tumblrmemo800-899

memo800
半月くらいmemoを書かなかったので,今は,特に考えることがないけれど,と書いてみると,このmemoは何かのために書こうと,午前中は思っていたのだけれど,それが何のためだったのかすっかり忘れてしまっている.

薄くスライスすること.次元をスライスする.GUIの欲望に呑まれてしまう.それでいいと思える.あるいは,GUIに呑みこまれることに慣れること.そこでは,次元がスライスされているような感覚があるのかもしれない.でも,それだけでもないような.スライス,突破と言うか,穴を空けるというか,そんなこんな感じでぐちゃぐちゃしている.で

ディスプレイの物理的な層とピクセルとGUIがつくる層とをごちゃごちゃにして考えてみると,そこにモノとディスプレイとの重なりが見えてくるのかもしれない.

memo801
ウィンドウズの垂直とデスクトップの水平という二つの軸の違いがある.そこにMicrosoftのサーフェイス=表面を合わせて扱うとおもしろいかもしれない.ということを昨日の帰りに思いついたのだけれど,平面,表面,水平,垂直,それに重力ということを考えつつ,ucnvさんと永田さんの作品を考えたらどうなるのか.ディスプレイのなかの階層とディスプレイの表面のモノとしての階層とをつないで考えてみると,そこから見えてくるものはあるのかないのか.モノとしてのディスプレイと言われるときに,プラスチックのフレームとガラスは,それでひとつのモノとしてある.けれど,ucnvさんはそこを破壊する.永田さんも一度破壊していた.ここから何を考えることができるであろうか.

memo 802
垂直でも水平でも重力が働いていることは確かだけれど,水平の方が重力を受け止めている感じがある.永田さんの作品はデスクトップの重力を扱っているようにもみえる.けれど,それだけではなくて,同じ画像が分岐しているということも考えなければならない.演算はひとつ,ディスプレイはふたつ.同じようにコピーされる.コピーだとどちらかがオリジナルという感じがするから,分岐といった方がいいのだろう.

永田さんの作品を考えつつ,WINDOWS展のふたつの作品を考える.ここは薄い膜というか,「浸透と自律」というタイトルがいいのだろうか.塗料が浸透したかのように様子を見せる,Queさんの作品には,前回の作品にはな色気というか,妖気みたいなものを感じた.ディスプレイに擦り寄って,あわよくば入ってしまおうという欲望ではなくて,ジワーと,いや,スーッと入っていく感じ.残ったもの.残余.この言葉はあんまりだけれど,スーッと入っていく感じというのは,今回のQueさんの作品を見た感じに近い.

じゃ,須賀さんの作品はどうかというと,MASSAGEにも書いたような薄さで,そこがパリンと割れている.モノとして割れている.割れざる得なくて割れている.でも,そこには電源が入っていない.モノとしてのディスプレイがそこにある.Queさんの現象としてのディスプレイと須賀さんのモノとしてのディスプレイ.現象としての色の切り替えのなかで,モノがスーッと表面に入り込んで,ひとつの平面を構成する.毛細血管現象のような感じ.ここにも現象.須賀さんには現象がなくて,そこにモノがある.確かにある,という感じだろうか.

memo803

窓は開口部であり,光・空気が通る穴である.それは開閉し,こちらとあちら,内と外,前と後ろを分け隔てる.窓はその背後に広がる三次元の世界に向かって開かれており,平面と奥行き,透明性と仕切りが出会う場所である.窓はフレーム,舞台前部[プロセニアム]でもある.窓の端が風景を切り取るのだ.窓は世界を二次元の平面へと変える.窓はスクリーンとなる.窓と同様,スクリーンは平面であると同時にフレーム───映像が投影される反射面であると同時に視界を制限するフレーム───でもある.スクリーンは建築の一部となり,これまでとは違ったやり方で壁を穿つ.「仮想の窓[ヴァーチャル・ウィンドウ]」は建築空間の物質性に変化をもたらし,私たちの空間と(さらに根本的には)時間の概念を劇的に変えてしまう新たな風穴を開けるのである.(pp.1-2)  
ヴァーチャル・ウィンドウ,アン・フリードバーグ
「ウィンドウ」という言葉に頭を悩ましている.正確に言えば「WINDOWS」なんだけれども,そんなときに読んだのが上の本.引用したこのテキストが「窓」についてはほぼすべてのことを言っている感じがする.では,「WINDOWS」展に出品されたふたつの「窓」は何なのか.「窓は開口部であり,光・空気が通る穴である」というところは,Queさんと須賀さんの作品に当てはまるのではないか.「こちらとあちら」とを仕切るというところも,確かにそうだけれども,ここが少しちがうような感じもする.仕切るのではなく,そのあいだにある「ガラス」を通して,「こちらとあちら」とを繋げている感じもある.ガラスが透明性を失い,ガラスとしてそこにあることを示す.といっても,須賀さんの作品にはガラスはなくて,「ヒビ」だけがそこにある.それは「光・空気が通る穴」,いや「データが通る穴」,いや,単に「電気が通る穴」を模した穴といえるのか.

ガラス面に浸透するかのように薄く引き伸ばされた蛍光塗料.ガラスの平面と同化してしまうような蛍光塗料.ガラス面に同化してしまうようなピクセルのライン.ここには窓の透明性はない.窓はもともと透明ではなかった,単なる光・空気が通る穴であるであった.ガラスが透明になったから,それは透明なものになって,光だけを通し,空気はシャットダウンした.光だけを通すガラスによる窓.

窓ではなく,サーフェイスではないか.WINDOWSからSurfaceへ.ソフトウェアからハードウェアへ.そんなマイクロソフトとともに「WINDOWS」展を考えてみてもいいのかもしれない.けれど,Surface=表面とWINDOWSとは何が同じで,何が違うのか,わからない.

memo804
デスクトップの水平性とウィンドウの垂直性との関係をフリードバーグのヴァーチャル・ウィンドウから永田さんの作品で考えてみる.そこにモノとしてのディスプレイとしてucnvさんの作品も絡めると面白そう.デスクトップの水平性とウィンドウの垂直性とディスプレイというモノの階層性をパラレルに扱うこと.

memo805
Artie-Vierkant-Friday-1-April-2016-243PM.mp4を見続けても,そこで決定的に何が起きているのかは,わからない.平面の重なりがあるといっても,それはピクセルというひとつの平面があって,そこでの色の変化でしかないということを,いくつものの平面を重ねて,その平面を描いて顕現させていきながら示している.平面が筆跡?,筆跡でもなくて,平面を消して,あらたな平面というか,その下にある平面をだす.平面という考え自体がちがうのかもしれないけれど,どうしても平面ということを頭から消し去ることができない.映像が終わると,そこには複数の平面があるようにみえる.いや,複数の平面があると見ようとしているにすぎないのかもしれない.もう少し見よう.

memo806
全く同じということはないけれど,同じように分岐している.ディプレイは分岐している.信号が分岐して,同じ画面が映っているけれど,そこにはディスプレイの個体差がある.モノとしての差,信号は同じ.それは同じ画像なのか.どうなのだろうか.データとしては同じでも,見え方はかなりちがう.グリッチなのか.このレベルで考えてはいけないのかもしれない.

モノとディスプレイとデータとのあいだのどのレベルを主として考えるのか,いや,どれも主としては考えていけないのかもしれない.どれも主として考えないで,できるだけ考えてみること.

memo807
篠田千明の「ZOO」を見た.演劇は久しぶりに見た.ヒトよりもディスプレイに注目してしまう.ディスプレイの位置とそのフラットさと,その反射.とくに水平に置かれたディスプレイを見てしまう.VRも垂直であって,それは重力のなかにある.水平なディスプレイはどこか重力から逃れている感じがある.けれど,それは錯覚にすぎない.でも,錯覚でもいい.VRが錯覚だから.錯覚は感覚している.重力から逃れているような感じは錯覚であろうが,そこに確かにある.

ZOOではディスプレイをはじめとして,さまざま平面があった.それらが重なって,モノとなるというわけではなくて,重ねられた絵文字のように,平面は重ねられて,立体的に見えたとしても,平面に回収される.
また空のりんごの断面がある
そこには常に面によって閉ざされ
空のりんごの中身はいつまでたっても見ることができない
ZOOでのディスプレイは平面でも表面でもなくて「断面」と考えるのがいいのかもしれない.では,なんの断面か.3次元の断面.いや,単なる断面.面=お面で能で猿.面を取られる=HMDを取られる.断面を取られる.意味を取られる.断面が取られて,立体的な世界のなかに入る.断面は電源が切られて,モノとなる.モノという三次元の存在になる.断面化したものは,また,平面に戻され,モノとして扱われる.モノとして巻き取られた平面は,平面としての意味を示して,断面となって3Dに貼り付けられる.3Dに貼り付けられた断面は,3Dとしてディスプレイという平面に映り,そこで3Dの断面を示す.

中身=3次元を見ることはできない.空のりんごの断面を見ようとしなければ,そこには中身があるというか,断面につながった中身があり,中身そのものが断面となっている.しかし,そこにはたどり着かない.可能性だけが示される.多くのディスプレイとスクリーンとが,VRを断面化する.水平に置かれたディスプレイとそのうえのアクリルの板につけられた,スマートフォンにつけられた指紋のようなシミだけが,VRの断面化を回避して,立体化し,そこにヒト,何かがいたことを示し続ける.

memo808
VRはヒトに付ける.これは意外と忘れられているような気がする.だから,VRは垂直的,二足歩行的な感じがある.二足歩行が水平に置かれたディスプレイを踏みつける.垂直と水平は交わることがない.水平は垂直にたつヒトを支える.水平と水平とは重なり,平面をあらたな様態にする.そこをヒトが歩く.あるいは,踏みつけていく.人工芝だって講堂の床にしかれている.平面に平面が重なっている.VRは立体のモデルにスキンを貼り付けていく.ここまで書いてしまうと,ZOOから離れていく感じがする.ZOOは水平を重ねることで,垂直のヒトがいなくなった世界を描こうとしているようにも見える.VRは垂直であるけれども,結局はスキン,平面の重なりでしかない.そこに垂直のヒトがあるから,妙なことが起こる.水平世界に重力を持ち込むから変なことが起こる.
嘘みたいな本当の話ですが、この時点では私たちはカプセルがどういう態勢で着地したのかわかっていなかったのです。 重力が身体にどの方向からかかっているかわかりません。 ソユーズの着陸では、カプセルが横倒しになる可能性が高いのですが、着地の衝撃がすご過ぎて、自分たちが横倒しになったかどうかがわからないのです。 グローブを外した時に、どっちの方向に重力がかかるか心構えをしておかないと、グローブを取り落とすかもしれません。 そしてそれが他のクルーメンバーに直撃しないよう、尋ねたのだと思います。 
https://plus.google.com/101922061219949719231/posts/7j7yZdujMDr?sfc=true
宇宙から帰ると重力がわからなくなるらしい.ZOOに棲むヒトは重力のなかにいながら,水平世界にも行こうとしている.だから,ディスプレイを水平に置いてみている.でも,ヒトはそこに垂直に立つしかない.ヒトは垂直でありつづける.ナマケモノが極めて水平的に動いても,ヒトはそれを垂直のディスプレイで撮影する.水平と垂直とが交わりそうで,交わらない.垂直のヒトがいなくなったあとに残された水平の世界が,ヒトを「動物園」で覗き見ているのが,今回のZOOだったのではないだろうか.中身が即,断面になって,身即面となった世界でヒトは垂直で立ち続けるけれど,最後は,水平のディスプレイにつけられた指紋のようなシミとなって,水平面にこびりついて,その存在をかすかに示す.

memo809
Duarte points to “the brilliant work that Xerox Parc did with windows that could overlap and mice that point and click, [it was] groundbreaking.” But it wasn’t groundbreaking because it was a virtualized version of a real desktop, but instead because it “had object relationships.” That meant that people could form a model of how the world of the computer worked and make sense of it. Apple did a similar thing with touchscreens, moving us past point-and-click to a world where we could directly touch and swipe elements. 

Duarteは「Xerox Parcが重なるウィンドウと選択してクリックするマウスで行ったことは素晴らしい仕事で,画期的なものだ」と指摘する.しかし,それは現実のデスクトップの視覚化したヴァージョンだから素晴らしいのではなく,モノの関係性を示していたからこそ素晴らしいのである.このことよって,人々はコンピュータの世界がどのように機能しているのかのモデル化でき,理解できるようになる.Appleは同様のことをタッチスクリーンで行った.私たちを「ポイントしてクリック」から,要素に直接タッチしてスワイプする世界へと移行させたのである.

Material world: how Google discovered what software is made of

memo810
同じものは二つあるとそこに「同じ」という関係が生じて,その関係から逃れられなくなる.何かを足したり,引いたりする時に「同じ」という関係がでてくる.ディスプレイでもそれは同じであるが,分岐したディスプレイでは出来事が同時に起こる.どちらが基準ということはない.ディスプレイが同じものであればなおさら,どちらが主ということはない.ユーザが見ている方が主と言えるかもしれないけれど,それはたいしたことではない.仮の主ディスプレイでないか起きたときには,仮の従ディスプレイでも瞬時に似ている同じことが起きている.ここでは「同じ」ことが起きていると考えるのは間違えであって,ただ単にそれぞれのディスプレイにその出来事が起きているのである.

memo811
Material world: how Google discovered what software is made of

“It sounds like such an innocent question,” Duarte says, “and yet it was such a powerful spark.” It led the team to come up with a new way of thinking about the software elements we use and (virtually) touch every day. Instead of just talking about pixels on a screen or abstract layers, the team imagined that these cards and the surfaces they slid around on were actually real, tangible objects. 

「それは無垢な質問のように聞こえるかもしれません.しかし,それはとてもパワフルなひらめきだったのです」と,Duarteは言う.この考えは,毎日私たちが使っていて,(仮想的)に触れているソフトウェアの要素についてのあたらしい考え方にチームを導いたのです.スクリーン上のピクセルや抽象的なレイヤーについて単に話すのではなく,チームは,彼らが手で動かしているこれらのカードや表面が実際にリアルで,触れることができるオブジェクトだと考えたのです.

If these cards were an actual material with its own physical properties, that would mean there would be rules for how they must act and move on the screen. You couldn’t do anything you wanted with them, just like you can’t just do anything with physical objects. 

もしこれらのカードがそれ自体の物理的な性質をもった実際のマテリアルだとしたら,そこにはそれらがスクリーン上でどのように振る舞い,動かなけれなならないのかを示すルールがあるはずである.物質的オブジェクトを好きに動かせないように,あなたはそれらを自由に動かすことはできない.

Material Design “unified us in our thinking,” Duarte says, admitting that “it’s absolutely a constraint.” These constraints, he says, made design decisions easier and more consistent. Take, for example, the idea of flipping a card over to see what’s on the back. In Material Design’s world, that’s a cheat that doesn’t work. It’s as if the software is actual, physical stuff inside these devices, and there’s not space inside a phone to flip a card over, so Google doesn’t allow itself to do it. 

マテリアルデザインは「私たちの考えをひとつにしました」と,Duarteは言う.さらに,「それは完全な制約となっているのです」と認めている.これらの制約は,デザインの決定をより容易にし,一貫性のあるものにしていると,彼は言う.例えば,カードをひっくり返して裏を見るというアイデアがあるとします.マテリアルデザインの世界では,それは機能しない不正行為なのです.もしソフトウェアがこれらのデバイスのなかに実際に,物質的なものだとしたら,スマートフォンの内部にはカードを裏返すような空間はないのです.だから,Googleはその行為自体を許可しないのです.

memo812
モノとしてのディスプレイのガラス面にモノを置くのではなく,マテリアルと化したピクセルに直接,モノを置くという感覚があるのではないだろうか.光の明滅という現象にモノを置くという行為を関係づけてしまうこと.Houxo Cueやエキソニモがガラス面に絵具というモノを塗っていたけれど,永田の作品ではそのガラス面をあるけどないものとするようなことがおこっている.ピクセルというソフトウェアとハードウェアとが入り混じった平面をマテリアルとしてあらたな平面と捉え,ガラス面というモノの平面を上書きしてモノの支持平面にしてしまうようなことが,永田の作品では行われていると考えられる.

memo813
小山泰介の写真はクリーンか,ダーティーか.物理世界を取り込んでいるという意味では,ダーティーと言えるかもしれない.しかし,そのときの「ダーティー」は,コンピュータの「クリーン」と比較した際のダーティーということを考える必要がある.物理世界をデジタルと比較することなく,デジタルに取り入れるとすると,そこにあるにはクリーンな物理世界なのではないだろうか.小山の写真は物理世界を基層にしているけれど,それを取り込んでいるのはデジタルである.でも,ここに物理世界とデジタルとの対比,対立もない.デジタルで物理世界を観る,撮影することが行われている.あるいはデジタルを経由した物理世界をデジタルで撮っている.比較するのではなく,プロセスのなかデジタルと物理世界との対立・対比が機能しなくなるところを探り出して,そこを切り取っていると考えるといいのかも.そこでは物理世界がデジタルのクリーンさを纏って表示される.撮影されてプリントされるのではなく,たとえプリントされていたとしても,表示される,ディスプレイさているという感覚が小山の写真にはあると考えてみたらどうだろうか.

