tumblrmemo200-299

memo200
TumblrがYahoo!に買収された.これが意味するところはまだわからないけれど,これでひとつの上がりだとすると,「上がり」があるアメリカという場所がいいなということにもなるし,「上がり」まで支えるアメリアという場所がいいなということになる.ブラッド・トルメルはTumblrを依り代にして自分の考えを述べていたけれど,彼もTumblrのように「上がり」になって,アートワールドの中心への入り込んでいくのであろうか.彼の考えを面白なとおもっている自分はどうなるのか.日本という「上がり」が見えない場所で考え続けること.ようはトルメルによりかかりすぎないで,自分で考えろということかもしれない.とにかく考えろということです.単著を書けるくらい考えろ! ネットを観察しろ! そして書け!

memo201
エキソニモの《風景2013》とFatima Al QadiriとDalton Caldwellによる《Constant Update》から「イメージ」が抜け落ちていることが,ずーっと気になっている.「イメージ」が抜けて落ちていることが「視覚的文化」の移行期を示しているのではないかと思いつつも,私たちの周りにはディスプレイに溢れている.ディスプレイを見ればそこには「イメージ」がある.それを見て,何か行為をする.だから,イメージが私たちの行為を駆動していると言えるわけだが,上にあげたふたつの作品からは「イメージ」がなくなっている.

アラン・ケイの「Doing with images makes symbols」はGUIをつくるときのスローガンとなった.だから,GUIは視覚的要素を操作することになる.問題は「Symbols」をつくり出せたのかということになる.GUIを操作している人たちはアイコンやカーソルなどのイメージを操作しながらコンピュータを操作しているので,なんとなくではあるが「symbols」ができている感じがする.GUIを牽引したデスクトップ・メタファーではとくに「視覚的要素」が重要だった.タッチになったもそれは同様であった.ウェブデザインの流行りの「フラットデザイン」も視覚的要素で構成されていることは変わりがない.ただ「フラットデザイン」では「メタファー」がなくなっている.だとすると,上のふたつの作品からは「イメージ」がなくなったのではなく,「メタファー」がなくなったのだろうか.

アイコンとカーソルとの組み合わせで最適化した情報の提示して「いいね!」ボタンを考えているテキストがあった.「なるほど」と思った.ボタンを押すという最小限の行為が,ひとつの情報を伝えていることになる.単に「いいね」というだけだが,確かにこれはアイコンとカーソルとの組み合わせで発生する情報,超低解像度の情報である.そこには「いいね!」しかない.でも,それが情報として伝播する.プッシュ通知も「いいね!」にちかいし,プッシュ通知が「いいね!」を告げる.だとすると,上のふたつの作品から「イメージ」が抜けた落ちたのではなく,それは最小限の要素で構成されるようになったと考えたほうがいいのかもしれない.最小限だから「メタファー」も抜け落ちた.最小限の行為と最小限のイメージとを組み合わせて,ヒトを動かす仕組みができあがったということだろうか.

ディスプレイに映っているのが「イメージ」ではなく「シンボル」だと考える.ヒトを動かすために刺激を与えるための「シンボル」だと考える.それはイメージはなくシンボルである.「Doing with images makes symbols」のスローガンから30年以上経って,「イメージ」が「シンボル」になったと考えることはできるであろうか.ディスプレイに映っている「イメージ」をヒトの行為をプログラミングするための「シンボル」だと考えるような意識が生まれてきた,あるいはそれが一般化したと言えるのかもしれない.

memo202
それが古いということでは片付けることができないけれども,どこかにそんな感じがする.でもそれはそこに確かなことがあるということでもある.その内側に入って突破していくことはとても難しいと思うけれど,それが出来る人もいる.それが出来る人もいるという話で,私にはそれが出来ない.私にはそれが出来ないと思う.気がつけば外側にいるということを書く時点で,それはもう外側ではない感じがするのだが,私が外と思っているだけにすぎないといことはよくある.

作者の思考を辿るということには正解がないと思われる.思考を追いたいという気持ちだけがそこにあって,作者の思考というものに寄りかかっているだけのような感じ.作者が生きているなら聞きに行けばいいと言われるかもしれない.でも,作者もきっともうそのときのことは覚えていないし,最初からそこには確固とした思考の流れなんてものはなくて,ただ文字の流れが生まれてきていたのかもしれない.前に書いたテキストを推敲している場合は,前の状態を今の状態とのあいだに思考があるとすれば,10回書き直していると,そこには多くのあいだの思考があり,最終稿が絶対だと決めてしまえばそれまでだけれども,そのあいだのバージョンのことを考えると,それはそれで面倒なことにある感じがする.

選択的認識について.解像度を気にしない認識であること.解像度は気にしないが,認識したあとのことを考える必要があること.どこに上げるか.いつ上げるか.どのように上げるか.ネットに上げる.いいねファボリリツイートなんであれ拡散していくこと.認識のどの部分を重要視するのかの違いのような気がする.「あとの認識」ここでも「ポスト」.事後的な認識とどうちがうのか,認識自体は終了している,あとはどこに上げるか.この上げるかはどう文脈付ける,意味づけるかということか.それとも誰かの認識を得たいがためであり,自分プラス誰かの認識が必要ということになるのだろうか.いや,もっとカジュアルに考える方向がいいのではないだろうかと思いつつ.

memo203
結婚式の司会を引き受けたので司会をするわけですが,これがいつもやっていることとは全くちがうのでキンチョーするわけです.トークや座談会,研究発表もキンチョーするわけですが,司会は司会でキンチョーして,なんかヘンな眠りだっった.人生何ごとも経験だというけれど,はじめてのことはキンチョーするので,嫌だなと思う.そして,一度やってしまうと,また次もやってきて,またキンチョーする.二度寝したい.

memo204
結婚式の司会無事終了.どうにかこうにか司会を終わらせました.自由な感じな人たちが多かったので,第一声を発してからは割りとリラックスして出来たような気がします.合間合間でご飯も食べられたし,英語の祝電も無難にこなしてよかったというところで,よしとしましょう.

日常業務に戻り,月曜の授業準備をした後で,これを書いているのですが,なんかまだ頭がボーっとしている感じがしています.

memo206
眠い.いくら寝ても眠い.結婚式の司会は考えていたよりも消耗が激しかったらしい.書かれるはずの,書きたい単著の目次を考えようと思いつつも,できないでいる.それ以外に先に仕上げるべきものがあるので,それを書かないといけないわけだけれども,なんか気が抜けている.

目次案
1.ポスト・インターネット的状況
 パーカー・イトー:認識のあとの選択のなかでのアート
 アーティ・ヴィアーカント:イメージ・オブジェクト
2.ヴィレム・フルッサー:旋回的認識のなかで
 より多くの視点をとること
3.マーシャル・マクルーハン:ホットとクールとのあいだ
 解像度が問題とならなくなかでのホットとクール
4.ネット・アート探訪:さまざまなカタチの「認識のあとの選択」
エキソニモは「選択の一点突破」という感じがする.なので,どこに入れようかなという感じ.認識→選択→通知という現在の風景も考えることができるだろうか.

memo207
Kevin Bewersdorfの「Spirit Surfing」を読み終える.Bewersdorfはネットからデータを消去しているので,サルベージされたデータからこの本がつくられているのが,まず面白い.

「ヴィジュアル・エッセイ」という章があるのだけれど,画像データがほとんどない状態になっている.なので,ほとんどビジュアルなしのエッセイになっている.ビジュアルがあるのが,「Stock Photography Watermarks As The Presence of God」というタイトルもの.これが興味深い.「祈り」をテーマとした素材写真の真ん中に「123RF™」と会社のロゴマークがはいるのだけれど,それが祈りの対象の「God」のようだとBewersdorfは指摘する.数行のコードによって,写真家がアップした写真に「神が降臨する」.エキソニモの「ゴットは、存在する。」に通じる感覚がある.ネットを「スピリチュアル」な領域と考えるところも,似ているかもしれない.

memo208
次の勉強会,「ポスト」であり続けることをテーマにしようかな.ポスト・インターネットも「ポスト」だし,アーティ・ヴィアーカントがいっている常にポスト・プロダクションもあるし,2003年に企画した展覧会が「ポスト」だったこともあるので,丁度良い感じがする.ポスト構造主義とかではなくて,なんかもっとカジュアルな感じな「ポスト」というか,何でも「ポスト」とつけてしまうような時代にいて,そこで制作する,考えることとはみたいな感じがいいだろうか.

アーティ・ヴィアーカントやブラッド・トルメルの80年代の人たちと,77年生まれの僕は世代のギャップがある感じがする.もちろん日本語圏と英語圏というちがいもある.彼らのようなアート活動と評論がなぜ日本にはないのか.いや,カオスラウンジがそうなのか.いや,インターネット・リアリティ研究会がそうなのか.リアリティ研究会は当事者だから,なんとも言えない.自分は彼らの言動を追っているとともに,研究会の他の人の言動も追っている.自分からは先導はできていない感じがする.今考えていることをどんなことであれ,できれば英語でも書くことが必要なんだと強く感じている.

memo209
“消え去ったファイルフォーマットは多いが、どちらかというと低級なGifは、頑固に25年以上も生き延び、今でもTumblrなどの上で健在だ。”

GIFアニメ的な無限繰り返し短編ビデオ投稿サイトが, 抑圧体制のロシアで大人気 (via do-nothing)「どちらかという低級なGIF」というところがグッとくる.低級ゆえの頑強さというところであろうか.

Source: TechCrunch

memo210
2003年に「post」という展覧会を企画してから,自分的に何が変ったのだろうか.その間に博士課程に進んで博士号をとったということはある.それはアートではなくて,インターフェイスについての研究であった.なので,確実に変わっている.いやでも,そういったことも含めでなのであるが,もうちょっと違った側面から変ったことを考えてみたいのであるが,それがうまく思い浮かばない.

