似的なポスト・ヒューマン的状態の分裂である.

memo516
The layers can also have other functions. To again quote Photoshop CS4’s online Help, “Sometimes layers don’t contain any apparent content. For example, an adjustment layer holds color or tonal adjustments that affect the layers below it. Rather than edit image pixels directly, you can edit an adjustment layer and leave the underlying pixels unchanged.” In other words, the layers may contain editing operations that can be turned on and off, and re-arranged in any order. An image is thus redefined as a provisional composite of both content elements and various modification operations that are conceptually separate from these elements. (loc 2562 of 7109)

Photoshop also provides special adjustment layers that do not contain any pixel content; (loc 3755 of 7109)

Software Takes Command, Lev Manovich

レイヤーは他の機能も持っている.再び,Photoshop CS4のオンラインヘルプを見てみよう「レイヤーははっきりとしたコンテンツを何も含んでいないときがあります.例えば,調整レイヤーは下にある複数のレイヤーに影響をあてる色や色調機能をもちます.画像のピクセルを直接編集するというよりは,あなたは調整レイヤーを編集ことになり,その下のピクセルは変更されません.」言い換えれば,レイヤーはオンオフできる編集情報を持つことになり,それはどんな階層にでも再調整が可能です.このようにイメージはコンテンツ要素とそこから概念的に分離したいくつかの変更操作からなる仮の構成物として再定義できるのです. (loc 2562 of 7109)

Photoshopはピクセル内容をもたない特別な調整レイヤーを提供もする.(loc 3755 of 7109)

memo517
JC: I think that the criticality of this work hinges on its professional knowledge of digital production and that the tools evidenced here are already present in nearly all commercial images being distributed throughout our culture. I’m definitely an advocate for revising photographic vocabulary; I think it’s important that techniques such as Layer Masking and Frequency Separation are introduced into the general conversation. I’m also ready to do away with debasing words like “Photoshopped,” which simplifies a complex process by describing it as a single tool. Jargon like this is used in an overarching way to discredit or suppress new modes of production. As a result, we find ourselves in a place where Photoshop is present in nearly all art and commercial images but is largely not discussed. Even a relatively traditional photographic practice, where the computer only becomes involved when the image is outputted as a digital C-type or inkjet print, still involves a process of resampling and interpolation. The difference between resampling with Bicubic Smoother or Bicubic Sharper has real and quantifiable effects in the final image/print and these choices now need to be considered when we try to discuss things like the politics of representation. Different types of resampling techniques will describe nuanced surfaces, such as the gradient of a sunset, clouds, or skin, in noticeably different ways.

A Conversation with Joshua Citarella
http://www.lavalette.com/a-conversation-with-joshua-citarella/

JC: 私はこの作品の批評性はデジタルによる生産についてのプロの知識と結びついていて,ここで証明されているツールはすでに私たちの文化で流通しているほとんどすべての商業的イメージに使われていると考えています.私は写真の語彙を変更していくことに強く擁護します.レイヤーマスクやFrequency Separationのような技術を普段の会話で導入していくことが重要です.私はすでに複雑なプロセスを1つの道具として記述して単純化してしてしまう「フォトショップを使った」のような価値を落とす言葉を使うのをやめています.このような隠語はあたらしい生産様式の信用を落とし,抑制していくために非常によく使われていました.結果として,Photoshopがほとんどすべてのアートと商業的イメージに使われているにも関わらず,そのことについて議論しないままになっています.画像をデジタルCプリントやインクジェットプリントするときのみコンピュータを使うような比較的伝統的な写真の実践でさえも,リサンプリングと補完といったプロセスが含まれています.「バイキュービック法−滑らかに」や「バイキュービック法−シャープ」といったリサンプリングにちがいは最終的なイメージとプリントに目に見える効果のちがいがあり,私たちは表象の政治学のようなことを議論するとき,これらのリサンプリングの方法のちがいは考える必要があります.リサンプリング方法のタイプのちがいは,夕日,雲や肌のような表面に明確に異なる方法で微妙なちがいをつくっていきます.


memo518
「調整レイヤー」という機能とそこから派生しうるメタファーがおもしろいと考えたのだけれど,これはコンピュータ独自のことではなくて,メガネも調整レイヤーのはたらきをしているかなと思った.もともと世界そのものには何も手を加えていないけれど,見え方は大きく変えてくれる.レンズフィルターやレンズそのものも調整レイヤーのような気がしてきた.そうすると,光学的な世界の語彙のひとつとして調整レイヤーがあるのかなという気もするし,メガネやレンズにはないものも調整レイヤーはもっているとも思う.

調整レイヤー上で作業していて,うっかりコピースタンプツールや選択ツールをつかってコピーなどしたときに「そこには情報がない」と警告をうけたときの不思議さはどこにあるのかなと思う.あると思っていたものがない.見えているけれど,そこには何もない.操作できる情報がない.でも,そのレイヤーは確実に存在して,それ以下のレイヤーに大きく影響を与えている.とても理念的な存在,理論的な存在としての調整レイヤー.だからこそ,Photoshopを飛び出して「理論的」に使えるのではないのかなと思うけど,そこでさっきの光学機器とのちがいを考えないといけない.レンズフィルターとのちがいは,「あとで」使えるということかな.じゃ,メガネとのちがいは,固定されていないというところかな.

memo519
Image fundamentalists see the rights to property as being granted at birth through cultural or geographic specificity, while for neoliberals, art’s status as property is ensured through a work’s ability to be sold, traded, or gifted like any other owned thing in a market economy. The online audience’s attitude toward what it sees is deeply predicated on the neoliberal vision of cultural migration, but that audience’s willingness to strip images of their status as property is so aggressive as to deserve a term of its own: image anarchism. Whereas image fundamentalists and image neoliberals disagree over how art becomes property, image anarchists behave as though intellectual property is not property at all. While the image neoliberal still believes in the owner as the steward of globally migratory artworks, the image anarchist reflects a generational indifference toward intellectual property, regarding it as a bureaucratically regulated construct. This indifference stems from file sharing and extends to de-authored, decontextualized Tumblr posts. Image anarchism is the path that leads art to exist outside the traditional context of art.

http://www.artpapers.org/feature_articles/feature1_2013_0708.htm

イメージ原理主義者は文化的・地理的な特別性を通して生じた場所にそれを資産にする権利をもつとするのに対して,ネオリベラリズムは,売買することを通してその芸術的価値を認め,マーケットのなかで他の所有物のように贈られる.オンラインのオーディエンスの態度は文化的移動についてはかならいネオリベラリズムの見方だと言えるが,オーディエンスはイメージがもつ資産として身分を喜んで剥ぎとっていき,その激しさは「イメージ・アナーキズム」という単語に値するものである.イメージ原理主義者とイメージ・リベラリズムがアートが資産となる方法に関して意見の食い違いあるのに対して,イメージ・アナーキズムは知的財産がもはや財産ではないという態度をとる.イメージ・リベラリズムが世界中を行き来するアート作品の管財人として所有者であることをまだ信じているのに対して,イメージ・アナーキズムは知的財産を意識しない世代であり,それを官僚的に決められた規約だと見なしている.この無関心さはファイルシェアリングや,作者が文脈が抜け落ちるTumblrの投稿の延長から生じるもので,イメージ・アナーキズムはアートの伝統的な文脈の外へとアートを連れ出す経路となっている.

memo520
Art after social media is paradoxically the rejection and reflection of the market. In practice and theory these two seemingly divergent developments are reconcilable because each contains parts of the other. For all that is communal about a decentralized network of artistic peers sharing and re-creating each other’s work, the dispersion of this work takes the shape of free market populism, of the free exchange of information sorting itself out among those willing to produce and consume it. Without a bureaucratic establishment imbuing art with value, art is free to be valued in any way possible. This setup is not unlike that of the secondary art auction market, where art critics’ opinions of the works for sale mean little to nothing, and the bidding power of a room of collectors takes precedence.

ソーシャルメディアのあとのアートは,マーケットの拒絶と反映という矛盾した状況にある.実践と理論において,これらのふたつは見かけ上はわかれていっているようにみえるが,実のところは調和しうるものとなっている.それはそれぞれが互いを含んでいるからである.アーティスト同士での共有という脱中心的なネットワークとお互いの作品の再制作による共同体にとって,作品の拡散はフリーマーケットのポピュリズムが形成されるともに,作品の制作と消費をしている仲間内で情報をタダで交換していくことが自然と解決していく.アートに価値をつけていく官僚的な組織がないまま,アートはあらゆる方法で可能な査定から自由になる.この態度はセカンダリーアートオークションマーケットと似ていないわけではない.そこでは美術批評家の作品への意見は売買には全く影響せずに,コレクターの入札が何よりも優先される.

In contrast, one can look at the highly individualized pursuit of brand recognition among artists employing social media as a constant communal effort. Unlike the reality television star, young artists employing social media are not connected to a behemoth like Viacom or NBC and so must generate their popularity at a grassroots level. Brands are more often than not defined in relation to each other and imply the ongoing support of a devoted audience that is, as described in this case, oversaturated with social interaction or the presentation of artworks. There is no successful artist brand built on an island; each requires a level of collaboration with viewers willing to share, follow, friend, and comment on the object of their interest. In other words what is communal about the commons is run by an every-man-for-himself free market ideology, and what is individual about personal branding is bolstered by a need for community. It’s very fitting that the Silicon Valley–based forefathers of social media, namely the Californian Ideology technologists who juggled utopianism and capitalism in each hand, are the ones responsible for a generation of media-obsessed artists now doing the very same thing.

反対に,コンスタントに共同社会でのアピールの場としてソーシャルメディアを活用しているアーティストのあいだでのブランド認識は高度に個人化した追求だとみなせる.リアリティテレビのスターとは異なり,ソーシャルメディアを使っている若いアーティストはヴィアコムやNBCのような巨大な組織とつながっているわけではないので,自分の人気を草の根レベルでつくっていかなければならない.ブランドはお互いの関係のなかで決まるものではなく,この場合は,過度な作品の現れやソーシャルなやりとりしてくれる熱心なオーディエンスの継続的なサポートが必ず必要となる.アーティストのブランドは孤島では成立しない.観客と作品を共有し,フォローし,友達になり,彼ら・彼女らの興味についてのオブジェクへのコメントをするようなコラボレーションのレベルが求められている.言い換えれば,共有地ついての共同社会とは,ひとりひとりが自分自身のためのフリーマケットのイデオロギーによって成立する.個人的なブランディングについて個別的なことは,コミュニティのための必要性から支持されている.それはソーシャルメディアの祖先としてのシリコンバレー,つまりは,空想的な理想主義と資本主義とを両手でジャグリングしているカリフォルニア・イデオロギーをもった技術者であり,メディアに取りつかれたアーティストの世代は同じことをしているのである.

http://www.artpapers.org/feature_articles/feature1_2013_0708.htm

memo521
Both BYOBs and Speed Shows spread like memes, with dozens of events organised all around the world. Both the formats display similar features: they are cheap, fast and easy to organise; they are anarchistic and ‘joyful’ — like a rave party; they are meant to gather communities born online and to facilitate dialogue and exchange between their members; they leave the art where it is — online, or on the artst’s desktop — but at the same time manifest themselves in the physical space. They bring out of the internet some of the things that still make the online environment so exciting for artists — the sense of community, the DIY approach, the idea of operating out of existing social and instituional structures, and in a public space. (p.32)

In Between, Domenico Quaranta in Art and the Internet

BYOBとSpeed Showは,何十ものイベントが世界中でオーガナイズされてミームように広がっていった.これらふたつのフォーマットは同じような特徴を示している.それは安く,早く,簡単にオーガナイズできて,レイブパーティーのようなアナーキな感じで楽しい感じがある.この2つのイベントはオンラインで生まれたコミュニティを集めようとするものであり,メンバーのあいだでの対話や意見交換を促すものである.そして.それらはアートをオンラインやアーティストのデスクトップに残しているが,同時にそれら自身がフィジカルな空間に現われている.それらはアーティストにとってとても興奮するオンラインの環境をつくるいくつかのモノとインターネットを打ち解けさせる.それは,コミュニティの感覚であり,DIY的アプローチであり,既存の社会的・制度的構造から外れたところでの機能するアイデアであり,そして,それらがパブリックな場であることである.

memo522
≋wave≋ internet image browsingについて書こうとして,なかなか書けないでいる.お酒の力を借りないと書けないのかもしれないし,頭のほとんどがインターネットヤミ市を考えているから書けないのかもしれない.Bctionのエキソニモの作品#bction #10F も≋wave≋ internet image browsingともに書きたいだけれど書けないまま,こちらも会期が終わってしまいそう.

#bction #10F では「レイヤー」の移動ということと,落書きはこちらでやりましょうというツイートが気になっている.#bction #10F はいろいろな階を重ねてしまうし,#bction 以外の画像も重なってくるから,単にビルの階層だけではないものが重なりまくっている.そのアナーキーさがいい感じなんだけれど,さらに,いかに重ねまくっても,リアルの展示には何も影響がないというのはちょっと違って,リアルの展示は破壊されない.まさに非破壊的編集.ヤンツーさんの作品に落書きされてしまったように,リアルでの落書きは破壊的行為なわけだけれども,#bction #10F では非破壊的落書きがやられている.これはアナーキーでかつ平和な感じがする.

