tumblrmemo700-799

memo700
「インターフェイスのモダニズム」という言葉を考えたときに,真っ先に思いついたのは谷口暁彦さんとエキソニモの作品だった.けれど,よくよく考えてみると「インターフェイスのモダニズム」とは「インタラクション」の追求であって,それこそ「メディアアート」そのものであり,現在その位置にあるのは「チームラボ」のような気がする.

インタラクションは変化の連続でもあると同時に「モノ」でもあると,エキソニモや谷口さんの作品は示している.それはインタラクションの回路の外からインターフェイスを体験することであり,それはチームラボが言う「モノからの解放」とは異なるアートのあり方を示している.アートに対するオルタナティブとして機能してきたメディアアートに対するオルタナティブとしての作品が生まれつつある.それはインタラクションを情報に基づく変化の連続として捉えつつも,そこにモノの存在を改めて見つめてみようというものである.コンピュータ以後,インタラクション以後のインターフェイスにおけるモノの役割を改めて考える必要がある.モノは情報として,モノから解放されつつあるが,まだモノであり続けている.この意識は私たちがモノに対してもっていた認識を変えるともに,情報への認識も変えるはずである.

それは,デザインが融けていくなかで融けないモノを探すことである.情報に融けきらないモノは,モノがモノであり続けることができた状況のモノとは異なるモノのはずである.谷口さんの作品におけるモノ,エキソニモの作品におけるモノ,ラファエル・ローゼンダールの作品におけるモノ,エヴァン・ロスの作品におけるモノ,アラム・バートルの作品におけるモノ.これらの作品におけるモノを考えることで情報に融けきらないモノのあり方を考えてみたい.

memo701
23日(金)はりんかい線東雲駅に隣接する東雲鉄鋼団地内にあるギャラリーG/P gallery SHINONOMEに行き,NORIKONAKAZATO + 小林健太 feat. Psychic VR Labによる展示「ISLAND IS ISLANDS」に行った.この展示は四つん這いにならないと通れない薄暗い通路を抜けた先に常夏の海辺を模した空間がつくられており,そこでヘッドマウントディスプレイ(HMD)を装着して立体映像を体験するものであった.映像では編集者の後藤繁雄氏が「ここで起こっていることはメタファーではなく,あたらしい次元の出来事なのだ」と述べていた.薄暗く,四つん這いでしか進めない通路を通るという儀式の先でHDMによる立体映像を体験するというこの一連の流れは「あたらしい次元の出来事」であったかもしれない.この1年であっという間に当たり前になったHDMによる立体映像はそれをただ見せるだけでは単なる技術的デモにすぎず,その映像体験までにどのような導線を用意するのかが重要になっているのかもしれないと考えた.

その後,神保町のギャラリーSOBOに移り,デザインチーム・NNNNYの「エレクトリカル大0界(ダイレーカイ)」を見た.この展示は光と音の組み合わせによるエンターテイメントであった.タイトルにもあるようにどこか「あの世」を意識させるようなオブジェ群が展示空間に置かれている.そして,それらのオブジェが順々に光り,その光が空間を満たす.人は空間を満たす光と音を楽しむことができると同時に,その体験は宗教的な存在に導かれる.光と音によるエンターテイメントが宗教的な体験になるのか,宗教的な体験がそもそもエンターテイメントなのかということを考えながら,3回ほど「エレクトリカルパレード」を体験していた.

24日(土)は谷中の最小文化複合施設 HAGISO(HAGI ART)に磯谷博史,新津保建秀による展覧会「Sequence」と浅草橋のパラボリカ・ビスに「三上晴子と80年代」展を見に行った.「Sequence」では新津保氏の写真が示す「意識の移動」について考えた.特に,左右反転させた2つの大判の画像を隣り合わせで展示した作品は,プリントした画像の余白が重なった真ん中の白いラインによって意識も「左右反転」するような奇妙な体験を味合うことができた.また,印刷した画像を丸めた作品も興味深かった.

メディアアートの分野を牽引し,今年急逝した三上晴子氏の80年代を巡る「三上晴子と80年代」展では,私が知ることがなかった三上氏の作品を見ることができた.私は大学の卒業論文で三上氏を取り上げていたが,それは三上氏がアメリカで情報科学を学んできた後の作品であったのだが,今回の展示はそれ以前の作品や資料が多くありとても勉強になった.

25日(日)は,東京藝術大学大学院映像研究科・馬車道校舎で行われた国際シンポジウム「メディアと芸術のあいだ───ヤシャ・ライハートの60年代の「展覧会」を読み解く」を聞きに行った.ヤシャ・ライハートはメディアアートの先駆けとなる展覧会「サイバネティク・セレンディピティ」展のキュレーターであり,今回のシンポジウムではこの展示についての詳細を本人から聞くことができ,とても有益であった.また,登壇した情報学研究者のドミニク・チェン氏のサイバネティクスに関する発表も,これからのヒトとコンピュータとの関係及びメディアアートのあり方を考えてために大変示唆に富むものであった.

memo702
モノの特性を追求することがモダニズムではなくなり,オルタナティブになっている世界に今,私たちはいると考えると,インタラクションや体験の追求が「王道」になっているのも理解できるかもしれない.だからこそ,オルタナティブなモノを追求してみたらおもしろい.

「自律型システムとしてモノ」を捉えて,そのモノ性を追求していく.そこに見えてくるものはなんだろうか? モノを自律型システムとして見ること自体がひとつのユーモアである.モノの見方をアップデートする.体験でもインタラクションでもなく,そのなかにあるモノを見ていくこと.そこに未来のモノのあり方をみる.あるいは,アートのあり方.オルタナティブな存在の仕方を考えること.それは情報に融けきらないモノを考えること.

memo703
見えないものとの1度目の対話終了.見たことある作品が多かったけど,作品単体ではなくて,順路にそって見ていくと,作品同士が音と光で干渉したり「対話」している感じがあって,よかった.

対話から外れて置かれている渡邉さんの作品のことはこれから考える.ファッションビルであの作品を見て回ることが「見えないものと対話」しているように見える行為かもしれないと思いつつ,各階にある作品《荒んだ食卓を極力なおそう》を見て回った.ふと,この前読んだ,セミトラの田中さんの言葉を思い出したけど,そのテキストを書き写していないから正確に書けない.けど,「ウェブでの彫刻もあっていい」というようなことだったと思う.そんな言葉を《荒んだ食卓を極力なおそう》について考えているときに思った.僕以外のお客さんがすべて女性のファッションビルのカフェでハートランドを呑む.

ハートランドをほぼ呑み終えたのだけれど,渡邉さんの作品は3Dプリンタで出力されたもので,そのデータはネットにあげられている.だ・か・ら,「ウェブの彫刻」とも言えなくもないというか,そう言えてしまう可能性もなくもないというか,なんとなく「ウェブの彫刻」といった概念が物質化したような感じ.でも,その物質化の先があまりに日常的すぎて作品がゴミ箱に捨てられたらしい.「ウェブの彫刻」が捨てられるという実にリアルな出来事.

memo704
スキン,テクスチャ,インタラクション,スピリチュアル,モダニズム,インターフェイスという言葉から考える.もっとあるかもしれない.デカルト派.ハードとソフト.ソフトウェアという概念からのハード/モノを考えること.「見ないものとの対話」展で谷口さんの作品がOSのアップデートで見え方が少し変わっていたところが面白いかった.ソフトウェアの変化が作品に影響を与えることはよくあるけど,iPadのようなまさにソフトとハードとが一体化した板でその変化が起きていると,何かモノのアップデートという感じがした.ソフトウェアのアップデートは体験しているのだけれど,それとともにハードも新鮮に感じることがある.このような感じをインタラクションなしの作品にも感じること.眺めているモノのソフトウェアがアップデートすること.でも,これは映画のディレクターズ・カット版とかとも通じるところかな? それとは違うか? 谷口さんの作品のソフトウェアのアップデートから感触はまだちょっとうまく考えられない.

memo705
Instagramのアカウントが乗っ取られてしまいました.メールアドレスを自分で晒すという失態を犯したので仕方ないなと思っています.TwitterやFacebookが乗っ取られたよりはショックが少ないけれど,今までの3000枚以上のlunch, dinner の画像が自分から離れていったのはやはりイタイなー.もし,このテキストを読んでいる人で僕のInstagramをフォローしている人はアンフォローして下さい.お手数ですがよろしくお願いします.

memo706


memo707
「圧縮性」というキーワードでポストインターネット/The Copy Travelersを考えるのは面白いかもしれない.JPEGの圧縮,そしてノイズや,紙の折れ,布のシワなどなど.イメージと被写体とのインデックス的関係はポスト・インターネットでは破綻している.破綻しているところから始まっている.表象と構造との2層構造があり,表象の1レイヤー化はいいすぎにしても,「最前面−前面−背面−最背面」化が起こっている.多くのオブジェクトがひとつのレイヤーのなかに配置されるようになり,その重なり方が分かりにくくなるともに,その配置が特徴的になっている.

memo708
来週のTHE COPY TRAVELERS(コピトラ)とのトークについて考えていたけれど,ブログを書くほどにはまとまらなかったのでmemoする.

ポストインターネットでネットと対比される「リアル」とよく言われるし,自分も「リアル」という言葉を簡単に使っていたけど,リアルとネットが等価値になったときの「「リアル」って何だ?」と考えると,それは重力があってモノが貫入しない世界のことではないかと.これは谷口さんのスキンケアを見てきた後に出てきた考えで,物理世界で当たり前のことなんだけれども,このことを「リアル」という言葉に与えることは,ネットやデジタルの現象を考えるときに必要のような気がする.

Googleのマテリアルデザインは重力があってモノが貫入しない世界のうち,貫入しないというパラメーターをデザインに取り込んで,重力はないことにしている.重力はないけど,モノとモノとが貫入しないから重なって,影ができる.でも,実際はその影はモノとモノとが重なってできる影ではなくて,「影」ができることによって,モノとモノとの貫入がないことになり,重なることになる.

こんなことを考えてたいたら,コピトラの作品には影が多いなと気づいた.それらはリアルな作品で,それを見ているときにネットやデジタルな現象を思い浮かべることは少ないなということも気づいた.谷口さんの作品やアーティ・ヴィアーカントのイメージオブジェクトにはあまり影を見ないなと思いつつ,実際は見ているのだけれど,それが気にならない.影が気にならないというか,作品がモノであることを気にしていない.どこか重力がなく,モノとモノとが貫入する(貫入してしまう)世界を想定しながら作品を見ているところがあるような感じがある.

memo709
コピトラとのトークに向けて毎日memoを書くぞと決めたのに,書けてなーい.リアル=重力があり,モノが貫入しない世界としたけど,それはそのようにパラメーターが決められた世界といえるし,ここで「パラメーター」という操作する要素が入ってくる時点で,世界の見え方は大きく変わっている.でも,それは「神」という言葉で言われてきたことでもあるから,ヒトの考え方は大昔からあまり変わらないような気がする.変わったのはやはり,アイデアを画像・映像化できるようになったことにあると思う.それこそコピーという手法でアイデアを拡散させたように,シミュレーションという手法で世界をいじることができ,リアルがシミュレーションの一部となり,それを見ることができるようになった.現実をまねるためにパラメーターを調整し,アルゴリズムを洗練させてきた.しかし,ここで洗練の先に何があるのかという問いも生まれた.それはシミュレーションが「リアル」を凌ぐようになったときにも言われたことだけれど,今は,多くの人がシミュレーションをある程度出来るようになったから,思いつきがシミュレーションされるようにあった.そこには科学的な裏付けとかないけれど,とにかく頭に浮かんだことをやってみる.そこから考えるようなシミュレーションの使い方が出てきたのかなと思う.そこでは重力はなくなくるし,モノも貫入しまくる.けど,それが何を意味しているかはわからない.でも,それでいい.そこでうまれた画像・映像を見ることで,世界の見え方が変わればいい.そんなシミュレーションの世界のなかでの「コピートラベル」とは何を意味するのか? このあたりを考えればいいのかもしれない.

memo710
シュミレーションの世界のなかのコピートラベルはどこに辿り着くのか.どこにも辿り着かないのかもしれないし,「辿り着く」という発想自体がいけないのかもしれない.シミュレーションの世界で写真は無数の可能性,選択の集積になった.もともと写真は選択の可能性の集積であるが,ディスプレイとプログラムによってそれはまさに膨大な選択肢からの選択になった.それがコピトラと関係しているのか,していると思う.そして,写真の加工にPhotoshopを使うこと自体を作品のなかに明示したり,議論に取り入れようとする動きが写真家のなかにあることもコピトラに関係していると思う.Photoshopでの作業しているときにふと出来てしまった表象を作品に選択すること.それはいままでの表象ではなかったものを取り入れることに近い.「いままでの」という発想がだめかもしれない.Photoshop由来の画像・イメージを見せること,これはコピーの世界とはまた異なったこと? わからない.Photoshop由来の画像・イメージを見せることはPhotoshopをつかっているという行為を見せるとは異なっているような気がする.コピーは空間を平面化するが,Photoshopは空間をえぐるというか,これもまた空間を平面化するのであるが,その平面化したときに空間自体が平面になるというか.空間という概念が一度消去されるけれど,見る人のなかには根強くというか基本的に空間概念があるから,消去を打ち消してPhotoshop平面を見ようとするからよくわからなくなるような感じ.そんな感じ.

memo711
高校で模擬授業というか「メディア表現」という分野の説明会があって,そこで話すことになっている.行ってみないとどんな感じになっているのかわからない.今日は説明会で,明日はトークで,明後日はオープンキャン.この週末はずっと仕事である.