つねにポスト・プロダクションとなったというとき,そこにはTumblrが大きく作用している.2003年にはTumblrはなかった.これは事実.2003年のときのウェブなんて思い出せない.いっしょに展示をやった人が「Wiki」と言っていて,この人進んでるなーと思ったことを覚えている.でも,そのくらい.連絡にはメールを使っていた.Twitterもなかった.

TumblrやTwitterが今はあるけれど,使っていない人もいるわけだから,これが決定的に世界を変えているわけではないけれど,やはりどこかで変えている感じがする.こららのサービスを使っているかいないかではなくて,これらのサービスが現れて,成功しているという事実が問題を投げかけると考えたい.これらのサービスがあるのが今の世界であるということ.2003年にはなくて,2013年にはあるもの.この違いが「post」の違いを生み出していると考えてみること.

これらのサービスと並ぶのは日本ではニコニコ動画ということになるであろうか.擬似同期という濱野さんが提唱した概念とpostな感覚とはつながるような気もしなくもない.歴史から飛び降りてしまう.健忘症な感覚.「後で」だけれども,《後》しかないような感覚.後=今のような感覚.千葉さんの現代思想の連載を読むことを自分にお勧めする.

memo211
[インターネット アート これから]展をインターネット関連の展示の系譜に位置づけることが必要になるのかもしれない.インスタレーション中心のData Dynamics寄りの展示だったということになる.

memo212
いろいろな事柄がどうでもよくなっているから,サッカーを見ていても寝てしまう.どうでもよくなっているのではなくて,興味がなくなっているのだろう.代表がワールドカップに行こうが行くまいが,それはボクの人生に大きな影響を及ばさない(はず).

何か大きなことを求めているのだろう.その反動していろいろなことが,自分の人生を大きく左右しないことがどうでもよくなっているのだろう.大きなことなんてやってはこない.やってはこないことを望むことは,やはり自分は焦っている.これを自覚しつつも,やはり求めてしまう.大きなことはこないけれど,そしてそれを求めるのではなく,望むことは必要だろう.大きなことを望みながら,目の前のことをやっていく.こういった一般論に落ち着くことも,それはそれでよい.

memo213
木曜はアニメ論→映像文化→映像文化と3つの講義.いまは3つ目の講義の前の休み時間.疲れたな.なんか,汗臭い.年をとると汗の匂いも変わるらしい.頭の働きもかわっていくし,なんか憂鬱なことばかりがまとわりついている感じ.昨日はそれでどうしようもなくダウンな気分になってしまい,最終的に「走った」.ほんのほんの少しだけ.ちょっとだけ気分が上向いた.

memo214
インターネット・リアリティってどこに区切りがあるのだろうか.世界そのものがインターネット・リアリティのなかにあるというか,「ともにある」ような感じのなかで,インターネット・リアリティを考えていくことの難しさを感じつつも,とても魅力的な題材だなとも思う.なんていったて,人間の認識とか知識のあり方がちょっとづつ変わっていっているのだから,関わらないと損損という感じかな.

memo215
「ポスト」のなかに「認識の選択」があるのかなと思いつつ,このつながりを考えつつ.「ポストと認識の選択」.いや,「ポストと保存先」といったほうがいいのだろうか.「ポストとアップロード」これはちがう感じがする.認識したもののその先を選択する,だから,認識後の選択.ポスト認識の選択.これでは意味がわらかない.でも,いいか.「ポスト時代における認識後の選択」こんな感じのポストインターネット論を書けたらいいなと思いつつ.

memo216
「ポストメディア」時代に生きているという認識をもつことが示す意味.常に,ポスト.メディアがコンピュータに集中していくなかでのメディアを考える.メディアの条件を問ういうのではないかたちで,メディアのことを考えることは可能なのか.「メディアの後」を考えること.

ポストインターネット世代のアーティストはニューメディアアートとコンテンポラリーアートを跨いで活動しているという指摘は面白かった.[インターネット アート これから]展がICCで開催されてことと合わせて考える必要がある.

「ポスト」の時代でアートをすることの意味を考えるために,もう一度読む必要がある.
なんかもっと書くことがある感じなんだけれどもうまく言葉にできない.

memo217
“タンブラー買収されてタンブラーのこと考えてやっぱりふるっさ−のことばかり考えた。眠い。

「人、現実(普通の人の言葉だとオフラインとか)、脳、デジタルコンテンツ、メディア、テキスト、オリジナル、完コピリブログ、改変可能なりブログ、quote」などを等価に扱えるところに収束したことがヤバイっぽい。ツールセットが。

脳とかインターネットとかがやってる、ほぼ一つの汎用的なしくみで、ベストエフォートとか内蔵してかなり良い感じにどれもを捌ける仕組みが結果的にいま実現されてる。眠い。

たんぶるログを誰かがつくってそれを実装した後にリブログやフォローなどを等価した、ということで奇跡的にその形になったんだろうけど、それにしても。

あえてひとつ本質を示すならばこれだと思う。リブログに本質があるわけでもない。タブブルログ的な方法に本質があるわけでもない。バイナリなどにメディアを並べたことだけに本質があったわけでもない。share on tumblrが画期的だったことが本質だっただけでもない。quoteにパーマリンク与えたことだけが本質だったわけでもない。quoteの強調された文字列サイズがポストサイズや画像と匹敵するバランスになるようデフォルト設定されたっていう革新も、それだけで本質だったわけでもない。全部凄い新しいことやりまくったね、が革新だったわけでもない。なんかまるで時代が要請するかのように脳的なありようになった。先に例があってその後に仕組みになっていったのか、仕組みと呼び合ったのかしらんが、そんなようになった。 寝よう。

http://toukubo.com/post/51198746794

Tumblrのことでフルッサーの名前がでてくるなど,とても面白い.ここまでTumblrのことを書いているテキストには出会ったことがない

memo218
Exclamation: Tumblr. + Yahoo! = !!
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 I’m delighted to announce that we’ve reached an agreement to acquire Tumblr!
We promise not to screw it up. Tumblr is incredibly special and has a great thing going. We will operate Tumblr independently. David Karp will remain CEO. The product roadmap, their team, their wit and…
this post by yahoo.tumblr was great but not great as tumblr is. they put  no change on tumblr,they say. but is it really what we expect?
I loved and respect tumblr too much that I see this platform as a beatiful implementation of the change agent for the Internet and network system.    and because today,  purchasing a company is a creative remix, just like a creative reblog and quotes or posts equaly are. and if so, what and how they connect the dots? shall i click “ask questions” now? and why a company merge is the way to make it ? not a data api connection, not a normal account creation, not ifttt chanel triggers, but the company merge?  

このタイミングで、このポストをタンブラーに投入したのは素晴らしいことだったと思うけど、タンブラーがそうであるほどは素晴らしくはなかったと思う。そして彼らはタンブラーを変えませんっていったけど、会社取得までの変化がもたらされるというのに、僕らが期待していることは、彼らが言うように、それと、僕らがとりあえず恐れていたことが免れたってことで求めてたことである気になってるところの、「変えませんから安心してください」だっただろうか。というのが、僕の疑問です。

タンブラーをここ10年のインターネットや人間の革新的進歩の一つだと思っていて、思ってい過ぎてて、もはやチェンジ・エージェントなどのクリティカルなしくみを内蔵した自己組織的な社会生命体みたいなレベルになってると思っている。リブログの発明や、autopagerizeや操作性、それとquoteのためのUIの発明、それらが並行して、また同じところから思いつかれたように見えるところ、そしてpost,reblog,quote,改変quote、そしてメディア種を等しい扱いにしているところから、ちょうどニューロンがこれらをすべて「ネットワーク」で処理していて、あるニューロンがあるニューロンをリブログしてたりするのがquoteであったり、外界の一部をquoteしてたりするがこれらが同じ仕組で処理されてる、というような、普遍性を宿して、リブロツリーという発火系を広げていく、インターネットや社会動態の自己維持・改変能力すら持つ実装としてみなしてすらいた。

そろそろはっきりとしてきたことだけど、会社購入というのは一種のリミックスである。本当はそこには創造的なリミックスが必要で、つまり変化が必要そうである。あるいは「リブログ」やデータAPIごしにできる変化以上の創造的変化がなされる必要があるような気がする。どうやって彼らが、コネクティング・ザ・ドッツをするのか。ということについての説明は、僕には十分でないように思えた。今回の購入で明確に失われることがひとつだけあって、それは別の会社売却の可能性じゃないのかな。

タンブラーは奇跡で創出されたところがあると思う。完成度が高すぎる。ほとんどグーグルサーチに匹敵する、核となれる刷新性と普遍性がある。googleが他のサービスを統合していく流れの中心点にはサーチとアドセンスがあったと思うけど、それに近い情報社会学的価値があった。人工知能とソーシャル・ネットワークの結合は次の時代の巨大な実験で、グーグルなんかも膨大な金をかけてそれをやってるけど、タンブラーは答えの一つで、このサービスのポテンシャルはそこにあると思う。おそらくヤフーが本当に若返るということだけ考えるなら1100億円の1/10のお金でyコンの会社100個買うとかでよかったと思う。タンブラーを買うってことするなら、逆にtumblrにyahooを全部書き換えてもらうくらいのことになると良いと思う。
タンブラーがあと3年のうちに真に適切な換金の能力をえて、それがナノペイメントなど、社会動態の次に根ざしたものになったらweb3.0の中心を担うサービスになると思うけど、その頃には「クリエイティブのためのプレイグラウンド」とかそういうしょぼくれたサービスではなくて、進化するインターネット実装そのものの一つの完成形となったりしてほしい。
(推敲してないしねてない。)

memo218
tumblrについて考えることはおもしろい. TumblrとGoogleとの関係.
Source: yahoo

memo219
低解像度画像についてのテキストを読んだmemoをまとめてみる.
−−
鮮やかではなく解像度.映画を頂点とした解像度の階層.  
poor image による循環!
poor imageはpoorゆえにイメージの世界で意味をもたないとされる.
よく見られるイメージがpoor image.解像度がどうであろうと,循環するものがpoor image = popular image.ということは,どこにアップロードするかによって決まる部分もあるから,poor imageは「認識後の選択」によって決まる部分がある.
poor image は解像度でも交換価値でもなく,それがいかに早く広まるかに価値がある.それゆえに,画像は圧縮されたものになる.
情報資本主義のなかに飲み込まれていくpoor image
オリジナルに対してのpoor imageではなく,独自の存在となったpoor image.
−−

memo220
濱野さんの『アーキテクチャの生態系』のケータイ小説のところを読み返していて,「操作的リアリズム」は「認識の後の選択」と同じ意識のもとにあるというか,同じとうことを見つけたわけです.認識した後にくる選択がケータイでのやりとりから,TwitterやFacebookなどのSNSに変化したというのみ.でも,この「のみ」が画像の流通には大きく関わってくる.「問題ありの画像」をこの流れで考えると,単にケータイでのやりとりの延長してSNSがあって,それで問題になってしまうということなのではないかな.