#bction #10F で画像を重ねてつくった画像は,どの階にも属していながら,どこにも属さない10Fにある.10Fがあるということ.リアルの展示を見ているときも,見ていないときも10Fは存在する.#bction #10F があるという感じは,一度#bction #10F をやると意識のどこかにある感じになる.リアルとネットととが一度同期すると,そこ以降の意識のありかたが変わる.一度変った意識は,それ自体がひとつのレイヤーになって#bction #10F の見方も変えていくし,bctionの見方も変えていく.どんな風に変えていくのかはわからないけれど,とにかく変えていく.私たちの意識は単体だけはたらいているのではなく,環境とともにあるわけだし,特に今はコンピュータとの関係で変わっていくだろう.iPhoneをもって,Instagramに画像を上げることを意識しながら,bctionを見ていると,私たちの意識は,bction, Instagram, iPhone のすべてから影響を受ける.そして,私たちの意識もbction, Instagram, iPhone に影響をあたえる.これらの意識の総体に#bction #10Fが同期していく.そうすると,これらすべての意識が変わっていく.bction, Instagram, iPhone(もしくはAndroid), #bction #10Fがその位置を入れ替えながら,見ている人の意識に作用していく.そして,見ている人の意識もこれらのレイヤーに入り込んで,上下に移動していく.そして,このレイヤーの移動と意識の変化はすべて非破壊的に行なわれる.

bction, Instagram, iPhone(もしくはAndroid), #bction #10F のレイヤーは,それぞれ少しづつ隙間をつくりながら重なっているイメージ.#bction #10Fがつくる画像は隙間なく密着している感じがあるが,シャフルによって色が変わっていくさまを見ているときは,重なっている3つの画像のあいだには少し隙間があるような感じする.決定すると,その隙間はそれが持っていた情報を保持したまま,密着してひとつの画像=レイヤーような感じがする.psdからjpegになるとすべてのレイヤー情報がなくなってしまうが,レイヤー間の情報は活かされて見えている画像にはだいたい同じに見えるという感じであろうか.

≋wave≋ internet image browsingはこの画像が「密着」した感じがした.「密着」という言葉は,この展示をキュレーションした上妻さんが言っていたので,それを借りてきている.「密着」という言葉から≋wave≋ internet image browsingを考えると,会場の空間に掛けられた「布」が展示を読み解く鍵のように思えてくる.いや,これは後知恵で,上妻さん自身が今回の展示では「布」は必ず入れたかったと言っていた.展示に必ず入れたかった「布」と「密着」という言葉を合わせて考えてみると,この展示と上妻さんの思考が少しわかってくるかもしれない.

布にはネットっぽい画像がプリントされていた.プリントというのは画像と布とが密着した状態になっているから,布がシワシワになっていると画像もシワシワになっている.画像がオブジェクトになっている.上妻さんもそんなことを言っていたような気がする.モノとしての布を考えるとそこには「表と裏」がある.裏から布を見ると表のプリントが透けて見える.刺繍だと裏は表とちがう,プリントでも表と裏は完全には一致しないが,裏からは表のプリントが透けて見える.それは表と裏が密着しているからだろうか.「表と裏が密着している」とは考えない.布には表があり,裏がある.モノには表があり,裏がある.Photoshopのレイヤーには表も裏もない.しかし,レイヤーを意識したあとに布を考えると,そこには表レイヤーと裏レイヤーという2つのレイヤーが,いやそれは表でも裏でもなく単に2つのレイヤーが密着しているように思える.それは「両面」と呼ばれる.「両面」という言葉が,≋wave≋ internet image browsingに対して何か意味をもつのかはわからないけれど,この言葉は≋wave≋ internet image browsingと#bction #10Fとのあいだのちがいのように思える.

レイヤーを裏返すことはできないが(もしかしたらできるのかもしれないけど,私は裏返したことがない),布は裏返すことができる.#bction #10Fを裏返すことはできなくて,≋wave≋ internet image browsingは裏返すことができるのかもしれない.ネットとリアルという2つの世界は,そのあいだに隙間があるときは,その関係を裏返すことはできない.単に2つの世界の位置関係がかわるだけで,それはくるくるといつまでも回り続けることができそうな感じがする.ネットとリアルとが密着すると,それは裏返すことができる.裏返すのも「くるくる回る」のと同じような感じがするが,少しちがう感じがする.でも,その「ちがい」が何なのか,よくわからない.

memo523
インターネットヤミ市の「ヤミ」は「ブラックマーケット」と「病む」とふたつの意味をもっている.違法のものは売れない明るいブラックマーケットしてのヤミ市.フェティシュで中毒性が高くてどんどん病んでいく,ネットにずぶずぶと入り込んでいくような感覚を示すヤミ市.インターネットに入り込んでいくような感覚なのに,インターネットヤミ市はリアルで行われていて,現地に行かなければ買えない残念なECになっている.もちろん,ここでの「残念」はポジティブな意味である.さやわかさんの「10年代文化論」で示されたポジティブな意味での「残念」感をヤミ市は共有している.

その「残念」を示すために,IWPDが選択したのは「turn off, log-out, and drop in on the real world for a change」であった.もともと設定がゆるくて自由であったインターネットが,近頃,窮屈になってきたことから,そこから,コンピュータの電源を切って,ログアウトして,リアルに飛び降りようという感じだろうか.ログインをして自由の世界に行っていたのは全く別のことを行う.そこには,ログオフしてもインターネットの感覚,インターネットっぽさはもう僕たちの身体に入り込んでいるという確信があったのだろう.それは単にインターネットは自由というだけよりも,インターネットを信頼しているし,僕たち自身の感覚も信頼している感じがする.インターネットと身体を信頼することで,お金まみれのカリフォルニア・イデオロギーの「自由」の欺瞞を乗り越えてしまう.

インターネットヤミ市はインターネットのゆるい設定に,自身の感覚と身体をインストールして,インターネットとともにあるリアルを書き換えてしまう.そして,ヤミ市はインターネット自体を二次創作していく.
つまり,はちゅねミクやネギなどの「残念」な味付けは,このキャラクターは「何でもあり」なのだということを表す記号になっているわけだ.初音ミクはクールなイメージで使ってもいいし,バカバカしいことに使ってもいい.「残念」な要素はそれ自体が持つコミカルな意味以上に,初音ミクが持つ自由な象徴としてあるのだ.(p.71)

さやわかさんが初音ミクの設定のゆるさが自由の象徴として,その後の多種多様な表現に結びついたと指摘するように,IDPWはインターネットに自らあらたな設定を書き込んでいく.
それはインターネットの「余白」を意識していくことだといえる.最初は設定がほとんどされていなかったインターネットが,GoogleやFacebook,Twitterなどによって設定されていっていくなかで,それでも残っている「余白」を見つけていくこと.そのひとつの手段が,インターネットの感覚を信頼して,リアルな場にダウンロードして,インストールしてしまうことだった.ヤミ市を海外に説明する際に使われている「蚤の市」は,古いものをリサイクルする場であるが,ヤミ市はインターネットそのものをリアルの場でリサイクルして,あたらしい意味づけを行おうとしている.

インターネットヤミ市はインターネットの余白を見つけて,それをリサイクル,二次創作して,あたらしい意味を与えていく.それはインターネットを使ってリアルの意味を反覆させるものでもないし,その逆でもない.海外のネットアートがネットとインターネットの関係性を反覆させる敵対的なものと捉えているのとは異なる感覚で,インターネットヤミ市はネットとリアルとに接している.それは英語圏のネットアーティストと異なりヤミ市は,アートマーケットとそれを含むアートワールドのような反覆させるべき対象を持たないからであろう.それゆえにネットとリアルの「余白」を強く意識して,その「余白」を押し広げる方法論になっているのだろう.
今日の用語法で「芸術」と呼ばれている作品を,「純粋芸術」(Pure Art)とよびかえることとし,この純粋芸術とくらべると俗悪なもの,ニセモノ芸術と考えられている作品を「大衆芸術」(Popular Art)と呼ぶこととし,両者よりもさらに広大な領域で芸術と生活との境界線にあたる作品を「限界芸術」(Marginal Art)と呼ぶことにして見よう.(p.14)
鶴見俊輔は「純粋芸術」「大衆芸術」「限界芸術」と芸術を分けたが,ここで「限界」に当てられている「marginai」という単語は「余白」という意味ももつ.ヤミ市はネットとリアルの「余白」を押し広げつつ,「純粋芸術」とも「大衆芸術」とも異なる「限界芸術」となっているのではないだろうか.

memo524
If this allows him to act in the galley space and produce marketable itimes, at the same time the “net.artist” Parker Ito treats the gallery space in a subversive way. He outsources production at any level of the creative process. He embraces plagiarism as his main creative strategy. He uses the exhibition space as a means to generate online relationships, in a way that turns it from the end point into the starting point of the creative process. He works at the pace of the internet (“and when I say five years I mean five minutes”). Finally, he playfully employs subversive affirmation — a strategy many net artists are familiar with — to bring to its extremes the romantic idea of the artist genius that puts creativity in everything he does and turns matter and bits into gold by just touching them. In fact he still believed in what MTAA, and most early net artists with them, believed in the late-1990s — that the internet is space, that net.art is what happens in between people and computers and that it has the subversive potential to turn the artworld and its values upside down. What changed, since then, is our understanding of this space: which turned out to be not a virtual, abstract ‘cyberspace’, but an augmented version of the old, real world. So, you can now make paintings for the White Cube and be, nevertheless, a net artist. (p.25)

In Between, Domenico Quaranta in Art and Internet

もし「すべてはインターネットなのだから」という考えが,彼のギャラリーでの振る舞いや市場で売買されるようなアイテムをつくらせているのならば,同時に「ネットアーティスト」としてのパーカー・イトーは転覆させるような方法でギャラリー空間を扱っていることになる.彼は創造的プロセスのいかなるレベルであっても制作を外注しており,剽窃は彼の創造的手法の中心にある.イトーはオンラインとの関係をつくるための手段として展示スペースを使っていて,それはある意味で創造的プロセスの最終地点がスタート地点になっていることになる.彼はインターネットのペースで動いている(僕が5年といったとき,それは5分って意味だ).最終的に彼は,自らが行う全てにおいて創造性に関するアーティストの才能にかんするロマンティクな考えを極端に推し進めることと少し触れるだけでモノやビットをお金に換えてしまうといった多くのネットアーティストに馴染み深い反体制的な確言を冗談半分に使っている.実際,彼はまだMTAAや初期のほとんどのネットアーティストがが1990年後半に信じいて,インターネットは空間であって,ネットアートは人とコンピュータのあいだで生じるものであり,それはアートワールドを転覆させるような反体制的な力を持っていることを信じている.1990年後半以降,ネットについてを私たちの理解は何が変わっただろうか.インターネットはヴァーチャルで,抽象的な「サイバースペース」ではなく,古くて,リアルな世界を拡張したバージョンであったということであった.だから,ホワイトキューブのために絵を描いたとしても,ネットアーティストになれるのである.

memo525
Aram Bartholl is an artist who uses thought-provoking interventions to shake technology out of its sleep. After all, even things that have a function and perform it well can be oblivious to other underlying purpose. The word subversive is often tossed around when artists use societal intervention as a tactic but subversion normally seems to have an antagonistic or something always loses when a subversion takes place. Aram Bartholl’s work seems to ask: What if, through subversion, everyone gained an opportunity? (p.72)

In Us We Trust, Brad Troemel in The speed book, Aram Barthholl

アラム・バートルはテクノロジーを揺り動かしその眠りから覚ます示唆的な介入をしていくアーティストである.なぜなら,機能を持ち,その機能を果たしているモノでさえ,隠された異なる目的に関しては無頓着な状態によくあるのだから.アーティストが戦略として社会的加介入を用いると「破壊しようとする」という言葉がよく投げかけられる.「破壊・打破」はたいてい敵対的なものをもつものであり,「破壊・打破」が起こるときはいつも何かが失われるのだが,アラム・バートルの作品は次のように問いかけてくる:「破壊・打破」によって,みんながチャンスを得ることがあるだろうか,と.

memo526
There are these classical pairs, like online/offline, digital/analog, real/virtual, and we mostly agree on the meaning of them. Everything you do is real, whether it is using Facebook, watching TV all day, or hiking in the mountains. All that you experience forms you reality. It is all us and our reality, but we apply different social rule sets here on the street and online in Chatroulette. There is a great mix of different levels of anonymity and pure nakedness going on. Real/virtual sounds very separated like black and white, but it isn’t. These worlds are very overlapped. They intrude on each other and cannot be separated that easily anymore. (p.203)
Sizing Up Digital Spaces

An Interview with Aram Bartholl, Interview by Josephine Bosma
in The speed book, Aram Bartholl

オンライン/オフライン,デジタル・アナログ,リアル/ヴァーチャルといったような古典的な組み合わせがありますが,私はそれらの意図については大抵の部分は賛成です.ただ,フェイスブックを使うことや,一日中テレビを見ること,山にハイキングに行くといったあなたがしたり,しなかたったりしていることはすべてはリアルなのです.それはすべて私たちがしていることで,私たちのリアリティなのです.しかし,私たちはリアルのストリートとチャットルールレットでは異なる社会的ルールを適応させています.そこでは匿名性や純粋に剥きだしな状態といった異なるレベルがミックスされて進行しています.リアル/ヴァーチャルは黒と白のように明確に分かれているような感じですが,そうではないのです.これらの世界は大部分が重なりあっています.ふたつの世界は互いに貫入しあっていて,もはや簡単に引き離すことはできません.

memo527
The show cleverly illustrates DIS’ ethos of wanting to disrupt existing hierarchies in the art world and to work outside of traditional art economies. In doing so, it also addresses issues about the financial sustainability of being an artist in New York. “There’s a lot of practical reasons to merge business with art,” co-curator and member of the DIS collective, Lauren Boyle, says. “You actually do need money to live. There’s nothing wrong with making something and selling it.”

この展示[DISown]は,既存のアートワールドのヒエラルキーを崩壊させようし,伝統的なアートの経済圏の外で活動しようとするDISの精神を巧みに表している.そうすることによって,ニューヨークのアーティスが経済的に持続していく論点を提示している.今回の展示の共同キュレイターでDIS collectiveのLauren Boyleは「アートをビジネスに結びつけるには実際的な理由が多くあります.生活していくためにお金が必要なのです.何かをつくって,それを売っていくことは何も悪いことではない」と述べている.

Although many artists recognize the need to explore new models of survival, much of the traditional art world still attempts to hold on to their rigid boundaries between art and commerce (excluding projects involving business from grants and public arts funding). But “this romantic view of art can’t interact with the realities,” Wara asserts.

多くのアーティストが生き残るためのあたらしいモデルを探す必要があることを認識しているが,伝統的なアートワールドの多くが未だにアートと商業活動(助成やパブリックアートによるビジネスを含んだプロジェクトは除く)とのあいだに強固な境界を設けている.しかし,「アートへのこのようなロマンティクな考えは現実と相互作用しない」と,Waraは断言する.