アーティ・ヴィアーカントのインタビューを読んだ.アーティの知的財産に関する作品に自分で解説していてよかった.あとはイメージオブジェクトに関することも言っていた.このあたりは明日のトークに使えるので後で訳そう.彼はそこで「By intervening in that space」という言葉を使っていて,「あの空間のなかに干渉することによって」と言っている.オブジェクトでもイメージでもなくて,空間=space に干渉するというアイデアをコピトラと対比すると面白いのではないかと思う.こうやってmemoを書いているときが一番面白いな.

memo712
コピトラがフィジカルだとすると,ポストインターネットはデータの流れをどのように切断するかが重要になっている.シルクスクリーンの絵の具の盛り方だったり,上田さんはインターネットを意識していないけど,問題意識はポストインターネットと通じる部分があるかもしれなかったり.インターネットへの反応が加納さんと上田さん,迫さんとで異なるところが面白かった.フィジカルな作業の細かさとデジタルの細かさの中央のちがいを明確にして考える必要がある.

『写真は魔術』のなかにあった言葉
イメージが正しく機能するための基本条件は,それがイメージらしく見える,ということになるでしょう.[Paradoxically, a primary criterion of the success of an image is that it must resemble an image. ]ショーン・ラスペット
イメージがイメージらしくあることが,コピトラとか今の写真の問題があるかもしれない.イメージがイメージに似ていること.何をイメージと感じるのか? その部分が揺らぎ始めている? 極薄の彫刻?

あと,冗談でコピトラとセミトラは似ているといったのだけれど,セミトラの本に書いてあった千房さんのテキストから考えると,フィジカルとデジタルとのちがいをこのふたつのグループから考えることができるかもしれない.

ものを作るという行為は本来「退屈」を減らす行為なのではないか.目の前の美しさに目を奪われれば,退屈は失われていく.しかし,美しさを目前にしながらも退屈を感じてしまう,そんな二重化された感性をもつことによって,構造的に表(スクリーン)と裏(ソースコード/データ)から成り立っているデジタルな世界から現れて来た彼らが,本当に美だと感じているものに近づくことができるのではないだろうか.p.7
 
半透明な記憶から,千房けん輔 in セミトランスペアレント・デザイン
「構造的に表(スクリーン)と裏(ソースコード/データ)」とフィジカルとの関係性.加納さんの大理石の作品からのコピトラの表(スクリーン)からのシルクスクリーンの穴とそこから滲みでて表面に盛り上がる絵の具との関係は考えると面白いかもしれない.

memo713
ソフトウェアの変化というか,パラレル処理,複数の端末.ひとつのデータの複数の見方[窓]ではなく,端末自体を複数持つことは,モノとヒトの観点からみるととてもおもしろい.同じデータを複数の見方だけでなく,複数のモノで見ること.モノとデータ,精神と身体が分離している感じが明確になる.デカルトの心身二元論の複数化?

そして,モノだけではなくて,データを処理する方も複数化しているというのもおもしろい.モノはひとつで複数の処理システムをもつこと.

というのは冗談で、ウチはディスプレイにペイントしているわけではなくて、Body Paintをしたらディスプレイまで塗らざるをえなくなっただけで、たぶんみんなとは別のベクトルです
https://twitter.com/1000b/status/670431002838368256

「Body Paintをしたらディスプレイまで塗らざるをえなくなっただけ」というところをデカルト,二元論,ハード/ソフトから考えみたらどうだろうか.

近頃ボワーと二元論が頭のなかにあって,ハード/ソフトのどちらかに注目がいくともうひとつにも影響を与える.それは一元論のようだけれども,でも.別れてはいるというのは,今のモノのあり方なのではないのかなと思いつつ.そんなことをオブジェクト指向存在論はやっているのかな.となると,読まないといけないけど,作品に感じたことを言葉にするのに,オブジェクト指向存在論とかあたらしい唯物論とかはあまり考えたくなくて,グリーンバーグのモダニズムから考えたいと思っていたりする.

memo714
急遽やった授業「現代美術論」でコラージュの話をするために,グリーンバーグの「コラージュ」を読み返したら,とても面白かった.というか,ここで書かれている固有名,ピカソとブラックを谷口暁彦とかアーティ・ヴィアカントとかエキソニモに変えると,それだけで現代のコラージュ論になるというか,現代は2d3dのコラージュでもあるかけれど,それは重力がない空間と重力がある空間というふたつの空間をいかに平面化,いや,ディスプレイに並列化するのかという問題になるのはではないかという感じがする.その論じ方のいろはがグリーンバーグの「コラージュ」に書いてあるような気がする.そんなことを授業で話そうとしたけど,もちろん話せるわけもなく,コラージュとグリーンバーグの説明で終わった.

memo715
コピトラとのトークから「影」が気になっている.気になっているから,今度トークするヌケメさんの作品も「影」から見てしまう.「影」が気になっているので,そういえば,谷口さんの作品に「影」はあったかなと見てみたら,そこには影があったともいえるし,なかったともいえた.「ない」といったほうがいいのかもしれない.

ヌケメさんは「この”超現実性”という質感は,インターネットを物質化しようとした際に現れる,データと物質の領域で起こる誤変換なのかもしれない」ということをデジタルとファッションについてのテキストで書いているけれども,誤変換というかデジタルを物質化すると,そこにはもれなく重力と影という値が設定されてしまって,それが「誤変換」と呼ばれるものを引き起こすのだろうなと考えつつ,ヌケメさんとのトークのことを考えている.

memo716
起きたくないなと布団のなかでグダグダしているときに,画像の薄さについて考えた.これは前から考えていることだけれど,ヌケメさんトーク用にに改めて考えた.ヌケメさんはグリッチした画像をプリントではなく刺繍にした.なぜなんだろう? プリントのほうが画像っぽいような気がするけど,そうすると手触りがないかもしれない.刺繍は表と裏とで見え方がちがう.これは表象と構造をもつ世界と対応するかもしれない.プリントのように表と裏とが一対一対応ではない.あと,Old Schoolの木の厚みの問題.新作は薄くなっていて,木片というよりは板になっていた.最初はどうかなーと思っていたけれど,板にして,角度をつけて展示することから生まれる影がとてもよかった.板という薄いものを掘って,切り口に影が生まれる.立体となる.今回のほうが立体感が強かった気がする.それは周りをグルっと回って作品を見ることができて,そこで影を含めた見え方の変化が生まれるからしれない.正面性がなくなった感じもあった.

memo717
コラージュに「壁紙」を貼り付けたとしても,それはちっともリアルではない.デスクトップの壁紙は「壁紙」ではない.デスクトップの壁紙やそのあたりにあるアイコンをプリントすることの意味を考え.紙ではなく木にプリントすることの意味を考えてみたけど,その前に,壁紙は紙にさまざまなテクスチャをプリントして,それを壁に貼るんだと思った.壁→壁紙テクスチャ(テクスチャ on 紙).だから,壁紙は紙のテクスチャを消すプリントのテクスチャがあって,それが「壁のテクスチャ」となる.もともとも壁はそこではもう見えない.壁はあるけど,壁のテクスチャは見ない.ということを考えたけど,それがアイコンとどう関係しているのか.ディスプレイ上のアイコンは紙のテクスチャのうえにプリントされていない.ディスプレイの光である.ピクセルのテクスチャともいえるけど,ピクセルの上にプリントされているわけではない.痕跡を残さないということ.支持体はあるけど,痕跡はないというな感じが.「光るグラフィックス」展も参照して,ヌケメさんの《Old School》を考えてみてもいいような気がしてきた.

RGBとCMYKとを並列すること.優劣ではなく並列してみせること.ヌケメさんの《Old School》もさまざまな要素を並列して見せていると考えてみると,それは水平な感じで,そこに彫るという行為が垂直性を与えている感じがする.水平と垂直がこじれている感じがしてきた.

memo718
ヌケメさんとのトークで,ヌケメさんが「リアルとネット/デジタルとを同時に見ようしている/意識しようとしてている」「結局,ふたつは同時に見られないから,ゲシュタルト崩壊が起こる」など言っていたのが面白いかった.ふたつの世界のあいだにある「重心」を探すのが,ヌケメさんはうまいのだろう.リアルとネットのあいだに重心を提示して,そこに錯視(錯感覚)をつくりだす.リアルでもあって,ネットでもあるけど,そのどちらかではなくて,どちらでもある.しかし,どちらかにしか認識できない.どちらに認識するかは,見る人次第ということ.

memo719
Photography Is Magic: Charlotte Cotton on How the New Generation of Image-Makers Are Like Illusionists by Natalie Hegert
http://www.artslant.com/ny/articles/show/44470

NH: Artie Vierkant’s essay “Image Object Post-Internet” proposes that images function as objects (and vice versa), and describes the movement away from privileging the “source” or “original.” Can you talk a bit about how that proposal works in Vierkant’s work here?

NH: アーティ・ヴィアーカントのエッセイ「ポストインターネットにおけるイメージ・オブジェクト」は,イメージがオブジェクト(そして逆も)として機能することを提示し,「ソース」や「オリジナル」の特権から離れていく運動を記述しました.『写真は魔術』でのヴィアーカントの作品について少し話してください.

CC: I can still remember the first time that I read Artie’s “Image Object Post-Internet” essay and thinking that I had not read anything that articulated an artist’s perspective in light of Web 2.0 so well. His description of this as an era where not only is there no “original” but there is no “original copy” is especially provocative and meaningful for our idea of photography-as-art. I don’t think that this essay could have had such resonance for so many of us if Artie’s own practice had not so convincingly embodied his ideas. Artie creates a “version” (rather than a “copy”) of his projects especially for the printed page and that’s what you see in Photography Is Magic. As with the jpegs he circulates online, Artie uses documentation of his gallery installations to create new forms—inserting his authorship into each version that he disseminates. Often, he does so with very direct means (the gestural swipes of Photoshop cloning, for instance) that make explicit the different readings of his work that each mediating platform supplies. In the sequence that Artie created for his Photography Is Magic image pages, he leaves a lot in the balance. His sequence acts as an extremely dynamic pinpointing of objecthood and imagehood in his work for gallery, screen, and page contexts.