では,ディスプレイとは何か?

memo814
世界をスキャンすること,ピクセル化すること,計算可能にすること.計算可能にすることまでいくと,すこし行き過ぎかもしれない.ピクセル化するということは,計算可能にすることと密着しているのだけど,そこあえて引っ剥がして,ピクセル化ということのみを扱うこと.いや,やはり,計算可能になっていることはセットだから,世界をスキャンすることは,世界を計算可能にすることというか,世界を計算可能可能な表象にすることは,世界を3Dモデルのスキンにしていくことと考えると,いいのかな.これはもうありきたりな考えのような気がする.世界のスキンを透かして見てみると,そこにモデルがないと言えた方がいい.

memo815
The Silence of the Lens, David Claerbout
http://www.e-flux.com/journal/73/60460/the-silence-of-the-lens/

This gets more worrying with what I call, somewhat simplistically, second-generation 3-D perception, which is born without having seen the world, so to speak, and which does not have living memory to rely upon for pictures. A good example of this is the concept of the scan. Scanning differs from photography in that a scan literally moves like a mole in the dark. It does not need daylight to record, while photography is by definition a medium of hope because light is its essential condition. 

このことは,いくぶん単純化した言い方になるけれど,私が第2世代の3D的知覚と呼ぶものでより苦しむことになります.第2世代の3D的知覚とは世界を見ることなく生まれるもので,いわば,絵画のために頼れる記憶をもたないということです.このことを示す良い例がスキャンという概念です.スキャニングは写真とは異なっており,スキャンは文字どおり暗闇のようなモグラのように進むものです.写真がその定義どおりに光を必須条件とするのに対して,スキャンは記録のために日興を必要しません.

Scanning records only what we could hit or what could hit us in the dark. It reduces the world to a collection of obstacles. Scanning is a logic of avoiding, while photography follows the logic of encountering. Scanning is oriented towards security, towards determining what is close, or perhaps too close for comfort. We scan for threats. 

スキャニングは暗闇のなかで当たったモノや私たちに当たったモノのみを記録します.スキャンは世界を障害物のあつまりに還元します.写真は出会いの論理ですが,スキャニングは避けることを論理とします.スキャニングはセキュリティを指向していて,決定的に閉じることや,もしかしすると安心のために閉じすぎなのかもしれない.私たちは何か脅威のためにスキャンをします.

The scan would not have been developed without American defense systems, both military and personal (sometimes I see no difference). At the risk of going too far astray: unlike the photograph, a scan defines individual, personal space around “me”—a scanner is the scared individual who has sensors around him. 

スキャンは軍事でも個人的なものでも(ときどき私はここに違いを見れない)アメリカの防衛システムがなければ発展しなかったものであろう.言いすぎていることは承知の上で,写真とは異なり,スキャンは「私」の周りの個人的,パーソナルな空間を決定するものであり,スキャナーは彼の周囲にセンサーを持つ怯えた個人である.

memo816
マテリアルデザインについてのこのコメントは気になる.

さらにいえば、僕らは実世界をシミュレートしようとはしていません。実世界に限定しようとはしていません。脳の根本のところに語りかけるメタファーを作り出せると、魔法みたいなことも可能になります。(コンピューター上のように)面が分かれて変形する、そんな素材は実際にはありません。素材が大きくなるってことは、質量保存の法則にも反しているかも知れません。 
マテリアル・デザインって何? Androidデザイン責任者にインタヴューhttp://www.gizmodo.jp/2014/07/_android.html

質量保存の法則に反しているかもしれない.物理法則に反していても,脳の根本には訴えかけることができることを目指すこと.これはとても気になる.気になるといっているだけでは何にもならないのだけれど,ディスプレイには物理法則を離れるような刺激を脳に与えるようなことができるのではないか,いや,出来ていると思っている.そこを明確にしたいとと思って,連載を書いているところがあると思う,

と,このようなことを書きたくてmemoを書き始めたのかはもうわからない.友人の結婚式を終えて,酔った気分で,実際に酔っていて,新幹線でこのmemoを書いているわけですが,さて,何を書こうかと思ったのかは,忘れ始めています.

質量保存の法則にも反しているようなガイドラインをさだめるのがGoogleであって,そのようなことがディスプレイ内でおこれば,それはきっと,ディスプレイの外にも波及するはずだということを書きたったことを,思い出した.でも,ディスプレイの外にでてしまうとそこには物理法則がはたらくわけで,ソフトウェアと物理法則とのいいバランスをとって,かつ,ディスプレイをひとつの表面,モノが置ける表面と捉えたのがマイクロソフトのSurface Dialではないかと思っていたりします.ディスプレイの内側に物理法則のエッセンスを取り込もうとしたのがGoogleのマテリアルデザインで,そのようにディスプレイを物理法則との関係で考えたもうひとつの例が,マイクロソフトのSurfaceなのではないかと考えられるわけです.Appleは物理法則は考えていない.ソフトウェアでできることをハードに実装して,ヒトの感覚自体を書き換えとしている.マイクロソフトとGoogleは物理法則をうまく使って,脳に一貫性をもった刺激を与えようとしているのではないだろうか.

Surface Dialにもどると,これがなぜ物理法則に影響をうけているというと,20度という水平にちかいディスプレイに置かれて使うということです.もちろん,ディスプレイに置かないマウスのような使い方もできるわけですが,「ディスプレイに置ける」,しかも,ゴムの摩擦を利用しているというところが,とても物理的だなと感じたわけです.Googleがソフトウェアに物理法則を取り込んで一貫性をつくろうとして,マイクロソフトは物理法則をそのまま使うデバイスとディスプレイとの協働をつくりだす.これはディスプレイに対する考え方が,単に,垂直に置かれたディスプレイということではなくて,ディスプレイがいろいろな角度,垂直と水平とのあいだでさまざまなかたち・姿勢をとることに対応するふたつの例だと考えられるわけです.Appleは,そのようなときに,AirPodをだした.ディスプレイをなくしてしまった.これはこれで興味深い.

memo817
起用論文を何を書こうかと迷っていて,ラファエル・ローゼンダールのスクリーン上のマテリアルの否定から入ろうかと考えはじめた.フラットで,ノーテクスチャのピクセル.だからこそ,ディスプレイ上では,ブラウザでもなんでも可変的になっている.ローゼンダールはこのノーテクスチャでフラットで,マテリアルを否定するピクセルの可能性を汲み尽くしているアーティストだと考えることができる.

だから,ローゼンダールはピクセルを物理空間にインストールするときは,割ったガラスや砂を床に敷きしめたりする.プロジェクターから放射されるピクセル自体には厚さはないけれど,物理空間とピクセルを融合・激突させた結果として,物理空間が割れていたり,踏まれてかたちを変えているのかもしれない.このあたりはもう一度考える必要がある,ここを考えるために,小山泰介や小林健太を経由するというのはいいのかもしれない.

今回の起用の大きな目的はローゼンダールの作品ではなく,小山泰介と小林健太の写真を考えることになる.ローゼンダールのクリーンを起点に考えると,このふたりの写真をよりよく考えることができるのではなかと考えている.インターフェイスの表面であるピクセルのことを考え抜いているローゼンダールと対比させることで,小山と小林の写真の表面の特異性が見えてくるのではないかと考えられるからである.

と,ローゼンダールからいきなり小山・小林に行く前に,ピクセルを厚みをもつ存在として定義したGoogleのマテリアルデザインを経由した方がいいだろう.ピクセルがフラットであることはローゼンダールと変わりないけれど,マテリアルデザインではピクセルはマテリアルとして扱われている.ノーテクスチャでフラットだけれども,厚みのあるマテリアルとしてピクセルを考える.この考え方は,ディスプレイとピクセルに物理空間のルールを持ち込むためのいとつの方法である.

厚みをもつピクセルが展開される世界はソフトウェア+物理空間である.それがディスプレイで展開されている.ディスプレイの厚みからは逃れられないピクセル.小山は「厚さや重さを持たない光のデータを薄情な表面にアウトプットした状態こそが,逆説的にデジタル写真時代のマテリアリティ」と言う.この言葉はローゼンダールやマテリアルデザインを経由してくると意味がより明確に見えてくるのではないかと考えている.光のデータを薄情な表面にアウトプットすると,そのアウトプットはテクスチャをもつ.もうデータはノーテクスチャでフラットでマテリアルを否定できない.それらに定着されてデータは厚みをもち,マテリアルになる.そして,厚みをもったピクセルどころではなくなり,物理世界そのものに定着させられるピクセル.モノの法則をうまく使ってあらたなマテリアルとなったピクセルではなく,ピクセルがピクセルとして定義されていたノーテクスチャとフラットさを失ったピクセルとそのデータが示すのはどんなマテリアリティなのだろうか.

ピクセルが厚みをもっただけなら,マテリアルデザインが実装している.しかし,小山の作品ではピクセルが厚みをもつとともに,そこからモノとしての劣化がはじまる.モノのダーティさ,コンピュータのクリーンさと比較してはじめて生じるダーティさが,その表面に入り込んでくる.その表面はモノではあるが,小山はそれをあくまでもデータ的,ピクセルのように捉えているところがある.物理世界のルールを使って,ピクセルの見え方を変換し続けている.モノの変化を物理的な変化とは捉えずに,ソフトウェアの操作のひとつとして捉えているのではないだろうか.だからこそ,モノの表面に粒子効果を加えるような操作を行うのではないだろうか.小山は物理世界の基層=ソースとして使いながら,そのバリーエーションを制作するなかで,ピクセルに厚みを与えている.それはマテリアルデザインのように定義ではなく,モノとして実際に厚みを与えるがゆえに,ピクセルは水に融け,劣化し,拡大される.

では,小林はどうか.小林はディスプレイ上でピクセルに厚みを無理やり与えてしまう.Photoshopの指先ツールをつかって,PhotoshopのレイヤーとGUIのレイヤーとを行き来するように画像を盛り上げる.実際には色の情報の操作でしかないだが,そこには物理空間が切り取って,ピクセル化された平面に対して,もうひとつの層=厚みを付け加えているように見える.「厚みがあるようにみえる」という後付けの厚み,見せかけの厚みであるが,それこそが物理世界をコンピュータのクリーンの世界に入れ込んだ結果なのである.

memo818
小山泰介の写真は「2次元でしかない」.ポジティブな意味で「2次元でしかない」.ラファエル・ローゼンダールがピクセルはフラットでしかないというのもポジティブな意味となるように,小山の写真も「2次元でしかない」.確かに写真は3次元世界を2次元に縮約する.しかし,2次元に縮約された世界に人は3次元性を見る.けれど,小山の写真にはその3次元性はない.厳密には「ない」のではなくて,ほとんど剥ぎ取られていると言ったほうがいい.だから,たまに3次元性が残っている写真もある.データをモノとして薄情な表面に定着させると,データは3次元のモノの世界に入り,その表象は2次元と3次元のあいだを行き来する.けれど,小山は3次元の剥ぎ取る.

少し違う感じしてきた.《pico》で画像に載せるノイズはフィルムというモノの一貫性を示すために開発された効果である.3次元性を剥ぎ取るならノイズを入れる必要はないのではないだろうか.なぜ,ノイズを色面に入れるのか.ローゼンダールのようなクリーンな色面に小山はノイズを与える.なぜか? データをモノ化するだけでも,そこにはノイズが入るはずなのに,データの段階でノイズを加えるのはなぜか.フィジカルなノイズだけではなく,フィジカルなノイズを模したデジタルなノイズを加える.薄情な表面にデータを定着させるだけは,ノイズは発生しないのか? 

小山はフィジカルな表面に対して,そこにモノを見ていないのではないだろうか.ローゼンダールがピクセルに数学的なクリーンさを見るように,小山はモノの表面に反射してカメラに入ってくる光とそのデータしか見ていないのではないだろうか.だから,薄情な表面にプリントされたデータは確かにモノになるのだけれど,それはディスプレイと同じようにデータがデータとしてそのまま表示されると仮定していると考えてみると,データの段階でノイズを加えることの意味が明確になる.つまり,データでしか,モノとしてのノイズを加えることはできないのである.小山の写真はモノの表面をソースにしていると考えていたけれど,モノの表面に反射した光を受けた画像素子から変換されたデータがソースだと考えた方がいいのかもしれない.

memo819
渡邉朋也さんと秋庭史典さんとトークについて考え始めた.トークのタイトルは「アートと計算」.私は司会だから.ある程度の枠組みをつくって,あとはおふたりに任せてしまえばいいのかな.

ということで,秋庭さんが「あたらしい美学をつくる」で言っている「フォルム→アルゴリズム」という流れからはじめるのがいいかなと思い始めている.「美」を見つける方法論の変化.そのもとで渡邉さんの作品を見ていくと,確かに,渡邉さんの作品には「アルゴリズム」を多分に感じるのだけれど,その作品を作品として成立させているのは,何かと似ているという「フォルム」だったりする.アルゴリズムを経たフォルムというと生成的なかたちを思い浮かべるのだけれど,それともちがう.複数のほぼおなじのフォルムがあることは認められて,そこになんとなるアルゴリズム,計算,コンピュータが絡んでいることは匂わされているのだけれど,それらが明示的にバーンと前にくるわではなくて,ブラックボックス化されている感じがする.

コンピュータが使われると作品がブラックボックス化されているような感じはもうなくて,コンピュータが使わていると見る人が認識されるとそこで,コンピュータを使っているという説明で作品がホワイトボックス化される.実際には,コンピュータのなかでは何が行われているのかわからないのだけれど,コンピュータ自体で作品が説明される.でも,渡邉さんの作品はコンピュータのホワイトボックス化で隠されるブラックボックスがそのまま提示されているような感じがする.その結果,作品制作のプロセスがブラックボックス化されて,現象としてそこにモノがあるということなって,作品の意図がブラックボックス化される.フォルムがアルゴリズムをブラックボックス化している? フォルムがアルゴリズムをはぐらかしている?

秋庭さんは「身体に根ざした理解」といっているのだけれど,渡邉さんは「身体に根ざした理解」に「計算に根ざした理解」を重ねてくる.でも,その「計算に根ざした理解」はヒトは異なる原理であるから,理解できない.でも,それはコンピュータによって確かにあるものになっている.渡邉さんは計算のもとに身体があると考えている.だから,フォルムをつくる.でも,そこに計算を重ねる.計算の結果のフォルムなのだけれど,計算からできたフォルムにもういちど計算を重ねて作品をつくる.計算を通してフォルムを見ていると,その先にある計算が透けて見えそうで見えない.だから,制作過程がブラックボックス化されるというか,そこに意味を見出すことを諦める.そうなるべくして,そこにあるだけになる.でも,それには計算が重ねられている.だから,モノをフォルムとして見ることができないで,計算が入り込んでくるという繰り返しの結果,「もう,どっちでもいいか」となる.

memo820
落合博満は「ホームラン」という出来事をつくるために,自分の視点から見える「空間」を精査したといえる.そのなかでは投手も形式の一部になる.そして,その景色をできるだけ正確に認識するために「目の錯覚」を生み出す要素をつぶしていく.さらに,過去の記憶をデータとして使い,スイングという精密な動作を調整し,ホームランを打つ.この流れのなかで,落合が「目錯覚」をなくそうとしている点が興味深い.「目の錯覚」を失くすことができれば,ホームランが打てる.実際,落合は「ホームランを打つ」ということだけを考えて,バッターボックスに立っていた.基本に則ったスイングでストライクのボールを打てば,理屈の上では,バックスクリーンへのホームランになる.理屈の上では,ホームランを打つという出来事を落合はいつでもつくることができる状態であった.でも,そこには「目の錯覚」や行為のミスがあるので,ホームランが打てないときも生まれる.落合がホームランを打たないことがある理由が,本を読んで,わかった.落合は出来事が起こる確率の精度を上げているけれど,落合に確定できない要素が野球には多くあるということ.

でも,野球には「目の錯覚」や行為のミスがあるので,ホームランが打てないときも生まれる.落合がホームランを打たないことがある理由が,本を読んで,わかった.落合は出来事が起こる確率の精度を上げているけれど,落合に確定できない要素が野球には多くあるという当たり前のことだけど,野球が確率のスポーツというのは面白い.

結局,節目の試合で確実にホームランを打った,その理由はわからないままである.

memo821
永田さんの作品を考えるために,ギブソンの生態学的視覚論とか読んでいるのだけれど,頭がコんガらガっちです.

ギブソンは技術による間接知覚は直接知覚になりようがないといっているけど,永田さんの《Inbetween》は,そこをひっくり返しているような気がする.間接知覚を限りなく直接知覚に近づけるというか,このふたつが気がつくと入れ替えてしまっているような感じ.