And as corporate ventures look more like art and and art shows start to look more like boutiques, the curators question exactly where this leaves the artist. “I think it’s about finding potential,” Wara says. “Finding out how we can negotiate differently, how we can make parameters for ourselves that give us new agency.” says Wara.

ベンチャー企業がよりアートらしくなり,アートの展示がよりブティックのようになっているなかで,キュレーターはアーティストにはどんな場所が残されているのかと問う.「可能性を秘めたものを見つけるときであって,私たちは今までとはちがう交渉術を見つけて,私たちにあたらしい媒介を与えてくれるようなパラメーターを自分たちでつくる方法を探求しないといけない」とWaraは言う.

DISOWN BLOWS AWAY THE BOUNDARIES BETWEEN ART AND COMMERCE by Gabby Bess 

http://www.papermag.com/2014/03/disown_art_show.php

memo528
And it is in this environment that both DIS and K-HOLE emerge and intervene, but rather than doing so in line with the hipster’s mainstreaming of connoisseurial counter-culture, both groups chart courses of connoisseurial resistance through the mainstream itself, reversing the trajectory of the hipster by fetishizing sameness rather than differentially elitist individualism. Whilst DIS does this by developing the distribution infrastructure for other artists to operate in the field of mass culture or through commercial processes, K-HOLE intervenes through writing.

ART & COMMERCE: Ecology Beyond Spectatorship by Christopher Kulendran Thomas

http://dismagazine.com/discussion/59883/art-commerce-ecology-beyond-spectatorship/

そして,この環境のなかでDISとK-HOLEは,目利きのカウンターカルチャーにおけるヒップスターの主流に沿うのではなく,その主流そのものを通して目利き的な反抗の見取り図をつくり,干渉していく.エリートの個人主義的なものとの差分ではなく,同じものに執着することによってヒップスターの軌道を反対にしていく.DISは別のマスカルチャーの分野や商業的プロセスを通しての流通のインフラをアーティストのためにつくることで干渉を行い,K-HOLEは書くことで干渉を行っている.

memo529
“High Entertainment,” I’ve taken to calling one sector of the emergent middle-ground. Drawing upon the better aspects of both worlds, High Entertainment will combine entertainment’s accessibility with art’s experimentalism and bent toward form-discovery. Here I hasten to emphasize that High Entertainment really is entertainment. It isn’t art, insofar as it doesn’t share visual art’s fixation on the complex issues surrounding representation, visual art’s obsession with articulated interplay between form and content, visual art’s propensity for criticality, or visual art’s narrow historicity. Anyone who expects to read High Entertainment according to the rules and codes maintained by the visual art system, as manifested either in its professional or academic wing, can expect to be disappointed. High Entertainment “fails” as art because it’s not trying to be art. High Entertainment is entertainment, and wants to be, but it is entertainment that shares something of art’s ambitions for the culture — of art’s ambitions for you.

HIGH ENTERTAINMENT by David Robbins  1. Introduction
http://www.high-entertainment.com/introduction/

「ハイ・エンターテイメント」と私が呼ぶものはあたらしく現れた中間地点[アートとメディアテクノロジーの主流の双方の文脈が不安定になったことから生じた]に存在するひとつのセクターである.アートメディアテクノロジーの世界の良い点を引き出しながら,ハイ・エンターテイメントはアートの実験性と形式を発見していく傾向とをエンターテイメントのアクセスのしやすさに結びつけていこうとしている.ここで私はすぐさま,ハイ・エンターテイメントは本当にエンターテイメントであることを強調したい.ハイ・エンターテイメントはアートではない.だから,表現の周囲の複雑な論点によって起こるヴィジュアルアートの固定化を共有しないし,形式と内容の相互作用を明らかにするようなアートの強迫観念もなく,批評性もなく,狭い歴史性もない.ハイ・エンターテイメンにプロやアカデミックから示されていたアートシステムのルールやコードを読み取ろうとする人はきっと失望するだろう.ハイ・エンターテイメントはアートとして「失敗」している.なぜなら,それはアートになろうとしていないからである.ハイ・エンターテイメントはエンターテイメントであり,エンターテイメントになりたいのである.しかし,それはカルチャーやあなたにアート的な目標を示す何かを共有しているエンターテイメントである.

memo530
インターネットヤミ市における「場所」の機能の再発見というのはとても面白い.リアルな場所がもつ拘束感によって意識の集中が起こる.それが独特の連帯感を生み出す.それは「場所」を依り代にして,インターネットという意識をダウンロードしていることになるのかもしれない.その独特の連帯感がヤミ市特有のルールをつくっていく.この発端がリアルの場所の喪失ではなくて,インターネットでの「場所感」の喪失というが,さらに話をねじれさせている.インターネットの登場でリアルの「場所感」の喪失ということは言われたかもしれないし,インターネットの場所論も書かれていたのが,あっという間にインターネットでの「場所」がなくなっていった.それはサイバースペースの喪失であって,そのサイバー的感覚の喪失でもあったのだろう.インターネットヤミ市はその喪失から,リアルに来ている.場所感がねじれにねじれた結果として,インターネットっぽい感覚が降臨・ダウンロードされた場所がつくられたといえる.

memo531
Why has the market become the omnipresent referent for contemporary artistic practices? First, it represents a collective form, a disordered, proliferating and endlessly renewed conglomeration that dose no depend on the command of a single author: a market is not designed, it is a unitary structure composed of multiple individual signs. Secondly, this form (in the case of the flea market) is the locus of a reorganization of past production. Finally, it embodies and makes material the flows and relationship that have tended toward disembodiment with the appearance of online shopping. (pp.28-29)

Postproduction, Nicolas Bourriaud

なぜ,マーケットが現代美術の実践においていつでもよく見る参照項になったのでしょうか.まずはじめに,マーケットは集合的な形態であり,ひとりの作者の指令に頼ることがない乱雑で,増殖していく,終わりなくリニューアルしていく複合体であること.そして,それはマーケットがデザインされたものではなく,複数の個別の署名によって構成されている統一的な構造である.第二に,(蚤の市の場合)この形態は過去の生産物の再組織化が起こる場所である.最後に,マーケットはオンラインショッピングの登場とともに非実体化しつつある流れや関係性を実体化し物質化する.

memo532
The ‘objects’ of Internet art are far from being conventional art objects. They are not only reproducible without degradation but are almost free to transmit (or rather, once the initial outlay has been made, the marginal cost of each transmission is close to zero). Cheaply reproducible artistic media have long existed, of course, but attempts at their wide dissemination have foundered on the cost of distribution. Generally, when the code of online work is left open to examination, the work is subject not only to copying but alteration. So artists borrow or 'steal’ from each other; Vuk Cosic talks of how he, Heath Bunting, Alexei Shulgin, Olia Lialina, and Jodi, in effect, had neighbouring studio, 'like Picasso and Braque in Paris in 1907’, so that each could see what the other was doing, respond to it, or collaborate. There have been attempts to make online work exclusive, to sell it or to tie it to a particular site and charge for access, but equally they have failed, not least because of politically motivated hacking. (pp.6-7)

The Aesthetic of Net. Art, Julian Stallabrass

インターネットアートの「オブジェクト」は伝統的なアートのオブジェクトは全く異なっている.それらは劣化なしに再生産することができるだけでなく,ほとんどタダで移動することができる(一度最初の費用を掛けてしまえば,移送ごとの些細なコストはほとんどゼロに近づく).安価で再生産できるアーティスティックなメディアは昔からあったのだが,それを広く拡散しようとすると,流通のためのコストを集める必要があった.概して,オンラインの作品のコードは吟味されるためにオープンになっているので,作品はコピーの対象になるだけでなく,修正も加えられる.だから,アーティストたちはお互いの作品を借りたり,「盗んだ」りしている.Vuk Cosicは彼がどのようにしてHeath Bunting, Alexei Shulgin, Olia Lialina, and Jodiと,1907年パリのピカソやブラックのようにスタジオを行き来していたかを話してくれた.そこでは各々が他の人がやっていることを見て,反応し,コレボレーションしていた.そこではもっぱらオンラインの作品がつくられ,それを売ろうとし,特定のサイトと結びつけ,アクセスを稼ごうとしたが,それらは等しく失敗した.その理由は,少なくとも政治的な動機のハッキングではない.

memo533
DIS Magazine is a post-Internet lifestyle publication about art, fashion and commerce. Creating images, text and video for an online platform, DIS seeks to expand creative economies, and depict a world in which there is no “alternative.” DIS involves a group of friends within and beyond the worlds of art, fashion, music, and technology.

What is DIS Magazine?
http://disimages.com/FAQ

DIS Magazineはアート,ファッションと商業的活動についてのポスト・インターネットのライフスタイルを提案する刊行物です.オンラインのプラットフォームのためにイメージ,テキスト,映像をつくりながら,DISは創造的商業活動を拡大していく方法を探し,「オルタナティブ」がない世界を描きます.DISはアート,ファッション,音楽,そしてテクノロジーの世界のなかとそれらを超えたフレンズとともにあります.

memo534
3つのケーススタディ
1.Send me the JPEG
いつのまにかネットアートのようになっていた現代美術を扱うギャラリーによるJPEG展示の試み.それは作品と画像との関係を反覆させることであり,フィジカルな場とインターネットとの関係に揺さぶりをかける.フィジカルな場として機能してきたギャラリーはこの試みに対して明確な答えをだせていない.

2.DIS Magazine, DISown
インターネットでの「インターネットっぽさ」の追求.リアルとネットの二項対立ではなく,ここにあるのはアートに対するカウンター・カルチャーとしてのインターネット.インターネットというフォーマットを使って,いかにアートに反逆をしかけていくか.そのためにはフィジカルな場もインターネットっぽく使っていく.しかし,メインの場はインターネット.インターネットの無節操さを肯定しつつ,あらたな価値観の創出を目指す.

3.インターネットヤミ市
フィジカルな場に「インターネットっぽさ」をインストールしていく.ネットとリアルとの関係がねじれている.フィジカルな場の機能をネット経由で認識して,「インターネットっぽさ」を着地させる場として使ってしまう.DIS Magazineのようにアートをディス必要がない分,インターネット自体をハッキングして,インターネットとフィジカルのあたらな関係をつくりだしている.

memo535
「インターネットっぽさ」は「ネット」か「フィジカル」かという二項対立ではなく,それらからはみだしている「余白」の質感を自らの意識のなかに探ることである.ただ,それを既存のアートワールドで行うことはやはり難しい.Send me the JPEGやDISownが示しているように「フィジカル」な領域に「インターネット」が入ると,すぐに空間や作品の質が落ちたという評価がくだされるからである.「リアル」「フィジカル」は「インターネット」にとってまだ圧倒的な存在なのである.だから,DISはアートの「ディフュージョンライン」といって,その状態に「インターネットっぽさ」を組み込んでいく.しかし,この状況を根本的に次のフェーズに遷移させるにはギャラリーや小売り店といった制度のなかで「インターネット」を再考するのではなく,「蚤の市」という「過去の生産物の再組織化が起こる場所」のフォーマットをつかって,フィジカルな場に「インターネットっぽさ」をインストールしていくことが求められる.フィジカルな場の機能をネット経由で認識して,ネットとリアルとの意図的に関係をねじれさせて.リアルな場に「インターネットっぽさ」を着地させてしまう.IDPWはDIS Magazineのようにアートをディスる必要がなかったため,インターネットヤミ市でインターネット自体をハッキングして,インターネットとフィジカルのあたらな関係をつくりだすことに成功しているのである.

memo536
ピクセルと網点が重なりあって魅力的.イメージだけれどもそれは木製のパネルでもあって,そういったイメージとオブジェクトの関係だけではなくて,イメージを支えているグラフィックボードがイメージとして拡大されていたり,イメージを蓄積しているハードディスクを物理的に破壊したり.とってもハードウェアな展示を作家のアラム・バートルが解説してくれるYouTube動画.この動画もGoogleのデータセンターのどこかに物理的に存在するハードディスクに保存されているはず.

memo537
以前,メディア芸術カレントコンテンツで紹介した「COPIE COPAINS CLUB」が「フィジカル」を獲得したとのこのことです.存命中のアーティストの作品をコピーし続けることはネットだから許されているのかなと思ったら,アートフェスティバルでの展示を行われることになるとは… ネットに上がっているコピー作品のすべてが展示されるわけのはフィジカルな制約からか,果たしてコピーという行為の制約からなのか.まあ「コピー」というよりも「オマージュ」と言っているから,許されるのかな.このあたりは微妙なバランスにあるんだろうな.
このネットの活動がリアル展示を行うとは考えられなかったけど,DISが2016年のベルリンビエンナーレのキュレーションを担当するとかあるから,時代の流れは「ネット→フィジカル」なのかな.「ネット」で普通に行われていることを「フィジカル」にもってきて,そこでの差異を楽しんだり,そこでの認識の変化を味あうような「インターネットヤミ市」的な感覚というのが広まってきている.いや,もともとインターネッツの人たちには広く共有されていた感覚を制度が取り込もうとしているのでしょう.この感覚が制度に消費されていくのか,それとも制度を変えていくのか,このあたりに注目していきたいな.

memo538
東京行ってきて,セミトラ展ほかいろいろな展示を見てきた.それを振り返りたいなと思うけれども,なかなか時間がない.ないない言っていても仕方がないので,書くしかない.セミトラ展についてはすぐにでも書きたい.「退屈」というタイトル.実際に展示を見た時に感じた「反復」という感じ.「退屈と反復」ということで書いてみたい.反復というかズームというか,そんな感じの繰り返しがセミトラ展には溢れていた.反復していくなかで感じる退屈.でもその退屈から創造が生まれる.このプロセスは誰にでもあることだと思うけど,それをアナログとデジタルの境界で活動してきたセミトラが言うことの意味を考える必要があると思う.なにを反復していて,どこが退屈なのか.そしてその退屈はもちろんポジティブな意味であって,そのデジタルとアナログという境界をできるだけないものにしてきたセミトラが考える「退屈」を考えないといけない.