「認識のあとに選択して,認識を決定づける.もしくは,選択を認識を意味づける=ローディングする.認識に後の選択と,その選択からの認識の想起.森さんのpoke動画.アーティの作品をソフトウェア的と分析することとの近さ」というのが読んで,そのテキストを打ち込んでいるときに書いたメモ.

「認識に後の選択と,その選択からの認識の想起」を促すのプッシュ通知やPokeなどによるインタラクションなのかなと思いつつ.このあたりをアーテイのイメージ・オブジェクトなどと絡めていくと,「ポスト」であり続ける時代の認識のあり方を示せるのかなと思いつつ.

memo221
WWDCのKeynoteを待ちつつ,「認識の後の選択」について考える.「ポスト」であり続ける時代では,認識の後の選択が重要になってくるということ.ここをどう説明するか.現状の言説+フルッサーの言葉かな.認識することの解像度は関係ないということを,GIFがもっともよく示ししているというのをpoor imageで示しつつ,GIFだけではなくて,GIFも含めた画像の認識では,その後のウェブサービスの選択が重要となってくること.旋回しているなかでの選択の重要性.旋回しながら同期することが求められている.この夏は時間がなさそうだから,紀要に書くかな.

memo222
なんかもっと適当というか,その一回が全てではないという感じ.ハイパーテキストという言葉とかでくくるのではなくて,コピペしていたら出来てしまったという感じ.ということが書きたいのではなくて,しっかりと次に書くものの構想を練ろうと思っていたのだった.学生の卒論構想の相談にのっていて,順序立てて物事を考えることを久しぶりにしたような気がしていたから,ここでしっかりと書こうと思ったのだけれど,やはり書けないのであった.

memo223
Rick Silva, En Plein Airについて書かれたNicholas O’Brienのエッセイを読む.Silvaはデジタルで風景画を描くのであるが,ノートパソコンをもって外で描く.このことがSilvaの作品を他のデジタル作品と異なるものにしているという指摘.モバイルをもって「外」で活動することで「技術|自然」の二項対立を崩すというのは単純だけれど,思いつかなかった視点.

インターネットと身体性という部分にもつながってくる感じがする.太陽のもとでのインターネット.でも,それはスマフォで普段行なっていることである,だから,外でインターネットにつながるということをもう少し考えてみてもいいのではないかということかもしれない.

memo224
1枚の写真をiPhoneで撮影する→認識の後の選択→藤幡氏のイメージが軽く扱われている→写メール:写真そのものではなく,そのあとメールという行為が大事→インスタグラムなどによる撮影後のフィルターかけて送信→フィルター前がオリジナルで,送信したものがコピーなのか?→パーカー・イトーのネットで認識されなければ存在しないことになる→アーティのいつまでも続くポスト・プロダクションの時代→選択の後の認識

memo225
Hugh S. Manon and Daniel TemkinのNotes on Glitchを読んだ.その中に,「グリッチでファイルを破壊することはコピーすることであって,オリジナルを変形することではない.だから,グリッチは「Undo」を組み込んでいる」ということが書かれていて,オリジナルとコピーの問題を考える際に使えるなと思ったわけです.

コピーすること,いくらでもUndoできるなかでのオリジナルとは何か.何がオリジナルか,あるいはもうここではオリジナルとコピーとの関係そのものがなくなっていると考えた方がいいのでしょうか.おそらく,そうなのでしょう.

美術史において,ボタンひとつで「Undo」できるようになったことは,技術的にも現象的にも大きな出来事であるとも書いてる.

memo226
インスタグラムで「オリジナルを保存」という項目があるが,この項目を「ON」にしない場合,オリジナルはフィルターをかけた画像になるのかな.オリジナルはオリジナルで,フィルターをかけたものはフィルターをかけたコピーとして考えると,オリジナルが瞬時消滅してコピーのみが存在し続けるということになるわけですが,どうなんでしょう.すぐに消させるオリジナルにオリジナルの意味があるのか.オリジナルがないコピーをコピーと言う必要があるのか.

memo227
呼吸するようにコピーするような時代のなかで,次々にファイルは更新されていき,「あたらしいもの」はすぐに「あたらしいもの2」になっていく.そんな状況ではコピーとオリジナルという対立自体が成り立たなくなり,コピーだけがそんざいする.いや,コピーという言葉もちがう.ファイルが存在するということになるだろうか.認識されたファイル,データのみが存在していくことになる.

前提:呼吸するようにコピーするようになった

理論:このような時代に対応する考えとしてボリス・グロイスのデジタルファイル論ーコピー|オリジナルでなく,パフォーマティブな画像

実例:パフォーマティブとは何かをいうことを実例でしめているのがパカー・イトーやアーティ・ヴィアーカント

実例から理論を考えてみて,そこから見えてくるものはパフォーマティブが認識と結びついていること.認識の後の選択,いや,認識のための選択ということか.

memo228
デジタルデータはいくらでもコピー可能である.この事実は工業技術の大量生産によって生まれた「オリジナルとコピー」という対概念を解体してしまう力をもつ.ヴァルター・ベンヤミンは『複製技術次代の芸術』で,大量生産によって芸術作品がもつ「アウラ」が失われたとしたが,美術批評家のボリス・グロイスはデジタル時代ではコピーのたび,クリックのたびにあらたな「アウラ」が生み出されているとしている.自由に際限なくできるコピーのなかで「再解釈」が気軽に行えるようになり,コピーは「アウラ」を消失させるのではなく,そこにあらたな「アウラ」を生み出す行為に変わるのである.

memo229
この本はTumblrにおけるイメージ分析に使えそう.作者は「ポスト」と「アフター」のちがいにこだわっており,「ポスト」は切断するという感じで「アフター」は前のものの残響があるという感じがするので,「アフター」を使うとのこと.

アートの定義をリンクにまで拡げるというところはパーカー・イトーの考えを想起させる.だったら,イトーのテキストの引用すればと思ってしまうのだが,この本では「ポスト」インターネット的に活動しているアーティストは取り上げられていない.

ベンヤミンは「時代遅れ」と言い切ってしまっているところが爽快.そうですよね,時代に合わせて議論をアップデートしていかないと.作品がメディアの連鎖のなかに入り込むこと,メディアごとに作品がコピーされていきそのイメージが変化しいくのだから,「アウラ」なんてもうないも同然というか複数のアウラが同一の作品にあってもおかしくないわけです.

リンクというかたちでフォーマット・形式をつくるのが,アフター・アートの作品のかたちというのはまさにという感じがする.そして,作品を支えてきたとされるメディアはフォーマットの下部構造になる.メディアはモノであり,フォーマットはつながり.

作品によってあたらしいコンテンツをつくるという意識ではなく,作品によってこれまでなかったようなつながりのパターンを見出していくことが重要とされる.溢れている画像の「流れ」を変更していく.批評家はその「流れ」をトレースして明らかにすることが仕事.

ネットがスケールアップしていったときに検索可能性をもとめてGoogleがでてきたように,溢れる画像のなかでの検索可能性を高めることが現在のアーティストに求められている.このようなことを描いておきながら,ネットアートを扱うことはない.それはおそらくネットそのものにコミットしなくても画像は溢れ出しているということなのだろう.

作者が「フォーマット」といっていることを「形式」ではなく「初期化」と読み替えてみると面白いかもしれない.ポスト・インターネット的状況で活動する作家たちが「アフター」でなく「ポスト」を選ぶのは「切断」というよりもアートを「初期化」するということが意識のどこかにあるのかもしれない.そして,初期化した「後で・ポスト」でつくり続ける「ポスト・プロダクション」ということ.ポスト・プロダクションするためにプロダクションでまずはフォーマットを行うという感じであろうか.

memo230
コピーとオリジナルという問題を考えてみると,どこから手をつけていいのかわからないところがある.でも,まあやれる範囲でするしかないかなと諦めつつ,今日的なものを書きたいなと思っていますが,できるかな?

コピーとオリジナルや「選択と認識」についての考えがまとまりにくくなってきてる.なんであろう,興味がなくなってきているのかな.

この前メモした論文(案)では見事に「コピーとオリジナル」について抜けていた.

1.はじめに
2.選択と認識
3.After or Post
4.Tumblrというシステム
5.おわりに

memo231
まったくもって時間がないというか,やることが進んでいない.ヤミ市の準備もアップアップ.査読論文もアップアップで,夏は仕事が忙しそうだから紀要に書くか,書きたいものはあるのだけれど,なかなか書けない.どうやったら単著が書けるのかわからない.とにかく論文のアウトラインを書き出したい.今回の目標は面白いをことをつまらない感じで書く.盛り上がりもなにもいらない.淡々と書く.できるかな.

memo232
Vineが6.5秒でInstagramが15秒.この短さがリアリティをつくりだしていくのだろうか.正方形のとても短い映像.15秒はCMで見ている長さだから,とくに問題ないのかもしれない.YouTubeでCMがスキップされるまでの時間は5秒.5秒のCMをつくればスキップされない.スキップまでの5秒はとても長い.Vineの6.5秒も長いなと感じることがある.それはGIFを見ているからかもしれない.GIF,Vine,Instagramと短い映像が溢れていくインターネットのなかで,映像のあり方が変わり,私たちの認識の仕方も少し変わるのだろうか.