CC: 私ははじめてアーティの「ポストインターネットにおけるイメージ・オブジェクト」を読んだことをいまだに覚えています.私はそれまでウェブ2.0という観点からのアーティストの展望の表明を読んだことがなかったのです.この時代に対する彼の主張は,「オリジナル」がないということではなく,「オリジナルコピー(原本)」がないということでした.それがとても刺激的であり,アートしての写真について私たちの考えに意味をもつものでした.アーティの実践がもし彼のアイデアを説得力あるかたちで具体化していなかったらとしたら,このエッセイが現在のような影響を多く人に与えなかったと思います.アーティは特に印刷物においては,プロジェクトの(「コピー」というよりもむしろ)「ヴァージョン」を制作します.『写真は魔術』であなたが見ているものがそれです.アーティはJPEG画像を流通させる際に,あたらしい形態を制作すためにギャラリーでのインスタレーションの記録を使います.拡散させる各バージョンに彼が作者であることを書き加えるのです.しばしば,アーティはとても直接的な方法(例えば,Photoshopのクローンスタンプで画像をなぞったりする)で,それぞれのプラットフォームに供給する作品にはっきりと異なる読み方を記します.『写真は魔術』のための画像を制作する一連の作業で,アーティはどちらにも決まらない多くのものを残しました.ギャラリー,スクリーン,印刷物といったそれぞれの状況のための作品で,彼の一連の行為はオブジェクトのようなものや,イメージのようなものを極端に,ダイナミックに示すのです.


memo720
水野先生が『UI GRAPHICS -世界の成功事例から学ぶ、スマホ以降のインターフェイスデザイン』に寄稿.インターネット・編集ゼミを担当する水野勝仁先生が『UI GRAPHICS -世界の成功事例から学ぶ、スマホ以降のインターフェイスデザイン』に,「メタファー,ボタン,テクスチャ,色面,ピクセル」と「GUIの歴史:私たちがデザインしてきたインターフェイスは常に身体の中にあった…」を寄稿しました.

水野先生からコメントです.

みなさんは,スマートフォンやパソコンの「インターフェイスデザイン」を考えたことがあるでしょうか.あまりにも身近な存在すぎて考えたことがない人が多いかもしれません.『UI GRAPHICS』には「フラットデザイン」「マテリアルデザイン」「ジェスチャー」「行為」「認識」といった言葉や,もしかしたらみなさんが使っているかもしれないアプリの画面がでてきます.そしてそれらを手掛かりにして,インターフェイスデザインがみなさんと世界とのあたらしい関係をつくりだしていることを示してくれます.スマートフォンのパソコンのディスプレイを通して感じられる世界を考えてみたい人は,是非『UI GRAPHICS』を読んでみてください!

memo721
マテリアルデザイン=厚さのあるピクセルが現実にあった場合にどのような挙動をするのかをシミュレートしたデザイン.マテリアルデザインでの影が気になる.影で次元を付け足す.2Dで2Dに次元を付け足す.

リアルには重力があって,モノが貫入しない.そして,石は紙のようにクシャクシャにはならない.けど,シミュレーションの世界だと石は紙のようにクシャクシャになって,さらに,そのシワを引き延ばすこともできる.物性を入れ替える.物性のパラメーターを変える.

シミュレーションをし続け,もしくはシミュレーションを見せ続けることで,それがシミュレーションであることを忘れた/忘れさせた瞬間,その世界の物性の可能性が変化する?!
「2D→3D」の循環に重力と貫入の世界の物性を入り込ませる→ディスプレイの外に出る.

それがシミュレーションであることを忘れる.ピクセルが光にすぎないことを忘れる/ピクセルにリアルな物性を偽装する→マテリアルデザイン.論理的・合理的なGoogleがマテリアルデザインのガイドラインを作成していることを重要.

「知覚と行為の循環が半分ディスプレイの中に入り込んでいる」ことから「ピクセルを厚みのある物理的な存在(マテリアル)と解釈する」ことを考える.その際にピクセルと向い合っている身体が得る感触はどうなるか? 身体によるピクセルの解釈はどうなるか? マテリアルとしてのピクセルという拡張されたシミュレーションと向き合う身体(の感触)を考える.

永田さんの作品を考える.2D→3Dの循環がディスプレイに入り込んでいることを意識する?

memo722
インターフェイス=2つの面/界面

2つのうち,ひとつが確定するともうひとつが決まる.リアルとネットにおいて,ネットが確定することでリアルが確定すると考える.デカルトから考える.ネットは画定するといよりも,もともと閉じている.シミュレーションの世界.

画定されたリアル:重力,貫入,一義的な物性,情報の流れ

マテリアルデザイン=物理世界の拡張シミュレーション/Windows8 = アプリはピクセルの光/フラットデザイン=メタファからの脱却→シミュレーション=リアルにとらわれない.あるいはリアクを確定するためのシミュレーション.image-objects

「アイコンの触れる/ピクセルを彫る」という感触.「感覚」ではなく「感触」.マウス,マルチタッチなどのあたらしいUIの感触.

エキソニモ《Body Paint》=身体にペイントした結果,ディスプレイにペイントせざるを得なくなった.質感の統一? 身体をシミュレーションの世界に入れ込む?身体をシミュレーションの世界に入れ込む→重力と貫入の世界からの脱却→表象化/イメージ化→そのためのペイント=表象化の伝統的手法

身体をペイントした結果,ディスプレイというモノも表象化する必要がありペイントした.表象化というよりもシミュレーションの世界に入れ込む行為としてのペイント.

身体/ディスプレイのペイントの結果,ふたつの存在の同一化が起こり,身体とディスプレイの境界が際立った? ペイントいう伝統的行為によるシミュレーション化? 

《Body Paint》を見るヒトの感覚/認識の奇妙さも考えるべき.ペイントされた身体とディスプレイのあいだ.貫入しない境界の強調.

永田さんの作品とエキソニモの作品とをあわせて考えてみる

支持体−モノの損壊にある1回性.モデルとテクスチャの一致.リアルの損壊.イメージの損壊は何度でもやり直し=undo,⌘Zができる=テクスチャの張替え.ディスプレイのなかで繰り返される石と木の損壊.損壊した時に物性の変化を見ることになる=物性のコピーアンドペースト.

表象のコピーへの介入→シミュレーション世界の生成へ.表象のコピーの高精細化(2D/3D)→リアル−重力/貫入→物性への介入→コピー(オリジナルコピー/image-objects)だから思い存分=何度でも介入できる→シミュレーション

memo723
無条件修復での永田さんの作品を考えつつ,ヌケメさんのことも考えたりする休日にゲンロン社のサーバーは落ちたらしい.

永田さんの作品を考えていて,ディスプレイの作品とそれ以外のモノの作品の感触のちがいについて考えていた.ディスプレイでの作品は「映像」作品ということになるだろうけど,とてもモノ的な感触を受けている.モノであったら,4つのモノで構成された作品と同じような感触を受けてもいいのだけれど,どこかちがう.それは当然だけれど,ディスプレイ=映像ということが影響していることは確かで,それは言うまでもないことなのけれど,でも,そこをあえて言うことが必要なのではないかと思っている.

ディスプレイでのシミュレーションの作品には重力も設定されているし,モノは貫入せずに衝突する.衝突したときにモノの物性が通常とはことなっていって,石は石ではないし,木は木でない.でも,テクスチャは石は石だし,木は木だから,それらは衝突しはない限りは,石,木として見えている.衝突したときの反応で,それが石と見えながら石のようではない,木と見えながら木のようではないとなる.衝突すると,それがシミュレーションの世界であり,それがピクセルの光と論理・計算で構成された「どうにでもなる世界」であることが判明する.モノの物性が変わっていていも,そこにそれらがあることを否定できない感触がある.

この世界は「どうにでもなる」がゆえに「どっちでもいい」とは言えない世界になっているのではないだろうか.「どっちでもいい」というのは渡邉朋也さんのエッセイで言われていたこと.「どっちでもいい」と言えないで,どうにでもなることを,次々に決めていくことが求められる世界.そして,それを見ているヒトもどっちでもいいとはいえなくて,どこか態度を決められているというか,ある意味,認識の半分をディスプレイにもっていかれているような感じがある.モノのコンポジションの作品では認識はこちら側=ヒトに任せられている.認識は裏切られない.それらは認識を裏切ることなくそこにあり続ける.モノのモデル=支持体とテクスチャ=スキンは様々な手法で入れ替えられたりしているのだけど,それでもそれらがそこにそのかたちであることは,認識を裏切ることはない.裏切ることがないほどモノのあり方が確定しているからこそ,見ているヒトは「どっちでもいい」という判断を下すことができる.そこにあるモノが確定していることで,こちらの認識も確定するからこそ,どちらでもいいという感じで,それを宙ぶらりんでできる.

方眼紙の写真の作品は,クリップで挟まれて,そのクリップが釘で留められている.写真に映っている方眼紙は釘で直接壁に打ち付けられている.方眼紙の写真の作品には余白があって,そこに釘を打って,作品を展示してみても良さそうなのに,永田さんはそれをしない.紙をクリップで留める.クリップで挟まれる紙があって,紙には表と裏があって,それがモノであることをクリップは示している.紙とクリップと釘というモノのつながりがそこにある.

memo724
ヌケメさんの《Old School》で興味深いのは,彫り切っていないところかなと思いはじめている.彫りきってしまえば,Windowsアイコンには「穴」があくし,そこには「木」ができくる.ヌケメさんは「穴」を作りたいわけでも,「木」を見せたいわけでもなく,ただアイコンを彫りたい.だから,彫りきらない.彫った感触を得たい.そのゆえに彫りきらない.その結果として,アイコンという概念的存在が平面的でありながらも,立体的なものとしても提示される曖昧な状態をつくりだしている.「曖昧」ではなく「絶妙」なバランスと言ったほうがいいだろう.しかし,それはあくまでもアイコンを彫るという感触を得たいがためにおこなった行為の結果にすぎないのではないだろうか.

ヌケメさんは破壊することはしない.グリッチも破壊ではない.PayPalのロゴを3Dプリントしたモノをハンマーで破壊=クラックしているけれど,これも純粋な破壊とは言えないところがある.PayPalの破壊=クラックはシステムにおいて実現するのであって,ヌケメさんはあくまでも「イメージのPayPal」をモノとして破壊しているにすぎない.それは文字通りの破壊ではないのではないか.PayPalのロゴを3D化したデータも残っているから,それは何度もでもつくることができる.いくらでもつくることができる.それを破壊してもいくらでも出てくる.マリオに何度も踏みつけられるクリボーのように何度も出ててくる.それは破壊とはいないのだろうか.物理的に壊れることが「破壊」を意味しないことがあることをヌケメさんは示しているのではいだろうか.

ヌケメさんはアイコンという概念的な存在やPayPalというシステム,グリッチではそれどのように起こるのか,といった背景をまるまると知ったうえで「破壊」に見える行為をするように振舞っているようにみえる.背景を知り,自分ではプログラミングができないとしても,そこにあるプログラムがどんな意味をもつのか,システムが何なのかというかということを見通しながら制作を行っているようにみえる.自分でできないことは,そのことができる人といっしょに作業をする.ブラックボックスが多いコンピュータやインターネットを出来る限り見通し,そこに絶妙な仕方でアプローチする.そのアプローチとしてとっているのが,グリッチやクラック,彫るといった「破壊」を連想させる行為であることは興味深い.ヌケメさんは破壊にみえる行為をすることで,その背景・状態を明確に示す.

memo725
The digital spirit is the writing of algorithms in consumer capitalism. Photographic art is not magic because its spirit is predominantly tied to an obsession with craft, form and aesthetics – philosophical considerations all too familiar to the Romantic period. It refuses to let them go, even when it might acknowledge their conceptual problems, as several of the artists do in this book. The digital spirit is, conversely, to borrow Daniel Palmer’s phrase, a phenomenon that exists in the tension between ‘craft and automation’, or perhaps in the end of this tension. When this tension is complete, which exampled by Eyal Weizman in his essay The Image Complex (2015) is now the case, due to the fact that satellites are making and transmitting images of earth all of their own accord, we give photography partly over to automation. The prohibitions of thinking “craft” are given over to technological automation. The distinctions between the way magic has appeared in art and the way it appears in science or technology, is crucial, and speaks to a myriad of analogies and associations that might be drawn between the three contexts and various esoteric practices since the end of the first Industrial Revolution.

