tumblrmemo400-499

memo400
こんな靴ほしい.ボテッとした感じ.
henderscheme:
model:mip-04
color:natural
owner:Kaneko Tsubasa
older:16month 
#henderscheme

memo401
これは見に行きたい.そして,考えたい.何が考えられるだろう.海外の情報を読んでいて,こういった企画が日本でもどんどん出てくるといいなと思っていたところに,この企画展,すばらしい.少し焦るところでもあります.見ることからしか始められない.企画にセミトラの田中さんという制作側の人が入っていて,とてもタイムリーなものを出してくるなかで,そして,海外では研究者もキュレーションをどんどん行っているなかで,自分はいまだに見ることからしか始めれらない.

memo402
ヒトから切り離されたカーソルとクリックと言えば,エキソニモの《Desktop BAM》.こちらはカーソルもクリックもコンピュータが行う.と書いてみたけれど,カーソルとクリックの動きはエキソニモが決めているわけで,《Desktop BAM》もまた普段の私たちのカーソル/クリックからつくられた《Click》と,ヒトが意思決定をしてカーソルが行為しているという意味では同じなのかもしれない.

memo403
幸村先生の作品は[昔−最近]では区分けできないのではないかと思いました.それは継続してずっとやっている作品が多いということもあるし,この前の幸村先生の4つの個展と講演から感じたのですが,作品が「人格」的なのかなーと考えた次第です.

上の話とTumblrに代表されるネット上を溢れる画像の話をつなげながら,幸村先生という「人・作品」をポスト・インターネットと絡めて考えることができたらと考えています.これができればポスト・インターネットは世代論ではないという異なる!? では,なんだと言われれば,状況論でしかないとうことかな.インターネットとともに,コンピュータとともに生きることを考える.

memo404
幸村先生ーナムジュンパイク→身体 モノの重さ
Jodiーエキソニモ→重さからは解放されるけど身体を引きずる
インターネット・カルチャーーラファエル・ローゼンダール→身体ではなくアイデアのスピードを求める
こんなことを考えつつカレントのテキストと13日の発表を仕上げていきたいと思っています.結局は「身体」を基準にしてしまうなー ここに「演算」をもってきて映像学会でも発表したいなー できるかなー

memo405
エモーション・キャプチャー.映像を重ねるとわかりやすい.

memo406
似ている.自分と似ている.

memo407
ピカソが描いた作品の数をあっといまに超えてしまうJPEG画像をつくると殴り書きするパカー・イトー.作品とJPEG画像を同列にならべてしまうところとか,「5年」というのは「5分」のことっていうスピード感というか,なんというかこの速さとあっけらかんとしたところが好き.どんどん作品つくって,どんどん画像をあげて,ドキュメンテーションしていってほしいな.

memo408
WORDS MADE FLESH
Code, Culture, Imagination 
Florian Cramer

コードが実装されると力をもつ.それはカオスにもなる.コードは言語でもあり,言語は常に操作の対象とされてきた.その歴史が書かれている.JODIに関する記述は参考になる.コードを逸脱することで,ソフトウェアをツールではなく美的表現のために用いることになる.それって「グリッチ」ってことなのかもしれない.

memo409
幸村真佐男→youpy/ライダー・リップス→パーカー・イトー/the Jogging/reretlet→幸村真佐男?
フルッサー,テクノ画像,複合体.
プログラミング.コンピュータの枠内.非語辞典.not JODI and エキソニモ.でも,ヒトにとっては「エラー」にちかい,膨大な量とその認識.認知限界? 認識放棄?
それでも続いていくのは何か?
構成,演算,ボタンを押し続ける.フィルターであること.情報をろ過すること.

memo410
ローゼンダール氏のキュレーションページは,彼によるJODI作品の「ゲーム実況」みたいな感じである.ローゼンダール氏がURLを入力しながら,クリックしながらネット上のJODI作品を巡っていく.JODIにはホームページがないので,まずはWikipediaのJODIのページにいって,そこから作品を巡っていく.ニコニコ動画に上がっているようなゲーム実況のようにゆるい感じで作品解説が進んでいく.ローゼンダール氏の実況で興味深いのは,JODI作品の特徴のひとつである「ソースを見る」をよくするところである.JODIの作品は一見何が書いているのかわからないページでも「ソースを見る」とすると,そこに「水素爆弾」などがアスキーアートのように書かれていたりする.ローゼンダール氏は作品ページにいって少しそれを眺め,それが何を意味しているのかわからないと「ソースを見る」.そうすると作品が別の見え方に変わる.あっけらかんと作品の「秘密」を覗いてしまっているような感じがとても興味深い.

Constant Dullaartのキュレーションページはゆっくりと自動スクロールしていく.はじめにYouTubeの動画があり,クリックするとJODI作品に対して言及している動画がはじまる.その下に言及された作品の画像があるのだが,その画像はなぜか回転している.動画と回転する画像との繰り返しで,いくつかのJODIのネット上の作品が紹介される.こちらの動画ではローゼンダール氏のように「ソースを見る」ということは行なわれない.ゆっくりとしたスクロールによって回転する作品画像によって不思議な感じに醸しだされている.

memo411
prostheticknowledge:
YAMADA TARO PROJECT
Japanese art project happening in Berlin and Tokyo by Katsuki Nogami, capturing faces displayed on iPads as heads and shared across the two cities - video embedded below:
This name is very traditional and most Japanese name like John Smith.But we can’t meet person whose this name,only example model.So this is like anonymous name.This time,performer doesn’t have face.So this person is looking for face and got and exchange many faces.You can recognize this person by only face.This is like icon on the Internet.There,you can masquerade other people.And that icon is walking in the city selfishly.Yamada taro is anonymous.
This project is done at the same time in Berlin and Tokyo where we are now, and it relays it in the hall. All the data of the face is sharing each places and you can see changing faces from Berlin and Tokyo.There is 8hours time difference,but faces got in real time go quickly 8hours,appears in real sight.You may feel real time.
[Link]
Katsuki has a Tumblr blog here
Source: vimeo.com

memo412
幸村真佐男→youpy/ライダー・リップス→パカー・イトー/the Jogging/reretlet→幸村真佐男?
幸村真佐男
幸村真佐男展/LIFE LOGー行雲流水ー
http://www.flickr.com/photos/fomalhaut/
youpy
http://www.flickr.com/photos/youpy/
ライダー・リップス
Hyper Current Living(2013)
Tweets about “#hypercurrentliving”
パカー・イトー
The Agony and the Ecstasy (2012)
Parker Cheeto: The Net Artist (America Online Made Me Hardcore) (2013)
Artie and Andrew and Brad and Haley and Jesse and Joshua and Lauren and Norm and Rachael and Spencer 
JOGGING
no reblog, no like.
トラのバターで焼いたホットケーキについて
memo413
“「未来玩具デジモ」はAndroid向けのアプリを提供しています。iOS用アプリも後日提供予定です。3Dプリント界隈を追いかけてる方はチェックですよ。”
来年度のために.
5分スキャンで最高品質プリント。3Dプリントのメディア型EC「未来玩具デジモ」がオープン : ギズモード・ジャパン
iOS版が待たれる
(via mitaimon)
Source: gizmodo.jp
memo414
ダグラス・エンゲルバートがつくった鉛筆にレンガをくっつけたやつの消しゴムバーションみたいな感じだ.
kogumarecord:
 “ SEED JumboEraser 修正用品 文房具の和気文具”
Source: kogumarecord
memo415
ゲームをやるときの指の動きと没入感!
memo415
ゲームをやるときの指の動きと没入感!
Source: geekygeekweek
memo416
幸村真佐男→youpy/ライダー・リップス/パカー・イトー/tumblr/JOGGING/reretlet→幸村真佐男?
幸村真佐男
幸村真佐男展/LIFE LOGー行雲流水ー
幸村がこれまでに日常的に撮り溜めてきた300万枚に及ぶ写真.その全ての写真を秒30コマのフレームに落とし込み,約27時間30分間の映像化を目指す.
http://n-mark.com/projects_kohmura.html 
http://www.flickr.com/photos/fomalhaut/
image
youpy
http://www.flickr.com/photos/youpy/
image
image
youpy:(約)1600万色を入れる予定で.でもいまは500万色ぐらいかな.
渡邉:まあこういうかたちで,1色1色って言ったらいいんですかね……
youpy:そうですね.
千房:RGBの数値を一個ずつずらして,全部上げてくっていうことですよね.
渡邉:256の3乗(=1,677,216)色ってことですね.Flickrという写真共有サーヴィスの上で,そういうことをやっている.いま,世界で一番写真がアップロードされているんでしたっけ?
youpy:Flickrでたぶん一番上がってる.
(一同爆笑)
youpy:これって実際のプログラムは10行ぐらいなんですよ.でも,そんな簡単なものでこれだけインパクトあるものができるのが,インターネットのすごいところだと思って. 
座談会「インターネット・リアリティとは?」 
幸村真佐男:カメラのシャッターを押すという行為を300万回以上行う
カメラ−コンピュータという装置のプログラムを内蔵化して,ヒト−コンピュータ複合体となる
身体が介在する
youpy:10行程度のプログラムによって500万ちかくのアップロード
ヒト−コンピュータ複合体としての行為を抽象化し,コンピュータに外注する
身体を排除する
コンピュータという装置の特性を自分のなかに入れ込んでひとつのヒト−コンピュータ複合体として機能することは変わらない.
ライダー・リップス
Hyper Current Living(2013)
Red Bullを飲みながら,ハイパースピードでデジタルなものをつくりだす.
image
image
an app that randomly sexts someone on your phone #hypercurrentliving
— retweeted (@ryder_ripps) April 29, 2013
Tweets about “#hypercurrentliving”
スポーツとしてのコンセプチュアルアート
アイデア+(プログラム)→スポーツ
実装可能性
ヒト−コンピュータ複合体としてのスポーツ!
Twitterでのアイデア拡散
RT, Favられながら蒸発していくアイデア
ーー
パカー・イトー
Artie Vierkant - Parker is a lifestyle artist. 
in I Like the Direct Experience of Documentation: A Conversation with Artie Vierkant and Parker Ito by Domenico Quarant
http://artpulsemagazine.com/i-like-the-direct-experience-of-documentation-a-conversation-with-artie-vierkant-and-parker-ito
The Agony and the Ecstasy (2012)
image
Parker Cheeto: The Net Artist (America Online Made Me Hardcore) (2013)
image
image

reblogとquoteが本質的に同一の行為である.ということが世界を変えた画期的な仕様の特徴の可能性の中心だと思う.目が脳の出先機関であり,それはほとんどニューロンの塊の一部である,ということに近い.
意識から無意識に,需要神経系から体に,体の作為などが皮膚や神経に,とあるニューロン系からあるニューロン系,発火系から発火系に,レイヤーを変えながらも基底につかわれ[て]いる脳の基本的なしくみたちが動きながら,双方向にフィードバックがある.丁度意識がdashboardか. 
 jを押す指先にあたるぽっちのささやかさが僕達の意識だ. 
I AM GATHERING YOU http://toukubo.com/post/51198746794

情報を増やす立場をとる中央神経系に奉仕するような身体をデザインする,ということだ.換言すれば,進化の偶然(サイコロ遊び)に意図的に介入して,「神経系-その他の身体」の関係のすでに開始された転換を完了させ,人間の人間化を具象化させることだ.(p.123)  
サブジェクトからプロジェクトへ,ヴィレム・フルッサー 
tumblrのしかけはそのように脳にとても良く似ている.めちゃくちゃ美しくて本当にゾッとする.オリジナルポストをする,Web的に外からSoTする.自分でカメラでとった写真をポストする(空間から選択して切り取った後のものである).人の画像をreblogする.人のテキストをdsbdからreblogする.dsbdから人のテキストの断片を選択してquote的reblogする,webから人のテキストの断片をreblogする.urlの粒度でwebからpostする.チャットをリブログする.みんな同じなんだ.これが大事だ.粒度を近づけたんだ.そりゃそうか.すごい.すごい!   