memo539
筆者の考えでは再帰とは,もともとヴァーチャルな記号あるいは記号系の中で,在る内容をその内容でなければならないものにする一つの手段である.記号あるいは記号系の仕様を通して内容に意義を注入し,凝固させる一つの手段である.むろん,再帰以外の他の方法でも是態は復旧されようし,何らかの再帰の不動点であるからといって,必ずしもそれが是態を勝ち得るとは限らない.本来,意義とは,実世界に即して獲得されるべきものであろう.しかし,汎記号主義の無根拠な記号世界において意義を生み出さなくてはならないなら,再帰は,それを有せしめる一つの手段であると考えられるのである.(p.164)
ここで,使い捨ての記号を用意することと記号間の依存関係は空間的なものであることに注意すると,参照透明性の制約は,状態遷移における値,つまり記号の内容の変化の時間的側面を可能な限り空間的なものへと変換することであることがわかる.残った時間性こそは,情報記号の時間性の本質で,それは⊥から値への変化である.つまり,記号の時間性とは⊥から値への変化に集約される.(p.202) 
記号と再帰:記号論の形式・プログラムの必然,田中久美子
このあたりから「退屈」と題されたセミトラ展を読み解けるのではないだろうかと思いつつ.
セミトラ展はところどころ「再帰」している.メディアがぐるぐるしているそこでの時間の流れ方の変化を捉える・感じることが重要なのかなと考えている.下のような大きなショックではないけれど,ネットと絵画と映像とそれらをつくりだしながら見えないプログラムとその再帰構造がぐるぐるとしていく感じ.そのなかでの時間性の変化が「退屈」に結びつくのではないかなと思いつつ.
ところが,テレビに映った地球の映像は,その Erde が疑いもなく一つの物であると事実をハイデッガーに突きつけた.ハイデッガーが生きた環世界のなかで,それまで大地(という条件)であったものが,地球(という物)になってしまったのだ.しかもしれがテレビ画面にすっきり収まっているのだ.これがハイデッガーの環世界への不法侵入であり,彼の大地観を破壊するショックでなくて何だろうか?(p.328) 
暇と退屈の倫理学,國分功一郎

memo540
僕がわかるのディスプレイのこちら側なのだけれど,向こう側で起こっていることも想像してしまってもいる.でも,それはとても不確かなもの.コンピュータがどのように作動しているのか.その結果としての画像.それを見ているときに,画像に美しさを感じるとともに,それを成立させている演算も考えてみる.でも,それはわからない.画像と演算について記述したテキストは理解できるけども,演算の部分をしっかりとは理解できない.画像にはしっかりとした理解がない.演算にもないのかもしれないけれど,少なくとも演算の部分はコンピュータが作動しなければならないから,それを基準として「確かな」理解というものはありそうな感じがする.

セミトラ展を見ているとき,ディスプレイに映る画像がウォーホールのエンパイアステートビルの映画みたいだな(僕はすべてを見たことがない)と思いつつも,それで「きれいだな」と思いつつ,上に書いたことの発端を考え始めていた.


memo541
セミトラトーク
Googleはプログラムでデザインしている.
Googleはデザイナーがいらない.
ビッシとつくるというではないところに理由を求める.
仕組みをつくるところをデザインする.
見た目の賑やかしと無駄な動きがどうでもいい.
構造に対する思考.
システムが面白いとかに興味がある.
色を決める理由.そこはセンス!
センスを極力減らしていく.
プログラミングは誰でも書けるから,プログラマーのスタンスの問題.
オリジナルから状況に応じてデータを変化させて表示させるシステムを考えたい

memo542
セミトラ「退屈」展の《6PC 1MC》.ひとつのマウスで5つのカーソルを動かす.どこか落ち着かない感じがしてくる.画像=記号を扱った作品がピクセルとそれが表す記号との「1対1」対応を崩したように,ここでもマウスとカーソルとヒトとの「1対1」対応が崩れている.崩れた結果として,どこか落ち着かない.(いや,画像の作品は符号化と復号化の繰り返しだから,厳密に1対1対応をしようとするけど,コンピュータの外でそれを行おうとするから,どうしてもその対応がズレていくのが興味深いということかもしれない)

マウスの作品に戻ると,これは今回の退屈展で,ヒトがコンピュータのなかに入り込める,これは言い方がおかしいかもしれない.ヒトがコンピュータを操作するという実感がもてる唯一の作品になっている.でも,セミトラはその前提であるマウスとカーソルの「1対1」対応を崩しているから,そこにズレが生じる.今回,ズレが生じるのはヒトの感覚である.普段,マウスとカーソルを使っているヒトが多いからこそ,そこにズレが生じる.コンピュータにとっては何一つズレていない.1つのマウスで5つのカーソルが動くようにプログラムされているので,その通りに動いているだけ.カーソルがディスプレイの枠の外にでてしまうのも,そのようにプログラムされているから.5つのディスプレイとその周りの空間がXY座標で区切られていて,その座標とマウスの動きとが対応しているだけのこと.でも,ヒトは5つのカーソルと,ディスプレイの枠の外にでるカーソルを見ると「あれっ」っと思う.

「退屈」展は作品の多くが再帰的構造をとっているが,その再帰のプロセスをヒトは眺めるだけであったり,意図せずそのプロセスに入り込んでノイズとして「機能」したりするのだが,《6PC 1MC》ではヒトは入力ソースとして機能している.再帰構造の画像の作品はヒトを必要としていないと書くのは大げさだけれども,この作品はコンピュータの論理構造をノイズあふれる世界に構築してきて,その反応を見る作品と考えられるので,そこではヒトも温度や湿度,地震によるカメラの揺れなどといった論理世界を表現した回路に対するノイズのひとつにすぎない.しかし,《6PC 1MC》はマウスが何かによって動かされる必要がある.それはヒトでなくても,犬でもカメでもウォンバットでも,あるいは電動ドリルでもいいかもしれない.こう考えると別にヒトでなくてもいいのか.ただそれらヒトを含めた何かが「ノイズ」ではなく「入力ソース」として定義されていることが,画像の作品と異なるところなのでだろうか.

memo543
反射光と透過光
塗りと線
ヒトの回帰
でも、それは異物としてのヒト
古代オーパーツとしてのヒト
ガルガンディアを思い出す
ヒトと君が代 静止つながり
空間に物語が生まれる
地球のbot化
ハイデガーでセミトラつながり
映像がフェードアウトして,ディスプレイというものが出てくるときに一番イメージにぬる.Facebookのデフォルトアイコンのようなイメージ.
余白ではなく隙間/モノとイメージの隙間
足元で何か動いているという感覚
動いているのは地球というおかしさ

memo544
エキソニモの新作は[作品編]と[エキソニモ編]に分けて書くといいような気がしてきた.作品単体で考えたことと,「猿へ」からの流れのなかでの作品の位置づけ.一緒に書くと混乱しそうな感じなので,分ける.もう一度見に行ってから,ドバイに行く前に,もしくはドバイでゆっくりと考えてみたい.

memo545
DISのことを考えていると,書くことがいっぱいあるような気がするのに「ポスト・インターネット」や「インターネット・カルチャー」という言葉で満足というか,終わってしまう感じがあるのはなぜだろう.自分がDISのことを掴めてないんだろうなー

2016年のベルリンビエンナーレをDISがキュレーションすることになっているのだけれど,どうなるか.どちらも「既存のヒエラルキーを破壊する」という感覚は似ているのだろうけど,DISのインターネット感がどのようにリアルに着地していくのか気になる.といっても,DISはこれまでもインターネット感をリアルに着地させてきた.いや,本当に着地させているのか.ポスト・インターネットをリアルに入れ込んでいる.それはそれでいい.リアルの上書き.今のインターネット感でリアルを上書きする.その手法自体があたらしいし,アートで重宝されている.とてもストレートな感じがある.

でも,ベルリンビエンナーレは2年後.そのときのインターネットの感じはどうなっているのだろうか.DISそのものはどんな感じでインターネットを取り込んでいるのだろうか.それが予想できないから,DISは面白いのかもしれない.いや,予想できないのは,僕の関心とは異なるからということなのかもしれない.

DISがリアルでやっている展示を一度でも見に行きたいなー.そこで感じを掴みたいな.DIS magazineはとてもおもしろいし,DISOWN,DIS imageもいい.インターネットの感覚を,ポスト・インターネットをインターネットで思い存分発揮している感じがあるし,それはインターネット考古学からのインターネットとは異なる感覚がる.デジタル,ネットだからという感覚ではなくて,ネットととも生活してきたからこそ起こる感覚というか,イマイチ言語化できないけど… だからこそ,DISがリアルでやっている展示をみたい.そこで何かを掴みたい.

memo546
エキソニモ
出土した状態を想像する
あるいはどのように伝えられてきたか?
なんとかの子のその子ような伝承・つながり
展示ケースのなかの展示
ヒトを型取りしようとしたとも考えられる
型取りしても消えてしまうヒト=イメージ
ヒトというのはディスプレイのなかのヒトだけではなく、見ている人もヒト
ということを小学生が地球儀を盛大に蹴り出して気づいた
赤ちゃんが地球と遊んでいる
気持ち悪い
瞬きすることへの反応が多い
地球を転がす
母音が分からない
意味不明の言葉ではなく、母音を話す意味
消えるときにディスプレイと光るヒトが一体化する瞬間がある!?
もぬけの殻という言葉を思い出す
光るヒトはお互いに関心がない
作品を見るなり「きっしょー」と小学生くらいの女の子

memo547
インターネット上の作品をどう保存していくのか,これから大きな問題なっていくだろう,という記事を読んだ.ネットって情報がいつまでもありそうだけど,どんどん環境そのものがアップデートしていくから,更新をやめた作品は環境から取り残されて機能しなくなっていく.自然はアップデートしないけど,ネットはアップデートする.この違いが,作品を保存することの意味を変えている.作品が成立した環境そのものをいつまでも保存することは不可能だけれども,それをやろうとしているのRhizomeの「Colloq」なんだろう.作品をその環境を含めて保存するツールとして開発されている「Colloq」.作品を残し続けることがいいことなのかも考える必要があるけれど,ネットアートの作品をいざ見ようとするとリンク切れだったり,作品がリンクに依存したものだとまったく機能しなくなっているのは悲しいから,保存しておいてほしいなとおも思う.そんなことを「Colloq」に関する記事を読んで思った.

ネットアートの「オリジナル」ってどこまでを含めるのだろうか? 環境まで含めるとしたら,相当大きな括りになるなと思いつつ,読んだ記事のなか「One version is the frozen original」というテキストがあって,これはリンクとか何やら壊れていても,とにかくそのままオリジナルは残しつづけるということ.「One version」とあることからもわかるように,今の環境で機能するように作品をアップデートすることもする.こうなるとどれがオリジナルということではなくなるから,作品のバージョン管理をすることになるのかな.作品のエディション管理ではなくて,バージョン管理をする時代になるということなのかな?

memo548
ヒトが発光している.ちかごろヒトはよく発光している.でも,そのことに気づかない.発光したヒトを見ているのに,それに気づかないのはそのヒトが「四角」の枠のなかに入っているからだ.「四角」の枠はそこにあるものを別の次元のものしてしまう.「それはそういったものだ」という感覚を見るものに与える.

「神」と言われる存在はよくそれ自体が発光していたり,後光が指していたりしている.神々しくて,見ると目が潰れると言われたりするが,それはきっと光がまぶしすぎるからだ.太陽を見つめ続けると失明するの同じ.

ちかごろ発光しているヒトは神や太陽ほどは激しくは発光していない.そのこともヒトが発光していることを気づきにくくしている.しかし,ヒトは神のように発光している.そのことを際立たせたのが今回のエキソニモの作品《神,ヒト,bot》だろう.赤,緑,黒,白一色に塗られたヒトが直立不動でディスプレイに映されている.ディスプレイでヒトが映されていない部分は身体に塗られた色で塗りつぶされている.なので,ディスプレイが光っているのではなく,ヒトが光っているように見える.ヒトが光っているのが際立だつようになっている.あるいは,普段,発行し続けているディスプレイのモノ感が際立っているとも言えるだろうか.普段光らないヒトが光り,ディスプレイが光らないモノになっている.

ヒトとディスプレイの境界は揺れている.それはそこに映っているのが動画だから.ヒトは直立不動だが完全に動きを止めることはできない.ヒトは呼吸をする.瞬きをする.止まらない.一色に塗りつぶされたディスプレイは全く動かない.ディスプレイの塗りつぶされた部分とヒトの発光部分の境界が揺れ続ける.

発光するヒト,塗りつぶされたディスプレイ,ヒトとディスプレイとのあいだで揺れ続ける境界.これらを見ていると,光り続けるヒトが映像であることは理解しているのだが,とても生々しいモノとして存在し始める.ディスプレイに映っているのではなく,まさに緑なら緑に塗られた壁の前でいまそこに立っているヒトのように感じられるのだ.しかし,そのヒトは光っているので,やはり自分とはちがう感じがする.それは「神々しい」のだ.そして,どこか得体のしれない恐ろしさを感じる.「畏怖の念」を覚えるとでも言えるだろうか.
光るヒトを見てもそれを「神」だとは思わない.塗りつぶされたディスプレイを見てもそれを「神」だとは思わない.これらを同時に見ても,恐らくそれらを「神」だとは思わないだろう.そこには光るヒトという認識か,もしくは単にヒトが映っているという認識だろう.そこに「神」を顕現させるのは,光るヒトが決して止まることができないがゆえに塗りつぶされたディスプレイとの境界が揺れ続け,その結果生じる「隙間」だと,私は考える.発光体としてヒトでもなく,塗りつぶされたディスプレイというモノでもなく,ただ発光している領域が生まれる.しかし,それはすぐにヒトになる.

ときおりフェードアウトしていくヒト.ヒトは発光をやめる.ディスプレイが発光をやめる.そこにはヒトのかたちを型どった黒い領域が生まれる.かつて発光したヒトが存在した領域.何も映していないディスプレイ.それはヒトとディスプレイのあいだの「隙間」がヒトのかたちにひろがったものとも考えられる.このときその黒い領域はほかのいかなるときよりも,そこにヒトがいたことを意識させる.光っていないディスプレイ,光を遮られた結果,そこにヒトが存在する.かつて存在したヒト.そして,ヒトはまた光りだす.光りだしたヒトは,神として存在をはじめる.それはかつてのヒトではない.神として存在するヒト.それは神のような力をもつという意味ではない,単に神のように祀られているという意味でのヒト.単に光っているからという意味で祀られてれているヒトである.