消費資本主義では,デジタルスピリットはアルゴリズムで書かれたものである.写真的アートはマジックではない.なぜなら,そのスピリットは工芸,形態,美学への執着と主に結びついていて,哲学的考察はすべてあまりにもロマン主義の時代から知られたものである.それは考察を自由にしてくれるものではなく,それらの概念的問題を取り上げられている数人のアーティストが実践しているときでさえそうなのである.しかし,デジタルスピリットは,Daniel Palmerの言葉を借りれば,「クラフトとオートメーション」のあいだの緊張関係にある現象なのであり,この関係の終わりなのであろう.この緊張関係が終わる時,それはEyal Weizmanが「The Image Complex 」(2015)で取り上げている例では,人工衛星が協調しながら地球の画像を制作し,伝送してくるするために,私たちが写真に部分的に自動化を与えていることである.「クラフト」を考えることを禁止することは,技術的自動化を用いることである.マジックがアートに現れてきた方法とマジックが科学や技術に現れてきた方法の違いは決定的であり,第一次産業革命の終わり以来,3つの文脈と様々な秘伝の実践のあいだで語られてきた数多くのアナロジーと連想を伝えるのである.

http://www.americansuburbx.com/2015/10/photography-is-not-magic-photographic-images-and-their-digital-spirit.html

memo726
OK: You could say it’s a bit like adding-back-in Barthes’ lament, trying to apply duration but after the fact, and usually to an image that doesn’t contain a high degree of trauma in the first place. I’ve been concentrating on documentary or street images for this, somewhat to the chagrin of photographers in my life, because I find these images fit the performance better. I think the pictures I’m looking for also have something to do with that sense of inertia I was describing, not necessarily in terms of a compositional arrangement that draws the eye around the image, but more in terms of the things themselves, objects with a resistance to change. The monitor contains this same constancy, always on, or sleeping, it’s pixels perpetually repeating in the same place.

Owen Kydd: 持続を応用しようとすることで,それは少しバルトの嘆きを組み入れるようだとあなたは言っているのかもしれない.しかし,事実からすると,大抵のイメージはそもそも深いトラウマを含んでいるわけではない.私はドキュメンタリーやストリートのイメージに集中してきたし,私の人生のなかではいくらかの写真家の無念があって,なぜなら,私はこれらのイメージがパフォーマンスによりフィットしていることを発見したからである.私が求めている写真は私が記述してきた硬直した感覚が何かしらあると思っている.それはイメージの周辺に眼を引き付ける構成的なアレンジメントという観点である必要はなく,もっとそのもの自体,変化に抵抗するオブジェクトという観点である.モニターはこれと同じ不変性を持っていて,ディスプレイのピクセルはいつも点いているか,もしくは消えているということを,常に同じ場所で繰り返している.

LB: There is something rather sci-fi about that and it is interesting to think about this stillness or constancy as a cultural metaphor of the digital age where the same binary code and pixel matrix underwrites an extraordinary breadth of information. Seeing the material of the “information super highway” as inert opens up some really unusual relationships to the inertias of the objects. For me these objects occupy a really tense environment. To stand still for some duration in the world, particularly without peripheral vision, as the space of your videos ask us to do, introduces a sense that something could “happen” at any moment. But for me it is not so much that I am waiting for something to take place in the video as much as I find myself bodily anxious as if the parameters of vision leave me both highly attenuated and at the same time vulnerable.

Lucas Blalock: そのことについてはSF的な何かがあり,情報の並外れた豊富さを引き受けた同一のバイナリーコードとピクセルのマトリックスがあるデジタル時代の文化的メタファーとして静止と不変を考えることは興味深い.不活性な存在として「インフォーメーション・スーパー・ハイウェイ」のマテリアルを見ることは,オブジェクトの不活性に対していくつかの実に珍しい関係を切り開くことになる.私にとって,これらのオブジェクトは硬直した環境を占めている.世界のなかであるていどの持続のための静止するために,特に周辺視ではなく,あなたのビデオの空間が私たちに示すように.いつでも何かが「起こる」という感覚を導入する.しかし,私にとってはビデオで何か起こるのを待っているというよりは,見ることのパラメータが極度に薄められると,同時にもろくなったような身体的な不安を感じるのである.

http://www.lavalette.com/a-conversation-with-owen-kydd/

memo727
マリリン・ストラザーンの『部分的つながり』を読んだ.考え方の訓練としてよかった.それができるかどうかはわからないけど.
極小のスケールで肌と木が接触していなかったとしても,しっかりと道具を握ることはできるだろうが,接触してないということを知ることは,説明すべき何かがあるという感覚を生みだす.確実であることはそれ自体で部分的であることに思えるし,情報はそれ自体で間欠的であるように思える.答えはもうひとつの問いであり,つながりは断絶であり,類似は差異であり,それらの逆もまたしかりである.どこに目を向けても,表面的な理解の下に断絶やでこぼこが隠されているという認識がまとわりつく.p.43
ここがいい.極小の断絶を出来る限り見極めて,それを見て,それみて,またノーマルな視点から眺めている.この繰り返しのなかで考えていければいいなと思う.まずは,ディスプレイ,2D-3D,シミュレーションの問題.これもそれぞれは大きい問題だけれど,自分は作品を微細に見ていくことで考えていく.けど,それだけではダメで,そこからまた違う視点,スケールを変えた視点で眺める必要がある.がんばりたい.あと,『部分的なつながり』はもう一度読みたい.デカルトの『方法序説』とともに読み返したい.

memo728
OK: My pieces are exhibited on backlight screens or monitors. So, as with photography, there is a picture merged with a surface, albeit one that has a CFL light and a refresh rate. I feel that there is still an implicit tension between the screen and the subject. And because I am interested in making a picture of something in the world, I hope this tension presents something like the “possibility of reference” (to borrow Walter Benn Michael’s terms) rather than a fight against it. This is wrapped up in the forced distinction that the flatness of the photograph (and here, the screen) must make between itself and the exterior of the object it depicts, and this is a separation that I’m not sure fully exists in the projected image. I can also say that (with the monitor in mind) I find myself looking for specific surfaces.

http://www.lavalette.com/a-conversation-with-owen-kydd/

Owen Kydd: 私の作品はバックライトのスクリーンかモニターで展示されます.だから,写真のように,映像が表面と融合しています.その表面にはCFLライトとリフレッシュレートがあるのだけれど.スクリーンと主題のあいだにそれでもなお絶対的な緊張感があると私は感じています.そして,世界にある何かの写真を作ることに私は興味があるので,このテンションが何かに立ち向かうのではなく,(Walter Benn Michaelの言葉を借りて)「参照の可能性」にのような何かを示していることを願います.これは写真の平面性(ここではスクリーンの平面性)がそれ自体と平面が描写しているオブジェクトの外観とに強制された区別に深く関係しており,そして,これは投影されたイメージのなかに私がいまだに存在を完全に確信できない分離でもあります.私は私自身が特定の表面を探していると私は(心のなかのモニターとともに)言うことができるでしょう.

memo729
読みたいものがあって,書きたいことがあるけど,少しづつしかできないでいるけど,少しづつしかやるしかない.memoを書き続けて,あとで検索して,論文に組み込んだりできたらいいなと思うけど,結局は大きく書き直すことになる.そんなことを書きたいわけではなかったけど,何を書くのか,わからない.頭がボーっとしているしているようなmemoを残しておいても,それはそれでいいでしょう.

memo730
若き写真家の肖像 -小林健太-で「画像(イメージ)に触れる」という言葉があって,この映像を見たら,イメージしていた「画像(イメージ)に触れる」が映像になっていた感じがした.インタビューのテキストからだと小林さんが言っている「画像(イメージ)に触れる」とは違うかもしれないけれど,私が今興味をもっている「画像(イメージ)に触れる」感じは,この映像に近い.Photoshopのツールで「画像(イメージ)に触れる」.実際にはピクセルに触れるという感覚かもしれないので,「画像(イメージ)に触れる」とはちがうかもしれないと思いつつも,自分的には「画像(イメージ)に触れる」だなと思ってみていた.

memo731
Crystallized Skins
Pavilion of The Wrong – New Digital Art Biennale November 1st, 2015 to January 31st 2016
Concept

The pavilion Crystallized Skins is conceived in the tradition of plaster cast collections of the 18th and 19th century. European museums in that period, for example The South Kensington Museum, today known as Victoria and Albert Museum, started to collect a wide array of reproductions of Classical, Baroque and Renaissance masterpieces for artists, students and historians to experience an actual physical object and understand the aesthetic knowledge of the specific epoch.

パビリオン「結晶化されたスキン(Crystallized Skins)」は,18, 19世紀の石膏でつくられたコレクションの伝統を考察したものである.その時代のヨーロッパの博物館,例えば,今ではヴィクトリア&アルバート博物館として知られるサウス・ケンジントン博物館は古典,バロック,ルネサンスの名作の複製品を幅広く収集した.それは,芸術家,学生,歴史家が実際に物質的オブジェクトを体験したり,特定の時代の美的知識を理解するためであった.

Many of these collections were broken up or disappeared in storage during the first half of the 20th century, when the value of the casts was questioned. But now, in our digital age, a generation exists that is surrounded by copies, appropriations and remixes without questioning the origin of an idea. So this collection of virtual objects is extending upon the historic trajectory of the physical libraries, spanning an artistic heritage of centuries.

To unify the appearance of the virtual sculptures, they are reduced to the pure three-dimensional object and its underlying mesh structure, frozen in a compelling posture and excluding any animation or texture. Very much like the classical plaster casts, this allows for focusing on the construction of sculptural form and curvature details, as well as the overall composition.

これらのコレクションの多くは,鋳造の価値が疑問視された20世紀の前半のあいだに離散したり,保管庫にしまわれたものであった.しかし現在のデジタル時代においては,オリジナルという概念を問うことなくコピー,アプロプリエーション,リミックに囲まれた世代の存在する.だから,このヴァーチャルオブジェクトのコレクションは物質的ライブラリーの歴史的軌跡に拡張しているし,数世紀に及ぶ芸術的伝統に及んでいる.ヴァーチャルオブジェクトの外見を統一することによって,それらは純粋な三次元のオブジェクトに還元されて,隠れたメッシュ構造が示されたり,動きやテクスチャが除かれて一瞬の形勢が凍結される.古典的な石膏像とよく似たように,このことは全体の構成と同様に湾曲の具合や彫刻的な形態の構造に集中することを可能にする.

These virtual sculptures have been three-dimensional in the conceptual phase as well as in the making process, but have been flattened into the rectangular frame of the final film sequence. Opposing them with the resulting experimental film, new ways of experiencing and understanding are made possible. For the future, the collection holds the potential to be extended with other film-object-constellations or even to reappear in the physical world with the help of 3d-printing technology.

これらのヴァーチャル彫刻は制作過程と同じように概念的な段階においても三次元であるけれど,最終的な映像になると長方形のフレームのなかに平坦化される.ヴァーチャル彫刻とそれらを用いた実験的映像を競合させることで,体験と理解のあたらしい方法が可能になる.将来のために,コレクションは他のフィルムとオブジェクトの集合に広がる可能性や3Dプリントの技術によって物質的世界で再現される可能性さえ持っているのである.

All objects of the Crystallized Skins pavilion are provided by the artists under a NonCommercial Creative Commons license for download. Resulting remixes and artworks should be published under #crystallizedskins.

「結晶化されたスキン(Crystallized Skins)」のすべてのオブジェクトは,NonCommercial Creative Commonsライセンスののもとでアーティストから提供されていて,ダウンロードできる.ダウンロードしたデータから制作されたリミックスや作品は#crystallizedskinsのもとで公表すべきである.