I AM GATHERING YOU http://toukubo.com/post/51198746794

Artie and Andrew and Brad and Haley and Jesse and Joshua and Lauren and Norm and Rachael and Spencer 
JOGGING
image
no reblog, no like.
トラのバターで焼いたホットケーキについて
i
mage
retletを含めた複数のtumblrヘビーユーザのreblogを生で見たことが何度かあるが,キーボードショートカットを駆使し,次々に新着投稿を表示させ,1秒に満たない時間でreblogする.写真だけではなく,長文に対しても彼らは秒速でreblogする.自宅にいるときは寝る直前まで,そして外出中も常にreblogし続ける.現実世界で気に入った風景があればその場で写真を取りreblogする. 
彼らのスタイルにおけるreblogはフィルタである. 
インターネットと同化した男が生み出した衝撃的なアート

波の谷はどれも,何か特別な能力(特別の情報)をもち,それらの能力が対話的に処理されることによって新しい情報が生まれる,というのでなければならない.そんな波の谷が未来の家なのだ.柵は,情報をフィルターにかけるための道具であり,その後ろに家が建てられる.未来の都市建設者は,集塵機になるであろう.未来の家を建てる者は,集塵機のなかにフィルターを取りつけるであろう.これを,「建築術と都市らしさ」の定義としてていしょうしたい.(p.85) 
サブジェクトからプロジェクトへ,ヴィレム・フルッサー  
幸村真佐男
幸村真佐男展/LIFE LOGー行雲流水ー
幸村がこれまでに日常的に撮り溜めてきた300万枚に及ぶ写真.その全ての写真を秒30コマのフレームに落とし込み,約27時間30分間の映像化を目指す.http://n-mark.com/projects_kohmura.html 
《LIFE LOG》はタイトルの文字通り「これは幸村先生が生きている時間なんだな」ということでしょうか.膨大な画像が「永遠とも思える宇宙的スケール」[→インターネットが当たり前になりこの宇宙的スケールがカジュアルなものになった]と結びつきつつ,最終的には幸村先生そのものがコンピュータとともにあるヒトの現時点でのひとつの極限(もうひとつがyoupyさん?[と以前書きましたが,幸村先生も含めてインターネットとともにあるヒトすべてなのではというのが今回の結論])として現れているといえます.
「幸村真佐男展/LIFE LOGー行雲流水ー」を見たを修正

memo417
「指を置く」展を体験しながらのメモ.
影と実体では「実体」の方が力を感じる?
インクのやつ
ふたコマ➕文字、情報量が多い
あり得ないことのリアリティがある
もともと「あり得ない」からなのか?
コンピュータとのインタラクションというのに一番近いのではないか?
こすった以外のところのインクがこすれるほうなは「こする」という行為を外部になげている感じがする。だから、もう一つの方は行為の整合性が取れないからしっくりこない。
指を置いた時の影が気になるものがある
指の重さが作用するものはしっくりくる
扇風機のやつ
ワープは感じやすい
ふたコマのやつは感じるのが難し
2点に指を置くもので「力」がでるものは、その力が身体のなかを通る感じがする。それがリアリティをもたらす?
張力が「発生」するのは置いた指を動かしたくなる
「図像のなかの指先」はむず痒い感じがする。カーソルと比較できそうでできない?
カーソルと比較できそうでできない?
スイッチを押すとフタが閉まって指か「切られる」感覚がある。ちょっと痛い!
図像と図像とのあいだがあいていると解釈しやすい
多視点のなかの指
カメラ 写真 図像ではない
二対の弓矢は手が捻れた感じがする
ブランコ、気持ち悪い
一瞬、「同期」しているとドキッとする
アニマを感じるやつの自分の入り込み感はヤバイ。所定のところに指を置かなくても「物語」をつくってしまう。 
鑑賞姿勢にまで指示するやつの入り込み度高い
「STOP」のやつ、GoogleMAPみたい。この「みたい」が重要な気がする。
抽象的な図像の方が納得できてしまう。指も抽象的な存在、自分の身体全体が抽象化しているような感じ。図像の抽象度に身体のレベルをアジャストさせているかな?
だから、すこし具体的なものだと「因果性の捏造」ができない。どこかでストップがかけられている。
「虚の脚」面白い
1 大丈夫な感じ
2 あれ、すこしやばい
3 なんか騙されているなー
指紋のやつのように「カメラ」の存在を想起させるものの「多視点」は受け入れやすい
作用が想像できるけど、それが自分ごとになってしまうのはとてもおもしろい。わかっているけど、止められない。 所定の位置に置かなかったときの自分の指紋ではない感じもおもしろい。
指を置くことで脳内で「プロセス」が発動するものとしないものがある。その差を考えてみたい。けど、難しいだろうな。

memo418
ucnvさんのトークをICCで聞きました.ICCのオープンスペース2013で展示されている《Tab. Glitch》をずーっと見ていると,何を見ているのかわからない状態になっていたのですが,トークを聞いてその謎が自分的に解けてきたような気がしました.それは,僕は「写真」とか「画像」という形式・メディアにとても引っ張られているなということです.

《Tab. Glitch》はグリッチした「画像」がプリントされた「写真」状のものが整然と並べられています.どれも「グリッチ」されたと感じられる「画像」であり「写真」です.「画像」「写真」という言葉を使った時点で,そこに「オリジナル」を探したり,どれも「コピー」なのかなと思ったりします.また「グリッチ」という言葉から,今見ている「画像」なり「写真」なりの「下」というか,ここには見えていない「文字列」の操作がこの今見えているものをつくりだしていると考えてしまう.

もちろん目の前にあるものは「画像」であったもので,それをプリントした「写真」みたいなもので,そこに写しだされているものには「グリッチ」という名前が与えられているのだけれど,ucnvさんとゲストの谷口暁彦さんの話を聞いていると,それはほんの少し違うように思えてきました.ucnvさんがしきりと《Tab. Glitch》の展示を「昆虫採集」に例えていました.「グリッチ」という現象を採集して,標本化するということです.ここで比喩をあえて文字通りに受け取ると,昆虫採集で採集され,ピン止めされて標本化されるのは「個体」です.「個体」にはオリジナルもコピーもなく,ただそこにいて,採集されて,標本化されているサンプルにすぎません.それは「画像」とか「写真」とかがもつ「オリジナル/コピー」といった意味がなく,単に「サンブル」でしかないのです.このように考えると,《Tab. Glitch》を見ているときの「分からなさ」が少しなくなっていったような気がしました.僕が見ていたのは「グリッチ」という現象のサンプル集だったわけです.それは「画像」や「写真」という形式で定着されているから,そこに意味が引っ張られることがあるのですが,そこには大きな意味はなくて,あくまでもグリッチという現象の「サンプル」ということが重要なのです.サンプルはサンブルで複雑な意味をもつかもしれませんが,ここではとりあえず「オリジナル/コピー」でも,そして「シミュラークル」といったものでもなく,単に「サンプル」だったということにしておきたいです.

ucnvさんは「昆虫」の比喩だけでなく,自分の作品を説明するときに的確な比喩を探しながら話していました.これは多分,ucnvさんがつくりだしているものを語るための言葉は,いままでの映像・写真・絵画を語るところにはないのではないかと思いました.ucnvさんが扱っている「グリッチそのもの」というもの,グリッチという現象を語るためには「◯◯のようだ」という比喩をメタファーを使うしかない状況にあるのかなと思いました.

「比喩」につながることだと思ったのが,ICCの畠中さんがucnvさんにグリッチの作品を依頼するときに重要視したのが,作品とともにある作家の「ステイトメント」だいうところです.目の前の現象を,現象そのものとして提示しても,おそらくほとんどの人がそれを理解する手がかりがない状態のなかでは,「言葉」がその理解の足がかりになるわけです.「言葉がないと理解できない作品はダメだ」とかではなくて,ucnvさんがやっていることは科学の法則を記述するようなことだと思います.記述されて,はじめてその存在が顕在化されるということがそこでは行なわれています.だって,目の前で「JPEG」という「ファイルフォーマット」が顕在化されていたとしても,僕たちは「JPEG」にも「ファイルフォーマット」にもそれほど長く付き合っているわけがないし,それが何であるのかほとんど知らないわけですから,そこにはやはり言葉による記述が必要なのかなと思います.

memo419
 “自分のパソコン歴は10年だがデジタルネイティブには、パソコン歴なる概念は存在しない。だってぼくらはテレビ歴なんて絶対に言わない。”
この例のように言葉の使用例のなかに「インターネット・リアリティ」を見つけることができるかもしれない.
Twitter / hisame (via kanabow)

memo420
IAMAS2014に行ってきた.触ると止まる.近づくと止まる.離れると消える.「インタラクションを止める」ということから生じるインタラクション.そのインタラクションを「気配」という言葉で言い表していたこと.これは考えてみたい.

memo421
 “yang02: このマシンにとって”エラー”とはどういったことを指しますか?

 Michael: 見てください、ここはラインが太くなっていきますが、ここでは細くなっていきます。これはマシンによる一種のエラーで、例えば、コンピューター上で理想的に計算されるラインは全て同じ太さで描かれます。でも実際にはそうはいきません。これが、ただのコンピューター上での演算が、現実世界に落とし込まれるということです。僕はこれを”ミス”っていうんだけど、ジュリアンはいつも「これはミスじゃない」て言うんです。でもつまり、これが僕たちが本当に追求している部分だし、僕はこれらのエラーを求めている。これがバーチャルなものをリアライズするということなのです。

http://www.cbc-net.com/topic/2014/02/sonice-development/

「コンピュータ上での演算が,現実世界に落とし込まれる」というここの落とし込まれるときに,ヒトとコンピュータとのあいだに生じる齟齬が「エラー」と見なされるときもあるし,そうでないときもある.そこのところがおもしろい.

memo422
「3Dモデリング」について書こうというか,Googleのあたらしいプロジェクト「タンゴ」について書くというか,これだけ書くと「メディア芸術」ではなくてテック系の記事になってしまうので,ここからオリバー・ラリックのプロジェクト「incoln 3d scans」につなげて3Dスキャン・モデリングから生じる「コピー/オリジナル」問題にふれつつ,Holly Herndon × 谷口暁彦 新作MV「Chorus」にいって,日常を3Dスキャンすることの意味の現在というか,「タンゴ」が一般化した世界を垣間見るというか,谷口さんがインタビューで言っている「1つのアカウントっていう存在は人間+コンピュータ+インターネットのそれぞれのハードウェア/身体を組み合わせたサイボーグ/キメラみたいな構造によって実現している」ということを考えてみたい,というところで,きっと「タンゴ」にもどって終わるといいのかなという感じがしている.

memo423
Googleが行うというだけでは見えてこない,その技術がもっている可能性をこれら2つのプロジェクトは見せてくれる.ひとつは3Dモデリングの裏側という世界のリミックスの可能性.もうひとつは3Dモデリングによるコピーとオリジナルの問題とそこから派生するリミックスの可能性.

そして,GoogleがTangoで実現してしまうかもしれない3Dモデリングの膨大な規模は,2つのプロジェクトが示していた可能性を表現のプラットフォームにしてしまうと考えられる.Googleストリート・ビューがその前例でである.Googleストリート・ビューそれ自体がひとつの表現媒体となり,そこで多くの「撮影」行為が行なわれていたり,エラーを記録されている.Tangoによる全世界の3Dモデリング化もまたストリート・ビューのようにひとつの表現プラットフォームとなり,多くの未知の風景がハンティングされていくだろう.

memo424
エヴァン・ロスのこのシリーズ,好き.自分たちがやっている行為の記録だと思うんだけれど,それが作品として提示されているのがいい.というか,記録=作品になってしまうのがポイントだと思う.研究者にもこの「指」への視点は必要だと考えている.こんどの「指を置く」展のトークではこの作品を紹介しよう.

cbcnet:
Slide to Unlock: Multi-Touch Painting Series
Vinyl print
600cm x 450cm
2014
Evan Roth
ad Ass Mother Fucker
Source: blog.evan-roth.com

memo425
Googleが発表したプロジェクトTangoをダシにして,ミュージック・ビデオ(MV)「Chorus」での谷口暁彦さんの3Dモデリングのことを書こうと思って,一度あらかた書いたのだけれど,そのあと引越し作業があっていまいちまとまらないまま,締切りが近づいてきてしまっているわけです.ということで,書きたいことをmemoしてみよう.

Tangoは3Dモデリングを表現のプラットフォームにしてまうのではないだろうか.それはGoogleがストリート・ビューで行ったことと同じこと.ストリート・ビューは便利で,あっという間に生活のなかに入ってきたけれども,便利さとは異なる表現のレベルでその価値を見出したのは多くのアーティストだったわけです.ストリート・ビューには便利なだけではなく,コンピュータを介することで生まれる表現の可能性が埋め込まれていた.それはおそらく,アスペンのストリート・ビューがつくられたときからあったものだと思うのだけれど,そのシステムを体験出来た人は少なくて,そこから一足飛びにGoogleストリート・ビューになったので,アーティストもストリート・ビュー以後にその可能性を見出したのではないだろうか.

3Dモデリングに関しては,Tango以前に多くの人たちがその表現を自由に試せる状態にあって,その可能性探っているひとりが谷口さんの「日々の記録」ではないだろうか.写真を撮るように3Dモデリングを行うこと.カメラ以後の記録行為の変化が起こっている.カメラがより多くの視点を取るための装置があったように,カメラとコンピュータとを組み合わせたような3Dモデリングはカメラよりも多視点を取ることができる.それはモノの表面だけではなく,演算処理されて裏側からも見ることができる.「裏側からの視点」,これはとても奇異なものでもある.何しろモノの裏側ではなく,表の裏というか,普段は見ることがなく,おそらく存在もしてないところからの視点でモノを見ることになるからである.これは谷口さんが言っていた「ヒトとコンピュータとの組み合わせによるキメラ」がつくりだす視点だろう.しかし,コンピュータとともに存在するヒトにとっては,その裏側の視点は実は奇異ではなく,親密なものではないだろうか.なにしろ,ずっとコンピュータとともにあり続けるのが今のヒトのあり方になっているのだから.