その祀られているヒトに対して,言葉にならない言葉を発しているのがbotとなった地球である.botとなった地球はひとつではない.複数の地球が祀られているヒトの前で動き続けている.そして,言葉にならない母音の羅列が叫んでいる.ヒトは神として祀られて,その前で複数の地球がbotのように意味をなさない言葉を発し続けている.

memo549
夢を見た.エキソニモの展示を見に行った夢を見た.その展示は今のものではなく,大規模な回顧展みたいなものだった.今まで見たことが作品がいっぱいあった.今回の展示から発展させたような展示だったように思う.けど,詳細は忘れてしまった.どこか未来の作品という感触だけが残っている.今回の作品がエキソニモの次の段階のはじまりを示しているとすると,その発展にはどんなことが待ち受けているのか.「猿へ」からどこにつながるのか,そんなことを考えたから見た夢なのかもしれない.「ヒト」を神として祀るのはBOTか否か.そしてゴットはゴッドになったのか.そんなつながりを考えるのが楽しい.

memo550
ISEA2014の発表の質疑応答で「ビットコイン」の話題になった.どうしてそうなったのかは,アートは現実に追いついていないという文脈だったような気がする.ビットコインをどうアートであつかうのか,あるいはどう考えるのかだったような.それで,ひとりアーティストがビットコインの技術的な話をしていた.僕はそれを聞きながら,たぶんそんな技術的なことではなくて,ビットコインを受け入れているマインドセットこそ問題にすべきなのではないだろうか,と思った.それはインターネットヤミ市に通じるところなのだが,インターネットを受け入れるというか,インターネットで起きていることを「リアル」と同等に受け入れるマインドがビットコインを受け入れさせているような気がする.ビットコインはネットから出てきて,リアル通貨とも交換できる.そこが面白いところで,もともと貨幣は仮想的なもので,ただそれがリアルで実行力をもつからあたかもリアルに存在しているかのようだけれども,それはたんに紙切れにすぎない.でも,たんに紙切れにすぎないと言えないところが貨幣で,ビットコインも単にデータにすぎないのだけれど,それがたんにデータにすぎないと言えないマインドセットに私たちがなっているところが,インターネットとそれを構成する膨大なコンピュータ群を受け入れている証拠なのではないかと思ったわけです.そして,それがリアルの貨幣と交換されるとなると,それは単に心情的に受け入れているというわけではなくて,なにかリアルとインターネットとをまたぐ存在になっているわけで,その点がインターネットヤミ市に似ているのかなとも思ったわけです.マインドセットがまずあって,そのあとにリアルとの接点があって,リアルとインターネットとがマインドとブツというな存在と入り交じることになっているのが,ビットコインであり,インターネットヤミ市なのかなと思ったわけです.

memo551
「猿へ」の最後の作品.iPadで「宇宙」がめくられ続ける.「宇宙」がめくられる.それも延々とめくられる.それは誰がめくっているのか? エキソニモの作品はヒトから離れ,コンピュータからも離れ,「概念としての猿」へと向かっていっているのか.「概念としての猿」というのは,生物学的な猿ではなくて,ヒトとコンピュータとのあいだにあり続けたインターフェイスに生じた「スピリチュアル」な領域なのではないか.表層と深層(コード)を自由に行き来してきたエキソニモは,インターフェイスに「概念としての猿」が生まれた,あるいはもともと存在していたことに気づいた.それは「スピリチュアル」な領域であって,そのまま出せば「あぶない」とされる.だから,エキソニモは「概念としての猿」を表層とコードとがせめぎ合う場所=インターフェイスに閉じ込めた.あるいは,インターフェイスでスピリチュアルの存在を確かめるために連作「ゴットは、存在する。」をつくった.しかし,今回の作品で,エキソニモは表層とコードのバランスを崩しているように思われる.意図的ではなくて,崩れてしまったのかもしれない.表層とコードが引き離され,そこにいたスピリチュアルな存在としての「概念としての猿」が最大化された状態でディスプレイに映る.最大化された「概念としての猿」とバランスをとるようにBOTとしての地球が置かれた.それはきっとヒトのリアリティに作品を繋ぎ止めるために必要だった.「概念としての猿」という表層は光るヒトと塗りつぶされたディスプレイによって最大化され,それとバランスをとるようにコードは地球をBOT化した.しかし,それらはもう密着していない.離れている.インターフェイスのなかのスピリチュアルは解き放たれた.エキソニモは「概念としての猿」とともにどこに行くのだろうか.とても楽しみである.

memo552
JON RAFMAN: THE END OF THE END OF THE ENDをエキソニモの《神、ヒト、BOT》と関連づけて考えたい.ヒトのぐにゃっとした変形.個体から液体へ,そして個体への形態変化していくヒト.その形態変化に神は居ない気がする.BOTとも異なるヒトの変化.そんなことを考えずに,ラフマンの彫刻とエキソニモのあの映像オブジェクトを並べてみたい.光るヒト,ヒトのかたち,そこに並置されるラフマンのグニャグニャした彫刻.そこからヒトの未来,ヒトがいなくなった,ヒトが操作の対象となった,神ではない存在に操作されるようになったヒトの世界を考えたいなと思いつつ,そこではBOTがヒトの位置を占めしているのかもしれない.

memo553
DISown_商品説明
アーティストがギャラリーで展開している作品のテイストで,別のライン=ディフュージョンラインの作品=商品を展開するために企画されのがDISownであるが,その全体のテイストは「tumblr」で流れてくる画像がマテリアライズされた感じになっている.代表的なものが,作品画像の布へのプリントである.それらはギャラリーでは「作品」として展示・販売されるようなものだが, DISownでは「商品」として30ドルから4,800ドルのあいだで売られている.ポスト・インターネット的価値観をもったアーティストが伝統的なアートマーケットでも自らの作品を売りつつ,ポスト・インターネット的価値観を凝縮し,アートマーケットから分離した場所:DISownで商品を提供する.アーティストとDISとが共同して「DISown」という場をつくり,作品と商品とのあいだの境目を曖昧にしていく行為自体が,伝統的なアートマーケット内で異質な存在となっているポスト・インターネット的価値観をさらに強化して,拡散していく.

memo554
インターネットヤミ市_商品説明
あらゆる切り口でインターネット自体をマテリアライズしたものが売られている.インターネットヤミ市はフリーマケットであり,そこに参加している人たちはアーティストだけではないことがひとつの特徴である.DISownのように対立項としての「アートマーケット」がないからこそ,より純粋に「インターネット」が商品に反映されている.IDPWメンバーのexonemoが売っているのは「スペイサーGIF」と呼ばれる紙テープで囲まれた「空間」である.かつてウェブデザイナーたちがウェブページの「空間」を調整するためにつかったスペイサーGIFをマテリアライズして,それを販売している.また,インターネットおじさんによる「リアルフォロー」は,Twitterでの「フォロー」という行為をリアル空間で行うものである.その際に行われるのは,実際に誰かのあとについていくということである.インターネットおじさんはVito Acconci’s Following Pieceを批判的に再演・真似しているのではなく,Twitterの「フォロー」をフィジカル化している.exonemoやインターネットおじさんのこれらの商品はもちろんジョークである.インターネットの関連したジョークのような作品を販売し,それを「おもしろい!」といって買う.ジョークがわからなければ単に「残念な」空間になってしまうインターネットヤミ市であるが,その空間は独特な活気に包まれている.

memo555
Instagramについて考えた.あと,Tumblrについても考えた.授業した.Tumblrにはあまり時間をかけれなかった.「粒度」[プログラマーの東窪さんのTumblr論から]が大きくも小さくもならないで,一定のまま回っていくのが画像コミュニケーションなのかなと思った.対して,Twitterなどの言語コミュケーションはふとした瞬間に情報の粒度が膨張してしまって,その情報の流れに大量の情報が流れこんでいく.TumblrとInstagramは粒度が変わらないのでたんたんと同じ流れが続いていく.そこには切断も接合も行ってないのではないかと思った.比較的小さい粒度の情報の重なり具合が調整されているのではないかと思った.「切断」「接合」は少し強すぎる感じがする.そんな強さをInstagramとTumblrには感じなかった.意味がどんどん重なっていくのではなくて,単に画像が重なっていく.そのあとはあとは読みとる人次第ということ.そこにコメントが入ると,画像コミュニケーションは即座に言語に絡め取られる.Instagramでは特にそう.Tumblrにはそれが少ない.それは画像が次々に重ねられているから,一枚の画像なかでも,ダッシュボードの流れのなかでもその画像を単体としてみているのではなく,ひとつの群体として重ねて,調整しながら見ているからかもしれない.そんななかで言語も画像と同じ感覚で扱われていく.画像と言語とが同じ粒として扱われる.そんなことを考えた.

memo556
touch-look-touch:
instagramは24/7でやっている感じがあると思ってしまうのが面白い.それが作品だとわかっていても,そう思ってしまう.iPhoneで見ている時にそれを感じた.そういった感覚をアプリから受けること,そのフレームの問題を利用しながら作品をつくること.それは,24/7を受け入れることでもあるから大変だろうなと思う.テキストを読むと週に3日だけ演じていたみたいだけど,それでも大変そう.正方形の画像という枠のなかで情報がつくられていること.それが流通していくこと.それが重要なのかもしれない.

memo557
「Holly Herndon × 谷口暁彦 対談」での谷口さんの発言が気になる.
T:そう見えますよね.でも,学校で教えている時に,なるべく短いコードで効率的に仕事ができるのが優れたハッカー(コンピューターに対する深い知識と,卓越した技術を持ち合わせた人のこと)で,究極的には一行もコードを書かないハッカーが一番優れているハッカーなんだということをよく話すんです.僕の作品に,《思い過ごすものたち》(2013〜)といういくつかの作品を組み合わせたインスタレーションがあるのですが,その中にメモ帳のアプリを起動させたiPadの上に水を落とし,iPadに文字をタイプさせるという作品があるんです.でも,コードは1行も書いていないんですよ.すべてiPadのデフォルトの機能だったり,その物質的な特性を使っているんです.そういう考え方が “ハッキング対デフォルト" の間をつなぐものにもなりうるのかな,と最近思っています.

>「コードは1行も書いていないんですよ」.物理的特性を使ってしまう.iPadというブツがもつ特性をハッキングしているような気もするし,デフォルトのまま使っている感じもするし.谷口さんが言っているようにその「間をつなぐもの」なのかという気もする.「 “ハッキング対デフォルト" の間をつなぐもの」ってなんなのだろう.近頃,ライダー・リップスも「コードは1行も書いていないんですよ」という作品をつくっている感じがする.こちら物理的特性ではなくて,社会的特性を利用して「 “ハッキング対デフォルト" の間をつなぐもの」を探っている感じがする.どちらも “ハッキング対デフォルト"のどちらも感覚もあって,そのうえで「コンピュータ」からはみ出たルールを探ろうとしているのかな.谷口さんはiPad使っているけど,それは「コンピュータ」として使っているわけではないような気がする.

memo558
谷口さんは「コンピュータ」としてではなく「iPad」として使っているのかもしれない.ということを考えていて,朝は朝で別の事を考えていて,「#Bctino #10F は重なっても粒度が同じ.重なってまたそのままの粒度でひとつの流れになる.exonemo.com/bction/」というツイートしていた.それぞれ別々に書いていたことをmemoで並べてみると,何か発見があるかもしれないし,何もないかもしれないと書いているうちに,「コンピュータ」と「iPad」が重なっていて,その「粒度」というか「比重」を同じにして使うということはなかなか難しいことなのではないかということを思った.「コンピュータ」と「iPad」の「比重」を調整するために,他の物質を使っていると考えると面白いかもしれないとも思った.

memo559
リップスがあちらとこちらとを行き来している感じがあるとすれば,谷口さんの作品はどこかとあちらを同期している感じがする.こちらがあちらになると同時に,あちらがこちらになるといか,結局は,こちらとかあちらという状態ではなくて,遷移だけが同期しているというか,それが幽霊というか.「状態遷移」ということを以前考えたけれど,それが「状態」と「遷移」に分かれている.別れてしまった.もともと分かれていたのを,その別れたまま,遷移し続ける様を見せてくれるのが谷口さんの作品なのかな.書いていて分からなくなってきたけれど,ここに「粒度」とかを重ねてみると見えてくるものがあるかもしれない.となると,リップスとの対比はどうなるだろうか.コンセプチュアルアーティストとしてのリップス.このあたりを考えるときに,今日の東窪さんのストリーテリングのポストが参考になるかもしれない.それを明日,memoしよう.

memo560
アマリア・ウルマンのInstagramの作品は画像のコミュニケーションで成り立っているのでだけれども,その画像のコミュニケーションはすぐにコメントでの言語のコミュニケーションに足を引っ張られる.言語はすぐに画像を絡めとる.そして,そこに意味を集中させる.ウルマンはその意味の集中をさせないように,画像をだしていく.画像を出し続けることで,言語による意味の集中を防いでいるのかもしれない.言語よりも意味の粗い画像だけれども,だからこそ意味の集中が防げる.言語に言語を重ねていくと網目がつまるけれども,画像を重ねていくと,そこには大きな網の目が生まれる.重ねっているようで重ねっていない,意味が通り抜けていく網目が生まれる.そこでは言語も流れていく.意味が詰まることがない.

memo561
谷口さんの《物的証拠》や《思い過ごすものたち》は,モノの粒度が「言語」のように細かく操作できるようになってきたからできた作品なのではないか.それはモノがプログラミングされているということ.モノがプログラミングという言語で操作されるために,その存在の粒度が細かくなって,それゆえにモノ同士の配置をより細かく設定することができる.粒度は細かくなったが,モノはモノでしかないので,言語のように意味の網目がつまることはなく,意味は肥大化することなく細かいまま流れていく.だから,掴みにくい.けれど,そこで展開されているモノのあり方は,プログラミング以後のモノのあり方であり,それは今までのモノのより明らかに細かい粒度でつながっている.