Robert Seidel, Berlin 2015
http://crystallizedskins.com

memo732
memoを9日間書いていなかった.ということは,忙しかったのかもしれない.考えることはたくさんあって,そのひとつはいちど考えを吐き出したので,あとは,整えつつ,考えをすすめていく.「画像は物質的摩擦がない理想の状態としてプレビューされる」ということを考える.と書いたところで,「画像は物質的摩擦がない理想の状態で現出したものとしてプレビューされる」という方が正しいような気がしてきた.memoを書くとちょっとずつだけど考えが進むというか,書くと進む.ちょっと進んでいいなと思う考えもあれば,いいなと思った考えを忘れるときもある.

memo733
見ることが触れることと結びついている,見ることが触れるような感覚をつくるけど,それは触ったことがないような変なリアリズムのテクスチャ.テクスチャが触れることを騙すというか,触れたことがないのだからその感触はわからないけれど,その触れたことのなさを思い存分使い出しているのがインターネットしすぎた人のアートなのではないだろうか.あくまでも現時点で,という話ですが.

memo734
Both digital and physical space has its own set of complex readings and understandings. Scale, texture, physicality and form is experienced and mediated through the smooth glass touch-screen of digital devices, or the flat screen of a computer or TV; portals which link physical and virtual spaces. Our relationship to the digital realm may provide moments of intimacy, but for now we are unable to physically touch ore taste a pixel, we can only imagine its texture. p.155

Screens, Surfaces, and Networks: Art in the Digital Age, Sarah Williams
in Postdigital Artisans 

デジタル空間とフィジカル空間の両方はそれぞれ独自の読解法と理解の方法をもっている.スケール,テクスチャ,フィジカリティ,形態は経験され,そして,テレビやコンピュータのフラットススクリーンやデジタルデバイスの滑らかなタッチスクリーンを通して伝えられる.それらはフィジカル空間とヴァーチャル空間とを結ぶ玄関である.デジタルの領域への私たちの関係は親密な時を提供してくているかもしれないけれど,私たちはまだピクセルの感覚に物理的に触れることはできないで,ただその質感を想像することしかできない.

memo735
ヒトとコンピュータの共進化していっている.ヒトは変わっていっている.ポストヒューマンのように急激に変わるのには倫理的な抵抗があるかもしれない.しかし,ヒトよりも進化がはやいコンピュータが,まるでポストヒューマンの準備と言えるように,徐々にヒトを変えていっているとしたらどうだろうか.コンピュータは,インターネットは,徐々に確実にヒトをを物理法則から解放しつつある.そのことが現れているのがインターフェイスであって,そこでうまれるデザインやアートは物理法則から逃れたくなっている.それが,重力からの解放,それがポストインターネットのリアリティである.

memo736
Phillip David Stearns
Founded in 2012 by Brooklyn based artist and designer, Phillip David Stearns.

ブルックリンを拠点にするアーティストであり,デザイナーのフィリップ・デイビッド・スターンズによって2012年に設立された.

Textiles that render the subtle structures of our digital reality into intimate, tactile materials. Our designs are expressions of the abstract and invisible language of digital technologies. We believe that the immaterial world of the digital has a vital materiality, and that materiality has the power to touch and move us. That is why we make Glitch Textiles.

テキスタイルは私たちのデジタルなリアリティのかすかな構造をくつろげて,触れることができるマテリアルにしたものである.私たちのデザインはデジタル技術の抽象的で不可視な言語の表現である.私たちはデジタルの非物質的世界が活き活きした物質性を持っていて,その物質性は私たちに触れて,私たちの心を動かすものだと信じている.これが,グリッチテキスタイルを制作する私たちの理由である.

http://www.glitchtextiles.com/#about

Physical Memory
物理的メモリ

The assemblage of data in a computer’s physical memory serves as a record of human activity and agency, however abstracted and fragmented. By analyzing and understanding the data in a computer’s physical memory, it is possible, in some respects, to reconstruct a profile of the individual operating the machine. The physical memory of a computer contains the program data, instructions and file data, that are stored temporarily for future execution and processing. This includes media such as photos, video, sound, and text. In a sense the physical memory can be viewed as the part of a computer in which programs queue their instructions for the computer to execute. Those instructions once executed however, radiate, mediated back to the user, which brings into question the locus of agency in regards to who or what is programming or being programmed.

コンピュータ内の物理的メモリはヒトの活動とエージェンシーの記録を担っているけれど,抽象的で断片化されている.コンピュータの物理的メモリのデータを分析して理解することで,ある側面から,個別に使用しているマシンのプロファイルを再構成することが可能である.コンピュータの物理メモリには未来の実行と処理のために一時的に保存されたプログラムデータ,命令,ファイルデータがある.そこには静止画,動画,音,テキストいったメディアが含まれている.ある意味で,物理的メモリはコンピュータの一部と見なすことができ,それはプログラム自体がコンピュータが実行する命令を並べているものである.しかし,これらの命令は一度実行されると表に出て,ユーザのもとに伝えられる.そして,誰が,何がプログラミンしているのか,誰が,何がプログラミングされているというエージェンシーの場所の問題となる.

https://phillipstearns.wordpress.com/fragmented-memory/

memo737
デジタルデータの具現物を実体・現象に引き戻すこと.具現物は確かに実体であるけれども,それはデジタルデータと融合したような質感をもつモノであって,これまでの実体の質感とは異なるものになっている気がする.それをまずは「実体」として認めることがひとつの段階.そして,その実体に対して「破壊」などの行為をして現象,物理世界の現象に引き入れることがもうひとつの段階.データを具現化したものを見せているだけの段階は終わったと考えたほうがいい.

memo738
ヌケメさんの作品ついて書いていて,一度書いて,もう一度書き足して,やっと一通り書き終えたところ.書き足しながら書き終えて,やっと輪郭が見えてきた感じ.インターネットとリアルとを同じ価値でみるのではなく,別々のものと見るのでもなく,それらを干渉させることをヌケメさんはしているのかなと思う.干渉させて,そこから見えてくる風景を見ているというか,そんな感じがあって,それはポストインターネット以後という言い方はどうかと思うけど,ポストインターネットという言葉よりも,もっと現象的というか,インターネット,デジタルの現象・モノを単にモノにするのではなくて,物理世界の現象に引き込んでいるような感じがある.そして,引きこむ際に干渉が生じていて,そこが面白い.

memo739
モアレ現象ではふたつの縞が干渉しあって,別の見え方をつくりだす.現実とインターネットとのあいだでのモアレ現象を引き起こすことがポストインターネット以後では求められている.というか,ポストインターネット自体がモアレ現象を引き起こすもので,その現象自体が「インターネットヤミ市」とかかたちがないものでまずは引き起こされ,それがモノ=作品レベルになってきているということなのかもしれない.ビバ,モアレ!

memo740
ネットアートやメディアアートといった先行世代の作品は物理世界の実体や現象をデジタル化していく方向に向かっていたのに対して,ポストインターネット・アートではデジタル化されたデータをモノとして具現化していく方向で作品が次々に制作されていると言うことができる.

memo741
Postdigital Artisans
Surfaces

The ability to endlessly transforms objects on screen has spilled over into our expectations of the everyday. Instead of being static and solid, objects can appear shape-shifting and networked. Surfaces transform before our eyes, and seeing is no linger believing. (p.111)

表面
スクリーン上で果てしなく変形し続ける能力が,毎日の私たちのマインドに波及してきた.静的でソリッドである代わりに,オブジェクトはかたちを変え続け,ネットワークで結ばれるようになった.私たちの眼の前で表面は変形し,見ることはもはや信じることではないのである.

memo742
モランディは影のつけ方とかを物理世界の認識を細かくパラメータ化して,その値を細かく変化させて描いたと考えると面白い.そして,パラメータの値がが物理世界の閾値を超え得てしまうことがもっと面白い.見えているものが真実だったけれど,描くことは見えていることを超えたパラメータ設定ができる.絵を色の塊とみなして抽象化にいくのではなく,あくまでも物理世界と緊密な関係をもったパラメータの集合とみなすことで具体にとどまりながらも,しばしばパラメータの値が物理世界の閾値を超えてしまって抽象的な表現も生まれていた.晩年や制作の危機に陥ったときには,パラメータは物理世界を振り切ったというか,物理世界が物理世界である輪郭が揺らいだようになっていた.

memo743
ケヴィン・ケリーの『テクニウム』を読む.原題は「テクノロジーは何を望むのか?」で,テクノロジーが望んでいるのが共生しているヒトの進化だとすると,テクノロジーはヒトを上手く利用して,ヒトよりだいぶ先に進化してしまったような気がする.それはまったくネガティブなことではなくて,テクノロジーが進化したのなら,ヒトも進化していくと考えたい.テクノロジーの進化はヒトの認識・感覚を変える.その変化のすべてを考えることは無理だから,モノとディスプレイとの関係から考えていきたい.そして,それをヒトとコンピュータとの共進化という観点からまとめることもしたい.

memo744
恵比寿映像祭でJODIのトークを聞いて,家に帰ってきてからパンフレットでJODIのところを読んでいたら「インターネットやゲームの属性および記号的意味を解体しながら,その抽象性や物質性を顕在化させるような作品制作を展開している」と書かれていて,「インターネットの物質性」と自分でも書いてしまうことがあるけれども,これって何なのだろうか? ということを考える.グリッチなどのエラーのようなものが示す「物質性」とは何か? モノが壊れるときにでる音やヒビの感じで物質性を感じるのと同じことなのだろうか.でも,そこには単にディスプレイでの表示しか無いわけで.その表示しかないものに「物質性」を担わせるような私たちの認識が問われていると思われる.だとすると,近頃のまとめて紹介されている人類学のあたらしい動きのひとつの「パースペクティズム」とか使えるのかな.
多文化主義という観念は,自然の単一性と文化の多元性という相補的な含意───自然の単一性は身体や物質の客観的な普遍性に,文化の多元性は精神や意味に関する主観的な特殊性に保証されている───に基づいている.これとは反対に,アメリカ大陸先住民の概念は,精神の単一性と身体の多元性を措定しているようである.文化,すなわち主観的なものは,普遍性の形相を帯びる.自然,すなわち客観的なものは特殊性の形相を帯びる. 
アメリカ大陸先住民パースペクティズムと多自然主義,エドゥアルド・ヴィヴェイロス・デ・カストロ
コンピュータはヒトと単一の「精神」をもっていて,その「身体」が多様である.物質のほうが特殊だと考えること.ここでの物質はコンピュータの材質とかではなくて,それらの総体としてのコンピュータのハードウェアである.それが特殊であること.客観的なモノと考えていた存在が特殊性を帯びた存在であると考えること.そうすると,データをディスプレイのピクセルで具現化されたものは記号と考えるのではなく,その壊れ方でその「身体」が何であるかを確かめるための特殊性を帯びた物質なのかもしれない.いや,コンピュータで厄介というか,興味深いのは精神を単一のものと考えた方が都合がよくて,さらにその精神が個別の身体にインストール可能ということにある.だから,アメリカ大陸先住民のように考えた方がすっきりするのだけれど,そのパースペクティブがよく掴めないから,その存在がわからなくなっている?

memo745
アイコンから絵文字という流れで考えてみる前に,データの具現化とピクセルとの関係性を考えてみるということをしてみる.ピクセルアウト展を見に行きたかったけど,無理っぽい.絵文字,ピクセル,データの具現化などなど.

モノとディスプレイとの重なり.モノとイメージではなくて,ディスプレイとの重なり.モノであり,ピクセルの支持体であるディスプレイがイメージであり,モノであることを考えていくと,そこから何が見えてくるのかを考えていきたい.ディスプレイというフレームのなかでピクセルを物理的に塗りつぶしてしまうこと.ピクセルを騙すこと.ディスプレイをモノにすること.ヒトの認識をだまくらかすこと.

memo746
画像の透過性とディスプレイの透過がつくる理念的なピクセルが実現するデータの具現化という流れを考えみたときに,どこでモノとディスプレイとが重なるのか.ピクセルが理念的であるとすれば,それはモノ性を捨象したものとしてそこにある.それは筆跡などのモノの痕跡をそこには宿さない.そこにはあるのはgnckが指摘するように「コンピュータの演算性」であるといえる.しかし,ピクセルをその集合を枠付けるディスプレイの一部として見た時には,そのフレームとともにモノ化されるような気がする.しかし,そこでもピクセルそのもののモノ性は捨象されている感じがあるから,ディスプレイのフレームを持ちだしたときに,ディスプレイによってデータが具現化しているといえるかもしれない.