Vineが画面そのものにタッチして撮影するのに対して,Instagramは撮影ボタンを押す.これもまた撮影するときにちょっとしたちがいを生み出す感じがする.

memo233
GIFを「低解像度」と考えていたけれどそれは間違いというか,ちょっと違うのかな.「制約」ある画像で,制約があるがゆえに気軽につくるれるというところ.つくり込む必要がない.スピード感がある.そのスピード感にVineが入ってきて,選択肢が増えた.世界を映像で認識するための選択肢が増えた.と言っても,GIFとVineとじゃ全く異なる.GIFはもともとある映像を加工するという方向のような気がするし,VIneは過去ではなく現在にフォーカスを当てている.いずれにしても「制約」があるからこそ「手軽」にできる.「このくらいでいいじゃないですか~」みたいな感じ.この感じこそがマクルーハンの「ホットとクール」と関係するような感じがするんでですが… あくまでも感じですが…

memo234
寝れない.だから,何か考えよう.でも,寝たい.コピーの変質について,それは制約されたなかでの,そして,それは多くの場合,制約としては意識されないで,あたらしい表現の手段,いや,あたらしいでもなく,単に手軽な手段として表現がつくられていく,そのおおもとにあるのはコピーの変質なのかなとも考えられるけれど,そんなことはニューメディア論というものが,あるいはデジタル論みたいなことが書かれてまくったときに出てきたことだと思う.けれど,何かがちがう.今日はじめてVineをつかって,my first postのタグの画像を見ているときに感じたのは,もっともっとカジュアルというか,手軽に映像が撮れてしまう.いや,映像とか画像とかいう名前でもなくて,ボタンを押すとそこに表示されるものという感じでしかない.決定的に何かが変わりつつあるなかで,このまま「画像」とか「映像」という言葉を使い続けていっていいのだろうか.いや,確かにスマートフォンをもっていない人もいる.けれど,そんなことは関係なく,ボタンを押せば表示されるもの,そしてネットにアップされるものが溢れかえってきている.そんな世界になっている.

memo235
cbcnet:
Google マップ http://bit.ly/17zxGev
Google Mapsネタ.日本の鳩人間.鳩だから顔認識されない.ばっちり写っている.

memo236

memo237
モヤモヤしている.何かを必死に書きないといけない気がするのだが,それがでてこない.

memo238
Collect the WWWorld
フィルターとしてのヒト
60年代からつづく実践.
ポストプロダクションの次を考える.
「poor」ヴァージョン,コピーではない.
面白い分類方法.
オリジナル:コピー:プアー
これに自分なりに何か付け加えることが可能か?
ここにもまた「息を吸うように」という表現.
息をするようにコピーをして,
息を吸うようにデジタルデータを蓄積する.
キャッシュの時代
ステイヤールとグロイスとのつなぎ.
デジタル画像を考える際には避けては通れない.
プアーであることとオリジナルがないこと.
そのなかで画像ファイルのみがオリジナルということ.
このふたつをそれぞれまとめつつ,
そこから次の展開を考える必要があるし,
このテキストでもそれがなれているのだろう.
ネットにおいたものは私に属するのをやめる.
私と公との関係.あたらしい「私」?
情報のヒト化
情報はヒトの記憶を外部化するが
ヒトは再びその外部を外部のまま再ヒト化する
このプロセスは面白い!
《nightless》や《9 eyes》に通じるところもある.「ヒト」フィルターを通すことで,新たな意味がでてくる!
所有のあたらしい意味.
レプリカビリティ.複製可能性.
このときのコピーとは?
いつコピーか?

memo239
Copycats and Digital Netives
60年代からの概念が生き残り続けている.
しかし,それらは「フラット」になっている.
境界がなくなるということは
ここでもサイボーグ化というか
キメラが生まれている?
Tumblr=キメラ?
メディアアーティストの新旧比較!
ブラッド・トルメル
peer pressure
60・70年代の概念が実装されていく2000年代
クリックひとつでつくられていく,
デジタルネイティブの独自の歴史.
そこではコピーライトは役に立たない.
リアルとヴァーチャルの転倒
常に同期するようになったがゆえの相互作用
身体がネットの外部記憶に結びつけられる

memo240
 “Hugh S. Manon and Daniel TemkinのNotes on Glitchを読んだ.その中に,「グリッチでファイルを破壊することはコピーすることであって,オリジナルを変形することではない.だから,グリッチは「Undo」を組み込んでいる」ということが書かれていて,オリジナルとコピーの問題を考える際に使えるなと思ったわけです.”

ICCでucnvさんの作品を見ているときに考えたことに通じる.グリッチの「オリジナル」はないのか? すべてがオリジナルなのか? 大量の同一モチーフのグリッチを目の前にすると不思議な感覚になる.グリッチにはオリジナルとコピーがあるのか/ないのか?

memo241
日曜日に参加してきた「インターネット・ヤミ市」ついて書きたいと思いつつも,今日は講義準備で1日が終わりそう.講義って時間がかかる.講義のことはもう頭から追い出したくて,ヤミ市.向こうのブログにしっかり書きたいけれど,ここに思いつくmemoをしておこうかなと思いつつ,時間がないかもしれないと思いつつも,そうでもいいか.

とにかく人が多かったです.ひとひとひとひとひとという感じ.そんななかあいも変わらず「論文」を売っていたわけです.暑くて汗が論文の上に落ちました.インターネットと汗,いいですね.「インターネット」という言葉.これを枕詞にしているのが「インターネット・ヤミ市」なのですが,インターネットおにぎり,インターネット日本酒などなど.インターネットってなんなのでしょう.ヒトがつくっておきながら制御できなくなりつつあるもうひとつの自然なんて感じではなくて,そこにある「インターネット」.枕詞としての「インターネット」.ヤミ市はインターネット1.0ぽいというのもTwitterかなんかで見た,そのとき僕はインターネットに興味がなかったというか,だからほとんど知らない.だから,僕にはリアリティが足りない.この距離感をどうにかした.埋めるのではなく,活かしたいと思う.でも,そうするとなんか寂しい感じもする.埋めたいでもそのままにもしたい.
文章が途切れた.

「枕詞」としての「インターネット」という感じになにかひっかかりを感じつつ.次のことへ移ろう.

memo242
仕事はいきなりやってくる.思ってもいなかったところから仕事がやってきてうれしいとともに驚きつつ,そのための時間をつくって,調査して考える.そうしたことからリアリティについて考える.論文にできるかどうかはわからないけれど,とにかく考え続けること.そしてそれを日本語でもいいからとにかくネットにばらまくこと.そうすることで,200年後とかにおもしろい資料になっているのではないのかなと思っている.確かに「今」の仕事も欲しいけれども,それだけではつまらないなーという感じもする.ネットがでてきてヒトの認識が少しずつ変わってきているのならば,そこの記録をつけておくと面白いなと思うわけです.そうした意識をもちながらテキストを書いていきたい.

memo243
Made with http://overlayer.com/
いろいろあるよね
Source: overlayer.com

memo244
環境が変わるなかで自分の思考がどう変わっていくのか気になりつつ,これを書いているけれども,これまでの影響とかのほうがつよくて,現在の環境はそれほど影響を与えない感じもするけれども,ここの環境に対する記憶が深くなればそれはそれで影響があるのかもしれないと思ってしまうのも,「けれども」という言葉をよく使う保坂和志さんからの影響でもあるわけで,ここから抜け出す必要はないのと思うのだけれど,そうした施工方法が論文作成にフィットするとかどうかは別問題でもあるという,このテキストを書き始めたときには想定していなかったことを書いた.「書いた」と突如終わらせてみた.自分的には違和感がある終わり方でもあるけれど,これもまた影響なのであろう.

memo245
ヒトとコンピュータとの複合体としてメディアをより精緻に考えるべきだとフルッサーは考えていたと,マーク・ポスターは述べつつ,ドゥルーズもメディアを考えてこなかったとしている.

テキストとイメージが交代すると二次元的な情報になる.

次元をもたない画像とポスト歴史→「貧しい画像」に囲まれているというのはまさにポスト歴史なのかもしれない.いやいや画像に「深さ」を求めるをやめるべきだとライダー・リップスなんじゃないの.そこに見えているものだけだし,そこにユーモアがあるかどうかでしょ.

テクノ画像がもっている幻覚的な力←これどういうことなのかもう一度読んでみるべき.

機能のための粒子・パーティクル.粒子の計算.ピクセルの計算.

「見えない可能性」から「見えている起こり得ないこと」へ.これは大きな変化←と書いたけれど何が大きな変化なのだろうか.「見えない可能性」を探ることをやめようとすることには賛成.「見えている起こり得ないこと」って,CGとかの表現なのだろうか.それもそうだけれども「手術台の上のミシンとこうもり傘との出会い」みたいな感じもありだとすると,the Joggingが日夜上げている画像のようなものになるし,それが「深さ」ではなく「ユーモア」で考えることができるとすると面白いのかもしれない.

インターネットがコピーを誘う.誘惑された認識と選択.

ヒトとコンピュータとの複合体から生まれる表象←これをあたり前に見てきた世代・状況としてのポスト・インターネットと考えてみてはどうだろうか?

「分解」と「構成」というふたつの相反する要素をもつテクノ画像.

作品(手),イデオロギー(眼),物語(指)を従えるコンピュータ・プログラム.テクノ画像の時代=世界実装の時代.

ボタンのひと押しが「公私」の区別を破壊する!→リブログというボタン!

ボタンを押し続ける→脳の構造→Tumblr!

空白に投射されるイメージ.空白ゆえのコピーなのではないだろうか?

「鏡のようにプログラムされている」だから,壊すと「本質」が生じる.世界をただ映し出しているだけではそれは世界のコピーでしかない.壊れることで世界が壊れ,鏡の本質がでてくる? 鏡の乱反射・コピーだらけのなかに出てくる本質→ラファエル・グリッチ?

イメージの循環とポスト・ヒストリー←やはりこのあたりのフルッサーの意識をグロイスとステイルのテキストと照合することから今の画像の位置づけをはっきりさせることができるのではないだろうか?