インターネットという人工的環境のあとでのリアルのモノのあり方を考える必要がある.それはプログラム言語での操作のあとのモノのあり方を考えること.田中浩也さんの「フィジタル」もそのあり方のひとつだと思うけれども,谷口さんの作品はもっと「意識」よりというか,モノに落とし込まないという感じがする.作品としてモノが提示されているのだけれども,そのにあるモノはあきからに言語の粒度で構成されている.だから,それを言語で捉えることは難しい.言語のような粒度にモノも画像もなってきているから,かつての画像やモノのような粗い粒度を言語で細かくして捉えるということができない.では,それらをどのように捉えていくのか.言語をより細かくすることはできないが,画像とモノをより言語のなかに取り入れていくことになるのではないだろうか.

話はかわって,ライダー・リップスの近頃の「絵画」の作品はどうだろうか.この絵画もプログラミング以後の絵画のあり方を示しているのであろうか.リップスは「悪童」という感じがして,このあたりはちょっと斜に構えているような気がする.自らをコンセプチュアル・アーティストと呼ぶリップスもまた,「プログラミング以後」を意識として強く持っている感じがする.でも,リップスの最近の絵画作品に関しては,まだよくわからない.Instagramの画像を歪ませたりして,それを絵画にして,それをもう一度Instagramにアップする.同じ画像だけれども,Instagramと絵画を重ねあわせつつ,それを流通させていくのは,エキソニモの《#bction #10F》に近いものがある.

これらの作家を考える際に,どんな言説を参考にしたらいいのだろうか.彼らととも考えていくほかないような気がしている.だったら,そうしたらいいのかもしれない.

memo562
Hyper Geography, Joe Hamiltonの書籍を読む.これも画像コミュニケーションの作品.コミュニケーションは関係ないかもしれない.画像の集積の作品.「集積」という言葉もしっくりこない.コラージュでもない.画像が敷き詰められた作品.地表が画像になっているということかもしれない.本のなかでNicolas Thélyという人が「Landscapes without roots: In search of the foundations of an interconnected world」というタイトルのテキストを書いていた.

「Landscapes without roots」という言葉はいいな.ルーツがないということは,イメージアナーキズムに通じるところがある.ルーツがない細かい画像.「細かい」というのはその大きさことではなく,粒度の問題.つながりやすさを整えられた画像.Nicolas Thélyは「低解像度の美学」という項目を立てていたが,低解像度であることは,つながりやすさを整える条件である.でも,低解像度でなくてもほかにも短時間の動画とかもつながりやすさをつくりだす.あとは「ルーツ」がないところにナラティブが生じるかどうかの問題.ウルマンはInstagramというアプリそのものの特性とコメントでナラティブを演出していたけれども,Joe Hamiltonは全くの画像だけを敷き詰めていく.そこにナラティブは生じていない.ナラティブを配した画像.画像のための画像? ナラティブを拒否する画像? 画像はナラティブを拒否できないのではないか? 言葉に足を引っ張られることがない画像のあり方は可能なのか? Tumblrが実現したような粒度の細かい画像の流通とリブログという最小行為によって成立する詰まることがない画像の流れ=コミュニケーションのなかでその画像を敷き詰めていくJoe HamiltonのHyper Geography.「流れ」という線を面にする.そして,その面もスクロールで流れていく太い線になる.でも,そこで意味が肥大することはなくて,細かい意味が流れていく.

memo563
Instagramは画像にコメントがつく.画像が言語に足を取られるような感じ.それはニコニコ動画も同じ.でも,そこにはやはり画像・映像がある.画像とテキストが関係をもちながら独立している.キャプションのようでありながら,キャプションではない.キャプションであったとしても,それは次々に変わっていくキャプション.画像に重ねられているテキスト.しかし,そのテキストは画像の意味を詰まらせることはない.画像ファーストのコミュニケーションでそこには画像がやはりある.真偽が定まらない画像がそこにある.つくりこまれた画像がそこにある.どんなにテキストを費やしても,最初と最後には画像がやってくる.ただ,画像が離れてテキストだけのコミュニケーションがはじまるときもある.その境目はコメントの長さだろうか.画像からテキストが離れていく瞬間までにどれほどの長さのテキストが書かれる必要があるのだろうか.

memo564
ライダー・リップスは「デジタル・リテラル」に言葉を使うと書いたけれども,デジタル・リテラルにデジタルなモノを考えているのが谷口暁彦なのではないかと思う.その結果として,それは「思い過ごして」しまって,そこにナンセンスが生まれるような感じがする.
リテラルにiPhoneやiPadを考えたら,そこには「1枚の板」というモノが出てくるけれども,そのモノそのものにアクセスしようしてもそこには常にソフトウェアがついてくる.マテリアルにアクセスことがソフトウェアにアクセスすることになってしまい,ソフトウェアにアクセスした瞬間に,iPhone・iPadはコンピュータになる.でも,それらは一枚の板.だから,折れ曲がる.折れ曲がるはイレギュラーな出来事だから「思い過ごす」というよりは物理的な出来事でしかない.「思い過ごした」結果としてモノにアクセスすることが重要な気がする.iPad Air 2 のイントロムービーが単にiPadを削るだけの映像だったように,iPadのことを考え続けた結果,そこにモノが現われること.モノのあとにソフトウェアを意識すること.そんなこと.
リップスはデジタルの環境をそのまま言葉にすることで作品にしたけれども,谷口はデジタルの環境を言葉にすることなく,そのまま提示しながら,そのガジェットがもっているモノの特性を明らかにする.モノとソフトウェアがそこに一緒にあることをモノの側面から明らかにする.

memo565
エキソニモの「スピリチュアル・コンピューティング」シリーズから「スピリチュアル・コンピューティング偽史」みたいなものをつくれないものかと考える.「偽史」というか,エキソニモの作品からインターフェイスの「スピリチュアリティ」を考えるという,ヒトとコンピュータとのあいだにあらたなスピリチュアリティが生まれつつあるということをでっち上げるというか,それがあるという体でここ20年くらいのコンピュータやインターネットの歴史を書き換えていくという感じ.あるいは,エキソニモの作品集でまとめられている「2004→2014」でもいいかもしれない.

memo566
エキソニモ,スピリチュアル・コンピューティング,インスタグラム,ホワイトヘッド『過程と実在』,Processing,谷口暁彦をメインに考えをすするというか,来年度忙しくなってもいいように,今のうちにインプットを増やしている.どんな感じでもいいのでまとまって欲しい.memoを書いて,読み返して,ブログに書いて,国際会議に出したり,論文になったり,あるいはどこかに書いたり,書き続けることで,引かれていく部分をさらに書いてみて,読み返して,その繰り返し.それができればすばらしい.

memo567
タイムラインとダッシュボードを「流れ」という時間的な感じで捉えようとしてきたけれど,「列」といった感じで空間的に考えた方がいいのかもしれないと思った.「→」ではなく「・」と連なり.でも,そこにわたしたちの生きている時間が「→」で入ってくるから,どうしても「→」という感じだが,「・」の連なりがそこにあると考えたほうがいい.

memo568
エキソニモの「スピリチュアル・コンピューティング」からKevin Bewersdorfの「Spirit Surfing」にとんで,上のGIFに至った.ヒトとコンピュータとがひとつの回路になっている.上の画像だと,ヒトとコンピュータが一組になって,その先にもう一組のヒトとコンピュータがあるけれども,もう一組のところに必ずしもヒトがいなくてもいい.ヒトとコンピュータとのインターフェイスではなくて,ヒトとコンピュータとを含んだひとつの回路と考えること.変化のなかのヒトとコンピュータと考えること.モノではなくて変化であって,それは「神」ではないけれども,大きな回路のなかに入ること.そんな感覚が「スピリチュアル」で,「インターフェイス」という言葉でヒトとコンピュータとは向い合ってきたが,そのあいだにヒトとコンピュータとのあいだにはこのふたつの存在を含んだより大きな回路ができあがりつつある.というか,もともと回路はあったのだけれど,近頃,やっとその回路の存在を感知できるようになってきたと考えてみたらどうだろうか?
われわれは日常,“スイッチ”という概念が,“石”とか“テーブル”とかいう概念とは次元を異にしていることに気づかないでいる.ちょっと考えてみれば解ることだが,電気回路の一部分としてスイッチは,オンの位置にある時には存在していない.回路の視点に立てば,スイッチとその前後の導線の間には何ら違いはない.スイッチはただの“導線の延長”にすぎない.また,オフの時にも,スイッチは回路の視点から見てやはり存在してはいない.それは二個の導体(これ自体スイッチがオンの時しか導体としては存在しないが)の間の単なる切れ目──無なるもの──にすぎない.スイッチとは,切り換えの瞬間以外は存在しないものなのだ.“スイッチ”という概念は,時間に対し特別な関係を持つ.それは“物体”という概念よりも,“変化”という概念に関わるものである.(pp.147-148) 
改訂版 精神と自然:生きた世界の認識論,グレゴリー・ベイトソン
memo569
「シェア」の話を授業でして,なんか気分的にもう「シェア」じゃないから,なんか話していてもちぐはぐな感じになって,なんか申し訳ないなと思っていたら,学生さんのコメントは結構あったので驚いた.僕の感覚と学生さんの感覚とのズレがあるのかもしれないと思った.こうやってだんだんと時代についていけなくなるのかなと思ってドヨーンとなった.

話は変わって「スピリチュアル」.コンピュータの一部になってしまうというか,ヒトとコンピュータとで形成される回路の一部になること.それは「自分事」でもなく,「他人事」でも,「巻き込まれている」感覚に近いのではないかと思う.ヒトがコンピュータを使っているのでもなく,コンピュータがヒトを使っているわけでもない.これらふたつの存在がつくる回路になること.それがスピリチュアル.

memo570
「流れ」ではなく「置き方」なのではないかと思いつつある.「置かれ方」かもしれない.画像でも言葉でもひとつの流れではなくて,「置かれ方」であって,そこには「流れ」といったものがない.このように考えてみると谷口暁彦さんの「置き方」も考えることができるかもしれない.置かれるとそこにどうしても流れを考えてしまうけれども,それが置かれたことを置かれたままに考えることができるかどうか.それが置かれたことの意味を細かくしていくこと.

いや,置かれたことから生じる流れというのはやはりあるのではないか.でも,そこで流れにいくことなく置かれたことを考える.あるいは流れをひとつひとつの状態と考える.状態遷移.有限状態装置としての作品.現実に沿って有限状態装置を置いてみる.現実と合わせて有限状態装置を置いてみる.現実と有限状態装置を置き換えてみる.

memo571
iPhoneやiPadを「言葉」のように置いていけるか? もちろん,置けない.でも,でも,でも.いや,いや,いや.「言葉」は平面に置かれ,iPhoneやiPadは空間に置かれる.だから,接続が複雑で,それゆえにその関係を掴みづらいのではないか.空間に置かれたiPadに置かれていく「言葉」.3次元におかれたiPadが言葉を支える2次元になっている.3次元を2次元に切り取りながら,そのなかに3次元を含む.次元間移行がより複雑になった感じ.「次元間移行」という言葉を,藤幡正樹さんの作品を考えるときにつかったけれど,その移行がより簡単に,そして頻繁に起こっている.頻繁に起こるがゆえに複雑に2次元と3次元が接続されていく.複雑であればあるほど,そこから生じる意味は言語のような精密さをもつのではないかと考えるのだけれど,精密さに至るまえの複雑さに屈する.

memo572
ホワイトヘッドの『過程と実在』を英語で,Kindleで読んでいる.なぜ,英語か,日本語翻訳が高かったから.なぜ,Kindleか,読みやすいから.ホワイトヘッドの言っていることはよくわかりません.でも,今,少し時間があるから,これからの基礎になりそうかなと思って読んでいます.あと,Kindleで読んでいると,なんか「スカスカ」した感じの読書になる.紙で読むよりも,読んでいる感触が軽い.でも,このスカスカ感がいい.こんなスカスカした読書から,考えをスカスカとつくっていきたい.スカスカな読書からはじまる考えっていうのもでてくるはず.電子書籍的スカスカ読書体験とそこからの思考.

memo573
Interface Perception
The cybernetic mentality and its crisis: Ubermorgen.com by Søren Bro Pold
ベンヤミン
社会的に知覚が変わる
メディアとのフィードバックループを考えないといけない
インターフェイスを見ているとき,私たちには半分しか見えていない
見えない半分を考察するためにUbermorgen.comを扱う
Google Eat Itself と Psych|OS cycle を考察する

Media culture, perception and the interface
19世紀から気散じと触覚性の部分でメディアが変わってきた
19世紀から20世紀になりスクリーンが遍在するようになった
そして,受け手とインターフェイスとのあいだにフィードバックループが生じた
それは「インタラクティビティ」と呼ばれる
インターフェイスは様々な階層にある
計測可能なユニットにまとめられたモノがサイバネティックループのなかでそれ自身にフィードバックされる
サイバネティックインターフェイスカルチャーのフィードバックループは5つに分類できる

system, semiotics, interaction, reception, culture
インターフェイスそのものが感覚器官である
受け手の身体の感覚を計測する/意識と直接コネクトする
インターフェイスは統計的にしか受け手のことを計測できない
インターフェイスと受け手はシームレス,エラーレスでは接続されない
コンピュータは受け手に意味論的/存在論的なアクセスができない
だからこそ,アートの必要性がある

Ubermorgen’s interface activism
インターフェイスは道具的/表象的側面を同時に持つキメラ的な存在である
Ubermorgenの作品はネットアクティビズム的側面と感覚・知覚,認識,サイバネティックなメンタリティを示す側面がある
2つの側面は一見関係ないようにみえるが,インターフェイスの道具的/表象的側面でつながっている

GWEI - disrupting the feedback
Google will eat itself はサイバネティックフィードバックループをそれ自体に向かわせる作品である.
それゆにフィードバックループにノイズが加わり,秩序が破壊される
Googleに寄生したサイト
アドワーズとウソのクリックをつかってGoogleを買っていく
Googleに深刻なダメージは与えない
Googleはサイトを「バン」すると検閲を行ったことになる
Googleへの3つの打撃
1.ヒトなしのフェイクサイト・クリックでGoogleをだます
2.検閲との関係をもたせる
3.フェイクからGoogleを買収する.ジョークのようにGoogleを脅す