けれど,それはデータの具現化のひとつの方法であって,渡邊恵太が言っているデータの具現化=モノ化とは異なるものであり,モノ化を伴うデータの具現化の前段階として生じていたのがディスプレイのフレーム内のピクセル集合によるデータの具現化と考えるのがいいのかもしれない.



memo747
科学によるガリレイ=コペルニクス的な脱中心化については,かくして次のように言うことができるだろう───数学的に処理可能なものを,思考の相関項に還元することはできない.p.195 
有限性の後で 偶然性の必然性についての試論,カンタン・メイヤスー
デジカメで撮影されたものはデータとして数学的処理可能になる.となると,それはヒトの思考の相関項に還元できない存在としてディスプレイに表示されていると考えることができるであろうか.そう考えると面白い.デジタルな画像の特徴がヒトと相関しないと位置づけると,とても面白い感じがする.

そこではすべてが変化しうる.その世界は,まったくの偶然で,別の世界に変化しうる.ヒト単体では介入できずに,コンピュータとともにあってはじめて現れてくる世界を考えること.

memo748
ポストインターネットというのはもちろん「インターネット以後」のことであるけれども,ピンポイントには「ディスプレイ」を意識した時代として切り出せるのではないだろうか.ここで言うディスプレイとはもちろん,コンピュータやモバイル機器のディスプレイである.そして,そこに映るイメージはコンピュータの演算の結果である.ディスプレイが自然になる前に意識した時代としてポストインターネットを考えてみる.「イメージ」に意識的になったのではなく,コンピュータの演算と結びついたピクセルによってイメージを表示するディスプレイの可能性に意識を向けるようになった.イメージの自由さはディスプレイの自由さから生まれている.LEDの光がゆらめくディスプレイが示すピクセルという理念的な矩形.ディスプレイは物理的な光のゆらめきと整然とした理念的な矩形を同時に示し,さらにそこにイメージを映し出す.ここに表示されているのは何なのか? ディスプレイがどんなものでも映すからこそ,ピクセルが自由に操作できることの意味を考え,その結果をモノへと定着させようとしたのではないだろうか.

memo749
データの具現物としてのモノに向かうのがポストインターネットであるけれど,データからモノへの流れではなく,モノからデータからへの流れもあり,その流れの中間にディスプレイがある.データとモノとのあいだにディスプレイがある.ディスプレイにはイメージが映されていて,そのイメージとデータの具現物としてのモノとの関係を扱ったのがアーティのイメージオブジェクトだと言える.

memo750
モノとディスプレイとが重なりあった「アップデート可能な表皮」として,ディスプレイに意識を向けてみる.ソフトウェアとハードウェアとが交じり合う場としてのディスプレイ.ここをもっと掘り下げたい.ディスプレイとモノとが組み合わされることで「単位」が具現化すること.考えないなしに具現化することの身体性を考える必要がある.考えることはたくさんあるけれど,一挙に考えることはできない.少しづつだけど考えるしかない.

memo751
ディスプレイの内と外.ディスプレイの内にあるピクセルを覗きこむ.ピクセルアウト.外側に持ち出す.ピクセルは理念的であって,そこは今回の考えとはちがうし,レティナになって実質的に理念になってしまった.光の明滅には興味がある.ディスプレイに光の明滅という現象とデジタルの現象との組み合わせのなかにデータの具現化を見ることになると考えてみること.まだはっきりとしない.はっきりとしないけれど,書き続けることで大きな枠組が見えてくるようなはったりをかます枠組みを提示しないといけない.

memo752
データは「ディスプレイの光の明滅」として現れる.このことを考える必要がある.コンピュータのよる演算の結果は,ディスプレイの光の明滅として物理現象化されて,それはピクセルという単位で処理さているデータにもっとも近い物理現象として現れる.もちろん,演算処理も物理現象を利用したものであるが,それをヒトは見ることができない.あるいは,ヒトに見せることを前提としていない.

memo753
The Perils of Post-Internet Art - Magazine - Art in America
http://www.artinamericamagazine.com/news-features/magazine/the-perils-of-post-internet-art/

Post-Internet art is about creating objects that look good online: photographed under bright lights in the gallery’s purifying white cube (a double for the white field of the browser window that supports the documentation), filtered for high contrast and colors that pop.

ポストインターネット・アートはオンラインでよく見えるオブジェクトをつくることである.オブジェクトはギャラリーの真っ白な空間(記録画像を載せるブラウザの真っ白い領域と重なる)のなかで明るい光のもとで撮影され,眼に飛び込んでくるような高いコントラストと色合いになるようなフィルターがかけられる.
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The Post-Internet art object looks good in a browser just as laundry detergent looks good in a commercial. Detergent isn’t as stunning at a laundromat, and neither does Post-Internet art shine in the gallery. It’s boring to be around. It’s not really sculpture. It doesn’t activate space. It’s often frontal, designed to preen for the camera’s lens. It’s an assemblage of some sort, and there’s little excitement in the way objects are placed together, and nothing is well made except for the mass-market products in it. It’s the art of a cargo cult, made in awe at the way brands thrive in networks.

ポストインターネット・アートは洗濯洗剤がコマーシャルでよく見えるようにブラウザのなかでよく見える.洗濯洗剤がコインランドリーでは魅力的ではないように,ポストインターネット・アートもギャラリーでは輝いていない.作品のまわりを周りながら観るのは退屈である.それは実のところ彫刻ではない.空間を活性化しない.ポストインターネット・アートの作品はしばしば正面がカメラのレンズに向けて整えられている.それはいくつかのモノの寄せ集めであり,ほとんど刺激ない感じで一緒に置かれたモノであり,大量生産品を除いていてはうまくつくられたものはない.それはカーゴカルトのアートであり,ネットワークのなか驚くべき方法で成長するブランドとして制作されている.

memo754
No Internet, No Art  A Lunch Bytes Anthology, Edited by Melanie Bühler  
1 Introduction, Melanie Bühler  

Post-Internet, at the time, was a term meant to emphasise the increased flexibility and malleability that new media technologies had introduced to the process of artistic production, which moved between digital and physical formats ever more smoothly. It was the implicit tension between “new media” and “post-internet” that initially triggered the concept for Lunch Bytes. p.10

その時点で,ポストインターネットという言葉はニューメディア技術が作品制作に導入した柔軟性と可変性の増大を強調しようとしていて,デジタルとフィジカルというふたつのフォーマットのあいだをこれまでになく滑らかに移行していた.それはん「ニューメディア」と「ポストインターネット」とのあいだの暗黙の緊張関係であり,Lunch Bytesのコンセプトを考える最初のきっかけになった.p.10


memo755
ライプニッツのこの主張を,数学的な理屈がもっとわかるように言い換えると,次のようになろう.モナドの任意の状態を二つ,前に来る[x]と後に来る[y]をとるとしよう.そうすると,二つの間に必ず別の状態[z]がなければならない.それだけでなく,[x]と[z]の間にもまた別の状態が入り,とつねに間が埋まっていくのである.したがって,どんな状態の間にも隙間がない.これが「連続性の原理」が要求する性質にほかならない.そこで,このような状態の連続体を「長さ」という量を持つ連続体,つまり「時間の長さ」に変換するときは,[x]から[z]に移るまでの現象界での時間の長さは,[x]から[z]も移るまでの長さより大きくなるようにメトリックを与えなければならない.それによって,「状態遷移」と「時間の経過」の間に,少なくとも「部分的な同型性」が確保できる.(p.132)   
ライプニッツの情報物理学 実体と現象をコードでつなぐ,内井惣七  

時間がない「状態遷移」と「時間の経過」を結びつける.これはライプニッツの問題ではなくて,コンピュータで表現することの問題につながるものだと思う.そして,ここで使われている「メトリック=測定基準」という単語がいいな.コンピュータ用語だとネットワークの最短経路のような意味らしい.「状態遷移」という言葉をこれまでしばしば使ってけど,そこに時間がないということをいまいち実感できなかったけど,内井惣七さんのライプニッツ論で書かれていることで納得できた感じがした.

コンピュータ内部は状態遷移で動いていて,ディスプレイも状態遷移だとすると,そこまでモナドの世界なのか? ディスプレイはヒトの知覚と接するところだけれども「目に見えるモナド」なんて表現は難しいだろう.ヒトがディスプレイに見ているものは何なのだろう.コンピュータ内の状態遷移がディスプレイに伝えられ,ディスプレイのピクセルが状態遷移する.ヒトがそれを見る.ディスプレイはモナドの集まりだと言ってしまえ!

memo756
時里充 / 見た目カウント
ディスプレイの状態遷移をカウントする.カウンターの数は時間を示すものではなく,状態遷移した回数を示す.状態が変わればいいので,ディスプレイには何が映っていてもいい.映っているものに意味を見出すのはヒトでしかない.カウントに意味をつけるのもヒトの勝手なデコードでしかない.青いスクリーンには時間は全くなく,じゃんけんはランダム再生ならほぼ時間はない.卓球にはある程度の時間がある.卓球の気持ちよさは,映像との同期ではなく,それなら全て同期している,映像のなかの物理現象をカウントしているから気持ちいい.じゃんけんは指の数を数えているというところに,認識のワンクッションがある.青いスクリーンには,状態遷移しかない.意味がない?

memo757
井藤雄一/INTERSTUDY in N-mark
物理空間の物理現象の計算を重なり合ったふたつのグリッチの映像に重ね合わせる.映像の手前にある物理空間で起こる光とモノ=ヒトとの干渉で起こる影という現象を映像に重ねる.ふたつの映像がふたつの光源から投影されていることから,影とふたつの映像が重なり合う.影が再背面に行くことはないけれど,普段は最前面に配置されている影の上に映像が配置されるということが起こる.投影面の壁から引き離されて,背面の映像が影が配置される.いや,影と映像とが同じ面に置かれる.影が映像を遮るものではなくなる.影の上に配置された映像も同じ面に配置されたかのように影を融かす.影が融けるという認識をしてしまうほど,ヒトの影に関する認識の感度は高い.この辺りは,エキソニモの作品と合わせて考えたい.井藤くんの反射光に対して,エキソニモの透過光という対比.

memo758
Freeportism as Style and Ideology: Post-Internet and Speculative Realism, Part I
http://www.e-flux.com/journal/freeportism-as-style-and-ideology-part-i-post-internet-and-speculative-realism/

Many post-internet artists have applied this kind of dual strategy by closely interlinking web-based resources with material production. The resulting artworks possess a double existence, as material objects and as information. The object is hosted in the gallery—or for that matter in a wooden transport box—while the images are hosted on social media and websites like vvork.com and Contemporary Art Daily. Many more people get to see the images of the artworks than the objects.

多くのポストインターネット・アーティストは,物質的制作物とウェブのリソースを密接に結びつける二重の戦略を取っている.結果として生じる作品は,物質的オブジェクトとして,そして,情報としての性質をもつ二重の存在である.画像がソーシャルメディアや vvork.com,Contemporary Art Daily といったウェブサイトに提供される一方で,オブジェクトはギャラリーに提供されている.もしくは,木製の運搬ボックスに入られたモノがある.多くの人が見るのはオブジェクトではなく,作品の画像である.