そこで「ディスプレイ」というテクノロジーが担っている役割を考えることができればいいなと思いつつも,頭がコんガらガっちです.ディスプレイは謎です.

memo822
ギブソンにはメディウムとサブスタンスとサーフェイスという言葉が出てくる.ディスプレイはギブソンとは関係なく「メディウム」として考えられていて,機能してけど,ギブソン的な意味でメディウムとなって,サブスタンスとしても考えれて,結果,サーフェイスとしても考えられるようになっているから,今,とても「メディウム」として魅力的なのではないかと,ギブソンのテキストを写経したあとのコーヒータイムに思った.

memo823
ところがツルツルだったはずのアニメがゴツゴツに近いものを取り入れ、怪獣に逆襲をかけてぶっとばした瞬間がある。それは1960年代末、劇画ブームと呼応して導入されたマシントレスと特殊効果(ブラシやタタキ)が、アニメのセルをダーティに変えて質感を意識した仕上げを取りこみ始めた時期である。その質感に裏打ちされ、動きや演出も変わる。『巨人の星』の異次元空間のような大リーグボール、『タイガーマスク』の意表をつく豪快なアクションなど、それまでにない卓越したものが次々に登場した。ゴツゴツの怪獣とはまた違う、超現実的な汚い映像が出現したのだ。 
https://mine.place/page/ff480ee1-c15e-4763-825c-4caeb91aeb63
アニメ評論家の氷川竜介さんの「今日も怪獣日和 第7回「アニメと怪獣の超えられない溝」」にあったテキスト.「ダーティ」という言葉が使われているところに惹かれた.

ラファエル・ローゼンダールがベクター画像の印象が「クリーン」で,どうしても「ダーティ」にできないと言っていた.ここから,私はコンピュータを「クリーン」で,コンピュータと対比された物理世界を「ダーティ」と言っていたのだが,氷川さんはアニメと特撮のちがいから「ダーティ」という言葉を持ってきていて,ダーティが「超現実的」「異次元空間」という言葉と結びつくところが興味深い.

氷川さんのテキストは「質感」の話なっているので,インターフェイスをこのような質感で語る文章を書いてもいいかもしれないと思った.

memo824
モノの歴史・履歴を剥ぎ取ったのがデュシャンのレディメイドだとすると,Avatarsはモノにあらたな履歴を付与することになる.では,SWOのやっていることは何を意味するのだろうか.

憑依するということは,そのモノの履歴を一挙に引き受けることであるが,そのためにはまずモノに馴染む必要があり,馴染もうとしているあいだに憑依は解けてしまう.憑依される側と憑依する側とのあいだには非対称性がある.憑依するモノ・ヒトは「本体」をもつ.いや,憑依される側も「本体」をもつ.憑依とはかたちの入れ替えでもあるが,「履歴」を入れ替えることかもしれない.

因果関係ではなく相関関係.

memo825
オートメーション 生き方の学習
線条性と同時性
ヒトは線状性からは抜け出せない.
同時はまやかしだが,技術的に線状的なものを同時的に感じることはできる
ひとつの解決策としてのパラレル
オブジェクト指向プログラミング
オートメーション
TCP/IPのようなプロトコルをイメージすればいいのかもしれない
シュムーとコウイカ
流動的な具体化
吸入と排出
このメタファーはインターフェイスにも使えるかもしれない
入力と出力ではなく
書字=ペン=専門分化
電気=マウス=未分化?

兵器 図像[イコン]の戦い
視点からの解放
では,次は?
視点を自然だと思いこんでいるから,視点からの解放は難しい
機械と電気とを抱えて生きる
20世紀独特のドラマ

テレビ 臆病な巨人
テレビと「一体化 with」しなければならない
一体化しているとすれ,テレビは no interface
インターフェイスの精細度と触覚
テレビの映像は触覚の拡張
ディスプレイは触覚の拡張
触覚の拡張ゆえにマウスなどのインターフェイスがうまれた
ディスプレイをインターフェイスと考えないこと
ディスプレイはインターフェイスとなるために遠近法を捨て,乱層のデスクトップを表示するようになった?

memo826
「一枚の絵の力」に山形さんと永田さんの作品を見に行った.永田さんと山形さんともにディスプレイを用いた作品をつくっていて,それを見ていて,考えたのは,永田さんはディスプレイの外にレイヤーをつくるというか,ディスプレイのなかだけで映像が完結しないというか,外に伸びていく感じがあるということ.これはこれまで「モノとディスプレイとの重なり」で書いていたことでもある.今回の新作はそれがきれいなかたちででていて,もはや具体的な像ではなく,単にグラデーションの光となった映像とその上の水のレイヤーとの重なりがきれいだった.光と水,光の屈折もなにもグラデーションだから,起こっても起こらなくてもよくて,水の色とグラデーションの光との混ざりあって.ディスプレイの光に情報が重ね合わされていく感じ.

山形さんの作品は「optical camouflage」のときから気になっていた「ディスプレイの内側」ということが,今回のエイの作品にも感じられた.エイの作品はディスプレイの外側に水が少し入ったペットボトルが設置してあって,それがたまにディスプレイに水を注ぐような感じに動く.ペットボトルにはフタがしてあるので水はでないのだけれど,ディスプレイにはそのペットボトルから注がれたかのような水の放物線が描かれて,エイに水が注がれる.ディスプレイの外側からのちからが,ディスプレイ内の映像と連動しているといえるのだけれど,よくよく考えてみると,ペットボトルのフタは開いてないし,ディスプレイとペットボトルとのあいだには微妙にあいだがあって,ディスプレイ内の水はペットボトルとはつながらない.そこにはあいだがある.ここがとても重要な感じがしていて,それは,ディスプレイ内の水はペットボトルから注がれているようにみえるけど,それは単に見えるだけで,ディスプレイに表示されているだけでしかない.でも,「しかない」というものでもなくて,ディスプレイ内側の,ディスプレイのガラスの内側のピクセル平面から生まれる水の放物線であること.ディスプレイ内側の水の放物線とペットボトルとは関係がありそうでないけど,あるように見えるけど,やはりないとした方がスッキリするような感じがある.そして,これが気になるのは,「optical camouflage」での山形さんの作品でディスプレイに鳥が激突するという作品があって,その鳥はどこに衝突しているのかということが気になっていたから.水はどこから注がれているのか,ペットボトルのような気がするけれども,それは連想でしかないのではか.では,実際は,鳥がどこにぶつかっているのかわからないように,水もどこから注がれているのかわからないのではないか.ディスプレイ内だけで完結していながら,外とつながるようにディスプレイが設置されるがゆえに,ディスプレイ内の映像の位置がわからなくなるような感じがある.そして,そう考えはじめるとディスプレイ内の映像は実際はどんな場所・平面なのかということになって,それはディスプレイという平面がどんな場所なのかを考えるきっかけにもなるような感じを受ける.

永田さんがディスプレイ内の映像を外と重ね合わされていくのだとすると,山形さんはディスプレイの内と外を接続させているようにみせながら,ディスプレイを完結した平面として提示している,というようなことを考えた.

memo827
帰属先未定の身体/カメラ・ディスプレイの身体との関係.ディスプレイが動くことで自己帰属感がディスプレイそのものに帰属しそうで,映像にも帰属しようとして分岐しつつ捻れるような感覚が生じるような感じ.

動いていることから自己帰属感の帰属先になる権利が発生する? だとすると,見ている状態で動かないヒトは自己帰属感から外されているヒト以外のディスプレイ,モノ,映像とがそれぞれをそれぞれに帰属させようとしている.ヒトはその相互の帰属感の関係に対して,「見る」ことを挿入して,スライスしていき,ひとつの関係を取り出すのみである.

小林椋《盛るとのるソー》に関するmemo.ディスプレイが動くことで,ヒトと映像とディスプレイとの力関係,主に(自己)帰属感の「帰属先」の争いが起きているような感じがする.小林さんの作品のポップな見かけからは「争い」という言葉はあまり感じられないけれど,とても静かだけれど,確かに「争い」が起こっている感じがして,そこが作品の見かけのポップさと乖離していて,作品を考えることを難しくしているのかもしれない.でも,静かな争いではなく,ポップな争いかもしれない.まだ,わからない.

memo828
小林椋《盛るとのるソー》の作品記述をしたのだけれど,ディスプレイが動いていて,その動きと合わせたかたちでディスプレイに付随するカメラも動いて,外部の物理世界をディスプレイに取り込んでいくので,どこか視線がくるっと螺旋を描くようなイメージが思い浮かんだ.

螺旋を描いて自己言及的にディスプレイにもどってきた視線が映像となって表示されているのだけれど,その映像のうごきとともにディスプレイもまた動いているから,螺旋を描くように戻ってきた視線が今度は物理的に回転させられる.

けれど,物理的回転はもともとの条件であるから,と思っているうちに視線は再び螺旋を描くようなことを思っているうちに,すべてが動いていることをどこで区切って記述すればいいのかわからなくなってきた.ディスプレイが動くと言うだけで,ひとつの不動点というか消失点が消える感じ.

memo829
三輪桃子さんの修士論文「エキソニモとメディア・アート──作品分析から考えるテクノロジー・身体・笑い」を読む.

エキソニモがIDPWを含めて体系的に論じられていて,こういうことが私も書きたいと思いつつも,自分ではこのように書けないなということも思ったりしながら,読んでいった.

自分のテキストとかが引用されていたので,こうして活かしてくれるのはいいなと思いつつも,むず痒くもありました.

自分でも一度作品を考察していることもあり,第三章の「《断末魔ウス》 (2007)  Body Paint (series) 2014- 」が興味深かった.この2つの作品を対比して論じて,ここ10年あまりのインターフェイスの意識が「透明化」から「遍在化」「環境化」に至ったという指摘は,そうだと思う.そして,《断末魔ウス》は透明化したインターフェイスをカーソルの震えによって顕在化させ,Body Paintは遍在化・環境化したインターフェイスの強烈に個別化することで,インターフェイスの置かれた状況に対して強烈なカウンターと機能する.そして,三輪さんは鑑賞方法においてもこの2つの作品に対して,以下のように指摘している.
鑑賞方法として《断末魔ウス》がソフトウェア作品で「いつでも,どこでも」体験できるのに対し,Body Paintが「いま,ここ」,つまりその場で実際に絵の具とディスプレイの質感の違いを近づいて確認せざるを得ないものになっているのは,非常に示唆的である.ある種の逆転現象がここで起こっているのだ.つまり,ある時点で確かに破壊されたマウスの生の不可逆性やカーソルの存在感を強調し,「いま,ここ」を意識させる《断末魔ウス》の体験は,「いつでも,どこでも」できる.一方Body Paintは,「いつでも,どこでも」存在し続けるコンピュータやデバイスやディスプレイについて「いま,ここ」でしか理解することのできない語り方をしているのだ.pp.40-41
ここは,この2つの作品からインターフェイスを考える上でとても重要な感じがしている.ここからもう一度,批判的にインターフェイスを考えみたら面白い感じがする.

memo830
オットセイ,本
沈黙の時のディスプレイ

Inter image
ディスプレイと計算と彫刻
ディスプレイとともに起こっている計算を意識する?
ディスプレイが動かないからか,そこにとても計算を感じる

ディスプレイの裏
ディスプレイの裏へ透過する光

思い過ごすものたちは,ディスプレイのモノ的側面が強調されているからか,計算をあまり感じない.過去との断絶が問題なのかも? となると,物的証拠はどうなるのだろうか?

テキストの最後から展示を考える.
テキストの最後の「折り曲げてたり,くしゃくしゃに変形していた」は,モノとしてのディスプレイにはされていないのに,こう書かれていることから考えたい.

2回目
スキンケア
透明感
メッシュデータ前で回転してる3dモデル
凸凹とした表面がディスプレイだとしたら…
モノとしてのディスプレイではない
面ではあるがモノではないし,四角でもなくて,もう少しぐにゃぐにゃ,折り畳まれたディスプレイ
それはディスプレイなのか?
物理世界の介入?
メッシュデータの画像とカメラとプロジェクターとのあいだの空間
その空間に3dモデルが浮いて,回転している

あらゆるものを「現在」にしてしまうディスプレイ 
離散的なデータをまとめてしまうディスプレイ
物理世界とデータとを透過して重ね合せるぐにゃぐにゃのディスプレイ

ふたつの世界に重ね合せられるディスプレイ
ふたつの世界に挟み込まれるディスプレイ

カメラの前を通る時の気持ち悪さを考える
プロジェクターの前を横切る時には感じない
映像の端に映っている時にも感じない

memo831
#超いまここ での谷口さんのテキストで,「スキンケア」でディスプレイが突如モノではなく扱われるところにひっかりと面白さを感じているのだけれど,自分の連載タイトルも「モノとイメージとの重なり」なら分かりやすいのに「モノとディスプレイとの重なり」で,カテゴリー・ミステイクしている.

なぜ「モノとディスプレイとの重なり」にしたのかと思い,庄野さんに送った概要を見ていたら,レティナディスプレイのことを引きながら,「ディスプレイの内外でモノがモノとしての境界を失いつつつある.

その結果として,ディスプレイとモノとの境界とが重なりあうところにモアレのような動的な現象が起きている.ディスプレイにあるモノの存在が,物理世界のモノのあり方に影響を与える」と書いていた.網膜に映るイメージがレティナディスプレイでモノとなる.だから,イメージがモノとなるのはいいけれど,モノとなったイメージがディスプレイに置き換わったのなぜだろうか.ひとつは「モノとイメージ」との二項対立はありきたりだからだろう.でも,それだけじゃなくて,もともと「ディスプレイ」というヒトが常に見るものに興味があったこともひとつの理由.ディスプレイという光源の謎を知りたい.

イメージの支持体としての「ディスプレイ」ならば「スクリーン」もあるけれど,「スクリーン」については映画に関連して多く語られているけれど,ディスプレイやモニターに関してはあまり言われていない.有名なのは,マクルーハンの透過光の議論ぐらい.ディスプレイは光源であることが,イメージとディスプレイとが置き換わるひとつの要因なのかもしれない.でも,連載を進めていくと,ディスプレイがモノでもあり,イメージでもあるという当たり前のことに行きつく.そのなかで,ディスプレイにおけるモノの側面はあまり強調されていない.特に液晶など薄くなったディスプレイはスクリーンと同じように扱われている感じもある.でも,そこでやはりイメージを提示しつつもモノであることを強調することで,イメージの支持体としてのディスプレイのモノの側面が物理世界との関係のなかで,あたらしく見えてくるのではないか,そして,そこを追求するとヒトの認識は変わっていくのではないか.そんな感じで連載を続けているのだと思う.

memo832
スケッチパッドの記録映像から,インターフェイスにおける手を考える.以前書いたボツ論文では「システムの手」「行為の手」としていたけれど,「最小化した手」と「行為の手」の方がいいかもしれない.ノイズをなくすということと,ヒトの行為を保存するということを両立させること.そのために「ペン」であり,画面に直接描く.手と眼との分離をなくす.それはヒトの行為を保存すること.でも,保存するだけではなく,アップデートをかける.それが「最小化した手」であり,この手はいずれ「カーソル」となる.そして,iPhoneは手をさらに最小化した指を「最高のポインティングデバイス」として画面操作に導入する.

この流れのなかでサザーランドの「究極のディスプレイ」と落合陽一さんの考え及び,彼のサザーランド評を組み込んでいく.

memo833
サザランドは描くという行為におけるノイスの発生源として身体を考えていたのではないだろうか.だらか,「拘束」という機能をスケッチパッドに設計した.ヒトの行為をノイズとして除去するのか,それとも最小化しつつヒトの行為を活かすのかは,似ているようで異なるのかもしれない.最小化しつつも,行為としては残すのがスケッチパッド.正確に言えば,最小化した手と行為の手とを「拘束」というアルゴリズムで組み合わせたのがスケッチパッド.

身体はコンピュータの前にあるのだから,コンピュータにあわせたヒトの行為を設計することで,ヒトを拘束しつつ最大限活かそうということだろう.行為を最小化しつつ,行為の意図というか,行為の結果生じる出来事を最大化させるような設計を行うことが重要なのだろう.

道具と結合する手=最小化する手,または行為をアシストする手.しかし,そこにあるのはヒトの手だけではない.最小化した手と行為する手とを組み合わせるアルゴリズムというもひとつの手とが組み合わされる場としてのディスプレイ.物理世界の法則を無視しつつ,行為する手を拘束する場として機能するディスプレイ.ヒトはコンピュータに拘束され,ディスプレイに引きつけられ,ディスプレイが空間へと拡がっていき,究極のディスプレイとなる.

究極のディスプレイとかした物理世界では,アルゴリズムというもうひとつの手がヒトの2本の手をシステムのなかに組み込むために,その先を予測可能である.そこでは,ヒトの手がアルゴリズムをアシストし,アルゴリズムがヒトの手をアシストするようなオシツオサレツの関係になる.ヒトとアルゴリズムとのどちらが主ではなく,単に行為が生じて,出来事が生じる.いや,出来事が生じて,行為がそこから派生する.出来事が予測され,行為が派生する.最小化した行為は予測された行為から派生し,最小化した行為はヒトの行為を拘束しつつも,行為を生み出す.