イメージとのインタラクションのなかで歴史性を失っていくこと→ブラッド・トルメルのプログレッシブ・バージョニングへということになるのではないだろうか.トルメルの言葉だけを借りるわけではないけれど…

プログラムが賢くなればハードが使いやすくなり,その分ヒトの意図は交代する→エンゲルバートの五本指キーボードに通じるところがある.

「私」は誰かが「あなた」というもの←四人称につながる「私」中心主義からの逃走を促す視点.

作家性がなくなっていく=ポスト・インターネット

インターネットとイメージとスピリチュアルとの関係

自然と人工の知能のあいだに区別はない

memo246
poor images と高解像度
このふたつの対立でもない
線形性ではないかたちで論文を書くことを考える.
解像度が関係ない
低解像度と高解像度のクラスタしかない
熱烈な嵐ファン
聖地巡礼でガイドブック
二宮くんの低解像度画像と高解像度画像
二宮くんが映っていればいい
二宮くんに見えるかどうかー視認性
価格ドットコム
画面の文字が小さいとクレーム
画面解像度が高くなったから文字が小さく
大事にされているのは視認性
映像だけで見せるときは解像度の高さを要求する
物語が解像度を補う
プロジェクションされる場合は解像度が高いほうがいい
いい感じ見れる映像
サムネイルだけ見ただけでその画像を知っている
深さはいらない
知っていればいい
あるいは知っていなくてもいい
リブログできればいい!!!!!
AVの解像度
解像度の問題ではない
ダイジェストを見ているとダメになる
FC2
現在的データベースのあり方に基づく作品のあり方を考える
GoogleやTwitterなどの大規模データベースの運用におけるデータベース
映画・文学がもつ不可視のデータベース
Facebookのデータベースの不気味さ
不可視と可視のあいだ

memo247
after or post
after:残響
post:切断
「post=切断」を選択したい
インターネット1.0による「切断」
「紙」のようなもの,「映画」のようなものが真似できないときの表現
「切断」を意識しているのではないだろうか?
afterとpostをつなぐ
残響と切断のインターフェイス
「残響」を意識させない作品=ポスト・インターネットなのかな?
残響って何だ?

memo248
mmmmm-mmmmm:
宇多田ヒカル - 桜流し (el poco maro Remix)
ループで聞きながらmemoを書く
Source: SoundCloud / el poco maro

memo249
アウトサイダーアートが流行っているのは「トレンド」がなくなったからということを都築響一さんがDOMMUNEで語っている.「トレンド」を失った時代に生きている.そんななかで「論文」を書くということの意味を探す.そんななかでの「論文」の形式を考える.どのように書けば自分の好きなことをそのまま書けるのか.「論文」という形式ではなくて,ブログで書き続けることが重要なのだろうか.「トレンド」がない時代で書き続けることを考えていくことが必要.東京でもなく,大阪でもなく,ニューヨークでもなく,パリでもなく,山口県湯田温泉からのパフォーマンスアートの極北を見る.

memo250
Tumblrって何なんだろう.自分ではこうやってテキストを書くように使うこともありますが,ほとんどは「リブログ」している.ネット上にある素材をリブログして自分の流れのなかにいれる.Tumblrのダッシュボードを流れてくるものをリブログして自分に組み込む.線路のポイント,川のなかの石のように流れを変えるリブログ.ハッとしてグーみたいな感覚でリブログ.ボタンを押してリブログ.あとで見返しもしなでリブログ.延々とリブログ.

何か生み出しているとかそういった感じはなくて,単に流れを変えるポイントになっている.フルッサーが言っていた情報の「フィルター」のようになっている感じ.「フィルター」となって情報を濾過していているのだとしたらいつか目詰まりが起こりそう.でも,起きないのが不思議.さっき,「情報を濾過」と書いた時に「情報を(自分のために)濾過」としようとしたのだけれど,「自分のため」というのでもないなと思った.自分のためでも誰かのためでもなくただリブログしている.いや「リブログしてしまっている」といったほうがより正確なのかもしれない.

Tumblrについてはもっともっと書けるかなと思ったのだけれど,書き始めてみると意外に書けない.Tumblrについて考えることはできるのだけれど,まだ書くことができない.「書く」という線形性とTumblrが示すリブログという円環との対比がここにあるのかもしれないとここまで書いて,急に思いついた.この思考の流れは線形的な感じがする.線形的な思考の流れではTumblrの「円環」について考えることができような気もするが,のらりくらりとふらふらとするとことで円環ぽい線が生まれて,それによって書けるようになるのかもしれない.

memo251
 “――あなたは、インターネットが単に情報を探す窓ではなくて、景色や世界そのものになると言っていますね。 僕は既にそれが始まっていると思う。アメリカの有名な発明家、RAY KURZWEIL(レイ・カーツウェル)による"シンギュラリティー"(2045年までに技術革新が起きて人間が不死身になるという説)もその一つ。インターネットはウィキペディアを見るだけのものじゃなくなっている。実際、僕は本物の山よりも、インターネットの中の山のイメージの前でたくさんの時間を過ごしている。だから僕にとってはインターネットがリアルな景色なんだ。それは僕を取り囲む世界だし、たくさんのものを見せてくれるものだから。いつかオンラインでインターネットと繋がって、同じ夢を見ることができたらいいなと思っているよ。”

http://white-screen.jp/?p=3223

ネットのほうが過ごす時間がない.ネットの風景が「リアル」な風景と言い切れる感覚.この感覚をもつアーティストが抽象的な作風をもつことの意味.ベクター形式の作品を好むことを考える必要がある.「写真」という現実を写しとったものを見ているわけではなく,ネット独自の「山」を見ているということも考える必要があるのかもしれない.

memo252
ここで書かれていたペンと紙によるスケッチは「スケッチ」として見ることができるが,デジタルのスケッチは「出来上がっていない作品」にしか見えないということの意味は何だろうか?

「スケッチ」という言葉がもつ意味は何か? 「世界のスケッチ」 ササッと世界のあり方を記す.その素早さがもつ意味.デジタルではそれが出来ない? なぜ? 

memo253
 “The browser is very different from other media, especially when it comes to composition. I believe we are at the very beginning of the aesthetic potential of the networked image.”
http://www.newrafael.com/formal-characteristics-of-the-browser/

ブラウザの美学.伸び縮みするブラウザ.デバイスのあいで大きさがちがうピクセル.ブラウザを通して画像を見ること.構成を自由に行うことができる.そこにブラウザの自由さがある.ブラウザからインスタレーションに至る移行で決定的に何かが変わるのか,変わらないのか.

memo254
“The internet presents artists with challenges, opportunities, and best of all, a lack of history.”
http://www.newrafael.com/formal-characteristics-of-the-browser/

インターネットがアーティストに変化のチャンスを与える.それはまた「歴史の欠如」から生じる.ポストの時代.ポスト・ヒストリー.ポスト・インターネット.

memo255
“Often I’m asked to convert my websites to videos for exhibitions. I prefer no to. My websites are all below 200K in file size, and the resolution and duration are infinite. Sometimes there’s no choice, I have to convert those websites to a ten minute video recording that is thousands of thousands times bigger in file size and lower in quality.”

http://www.newrafael.com/the-difference-between-videos-and-computer-graphics/

作品は「映像」ではなく「ソフトウェア」.解像度もループも無限大の作品を「映像」にするとデータ量が増えるがクオリティは落ちる.ここ重要.

memo256
“I don’t know much about programming myself. I know what’s possible in a browser but I have no idea how to make it. I don’t know the pros and cons of different protocols and compilers and interpreters and on and on. I’ve tried to understand what object oriented programming is but I still don’t understand.”

http://www.newrafael.com/the-difference-between-videos-and-computer-graphics/

プログラミンはよく分からない.理解しようとするがよく分からない.それでも作品をつくり続けている.「プログラミング」でできることというよりは作品のアイデアを実現する媒体としてのプログラミング.作品とアイデアが不即不離と考えるラファエルが,自分は理解できていないプログラミングで作品をつくること.プログラミングというアイデアを実装しているツール・言語で作品をつくること.しかし,それ自体についてよく知らないこと.ツールを知らずに作品をつくる.ツールを飛ばしてアイデアを実装する.もちろんプログラミングをする人を介するわけですが.「言語」のことをよく知らないからこその発想もあるし,これが普段,私たちがリアルにやっていることではないのか.いや,ツールのことは知るべきだとも言えるが.どちらなのでしょう.このあたりはとても気になる.

memo257
“Visual art might not use the spoken or written word as it’s primary medium, that does not make writing about art more theoretical than visual art itself. If an artist chooses not to talk about his/her art, it doesn’t mean the work isn’t theoretical.”

http://www.newrafael.com/art-theory/

「言葉=理論」ではなくて「画像=理論」でもある.ラファエルの言葉を追っていくとそこにはメディアアートやコンテンポラリーアートともちがう「理論」を感じることができる.インターネットの画像の理論がそこにあると考えたい.もちろんテキストだけではなくて,彼が作っている作品があってこそですが.

memo258
“My approach (vector based generative images) is one possibility, but I think there are many ways to deal with composing images for a browser. Art historians of the world, please be alert, there are probably a lot of artists right now inventing ways to deal with “the liquid canvas”.”
http://www.newrafael.com/composition-the-browser/

ブラウザを「流体キャンバス」と考える.これは以前も読んだけれど面白い.文字通り今までの「フレーム」を変えてしまっていて,そのなかでの実践・理論なわけです.「流体」美学.ブラウザの美学.