>データの具現化という側面だけでなく,作品がデータとして上げられることが前提であり,データとモノとのサイクルを強く意識していているのがポストインターネットであり,そこではディスプレイというひとつの視点から見られることが強く押し出される.

memo759
Screens, Surfaces, and Networks: Art in the Digital Age, Sarah Williams

Now artists are not so much critiquing the structure of the web, but utilising its resource to consumed across multiple platforms. There is an interesting incongruity happening to the art object in this situation. In her Approximation series (ongoing), artist Katja Novitskova utilises images and material sourced from the Internet and translates them into physical objects. These three-dimensional stock images depicting nature (for example - a toucan, tree, and foliage) are presented in the same position as if viewed on a computer screen; flattened and from one vantage point. The image stops at the surface; the sides and reverse only show the edges of the constructed support. The digital object is removed from its context and becomes de-familiarised, creating a tension between online and offline territories. These sculptures are re-photographed and then circulated online as new images. In this sense, their materiality shifts between digital and physical forms, not just through their production but also through their status and strangeness as objects.  p.154

現在のアーティストはウェブの構造についてあまり批判することをせずに,複数のプラットフォームで消費するためにウェブのリソースを利用している.この状況において,ウェブとアートオブジェクトとのあいだに興味深い不一致がある.《Approximation》シリーズでKatja Novitskovaは,インターネットから入手した画像や素材を物質的なオブジェクトへと変換している.自然を(例えば,オオハシ,木,葉)描写しているこれらの3次元のストックフォトは,まるでコンピュータのスクリーンで見ているのと同じような位置に置かれれる.それらは平坦化され,ひとつの地点から見ることになる.画像は表面にととどまっていて,側面や背面は画像を支える構造的支えの縁が見えるだけである.デジタルオブジェクトは文脈から離れ,慣れない感じになり,オンラインとオフラインとのあいだにひとつの緊張をつくる.これらの彫刻は再び撮影されて,あたらしい画像としてオンラインを流通していく.この意味で,それはその制作物を介してだけでなく,それらのオブジェクトとしての状況や奇妙さを通して,それらの物質性はデジタルとフィジカルの形態のあいだを移行していくのである.

memo760
クレア・ビショップ(Claire Bishop)は,2012年にArtfroum に発表した「The Digital Divide」で,現在ではほとんどのアーティストが何かしらのかたちでインターネットやデジタル技術を使って作品制作を行っているにも関わらず,コンテンポラリーアートでそれらに存在が無視されていると指摘した.その理由としてビショップは,インターネットやデジタルを用いた作品はイメージを基盤とせずにコード=文字を基盤にしているということを挙げる.けれど,ポストインターネットのアーティストたちはディスプレイを視覚的メディウムとして選択することで,言語的モデルとしてのデジタルをイメージモデルとして扱うことにしたのである.その際に,デジタルが他のメディウムと同様に物理世界からの影響を受けることが重要だったのである.

memo761
スクリーンの前にあるiPadと,そのイメージの奥にある投影されたイメージ,この2つの交錯する関係のなかで,「距離」と向き合うとき,単なるスケールの差ではない,観察/記録といった眼差しが浮かび上がってくる.“イメージの奥行きとは何か”を探っていきたい. 
青柳菜摘,だつお

「わたしが彼女を見た瞬間、彼女はわたしを見た」展の記録誌にあったこのテキストが気になる.iPadがiPadとして認識されつつ,そこにはイメージがあって,「イメージ」と記述されるときはiPadは消えている.iPadがディスプレイというイメージの支持体であり,それゆえに影をつくるモノでありながら,イメージという記述ではそれらが全て消されるような感じを示す言葉使いを考えたい.そこで起こっていることを記そうとしたときに消えるiPadという存在は何なのか?

memo762
メッセージにGUIのアイコン体験が入り込むことと絵文字との関係性を考えるといいのかもしれない.GUIではもう対処できない速さがもとめられている?>「速さと見た目を重視する21世紀のコミュニケーションに,従来のアルファベット文字が付いていけなくなっている様子が見て取れる」

アルファベット文字がコミュニケーションの速さについていけない結果として,絵文字が使われていると考えると,フルッサーの画像の旋回性が絵文字では失われていることになるのか.それともリニアのなかに旋回性が組み込まれることによって,変化が起こっているのか?>たかくらさんの「SNSの登場によってコミュニケーションがより視覚的かつ瞬間的なものに変化し,非言語化していく現代において,絵文字は,言事と画像,どちらの機能も兼ね備えた視覚情報のシンボルとなった」と,フルッサーを合わせて考えるべきだろう.

「瞬間的な旋回性」とも言うべきが求められているのかもしれない.

memo763
千房さんの「デザイン・サイコメトリー」で絵文字が取り上げられていて,そこに出てくる言葉が「反射神経的」と「身体性」.圧倒的な情報量の伝達に「反射神経的」に対応する絵文字.絵文字でインターネット上のテキストが「飛び跳ねたり」する身体性を手に入れた.テキストがもっていた「筆跡」のような身体性をすっかり削りとったと思われていたインターネット上のテキストに身体性が帰ってきたのかもしれない.身体性をそぎ落として,情報を流通させていたけれど,それはそれで正確でいいけど,もっとアバウトに多くの情報を伝えたくて画像のコミュニケーションがうまれて,それがテキストそのもののなかに入り込んできたといえるかな.絵文字単体で考えるよりも,Instagramと合わせて考える必要があるのかもしれないし,それならTumblrはどうなるんだろう.Tumblrは画像単体だけれど,Instagramは画像を前提とした文字のコミュニケーションでもあるから,そこに絵文字が入り込みやすかったのかもしれない.  

いや,身体性が帰ってきたというよりは,画像コミュケーションがはじめて成立して,そこにあらたな身体性が立ちがっているといった方がいいのかもしれない.「あらたな」と書いたけど,その「あらたな」は何を指すのか? これが分かればテキストが書けるのかもしれない.

memo764
絵文字によって時間を曲げて円環状にしようとする力が働くと同時に,その時間をテキストの線形性が引き延ばそうとする力も働く.ジェットコースターの宙返りのように意味がクルッと回って,あっと言う間に過ぎ去っていく.

と,言うような絵文字に関すツイートしたけれど,この大元はフルッサーのテクノ画像です.画像からテクスト,そして,テクノ画像.さらに,絵文字? というと大袈裟な感じだけれど,フルッサーが考えることができなかったテキストとテクノ画像の融合というか,テクノ画像自体がテクストに組み込まれて,テクストの意味を変えていくというようなことが起こっている.テクストのなかに絵文字がはるとそれはまさにジェットコースター🚝🚝🚝のように意味をクルッと回転させるようなアクロバティックな感じがある.絵文字で意味が旋回しながらも,テキストで意味を前進させるような感じ.

絵文字はテキストフィールドから外に出さないで考えた方がいい.テキストフィールドからでたらアイコンだし,記号でしかない.でも,そこにもテキストの線状性が作用していて,意味をドライブさせているかもしれないけれど,テキストフィールドからできると意味が旋回して先に進まない.

テキストフィールドのなかでの身体性,ボディランゲージとしての絵文字というのは,もう言われているから,そこに何が付け足せるかということだと思う.

ディスプレイとのインタラクションで自動化した行為のなかに絵文字が現れて,身体的反応を引き起こしつつ,感情をピックアップしていく.これは絵文字のなかでも顔文字に関係する部分.というか,知覚と行為とが半分ディスプレイのなかに入っているとすれば,ディスプレイでテキストフィールドに絵文字が入り込んできたことは大きな変化といえる.知覚と行為に絵文字が入り込んできたというのと,もともと絵文字があったというのは大きなちがい.これも千房さんがすでに書いている.

ヒトの感情をわかりやすくコンピュータに示す記号として絵文字を捉えてみてもいいかもしれないけど,陰謀論っぽいなと.

絵文字を入力するときに起こる流れの断絶というか,テキストを入力していて,その流れのなかで絵文字を使おうとして絵文字ビューアを表示させて,絵文字を😐😐😐入力する時におきる流れの変化.このときの感じを突き詰めていくと.読んでいるときは身体性を感じる絵文字🤗に対して,少しちがうアプローチができるかもしれない.絵文字の入力はピックアップするという感じであって,テキストの流れが一度止める.でも,「止める」というネガティブな言葉がいいのだおうか.感情をピックアップするとか,テキストをデコるという感覚があって,それは今までは異なる行為であり,知覚をもたらすのではないかということを考えてみたい.

memo765
渡邉は誰もが一度は体験したことあるであろうポケットのなかで複雑に折りたたまれたレシートを解析して,誰もが折れるように折図をつくる.そして,その折図に基づいて,渡邉は同じ長さの複数のレシートを同じ手順で折っていく.そうして,かつて渡邉のポケットからこぼれ落ちたレシートと同じように折られたレシートが複数できあがる.レシートに記載されている購入品や金額はそれぞれ異なっている.同じように折られていても,あるレシートは¥890であり,その隣は¥610,さらに隣は¥150となっていて,その金額が作品の値段になっている.渡邉が商品を購入するために支払った金額,その証明としてレシートがあるのだけれど,折るという行為にはこの金額の情報は必要なく,物理的に長さが折図と同じことが求められる.レシートに記載された金額の大小関係なく,同じ長さという物理的条件で選ばれたレシートが同じように折られて,並べられている.だが,展示された作品が売買される際には,レシートに記載された金額が作品の値段となる.渡邉が支払ったお金の証明として存在するレシートを,渡邉と同額の値段を出して購入することになる.しかし,その際にレシートにはかつて存在した渡邉のポケットで折られたレシートから抽出された情報を具現化する折りが与えられているので,かつての渡邉のレシートよりも情報量が多いレシートを同額の値段に購入することになる.とはいっても,それは折られたレシートでしかない.¥890を支払って渡邉が購入したものではなく,それを証明する紙に¥890を支払うことになる.

memo766
近頃,memoも書けないほど忙しいというわけではないのだけれど,授業準備で精一杯というのはある.授業準備からmemoを書けばいいのだけれど,どうも気分がちがうらしい.無理矢理でもmemoを書き続けるためにタイトルにナンバリングしているのにこれではいけないと思いつつ.書けないでいる.こうやって書いていると何か思い浮かぶかなと思ってmemoを書くということを何度もやっているのだけれど,今回は思い浮かばなかった.インプットが足りてないんだろうな.

memo767
Pixel, Graham Harwood  

Quantization, converting the amplitude of the signal from a continuous and infinite range of values to a finite set of discrete values, can be thought of as setting the bit-depth of the picture, establishing subtle or visibly discontinuous gradations of light. Pixels can be square, hexagonal, rectangular, or irregularly shaped, but given that each pixel has boundaries they require a process by which the world is chopped up into chunks that conform to those boundaries and is still visually meaningful.  p.215

量子化は,離散値の有限集合に値の連続と無限の範囲からの信号の振幅を変換し,光の微妙なまたは目に見える不連続な階調を確立し,画像のビット深度を設定すると考えることができる.ピクセルは,正方形,六角形,長方形,または不規則な形になることができる.各ピクセルは境界を与えられるけれど,その境界は世界がそれらの境界に沿った塊に区切られることと視覚的に意味をもつ処理を必要とする.

memo768
エキソニモの作品《Body Paint (series)》は,ディスプレイの光を塗りつぶしてしまってヒトの認識のバグを引き起こす.Houxo Queのディスプレイに直接ペイントする作品は,エキソニモとは異なりディスプレイが光そのものであることを示すかのように明滅している.この並びのなかにアーティ・ヴィアカントの《Image Objects》を入れてみる.ディスプレイ自体の光ではなくて,その光から生じるディスプレイ空間だからこそ生じる質感をつくりだしているように見える.ディスプレイのフレーム内で操作された画像であり,全てが光なんだけれども,平面に別の平面が重ねてしまうことから起こる認識のバグがある.

memo769
連載の次のテキストのアイデアを書き始めないとマズイ.光を見る.プラトンに遡ることなく,光を見る.高速に明滅する光を見続ける.そんな体験から引き起こされる認識のバグとそこから生まれる認識のアップデート.そんなことを考えたい.どんなサポートが必要だろうか.そこから考えるけれど,手元にはディビッド・ボームの著作がある.全然,今っぽくないけれど,とても惹かれている.まずは読もう.再読しよう.そこから始めてみよう.あとは,内井惣七『ライプニッツの情報物理学 実体と現象をコードでつなぐ』からもヒントを得たいな.

memo770
光,モノ,データと明確に分けて考えすぎていたのではないだろうか.それがそこに見えても見えなくても,それはそこにひとつの総体として,ヒトと相補的な存在として,そこにある.総体のひとつの見え方が光であり,モノであり,データなのである.そして,この総体としての光にヒトの意識は導かれる.