数字/表現の不確定性原理を確定するために,アルゴリズムがヒトの手を求める.最小化した手のみでもいい.けれど,スケッチパッドでは行為する手もまた同時にある.この意味では,サザランドはヒトの行為をコンピュータとのあいだに残そうとしたともいえる.いや,彼が見ていたディスプレイは四角い枠のみではなく,物理空間そのものであったために,行為を残す必要があったとも考えられる.

memo834
ヒトの身体も物理的に制御可能なモノであるのだから,ヒトの行為もコンピュータにハックされて上書きされる.コンピュータはあらたな情報を生み出すために,まずはヒトをハックして行為をコンピュータに対して最適化して,情報を生み出しやすくした.ヒトの身体も物理的に制御可能なモノであるのだから,ヒトの行為もコンピュータにハックされて上書きされる.コンピュータはあらたな情報を生み出すために,まずはヒトをハックして行為をコンピュータに対して最適化して,情報を生み出しやすくした.それはヒトから見れば,コンピュータが使いやすくなったことを意味する.コンピュータに最適化した行為を,スケッチパッドにおける「制約」という考えで捉えてみる.コンピュータはヒトを制約する.その制約は自然界のルールからヒトを「解放」する.最適化,制約,解放とが同時進行する.

スケッチパッドに接触=痕跡はないけれど,コンピュータはヒトを捉えているし,ヒトがコンピュータを捉えているともいえる.インターフェイスという場においてヒトとコンピュータとが結びつく.しかし,ヒトとコンピュータとのあいだにインターフェイスができるのではなく,インターフェイスが先にあり,そこからヒトとコンピュータとのあいだにあらたな行為が発生する.ヒトとコンピュータとは向かい合う必要もない.ただインターフェイスがあればいい.インターフェイスはヒトとコンピュータと共在させて,「合生的行為」を生み出し,「合生的形象」をつくりだす.

memo835
インターフェイスが先にあって,そこからあらたな出来事が生まれている.出来事の興味深さによって,作品として選択されたのだろう.ディスプレイの裏から漏れ出る光というのは「ありそうでないけどありえる」出来事である.そして,《夜だけどに日食》では実際に起こっている.過去と現在とを音をトリガーにして短絡的に結びける.音に反応するインターフェイスから,過去と現在とが音のインターフェイスを介しつつ,ディスプレイを軸として結びついてしまう.ディスプレイは古谷さんが言う「そこから先には入り込めない透明な板=壁」でもあるかもしれないが,ここでは端的に表と裏を遮るモノである.ディスプレイはモノであって表と裏とを遮るからこそ,「そこから先には入り込めない透明な板=壁」になれる.

《夜だけど日食》と《置き方》の「インターフェイスだけ用意しておいて」から,アップデート《透明感》を考える必要がある.アップデート《透明感》は,メッシュデータとテクスチャデータとが重ね合わされて表示されているけれど,ここでこの重ね合わせに先行するインターフェイスを考えてみる.谷口さんは「メッシュデータと,テクスチャデータの間に現実の空間が挟み込まれる」と書いている.ここから「現実の空間」がインターフェイスなのではないだろうか.しかし,それはプログラミングできるものではない.インターフェイスが「空白」なのかもしれない.インターフェイスを「ディスプレイ」と考えるとすると,ディスプレイが「空白」ということになる.ディスプレイを「空白」とするからこそ,映像のなかにディスプレイを送り返せたのかもしれない.そして,折り曲げて,くしゃくしゃにしてできたのかもしれない.

memo836
ディスプレイの裏側にある電球とディスプレイに表示されている電球とが重なり合ってしまって,そこに時制の捻れが生じる.それはディスプレイというモノが光を放つと同時に,光を遮るからこそ起こる.モノが物理世界のなかにあり,フレームのなかに映像世界がある.それらがモノを軸として,放射される光と光の遮蔽とで重なり合って,絡み合ってしまう.まずは重なること,そして,次に,絡み合っていく.

ディスプレイの裏側はディスプレイがないと存在しない空間であり,ディスプレイとセットで生じる空間である.そこは物理空間の一部であるが,ディスプレイとセットの個別空間となっている.物理世界にディスプレイというモノが置かれてできた切断を補完するかたちで「ディスプレイの裏側」という個別の空間が生まれている.だからこそ,そこではディスプレイに表示されている電球の光と裏側に置かれた電球の光とが重なってしまう.映像の光とモノが遮る電球の光とのあいだの隙間が補完されて,重なりあって,時制が絡み合っていく.

物理空間と計算空間とが重なり合い,個別の空間が生まれる.それは現実空間では,プロジェクターとスクリーンショットとのあいだ,画像とカメラとのあいだに生じる空虚な空間としてある.ディスプレイは空虚な空間を見せない.ディスプレイは空虚な空間をつくらない.ディスプレイ自体が空虚な空間のなかにあるからこそ,ディスプレイはその空虚さを示さない.プロジェクターは空虚な空間に出来事をつくりだし,映像に送り返す.映像内にモノからイメージへと状態を遷移させたディスプレイが生じる.空虚な空間に置かれたモノにディスプレイが生じる.

ディスプレイが置かれた空虚な空間,視点が回り込める3D空間をとともに3Dスキャンされたモノが3D空間に置かれて,空虚な空間とテクスチャマップに重ね合わされる.テクスチャデータとモデルデータとが重なり合うだけではなく,そこの空虚な空間も重なり合わされている.空虚な空間を軸として,物理世界と計算世界とが重ね合わされる.それを可能にするのが,テクスチャデータとモデルデータとがつくる離散的で,折り曲げられ,くしゃくしゃにされたイメージとしてのディスプレイである.モノと重なり合うディスプレイが,空虚な空間を巡る視点と時制の絡み合いのなかで,イメージのなかに押し込まれる.

memo837
谷口さんの作品について書いて,ひとまず送ったところ.直しはあるだろうけど,自分のなかでディスプレイに対する考えた前に進んだ気がする.前に進む,拡張するとしていくと,どんどんもとの「ディスプレイ」が揺らいでいくけれど,それでも考えていかないといけない.そうこうとしているうちに,もうすぐNY出張で,エキソニモ展示である.作品画像を見る限りでは,ディスプレイというモノと光の現象に振り切っていそうで,こちらも楽しみ.

memo838
美術手帖に掲載された馬さんの「超・いま・ここ」のレビューを読んだ.作品の「再制作」から,ディスプレイも他の装置と同様に「現在=いま・ここ」に依存しているという指摘は,確かにと思った.それから,個展が若い世代に受け入れられていることの意味や,ナム・ジュン・パイクの作品についても語られていて,「テクノロジーの現在化」,「アップデートに影響されない作品世界の本質」といったことが指摘されていて,とても興味深かった.最後の一言が,馬さんから谷口さんへのメッセージはずっと作品をみてきた人が書ける一言だな,と思った.変貌したのなら,それはそれで整理されて良しとするし,変貌したことで欲望が整理されてきってしまっていいのか,ということでもある.

私は今回の谷口さんの作品の言語化によって知るところも多かったので,整頓してくれて,ありがとうございますという感じです.でも,きっと,馬さんの言うように谷口さんには整頓されていない部分があって,そこをどんどん出していこうという,馬さんの言葉を受けての谷口さんの作品もみたい.自分も谷口さんの整頓を受けて,混沌としたテキストを書いていたりする.

「超・いま・ここ」は誰がレビューなり評論を書くと思っていたけれど,馬さんが書いてくれて,よかった!

memo839
連載で書いたからホワイトヘッドを日本語で読もうと思う.英語で読んでいたけど,やはり理解がイマイチだから.連載3回目までには「合生」を,ホワイトヘッドから吸収したい.「合生」から,インターフェイスを考えつつ,エンゲルバートの共進化,アラン・ケイの「Doing with Images makes symbols」を考えたい.

層的な重なりを明確化してインターフェイスを考えること.小鷹研究室の影と手との関係も垂直的な層の関係のような気がする.「Doing with Images makes another body」ということかもしれない.

https://www.youtube.com/watch?v=P_kQxTu0-OI

memo840
「畳み込む」という行為から「重ね合わせ」という状態がうまれる.パイの皮をこねるように,折り畳んだ結果として,何層もの重ね合わせが生まれる.複数の空間を折り畳んでいくこと.だとすると,ディスプレイを用いた作品はその語源と正反対のことをしているということになるだろうか.いや,小さなものではなく,複数のものをまず畳んでいくことから始めるとしたい.広い空間にあったものを,まずは折り畳んでいく小さくする.折り重なりという状態をつくり,展示することで,その状態を開いていく.作品制作で世界を折りたたみ,展示することで,世界を開く.

いや,世界を折り畳んでいる.空間を折り畳む.それが現在のディスプレイのひとつの役割ではないだろうか.もちろん,語源的な意味での折り畳まれものを開くということは,ディスプレイの基本的な性質である.しかし,その性質をリバースエンジニアリングすると,広げられたものを折りたたむことができる.その折り重なった状態.通常では離れている出来事を折り重なった状態におくこと,それが折り重なったものを開くという語源をもったディスプレイを用いて,多くの作家が行なっていることではないだろうか.ディスプレイのリバースエンジニアリングを行なっている.

memo841
「Doing with images makes another body」という言葉が気になっている.小鷹研究室の影の自己認識からの言葉だけれど,この影が「垂直」方向でヒトの認識を引き付けるということに興味がある.影が隙間をつくりだす.そして,隙間によってヒトの行為が影響をうける.「影」がイメージだとすれば,イメージを使って,身体の位置を確かめようとすると,スカッとかわされる.そのとき,身体はイメージに引き寄せられている.でも,位置を確かめるという行為しない限りは,身体はイメージに引きつけられているということを意識できない.イメージに対して,何かしらの行為をしていくことで,ヒトは身体のなかに未知のものを見つけていくのかもしれない.

memo842
なにもない空間,隙間自体がインターフェイスとなること.隙間があって,複数の個別空間が生まれると考えてみる.ふたつの空間のあいだがあるのではなく,あいだが先にあり,次にあいだを挟んだ複数の空間が生まれる.では,隙間が複数あった場合はどうなるだろうか.複数の隙間を取り囲む複数の空間が生まれるということになるだろうか.

隙間を持つ.インターフェイスを持つ.ディスプレイとインターフェイスとのあいだ.ディスプレイがモノであるから,空間の隙間をつくる.モノがそこにあるということは,モノが空間を複数化する.複数化した空間のなかにモノがあるのではなく,モノが空間を複数化する.ふたつもモノのあいだ.マクルーハンにそのような記述があった.
電気の知識を獲得して以来,われわれはもう原子を物質として語ることはできなくなった.このことは大多数の科学者がはっきりと認識していることである.さらに,電気の放電やエネルギーに関する知識が増すにつれて,電気を水のように電線の中を「流れる」ものだとか,バッテリーの中に「含まれる」ものだとか考える傾向も減ってきている.むしろ,全般的に,電気は画家にとっての空間のようなものだとみなす傾向になる.すなわち,電気は,2ないしそれ以上の物体の特殊な位置関係を包含する可変的条件,とみなすのである.もはや,電気が何かに「含まれる」とする見方はない.画家たちは,かなり以前から,対象物は空間の中に含まれるものではなくて,みずからの空間を生み出すものであることを知っていた.(pp.164-165) 
メディア論,マーシャル・マクルーハン
対象物が「みずからの空間を生み出すものである」というのは,物理空間をそのものをつくるのではなくて,物理空間に複数の空間をつくるということだと考えてみる.対象物が空間に隙間をつくり,空間が個別化する.電気が空間の捉え方を変えたとすれば,コンピュータとともに空間の捉え方が変わったとしてもおかしくはない.ここは考えても仕方のない感じがする.

あとは,隙間を畳み込むということを考えてみる.隙間を折り畳んでスキンのように扱う.こう考えると,ドゥルーズの襞がでてくるから面倒くさい.でも,読んでおく必要はあるかもしれない.

memo843
表と裏とがあるということは,そこに厚みが何かしらであるということになる.3Dモデルのテクスチャにめり込んでしまうとき,そこでは境界の侵犯が起こっている.でも,そこでの境界はどこにあるのだろうか.確かに,モノとモノとがめり込んでいる.しかし,それはスキンだけしかない存在である.スキン,表面,しかも,そこには実体としての厚みはない.けれど,演算された表と裏とがある.表が「透けて」いるという表現が正しいのかと思ったけれど,そんなこともなくて,表と同じデータが演算されて,視点が裏に回ったときに,「裏」が見える.同じデータを見る視点が異なるだけで,それは表と裏とうものではないのかもしれない.

視点が移動できることで,同一のモノの見え方が異なる.物理空間では,モノがあり,モノの見え方が変わる.ここに不思議さを見た哲学者は多くいる.視点がひとつではなく,移動できることを前提とすると,見るということ自体を疑う必要がある.「見る」ことではなく,「見える」ということ? 移動とともに見る.こうなってくるとギブソンの生態学的視覚論になっていく.ギブソンの考え方を,3Dモデルに持ち込むこと.計算空間での視点の移動.同一データの異なる見え方.それは物理空間での制約からは離れたものになる.同一データをいかようにも見ることができる.だとすれば,そこに同一性を与えるのは,見ているヒトの単なる印象にすぎないのかもしれない.しかも,テクスチャは計算が補完していく.谷口さんはテクスチャは視線が補完されていると言っていた.

補完された視線は,もともとないものである.ないものがあるものとなる.これは大きな変化が起こる.物理空間ではあり得たかもしれない視点を計算空間が補完する.計算空間は物理空間の可能性を計算する.そして,可能性を具現化する.計算空間で具現化したものを物理空間に取り出すと歪なものに見えるときがある.物理空間の可能性はあくまでも実現していない可能性でしかないものを補完した結果として,計算空間で補完されたデータが具現化した存在をモノとして物理空間に引っ張り出すと,それは少し歪んでいる.あるいは,ヒトがまだ補完されたモノの見方を知らないから,歪んでいるように見えるのかもしれない.

この展示につながるかもしれない.見たかったな…

カイカイキキギャラリーは、3月3日(金)よりオースティン・リーの日本初となる個展を開催いたします。 
1983年生まれの彼は、彼らの世代にとって日常であるピクセルデータを、デジタル感性のままに、たやすくペインティングに移行してみせるデジタルネイティブの作家として、注目を浴びつつあります。 
アート業界の最新情報がUPされる『artnet』では、2016年11月の「現代アートの未来を形づくっていくポテンシャルを秘めた、世界の注目すべき新進アーティスト10人」に選ばれるなど、関心を集めています。 
しばしばiPadを使ったデジタルスケッチからスタートされる作品は、落書きのような輪郭、フラットなグラフィックライン、2次元と3次元が共存する構図といった、現代的なビジュアル言語を持ち、また、「ペインティングすることより、Photoshopを使ってきた時間の方がずっと長いと思う。 
だから何か問題があったときにPhotoshopでそれを解決するっていうのは、僕にとってごく自然なことなんだ。」と作家自身が語るようなプロセスを経て、バーチャルと実体の間をさまよう現代人のアイデンティティを垣間見せます。 
http://gallery-kaikaikiki.com/category/exhibitions/ex_solo/serious-works/
memo844
ディスプレイの手前の偏光板を剥がして,別の偏光板で見る.そうすると,白い光が手もとの偏光板で像を結ぶ.映像を見せているレイヤーを剥がすということが,どこか永田康祐さんの作品を想起させる.技術的にひとつのモノとなっている映像/ディスプレイを層状に剥がすことで,映像の見え方は全く異なってしまう.多層に分離されたディスプレイは,同じ映像を示しながら,全く異なる体験を与えるようになる.

memo845
THETAで撮影した360度映像をiPod touchで再生して,AppleTVに飛ばして大型ディスプレイで見る.そうすると,iPod touchがコントローラーのようなかたちになる.ふたつともディスプレイではあるけれど,iPod touchは動き,大型液晶ディスプレイは動かない.「動く/動かない」というちがいで,映像が示す,ディスプレイが示す状態が変わるのが興味深いと思った.どちらも同じ映像を見ているのだけれど,空間を切り取る感じがiPod touchにはあり,液晶ディスプレイには切り取った映像を表示している感じがある.

memo846
来週,NYに行ってエキソニモの個展を見るのが楽しみ.ネットに上がっている画像からは,ディスプレイ全面を塗りつぶしているものと,フレームを際立たせるようにディスプレイが光るとともにその裏も光っている作品がある.これらを「Body Paint」の延長と捉えると,エキソニモの作品のディスプレイからヒトがいなくなり,モノもいなくなり,最終的に全面の絵具が残り,全面的な光が残ったということになるだろうか.その結果,全面的にディスプレイを全面的に塗った作品はフレームが消失し,面が残り,光の作品はフレームが強調されるともに光が面を透過,貫いているというように見えるようなって,面が消失とはいかないけれど,どこか表と裏とがつながっているかのような印象をうける.けれど,これらは記録画像を見た印象でしかないから,リアルに見た体験から,この印象がどのように変わっていくのかが,とても楽しみ.

memo847
昔から同じようなことを考えていた.TumblrをScrapboxに手作業で移行しているのだけれど,そこにも「重なり」という言葉が出てきているし,ディスプレイをモノとして扱うようなことも書いてある.興味深かったのが,ディスプレイが薄くなってくると,それは「イメージ」となってしまうのではないかと書いているところは,今の認識と異なるところだろうか.イメージはイメージ,モノはモノという構図のなかで,ディスプレイという存在がモノとイメージとのあいだで,どちらに属すのか,ゆらゆらしているという感じであろうか.

memo848
エキソニモの作品についてのブログがあった.「ブルースクリーン」や「点描」からディスプレイを用いた作品がつくられているらしい.「点描」がディスプレイの原理として光を明滅させている.エキソニモはその平面を塗りつぶす.ディスプレイ自体を点描の点にしてしまう.光がモノとして提示される.光の3原色とは関係がなくなり,モノが現れる.まだ見ていないから,実際に見ると,どのような感覚になるのかが楽しみ.ディスプレイは塗りつぶされているけれど,ディスプレイから電源ケーブルは伸びているので,おそらく,電源はオンになっているはず.だとすれば,塗りつぶされた平面の「下」「裏」で明滅しつづける光とそれが示す画像は何なのだろうか?

memo849
エキソニモの個展「Milk on the edge」を見てきた.映像作品と言えるかどうかはギリギリでも,ディスプレイを用いた作品であることは間違いない.とはいっても,見ていると「ディスプレイ」を用いているのかどうかも,少し危うくなってくる感じがある.ディスプレイがディスプレイであるところの要素が削ぎ落とされている感じがある.もちろんディスプレイは光っている.でも,その光は何かを示すわけではない.ある意味,ディスプレイは光で塗り潰されるとともに,絵具でも塗り潰されている.ディスプレイが塗り潰される.「塗り潰されたディスプレイ」という状態で,ディスプレイが示すことをこれから考えていくのだろうか.