Tangoによる3Dモデリングのプラットフォーム化は,谷口さんが示していた奇異な親密さを当たり前のようにしていくだろう.Tangoによって精巧な3Dモデリングのデータが溜まっていけばいくほど,そこには「裏側からの視点」も溜まっていくことになるのだが,それは同時に見ることがないものになっていくだろう.Googleは「裏側からの視点」をユーザにとっては必要のないものだと判断して,それを見えないように設定して覆い隠すだろう.しかし,Googleストリート・ビューが常に使う人に未知の風景としての「エラー」を提供しているように,何かのキッカケで表にでてくるだろう.たとえTangoによって巧妙に覆い隠されても,そのときは谷口さんやその他多くのアーティストによる3Dモデリングの試みとの比較を行うことで,Tangoが切り開く表現のプラットフォームが示すヒトとコンピュータとが取ることができる「多視点性」とあらたな「親密さ」の可能性を追求できるであろう.

memo426
“iPhoneなどのタッチパネルの操作 
タップ:押すのではなく、軽く触れる 
ダブルタップ:素早く2回軽く触れる 
ピンチイン:2本指で画面上をつまみながら縮める様に動かす 
ピンチアウト:2本指で画面上をつまみながら広げる様に動かす 
ドラッグ:画面上を指で押さえながら動かす 
フリック:画面を指で弾く様に動かす 
スワイプ:指で画面を拭く様に動かす 
タッチアンドホールド:画面上を押しっぱなしにする 
シェイク:本体自体を揺らす”
タッチパネルの操作で「指を置く」という行為はないんだ.強いて言えば,タッチアンドホールドが「指を置く」かな?

http://essence-webservice.com/post/%E3%82%B9%E3%83%AF%E3%82%A4%E3%83%97%E3%81%A8%E3%81%8B%E3%83%94%E3%83%B3%E3%83%81%E3%82%A4%E3%83%B3%E3%81%A8%E3%81%8Bit%E7%94%A8%E8%AA%9E%E3%81%AE%E3%83%8B%E3%83%A5%E3%83%BC%E3%82%B9%E3%82%BF%E3%83%B3/

memo427
“トラックパッド独自の操作 
クリックとタップ:トラックパッドは押し込めることができますので、クリックとタップは違います。クリックはトラックパッドを押し込みます。 
チップタップ:2本指で、片方を押さえながら反対側の指でタップする(iPhoneとかでもできるはずですが、あまり言われません)”
トラックパッドにも「指を置く」はない.こちらは「タップ」が「指を置く」に近いのかな.クリックは「押す」感じで,タップは「触れる」.やはり「指を置く」という言葉の使い方が独特なんだろうな.

http://essence-webservice.com/post/%E3%82%B9%E3%83%AF%E3%82%A4%E3%83%97%E3%81%A8%E3%81%8B%E3%83%94%E3%83%B3%E3%83%81%E3%82%A4%E3%83%B3%E3%81%A8%E3%81%8Bit%E7%94%A8%E8%AA%9E%E3%81%AE%E3%83%8B%E3%83%A5%E3%83%BC%E3%82%B9%E3%82%BF%E3%83%B3/

memo428
どこの<私>に「指を置く」か?! 意識の流れのなかで生まれては消えていく<私>の流れのなかに指を置く.そこから生じる<私>を考える.今回はそれをコンピュータとの関係で考える.コンピュータの演算と<<私>という演算>との関係.演算の外と内.指と頭.動物としての呪術性? 

memo429
「指を置く」展では「指」を重要視しながら「指」を軽視している?
「指」は置かれているだけで,その先の紙の質感などは捨象されている?
ヒトが3次元に適した身体をつくってきたのは事実だけれども,これからは「スクリーン」という2次元にも適した身体をつくっていく必要があるのではと考えたらみたらどうだろうか? 
それは身体のかたちだけではなく,物事の認識も変化させることにつながるのではないだろうか?
「指を置く」ということで行なわれているのは,実はコンピュータとともに生きていくヒトのひとつのあり方なのではないだろうか?
感覚の捨象と演算を担うこと/任せること? ヒトが演算を行っているのか,それとも行なわされているのか? それはわからない.
ヒトとコンピュータとのあいだの「スピリチュアル」な領域を考える.
エヴァン・ロスのタッチ指紋シリーズを紹介する.
「指を置く」という行為に最も近いのが「指紋採集」ではないのか?

memo430
「手」について
ギブソンが考える手
外環の演算を担う手と指
手の使い方を複雑化することで把握可能な環境を拡張してきたヒト
そこに現れた演算装置コンピュータ
手による拡張を別の方向にシフトさせている
コンピュータにとっての「指を置く」とは何か?
クリック、タップなどなど
そのあとはコンピュータが演算
タッチパネルが出てきてカーソルが消えるとすれば、ヒトは身体を「変換」したくないのかもしれない→「君の身体を変換せよ」展との比較ができるかもしれない

memo431
http://www.onandoff.org/
スイッチ_これもまたコンピュータにおける指を置くなのではないだろうか? 何が起こるわけでもない,ただスイッチのon/offが起こる.これはコンピュータでありながら,紙の「指を置く」に近い感じをうける.
以下のベイトソンのテキストは「スイッチ」と「指を置く」を以下のベイトソンのテキストはつなぐのではないだろうか?
われわれは日常,“スイッチ”という概念が,“石”とか“テーブル”とかいう概念とは次元を異にしている ことに気づかないでいる.ちょっと考えてみれば解ることだが,電気回路の一部分としてスイッチ は,オンの位置にある時には存在していない.回路の視点に立てば,スイッチとその前後の導線の間 には何ら違いはない.スイッチはただの“導線の延長”にすぎない.また,オフの時にも,スイッチは 回路の視点から見てやはり存在してはいない.それは二個の導体(これ自体スイッチがオンの時しか 導体としては存在しないが)の間の単なる切れ目──無なるもの──にすぎない. スイッチとは,切り換えの瞬間以外は存在しないものなのだ.“スイッチ”という概念は,時間に対し 特別な関係を持つ.それは“物体”という概念よりも,“変化”という概念に関わるものである.(pp. 147-148) 
改訂版 精神と自然:生きた世界の認識論,グレゴリー・ベイトソン
memo432
光るグラフィック
光って,動いていることですべてが同一平面に置かれた感じ.その先には言葉の違いしかないのではと思ってしまう.「プログラム」という言葉があるかないか?
渡邉さんと新津保さんの作品の比較
太陽の光と電気の光,両方とも電気の光
渡邉さんの光をもとに提示される作品群
無限を感じさせる,ラファエルの作品
スクロールの仕方,動かし方の問題
光るグラフィック展はその名前がすべてを表している.「モーション・グラフィック」という名前ではなく,光るグラフィック!
RGB/CMYKというグループ分けが可能になったし,それに田中さんが着目して,展示を実現させたことはとても重要.
見た目では,光っていたらCMYKもRGBも区別が難しい.同じ土俵になる.「光」の先を考える必要があるとしたら,それはさっきも書いた「プログラム」ということか.ヒトとコンピュータとで「リアルタイム」でつくられるグラフィック.これもピンとこない.プログラムかどうかも「光」が包含したのではないか?

memo433
- 今回の出展作「neo geo city .com」は新作ですか?
はい。今回の作品は、二度と同じ模様のない、永遠に生成されていく都市(Infinite city)です。僕にとって重要なことは、無限大というのはとても抽象的なことなんだけど、コンピューター上では実現できるということ。滝のようにいつも動いている、でも二度と同じ滝ではない、ということです。

http://www.redbull.com/jp/ja/stories/1331636384236/art-blog-yu-miyakoshi-140228

「無限大を実現できるコンピュータ」という認識が言葉になっていることはとても重要.作品そのものも「無限」を表現しながら,どこかポップというかアッケラカンとした鮮明さがあるのがいい.

memo434
JODIのMAPに習って,インターネット・リアリティのMAPを作成してみたい.自分の資料でもあるし,2011年から続く「インターネット・リアリティ研究会」のための資料としてということも含めて作成したい.だから,起点は「インターネット アート これから」展にしたい.自分も関わることになった展示からはじめるという極私的な視点からインターネット・リアリティを眺めて,そこからアーティストの関係性をマッピングしていくことで見えてくるものを考える.そのマッピングも教科書的なつながりを記述しながら,極私的な視点を重視していくことをやってみたい.もともとネットは私的なつながりがつながりをつくっていったのだから.

memo435
「指を置く」展のトークのためにスライドをつくっていて,そこでのキーワードが「スピリチュアリティ」になった.[インターネット アート これから]展でのエキソニモのアーティスト・トークでの千房さんの「フィジカル・コンピューティングに対抗して,スピリチュアル・コンピューティング(笑)」を絡めつつ,「コンピュータにとっての『指を置く』」はヒトに「スピリチュアリティ」を感じさせることなのではないかという話.スピリチュアリティは「スイッチ」という機能につながっていて,スイッチは回路のなかにある導線であり,無でもあるという状態遷移をつくりだすもので,ヒトがその状態遷移のなか入れ込むことがコンピュータにとっての指を置くではないかということ.

コンピュータとスピリチュアリティということを考えると,その前にはおそらくアメリカの哲学の流れがあるのではないかと思い始めて,ホワイトヘッドを調べてみたりしている.この辺りはこの1年でゆっくりと調査.

memo436
いまトークのスライドをつくっていて,私が言っていた「行為のミニマル化」や「演算処理の外部化」というのは,あくまでもヒトから見た「指を置く」の結果であったのかなと考えるようになりました.タイトルにした「コンピュータにとっての指を置く」を考えると,それはヒトがコンピュータという巨大なスイッチ回路に入ってしまうことなのではないかと考えるようになりました.それはヒトがより大きな存在のなかに入るということで,「スピリチュアリティ」を感じることなのではないかという,現段階ではすこし「あやしい」感じになっています.でも,これは「指を置く」展での図版の体験にも通じると,私は思っています.「呪術性の生起」や「アニマの手触り」や「エネルギーを発動する指先」って,結構「あやしい」ことを(とてもいい意味で)しらっと言っているのではないでしょうか.

memo437
やはりこの人のバランスがいい.

memo438
“このシリーズは、パソコンのモニター内を「彼岸」や「聖域」のように捉え、モニターに花冠を映したところを撮影したものだそうです。タイトルの“untouched”は「私たちが触れることができない」領域、という意味を含んでいます。”

http://www.redbull.com/jp/ja/stories/1331641299275/art-blog-yu-miyakoshi-140324
この感覚,スピリチュアリティが溢れる.気になる.

memo439
アンドレアス・グルスキー展
写真の大きさとその大きさを無化して流通する画像としての作品との比較
上からの視点←写真が大きいと効果がデカい=神の視点
見上げないと見えない
少し首を上げるということが写真に意味を与えている感じがする←神の下でのヒトの小ささ,身体を持っていること
コンピュータでつなぎ合わせること
世界はつながっているが,グルスキーの写真をつなぐためにはコンピュータの空間が必要.でもそのままでは「重すぎて」ネットに上がらない.←このあたりが一番考えたいこと.谷口さんのウェブカムをつなぎ合わせるやつや new jpegsや,トーマス・ルフのjpegsとの比較で考えてみたい.
作品の数の多さ←作品がデカいのにこの数の多さはという感じ
作品の,海の中央を走る白い線
印画紙という物理的存在感がここにある←この物理的な線を見たときに何か感じた.

memo440
Can Art History Digest Net Art? 読んだ.面白かった.アートヒストリーがネットアートを消化できないわけが延々と書いてあった.ドットコムバブルが弾けて,ネットアートが表舞台から消えたことも影響しているらしい.

ネットアートが美術館に入らないからだということから,ネットアートの「メディア」がよくわからないということもありつつ,ネットアートを絵画でもドローイングでもない視覚的表現としてどのように見るのか一定の一致をみていないとか,美術史の人がインタラクティブなモノを扱ってこなかったことなどが理由としてあげられていました.これを書いた美術史家のJulian Stallabrassは,美術史が写真をつい最近まで扱って来なかったように,ネットも今のところ扱っていない.けれど,ネットアートは写真よりも大きな変化を美術史に与えるだろうと最後に書いています.

memo441
Send Me the Jpegに関する記事を読む.この展覧会は「アートワールド」の展覧会.オンライン上での売買は止らないという感じのアートワールドを風刺している.けれど,この展示を見ていると,未来のアートはこのようになっていくのかもしれないという感じも受けると書かれていた.つまり,全部,画像.それは手触りもなく,軽い!

でも,これらの記事を読んでいて感じたのは「データの所有」ということは全く問題なっていくて,あくまでもJPEG画像を見て,リアルの作品を買うということはどうなろうかという問題提起に留まっている.JPEGそのものが売れることは問題になっていない.アートが画像になっていくところも,データを購入するという問題意識をすっ飛ばしている感じがするところが,Send Me the Jpegがインターネットを経由した意識・感覚にはなっていないといえる.

memo442
who-wore-it-better:
Jack Strange g  ::  Alicia Eggert Present Perfect
インターネットで「石」流行っている!
Source: who-wore-it-better

memo443
“tumblrのルールは一つだけ。 1.ルールはない”
PETAPETA (via nemoi) (via tetsuyay) (via thresholdnote) (via ak47)
2009-10-31 (via mcsgsym) (via appbank) (via atm09td) (via usaginobike) (via darylfranz) (via atm09td) (via jun26) (via yoichi13) (via aki373) (via mesotabi) (via katoyuu) (via tokada)
yahooに買われても,今のところまだこんなポストが回ってきて,「そうだよね」と言えるのはいいことだと思う.

memo444
Cultural Entrepreneur Stefan Simchowitz on the Merits of Flipping, and Being a "Great Collector" | Art for Sale | Artspace
internet-realty:
パーカー・イトーやアーティ・ヴィアーカントのパトロンとも言えるStefan Simchowitzのインタビュー.