流体ゆえにリアルに出てくると固体化し割れるのか?

memo259
“Ideally the work is the idea and the idea is the work, they aren’t separated.”

http://www.newrafael.com/the-art-piece-and-its-description/

ラファエル・ローゼンダールの作品を考えるためにはつねにここから始める必要がある.「理想的には作品がアイデアで,アイデアが作品.それらを分けることはできない」

すべての作品がそうなのかもしれないが,それをブラウザ・ネットで行なっていること.その大本を理解することなく,アイデアのみを伝えて作り上げていること.

memo260
“I remember this story of an old church in France. I don’t remember the year but it was somewhere in the middle ages. For their stained glass windows they used a new blue pigment, a blue color no one had ever seen. The church goers would look up to the windows and see the bluest light they had ever seen. They believed it was heaven itself. Not a depiction of heaven, but really a peak into heaven itself. The church decided this was misleading and they replaced the windows.”

http://www.newrafael.com/virtual-reality/

「青いステンドグラス」のエピソードいい.誰も知らなかった「青」が「天国のような」ではなく「天国そのもの」をつくりだすこと.ネットも「リアルのような」ではなく「リアルそのもの」をつくりだしていると考えないといけない.決して現実の模倣ではない.ありものの組み合わせでもない.「禁止」されるようなあたらしい体験なのである.だから,「リアルのような」ものに置き換えられつつあるのかもしれない.

memo261
 “On the internet the artist has no boss, no mediator. There is no institutional structure, no publisher, no one between the artist and the audience. This anarchism makes for a spontaneous environment where weird things can happen. I appreciate the unusual and the irrational.”

http://www.newrafael.com/why-the-internet-is-a-good-place-for-art/

インターネットの本来あるべき姿!? ここにはないどこかを夢想しているだけかもしれないが…

memo262
“I did not start seeing the computer as an artistic tool until I discovered vector softwares. Vectors are mathematical shapes, not made of pixels, but of points and curves. Once I got into it, it felt like being weightless. Copy, move, drag, change color, warp, adjust, scale, duplicate, moving perfect shapes in an infinite space. There is nothing like it.”

http://www.newrafael.com/xlr8r-magazine-interview/#more-2428

ラファエルにとって「ベクター画像」がいかに重要な存在なのかを理解すべき.ピクセルではなく,点と曲線.そして数学的な存在.重さを感じさせないもの.

poor imageではないというところが重要.poor imageだけではなく,ラファエルの作品を考察することで見えてくるものがある.そんなラファエルのインスタレーションにおける鏡の破片がグリッチと関係しているかもしれないというucnvさんの指摘を絡めると興味深い.

memo263
“I always enjoyed mathematics, and vector software makes you feel like you’re in a mathematical world. There is nothing on earth that is mathematically perfect, and even if perfect objects existed, our eyes are too imperfect to see them. But spending time using vectors makes you feel like you’re maneuvering in this ideal conceptual world where square are really square and circles are really round. A world without noise or distraction.”

http://www.newrafael.com/xlr8r-magazine-interview/#more-2428

ベクター画像と数学との関係.数学的正確さ.理想の世界への接近.ノイズなき世界.poor imageとの対比すべき考え.

memo264
“Art changes just as much as society changes. Human emotions do not change. Falling in love felt the same in 10.000 BC as it does now. My perception has changed, but it is hard to say if that is from growing up or from the computer. I just know that the screen feels very free, changing the background color of a website takes milliseconds, changing the background color of a painting takes days.”

http://www.newrafael.com/interview-for-shock-magazine-colombia/#more-2067

社会が変化するようにアートも変化するけれど,ヒトの感情のみはそれほど変化していない.知覚の変化にコンピュータが関与しているのかどうかはわからない.コンピュータで背景の色を変えるのは一瞬できるけれど,実際に塗るとなると数日かかる.

memo265
The images are not abstract, they are abstracted. They are a reconstruction of reality. Photography is an approximation of reality, our visual perception is reduced to a grid of pixels, and each pixel is given one color. The photographic sensor chooses the color for us.
My visual language is built out of points and curves. These points can then be programmed to move at will. They are given instructions on how to behave. I find the world very overwhelming, and this is my way of understanding what i see. Just like philosophy dissects verbal language, breaks it down and analyzes how our thoughts are trapped in words.

http://www.newrafael.com/interview-for-shock-magazine-colombia/#more-2067

画像が抽象的なのではなく,画像が抽象化される.それらはリアリティを再構成する.写真は現実をピクセル単位にまで縮減しそれらに色を与えて再構成する.ラファエルが使う「ベクター画像」は「点と曲線」から構成される.プログラミングによって自由に動かせる「点」.「点と曲線」から世界を分析して,圧倒的な世界を理解する.言葉に囚われた私たちの思考を分析し,理解する.モンドリアンからの影響が大きい.

memo266
“I know many people, both designers and artists who use the computer every day for years and still think of it as a tool. These people surf the web to find scraps to fill real space, but can not see the web as world of its own. My computer, is not a tool, it’s a space, a world, a landscape. It’s screen has more dimensions than real life: in a browser window you can look further than in a real window.”

http://www.newrafael.com/miltos-manetas-interviews-rafael-rozendaal-for-purple-magazine/

コンピュータはツールではなく,空間そのものであり,世界である.スクリーンにはリアルよりも多くの次元が存在している.ブラウザのウィンドウは現実の窓よりも多くのことを見せてくれる.ネット>リアル.これが感覚の前提にある.

memo267
ラファエル・ローゼンダールについて考えることは,これから自分が書こうしているGIFなどの「貧しい画像(借りものではなく自分の言葉を考えたくあるが)」との対比で面白い.というか,ローゼンダールと「貧しい画像」とが両立するのがインターネットなんだから,そこを考えればいいのではないかな.となると,ローゼンダール以外に彼と同じような立ち位置の作家を探す必要あるといえばあるし,ローゼンダールがアートワールドに受け容れられているとすれば,そこを切り口にしてさっきの対立とそれを包含するインターネットということを考えることができるのか?

memo268
“警視庁の調べによりますと、高橋容疑者は法律で規制される前の、昭和50年代の雑誌に掲載された少女の裸の写真などを基にした画像ファイルを作り、ことし4月までの5年間におよそ1400個をインターネット上で売っていたということです。 調べに対し「コンピューターグラフィックスであれば摘発されないと思った」と供述しているということです。 警視庁によりますと、コンピューターグラフィックスを児童ポルノとして摘発するのは全国で初めてだということです。”

http://www3.nhk.or.jp/news/html/20130711/k10015970621000.html

レタッチしただけなら捕まるわけですが,どのあたりまで原型をのこしていたのかが気になる.どこまでが「実在」で,どこからが「非実在」となるのか?

memo269
“It is a cool kind of ownership, the owner sees the exact same piece as the rest of the world but their name is in the title bar of the website. “collection of …””

http://www.newrafael.com/richard-brereton-interviews-rafael-rozendaal-for-elephant-magazine/#more-845

ウェブサイトにある作品は「オリジナル」なのか? みんなが同時に見ることができる「オリジナル」はこれまでの意味でのオリジナルなのか.「ウェブサイト」を売る事自体が,ラファエルがよく言っている「Classic subjects in new formats or new subjects in classic formats?」なのか?

memo270
“I am not sure if I really use humor in my work. I try to find a space where you are not sure. Somewhere between beauty and curiosity. I like the original meaning of the word aesthetic: to intensify perception.”

http://www.newrafael.com/richard-brereton-interviews-rafael-rozendaal-for-elephant-magazine/#more-845

「知覚を拡大する」という「美学」がもつもともと意味からラファエル・ローゼンダールの作品を考える.

memo271
OutInTheWind.com is very haunting, is it about death?
My work is not “about” something. If it was, it would have a short explanation next to it, telling you what to think or feel when you watch it. I hope that my pieces become independent entities that are part of peoples lives and can be used or seen in any way. Like having a tree in your garden.

http://www.newrafael.com/richard-brereton-interviews-rafael-rozendaal-for-elephant-magazine/#more-845

作品は何かに「ついて」ではない.「なにか」でしかない作品を語ること.それぞれがそれぞれの仕方で何かを語れてしまう.それはそれでいいのだけれど,それではそこの先を問うことはできない.そもそも「その先」なんてもの自体がない.「問い」自体を変える必要がある.あるいは「問い方」を変える必要がある.それは「作品」の概念を変えることでもあるのではないだろうか.ラファエルの作品は禅問答のようだ.

memo271
“I honestly don’t have any intentions. I believe that the work exists without any reason other than its own existence. This is very important to me. How it resonates and what it does to people should be completely open.”

http://www.newrafael.com/richard-brereton-interviews-rafael-rozendaal-for-elephant-magazine/#more-845

完全に開かれた作品.コレクションされてもみんなが見ることができるという意味でも開かれ,作品の意味的にも開かれている.こうした「オープン」なあり方では作品を問うこと自体が問われている感じがする.

memo272
“Because I only look at a few things when I’m online, I have this idea that my material goes to a black hole when I upload them. This intensified with the iPhone: click click, to the vault, click click, to the vault. I never thought of universality, public exposure or exhibitionism. If I did, everything would be different. Now I’m sort of scared, but I guess it’s too late to back off.”

http://amaliaulman.eu/HUO_S_AU.html

次から次へとネットへ上げていく感覚.そしてそれを見きれないことが分かっている.何のためなのか.ただただ撮影してアップしていくこと.

memo273
HUO/SC: How did the “Weeping Image” work come about?
AU: Weeping Mountain was the first idea I materialized after a two year pause. That was definitely a big step for me. It started an all-or-nothing way of working where everything was thrown away after being documented. The work had a physical life-span of thirty minutes and a digital life-span of, by now, three years. Aside from that, the piece was pure juvenilia, post-internet and a very big etcetera.

http://amaliaulman.eu/HUO_S_AU.html

ポストインターネット

memo274
The 20th century is the century of the collage
Is the 21st century the century of the collage
I have many friends who work brilliantly in this field. Personally, I don’t do many collages, I don’t think I’m very talented when it comes to assembling stolen images together, I have a weird necessity to touch everything/ create everything from scratch.

http://amaliaulman.eu/HUO_S_AU.html

20世紀はコラージュの時代だったが,21世紀もコラージュの時代か?
コラージュがデフォルトの時代なのかも?

memo275
How is your iPhone app project coming together?
Badly. It’s hard to find an investor when there would be no revenue. The app is in itself non-commercial and anti-capitalist in it’s structure. When you write with water on hot ceramic, it evaporates. Well, this application functions on the same premises. It’s a confessional twitter-like app. As an anonymous user you could type something, publish it and see it disappear before your eyes. The front page would be this constant flow of thoughts, just for the sake of it: no feedback, no accounts, no usernames and no archive. I think it’d be a great way to analyse human nature and how cultural capital and feedback as currency keep social platforms afloat. This app is therefore an experiment, something that intentionally sees its own failure as a positive aspect, as a response to the questions and doubts about the economics and sociology in cyberspace.

http://amaliaulman.eu/HUO_S_AU.html

これが「Ethira」となる.このアプリを考える至るヒント.フィードバックなどがないなかで人はツイートするのか? ということなのかな.

memo276
“Nowadays I’m really interested in the sculptural and corporeal aspect of my works. There’s more to life than the internet.”

http://amaliaulman.eu/HUO_S_AU.html

パーカー・イトーはこのあたりをどう考えているのであろうか?

memo277
レフ・マノヴィッチの新刊『Software takes command』を読み中.そのなかに「From documents to performances」という節があって,ここは今自分が考えていること:パフォーマティブな画像とか「オリジナルとコピー」と関係するかもと思っている.