EOFはディスプレイが光で塗りぶされ,壁も光で塗り潰された結果として,フレームがモノとして浮かび上がるのだろう.

「ゴットは、存在する。」との比較も考えたい.今回の個展の新作は,これまでのディスプレイを用いた「Body Paint」「Heavy body paint」と比べると,抽象度が突き抜けた感じがある.「ゴットは、存在する。」も抽象度が高い.このあたりの共通性やちがいを考えてもみたい.

memo850
絵具に塗り潰されたディスプレイは,そこで機能しているのかはわからない.機能しているかはわからないけれど,ディスプレイは確かにそこにあるように見える.けれど,ずっと見ていると,ディスプレイがそこにあるのかも不確かになってくる.ディスプレイは映像を見せることがない,それどころか,その姿自体を見せることがない.見る者はそこで考えてしまう.ヒトを置いていってしまった「ゴットは、存在する。」と対比すると,ディスプレイを塗りつぶした A Sunday Afternoon は,ヒトの想像力を必要とするともいえる.けれど,そこに必要とされているのはヒトなのだろうか.確かにヒトであろう.「ゴットは、存在する。」でも,ヒトを必要としないインターフェイスという奇妙な状況をつくっていたけれど,A Sunday Afternoon ではどのような状況をつくっているのかを考える必要がある.ヒトを必要とするディスプレイというのは当たり前の状況である.でも,塗りつぶされたディスプレイという状況自体が奇妙である.この奇妙な状況のなかでのヒトの振る舞いはどのようなものになるのか.ディスプレイ自体の存在がシュレディンガーの猫の状況に置かれているなかで,ヒトは何をそこに見るのか.確かにディスプレイを見ている.けれど,実はそこにディスプレイはないかもしれない.どんな力(強い力・弱い力?)がヒトとディスプレイとのあいだに働いているのか,それを考えなければならない.しかも,A Sunday Afternoon ではディスプレイは群体として存在している.この意味も考える必要がある.

memo851
EOFはディスプレイのフレームを照らし出すけれど,モノのフレームではなく光のキワは,iPhoneなどのディスプレイのフレームを通して見ると,その様子を変える.フレームないで拡がる光.フレームを通してみることで,EOFはその見え方を変える.Body Paint ではリアルな作品体験が認識のハックを引き起こしたけれど,EOFは別のディスプレイのフレームを見ることで,光の拡散を体験する作品なのではないかとも思い始めている.これはエキソニモが意図とすることとは異なるだろう.EOFはリアルな体験ではフレームが際立ち,ディスプレイのフレームに収まると,フレームではなく光が際立つ.このふたつを同時に体験することはできない.どちらかしか見ることができない.認識をハックして,ふたつのことを同時に見ることができないというわけではなく,フレームを意識させることで,同時に見ることができない状態をつくりだしているのではないか.すべてがフレームに収まるなかで,モノと光とのあいだでフレームが浮かび上がり,それらが群体のフレームをつくりだし,それをまた,ひとつのフレームに収める.そこには別の光に取り囲まれたフレームがあり,別の光が青白いフレームをつくっている.でも,それはフレームを通さないと見えない光のフレームである.

memo852
エキソニモの作品を流れで考えみる.あるいは,単体で考えてみる.どちらにしても,Milk on the edgeの作品は「動きがない」ということで,これまでのエキソニモ作品とは異なる気がする.「フレーム」を意識したゆえの「動きのなさ」なのだろうか.フレームに閉じ込められる「動き」.もしくは,フレームに閉じ込められたがゆえに「動き」は見えなくなるが,見えないがゆえに「動き」が解放されたともいえるのかもしれない.けれど,それは想像のなかでしかない.何を描かない塗り潰された平面,ピクセルという単位,塗り潰されたディスプレイ,どれもが何かを示しているわけではない.「動くことなく」そこにある.フレームに閉じ込められたといったけれど,塗り潰された平面んはフレームを呑み込んでいる.だとすれば,ここにはフレームはない.明確なフレームはない.しかも,A sunday afternoonは群体としてのディスプレイも「四角枠」を示すことがない.それは仮想のフレームを想像上につくるだけである.平面を振り潰すという行為のときにフレームは意識されるのだろうか.どこまで塗るか,フレームまで塗る.そのときフレームは平面の延長上にあるのだろう.フレームと平面,それは平面上の3次元であるフレームと平面という2次元とが,それらを塗り潰す絵具のなかで折り重ねられることなのかもしれない.絵具のなかに折り重なっていくフレームと平面.

memo853
Surfin’ を見てきた.永田さんの《Sierra》は「乱層のデスクトップ」という感じ,と書いてみて,すぐに「乱層」ではないなと思った.平面の重なりで,デスクトップという普段は静止画のところに動画が流れることで,ひとつ土台が崩れるというか,デスクトップが平面ではなく映像となることで,前提が崩れるというか,メニューバーやドックの奥にデスクトップがあることが,もうひとつだけ奥に行っているような感じがした.何が言いたいかというと,「デスクトップ」という平面が無効化されて,その奥に映像が流れていると感じたということなんだろう.「デスクトップ」がなくなってしまっている.けれど,その他のカーソルやウィンドウは通常通りである.だからこそ,少し感覚が狂う感じがある.失われた地面の上で通常通りの行為を行うという感じだろうか.永田さんの作品によく感じる平面がパラレルに重なっていく感じを,ディスプレイのデスクトップを基準に,その前面と背面でミニマルに行なっている感じがした.となると,それはディスプレイのデスクトップという平面での前面と背面との重なりが強調されると同時に,ディスプレイというモノとそれが置かれた空間における3次元的な重なり,ディスプレイとその裏側に置かれたMac pro,ディスプレイ下からケーブルが伸びるヘッドフォン,もうひとつの平面であるトラックパッド,そして,それらを操作するヒト,ヒトがいる展示空間といったものが平面的に重なり合っている感じがでてくる.そこでは,ディスプレイのデスクトップ基点の重なりも確かにあると感じると同時に,3次元空間に重なりがあることが不思議に思えてくる.

永田さんの《Sierra》を見た後に,山形さんの《Desktop》を見ると,3次元空間のなかに痕跡としての平面が机の上(デスクトップ)に残されていて,ここでも2次元と3次元との重なりが起きている感じがある.けど,この重なりは時間差で起こっている感じがある.机の上に形成された「痕跡」が,おそらく,かつて,そこに垂直に近い角度で「デスクトップ」が表示されていたことを示している.作品にはディスプレイはないけれど,ノートパソコンが置かれていただろう痕跡から,ディスプレイがあったことが推察され,そこにデスクトップが映っていたことを考える.このとき,机の上とデスクトップとは短絡的に結びつくけれど,それらを結びつけるのは,机の上に残された四角い枠でしかない.山形さんの作品は「フレーム」を意識させる.永田さんの作品は「フレーム」というか,その「重なり」を意識させる.山形さんには「重なり」はそれほど感じない.それが興味深い.ディスプレイの向こうとこちらはともに同じフレームで収められているけれど,それらはフレームで絶対的に分けられている.フレームは2次元,3次元とを重ねるわけではなく,それらを出会わせるというか,衝突させるような感じがある.ディスプレイやコンピュータがモノである自体がフレームであって,フレームが不可侵な枠として,ふたつの世界,2次元と3次元,過去と現在といった複数の世界を衝突させている.

memo854
素粒子物理学で明らかになっていることは,世界の構造ではあるけれど,私たちには認識できない.でも,認識できないからといって,それはないものにはならない.私たちの身体のなかで起こっていることであり,身体,私を成立させている.けれど,それはヒトのレベルでは認識できない.いや,ヒト単体では認識できない.ヒトが思考し,計算し,装置をつくり,それは認識,観測される.観測された結果として,認識が変わることはないけれど,観測されて,それを知ることで,変わるものはきっとある.観測のレベルが異なるものであっても,レベルを跨ぐことはできると考えてみたい.

memo855
エキソニモのMilk on the edge に戻る.塗りつぶされた瞬間にディスプレイがディスプレイであるかどうかわからない状態に置かれる.それは光を発しているのか,発していないのわからない状態に置かれるし,光が発していてもいなくても同じ状態に置かれている.機能が削がれている.

EOFは光を発している.光がフレームを際立たせる.フレームの問題.しかし,ヒトはフレームではなく青い光を見る.光を見つつ,同時に,フレームを見ている.フレームも光も動くことなく,そこにある.動いてはいない.「ゴットは、存在しない。」では,インターフェイスがヒトを必要としなくなった.では,EOFではどうか.EOFではヒトが求められているというか,ヒトがいなくてもいいとは想定されていない感じがある.ヒトがディスプレイを見るということが状況として設定されている.ヒト不在の世界は想定されていない.「フレームの終わり」とは何を意味するのだろうか.ヒトはフレーム内を見る.フレームの外にある光も見る.フレーム自体はあり続ける.でも,それは終わりでもある.フレームを見ること.フレーム自体を見ること.そこには何があるのだろうか.ディスプレイにフレームがあることの意味から考える必要があるのかもしれない.外と内ととを区切るフレーム.サムソンのギャラクシーの広告との対比で考えてみればいいのかもしれない.外と内との区別の無効化がディスプレイをリアルと地続きにする.フレームは単に内と外とを区切る「縁」でしかないのか.それとも内と外とをつなげるだったのではないのか.フレームがあるから「内」と「外」とが生まれると考えた方がいいのではないのか.「フレーム」というインターフェイスがある.フレームがあるから,内と外とが生まれ,ディスプレイの面が生まれて,表と裏とが生まれる.次元が増えていく.フレームだけのときは内と外との区別しかなく,表と裏がない.表と裏とがあるから,LEDの光が壁を照らす.それはディスプレイが面をもつから.EOFはディスプレイが示す内と外との区分けと表と裏との区分けを示す.いや,ここには表と裏とはない.光の平面をつくり,そこでフレームが本来もっていた内と外とを区切るのである.

memo856
視覚のルールでは,光があるときだけ物が見える.この不動の視覚典範が,テレビでは完全に破られている.われわれは経験に照らして,そのルール破りを直ちに見破る.一方視認的には,テレビ画面は,光色をもつことによって,家具より前に突出する.だがその瞬間,画面周囲を囲んでいる四角形,つまり〈窓を演出するフレーム〉を認めた脳は,光色画面の突出する事実のほうを否定して,正常位置に後退するよう訂正することを知覚に求める.その結果われわれが認めるのは,光色画面が,前に出て見えながら,前には出ていないという,知覚的横車の状態である.その矛盾作業は眼のレベル(光学反応)と脳のレベル(認知)の軋轢であって,過大なストレスの一因となるのは当然のことである.p.286 
地の眼・宙の眼 視覚の人類史,小町谷朝生
エキソニモの《EOF》シリーズを考える前提として,小町谷が指摘するテレビの状態がある.ここでのテレビはブラウン管である.しかし,液晶ディスプレイになっても,表面が光っていて,その周囲にフレームがあることは代わりがない.むしろ,ディスプレイそのものが「窓」「額縁」そのものになっているといえる.

EOFで考えなければならないのは,光る画面の裏側も光っていて,ディスプレイ裏側の壁面が光に照らされているということである.青い光のなかにフレームが浮いている.重力を感じさせない光のなかにフレームが包まれる.フレームそのものが「反重力」のなかに包まれている.とくに撮影されたEOFは,青い光が肉眼で見ているときよりも拡散して見えるため,反重力的な感覚が強くなる.反重力的な光をどうにはフレームに収めようとしているが,光はフレームを逃れていく.ディスプレイのフレームから逃れた光は,撮影されて別のフレームに入ると,さらに元のフレームから逃れるように振る舞うように見える.

memo857
A Sunday Afternoon を考えるときには,光が三原色になって,スーラが点描が描いたものが,ディスプレイのピクセルになって,そこから採取された色がディスプレイに塗れられているというプロセスを考える必要がある.光が絵具に変換されて,絵具が光に変換されて,その光が絵具に変換される.そして,光を放つディスプレイを絵具が覆う.絵具が光を閉じ込める,封印するといった感じであろうか.光→モノ→光→モノという流れ.でも,モノ→光→モノ→光→モノかもしれない.スーラはモノに反射光を見るということを分解して,光を描こうとした.光そのものを描こうとはしてない.エキソニモは「塗りつぶし」と手法を徹底化した結果として,絵具でディスプレイの光を閉じ込めた.「塗りつぶし」は実際に塗るというよりも,Photoshopのバケツツールを起源にしているだろう.だとすると,もともと光で塗りつぶすものがモノで塗りつぶすことになる.ディスプレイを絵具で塗りつぶして,光とモノとの境界を失くした結果として,ディスプレイという存在そのものが,そこにあるのか,ないのかという on the edge に置かれるようになった.それは,スーラからの流れでもあるし,Photoshopからの「塗りつぶし」という流れでもある.これらが合流したところに,塗りつぶされたディスプレイがあると考えると面白い.

memo858
エキソニモのMilk on the edgeについてかなりmemoを書いてきた.けれど,まだまだ考えは詰められない.週末には作品の記述をしたい.初稿を書き上げたい.でも,そのときに問題なのはEOFだろう.なにしろ,この作品はリアルに見た印象と画像とが異なる.Body Paintシリーズも印象が異なったけれど,EOFもまた印象が異なる.そして,この作品が興味深いのは,画像のEOFがリアルのEOFの印象を上書きしてしまうところにあるのではないかと考えている.これは以前のmemoにも書いたこと.実際に作品の記述するときには大きな障害である.

透過光と反射光との対比で捉えようとしても捉えることができない.モノと映像との境界を考えようとしても,それはディスプレイの表面には現われない.もともとのフレームのところに境界がある.でも,それは光−モノ−光という感じで,モノが光に挟まれている状態にある.より正確には透過光−モノ−反射光ということだろうか.重力的には重力−小の光ーモノ−重力的な光ということになるだろうか.でも,反射光の光は,ディスプレイ裏側から重力を振りほどくような反重力的な推進装置のようにも見える.ディスプレイから光が漏れだしているのでなく,表と裏とがつながるのではもなく,裏側から光が推進剤として放射され,壁に反射しているというイメージがある.単なるイメージであるけれども,この感覚は谷口さんの作品と比較する時に重要だろう.ディスプレイの裏側に個別の空間があるというのではなく,確かに個別の空間はあるのだけれど,その空間を光で消してしまうような感じ.光によってモノを上書きしてしてしまう感じがある.そうなると永田さんの水平ディスプレイが行ったディスプレイの原理が物理世界を上書きするという状態とも比較できる.ディスプレイの裏側とその壁を光がその性質を上書きしていく.上書きされた面のなかに複数の黒いフレームのディスプレイが浮いている.ディスプレイの光は最前面に飛び出ようとするが,フレームがおさえる.しかし,その裏側の空間に充満する光がフレームを浮かせて,前面に押し出す.ディスプレイの光とフレームとがほぼ同じ面を構成するようになって,裏側の空間によって浮力を与えられている.どこか無重力な平面にフレームが置かれている.そして,この無重力な感じを強く意識させるのは,もうひとつのフレームのなかに作品が収まったときに起こる.つまり,画像として示されているときである.画像のフレームに収められ,すべてが透過光で示されるとき,白い壁を上書きする光がもうひとつのフレームであるそれを表示するディスプレイの光に重ねられて,無重力感をつよくするのである.

memo859
エキソニモのA Sunday Afternoonについて,千房さんがツイートをしていて,全面を塗りつぶされたディスプレイは「ループしている映像」と感じたということが書かれていた.そして,「ループしている映像」と感じのは,全面が塗られていることで「質感しかない」ことが関係しているのではないか,と千房さんは書いていた.