インターネット・リアリティ研究会でも何度か言及した展覧会「new jpegs」にもStefan Simchowitzは大きく関わっていて,Simchowitzはお金がないパーカーらにスウェーデンの航空券をあげていたりする.Stefan Simchowitzは「ポスト・インターネット アート」を裏からつくってきた人物といえる.このインタビューを読むまで,全然知らなかった.
このようなパトロンがいるかいないかによって決まる部分があるんだろうなと思う.パトロンがいるということは,そこに市場があるということ.その対比としての「インターネット・ヤミ市」.「市場」を自らつくってしまうということ.そのメタファーを考える.

memo445
「かけんがかけん」と言いつつ,概要は書いた.とりあえず書いた.これに文献の引用とかしていけばいいのかな.目的とか計画とは,そんものはあってないものだと思いつつも,それらを書いていくと考えがまとまってはいくので無駄ではないと思いつつ書く.
−−
研究目的(概要)
本研究は,日本におけるインターネットとアートの関係性を明らかにする研究である.このような着想に至った理由としては,日本ではこの分野のまとまった研究が行なわれていないことと,これまでにもいくつかのネットアートを扱う書籍が英語圏で刊行されているが,そのなかには日本のことがほとんど触れられていないからである.そこで今回は,インターネットカルチャーとネットアートの双方の文脈で活躍してきた日本人アートユニット「エキソニモ」の活動を追っていくことで,日本におけるインターネットとアートの関係性を考察していく.今回の研究期間においては,エキソニモも参加しているIDPWによる「インターネットヤミ市」及びインターネット・リアリティ研究会の活動から,日本におけるインターネットとアートの関係性の現状を海外のネットアート/インターネットカルチャーとの対比によって明確にしていく.
研究計画・方法(概要)
26年度はエキソニモ,インターネットヤミ市を開催したIDPWメンバー,そしてインターネット・リアリティ研究会のメンバーに対してのインタビューを行う.これらのインタビューと並行して,これまでに出版された日本国内・国外のアートとインターネット関連の書籍や日々更新されるウェブのテキストの調査を行う.また,海外のアートマーケットによるネットアートを売買するという動向とインターネットヤミ市との対比を行う.これらの研究成果を,10月にドバイで開催されるISEA(電子芸術国際会議)2014で発表する.27年度は前年度にインタビューしたものをもとに論文執筆と,それらを海外に向けて公表するための翻訳作業を行う.

memo446
『Art and the Internet』はnet.artからポストインターネット・アートまで扱っているのが目次からわかるのだけれど,そこに日本人のアーティストが載っていないというのは悲しいというか,なんというか,チャンスというか.やはり日本語の壁というのがあるんだなと思うわけです.インターネットがつなぐのは,英語圏の人たちがメインであるんだなとしみじみ思うわけです.

『Art and the Internet』はまだ全然読めてないのだけれど,エッセイが3つ載っていて,そのなかのDomenico Quarantaの「In Between(あいだに)」はとても参考になった.ネットとリアルなどのさまざまな「あいだ」を指摘いくのだけど,最後に「独立した場」みたいな項(うろ覚え)があって,そこにラファエル・ローゼンダールのBYOBを取り上げていて,この試みはアートワールドのなかで独自の場所をつくっているというようなことを言っていた(もう一度しっかり読まないといけない…).これを読んで,BYOBをヤミ市と比較することができるじゃないかと思ったわけです.QuarantaはローゼンダールのほかにAram BarthollのSpeed ShowとDead dropsを取り上げていて,不自由なネットから自由なリアルへというDead dropsなんかはまさにヤミ市と重なる部分があるなと思うわけです.ヤミ市はBYOBやDead dropsが行っていることに「マーケット」という部分をもちこんでいることが面白いのではないかと.ローゼンダールやAram Barthollはもう「マーケット」に入っていて,そことは異なる場として各々活動しているから,そこには「マーケット」が入りこまないのかなーと朧気に考えています.

memo447
科研費の申請と同時に大学の研究支援にも出そうとしていて,最初は「インターネットヤミ市」関連でほとんど一緒だったので,ちがいを出そうと考えた結果が上の図.エキソニモと谷口暁彦(敬称略)とインターネットヤミ市やインターネットリアリティ研究会と扱う作家は変わらないのだけれど,切り口を変えてみようと思う.近いところからリアリティを確かめていって,それを徐々に広げていきたい.

memo448
‘Spinning Beach Ball of Death’, 2007, Pencil Crayon, Card, Wood, Motor
Jack Strangeは1984年生まれ.立体の作品を多くつくっているみたい.そんななかにこんなレインボーカーソルの作品がある.マテリアルに「Motor」ってあるから,きっと回る.見てみたい.実際に見たらどう思うんだろう.

memo442で石を使った作品をつくっていた人.でも,その石の作品の画像はない.

memo449
表象08の「ポストメディウム」特集読んだけど「ポストインターネット」はふれられていない.ふれられていない.ふれられていない.大事なことだから3回言ってみた.レフ・マノヴィッチ経由で「メディアアート」はふれられている.

memo450
表象08で訳されていたロザリンド・クラウスの「メディウムの再発明」のなかで,コンセプチュアルアートが写真に助けを求めたというのがあって,それは最終的には「視覚性」を拠り所にするということなんだけれど,これを読んだ時に,ネットアートはすぐにコンセプチャルアートに助け,この場合はアートとしての正当性を求めるなということ.そして,ネットアートもコンセプチャルアートに助けをもとめて,最後はスクリーンショットという「写真」を拠り所にするなーと思った.それは,コンセプチャルアートもネットアートも「非物質」「はかない」ということだったりするんだけれども,それで納得できるような気もするのだけれど,写真に助けを求めるコンセプチャルアートとネットアートが助けをもとめるコンセプチュアルアートは微妙にズレているような感じがする.ネットアートが助けを求めているのは,美術史のなかに制度として確立したコンセプチュアルアートであって,どこか写真に助けを求めざるを得なかったコンセプチュアルアートではないような気がする.

ライダーリップスは自分のことをコンセプチュアル・アーティストと言っているけれども,これはこれで良いような気がする.でもそれは結果を提示するだけのコンセプチュアルアートではなくて,アイデアから制作までのプロセスをすべて見せてしまう,リアルタイムにコンセプトが何かしらのカタチになるというプロセスを「コンセプチュアル」と言っているような気がする.アイデアの実現の速さとしてのネット.プログラミングのなかで流れそのものがコンセプチュアルだということなのかもしれない.そして,それを記録するのがもちろんスクリーンショットもあるわけだけれども,Twitterなどになっているところも興味深い.文字に頼るコンセプチュアルアートって書くと,別に大したことない感じだけれど,ここにはコスースとかとは異なるコンセプチュアルな感じがある.

memo451
勤めている女子大で「ポストインターネット・アート」についての授業をしてみた.今回はGoogleストリート・ビューを用いたアートということで,ジョン・ラフマンの《9-eyes》について興味が湧くかどうかを100字以上の理由ともに応えてもらう宿題を予めやってもらった.そうしたら,大半が「興味が湧く」という回答していた.授業だから「興味が湧く」と応えたほうがいいというような感じもあるのだろうけれども,意外といえば意外だし,順当といえば順当のような気がする.だって,ジョン・ラフマンがやっていることは「写真」の流れにも当てはまから,この流れで考えれば写真に興味をもっている人は興味が湧くかなという感じがした.

芸術系の大学ではない,文学部のメディア表現学科,しかも女子大という環境で「ポストインターネット・アート」の授業をすることの意味は,自分でもまだわからないでいるけれども,なんかいいところで授業をしているなという感じはあるので,このままやってみたい.

memo452
Link Art Center
ほぼ毎日ネットアートとかに関してずらずらとmemoを書こうと決めては見たもののすぐに書き忘れてしまう.

今,三輪健太郎さんの『マンガと映画』という本を読んでいて,そこでは題名通り「マンガ」と「映画」の相違点がいろいろと検討されています.そこで面白かったのが「メディアスペシフィック」で考えると,マンガと映画はもちろん異なるけれど,スタイルやシステムで考えるとこれらには似たところがあるという点.

で,何が気になったというと,ネットアートの「メディアスペシフィック」って,何なんだろうなと思ったわけです.ネット,そしてそれを構成しているコンピュータ自体が「メタメディア」と呼ばれていたり,「ポストメディウム」とか言われていたりするから,そもそも「メディアスペシフィック」な感じがないから,「スタイル」や「システム」を生み出す基盤みたいのがないのかなと思いつつも,いやいや「デジタル」とか「数字」というのがコンピュータのメディアでしょということも言われている.

「メディア」のことを語る言説だけがあって,スタイルやシステムをつくっていく言説はまだないのかなという感じもする.映画やマンガにはあるけど,コンピュータ,ネットにはない言説を考えるといいのかな.

JODIが「グラフィックのレベルで勝負」みたいなことをインタビューで応えいたのを引用で読んだのだけれど,この「グラフィックのレベル」というのは僕にとってはずっと攻めているところのかもしれない.エキソニモもヒトとコンピュータの双方の「インターフェイスのレベル」で考えているようなことを書いていたような気がするし.

デジタルとか数字とかポストメディアとかメタメディアとかではなくて,グラフィックのレベル,インターフェイスのレベルで考えてみるコンピュータやネットやネットアートやポストインターネットアートなのかなと思いつつ,下のネットオークションでも見てみましょうか.

internet-realty:
Born Digital includes 33 European artists working with the digital medium. The auction supports Link Art Center regular activities: publishing and exhibiting online & offline.

またまたデジタル/インターネットよりのオークションがあります.タイトルはBorn Digital (April 15 – 30, 2014)で,イタリアのLink Art Centerがオンラインオークションのpaddle8に協力しています.今回はフィリップスのような「リアル」のオークション会社が関わっていないのでオンラインのみで展開されるのだと思います.このオークションをエヴァン・ロスのメールレターで知りました.

memo453
What is a pixel? at Aram Bartholl – Blog
ピクセルが見えないのなら,それをモチーフにするような感覚やリアリティも生まれない.レティーナディスプレイ世代にとって「ピクセル」ってなんだろう.「懐かしい」ものではないし,ディスプレイの「デフォルト」でもないわけですよね.
internet-realty:

Aram Bartholが9−11歳に向けてワークショップをやったという記事のなかで,レティーナディスプレイを見て育っている子どもたちに「ピクセル」ついて理解するのが難しいということが書かれていた.子どもと接していると,そこには別のリアリティがあるっていうとても基本的なことに気付かされた.

memo454
ニューヨークのHigher Picturesで開催されているアーティ・ヴィアーカントの展示から.アーティが今までやってきたimage-objectsとExploitsというふたつのシリーズを合わせた展示なっている.

image-objectsは展示したブツの画像を加工したイメージとセットで見せるというか,加工したイメージの方がインターネットで多く見られるよねというもので,Exploitsシリーズは「知的財産」に関するもの.個人や企業がもっている「知的財産」をアーティが彼らに交渉して使えるようにするもの.

今回の展示ではおそらくPolaroid社のロゴを使ってimage-objectsを作成していると思われる.そして,それはロゴをつかっているということでExploitsシリーズにもなっていて,交渉はうまくいっているみたいだけれど,最後のつめが残っていること,ということがプレスリリースに書いてあった.

image-objectsシリースは展示されているモノを加工してネットに流すから,今回もモノがとてもボカされているのはまさにアーティらしいな感じがしていたのだけれど,プレスリリースを読むと今までよりもひねってある気がする.それは今回の「ボカシ」加工が「知的財産」に関わるという実際的(アクチュアル)な問題で行なわれているのではないかと考えてしまうから.

アーティの活動をおっているとモノとイメージとの境目がわからなくなってくるし,そこに社会的規範というか決まり事としての「知的財産」という,モノでありつつ,モノではなくアイデア=イメージの部分に関わるものを絡めせてくるのがうまいなと思う.

memo455
講義準備でグルスキーと谷口暁彦さんのことを考えて,Joshua Citarellaによる「Compression Artifacts」のことを考えていたら,一日が終わるという幸せな感じの一日であった.「オリジナル」って何だ? とかそういった問い自体がもうちがうのかもしれない.もっと大胆にいくことが求められている感じがする.それをニューヨークのアーティ・ヴィアーカントやブラッド・トルメルあたりが実践している感じがする.日本で展示しないかな.「日本で」という考えがもうだめなのかもしない.実際に見ることができない「日本から」考えることで,彼らと並走しながらも,異なる考えを提出できるのではないだろうかという方に100ペソをかける.

memo456
三輪健太郎さんの『マンガと映画』を読んだ.この本,読み進めれば進めるほどワクワクします.「コマ」の謎が解き明かされていく感じがします.最後の方まで読んだ時に,ネットにおける「コマ」としてブラウザの時間論みたいなことを考えたので,これを書評会まで練っていきたい.