「ドキュメントからパフォーマンスへ」というところでマノヴィッチが考えているのは,コンピュータではデータを見せるときにひとつの形式に固定(ドキュメント)されなくて,いろいろな保存の仕方があって,表示の仕方があるよということ.

おなじ形式でもどんどんデータも追加されていくし,レイヤーも追加されていくので,ひとつのものとして固定されないのがソフトウェア・カルチャーのなかでの表現であるということ.
「パフォーマンス」という言葉で「一回性」ということは言っていなかったような(ここは再読の時に要確認).なので,「ドキュメント」という言葉はわかるのだけれど,なぜに「パフォーマンス」という言葉を使っているのかは少し謎でもある.だけれども,固定されていない=パフォーマンスと簡単に考えてもいいのかもしれない.

memo278
“──というわけで、このtofubeatsの「No.1」は、「日本橋高架下R計画」の発展形というか、「その次」って見るとすごくわかりやすいじゃない。「日本橋高架下R計画」の時は、GIFアニメのベスト集を自分で捏造してたわけだけど、今回は実写でそれをやっているという。Tumblr以降の映像の見方というか。”

http://modernfart.jp/2013/07/9782/

「Tumblr以降の映像の見方」=「リブログ可能かどうか」=「リブログできるような動画」

memo279
公募が落ちて失意の中,東京へ向かう新幹線.いろいろと思うところはありますが,切り替えて次に行くしかありません.

去年,GIFについて調べて,今回はラファエル・ローゼンダールのベクター画像,あとグリッチについてもまた興味がでてきた.これら3つの画像から現在の画像の状況を考えることができるのかなーなんて思いつつ,明日のトークが楽しみです.

GIFなどのpoor imageだけではないということなんです.あたり前のことにすぎないけれど,ネットにはもっともっと多様な画像が出回っている.いや,画像というか,画像をめぐる感覚が多様になっているという感じ.話を広げすぎると収まりがつかなくなるけれども,夏休みのあいだにぎゅーと考えてみたい.

memo280
ICCでucnvさんの展示を見てからグリッチがまた気になり始めた.現在の画像を考える上でとても大きな手がかりを示していると思う.ファイル形式に大きく影響するというか,その表現をファイル形式が規定しているところ.しかも,「正常」に見えている時よりもファイル形式のちがいが際立つというところが面白い.

そして,Kim Asendorfさんがファイル形式に着目して「ExtraFile」というものを作ってしまったのもとても興味深い.「ExtraFile」で用意されているファイル形式で保存すると「グリッチ」のようになる.でも,それは予め用意された形式での保存だから,グリッチが意味する「データの破損」とは異なり,「正当」な手順を踏んでいる感じがする.でも,画像は壊れたように見える.

「ファイル形式」から画像を眺めるというか,何を見ているのかいまいちよく分からない段階なんだけれども,これまであまり気にしなかった,気にすることができなかった部分をグリッチという手法や「ExtraFile」は見せている感じがする.

memo281
グリッチが気になる.何度でも書くけれども,GIFなどの「貧しい画像」とラファエル・ローゼンダールが好んで使うベクター画像という「鮮明な[芸術の設計より]画像(?)」とグリッチとを合わせて考えることで,現在の画像のことを考えられるともに,そこにある認識の多様性というか認識を支えている構造が見えてくるのではないかと考えている.

memo282
「風立ちぬ」を見た.地震の描き方,最初,何が起こっているのか分からなかった.「怖い」という感覚だけはあった.感覚だけあって,何が起こりつつあるのかはわからなかった.それが地震だった.宮崎さん自身が作画したのだろうか,なんだか分からない怖さがそこにはあった.

あとは「キス」していたかな.なにかあると「キス」していた感じがする.うん,いいのではないでしょうか.涙とキス.これがよければいいのではないでしょうか.「千と千尋の神隠し」のように「手」で表現するのもいいけれども,もっと直接的に描く.それがいいのではないでしょうか.

memo283
前期の講義もあとひとつで終了.前期を終えたら「あたらしい画像」について考えつつ,英語で書く練習をしたい.この前のラファエル・ローゼンダールさんとのトークで日本の情報が海外に出ていないということだったので,こちらでやっていることを英語で書いて向こうに届けて,そこで何が起こるのかに興味がある.まずはちょっとづつ書く練習をしている.

memo284
公募に落ち続けていて,心もポキポキしている.ちょっとナゲヤリになっていたのを注意され,少しやる気をみせるも,気がつくとまたため息がでるようになっている.ふー.これではいかんと思いつつも,どうしたものかと途方にくれている.

memo285
ataru-mix:
1989年 スタジオジブリ「新人アニメーター募集のお知らせ」宮崎駿・画
歴史資料として。
24年前もアニメの現場の状況は今とあまり変わらないらしい.
Source: ataru-mix

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レフ・マノヴィッチの新刊を読み終える.アラン・ケイのコンピュータは「メタメディア」であるという言葉と使いながら,コンピュータ上のソフトウェアにメディアが集中していくことをうまく書いている.

けど,なにか足りないというか,その先が見たいという感じ.マノヴィッチのように表現の媒体としてのコンピュータを語れる人はいないのだが,彼のテキストが現在に追いつけなくなっているような感じがする.ポスト・インターネットにおける表現に肉薄していることは確かなのだけれども,現在の表現はマノヴィッチが考えたことのちょっと先にある.

では,自分がその先のことを描けるかというと,それはそれで難しい.どのように描けばいいのかわからない.「あたらしい画像」という言葉で,圧縮画像,ベクター画像,グリッチという3つの画像を考えようと思うのだけれど,それがうまくいくかどうかはわからない.

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思想地図β4を読み終える.新津保建秀さんの写真について考えたい.東さんが新津保さん選んだ理由.新津保さんの写真のコーナーが鼎談のあとにあること.東さんがARではだめで,実際の場所にいくことで「知りたい」「触れたい」が出てくるときて,次に新津保さんの写真がある.「\風景」の展示ではそこにある写真にとても「触れたく」なった.それはiPhoneやiPadを撮影対象,いや撮影機器にしていたから感じものだが,今回のチェルノブイリという対象はどうなのだろうか.発電所内の司令室を撮影したものはトーマス・デマンドのような感じを受けた.対象が問題なのだろうか.新津保さんの世界の見方を大きく関わっている感じがするのだかが,まだ掴めていない.けれど.東さんのテキストと思想地図β4とゆう本の中での位置づけからはまさに「触れたい」と思わせる写真になっていると感じた.世界から引いているのもなく,見えないものを見ようとしているのではないような.そこにあるものを撮り続けている.「撮る」という言葉でいいのであろうか.「記録」「録画」なんだろうか.まだ整理がつかない.

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thejogging:
Landscape with Three Suns, 2013
Screen Capture
•••
いい.この「よさ」に関して,マノヴィッチは語ることができない.今のところ,僕も「よい」としか言えない.でも,ここに今の画像の状況を語るものがあると思う.普段見ているコンピュータのディスプレイのなかの風景.データのモノ化したものを写真にとってTumblrで流すというこの一連のプロセス.こういったところに「あたらしい画像」とその認識にまつわるヒントがある感じがする.

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4gifs:
Helpful girlfriend. [video]

面白い.昔からある表現だけれど,手前の「手」のリアルさが近年増してきているような感じがしている.

Source: ForGIFs.com

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Send Me the JPEG at Winkleman Galleryとインターネットヤミ市とを比較すると面白いかもしれない.Send Me the JPEGはタイトルからも分かるようにJPEGを展示するグループ展.ここの問題意識は近頃,ネット上の画像だけで作品が売れることにある.つまり,作品を直に見ることがなくなってきている.フィジカルではなくネットで! ということ.

対して,インターネットヤミ市はネットではなくフィジカルで! ということ.ネットでのデータのやりとりは便利だったけれど,近頃少し窮屈だからリアルの場で直に会って,いろいろとやりとりしようということ.

これに加えて,インターネットとアートワールドとの関係を考えると興味深くなります.英語圏では現代美術のマーケットがあって,そこにいかに入り込むのかを多くのアーティストが考えている.また,ギャラリーは販路拡大のためにネットを使う.要するに,アートワールドがインターネットを取り込みつつある.そのなかで「フィジカルな場の危機」が叫ばれている.そこへの風刺として,フィジカルな場であるギャラリーで作品のJPEG画像を展示しようとWinkleman Galleryが企画したのが「Send Me the JPEG」になる.

対して,日本ではアートマーケットそのものが存在しない.だから,ネットアートだろうが,インターネットを使ったアートであろうが,そんなものは端からアートワールドとは独立して存在している.メジャーなアートワールドに対してのマイナーリーグとしてネットが存在しているのではなく,独立リーグとしてネットは機能している.そのなかでの「フィジカルに注目!」になっている.