私はディスプレイが絵具で塗りつぶされたことで,映像が閉じ込められた感じもあるし,なによりもディスプレイ自体が閉じ込められた感があった.そして,そこから絵具に塗りつぶされたディスプレイの存在が消えていったと感じた.絵具のなかにもともとディスプレイがあったのだけれど,それが消えて,ディスプレイを型取りしたような絵具だけが残っている.そのときの絵具はディスプレイそのものの質感ではないけれど,かつてそこにあっただろう存在の質感を残しているのではないだろうか.でも,これは千房さんの言葉に引っ張られすぎで,ディスプレイの「かたち」が残ったということになるのだろうか.

しかし,質感はモノそのものではない.「質感しかない」ということは通常,おこらない.モノがあるから質感がある.でも,モノがない.ディスプレイというモノは消えてしまった.しかし,そこにはディスプレイの質感,かたちがのこる.かたちが残っているから,質感も残っている.でも,ディスプレイそのものはない.いや,ディスプレイはないかもしれないという状態に置かれているだけで,存在しないわけではない.「ディスプレイはないかもしれないという状態に置かれている」ということをディスプレイを塗りつぶした絵具が示している.ディスプレイというモノはないかもしれないが,ディスプレイの質感のみが絵具が保持しているということになるのだろうか.絵具という別のものが代理で質感を示すからこそ,ディスプレイはないかもしれないという状態に置かれるようになる.

「モノとディスプレイとの重なり」というタイトルでの連載において,実際にモノとディスプレイとが密着して重なった結果,モノがディスプレイの質感を示し,ディスプレイそのものがないかもしれないという状態に置かれることになった.この状態が何を示すのかを考える必要があるだろう.ディスプレイはないかもしれない.光もそこにない.しかし,千房さんはそこに質感を感じて,「ループ映像」を見いだす.「ディスプレイ」が絵具のあいだ=インターフェイスをつくる同時に,ディスプレイは消失する.そして,ディスプレイが消失してできたインターフェイスが絵具とループ映像とを結びつけるあいだとして機能して,ひとつの質感が生まれる?

memo860 
新作の201704EOFもA Sunday afternoonは複数のディスプレイで構成されているが,201703EOFは,ひとつのディスプレイで構成されている.ディスプレイが「単体」であることは,Body Paint と Heavy Body Paint につながっているのかもしれない.単体でモノと映像=光との輪郭=境界線を問うこと.201703EOFはフレームで世界との境界線を示す.しかし,ディスプレイの裏側につけられたLEDライトが光ることで,ディスプレイ裏側の壁が照らされる.このことで,ディスプレイ画面の光と壁の光とがつながっているというか,光という同一の条件におかれて,あらたな平面をつくる.このことによって,フレームがディスプレイの内と外とを区切るという機能を失っているように見える.同時に,エキソニモが書くように光に照らされることでフレームが強調されているようにも見える.光によって強調されたフレームは,どこに属しているのであろうか.フレームはディスプレイの一部である.しかし,そのフレームは光のなかにあり,モノと光とを分ける機能を果たさなくなっているように感じられる.フレームは別のものになってしまったのかもしれない.

また,新作のなかで201703EOFだけがディスプレイに動きのある映像を流している.ディスプレイ中央部には何も映っていないけれど,ディスプレイの縁に沿ってフレームを映し出すような赤,青,緑といった色がトランジションを繰り返している.それと呼応するように,ディスプレイ裏側の光も様々な色がトランジションを繰り返している.この作品を見ていると,どこを見ているのかわからなくなってくる.画面中央には何も映っていない黒い状態で,フレームを挟むように様々な色が光っている.光のトランジションを見ているうちに,何を見ているのかわからなくなり,ちょっとした瞬間に,意識がフレームに集中する.それは,フレームだけが確固としたモノとして目の前にあるからだろうか.Body PaintとHeavy Body Paintでは,モノと光との境界線が強調され,認識のバグを引き起こした.201703EOFではディスプレイの画面内部ではなく,普段のディスプレイが私たちがいつも体験しているようにフレームが光との境界線となっている.私たちはいつもフレームによる境界を意識しない.けれど,フレームはディスプレイ内部の光と物理世界のモノとを分ける,もしくは,光とモノとを互いにトランジションさせる枠として機能しているはずなのである.そのディスプレイのフレームが光によって照らし出されて,強調されることで,フレームのモノ性が光側に引き寄せられることで,フレームがフレームであることが強調されつつも,その性質が光に近いものになっている.その結果,見る者はディスプレイのどこに境界線を設定していいのかわからない状態に置かれることになる.それゆえに,見る者は201703EOFのどこに焦点をあわしていいのかわからなくなるのである.

エキソニモは201703EOFでフレームを強調しつつ,モノから光の領域に移してしまった.201704EOFは複数のディスプレイを用いて,フレームを光の中に入れ込み,光による曖昧な境界線をつくるようになる.そして,曖昧な境界のなかで,映像は動きを示さなくなる.フレームがあるにはあるが,それが作品全体の境界ではなくなり,しかも,その境界内の映像は静止画というよりも,単なる青い光となる.この青い光が示す動きのなさは201703EOFとは全く異なる状態に,ディスプレイが置かれたと考えるべきではないだろうか.ヒトの気配がディスプレイからなくなってしまった.焦点をどこにあわせるのはなく,複数のディスプレイはより大きなフレームを示すために表と裏から青い光を放ち続ける.それ自体のフレームを完全に無効化することはできないが,モノを光のなかに埋没=擬態させながら,より大きな光の曖昧な領域をつくりあげる.それを見ているヒトは,そこに何を見るのか.明確に見える映像,モノは何もなくなる.ヒトは青い光のなかをただ浴びることになる.

memo861
ディスプレイを塗りつぶす.そこから起こる疑念を書き記す.キャンバスを塗りつぶすのとは異なる.スクリーンを塗りつぶすのとは異なる.光源であるディスプレイを塗りつぶすことの意味を考える.ディスプレイは光源であることが,塗りつぶされたあとでも機能する.光が実際に明滅するかではなく,光源であること自体が機能することである.それゆえに,塗りつぶされた内側で,塗りつぶされてなお映像を示す可能性をもつこと.映像はディスプレイから解放された.映像はそこに映っているかもしれない.

塗りつぶされたディスプレイがループ映像というのも興味深い.ループ映像ということは,その時間の幅がどうであれ,時間のはじまりとおわりとが理解していることであり,ループということは,もしかしたら,その映像が何回目のループかもしれ知りつつ,いま,そこにあるということだからである.つまり,今,目の前の映像=塗りつぶされたディスプレイを見ていると同時に,繰り返された/ていく映像も把握していることになるからである.

memo862
ディスプレイを塗りつぶす.そこから起こる疑念を書き記す.ディスプレイを塗りつぶすことは,キャンバスやスクリーンを塗りつぶすのとは異なる.キャンバスもスクリーンもそれ自体が光るわけではなく,外部からの光を必要とする.スクリーンは塗りつぶされたとしても,外部からの光で映像を示すことができる.対して,ディスプレイは外部からの光を必要とせず,それ自体が光源である.だから,ディスプレイは塗りつぶされたあとに,その表面に映像を示すことはできない.けれど,ディスプレイは表面を塗りつぶした絵具の背後で,それ自体が発光する可能性をもちつづける.絵具が光を完全に遮るとしても,ディスプレイが光を放つ可能性を0にはできない.光が実際に明滅しているか,つまり映像を示すことではなく,光源であることがディスプレイの機能であり,存在証明なのである.それゆえに,塗りつぶされた内側で,塗りつぶされてなおディスプレイは光を放つ可能性をもつことになる.《A Sunday afternoon》では表面が塗りつぶされることで,逆説的にディスプレイ自体が光源であることが明確に示されるのである.

memo863
エキソニモの新作についてのテキストを一度書き終えて,一息ついているところ.次は「場」としてのインターフェイスなんだけれども,どう書いていくか.エンゲルバートのヒトとコンピュータとの共進化は前提として,アラン・ケイの「Doing with images makes symbols」を「場」として捉えたい.重力のなかでのヒトの姿勢? 「Doing」の部分を重視すること.インターフェイスで必要なのは「Doing」だって,それがこれまでの映像とインターフェイスとを異なるものにしている.まずは,エンゲルバートの図から考えよう.

memo864
Doing with images makes symbols で重要なのは「Doing = 操作」の部分だと考えたい.イメージとシンボルとは「映画」でも並び立っていた.しかし,操作は考えられていない.けれど,コンピュータは見るものであり,操作するものである.「操作する場」としてコンピュータを考えてみる.モノと光とがつくる操作する場としてのコンピュータ.だから,このように考えると「デスクトップ」がメタファーとして選ばれたのも,「場」という側面が強いのではないだろうか.空間ではなく,場.平面的というわけではないけれど,操作可能な場であって,操作可能な空間ではない.

memo865
アラン・ケイの「重なるウィンドウ」がポイントになるような気がする.「重なるウィンドウ」が成立する場をつくること.つまり,平面が重なること.背面が見えなくこと.最前面がアクティブであること.場でコントロールできることを増やして,見える部分を増やすこと.見える部分ではなく,コントロールできる情報量を増やすことが重要なのではないか.落合さんのコンピューテショナル・フィールドは物理世界をコントロールする場にする.ここでは既にモノは世界に直に重ねられている? こことのつなぎが難しいかもしれない.でも,まずは,アラン・ケイの「重なるウィンドウ」がもつ意味をもっと考える必要があるということだろう.見えない部分が見えるようになる.それらが操作できるようになること.情報量が同じでも,見えるようになるのか,小さくて見えないのかでは,全く受け取り方が異なるようになる.

memo866
小林健太・自動車昆虫論のトークを聞いてきた.小林が低解像度の美学と言っていて,そこに「退屈」という言葉を出していた.小林の「退屈」を,セミトラやエキソニモの千房が書いていた「退屈」との対比.千房はセミトラの本に寄せたテキストで次のように書いていた.

ものを作るという行為は本来「退屈」を減らす行為なのではないか.目の前の美しさに目を奪われれば,退屈は失われていく.しかし,美しさを目前にしながらも退屈を感じてしまう,そんな二重化された感性をもつことによって,構造的に表(スクリーン)と裏(ソースコード/データ)から成り立っているデジタルな世界から現れて来た彼らが,本当に美だと感じているものに近づくことができるのではないだろうか.(p.7) 
半透明な記憶から,千房けん輔 『セミトランスペアレント・デザイン』
ディスプレイ(表)とプログラム・コード(裏)とを重ね合わせると「美」と「退屈」とが重なりだす.セミトラの展示はコードの再帰構造をディスプレイ,そして,物理世界に取り出してくるところに退屈さと美をみつけていた.それはテクノロジーのあたらしさがもつ面白さや美ではなく,コンピュータの特質を物理世界に引っ張り出してきた美であり,退屈さなのだろう.それはどこかヒト以外の論理が働き,理解できないような状況をつくりだしているのであろう.

小林の「退屈」はコンピュータを基準面とした表と裏との重なり合わせででてくるのではなく,「GUI」というディスプレイレベルでの「退屈」となる.トーク相手の山峰潤也(水戸芸術 館現代美術センター 学芸員)が小林のことを「GUIネイティブ」といったように,小林はディスプレイのグリッドシステムに退屈を感じている

では,ソースコードと重なり合うことないディスプレイのグリッドシステムのみの退屈とはなんだろうか.小林は「画像感」と言っていた.ビットマップによる区切られた感覚であり,物質を分割するグリッドシステムに退屈を見出す.けれど,ここで興味深かったのが,小林は文字も分割システムと言っていて,さらに,文字が「あいうえお表」のようにグリッドに配置されていると指摘していたことである.確かに,文字も世界を分割していく.その文字をさらにグリッドシステムに当てはめ,分割する.文字の線形の分割をグリッドシステムに重ね合わせると,理解が促進される.理解が最適化される.このように書くと,小林の退屈は「ヒトの理解が最適化される」ことになるのだろう.小林はグリッドシステムよって最適化されたヒトの理解を壊していく.

小林にとって「構造的に表(スクリーン)と裏(ソースコード/データ)から成り立っているデジタルな世界」から生まれる退屈は美と重なり合ったものではなく,それは単に退屈なものであり,そこを破壊すべきものである.そこには美と重なり合った退屈としてのコンピュータの論理に立つソースコードが操作可能なものとして残されていない.それゆえに,美はディスプレイのグリッドシステムに捕らわれているものになる.低解像度の美学は,まずはその事実を見出すために,グリッド=ピクセルを見つめ,そこに美を見出すか,そのグリッド自体を破壊して,美を解放するしかない.グリッドシステムを徹底的に見つめつづけ,それを破壊することで,あらたな思考が生まれる.そこに来るべき次の美も生じる.

ここで小林と対比させたいのは,ヒトの論理とは別のものとしてコンピュータの論理を物理世界に現出させてきたエキソニモが,新作《A Sunday afternoon》で,ディスプレイそのものを塗りつぶしてしまっていることである.ディスプレイを絵具でフィジカルに塗りつぶしという行為を行って,グリッドシステムを潰している.しかし,ディスプレイを塗りつぶした色はディスプレイのピクセルから採られたものである.ピクセルというグリッドシステムから採られた色が,ヒトの行為を介して,グリッドシステムそのもの潰してしまうのである.さらには,エキソニモはもともとソースコードやデータといった「裏」の部分を操作していたユニットだった.このことから,エキソニモの行為が直接,小林の考えにつながるとは考えられない.しかし,小林とエキソニモはとともに,グリッドシステムやコンピュータという別の論理を経由して,フィジカルな行為に至っていることは考えてみる必要があるだろう.

アラン・ケイは「Doing with Images makes Symbols」というスローガンでもって,GUIの基本を設計していった.エキソニモがシンボルを用いてイメージを操作して,小林がシンボルでつくられたイメージを操作していたとするならば,ここで「Doing=操作」,フィジカルな部分を見つめなければならない.単純にヒトの身体に回帰にするのではなく,グリッドシステムやコンピュータの別の論理で操作可能になっているヒトの身体を介して,グリッドシステムやコンピュータをハックすることが可能かどうかを試さないといけないのである.それは恐らく,ヒトの思考をハックして,今とは異なる回路をつくることを意味する.ヒトとコンピュータとはひとつの回路となって,別の何かに変わる必要があるのかもしれない.

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イメージ操作によるシンボルの生成を重ね合わせることが,メタメディアとしてのGUIという場で生じている出来事なのである.
このことを端的に示したテキストが書くことができればいいのかなと思う.イメージ操作とシンボルの生成とが重なり合うのがGUIという場であることかもしれない.シンボルが出来上がるためには,操作=doingが必要.そして,そのdoingはコードであること.シンボルもコードであるならば,操作もまたコードであって,このふたつがイメージを起点にして重なり合うということだろうか.GUIはイメージの問題ではなく,コードをもつシンボルをコードによって画像化し,画像が行為をコード化していくという,シンボルと行為の問題なのかもしれない.

シンボルがもつコード,シンボルを介した画像がもつコード,画像とシンボルとを重ね合わされたコードにコード化される行為と考えていくとキリがない感じがある.どこかで出来事としてパッケージ化する必要がある.シンボルと画像とは重ね合わされていて,それが行為に絡められて,行為のコード化される.行為をシンボルと画像との重ね合わせに絡めていく出来事を準備することが大切なのかもしれない.よく見ること,より多くのものを見るものとしての重ねるウィンドウというアイデアが示す「重なる」という出来事を考える必要があるということかもしれない.

memo868
エンゲルバートはビューコントロールでビューの切り替えを行い垂直的に見え方を変えていた.ケイはDoing with images makes symbolsで「複数のメンタリティのあいだを絶えず往復する」GUIをつくりあげた.ここで複数のメンタリティのあいだは垂直的に移動していると考えるべきだろう.ヒトの精神構造をStack的に捉える.そして,垂直的往復運動はディスプレイを介して,瞬時に行われる.そして,平面自体も垂直的に重なりだす.垂直的なビューの切り替え,精神モードの入れ替えとともに,ディスプレイ上の情報を見えたり,見えなかったりする.複数のメンタリティを行き来するには,見えない部分が必要なのである.平面を重ね合わせて,手前に持ってきてを繰り返しながら,コンピュータが示す情報のビューを切り替えながら,ヒトは思考を行う.そこでは見えない部分もあるけれど,それは隠されているのではなく,いつでも前面にもってこれるものである.情報が見えないようにコントロールすることで,コンピュータの演算のヒトの思考とのバランスを保つのである.情報は見えすぎても,見えすぎなくてもいけない.適度な量をディスプレイ上に置いておくことが重要なのである.ヒトとコンピュータとは垂直的に重なる平面のどこにでも常に見ているのである.常に見えるという可能性のなかで思考をすることが,コンピュータを使って思考することの意味であり,それゆえに,ヒトはコンピュータのまえで常に行為を行うのである.

memo869
授業で,永田康祐さんの《Translation #1》を紹介して,考えた.ディスプレイの上に置かれた白い石についてのみを考えたので,作品を考えたことにはならないかもしれないけれど,石の影に注目できたのはよかった.ディスプレイからの光が石の影を消去している.すべてを消去しているわけではない.けれど,影がないように見えることで,白い石はディスプレイの上にありながら,所在なさげになる.同時に,マテリアルデザインではピクセルをマテリアルと定義するために「影」をつかう.影がピクセルの平面をマテリアルにする.Googleは影とマテリアルを定義したけれど,定義しなくても,経験的にウィンドウの重なりには影をつけて,重なりを表現してきた.影は「実体」を示唆する.だから,白い石は影をなくし所在なさげになってしまう.影を消失させるディスプレイの光が,ウィンドウに影を与えている.この両義性がディスプレイの面白いところだと思う.

memo870
ヒトは3次元の物理空間を絵画や写真といった2次元の平面に変換してきた.次元の折り重ねが最も成功したのは,ボタン一つで撮影できる写真であろう.写真は3次元を2次元に落とし込み,2次元のなかに3次元を見せる.写真の平面には2次元と3次元とが折り重なっている.そして,20世紀はまさに写真と映画とが見せる次元の折り重ねを見続け,考え続ける時代であった.