ブラウザを「コマ」として考えると,ラファエル・ローゼンタールの「可変フレーム」「変化する構成」というのは動的に変化するというところでマンガのコマと対比しながら,ブラウザの「フレーム」問題を考えられるであろう.コマのなかの表現としてはエキソニモのFragMental StormやJodiのhttp://www.wrongbrowser.com/とかを参照するといいかもしれない.あとは,延々と真っ黒な闇をリロードし続けるライダー・リップスのhttp://refreshingdarkness.com/とかも面白い.

memo457
Josephine Bosma, Nettitudesを読んでいて,彼女がマノヴィッチの3つのスクリーン分類(クラシカル,ダイナミック,リアルタイム)に「リアライズド[the realized screen]」というのを足していたのが興味深かった.リアライズド・スクリーンというのは,バーチャルリアリティを使うことなく,スクリーンが消滅しているものを言うらしい.このあたりはもう一度読んでみる.

彼女はリアライズド・スクリーンの例としてOlia LialinaとJan Robert Leegteをあげていた.彼女たちの作品はブラウザやインターフェイスの要素を「リアライズ」しているということらしい.もう一度読み返して検討しないといけないけれど,ブラウザという「枠」を考えるにはいい参照項をもらったような気がする.ブラウザという「枠」で扱うのコンテンツが表示されている部分だけでなく,アドレスバーだってあるし,タブだってあるし,スクロールバーだってあるということになって,これらをうまく表現すると,そこに「リアライズド・スクリーン」が現れるというのはどうことなのか? 用検討事項.

memo458
J StallabrassのThe Aesthetics of Net.Artを読んでみた.J Stallabrassはnet.artには「anti-aesthetic」だと言われていて,確かにアートがもってきたモノとしての「aesthetic」はないけれども,アート,コンテンポラリーアートが行ってきた政治的・商業的なものへの抵抗みたいない意味では「aesthetic」があって,ここに関していえば,コンテンポラリーアートよりも「理想主義」なnet.artこそが「aesthetic」なのではないか.少なくとも「(retro) aesthetic gestures」をもっている,というようなことが書いてったような気がする.

これを読んでいて思ったのが,net.artはそうだったかもしれないけれど,ポストインターネット・アートはコンテンポラリー寄りの戦略をとっているなということ.それと,インターネットヤミ市は意外とnet.artに似ているなということ.net.artが結構,強行的に経済や政治に介入したの対して,ヤミ市は「ユーモア」だけれども,突っ込んでいっている対象は経済のお金で同じだから.そんなことを考えた.ここにヤミ市の特徴である「身体」「リアル」を組み合わせると面白いかもしれない.

memo459
グルスキーとポロック
ポロックの作品を撮影した作品
イメージオブジェクト?
近づいて見ると解像度が足りないと思ってしまう.
遠くから見る分にはいいと思っていたが,一度解像度が低いと思ってしまうとボヤけて見えてしまう.
風景を撮ったものには「解像度」のことを考えないが,ポロックの作品には「解像度」を感じてしまう.
適切な距離で見るとキマる!
フレームの影と作品の影
風景,建物を撮影した作品はそこに写っているものの「解像度」のことを思い出してもこんなものかなと思ってしまう.

memo460
0620くらいに,オリジナルの例として「モナリザ」が言及されて,それが家で見れるような話がされている.パブリックであって,プライベートでもあるオリジナル.「パプリック」「プライベート」「オリジナル」という言葉を使ってみたけれど,インターネットではこれらの言葉に変わるものがまだないから仕方なく使っているに過ぎないのではないかな.あたらしい言葉を少しづつでもつくっていかないといけない.

memo461
 “tomad:そういう、インターネットを経由して現実の認識自体が変わっていくみたいなことは確かにあると思いますね。それが顕著だと思うのが、僕より下の世代、20歳以下のTumblr(https://www.tumblr.com/)の使い方だと思います。 

土屋:どういう使い方をしているんですか。

tomad:みんな画像でモヤモヤした感覚を共有し合っていて…。なんというか、画像自体が言葉になってるみたいな感じなんです。 

土屋:かなりTumblrをやりこんでる人を見てると、単純に好きな画像をスクラップしてます! という感じではなくて、お互いフォローしてる人同士が「この画像って『っぽい』よね!」という抽象的なイメージをお互いに探るようにアップしてる感じがしますね。 
tomad:そう。「っぽさ」が「っぽさ」を生むみたいな感じなんですよね。”

http://dentsu-ho.com/articles/1046

tomadさんがいっている「「っぽさ」が「っぽさ」を生むみたいな感じなんですよね」というところ,とてもいい感じ.その前に言われている「画像自体が言葉になっている」というのも「画像→=言語」みたいな感じがいい.画像や言語といったメディアのちがいではなくて,これらの状態をスムーズに遷移させてというと大げさなんだけれども,画像だって言語になるし,言語も画像になるしというアバウトなんだけども,それで通じるということを実現したのがTumblrなんじゃないかなと思う.土屋さんとtomadoさんのトークのこの部分はTumblrの核心をついている感じがあるし,それがインターネット・リアリティに結びついている感じもある.

memo462
授業で異星人になって,モナリザ(ここだけ作品名なのでカテゴリーミステイク),グルスキー([大きな]写真),ラファエル・ローゼンダール(レンチキュラーとウェブ)の4つの作品(形態)に値段をつけてもらったのだけれど,見事にモナリザ>グルスキー>レンチキュラー>ウェブとなった.

ウェブはみんなが無料で見ることができるから,アートの価値を下げるのではないだろうかという意見もあった.こういった価値観に挑んでいるというか,そこに踏み込んでいっているのが,ラファエルのウェブサイト作品群.だからこそ,そこに大きな価値を見出したい.そして,その価値は今のところはお金にすることはできない.もしかしたら,この先もお金では価値を測れなくて,お金というシステム自体をひっくり返すことになると面白い.

memo463
ラファエル・ローゼンダールさんのこの作品→http://www.jellotime.com/ はやくスマートフォン対応してくれないかな.カーソルで触れても,アニメーションと音とで「ゼリー」感というか,「ぷるるん」感があるから,タッチでできたら,なかなかいい感じなのではないかと思うし,そうなったら,作品自体を買いたくもある.いや,最初に買うのはこれではなくて,もっとグラフィカルなやつかな.いずれにしても,はやいうちにローゼンダールさんの作品がひとつ欲しい.

I want to buy Rafaël Rozendaal’s works!

memo464
ネットやコンピュータに「帰属感」をもつことは,意外と「怪しいこと」なのではないのだろうか.論理の世界に帰属感をもつということは,物理的世界での帰属感とは全くことなるわけだから,そこに属してしまうというのはやはりひとつの「スピリチュアル」なことなのではないだろうかということを,今日,お風呂に入りながら思った.そんなmemo.

memo465
“鈴木──一方で、クラフトや手触り感は、騙されやすい世界でもあります。たとえば、車のインテリアはすべてつくられた人工的な質感です。電子デバイスに紙の本のギミックを入れるのは疑問です。  

メディアはメディア自体がメッセージを持つところがあります。凝ったものである必要はない電子書籍はちゃんと売れるそうです。つまり電子書籍の文字の背面にはスピードが貼り付いていて、紙の本に貼り付いていた固着性や歴史性がなくなり、文字の性質や存在そのものが変わっていく可能性があります。そこでまったく新しい世界ができるのかもしれません。電子書籍には、まだわれわれが発見していない使い方がたくさんあると思いますね。”

http://artscape.jp/study/artwordtalk/10098552_18147.html

文字の固着性がなくなっていく.ボルターも言っていたような気がする.それはテキストの構造がなくなっていくということだったかもしれない.電子書籍も気になります.まずは,自分のブログを電子書籍化してみたりするといいのかもしれない.

memo466
ucnvトーク
http://hive.ntticc.or.jp/contents/artist_talk/20140216
グリッチとテキスト ucnv
グリッチ単体で展示するとジェネラティブアートと区別がつかない
グリッチを採集する ucnv
標本化
芸術家でも科学者でもない
メディア=メディウム=霊媒=翻訳者 谷口さん
カメラの内側と外側が同時に写ってしまう
コンピュータ上でつくったグリッチは再現可能 ucnv
美学=一回性という幻という罠に陥っている
コンピュータにとってはエラーは一回性のものではない 谷口
コンピュータでは劣化が極めて少ない 畠中 
ネット上では圧縮したものしかみていない 谷口
コンピュータにとってグリッチという現象はエラーではない.壊れたものと壊れていないものの中間にある.人間が見て「エラー」だと思うから,コンピュータの認識とのズレが生じる.ucnv (43:43)
オリジナルの画像を想定できるようになっているが,それのどれがエラーでなにがオリジナルかはわからない.畠中
もとの映像がなんだからわからない状態での展示.何か正常なものが壊れるのは2段階の出来事から生じるという立場に立っていない.ucnv
「僕+カメラ」という主体.カメラや自分の抑圧された意識が映る.谷口
グリッチそのものはピュアグリッチです.グリッチは起こる現象,雷のように実際にある現象で,消えてなくものではない.現象そのものはヒトがそこにいようがいまいが関係なく,そこにある.ucnv
一回性の再現性が高まっている.コンピュータの主体性が高まっている.人間がエラーだと思っているものが,コンピュータにとってはエラーではない.そこにコンピュータの主体性がある.谷口
tab.glichは博物学の立ち位置にちかい.ucnv
「見た目」が似ているという人間中主義的な見方を作品に取り入れている.谷口
科学的にグリッチを検証するなら,見た目は必要ではなくなる.ucnv
コンピュータのなかにも複数の主体がある.グリッチが有限なのはディスプレイのピクセルに限ってのこと.谷口
グリッチによってメディア(フォーマット)の隠されていた性質がでてくる.ucnv
用意された枠組みのなかでリアリティが決まる.谷口
memo467
Rhizome | Some Sites and Their Artifacts: 123D Catch
複数の画像から3Dモデルをつくる.写真という2Dが3Dになることで生まれる奇妙さ.memo468へつづく.

memo468
Clement Valla ::: April 2014 ::: Transfer

写真からの3Dモデリングに注目したClement Vallaの展示.展示タイトルが「Surface Survey(表面の調査)」となっていて,考古学的な視点で「写真からの3Dモデリング」を見ているところが興味深い.ここで調査されている表現は,過渡期のものでしかないから,今しか存在しないものなんだろうなと思う.だからこそ,視点を50年後にとって,「考古学的」に眺めるのは正しいと思う.ヒトには見えていないけれど,複数の画像からコンピュータが「見た(=処理した)」ものはやはり興味深い.

「考古学的」視点ではないけれど,3Dスキャンが写真のように当たり前になったと仮定して「日々の記録」を行った谷口暁彦さんのプロジェクトもVallaと同じ感覚から生まれているように思われる.

memo469
Julian Stallabrassによれば,ネットアートは非物質せいゆえに美学的アピールが弱いとされてきた.しかし,コンテンポラリーアートもどんどん非物質性を帯びるようになってきた.となると,コンテンポラリーアートがインターネットに参入・介入してくる流れは「非物質性」という点では既定路線だったと考えることができる.

Julian Stallabrassはインターネットアートの「オブジェクト」と従来のアートのオブジェクトとは全く異なっていると指摘する.その理由は,劣化なきコピーが可能であるだけでなく,移送のコストがほとんどかからないということであった.これは「非物質性」と大きく関わってくるところである.ネットアートは「非物質性」ゆえに,劣化もせずにコピーがかのうであり,それゆに伝送コストもほとんどかからない.これらの性格ゆえに,ネットアートはコンテンポラリーアートの美的性質とは異なるところにあった.しかし,コンテンポラリーアートもまた「非物質性」を帯びるようになり,これらの性質を利用するようになった.

多分にネットよりの作家ではあるが,ネットアーティストとは言い難いアーティ・ヴィアーカントのエッセイ「ポスト・インターネットにおけるイメージ・オブジェクト(The Image Object Post-Internet)」が示すように.インターネットを少しでも意識している作家は物質的なオブジェクトとデジタルデータとはほぼ同じものとして扱う.

作品を展示する側のギャラリーもこのネットの性質をうまく利用して,展示作品をJPEG画像でネット上に拡散していく.作品のJPEG画像のみの展覧会である'Send Me the JPEG’ はこの状況を皮肉ったものであるが,英語圏のアートマーケットはアート作品自体が物質的なものから非物質的なものへと移行しつつあるなかで,オークションを開催するなどして,非物質的な作品に積極的に価値をつけていく方向に向かっている.それは,非物質的ゆえの劣化なきコピーとほぼコストゼロでの伝送というこれまでない作品の性質をあらたな価値として提示するために,アートマーケットがインターネットというあたらしい伝送システムを「アートワールド」という物質的基盤に構築されたシステムに取り込もうとしているようにみえる.