Psych|OS - Cybernetic noir
Psych|OS はヒトの内面を扱った作品
個人的なものから発したものであるが,そこにはアート的な距離感がある
インスタレーションはBernhard自身の精神病院での記録映像で構成されている
インスタレーションは薄くて壊れわすい膜で構成されている
その膜はヒトの精神とネットワークを表象している
Psych|OSプロジェクトはPsych|OSジェネレーターを含んでいる
Bernhardは記憶や自由意志をドラッグで失っている
プロジェクトとリアルBernhard自身が分かれている

The condition for criticism
サイバネティックシステムを批判することは難しい
批判するためには奇妙で普通ではないことをする必要がある
それはロマンティックすぎる考えである
サイバネティックのなかでは「自分を知る」必要はなくて,サイバネティックループのなかでの自分のマップを知ることが必要である/奇妙な行為は情報システムのなかに組み込まれている基本的なことである
しかし,アートの行為はシステムを不安定にする
サイバネティックループを批判するにはそのループのなかに入らなければならない
そのマシンのメタ的視点を言わなければならない

Interface mentality
ソフトウェアとともにある生活を考える
ネットワーク,コンピュータとともにでてきた病気がある
アートを論じて,それが知覚における文化的変化をどのように反映しているかを考えること

Perceiving interface perception
インターフェイスはマシンからヒトへ,ヒトからマシンへとふたつの方向で作用する
そのことが知覚を媒介されるものとサイバネティックなものにする
人工物や表象はサイバネティックループのなかでデータが入れられたものになっている
インターフェイスが設定している知覚,経験,文化の変化の条件を体験するためには,文化的にサイバネティックな視点とインターフェイス的な知覚を統合していく必要がある

memo574
今日の読書会で思ったのは,memo573に書いたテキストを使って「spritual computing」を書けるかもしれないということ.下のテキストは,インターフェイスとphychを結びつけていたけれど,その結びつきを成立させているのがインターフェイスの「spiritual」なのではないかと考えた.コンピュータをヒトと向かい合わせているだけでは見えてこないけれど,インターフェイスからヒトをとっても,コンピュータが作動するということは,そこにヒト以外の作動因をコンピュータ自体がもっているということで,それは電力なんだけれども,入力装置としてのヒトがいなくても入力が起こることはとてもスピリチュアルな出来事なのではないかと思う.インターフェイスがヒトの心理に影響を与えるというのは確かにそうで,そこからヒトをとると,インターフェイスはコンピュータ自体に向かい.ヒトの心理に影響を与えたものがスピリチュアルになるし,コンピュータ自体に向ってもスピリチュアルになる.途中から,書いていて意味がわかりませんが,memoというのは書くことに意味があって,書いているうちに意味がでてくると思って書く.

memo575
ヒトとコンピュータとがひとつの回路になったあとで,ヒトはどこにいるのだろうか? コンピュータはどこにいるのだろうか? ヒトとコンピュータの回路は,ヒトとコンピュータとの共進化を止めるというか,このふたつがひとつの存在になるということ.誰のための存在なのか? 「神」をここにもってこないかぎりは,その回路が何のために,誰のためにということはわからない.そもそも「何かのために」回路ができあがるのではないかもしれない.ヒトが回路のなかに入ることは悲観することではなくて,これまでとは異なる思考を見つけることだから,興味深いこと.今までの考えから,あらたしい考え方,思考に移行すること.でも,そこで,これまでの「言語」を使っていていいのか.もちろん,これまで考えられてきた言語の思想を捨てることはできないだろうけれど,それが「レガシー」になって,ヒトとコンピュータの回路としての思考の足を引っ張ることもあるではないだろうか.そうだとしても,ヒトは「言語」を使い続ける.そして,これまでの「レガシー」を引用し続ける.それがコンピュータ以前の思考であったとしても引用し続ける.その思想がコンピュータを生み出したとも言えるけれども,だったら,コンピュータを生み出した人の思想を引用するべきではないだろうか.これまでの「思想」を壊したあとに,また「思想」を語ることを考える.

memo576
お風呂に入っていたときに,ふと,「2次元↔3次元」で学会で発表できるのではと思った.古くからある話だけれど,谷口暁彦さんの「GIF 3D Gallery」とか,ジョン・ラフマンの彫刻作品とか,何回読んでも発見があるCLEMENT VALLAのThe Universal Textureとか混ぜながら考えると,面白いのではないかと思った.ちょっとずつ組み立ててみようかな.

memo577
名古屋にもどってきていて,少し頭がボーっとしているので,memoも書けないことがある.それでも別にいいのだけれど,いや,来年に向けて,考えることはあるのだけれど,それがなにかにつながるのか,いや,何かにつながるなんて考えてはいけないのだろうなと思いつつ,考えることだけを続けて,書いていかないとなと書いていても,それがまとまることなく,というようなことは,この前,書いたような気がする.ふー.

memo578
エキソニモの《Spiritual Computing》シリーズについて考える.ヒトの最後/最期の行為の記録としてこのシリーズを位置づけてみたらどうかと考えた.ヒトとコンピュータとが共進化してく場として「インターフェイス」が設定されていたけれど,ヒトの進化が遅く共進化は遅々として進まない.インターフェイスは「共進化の場」ではなく,ヒトとコンピュータとを取り込んだより大きな存在の回路であったと考えた方がいい.ヒトはコンピュータの登場によって,回路上のスイッチになった.「インターフェイス」が共進化の場として捉えられていたときは,ヒトはまだヒトであり,コンピュータはまだコンピュータとして機能していた.ヒトはコンピュータに指を置きながら,コンピュータを操作していると思っていた.けれど,それはコンピュータの操作ではなく,指を置くことで自分でない,そしてコンピュータでもない,より大きな存在の回路の一部になることであった.

エキソニモはインターフェイスという回路からヒトを取り去ってしまった.インターフェイスからヒトが取り除かれたけれど,コンピュータは動いた.エキソニモはインターフェイスからヒトがいなくなったB面の世界を提示してしまった.ヒトがいなくなってもコンピュータが動くが,インターフェイスはヒトに合わせてつくってあるので,インターフェイスを組み合わせた作品にはヒトの痕跡が残っている.ヒトの痕跡だけを残しつつ,コンピュータはコンピュータで回路の一部を構成するスイッチとして情報をつくり続ける.

memo579
2014年が終わろうとしている.2015年は「スピリチュアル・コンピューティング」を考えてみよう.ヒトのいなくなっても情報をつくり続ける存在になるかもしれないコンピュータという存在を考えてみること.ヒトを必要としないインターフェイス,それはもうインターフェイスと言う必要ないのかもしれないけれど,ヒトに対してはインターフェイスは必要ないかもしれないけれど,もっと高次の存在にはインターフェイスは必要かもしれない.高次の存在が複数のインターフェイスをもつ,あるいは複数のインターフェイスを含めたどこまでもつながる回路のなかにヒトとコンピュータとがスイッチとして存在していているのが現在で,そこから徐々にヒトが除かれていくというのがこれからの世界のあり方なのかもしれないと妄想しつつ,それを論文や発表にどうまとめるのかを考えつつ,2015年を迎えたいと思います.

memo580
名古屋,埼玉と移動しながら年末年始を過ごして,仕事始めの日に3Dプリンタが壊れて(;´д`)トホホ…な感じ.まだ頭がボーっとしている感じがありますが,ボーっとしたままいきたいと思います.いま僕のうしろで壊れなかった方の3Dプリンタが順調に動いています.無事に4時間プリントできるかな.

memo581
パラレルワールド,ネットとリアルのパラレルワールド.もうとくに珍しくもない.リアルギャラリーをコピーしたオンラインギャラリー.でも,ここで行われているのは「コピー」なのであろうか.コピーされたパラレルワールドとそのギャラリーを受け入れるマインドセットができているところが重要なのかもしれない.

それとは別に手のなかだけ未来が更新されていく.風景は変わらないが,手のなかのガジェットだけ未来が更新されていって,気が付くとそこには「ジャイアントスクリーン」のみで,ボタンがなくなっていた.

memo582
「act natural」というオンラインの展示について考えている.「act natural[自然な行為]」というタイトルについて考えた.「act natural」と言われるとつい「アナログ」を考えてしまう.アナログとデジタルという区分け自体がもう陳腐になって,そこには大した意味もなくなっているけれども,「自然」にはデジタル/オンラインは含まれない.だから,「第2の自然」とか言ってしまう.「自然な行為」といったときに,オンラインの作家たちは「デジタル」を「自然」として扱っているということもできる.けれど,そこでの自然は「自然」ではなく「第2の自然」になっている.しかし,先に書いたようにアナログとデジタル,オフラインとオンラインの区別には意味がないから,「自然な行為」はどちらも含んだ「自然な行為」であって,もっと言えば「どちらも含んだ」という言葉も必要ない.単に「自然な行為」なのである.この展示のタイトル「act natural」はオンラインをメインに活動している作家に自分たちがやっている「自然な行為」を自覚することを促したのかもしれない.自分が自然に行っている行為を自覚した結果として意識される「デジタル」「オンライン」の行為は,それらをはじめから意識している行為とは異なるものになっているのではないだろうか.

そして,自覚した結果の行為からつくられた作品をリアルギャラリーをコピーしたオンラインギャラリーに展示する.これもまた,オンラインギャラリーが自然に行っている行為を自覚した結果としての行為なのかもしれない.「リアルへの回帰」を意味するのではなく,オンラインの自然な展示行為を意識した結果としてリアルギャラリーをコピーする.そこに作品を置いていくこと.それは明らかに「自然な行為」ではないように感じられる.しかし,それはデジタルとアナログ,オンラインとオフラインという区別を意識せずに自然に振舞っている者たちが,改めて「自然な行為」を意識した結果なのである.

memo583
保坂和志『未明の闘争』を読み終える.死がそこにあるとかではなくて,文字がそのように並べられて,そこから死を読むこと.あるいは猫を読むことだろうか.文字はいかようにも並べられて,そこから僕は意味を読み取る.その連続する体験が読書ということだろうか.私は水野はそんなことを考えつつ,テキストを読んだわけであるが,そこから何を得たのかはわからないし,得る必要もないのかなと思う.ただ文字がそのように並べられていて,それは推敲された結果の文字列である.そこに作家の意図があるともいえるし,文字がそのように並べられただけともいえる.そのようにならんだ文字列とそれを読み取る人.そのペアで生まれる体験をした.

memo584
「JON RAFMAN: THE END OF THE END OF THE ENDとエキソニモの《神、ヒト、BOT》とを関連づけたテキストを書く」とあって,ブログを書こうとしてJON RAFMAN: THE END OF THE END OF THE ENDを調べてたりしていたのだけれど,どうしても書けない.どこかに根拠というか確信がおけない.これはラフマンの作品に関してだけでなくて,「ポストインターネット」と括られる作品全般に対して語るための根拠を失ってしまったような気がする.こういったときに「歴史」は役に立つだろうし,そこからはじめないといけないような気がするけれども,歴史によって立ってテキストを書ける気もしない.どうしたらいいのか…

memo585
「The Alien Aesthetic of Speculative Realism, or, How Interpretation Lost the Battle to Materiality and How Comfortable this Is to Humans」というテキストを読んだ.exonemoを考えるためのヒントをもらった感じがする.もういちどIan BogostのAlien Phenomenologyを読もうと思った.

自動化するデバイスのユビキタスコンピューティングと自動化ではないけれどもすこし組合せを変えるだけで発動するスピリチュアルコンピューティング.そのちがいを考える.

memo586
保坂和志さんの『未明の闘争』にあった「ブンは結局私のところに行かなかった。」という文章が気になっている.「ブンは結局私のところに来なかった。」なら別に普通だが,「ブンは結局私のところに行かなかった。」はちょっとおかしい.この文章は最初「私」という登場人物が基点・中心になっているが,最後には「俯瞰」的というか,三人称的な世界になっている.私は中心から外れている.「ブンは結局私のところに行かなかった。」という短い文字列のなかで視点が変わる.これはとても興味深い.CGの3次元空間でのバーチャルカメラの移動にようにとてもスムーズに視点が移動する.身体はそこにありながら,そこにあるままで,視点がスムーズに移動する.これは興味深い.

memo587
佐々木敦さんの『あなたは今、この文章を読んでいる。 パラフィクションの誕生』の次の文章をよんで神林長平さんの戦闘妖精・雪風シリーズをKindleで買った.早く読みたい.
深井零は雪風と融合することによって或る次元では「デジタル」化してゆくのだが,それは反面,雪風が「アナログ」化することでもある.「デジタル」にとっては,「アナログ/デジタル」という対立項が無効になり,両者がイコールになるだけでは不十分なのだ.「アナログ」が徹底的に駆逐され,その概念ごと消去されなくてはならないのである.《雪風》シリーズとは,このような「アナログ」と「デジタル」との終りなき闘争を描いたものだということができる.そしてここでは,そのことが「言葉」を媒体として語られているのだ.(p.264)
この異様な叙述は明らかに,先の「デジタル」と「アナログ」の闘争を反映している.つまり,ここに書かれてあることは,「アナログ」という観念自体を持たない徹底的に「デジタル」な存在が,どこまでも「アナログ」な「世界/現実」を認識しようとしているさま,なのではないか.断っておくが「アンブロークン アロー」の文体は,まったく難解なものではない.むしろすこぶる平易な言葉で綴られている.にもかかわらず,それはほとんど「人間」を超え出てしまっているかのような特異な印象を与える.(pp.267-268)

memo588
Hacking vrs. defaults
http://guthguth.blogspot.jp/2007/01/hacking-defaults-hacking-nintendo.html
「net.art Painters and Poets」によるnet.artdatabaseを見てもらう.
net.art のブラウザの枠内という感じと,外でのインターネットから「インターネット」の感覚の変化.
「act natural」の3作家は「ネットアート」なのか?
net.art の「Poets」な感じ.「文字」というか限定されている感じ.
あとjodi.mapも見てもらうといいかもしれない.この下のテクストを訳してみる!