20世紀後半にテレビ,そして,コンピュータが登場し,写真・映画の次元の折り重ねに変化が起きた.テレビは3次元を1次元の電気の流れに,コンピュータは3次元を1次元の情報の流れにした.3次元から1次元へと変換され,写真・映画がもつ世界をそのまま写し取るインデックス性が曖昧になった.しかし,コンピュータは写真や映画に擬態して,世界をそのまま写し取っているように見せている.あるいは,写真・映画のインデックスを保持しようとコンピュータがプログラムされていると言ったほうがいいのかもしれない.コンピュータはインデックス性を絶対的なものとしないため,どんなものにも擬態できるのである.

コンピュータ科学者のアラン・ケイは,「Doing with Images makes Symbols(イメージを操作してシンボルをつくる)」というスローガンを掲げて,コンピュータの画面のほとんどを占めているグラフィカル・ユーザ・インターフェイス(GUI)を完成させた.コンピュータにはプログラムというシンボルとディスプレイ上のイメージがあり,これらを操作できる.イメージを操作すればプログラムが動き,プログラムを操作すればイメージが変化する.コンピュータは3次元の物理世界をプログラムという一次元の流れで制御し,それをディスプレイが提供する2次元の光平面に表示する.ディスプレイのイメージは一次元のプログラムと3次元に位置するヒトから操作されている.

20世紀を支配した映画・写真がインデックス性を絶対視するものだったのに対して,21世紀のイメージを担うコンピュータはインデックス性をもたない.その代わりに,1次元のプログラムと2次元のディスプレイと3次元のヒトとが折り重なる場となっている.だとすれば,2次元のディスプレイに表示されているイメージを3次元の物理空間に再度,折り重ねることが可能でありるはずである.今はまだ2次元の平面に縛られている状態ではあるけれど,いずれは3次元そのものを操作可能にしていき,次元を自由に折り重ねた表現を生み出すだろう.コンピュータとともに生まれる次元の折り重なりとその表現を考えたい.

memo871
「ディスプレイとは何なのか?」と問いたい.私たちの身の周りにはディスプレイが溢れていて,あるものはテレビとしてリビングにあり,あるものはデジタルサイネージとして街中の壁などにかけられていて,あるものはスマートフォンとして私たちの手もとにある.それらに共通するのは光を放つということである.ディスプレイは光を放ち,その表面を変化させつづける.私たちは映像には興味を抱くが,そのフレームたるディスプレイにはほとんど興味をしめさない.しかし,そこで光の映像とモノとしてのディスプレイとが重なり合っている.光とモノとが重なり合って,私たちの体験をつくりあげている.とくにスマートフォンは手でもてるモノであり,そこに映像が四六時中光って,私たちの生活の大半を構成するようになっている.

ディスプレイを握る手は物理空間にあるけれど,それが操作しているのは情報空間である.ディスプレイを軸にして,ふたつの空間もまた重なり合っている.私たちは物理空間にもいるし,情報空間にもいる.ふたつの空間はディスプレイを介して,それを操作する人にも折り重なってくる.ディスプレイはモノと光,2次元と3次元,物理空間と情報空間とが折り重なる平面として存在していて,私たちはその平面を絶えず指で動かしながら,見ている.ディスプレイとともにヒトは何を考えているのだろうか?

memo872
「重なり合う」とはどうことだろうか.ふたつの平面が重なり合うというとき,平面Aの裏と平面Bの表とが接する.平面Aの表が平面Bの表の一部を見えなくする.平面A,Bの裏はもともと見えない.けれど,重なり合うとき,平面Aの見ない部分と平面Bで見えていた部分とが接して,平面Bに見えない部分が生まれる.そのとき平面Aの裏と平面Bの表との関係をどのように考えればいいのか.平面Aの裏が平面Bの表を隠している.しかし,平面Aの裏が平面Bの表とは接しているから,単に隠しているというわけでもないような感じもする.平面Aの表は最前面,平面Aの裏は前面,平面Bの表は背面,平面Bの裏は最背面と考えてみる.けれど,このように考えると,平面ABの表と裏とが別の平面となっていることになる.平面ABがすでに表と裏とが重なり合った状態だったのか.見えない部分が存在しないとすれば,平面ABの裏は存在しない.平面ABとが重なり合って,見えない部分は存在しない.けれど,見えない部分も存在すると考えると,状況は変わってくる.この関係を考えることが,インターフェイスでの,重なり合い,Doing with images makes symbolsを考えるときに必要な感じがする.

memo873
ウィンドウの重なりについて再び考える.平面が重なり合うことで,ひとつの平面での情報量が増える.見えない部分ができる.情報を提示する平面に動きが生まれる? 上下関係を入れ替える.見えると見えない.インターフェイスに「重なり」を導入したことで,情報の,平面の見え方が変わる.無時間的な平面から,動的というか,どこかに動くということが導入される.「重なり」は世界を複雑にしていく.

memo874
重なるウィンドウができたとき,ディスプレイの2次元の画面は奥行きが出来たのではなく,手前ができたと考えたほうがいいかもしれない.手前ができるということは,奥行きができることなのだけれど,先に手前ができて,次に奥行きができる.それは同時ではない.奥行きは後からできる.この時間差がGUI,インターフェイスが物理世界とは異なる原理のもとにあることを示している.けれど,手前が先にくるということが,手間を透して奥を見るというヒトの認識に基いているとすれば,それは物理世界の延長にあるとも言える.東さんが書いていた認識の秩序と表象の秩序ということかもしれない.また,手間に来ているからこそ,手がのびて,動かすことができるとも考えられる.重なり,最前面のウィンドウがアクティブであることは,手によるウィンドウの操作とともに視点を入れ替え続けるということなのかもしれない.ヒトの視点は俯瞰で固定されていて,横からウィンドウを見るということはないけれど,ウィンドウを手前に持ってくるということで,視点を入れ替えている.単一の視点だけれども,ウィンドウを含めた平面の見え方を変えて,擬似的に視点を変えている.ここで俯瞰の視点を固定的と捉えることをから抜け出して考えないといけない.手で入れ替え続けられるウィンドウこそが視点の在り処だと考えてみないといけない.「視点」という言葉からも離れる必要がある.手で動かす.それでいい.平面の重なりの入れ替え,「視面」が切り替わる.でも,やはりヒトの視点は変わらない.ウィンドウが重なりが変わる.ここにインターフェイス,GUIがもたらした大きな変化があると考えられるのだが,まだ,イマイチ,わからない.

memo875
マウスが物理世界のあらゆる平面に情報の2次元的平面を重ねていく.そのときに,情報はn次元のものがディスプレイの2次元になっており,ディスプレイの2次元とマウスが接地する物理平面とがn次元を介して,重なることになる.マウスの物理平面の表がそのままディスプレイの表として重なりあうが,それは一対一対応に対応してものではなく,マウスの動きによって,物理世界の多くの点が情報のある一点に対応する.マウスによって情報平面と接続された物理平面は,マウスとともにワープできる.先ほどまで机の平面でマウスを動かしていたけれど,マウスを別の壁で動かしても,情報平面においては関係なく,その前の点から何事もなくバグ/カーソルが動く.マウスは平面すら必要とせずに,エンゲルバートの場合は歯車が動けばいい,だから,マウスを裏返して指で歯車を裏返しても,バグは動く.そのとき,指がひとつの平面となっている.いや平面でもなく,単に情報平面に重なり合った存在になっている.マウスは物理平面に置かれているときに,もっとも情報平面と重なり合う.

マウスとディスプレイとの重なり合いのなかで,バグ/カーソルは動き続ける.カーソルはまたふたつの世界が重なり合ったところにできる点である.カーソルが情報平面の見方を変えていく.平面は次々に変わるけれど,物理世界の上に置かれたマウスは変わることがない.そして,カーソルもまた変わることがない.マウスとカーソルの不動性が情報平面のなかでヒトをつなぎとめる役目を担っている.

そして,見え方を変えつづける平面に重なりが導入される.すでに,物理平面と情報平面とは重なり合っており,さらに,情報平面が重なり合う.重なり合うウィンドウは,ビューコントロールの一種であるが,見える部分と見えない部分とをつくり,階層を飛び越えている.ヒエラルキーを飛び越えるように見えない部分が見えている.コンピュータ内部のn次元が見えていると言ってもいいかもしれない.2次元のなかにn次元があらわれる.ヒトは物理平面に置かれたマウスから,n次元を操作する.重なり順を変えつづける.物理平面と情報平面がn次元化した平面とが重なり合い,ヒトは見えているところをカーソルでクリックしながら,重なり順を変える.視点を変えるのではなく,重なり順を変える.3次元化する必要はない.すでにそこはn次元である.n次元と3次元内にある物理平面が重なり合う.物理平面・空間がn次元化されて,メタ化されていく.インターフェイスがメタメディウムになっていく.

memo876
東浩紀がゲンロンβで紹介していたマーク・チャンギージー『ひとの目,驚異の進化』を読む.東は,ヒトの目が前向きについているのは立体視のためではなく,障害物を透視してより多くの情報を得るためという,チャンギージーの主張が,GUI時代のヒトの認識を説明する理論となると考えている.東の指摘が興味深く,ゲンロンβも読みつつ,チャンギージーの著書も読んでみた.

ヒトの前向きの眼は生い茂る葉や柵のような障害物とその向こうの対象という2つの層を見ることができる.「2層を見る」ということとアラン・ケイのグループが実装した「重なるウィンドウ」とを合わせて考えてみたい.遠近法に基づいた映画のスクリーンを固定された視点で見つめるヒトの認識と,GUIのデスクトップに展開される重なるウィンドウを身体の代替イメージとしてのカーソルとマウスとで操作しながら,見るヒトの認識,このふたつの認識にはちがいがある.そして,ヒトの眼が立体視では透視のために進化してきたのであれば,透視に基づいてあたらしいヒトとメディアとの関わり方の理論がつくれるだろう.

ケイらはコンピュータというメタメディアをつかって,従来のメディアにあらたなプロパティを付加した.そのときに,想定されるヒトのモデルも面を見るだけではなく,操作するものに変化した.マウスとキーボードといった物理的な操作は,画面のなかのウィンドウを重ねて情報量をより多く提示したものをイメージの操作につながっている.エンゲルバートのNLSではウィンドウは重なることがなかった.マウスと連動する「バグ=カーソル」が,コンピュータの情報空間のなかでヒトとのつながりを示すように自在に動き回っていた.そこに,ケイはウィンドウの重なりを導入した.より多くの情報を提示するためであったが,それはヒトの透視能力,2層を見る能力に基づいた視覚操作でもあったといえる.マウスとカーソルによる物理世界とディスプレイ平面との重ね合わせに,さらにウィンドウの重なりが導入されて,ディスプレイは見通しは悪くはなるが,より多くの情報が提示される平面となった.ヒトはそこで手前と奥と切り替えつつ,とはいっても物理世界とは異なるので,そこでは奥を見通すのではなく,ウィンドウを次々に手前にもってくることで,見る対象を入れ替えていく.すべてを見透す必要はなく,一部だけでも見えれば,その平面と情報は手前に持ってこれるのである.

ディスプレイが情報をより多く提示するためには,立体視に合わせて3次元化する必要はなく,透視能力に合わせて重なりをつくればよかったのである.

memo877
マウスを物理空間の机の上に置く.マウスが机の上をグリッドで区切り,ディスプレイの上に重ね合わせる.ディスプレイはn次元の情報と部分である.全体と部分との関係でいえば,n次元の情報が全体である,その部分としてディスプレイとマウスが置かれた机とが二次元の平面として重なる.けれど,ディスプレイと重なるのは平面である必要もなくて,指でホイールを動かしても,ディスプレイ上のカーソルは動く.このとき指の動きがxyのグリッドに重ねられる.世界はxyで区切られているわけではない,しかし,xyで区切ると理解しやすくなる.その先に,xyで区切ることもできないn次元があったとしても,xyのグリッドはn次元をヒトの理解に最適化する.最適化されたn次元としてのディスプレイの平面がマウスを介して,物理世界に重ね合わされる.そして,ヒトはマウスを操作して,ディスプレイのカーソルを自在に動かす.カーソルを介して,ディスプレイはビューを切り替えつづける.いくらビューを切り替えてもカーソルはディスプレイの上にありつづける.ヒトの鼻のように情報空間にありつづける.そして,マウスはコンピュータの「鼻」のように物理世界にありつづける.

memo878
Doing with Images makes SymbolsをDoing with Images / makes Symbols と真ん中で折り返す.マウスが物理平面をXYグリッドに区切り,行為をディスプレイのXYのピクセルに重ね合わせた.行為がイメージとシンボルとを折り重ねる.ウィンドウがモードレスに切り替わるのは,マウスの行為がイメージと新ボルトをモードレスに切り替えるからである.物理世界をXYのグリッドに区切るマウスとともに起こる合生的行為から,ディスプレイ上でのイメージとシンボルとの切り替えが生じて,同時にそれらを見る.より多く情報を見るために,重ねられたウィンドウはその重なり順を入れ替られることで行為とも同一化して,さらに多くの情報をディスプレイの平面にみることになる.ヒトとコンピュータはGUIにおいて,ふたつの層からなるひとつの平面をつくり,そこでマウスを起点としてイメージと合生的行為を行っている.行為からはじまり,イメージとシンボルとが重なりある平面があるだけで,Doing with imageとmakes Symbolsというふたつの層がウィンドウの重なりという見透しの悪い平面をつくっているのである.

memo879
ふたつほどテキストを書いて,頭の中がボーっとしている状態.でも,次の発表について考えないといけない.永田さんがどんな発表をしてくるのかに合わせて,考えてみようと思う.合気道のように相手に合わせて,始動だけしてみる.あくまで始動だけを相手に合わせる.

memo880
 頭がボーっとして続けていて,memoに書くことが思い浮かばない.インプットを増やさないといけないと思い,『人間から遠く離れて』という映画の本を読んでいる.映画の本を読むことなんて,めったにないけれど,佐々木友輔さんの論考は,デジタル映画,デジタルで表象することの意味を考えされられるので,読まないといけない.0と1に還元されるというわけではなく,私たちに見えている表象の部分から,デジタルと映画との関係を考える.インターフェイスからコンピュータを考えるというのと少し近いのかもしれない.夏はテキストを読みつつ,コンスタントに書くことが目標.

memo881
最近,夜にウォーキングをしているのだけれど,姿勢が悪いと注意される.いい姿勢で歩くにはどうしたらいいのか,イマイチわからないまま歩いていた.今日,ふと,登山の人が使っている杖を両手に持っているイメージで歩けばいいのではないかと思った.杖のイメージとともに歩くことで,手の振りは大分改善された.それでも頭の位置が悪いと注意されるので,どうすればいいのかと考えていたら,3Dモデルのボーンを意識すればいいのではないかと思った.そして,ボーンのイメージに自分を重ね合わせて歩いてみると,意外と姿勢よくあることができた.イメージに自分を重ね合わせて,歩くという行為を変えてしまうのが,興味深かった.それが,ひとつは杖という具体的なモノで,もうひとつは3Dモデルのボーンというイメージだったのが,さらに面白かった.

memo882
「次元の折り重なり」と書いたけれど,比喩でしかないないなーと思いつつ,意識が物理的痕跡と関係がありつつも,そこには還元できないという考え方があるように,次元も3次元に関係がありつつも,そこに還元できないものとして,1次元,2次元というのがあるのではないだろうか.物理世界を基盤としつつも,そこに還元できない次元があるのではないだろうか.コンピュータは,ヒトの意識のように,次元を3次元に還元することなく扱えるのが重要だといえる.痕跡=インデックスにすべてが基づいているとしても,そこに還元できない意識や次元がある.そして,デジタル技術,特に,コンピュータはこのことを明らかにしたと考えられる.コンピュータは現在のところは,ディスプレイや紙へのプリントという部分で,2次元での表現を得意としている.2次元を複数重ね合わせて,そのあいだに3次元が現れると考えてみたい.思考実験のような感じで考えてみたい.

memo883
ふたつの平面の重なりのなかに3次元を見るというのは,ディスプレイでよくやっていることでし,映画だって,フィルムとスクリーンというふたつの平面のあいだに3次元を見ているとも言える.