英語圏のアートワールドが「インターネット」を「フリー[free]」というときに示されていたのが「無料」であったのに対して,IDPWによる「インターネットヤミ市」での「インターネット」という言葉が示しているものは「自由」である.インターネットの「自由さ」を感覚的に取り込んで,それを表現したものが「インターネットヤミ市」と言えるかもしれない.インターネットの「自由さ」は,もちろんその非物資性を帯びた性質にも由来するものであろう.「インターネットヤミ市」は非物資的な感覚を物質的な場に落とし込んだものである.しかし,そこでは「自由さ」が重要な価値をもつ.欧米のアートワールドがそれ自体の物質的基盤をひとつの価値としてインターネットを取り込んでいこうとしているのに対して,ヤミ市は価値がまだついていないものにその場限りでも価値をつける,いや,「価値」ということ自体を考えることがない「独自の場所」をつくったといえる.それは「ヤミ」という語が示す「ダークサイド=ブラック」及び「ビョーキ=フェティッシュ」という部分に結びついてくる.

memo470
ネットアートやメディアアートとは関係ないわけではないけれど,関係があるかどうかわからない音楽フェスにいってきた.音楽とともに身体を動かし続ける.それにどんな意味があるかはわからないけれど,多くの人がやっている.そこにはなにかしらの良さがあるのだろう.普段,Macに向かってネットアートやその関連のことを調べるのとはまた別の世界が広がっていた.どっちが楽しいかと聞かれたら,ネットで調査している方かな.これは,僕がネットが好きということではなくて,ネットで起こっていることがこれまでの考え方では捉えることができないことが多いからです.ネットをこれまで歴史から切断されたものとしてとらえることには,多分に批判があると思うけど,「切断」から考えたほうが面白いなと,僕は思っています.そんな感じのmemo.

memo471
“渡邉大輔さんの「ディジタル・ヒーローの倫理的身体:マーベル映画とディジタル表現のゆくえ」も、我々がマーヴェルの映画を観るときに感じる如何ともし難い違和感、plastic な肌やボディに触れるような感覚を言語化して分析してくれている。現在のCGが可能たらしめたMCUを再現するディジタル映像は、私たちが長年親しんできたフィルム映画と何が違うのか、それを教えてくれるのが渡邉大輔氏の本論と、彼の参照する藤井仁子、鷲谷花の両映画評論と、大塚英志、三輪健太郎両メディア論者の論考に基づく、記号としての死なない身体表現を我々自身が如何に観ているかという意識の分析である。特に、論考の始めに紹介されるスパイダーマンの映像史は、マーヴェル映画のディジタル以前と以後を象徴するのが新旧スパイダーマンの映画であることを私たちに教えてくれる。”

http://www.shinshu-u.ac.jp/faculty/arts/prof/itou_2/2014/05/57814.html

渡邉さんのこのテキスト読みたいな.三輪さんの名前も出てきているし,ユリイカ買うかな.
渡邉さんは映画を分析しているけれども,ここでのアイデアをオリバー・ラリックのヴァーチャルな彫刻などにも応用できないだろうかを,まだテキストを読んでいない段階で考えてみる.

memo472
ネットアートに「価値」がでてきているのは,アートそのものが徐々に非物質的になってきている流れがあるから.この流れなかだったら,非物質的で明確なオリジナルもない作品にも価値がつけられる.少しづつ,これまでの物質的なシステムから離れている感じもするし,物質的なシステムにネットが取り込まれている感じもする.結局はリアルには勝てない!,みたいな流れになるのだろうか.その意味で,そのリアルにネットの「意識」というまさに非物質的なものを持ち込んだヤミ市は,その立ち位置が面白いのかもしれない.海外のネットアートを巡る状況を整理していけばいくほど,ヤミ市の特殊性が見えてくる感じがする.もうそろそろインタビューのお願いメールをだそう.

memo473
エキソニモは「ネット↔リアル」で,ライダー・リップスは「ネット≒リアル」なのではないかと考えた.

エキソニモは2003年の作品《Natural Process》が「ネット↔リアル」を示しているし,IDPW名義でのインターネットヤミ市も「ネット≒リアル」ではなくて,「ネットの感覚をリアルに持ち込む」という意味で「ネット↔リアル」なのだと思う.

ライダー・リップスは「ネット≒リアル」と考えているから,自分のフェイスブックの記録をすべてまとめてアーカイブするし,geocitiesもアーカイブする.記録して残すことをネットもリアルも関係なく行う.

「ネット↔リアル」「ネット≒リアル」のどっちが優れている,あたらしいではなくて,ネットとリアルに対するふたつの態度だと思う.世代によってこのふたつの態度のどちらを取るのかにはちがいはあるのかもしれない.そんなことを考えていってみたい.

memo474
ループではないものを考える.フィードバックループから外れていくものを考える.「ループとリニア」からはずれていくものとしてのランダム再生とグリッチ.でも,これらは「テキスト」による説明がなければ見分けがつかないし,プログラムという「テキスト」がなければ実現もしないものではないだろうか.テキストが必要な映像を「「ループとリニア」からはずれていくもの」として考えてみること.

memo475
エキソニモでは身体が消えて,そこに「コンピュータ」が強くでてくる.「コンピュータ」がインターネットのレベルにでてくる.谷口暁彦さんでは身体もコンピュータも消えて「気配/幽霊」がでてくる.インターフェイスに「幽霊」が現れる.

memo476
グリッチは因果関係を壊すというか,原因と結果との関係がわかりにくいけれど,それが表現として成立する.あるいは成立するためにテキストが必要というところが興味深い.昨日,ビックデータの本よんだから,因果関係より相関関係という考えに毒されているかもしれない.

memo477
ucnvさんの作品に添えられたテキストは「説明」ではなくて,「作品」そのものと言ったほうがいい気がしてきました.少し突飛な考えですが,この前の論文を書いたときにコンピュータでは「言語とイメージは等価」になっていて,それぞれ自由に変換・遷移ができる状態になっています.グリッチはそのことを利用して,画像ではなくテキストに変更を加えて,画像に変化をおこしている.これは「言語がそのまま画像へと状態を遷移させる」から可能になっていると考えられます.ucnvさんのテキストもまた作品の映像に対しての説明ではなく,それと等価のひとつの状態であると,グリッチになぞらえて言えるのではないかと.こんなふうに「言語↔イメージ」となっているのがグリッチの興味深いところなのかなと思います.コンセプチャルアートでもジョゼフ・コスースの《1つと3つのシャベル》というテキストとイメージと実物のシャベルを展示したものがありますが,これらは「シャベル」を表していても「同一物」ではないところが,コンピュータ上での「言語↔イメージ」とちがうところかなと考えました.

memo478
「ネット≒リアル」ということを書いたのだけれど,いまいち自分でも「ネット≒リアル」ということが理解できてない.「ネット↔リアル」だとなんとなく,それぞれに「移す」ということが実感できるのだけれど「≒」は書いたものの実感できてない.だから「↔」について考えるなかで「≒」の輪郭をつかめたらいいなと思っている.

「≒」は「↔」ではないから「移す」という感覚は薄い.でも,そこにはリアルとネットが相互浸透しているような感じがする.いや「相互浸透」も「↔」の感覚がある.では,「≒」の感覚とはなんなのか.やはり,わからない.でも,確かにそこには「≒」の関係があった.だから,書いた.でもわからない.だから,考える.「↔」を経由して「≒」を考える.

memo479
授業内に書いてもらったレポートで,「2020年ポストインターネットアート」はアートの主流になっているか? というような設問をしてみた.半分以上が「主流」になっていると答えていた.その理由は,インターネットがいまよりも進化・普及しているからというものが多かった.「インターネットの進化=(ポスト)インターネットアートの普及」ということになる.
あとは,技術が進化していくので,あたらしいアートのかたちが出てくるだろうという意見もあったし,ネットの進化とともに多く人が作品をつくるようになってくるので,授業で紹介したような作品の価値はどんどん薄れていくだろうという意見もあった.

モナリザのような作品はネットからは生まれないだろうというのも,多くの人が暗に示していたのも興味深った.ネットアートの作品からは「深さ」が感じられないらしい.これは紹介した人=私の責任でもある.でも,「深さ」なんて必要かなとも思う.「深さ」が何を示しているのかを考える必要もあるし,「深い」=「偉大」ということでもないだろう.

memo480
気分が沈んで,お酒飲んで,お風呂入っていると,いろいろと考える.考えているときは面白いけど,お風呂から上がってくると忘れている.というのは嘘で,少しは覚えている.細かいところを忘れているだけで,覚えている.

例えば,「ポストメディウム」とかの議論はなんで「メディウム」の語彙でやっているのかとか.「ポストインターネット」もそのようにツッコまればそうなんだけど,もっと今までの言葉ではないことで,これからのことを考えようよ! という感じにならないのかなと思っている.

自分の言葉で語っているだけでは研究にはならないわけだけれども,これは結構重要な問題で,これまでのことで語れないことが起こっているのであれば,これからの言葉を考えるべきなのではないかと思う.その方法はいろいろとあるだけれども,僕は今起こっていることと一緒に考えていくことを選んでいる.今のところはだけれども.「今のところは」と書いたのは,いつかは「今」には追いついていけなくなるんだろうなという不安が常にありからです.ふー,がんばろう.

memo481
IAMASの研究紀要NO.5にあった明貫さんの論文にあった「メディアアート」の保存に関する記述にグッときた.

コンピュータや電子テクノロジーを使用した作品が制作された当時の状態で動態保存することは,短期間で劣化することが想定される電子機器の特性から厳密には不可能である.また,データや磁気テープなど複製あるいは改変が容易なメディウムにおいては,古典的な意味での「オリジナル」という概念は適応しにくい.これらのことから,メディア・アートの可変的なオリジナリティ,あるいは作品足らしめるその「真正性(Authenticity)」を考慮すべき,という考え方が1990年代後半から実践されてきたメディア・アートの保存に関する研究成果の主流である.p.28 
明貫紘子「イアマス精神の保存───再解釈と継承」
デジタル・インターネットが一般化したあとの画像について考えて,そこで「オリジナル/コピー」とは異なる枠組みで画像を捉えようとしていている私としては,メディアアート保存の現場での試みや概念形成はとても有益なものになるのではないだろうかと思う.

インターネット上の画像は複製技術の延長にあるが,従来の枠組みで考え続けているとそこに生じつつある画像のあたらしい性質は捉えることはできない.そこで,従来の「フォルム」という枠組みではなく「アルゴリズム」という枠組みで画像を捉えると,画像が「ソース」と呼ぶべき複数の状態を遷移していく存在になりつつある兆候を見出すことができる.コンピュータとインターネットの登場によるデジタル画像の一般化は,画像を複製技術がつくりだした「オリジナル/コピー」という図式ではなく,「状態遷移」というあらたな枠組みのなかで捉え直す必要があることを示した. 
「オリジナルからアルゴリズムとともにある「ソース」へ:常に変化していくデジタル画像を捉えるための枠組みの転換」名古屋芸術大学研究紀要,第35巻,pp.355-368,2014年3月
ここにさらに3Dプリンタからの想像力を書いた田中浩也さんによる「フィジタル」の概念を加えてみても面白いかもしれない.
総じて次のような実感を持っています.かつて,カセットテープやコピー機の時代,すなわちアナログコピーでは,コピーをすればするほど,画質や音質が「劣化」してしまうものでした.しかしデジタルコピーの時代にになって,「まったく劣化しないコピー」という世界がやってきました.そこで「複製(コピー)」を巡るさまざまな問題が真剣に議論されるようになりました. 
さらに進んだファブリケーションにおいては,デジタルとフィジカルの「狭間」が存在するために,コピーしようとする際にも,必然的に,半強制的な「改変」,「修正」や「調整」が要求される事態となっています. 
このことをポジティブにとらえれば,データがさまざまな方向へ向けて「分岐」「派生」するという状況が半自然的に(もしくは半強制的に)促されていると言えないでしょうか. 
そして,より能動的に参加する人々が増えれば,データはだんだんと問題が克服され,種類が増えて冗長にもなり,より良くなっていきます.そうなれば,「コピーによる劣化」「コピーによる複製」の心配よりも先の世界が開けてきます.それは「コピーによる進化(分化)」とでも呼ぶべき,新しい文化現象です.pp.220-221
田中浩也『SFを実現する:3Dプリンタの想像力』
デジタル後の画像のあり方を考えるために,メディアアートの保存と3Dプリンタを同列に扱っていってみると,そこにはあたらしい領域が見えてくるような気がする.

memo482
近頃,netartnet.netが更新されていない.どうしたのだろうか.なかの人が別の活動をはじめたのだろうか.あるいは,ネット上でのアート活動が当たり前になってきた今,わざわざnetartnet.netとして情報を集めなくてもよくなってきたからだろうか.いずれにしても,気になる.一昨年,去年にあったネット上のアート表現の熱みたいなものが落ち着いてきたように感じていたなかで,netartnet.netの更新が止まっていることが気になる.

memo483
メディアアートは記録映像が一番いいとは昔から言われていますよね.実際に見たらガッカリというものがたくさん.これを逆手にとって,記録映像だけが存在するものもありそうです.リアルに作品を体験するよりも,ネット上の画像・映像で作品を見る機会が多いことは,インターネット上で表現する際には必ず考えますよね.「リアルをどう盛っていくか」という発想でしょうか.それは詐欺でもなんでもなく,今の状況からでてくる必然なんだろうと思います.

memo484
毎日memoを書こうとしているけれど,この1週間ほど全くmemoが書けていない.「書けない」ことを書くmemoは,このmemoではたびたび登場する.書けないことを書いているうちに思い浮かんだことを書くわけですが,今は少しお腹が痛いので,そのことばかりが頭をよぎる.