ここまで勢いで書いたけれども,これがどういう関係を示すものなのかよくわからなくなってきた.

アートワールドはネットを取りこみ,フィジカル放棄へ
日本のインターネット・リアリティ(の一部)はアートワールドとはもともと関係が薄く,そこからフィジカルに注目へ

いや,ポスト・インターネット世代のアーティストはアートワールドに取り込まれはじめるとフィジカルな展示にいくということもある.でも,彼・彼女らの作品の多くはネット上でJPEG画像で流通してしているし,それを良しとするのが彼・彼女らスタンス.これは変わらないし,そこを利用している.もともとフィジカル放棄で,一部をアートワールドに適応するように調整したということだろうか,だとしたら,アートワールド自体がオンライン重視になっていくと,また変化が起こるのだろうか?

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昨日のメモを向こうのブログに転載しつつ,アートワールドとインターネット・リアリティとの関係を考える必要があるなと思う.それは,この前のラファエルさんとインターネット・リアリティ研究会とのトークから考えていることでもあります.アートワールドとインターネットと言う問題でもあり,そこでの「お金」の問題でもあるのかと,エキソニモのMoney Finderからも考えるわけです.もっとカジュアルにお金を扱うという意識がインターネットヤミ市にあるというか,お金がお金の価値をやめる瞬間があるのかな.アートワールド及びアートマーケットが資本主義のなかで機能するようになればなるほど,インターネット上での表現が面白い立ち位置になってくるのかな.コレクションされたあとにも公開されているラファエルさんの作品のように.

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フランシス・ベーコン展にいってきた.キャプションに書かれていた「ガラス」の説明が気になった.ベーコンは見る人と絵画とのあいだに「隔たり」をつくりたいがゆえに「ガラス」を入れるという.ガラスがあるから反射して見づらくなるけれども,その見づらさが「隔たり」ということではなくて「ガラス」によってうまれる作品の統一みたいなものと,ガラスがあっても作品は見通せるということをベーコンは言っていたらしい.作品のなかで「低反射」のガラスがつけられている作品があって,それはほとんど反射がなかったので見やすかった.けれど,そこには「ガラス」があった.ガラスがない作品もあって,それはまさに「ダイレクト」にみている感じがした.なんだろう「ガラス」が入ることで守られているというか,実際に触れても「ガラス」があるから作品に直接触れることがないという安心感というか,なとも言えない感じがある.ここが自分的には大きな問題.

あとは,作品のなかに「矢印」が描かれているものがあること.「矢印」が書かれているとテンションがあがる.それがどんな意味をもつのか.ベーコンの絵画は「移行」の絵画と書かれていたので,カーソルのような「移行」を示しているのだろうかと個人的に考えつつ,うんうん,「矢印いいね!」と思っていたのであった.

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精神的につらい.というか,つらい.つらい.先のことを考えるとつらい.いや,考えることがいっぱいあり,これからも世界が変わり続けていくのを見ていけることはとても楽しみでもある.でも,そこで自分が実際にいっしょにそれを体験できて,それを書くことができるのかを考えるとつらい.書くためには生活をしてかねばらず,その生活の基盤を非常勤講師という職で賄っている自分にとっては,それは基盤とも言えないようなものであるから,なにかのきっかけでそこが揺らぐとつらくなる.非常勤をやめて,他の職種にうつれるとして,そして移ったらそれでいいのか,そもそも移れるのか.いや,いけるところまで行くべきだという考えもありつつ,もういけるところまでは来てしまった,どん詰まりなのではとも考えてしまい,つらい.つらい,つらいと言っていてもしかたがないので,考えを書き続けるしかない.あとは落ち続けてはいるけれども,公募を出しつづつけるしない.そして,教育・研究職ではない道も考え始めないといけない.たぶん,この文章は最後の「教育・研究職ではない道も考え始めないといけない」を書くために書いたのでしょう.

memo294
なぜネットアートか,メディアアートか? これらの言葉自体がもうなくなりつつあるとしても,これらは今のヒトと機械との関係の最も繊細な部分を扱っているから,ここにこそこれから考えるべきいろいろなヒトと機械の複合体の未来というか,複合体の認識が詰まっていると思うのです.以上,

memo295
「イメージ・画像とともにある行為」ということが思い浮かんだ.イメージ・画像というのはもう何か表現していることがメインではなくて,その後の行為が重要ということを考えた.「写メール」がその先駆け的な言葉なんではないかと思う.「写真+メールする」ということ.

博論が「ディスプレイ行為」だったから,ディスプレイ行為に慣れたヒトたちがイメージで溢れかえるインターネットで行いはじめたのが「イメージとともにある行為」と考えてみる.インターネットととにもこの行為が始まったわけではないけれど,近頃のイメージ・画像をめぐる状況の変化によって,私たちがイメージに何を期待するのかが変わってきているのではないのかということ.

その期待の変化の根本にあるのは,イメージに対して「コピー・オリジナル」意識がなくなっているということ.ネット上ではそのイメージに対してどこかに「スペア」がある感じがある.「コピー・オリジナル」と「スペア」という言葉の違いを明確にする必要があるのだけれど,コピーだとオリジナルには成り得ない感があるけれど,スペアだとオリジナルと同等というか,それに成り代われる感じがあるし,オリジナルももともとスペアが前提になっていると,「オレってオリジナル!」という感じが少くなるような気がする.そんな感じ.

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ネットで犯罪告白して炎上したDQNたちはインターネットがわかってないって批判もされてるけど、そもそもインターネットなんて誰も教えてくれない世界だから。  

私は学校にまともに行ってなかったから、もしかしたら学校で少しはやったのかもしれないけど、でも私自身は、インターネットなんて学校で習わなかった。 だから私の友達もだいたいインターネットなんて知らない。  

ミクシィやフェイスブックは知ってても、インターネット、っていうのは知らない。 携帯やスマホでケータイ小説読んだり日記書いたり写真載せたり動画見たりコメント書いたりしてるけど、でも、インターネット、って知らない。    

自分が使ってるのがインターネット、ってこと、知らない。

http://luvlife.hatenablog.com/entry/2013/08/07/221155

これもまたひとつの(インターネット)リアリティ.

memo296
気分が落ち着かない.先のことを考えるとため息がでる.ちょっと空いた時間ができるとため息がでる.ため息をつくのをやめようと思い,そしてしばらくはやめることができていたのだけれど,先日の公募にあっけなく落ちたくらいから,ため息がとまらなくなってきている.気分が沈んでいると作業効率というか,達成感というものがなくなり,どこかで「もういいや」という感じにもなってくる.これはやばいと思いつつ,気分を変えようとするけれど,変わらない.どうしたものかと思案中.

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 The Silly Separation of New Media Art by Daniël van der Poel を読む.もともとはオランダ語で,それをラファエル・ローゼンダールさんが英語に訳したもの.ラファエルさんはいろいろとやって,それのほとんどをネットにあげてくれるのでうれしい.

ネットアートやデジタルアート,ニューメディアアートなどなど様々な呼ばれ方はあるけれど,コンピュータを用いたアートは総じて美術館に収蔵されていないため,見たくてもみることができない.ここにひとつの問題があると指摘されている.でも,ローゼンダールさんのサイトのように作品をネットに上げていると,多くの人に見てもらえる機会をつくることができる.ラファエルさんのサイトには多くの美術館のサイトよりも多くの人が訪れている.

「作品を見せる機会」という問題とともに,もうひとつの大きな問題が「作品の考察」という問題があるとの指摘.情報技術を用いた作品を考察して,よりよく理解するためにはどのような種類の知識が必要かということ.現在では,メディア論関係の人が上記の作品を考察していることが多いがそれだけではなく,美術史の知識も必要だろうということ.美術史家やメディア理論家が,これからますます作品の発表の場として重要となっていくインターネットのフィールドワークをやる必要があるとDaniël van der Poelさんは考えている.

memo298
英語でテキストを書く練習をしているけれども,まったくもって長くかけない.英語で書いていると日本語でとは異なるアイデアがでてくることもあるけれども,いかんせん書くのに時間がかかる.これではダメダメだ.日本で生活して,考えていくことが困難になりつつあるなかで,選択肢のひとつとして英語で考えを書くということをもっと早くからやっていればと思う.けれど,日本でこれまで考えてきたことがあったからこそ,英語でも考えたいと思うわけだから,そこは後悔というネガティブなものだけではなくて,未来のためのポジティブな面もあると思う.

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グリッチのことを考えようとしていているのですが,どうにも取っ掛かりがつかめなかった.ucnvさんがグリッチを「再生」するということについて書いていて,ここでの「再生」は「play」であり,「再生装置」は「player」の意味としているのがひとつの手がかりとなりました.

「player」という言葉を,デジタルイメージは「パフォーマンス」に近いものだというボリス・グロイスの考えとリンクさせてみる.イメージファイルという見えない部分をもつデジタル画像ゆえに,その表示はオリジナルに対してのコピーというよりも,楽譜を元にした演奏のようなパフォーマンスに近いというグロイスの考えは,グリッチを考えるときに有効なのではないかと考えられます.

グリッチは画像の「見える」部分を操作しているわけではなくて,画像ファイルそのものをいじっていたり,「player」という再生装置を変えています.通常は「見えない部分」を操作することで「見える」部分を変化させる.その見えている部分が「グリッチ」という現象として提示されているが,操作されているのはほとんど人には「見えない」,あるいは「見ようとしない」部分になってます.

しかし,画像ファイルのデータというか言語の連なりを変更している場合それは「play」の変更なのだろうか,「player」の変更なのだろうかと思ったのであるが,そのどちらでもないのだろう.ここでの「player」は画像を表示するアプリケーションだから,そこには変更は加えられていない.そして「play」そのものはアプリケーションが行う.となると,その「play」への「指示」を変えていることになります.

グロイスが画像ファイルをビザンチン美術のアイコンになぞらえて,見えない神の見えるコピーとしてのアイコンと言っていますが,そうするとグリッチは「神」そのものを変更する行為と言えるのでしょうか.「play=pray」とすると面白いかもしれない.演奏と祈.

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