絵画の平面性を強調したグリーンバーグのテキストをもう一度読んでみよう.絵画の平面性を強調するのも,3次元のなかで2次元を追求することで,これはどこかでキャンバスというモノをカッコにいれないと到達できない.2次元を追求して,イリュージョンを追放して,絵の具というマテリアルに行き着く.そのとき,モノは3次元に還元されずに,「2次元」として捉えられる.グリーンバーグは実際にこのように認識したのではなく,ダントーによれば,このようなナラティブをつくったと言える.だとすれば,ナラティブという線形的な形式が3次元を2次元に捉える枠組みをつくっていることにならないだろうか.ナラティブを1次元と捉えると,このナラティブのもとで,2次元と3次元とが重なり合うことになる.けれど,ダントーはナラティブは終わったとしているから,コンピュータでまた復活したということを考えないといけないのかもしれない.

memo884
グリーンバーグのコラージュ論などを読んだ.2次元と3次元という言葉が多く出てくるので使える.というか,私が考えていることのほとんどが書かれている気がする.コンピュータを使うことで,物理的なモノに還元されない「意識」のようなレイヤーで作品をつくれるようになったとすると,グリーンバーグのモノのレイヤーを更新できるかもしれないと考えてみたい.物理レイヤーに還元されないか,2次元と3次元とのあいだを行き来できるようになる.それは,意識のなかでの「イメージ」のようにどこに次元に属しているのか曖昧なまま操作することできる.最終的にはモノに落とし込まれているとしても,その過程に意識のような外部装置を経ることで,そこにある作品の質感は変わってくるだろう.

memo885
コラージュについての本を読んで,グリーンバーグのコラージュ論に対する考察を読む.次の発表に活かせそうな気がするけれど,時間がないなーと思いつつmemoを書く.

コンピュータでのカットアンドペーストは目に見える範囲だと,文字列の変更でしかなくて,それが二次元と三次元とを表すというのが興味深いところ.しかし,文字列の部分は見えない部分とされる.コラージュでも「糊」が重要ではないとされているから,「文字列」も重要ではないといえるかもしれないし,「文字列」は,そこから生み出される表象が物理的に還元されないがゆえに「糊」とは異なるかもしれないと思いつつ,来週のはじめまでに発表の見取り図を描きたい.

memo886
​​ディスプレイ手前の空間にまで拡張される「重なりの場」.ディスプレイのXYグリッドには重なりは起こらないけれど,「重なり」をエミュレートすることはできる.よく見てもそこには重なりは生じていないけれど,重なりは見えるという状態がある.二次元に三次元をエミュレートする意味を考える.

​​「隙間空間」=「重なり」なのだろう.隙間空間を限りなく0にすること.映像には「隙間空間」が映っているが,映像の二次元平面には「隙間空間」という三次元空間が再現されているわけではない.コラージュで必ず起こる段差が生じるわけではない.そこにあるのはモノではなく,光の集積だからである.XYグリッドとコンピュータの演算がつくる光の明滅が二次元のなかに重なりとして三次元をエミュレートする.しかし,遠近法に基づいている映像は,平面のなかに空間をつくりだすので,そこに三次元空間があるとヒトに認識させる.それは重なりを模した光の配列でしかないことは意識されない.二次元平面に還元されない隙間空間=三次元空間が生まれる.

memo887
向こう側を見透すための隙間と向こう側の二次元平面とのあいだにある隙間.隙間にある三次元空間.手前にある平面の隙間から三次元平面と向こう側の二次元平面を見る.ふたつの二次元平面で三次元空間を挟み込む.

透視される前面と背面というふたつの層のあいだに隙間=透き間空間をつくる/三次元空間を複数の平面のあいだの透き間空間に消失させる.

一枚の大きなXYグリッドとしての二次元平面があって,それが真ん中で折りまげられる.あいだにできた透き間に三次元空間のようなものを見るようになる.かつては,一枚のXYグリッドしかなかった.あるいは,XYグリッドを仮想的に目の前に置いて,世界を三次元空間として見ようとしていた.しかし,描く平面がひとつであって,二つの平面を重なり合わせることができなかった.だから,一つの平面のうえに三次元空間が示させるだけであった.しかし,今は三次元空間を二つの二次元平面が挟み込んでいる.立体視するのではなく,二つの平面を透視して見る.カメラではなく二つの眼で見ることが重要になってきている.

memo888
コラージュが「revolution」であるのは,それが我々の意識にある切断をもたらし、その多重性が「1」という同一性のユニットを解体するからだ. 
清水穣 「凍らない音楽 ̶「はっぱとはらっぱ」のために」
とあるけれど,デスクトップ的平面では「1」という同一性のユニットがもともとないのではないか.多重性からスタートしているのがデスクトップ・リアリティである.いや,もともとは一つのXYグリッドであるのだけれど,それが折り曲げられて,二つのXYグリッドの二次元平面として重なり合っている.二つの層のあいだには隙間=透き間があって,二つの層と透き間とで一つの平面をつくっている.「1」が多重性によって解体されるのではなくて,もともと多重性だったものを,無理やり「1」として見ようとしていた.けれど,デスクトップ・リアリティのもとで多重性をそのまま表現しようとする作品が現われ始めていると考えてみるといいのかもしれない.その一つの現われとして,永田康祐が「2つの間欠的な視点と時間の,ひとつの画面へのコラージュ」と呼ぶ《Functional Composition》があると考えたい.

memo889
永田さんと山形さんの二人展「Party」に行ってきた.山形さんの透明のアクリルにモンスターを描いた作品が,今の自分の関心をかたちにしているように見えて,興味深かった.ガラス=アクリルを透して見る方が「自然」という「上質」と山形さんが言っていた.ディスプレイ,スマートフォン,タブレットはすべてガラスを透して,画像を見ているわけだから,慣れ親しんだ形式だろう.写真もアクリルを表面に圧着させた作品の方が「上質」に見えるから,「上質」という言葉にも納得.

アクリルを透して見た面を「正面」とすると,アクリルの裏面に反転した図像を描く必要になる.このねじれも面白いと思ったけれど,一番,興味深ったのは,モンスターを描く線がチューブ状になっていることで,アクリルの表と裏の二層に挟まれた10mmの厚みのなかにモンスターが入り込んでしまったようになっている点であった.山形さんに聞いた制作プロセスだと,アニメのキャラクターからIllustratorでキャプチャーしたパスを3Dモデリングソフトにいれて,パスにチューブのマテリアルを当てているとのことだった.

二層のあいだの空間をいくら意識しても,そこに直接,モンスターをプリントすることはできない.でも,透き間にモンスターがいるような感覚を裏から表に透けるモンスターの線で表現すること.このように考えはじめると,モンスターはアクリルの厚みのなかに押し込まれたようにしか見えなくなってくる.でも,裏からよく見ると,裏の線の影が表の面に落ちている.透き間にはモンスターの影しかない.影が見えなくなるような角度から見ると,モンスターは両面にプリントされているように見えるときもあるし,二つの層のなかにいるようにも見える.実際には裏面にしかいないモンスターだけれど,二層とそのあいだのどこにでもいるように見える.ここが重要なような気がする.

ゆっくりと透視仮説にもとづくインターフェイス/ディスプレイ体験から,この作品を考えたい.

memo890
次のことを考えはじめるためのアイドリング中という感じ.ラファエル・ローゼンダールのShadow Objectsの影とインターフェイスのマテリアル化ということを別々に考えてたい.けれど,それはきっと表裏一体のことだと思う.Shadow Objectsのステンレスの板と壁というふたつの層の透き間があるからこそできる影とはどんな存在か.しかも,その影は穴から生まれている.ここが重要なような気がする.ディスプレイ場を現出させる穴と影.

memo891
「ディスプレイ場を現出させる穴と影」と書いたけれど,これはいいかもしれない.ディスプレイを考えてきたときに「穴」は,これまででてこなかった.平面に開けられた穴が「ディスプレイ」を想起させる「影」をつくる.「影」はマテリアルデザインと結びつく.手前の平面に空いた穴から後ろの層を見透す.その際に,際立つのが影ということ.でも,「穴」に引っ張られつづけるとだめだろう.でも,エキソニモの《A Sunday Afternoon》の流れから考えると,「穴」という見えていて,見えないものを考えることは必要かもしれない.

memo892
『穴と境界』を読む.ラファエル・ローゼンダールの《Shadow Objects》を考えるために『穴と境界』を読む.「穴」と「影」とはともにモノではないけれど,モノに付随する存在だって「依存的非質量体」「依存的形相体」「依存的輪郭体」と言えるような存在らしい.ローゼンダールはベクター画像を表わすためにメタルのカッティングを選択したというところから考えると,ディスプレイ上のベクター画像もまた「依存的輪郭体」といえるのではないだろうか.そこから,ベクターも結局はディスプレイのXYグリットからつくられている輪郭からうまれるとすると,ディスプレイが生み出す画像が光の明滅に依存する「依存的輪郭体」と呼べて,それはものもどきの存在だといえるだろう.ディスプレイ上の「依存的輪郭体」をマテリアルにするさいに「依存的輪郭体」である「穴」と「影」とを用いるローゼンダールは鋭い.

ローゼンダールは「影」をオーガニックな要素と言っていて,セミトラの田中さんは「ドロップシャドウ」と呼んでいる.「影」という「依存的輪郭体」と,それがステンレスの切り抜かれた板が「壁から5cm浮いていることによって」生じていること.つまり,板と壁との重ね合わせによって影が生まれてくることを考えると,《Shadow Objects》は「ディスプレイ場」だと言えるだろう.ここにはディスプレイの性質が引き継がれている.いや,ディスプレイ以上にマテリアル化した「画像」がここには生まれているといえる.それが「穴」で示されていることは,とても示唆的であり,もっと考える必要がある.

memo893
「影」という「依存的輪郭体」を生み出す透き間.それはステンレスの板にあいた「穴」でもあるし,ステンレスと壁とのあいだに生じる隙間でもある.「穴」という,これもまた「依存的輪郭体」が隙間に影をつくる.それがディスプレイのベクター画像を体現している.ここには「ディスプレイ場」を考えるヒントがあるような気がする.ディスプレイの外にモノに依存しながら,モノではない存在をつくること.モノもどきをつくること,それがディスプレイ場なのではないだろうか.

memo894
ローゼンダールの《Shadow Objects》を穴と影から考えているのだけれど,ここにはディスプレイとのつながりがあるように見えて,実際は希薄なのかもしれないと思いつつも,やはり「モノもどき」という点で,ディスプレイとのつながりは強いと考えるべきかもしれない.

歯医者で考えたことを書くべきだろう.影は光を遮るモノだけではなく,光を受けるモノも必要である.それゆえに,ここには少なくとも二つのモノがある.二つのモノには前後関係があって,それらの関係によって様々な影ができる.ここで穴を考える.ひとつの平面がもうひとつの平面の上にある.この段階では,上の平面には穴がない.だから,下の平面には上の平面のかたちが投影される.仮に,平面のかたちを四角形とすると,下の平面には四角形の影が統制される.四角形のなかをレーザーカッターで何かしらのかたちで切る.すると,何かしらのかたちの面とかたちが切り抜かれか平面ができる.ローゼンダールは切り抜かれか方をつかう.平面には穴があり,この穴が影をつくり,穴と平面の実在感/リアリティをディスプレイ寄りに引き寄せる.

ディスプレイには解像度があるが,影にない.影はとても鮮明である.穴も鮮明である.ベクター画像をよく使うローゼンダールが影と穴を選択した理由はここにあるのかもしれない.解像度がない影と穴.穴と影もともにネガティブな存在であり,ディスプレイはそれ自体が光源という点ではポジティブな存在だといえる.だとすれば,ともにネガとポジとを合わせるようなかたちで《Shadow Objects》を考える必要性があるのかもしれない.

ディスプレイは「モノもどき」なのだろうか.明らかにモノであるが,光の集積が表示する画像・映像・イメージはモノのように見えているが,向こう側の存在であり,それはやはり「モノもどき」だろう.モノもどきをフレームをもったモノが示している.だから,フレームを介して,モノとモノもどきが重なっているのがディスプレイということになるのだろう.

光のモノもどきというポジティブな存在を示すディスプレイと影と穴というネガティブな存在を示す《Shadow Objects》との関係を,ラファエル・ローゼンダールというネットアーティストを介して考えることで,ディスプレイがディスプレイから遠く離れていく「ディスプレイ場」を考える必要がある.
 
memo895
「穴」については大分読み進めた.そして,「影」についても打ち込みなどを終えた.実体のないモノであることは,両者に共通している.では,ディスプレイはどうか? 「モノとディスプレイとの重なり」というタイトルで,「モノとイメージとの重なり」としなかったのは,ディスプレイがモノでありながら,イメージであるというか,イメージなんだけれどどこかモノらしいところがあって,それをディスプレイといい装置が体現しているという予感があったからだった.スクリーンほどモノ性が希薄ではなく,モノらしいだけれど,イメージもそこにある.モノだとわかっているけど,フレーム内はイメージ.だとすれば,ディスプレイという装置で考えると,そこにはモノとイメージとが重なっているモノもどきで,それをモノと重なり合わせて使うというのが,ポスインターネットのような感じだった.モノとイメージとが重なり合ったディスプレイを,さらにモノの方に折り重ねてみる.モノもどきとしてのディスプレイをモノとしてあつかったときのイメージのあり方とかを示すことができたらいい.そのためには,一度,穴と影とでディスプレイをモノの方に引っ張り出すというか,ディスプレイの本質は光なんだけれど,そこに穴と影とを重ね合わせて考えるというのが,これからのモノとディスプレイとの重なりであり,ディスプレイ場につながっていくのではないだろうか.

memo896
影と穴とからラファフェル・ローゼンダールの《Shadow Obejects》を分析しつつ「ディスプレイ場」という言葉を考えている.ディスプレイという平面を透して世界にモノもどきを重ねていく.世界をモノもどきで満ちた平面の重なりとして捉えるのが「ディスプレイ場」ということが言えればいいのだろうか.

「ディスプレイ場」はモノに依存している.ディスプレイというモノに依存している.しかし,そのディスプレイの原型的性質である光の明滅を失ったとしても,ディスプレイはある.ディスプレイ場は概念である.いずれフレームも失って,世界に重ねられるモノであり,光の集積である平面が世界の捉え方を変えていく.ディスプレイとともに世界はディスプレイ場に満ちる.そして,ディスプレイがなくなったとしても,そこにはディスプレイ場があり,モノもどきが周囲のモノに依存して存在する.

memo897
充満したディスプレイが世界を異なる濃度で見せるようになっている.そして,ひとつのひとつのデイスプレイが「場」に変化を与えて,情報を伝える.世界はディスプレイを透して変化する「ディスプレイ場」になっている.

「ディスプレイ場」で,光が変化すると,モノやデータが変化する.もしくは,モノ・データが変化すると光が変化する.光→モノ・データ→光→モノ・データ→…と互いを変化させる場である.ディスプレイがなくても,光とモノとがあれば,そこに「ディスプレイ場」が生じる.光がモノに変換するのではなく,光がモノをつくり,モノが光をつくる.いや,光がモノもどきをつくり,モノもどきが光をつくる.

「ディスプレイ場」を支えるのが「裏(ソースコード/データ)」なのだろう.コンピュータに接続されていないくても,「裏(ソースコード/データ)」を見出すことさえできれば,「ディスプレイ場」はいつでも物理世界に現れる.

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「表(ディスプレイ)/裏(ソースコード・データ)」という構造があるとすると,ベクター画像についての議論では「ベクター画像(裏と密接な関係で表を上書き)|表(ディスプレイ)/裏(ソースコード・データ)」となるだろう.そして,ベクター画像をマテリアル化したローゼンダールの《Shadow Objects》は「影と穴(裏の物理法則によってプログラム可能)|ベクター画像(表)/裏(ソースコードとしての物理法則)」という感じになるだろう.このように考えると「裏|表/裏」という感じで,裏が表を透してその先の存在に現れるようになっている.そのとき,表は確かにあり,表がないと構造がなりたないのだが,裏は表に依存しつつ,裏によってコントロールされていると言えるだろう.

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光とモノとの二項対立があったけれど,モノとしてのフレームは緩衝地帯としても存在している.フレームを介して,モノと光とが互いに引き寄せられる.ディスプレイというモノが光とモノとが交じり合う場であり緩衝地帯であり,さらにはソースコード/データという記号的存在が光とモノとを単なる二項対立ではなく,ディスプレイというひとつの実体として包み込む.そのとき,光とモノとは対立するものではなく,ソースコード/データという記号的存在のもとでの操作対象としてひとつの平面に置かれる.ディスプレイが光とモノとをひとつに扱うモノとして機能するのは,その「裏」にソースコード/データがあるからである.ソースコード/データの存在が,光とモノとが交じり合うディスプレイ場をつくるといえる.そして,ソースコード/データと物理法則で置き換えることができることを示したのが,ローゼンダールの《Shadow Obejcts》だと考えてみるとどうだろうか.

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