9月に画像について発表する予定で,そこでこの前の紀要に書いた「ソース」を再び書いてみようと思う.グリッチから考える画像,そこに見る「ソース」.オリジナルとコピーではない枠組みで,それは「プリンティング」から外れたところで,画像を考えること.でも,ここでの「プリンティング」は2Dのことで,3Dになるとこれがまた事情が異なるということを,田中浩也さんの本で学んだ.そうしたことをこれからまとめたい.

memo485
グリッチの面白さは「コンピュータ」と「ヒト」のあいだの認識のちがいから生じていると,私は思っていて,それをうまく表現しているのがJODIとエキソニモかなと考えています.チームラボの《グラフィティ@グーグル》にも同じような面白みがありました.そのときに書いたメモです.(《グラフィティ@グーグル》のページが消えてしまったのが残念です…)
メモ:《グラフィティ@グーグル》について

memo486
Douglas Davis, The work of art in the age of digital reproductionの冒頭:The work of art in the age of digital reproduction is physically and formally chameleon. There is no clear conceptual distinction now between original and reproduction in virtually any medium based in film, electronics, or telecommuniations. 

デジタル時代のアートではオリジナルと複製の間に明確なコンセプチャルなちがいはないよということ.ここで重要だと僕が思うのは,「コンセプチャル」というところ.具体的なものだと,デジタルであってもまだオリジナルとコピーは存在しているけれども,コンセプチャルに考えてみると,それはオリジナルでもコピーでもないのではないか.具体物で考えるのではなく,思考の抽象度を上げることで見えてくること.でも,それは具体物との関わりのなかでしか生み出されない思考の抽象度でもあって,ベンヤミンを読んでいるだけでは,デジタル時代のオリジナル/コピーはわからないということ.

memo487
http://paddleson.tumblr.com/ が7月3日にロンドンで開催される.デジタルアートのオークションだけれども,今回は「絵画」も多い.デジタルをモチーフにした絵画.「カーソル」をモチーフにした映像作品があったり,3Dモデリングの作品があったりと個人的にも興味がある.
前回のものよりも,より「モノ」というか,触れることができる作品が多い感じがする.デジタル.インターネットという枠組みでも,そこから「リアル」にどう落としこむかというところが問題になっているのかもしれない.

あと,自分のことを「ポスト・インターネット・アーティスト」と意識している人がいて,「ポスト・インターネット」という言葉ももう賞味期限切れかもしれないと思ったりもした.
どこか自分がこれまで追ってきた「ポスト・インターネット」とちがう感じがするので,少しこのオークションの出品作品についてmemoしつつ,それらをまとめてブログにも書いていきたい.

memo488
ライダー・リップスの「詩的な」作品は,「詩」なのかどうかよくわからないところにある.それは私が英語ネイティブではないことが大きいのかもしれないけれど,そこに書かれていることは,デジタル世界の枠組みの記述,それは「詩的な」記述ではあるが,「詩」ではないような気がする.メタファーに満ちたものが詩というわけではないが,彼の「詩的な」作品は,デジタルの世界の的確な記述であって,それはデジタル・リテラルというものではないかと思う.デジタルの世界をそのまま文字通りに記述することをリップスはやっている.これはこれであたらしい「詩的な」表現なのかもしれない.

memo489
デジタルアートのオークション Paddles ON! が,今度はロンドンで7月3日に開催されます.http://paddleson.tumblr.com/

作品は前回よりも「伝統的」なメディアなものが多いですが,僕的には「絵画」や「彫刻」と言った伝統的なメディアがデジタルを通過することで「オリジナルとコピー」を再び,問題視しているところが面白いです.

memo490
net.art Painters and Poetという展覧会,おもしろそう.展覧会のタイトルからして興味深いというか,まずはそこがおもしろくてmemoを書こうとして,検索をかけてみたら,YouTubeにTrailerがあって,そのつくりもネットアートの作品を見ている人と作品の画面が並置してある映像で見せ方がよかったのと,あと,この展覧会を紹介している記事で,ネットアートの展示なんだけれども,初期のネットアート作品が絵画のように額に入れられて壁にかけられていたのがよかった.JODIのmapは床にプロジェクションされていた.スロベニアでやっているので見に行けないのがくやしい.

memo491
以前,ICCに書いたテキストに「ロナガンがこの言葉に関連づけて真に言いたかったのは、インターネットによって「オブジェクトではないオブジェクト」が現われてきているということである。彼はオフラインにあるTシャツや本、テキストといったインターネットとは関係しないようなものを意図的に強調することで、それらがもうインターネット以前と同じようには存在していないということを示そうとした」ということがあった.

書いていたときはこのことがはっきりとはわかっていなかったのだけれど,「Tシャツと本」や本がネットを経由することでリアルTシャツ,リアル本となることだとわかった.「リアル本」はもう「本」ではない.それは電子書籍を通過してはじめてわかる「本」であって,リアルTシャツもネットの画像などの物質化などを通じて,これまでのTシャツではない質感をもったものとしてわたしたちの前にある.Tシャツに刺繍されたイメージから,しっかりとした手応えを感じるようなこと.こうしたネット経由の感覚に自覚的になることがポストインターネットなのだろうな.ネット経由の感覚と自分の感覚とがほぼ同一になったときには,そこにはもう「ポストインターネット」はなくて,別の何かなんだろうなと思う.その感覚は,今のところ僕にはわからない.これからもずっとわからないかもしれない.

memo492
リアル◯◯という言葉について考える.雑誌をコピーしてリアルPDF.これって,普通のコピーのことだけど,ネットを経由している.PDFだけならコンピュータだけだけれど,ネットでPDFを送ったりしてシェアするから,やっぱりネットを経由したあとの言葉.コピーとどう違うのかというと,あまり変わらない感じがするけれど,リアルPDFというと,どこかシェアされた感じがするし,どこかおもしろい.ただ「おもしろい」感覚を共有するための言葉あるような気もする「リアル◯◯」.でも,そこでその感覚をおもしろいと思うかどうかで,何かが決定的にちがうような感じもする.ネットを経由したリアルが日常的になったら,リアル◯◯は使われなくなっていくだろうし,おもしろいとも感じなくなっていくだろうけど,今はここに面白さを感じる領域ができている.ネットを経由した感覚をあらわすものとしての「リアル◯◯」.この感覚を消費していくと,今度はネットの世界で「リアル◯◯」といわれるのだろうか.これはサイクルなのだろうか,リアルからネットへ,そしてリアルへでリアルで終わりだとしてたら,最終的にはリアルでケリが着くというということだろうか.

memo493
KATJA NOVITSKOVA: The network effects of actual art installations and shows are not happening directly in the gallery but rather online in the form of documentation shots, reblogs, likes and other forms of distributed attention. I think all art that has been shared online becomes “Internet art” on a basic image level. What is more interesting, though, is how the expansion of the Internet and digital technologies in our environment influences the choice of materials, forms, themes and other parameters in the visual arts, creating feedback loops and ripple effects between works and their extended online existence. I started to think about the ecological/evolutionary meaning of art caused by to the way it is being shared and expressed online. Namely through its visual trend-making capacity, its development based on variations and continuous tweaking, its origins in community-based peer competition. Aware or unaware, but in a natural way, most younger artists are playing with this. The “shift in artists’ attitudes” can be also called a “shift in parameters”. My recent book, the Post Internet Survival Guide, was one of the first attempts at capturing this.

Original Page: http://moussemagazine.it/articolo.mm?id=941

KATJA NOVITSKOVA: インスタレーションや展示といった実際のアートのネットワークエフェクトはギャラリー内で直接的に起こるのではなくて,むしろ展示の記録写真やリブログ,ライクなどやその他の分散していく注目のかたちに起こるものである.基本的なイメージのレベルでは,オンラインで共有されたすべてのアートは「インターネットアート」になると,私は考えている.しかしながら,さらに興味深いことはインターネットやデジタル技術の拡散がどのように視覚芸術における素材,形態,テーマやほかのパラメーターに影響を与えるのかということであり,作品とオンラインに拡大された存在とのあいだにおこるフィードバックとリップル効果である.私はオンラインで共有され,表現される方法によって引き起こされる環境的/進化的なアートの意味の考察を始めた.つまり,視覚的な流行が生み出していく生産能力,ヴァリエーションや連続的な微調整に基づく推移,同等集団のなかでの競争に基づくコミュニティにおける起源を通しての考察である.自覚的かどうかは別にして,自然な方法で,ほとんどの若いアーティストはこれを試している.「アーティストの変化」は「パラメーターの変化」とも呼べるであろう.私の近著「ポスト・インターネット・サバイバル・ガイド」はこのことを捉えろうとした最初の試みである.

memo494
Piotr Czerski ‘We, the Web Kids’
1. We grew up with the Internet and on the Internet. This is what makes us different; this is what makes the crucial, although surprising from your point of view, difference: we do not 'surf’ and the internet to us is not a 'place’ or 'virtual space’. The Internet to us is not something external to reality but a part of it: an invisible yet constantly present layer intertwined with the physical environment. We do not use the Internet, we live on the Internet and along it. If we were to tell our bildnungsroman to you, the analog, we could say there was a natural Internet aspect to every single experience that has shaped us. We made friends and enemies online, we prepared cribs for tests online, we planned parties and studying sessions online, we fell in love and broke up online. The Web to us is not a technology which we had to learn and which we managed to get a grip of. The Web is a process, happening continuously and continuously transforming before our eyes; with us and through us. Technologies appear and then dissolve in the peripheries, websites are built, they bloom and then pass away, but the Web continues, because we are the Web; we, communicating with one another in a way that comes naturally to us, more intense and more efficient than ever before in the history of mankind.

Original Page: http://www.theatlantic.com/technology/archive/2012/02/we-the-web-kids/253382/

Piotr Czerski「私たち,ウェブキッズ」
1.私たちはインターネットとともに,インターネット上で育った.このことが私を他とはちがう存在する.あなたがたからみれば驚きだろうが,このちがいは決定的である.私たちはネットを「サーフィン」しないし,私たちにとってインターネットは「場所」でもなけば「仮想空間」でもない.インターネットはリアリティの外にある何かではなくて,リアリティの一部なのだ.見えないけれども,物理的環境に絡みついたレイヤーとして常に存在している.私たちはインターネットを使わない,私たちはインターネットに生きているし,それとともにある.もし私たちの教養小説をあなたたち,アナログな人に語るとすれば,私たちをかたちづくる経験のひとつひとつが自然なインターネットの側面にあると言えるでしょう.私たちはオンラインで友達や敵をつくり,カンニングペーパーを準備し,パーティや勉強会を企画し,恋に落ちたり破れたりする.私たちにとってウェブは学ぶべき技術でも,どうにかして理解するものでない.ウェブは私たちの目の前で,展開するプロセスであり,連続的に起こり,常に変化しているものなのだ.それは私たちともにあり,私たちを通してそこにある.技術は現れては,周辺で消えていく,ウェブサイトは生まれ,最盛期を迎えて,そして死んでいく.しかし,ウェブは続いていく,なぜなら私たちがウェブだからだ.私たちはとても自然に自分たちに身についた方法で他の誰かとコミュニケーションをとる,それは人類の歴史の中でこれまでなかったほど集中していて,効率的なものなのだ.

memo495
マテリアライジング展2を見に行った.OAMASの2つの研究室の展示を見に行ったという方が正しいかもしれない.なんだろう,情報と物質とそのあいだ,にあるのはヒトという感じ.ヒトってなんだろう.ヒトがかんじられる「不在」ということ.「ない」ということ.紙に書かれた山折り谷折りが示す情報と,そのまま折ること.いや,物的証拠はそこにあるけれども,それとともにある情報はまた別の次元にあるようで,物的証拠にくっついている.
「ない」ことに感覚・関心・興味を向けること.それが重要.「ない」ことを感じるには,まず「ある」ことを考えないといけない.それは感覚を研ぎ澄ますとかではなくて,そこに「ある」ことを素直に認めればいいということ.「ある」こと「ある」ものとして認識していくこと.

「ある」という認識があって,そこから「ない」ことへの考察・分析がはじまる.「ある」と確かに実感できないものをデータにして,かたちにしたころで,それは「あー,そうですか」というものにしかならない.もっと,「ある」ことを認識して,それに実感をもたないといけない.

「ある」を考えること「生きていること」をどう考えるのかということにつながるのかなと思う.でも,このように考えるのは僕がOAMASのふたりに最近,インタビューしたという事実,そこでナマのふたりに会っているということが大きな影響を与えているかもしれないけれども,そんなことなんだと思う.どこか1つの場所からしか物事は見ることができないのであって,そのときにそのひとつの場所に「ある」ことを肯定できるかどうかが問題なのだと思う.
「肯定」は少し違うかもしれないけれど,なんだろう,目の前にある物事を受け容れ,分析していくこと.分析が先にあるのではなくて,物事の認識が先になること.これが大切な気がする.

認識したあとに,それを分析して,バラしていく.分析して,バラして,認識するとは逆の手順.