This is an old idea from the nineties. What net.art shows would look like if you used a net.art piece as a link list and then installed that in a gallery. It’s time to try it.
Net.artists of today think more of galleries and less of browsers. There is less and less difference between net.art and art, just like there is almost no barrier between online and offline life.
−−
「net.art Painters and Poets」参加作家
!MEDIENGRUPPE BITNIK, 0100101110101101.org, Cory Arcangel, Kim Asendorf, Aram Bartholl, Mez Breeze, Cristophe Bruno, Heath Bunting, Shu Lea Cheang, Paolo Cirio, Vuk Ćosić, Constant Dullaart, Lisa Jevbratt, JODI, Justin Kemp, Olia Lialina, Alessandro Ludovico, Mouchette, Mark Napier, Evan Roth, ®™ark, Eryk Salvaggio, Alexei Shulgin, Teo Spiller, Igor Štromajer, Thomson & Craighead, Ubermorgen, Young-Hae Chang Heavy Industries, Jaka Železnikar

この作家たちを分類していくのもおもしろいかもしれない.

memo589


memo590
Your Are Here: Art After the Internet, edited by Omar Kholeif, 2014
Essays
The new aesthetic and its politics
The context of the digital: A brief inquiry into online relationships
Art after social media
Societies of out of control: Language and technology in Ryan Treartin’s movies
Post-Internet: What it is and what it was
Against the novelty of new media: the resuscitation of the authentic
The curator’s new medium
Contra-Internet aesthetics 
Art and the Internet, 2013
net.art
activist art and surveillance-related work
internet-enabled participatory, interactive and video art
postinternet art
social media influenced art and identity construction
−−
Internet Art, Rachel Greene, 2004
Introduction
The internet’s history and pre-history
The art-historical context for internet art
Ch 1. Early internet art
Participation in Public Spaces; Russian internet art scene; New vocabularies; Travel and documentary modes; Net.art; Cyberfeminism; Corporate aesthetics; Telepresence
Ch 2. Isolating the elements
Email-based communication; Exhibition formats and collective projects; Browsers, ASCII, automation and error; Parody, appropriation and remixing; Mapping authorship; Hypertext and textural Aesthetics; Remodelling bodies; New forms of distribution; Sexual personae
Ch 3. Themes in internet art
Infowar and tactical media in practice; Turn of the millennium, war and the dotcom crash; Data visualisation and databases; Games; Generative and Software Art; Open Works; The crash of 2000
Ch4. Art for networks
Voyeurism, surveillance and borders; Wireless; E-commerce; Forms of sharing; Video and Filmic discourses; Low-fi aesthetics; ‘Art for networks’ 
Internet Art: The online of culture and commerce, Julian Stallabrass, 2003
A new art
The structure of the Internet
The form of data
Time as space, space as Time
Interactivity
The rise of commerce
Politics and Art
Free from exchange?
The art institutions
Art, intelligent machines and conversation
「ポストインターネット」という言葉は,この10年のネットアートを考えうえで結構重要だなと,4つのネットアートの本の目次を書き写したら改めて思った.そして,「ポストインターネット」も過去になりつつある.というか,「ポストインターネット」が状況からマインドセットになっているのかもしれない.多くの人が「ポストインターネット」を「ポストインターネット」として受け入れるマインドセットになってきたということかもしれない.

memo591
「net.art Painters and Poets」が開催された「2014年」というのは,「ポストインターネット」的な表現を牽引してきたDis Magagineが2016年のベルリン・ビエンナーレのキュレーターに指名されたりもしているし,IDPWのインターネットヤミ市が日本だけでなくベルリンとブルッセルで開催されたりしています.「ネットアート」という言葉が何を示しているのかがより不鮮明になっていったのが「2014年」なんではないかと思います.

memo592
Your Are Here: Art After the Internet, edited by Omar Kholeif
Foreword, Ed Halter

Rather than think of art before and after the internet, we might periodize art’s relationship to networked culture in a more gradual way. Consider how the internet has already seen a number of micro-eras within the two decades since the introduction of the World Wide Web. The early days of net art in the 1990s saw the first formalist tinkerings with HTML, playing with fake identities, and celebrations of the web as a global communication system. The era of the dotcom boom around the turn of the century brought experiments with flash and online gaming, and increased activism against the corporatization of the internet. In the post-crash years of Web 2.0, social networks, Google, and YouTube took hold as broadband access increased; artists worked with online video, blogging, and appropriation, and explored a nostalgia for the low-bandwidth amateur internet of the dial-up 1990s. By the late-noughties, Wi-Fi-enabled cloud computing and the success of smartphones and tablets lent a feeling of ubiquity to the internet, and the line between a specifically online culture and contemporary culture seemed to dissolve. (pp. 16-17)

インターネットの前/後でアートを考えるよりも,アートとネットワークカルチャーとの関係を段階的に区切っていったほうがいいかもしれない.World Wide Webが導入されてから20年あまりのなかで,インターネットがどのようにいくつかの小さな時代に区分されているのかを考えてみよう.1990年代の初期ネットアートはHTMLをいじくりまわしたり,偽のアイデンティティで戯れたりする最初の形式主義者であり,グローバルコミュニケーションシステムとしてのウェブを祝いでいた.世紀が変わるあたりのドットコムブームの時代は,フラッシュやオンラインゲームの実験が行われ,インターネットの商業化に対抗する行動が増えた.ドットコムバブルがはじけた後のWeb2.0時代では,ソーシャルネットワーク,Google,YouTubeがブロードバンドアクセスの増加とともに定着していった.そんななかで,アーティストたちはオンラインビデオ,ブログ,アプロプリエーションなどで作品を制作するとともに,1990年代のダイアルアップ時代のナローバンドによるアマチュア的なインターネットへのノスタルジアを探求した.2000年代交換には,Wi-Fiがクラウドコンピューティングを可能にし,スマートフォンとタブレットがインターネットがどこにであることを感じさせ,はっきりとしたオンラインカルチャーと同時代のカルチャーの区分けは消えていった.


memo593
net.art Painters and Poets[http://net.art.mgml.si]
Jodimap
This is an old idea from the nineties. What net.art shows would look like if you used a net.art piece as a link list and then installed that in a gallery. It’s time to try it.

ジョディ地図
これは90年代からの古いアイデアである.net.artの作品をリンクリストとしてつかってne.artが何であったのかを示し,それをギャラリーにインストールする.今が試す時だ.
Second level
Net.artists of today think more of galleries and less of browsers. There is less and less difference between net.art and art, just like there is almost no barrier between online and offline life.
2階
今日のネットアーティストはより多くギャラリーのことを考え,ブラウザーのことは考えなくなってきている.オンラインとオフラインの生活のあいだの障壁がほとんどなくなっているの同じように,
ネットアートとアートとのちがいはどんどんなくなっている.

memo594
Ryder Ripps, Refreshing Darkness, 2013
http://refreshingdarkness.com/ 
>初期ネットアートようにブラウザで完結しているけれど,もっとシンプル.
リップスが自分のことを「コンセプチュアル・アーティスト」と言っていることと考えてみると面白い.
Ryder Ripps-OFfocus, NEWEMOTICONS 
http://newmoticons.com/
>佐藤ねじさんの作品に通じるところがあるかなと思います.
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Eva and Franco Mattes, Emily’s Video, 2012
http://0100101110101101.org/emilys-video/
「Darknet」という題材を見る人の反応で示しているのがおもしろい.
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Joe Hamilton, Hyper Geography
http://hypergeography.tumblr.com/
単純に敷き詰められた画像がいい
-
Online Gallery CERMÂの展覧会「act natural」
http://www.cerma.de/exhibitions/act-natural/overview/
リアルギャラリーをコピーしたオンライン会場での展覧会という設定がネットアートとリアルの関係を考えさせる.

memo595
iPadで写真を撮ろうとして画面を覗いたとき,そこに表示されている画像の大きさに慣れない.ファイダーの覗いた世界は「小さく」なるはずという感覚が残っているのかもしれない.iPhoneの画像は「小さく」なった感じがする.iPadは「小さい」感じがなく,世界がそのまま映されている感じがする.映されているというか,なんだろう「枠」のなかに入らない感じがする.大きな液晶とその薄さで世界と肉薄しているというか,世界をそのまま枠にはめることなくそこに表示しているという感じがある.この感覚にいつまでたっても慣れないのがおもしろい.

memo596
2D↔3Dの関係を扱いたいと思っていて,そのヒントを探しているのだけれど,あまり見つからない.もうわかりきったこと,あるいは考えつくされている関係かもしれないけれど,一度リセットして,「わからない」状態からはじめたい.Google Mapsを使っていて視点の切り替えが行われているけれども,そこにあるアルゴリズムのことはわからない.わかろうとしても多く人にはわからない.でも,そこにあって,視点の切り替えが行われていて,そこで2D↔3Dの関係についての言説も生まれている.でも,そのとき2D↔3Dの関係を扱っている言説はアルゴリズムの「わからなさ」をスルーしている感じがする.「アルゴリズムがわかる/わからない」ではなくて,わからなくてもいいから,そこにアルゴリズムがあることをスルーしないでGoogle Mapsを考えることは現在の2D↔3Dの関係を考える上で結構重要なのではないかと思っている.

memo597
谷口暁彦さんを「デジタル・リテラル・ナンセンス」として,ライダー・リップスを「デジタル・リテラル」として対比させて記事を書こうとしているのだけれど,この仕事自体が宙ぶらりんの状態になっているので,「えいや〜!」と書き出せないでいる.

そのあいだに,リップスは絵画の個展を開催した.インスタグラムで話題になっている女性をiPhoneで加工して,それを絵にしている.その絵をうしろにして上半身裸のリップスがiPhoneをもって指でディスプレイをなぞっている様子は,画像をただ見ているのではなく文字通り指で歪ましている.「カーソル」を介すことなく文字通り[リテラル]に指で女性の画像を加工して歪ませる.デジタルに文字通りの身体が入り込んでくるように仕込んでくるのが今のリップスの感覚なのだろうか?

谷口さんのホームページはカーソルが指に変わる.これもまた文字通り指で画面を触っているようであるが,これは指がカーソルになっているのであって,もともと指がカーソルになって,そのカーソルが指になっている.先祖返り.でも,その指はあくまでもカーソルの変わりであって,指ではないといえる.当たり前のことだけれど,カーソルは指の変わりになっているのだから,それが指に変えられても違和感はない.と思うのだが,最初はやはり違和感がある.それが楽しい.だんだんその違和感がなくなるかというと,そうでもない.それもまた楽しい.慣れてくるのだけれど,クリックするときに指の先がチョンと動くとそのときに自分の指ではないと感じる.でも,カーソルのように自分の指の延長のようにも感じている.これは言い過ぎかもしれない.ようはカーソルが指の変わりであって,そのカーソルが指に変わったという特に意味のないことが起こっている[ナンセンス]ということが言いたかった.

memo598
夏にやった新視覚研究会のシンポジウムの報告書を書かないとならないために,あらためてJoshua Citarellaに関するテキストを読んだりしている.そしたら,ふたつのテキストの「Spiritual」の文字があって,気分がもりがった.

ひとつは,DAZEDの記事のなかに「 The virtual is rendered spiritual 」とあった.「仮想が霊的にされる」といった感じだろうか.Joshuaの「完璧」なリタッチテクニックによって,そこで操作されているものは単にデジタル,Photoshopでリタッチされたものを超えた存在になるということではないだろうか.ヒトのから宗教画がつくられてきたのだから,Photoshopからも生まれてもおかしくないし,デジタル,仮想,コンピュータといったものから「霊的」なものがでてきても,もうそろそろいい感じがするし,そうしたテクニックをもったヒトも出てきていい! 

もうひとつの記事はArt in Americaの記事のなかにあって,こんな一文.
> Instead, Citarella seems fully committed to the pristine surfaces made possible by modern technology, discovering there a kind of transcendent blankness bordering on the spiritual.

その代わり(ポストインターネット的な画像をつくるのではなくといった感じ),Citarellaは今の技術を使って可能な穢れ無き表面をつくろうとしているようにみえる.それは霊的なものとの境界で超越的な空白を見つけることになる.

「pristine」という言葉がいいなと思う.あとは上に書いたのと一緒.両方の文に「spiritual」が出てきたという報告でした.

memo599
aqnb: You’re currently in a group show in Kassel at the Fridericianum; Speculations on Anonymous Materials. I thought the press text for this was interesting, it seemed to link the artists involved by the way they approach materials, instead of say, under the banner of post-internet art.

aqnb: あなたは今,カッセルのFridericianumで行われているグループ展「Speculations on Anonymous Materials[匿名の物質についての思索]」に参加していますね.プレスのテキストも興味深いと思います.ポストインターネット・アートという言葉を使うのではなくて,物質にアプローチしているアーティストたちが結び付けられているようです.

TS: Yeah I’m happy that for the first time there is a major exhibition of this generation that is moving beyond the post-Internet label. I think maybe the topics of medium-specificity and network technologies, subject matters that post-Internet seems to embody, are not sufficient in capturing a deeper generational shift. I think, ironically enough, what that label obfuscates is the true extent to which the internet and computers in general have changed our perception of the world.

Timur Si-Qin: そうですね.ポストインターネットというラベルを越えていくこの世代による大きな展覧会がはじめて開催されたことがうれしいです.メディアスペシフィックやネットワークテクノロジーといった話題やポストインターネットが具体的に示してきたような主題は,世代の変化の深い部分を捉えるには十分ではないと思っています.とても皮肉なことですが,ポストインターネットというラベルがインターネットとコンピュータが変えている私たちの世界への認識の真の広がりをうやむやにしてしまっています.

The digital age has taught us that digital materials behave and are as real as physical materials, and vice versa, and that matter and reality is programmable, i.e. ‘the hackability of everything’. So what it comes down to, what’s really happening to our generation is maybe an expansion of the idea of materiality, one that counts everything, from Spanish to aluminum to Samsung as a material, each with its own manipulable properties and capacities.

デジタル時代はデジタル・マテリアルがフィジカルな物質と同じようにあり,振る舞うということ,そしてその逆もあるということを私たちに教えてくれています.物質やリアリティがプログラム可能といったことであり,それは「すべてがハック可能」といったことです.そうしたことから私たちの世代に起こっていることは物質性の概念の拡張が起こっています.そこから,すべてのものが,それは物質としてのスペイン語からアルミニウム,サムソンであって,そのそれぞれが操作可能な性質と能力をもっていると考えられるのです.

http://www.aqnb.com/2013/11/18/an-interview-with-timur-si-qin/

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