上の文字列を書いてから,歯を磨いてたりして,ちょっと時間がたったあとで,また書き始めているわけだけれど,このあとを続けられるかはわからない.

こうした自分のことを含めた認識をすること,それが大切なような気がする.それ以外の手法が悪いというわけではなくて,それは自分にとっては「大切」という文字列を与えられる価値があるということ.「体言止め」にしたのは,何かここで「切り落とし」たい気持ちがあったから.「思う」でもないし,「と考える」でもない,その前にあるひとつの確信.

でも,そのときの「自分」というのはどこまでが「自分なのか」を考えると,それはとても厄介なことになる.ポケットのなかにあった折り曲がったレシートも自分なのではないか.だって,それが折り曲がっているのは,自分がポッケに入れたからなのだから.そして,それを「自分」あるいは自分の行為の情報と思うことが大切だと思う,価値観.いや,「大切」でなくてもいいのかもしれない,それが「気になれば」,それでいいのかもしれない.

物的証拠だって,それが物的証拠として残っているものはそのまま残しつつ,いや,そのまま残しているのではなくて,映像にしているわけで,そこにはもう「そのまま」という言葉は使えない,映像になっていないものもあるけども,モノがイメージになり,イメージがモノになるという関係を,物的証拠への考察を通してやっている感じがする.それは物質と情報というわけではくて,きっと,目の前で起こっていることの認識の解像度をどこまであげることができるのかを試して,その結果のイメージとモノとの分離だと思う.そして,「分離」することではじめて,そこに情報と物質という区分けが生じるのかなと考えてみたけれど,そうではなくて,「分離」することで,分離された一方が消えてしまう,その消えるものを残そうとすることで,そこに情報が生じるのだろう.

OAMASのふたりに,レシートと分離の果てに消えていった鈍器のようなもので殴られて,覚醒したい.

memo496
ライダー・リップスのFacebook PoetryとiPhone Poetryの最初の詩を勝手に翻訳・

Facebook Poetry
funs
fans power your firey data centers
how many likes does it take to kill a bird
on fire we go about our pokes
burns to the ground
the stock of animal instincts
ファンたち
ファンたちはあなたの燃え立つようなデータセンターに勢い良く進んでいく
いくつの「ライク」が鳥を殺す
私たちは自分のポークとともに火に入り
燃え尽きていく
それは動物の本能

https://www.facebook.com/notes/ryder-ripps/facebook-poetry-1/10150588356336286

iPhone Petry
1. When I speak, my words precipitate into a bubble floating under another, bubble.
That is how we talk.
1. 私が話すとき,私の言葉は別の泡の下に漂っている泡の中に真っ逆さまに落ちる.
それが私たちの話し方.

http://iphonepoetry.info/

memo497
Adobe Photoshop is now the vernacular of contemporary images. New technologies have significantly shifted photographic practice, broadening the scope of its developmental potential and vocabulary. These changes foster a space in which graphics editing software becomes the constitutive means of production for contemporary images. The .PSD Show engages this discourse in its native tongue; opening the digital image in its raw and immaterial state. As a culture whose communication is increasingly image based, we are obliged to explore such a program and see what activity occurs there – so let’s talk Shop. 

[アドビ フォトショップは今では現代的な画像に固有のものになっている.新しい技術は写真の実践を大きく変化させ,その可能性と表現の射程を広げた.これらの変化はグラフィック編集ソフトが現代的画像の生産の本質的な方法となった領域を促進した..PSD展はその変化を母国語とする言説を引き込んだものであり,それは「ナマ」で非物質的状態のデジタル画像を切り開くものである.画像に基づくコミュニケーションが増えている文化として,私たちは画像編集プログラムを探求とそこで実際にどんな行為が為されているのかを確かめなければならない.「工作」について話そう.]

The .PSD Show is a growing conversation among Photoshop users; a community of artists and technicians, spanning the gamut from professional to amateur. The abbreviation .PSD refers to the file extension used to designate a Photoshop Document.

[.PSD展はフォトショップユーザたち,それはプロからアマチュアまですべてに及ぶアーティストと技術者のコミュニティ,によって交わされる会話である.「.PSD」という略字はフォトショップファイルの拡張子として使われているものを示している.]

Each participating artist has contributed an original .PSD file specially commissioned for this project. These files are freely available for download and can be opened for use in Adobe Photoshop.

[参加アーティストはこのプロジェクトのためのオリジナルPSDファイルを用意してもらった.これらのファイルは自由にダウンロードできるとともに,アドビ フォトショップで開いて使うことができる.]

The .PSD Show is an online exhibition
organized by Joshua Citarella in 2012.
info@thepsdshow.org
http://www.thepsdshow.org/

memo498
ISEA2014のためにインターネットヤミ市についてのインタビューをして,その文字起こしが返ってきたので修正中.

ヤミ市は「場所」が重要ということは再確認できて,Paddles On! は「場所」は意外とどうでもいいという考えになった.ヤミ市で「場所」が重要というのは「Face to Face」「Hand to Hand」ができるからであって,その媒介に「貨幣」があって,たまに「物々交換」にもなったりする.

Paddles On! は「インターネットっぽい」という意識を示す作品を売買するのが重要で,それこそリアルの展示はやっているけれども,そこで「Face to Face」「Hand to Hand」はとくに問題になっていないから,ネットでもいいわけで,実際に多くのひとはネットを通して作品を見ているし,そのまま「入札」もできるようになっている.

ネットを通過したあとの「Face to Face」「Hand to Hand」を考えることが,インターネット以後の「場所」のあり方につながっていくかもしれないと思いつつ.

memo499
Compression Artifacts is a comprehensive investigation into the specific agency that independent artists may access through the contemporary means of image production and distribution. When viewership now occurs at the screen, we may at certain careful instances reassess the values of physical space and material production.

「圧縮された人工物[ブロックノイズ]」は独立したアーティストがイメージの制作と流通の現代的な方法にアクセスする特定の媒介に関する包括的な調査である.現在,観るということはスクリーンで行われており,私たちは物理的・物質的な生産の価値を注意深く再評価しているところかもしれない.

As of their date, the images herein represent both the heights of success and inherent failures of photography-with-software to create value through the description and contextualization of an artwork. Following this line of inquiry, Compression Artifacts presents a curated selection of works which anticipate their transmission as images and have so taken on certain characteristics native to graphics editing software. Material production once shifted to accommodate the lens. It now shifts to accommodate the algorithm.

イメージはここでは,アート作品の記録と再文脈をとおして価値をつくるソフトウェアとともにある写真の成功と失敗の度合いを表すものである.このラインにそって調査を進めるために,「圧縮された人工物[ブロックノイズ]」は,イメージの移行を予期した作品やグラフィック編集ソフト特有の特徴をもった作品を選んでいる.かつての物質的生産はレンズに対応して変化したが,今ではアルゴリズムに対応して変化している.

Compression Artifacts was conceived and built as a set within which to make photographs, designed to facilitate its own sublimation into digital images. The lighting installation mirrors the physical dimensions of the space, rendering an identical exposure upon each wall. This static exposure allows photographs of the space to be almost seamlessly composited and reconfigured. The exhibition may expand or contract to fill any dimensions.

「圧縮された人工物[ブロックノイズ]」は写真を取り,デジタル画像へと至るようにデザインされたひとつの集合として構想され,組み立てられている.日に照らされたインスタレーションは空間の物理的次元を反映しており,それぞれの壁には独自の露光が表現[レンダリング]されている.この静的な露光はほぼシームレスな合成と再構成された空間の写真を可能にする.その結果,展示はいかなる次元にも拡大・縮小ができるようになる.

Material, photography and software are here considered in conjunction with one another. Art objects and exhibition spaces may now be partially fabricated, documented and through software hyper-realistically transformed into idealistic states whose physical manifestation would reach beyond the material means of their producers. In a universe comprised of images, where cultural exchange occurs through the screen, the ability to create the outward appearance of value becomes a means of empowerment.

物質,写真,ソフトウェアはここでは互いに交わるものとして考えられている.アートオブジェクトと展示空間は部分的には組み立てられ,記録され,ソフトウェアによって物質的な制約を超えたフィジカルな表れという理想的な状態へとハイパーリアリズム的に移行していく.イメージによって構成された宇宙では,文化的交換はスクリーンを通して行われ,価値の見かけをつくる能力は権限を与えるひとつの方法である.

The presence of graphics editing software has allowed increasingly hyperbolic descriptions to pass under the same critical rubric as conventional lens based photographs. As a means of documentation, conventional photography aims towards the most perfect reproduction, to close the gap between the world and its picture, while software aims to close the gap between the world and its image; not its visuality but its conception. At all instances software has been written to deliver digital captures into their ideal states, to unburden photographic images from the constraints of material, time and space.

グラフィック編集ソフトの登場は従来のレンズを用いた写真という重大な表題のもとで徐々に誇張的な表現を許すようになってきた.記録の手段として,従来の写真はほぼ完璧な再現をすることを目標として,世界とその画像のギャップをなくそうとしてきた.対して,ソフトウェアはそのイメージと世界とのあいだのギャップをなくそうとする.それは視覚的表現ではなく,コンセプトを追求していくということである.すべての事例において,ソフトウェアはデジタル的に捉えたものをその理想的な状態へとするように書かれており,写真的イメージを物質的,時間と空間の制約から解き放つ.

A new ethical framework is beginning to form around documentation. The impetus of the contemporary photographer is to uphold the virtual concerns of an object and the space within which it exists. Knowledgable practitioners have long understood the inadequacies of photographic description. Fabricators have understood the constraints of material. Graphics editing software enables image producers to more acutely address the distortions inherent to lens-based photography and the limitations of material production; to more more mimetically, albeit less indexically, represent the world around them in accordance with their subjective experience and desires. Not yet so in title but clearly in practice, unedited images are now considered to be further from the real than their hybridized photography-with-software counterparts.

ひとつの倫理的な枠組みは記録の周辺を形づくることから始まっている.現代的な写真家に創作を促すのは,オブジェクトのヴァーチャルな問題とそれが存在する空間を確認することである.この状況をよく知る実作者は写真の記述の不適切な理解が続いているとしている.つくり手は物質の制約を理解している.グラフィック編集ソフトはイメージ生産者がレンズに基づいた写真特有の歪みや物質的生産物の限界をより正確に表現することを可能にしている.つまり,インデックス性はなくなっていっているにも関わらず,より模倣的になっているのである.それは,生産者の主観的な経験や欲望に基づいて,生産物周辺の世界を再現することを意味する.写真の資格上はまだだが,実践では明らかに起こっている.加工されていないイメージは今では写真とソフトウェアによる交配物に相当するものよりもはるかにリアルより遠いものなのである.

Contemporary culture straddles the threshold of an ontological shift which would value the digital image over the actual. The proliferation of idealized software-altered-photographs works to disenfranchise viewers from materiality. Yet for all its radical potentials towards transcendent immaterialism and horizontality, this technological revolution seems to have alighted at little more than a gilded veneer atop an old and familiar leaden substrate.

現代的な文化は,デジタルイメージが現実的なものよりも価値を持つような存在論的移行の狭間にまたがっている.ソフトウェアによって加工された写真による理想的な作品の拡散によって,見る者は物質性への至る道が取り上げられている.まだすべてにおいて,超越的な非物質性と限界性へのラディカルな潜在性が発現しているわけではないが,この技術的な革新は古くて,親しみのあるよどんだ実質の金メッキのベニアの上にすぎないものに降りているようだ.

Images continue to serve as the primary instrument in the cultivation of desire. As part of our immersion into a global network of images we become ever more fully encircled by the photographic universe. Its descriptive system is now expanded through the presence of software but it continues perform the same essential function; representations working to recast our individual and collective conceptions of the body, material, time and space. The tools evidenced here are already present within all images now circulating in contemporary culture. Compression Artifacts may serve as a critical intervention to reorient viewers’ relationship to photographic images here forward.

イメージは文化の欲望における第一の測定器として機能し続けている.イメージのグローバル・ネットワークのなかに私たちが入り込むにつれて,私たちは写真的な宇宙に今まで以上に完璧にとりかこまれるようになってきている.その記述的なシステムはソフトウェアの出現を通して拡大しているが,同一の基本的な機能を果たし続けている.それは,私たち個人及び集団的な身体や物質,時間,空間を再構成するように描写する機能である.ここで明らかにされている道具は,既に,現代文化を循環するすべてのイメージのなかにある.「圧縮された人工物[ブロックノイズ]」は,ここにある写真的なイメージとその先にあるイメージにおける見る者の関係性を再構成するために決定的な調停役を果たすかもしれない.

http://joshuacitarella.com/artifacts.html

このブログの人気の投稿

【2023~2024 私のこの3点】を書きました.あと,期間を確認しないで期間外の3点を選んで書いてしまったテキストもあるよ

マジック・メモ:行為=痕跡=イメージの解体可能性

インスタグラムの設定にある「元の写真を保存」について

映像から離れていっている

出張報告書_20150212−0215 あるいは,アスキーアート写経について

「グリッチワークショップ」を見学して考えたこと

画面分割と認知に関するメモ

矢印の自立

アンドレアス・グルスキー展を見て,谷口暁彦さんの習作《live-camera stitching》を思い出しました

ナウシカの世界におけるメディア・コミュニケーション(1)