memo771
「現実の運動は,事物の変移というよりは,状態の変移である」という節のタイトルの意味を考える.事物=個物ではなく,全体として考えること.ピクセルでもなく,RGBの光でもなく,単に光と考える.光の状態遷移装置として、ディスプレイを考える.そして,その状態は光だけにとどまらず,光を受け止めるヒトにも影響する.光の状態とヒトの状態は相補的であり,ひとつの総体としてある.光とヒトは相補的に状態を遷移させている.

memo772
光が絵具を透過している部分もあれば,絵具が光を遮断している部分もある.光の滲みが絵具の際に現れ,絵具の際が光を滲ませる.絵具はディスプレイのガラスに張り付いている.その際が滲んでいる.ピクセルのラインを堰き止めるように絵具がモノとして覆いかぶさっている.光る平面に絵具が浮いている.実際は浮いていないけれど,浮いているように見える.断絶ではなく,モノが浮遊がしている.光の面とモノの面とが断絶しているのではなく,それらは重なっている.いや,重なっているという接地面を持つ感じがするので,「浮遊」しているという言葉の方がしっくりくる.モノが光平面のなかで浮いている.けれど,それはあくまでも浮遊しているように感じられるだけであって,拡大してみれば絵具は確かにディスプレイのガラス面に張り付いている.ただ,ディスプレイのガラス面とディスプレイの光とは別の平面になる.なので,絵具はディスプレイのガラス面に接地しているけれど,光の面から浮遊していると言えるだろう.

memo773
But what must be emphasized is not only that matter is identical to the image, to the perpetual variation of images, but that it is also identical to time. Pure perception is thus defined by a series of equivalences: image = movement = light = matter = time. From this series of equivalences there will emerge remarkable points (bodies) which, through the intervals that define them, constitute sensation via material and spiritual syntheses. 

Machines to Crystallize Time: Bergson, Theory Culture Society 2007; 24; 93, Maurizio Lazzarato
http://www.generation-online.org/p/fp_lazzarato5.htm

しかし,強調しなければならないことは,モノはイメージや,イメージの絶え間ないバリエーションとのみ同一なのではなく,モノは時間とも同一なのである.したがって,純粋知覚は,イメージ=運動=光=モノ=時間という一連の等価物として定義される.この一連の等価物からみると,  それらを明確にする間隔を通して,物質的・精神的な合成を経由した感覚を構成する注目すべきポイント(身体)があらわれるだろう.

memo774
なぜ今ベルクソンか? 彼は身体を身体を未決定領域と呼んだ.それが光る平面と呼応しているように思えるからである.また,ベルクソンはモノも含めた全てをイメージとする考える.この考えは現在の情報がインフラになっている社会にいちばい近い構造を示しているような感じがしている.

memo775
光る板の光をモノで遮ると,そこに重なりが生まれる.それは画像の支持体の支持体としてのディスプレイを絵具の支持体として使うことを意味する.しかし,「支持体」が入れ子構造になっているわけではない.なぜなら,画像の支持体の支持体としてのディスプレイまでは通常の使い方であり,絵具の支持体としてディスプレイを使うのはイレギュラーな使い方で,そのあいだには断絶/転回があるからである.けれど,画像の支持体の支持体というところで,ディスプレイはモノとなっているから,その延長として絵具の支持体になれるとも考えられる.
「画像の支持体の支持体としてのディスプレイ/絵具の支持体としてのディスプレイ」の「/」の部分は完全には重ならない.ズレて重なるからこそ,その重なりには境界がうまれる.重なりのズレから生じる境界が認識のバグを引き起こす.具体的には光とモノとの重なりを同時に見つつ,その境界が強調されて,光とモノとが別の存在だと認識しつつも,なぜか同じように見てしまうことがバグなのである.

memo776
アニミズム的世界になったときに,ディスプレイの存在はどうなっているのだろうか.ロボットやモノに人工知能が搭載されて自律して動く存在なったときに,今まで人工知能が表示されていたディスプレイはどうなるのだろうか.音声認識のSiriに見られるようにもともと人工知能はディスプレイを必要としない.今はたまたまディスプレイに表示されているだけで,それは視覚的インターフェイスがこれまで優勢だったにすぎないのかもしれない.だとしたら,アニミズム的世界ではインターフェイスとして優勢であった視覚的ディスプレイがヒトと同じように特別視されないようになっていくということかもしれない.だから,モノとディスプレイとが重なっていくのかもしれない.モノのディスプレイ行為がおこる.もともとディスプレイはモノと重なっていたけれど,それが強く意識されるようになる?

memo777
Alexander R. Gallowayの「Jodi’s Infrastructure」で,Jodiに対して言われていた「インフラストラクチャー・モダニスト」という言葉は「ディスプレイ・モダニスト」に応用できるかもしれない.画像の支持体の支持体としてのディスプレイ自体をあらたな支持体として追求していくのがHouxo Que,Evan Roth,エキソニモ,谷口暁彦の最近の作品と言えるのかもしれない.
画像の支持体の支持体としてのディスプレイ自体を支持体として考える方向とは逆のベクトルにアーティ・ヴィアカントのImage ObjectsやJan Robert Leegte,Joe Hamiltonの平面の重なりがある気がする.画像の支持体の支持体としてのソフトウェアやウェブサービスを考えているのが,こちらのグループかもしれない.

memo778
Alexander R. Galloway, Jodi’s Infrastructure
Where does the artist duo Jodi (or Jodi.org) stand in all of this? The answer seems clear enough. They are moderns through and through. There is no Jodi work that is not oriented toward the digital as its object and material. There is no Jodi work that is not on and about the material. They display in abundance that great modernist virtue of self-referentiality. The material of their work is quite simply the material itself.

アーティストデュオJodi(Jodi.org)は,このなかのどこの立場なのだろうか.その答えは明らかである.彼らは徹頭徹尾,モダンである.Jodiの作品でその対象及びマテリアルとしてデジタルを扱っていない作品はない.Jodiの作品でマテリアルについて使わない作品はない.彼らの作品は自己言及性という有名なモダニズムの特性を多分に示している.作品のマテリアルはまさにマテリアルそのものなのである.

In the end, I suspect that Jodi are more interested in the web than Unicode, more interested in the structure of infinity than the classification of universality. The glyphs are adjunct here, a needed ingredient perhaps, but only necessary to facilitate animation and pattern. The true subject of the work is infrastructure—the cables and lines, the standards and protocols, all the industrial transfer technologies that reside in the space beyond the screen.

最終的に,JodiはUnicodeよりもウェブにより興味があり,普遍性の範疇よりも無限の構造に興味があるのだろうと考えられる.文字はここでは付属品に過ぎず,それはアニメーションやパターンをやりやすくための材料として必要であったにすぎない.作品の本当の主題はケーブルやライン,標準化やプロトコルといったインフラストラクチャーにあり,それらのすべてはスクリーンの向こう側にある工業的な伝送技術なのである.

Net art was always something of an orphan, but a particularly interesting orphan. Shunned by the art world during its formative years, net art never quite fit into the master narratives of art, or technology for that matter. Jodi’s infrastructural modernism, if we can call it that, is interesting because it suspends the distinction between art and technology without making one subservient to the other. Jodi are artists who insist on the importance of seemingly uninteresting technical minutiae, such as character-encoding schemes and other tedious matters. And they are technologists who insist that the beauty of code comes not from function and elegance but from a different set of virtues—dysfunction and inelegance to be sure, but also confusion and excitement, violence and energy. The result is not so much a mechanization of art, nor that clumsy concept “the art of the machine,” but a much more simple and mundane reality: the computer as medium.

ネットアートはいつもどこか孤児であったけれど,それは興味深い孤児であった.形成期のあいだネットアートがアートワールドから忌避されていたのは,ネットアートがアートの物語にフィットしなかったからであり,そういうことならテクノロジーの物語にもフィットしなかった.そのような状況のなかで,Jodiのインフラストラクチャー的モダニズムは,もしそう呼べるのであれば,興味深いものである.なぜなら,インフラストラクチャー的モダニズムはアートとテクノロジーを互いを従属させることなく,その相違を宙吊りにするからである.Jodiは文字のエンコード方法やその他の退屈な物事のような興味をひかない技術的な細かい点にみえるものの重要性を主張するアーティストである.Jodiは機能や明晰さではなく,機能障害と粗野であることはもちろん,混乱,刺激,暴力,勢い的な観点からコードの美しさを主張する技術者である.その結果として表れるのは,アートの機械化や「機械のアート」といった扱いにくいコンセプトではなく,「メディウムとしてのコンピュータ」という,もっとシンプルで日常的なリアリティである.

memo779
《Body Paint - 46inch/Male/White》にはホラー的な恐怖があるけれど,《Heavy Body Paint》にはホラーではなくコミカルな感じがある.しかし,じっと見ていると,ビンを動かしている撮影者の手ブレがビンそのものの動きへと変換されるようなポイントが生じる.ビンそのものが動くとしても,そこには生々しさはない.私たちはビンというモノが動くことに生々しさを感じない.しかし,ディスプレイに塗られたモノと光との関係が,そこに生々しさを感じないまでも,何かこれまでとは異なる出来事が生じていることを知覚させる.光を遮断するモノと光そのものとの複合的な知覚に,ヒトは混乱する.それがバグをつくりだす.それはモノと光の複合でなくてもいいのかもしれない.ひとつの平面だと思っていたものに,別の平面をつくりだすとヒトは混乱するのかもしれない.知覚の最前面にあったディスプレイのガラス面を,支持体というモノとして使うことで,そこにあらたな機能をもった平面を見出してしまった瞬間に,ヒトの知覚は揺らぎ,これまでにないような認識が生じる.そこには光とモノとの関係が大いに影響するにしても,どこを平面とみなすか,どこを支持体的な平面とみなすかということが大きいのである.エキソニモはディスプレイのガラス面を完全に支持体としてみなした.Queをそこを支持体として見だした.この二者のちがいは,その支持体へのアプローチである.エキソニモは完全に塗りつぶし,絵具であらたな平面をつくったのに対して,Queは絵具を塗ることで,そこに明滅する光を透過するガラス面というモノのうえにあらたな浮遊する平面があることを示した.  

memo780
平面と立体とのちがいはモノのふたつの見え方である.モノとディスプレイとの重なりに生じているは,モノのふたつの見え方ではなく,モノと光とのちがいである.その見え方のちがいを強調するのがデータである.

3次元的イリュージョンのあるなしではなく,モノのイリュージョンのあるなしが光とモノとのあいだ,ディスプレイび表面の手前,表面の上にあることが明らかになる.光はモノのように見えるが,そして次にはそれは同じくすぐに,光は光となって,光の表面の上にモノが定着する平面をつくる.あるいは,光は自らの上にあるモノのうえに自らを示すようなあらたな平面をつくる.

光はモノのように見えるが,モノが光に見えることはない.ここにモノと光との非対称性を見ることができる.その非対称性において,光とモノとの重なりは奥行および浮彫のイリュージョンを生み出し,モノから自ら以外の全てのものを切り離し,そして次にはそれは同じくすぐに,光があらたな表面の上で実体を失った属性,奪い上げられた特性を表現するようになる.
光はガラスを透過し,そこに浮遊する平面をつくり,実体をもたず,特性も失くしたモノをそこに表示する.だからこそ,そのモノを浮いたように見える.

memo781
須賀悠介の割れたディスプレイを木彫で表現した作品《Empty window》を見て,最初に気になったのは,スマートフォンの前面のディスプレイ以外の部分,iPhoneで言えばホームボタンやフロントカメラなどは排除されていることであった.確かに,ホームボタンなどのところはディスプレイではないから,当たり前である.しかし,「ディスプレイが割れた」という言うとき,実際に割れているのはスマートフォンの保護ガラスであって,それはホームボタンやフロントカメラの周囲を覆っている.だから,「割れたディスプレイ」というとスマートフォンの前面の保護ガラスが割れるのであって,ディスプレイが割れるということはないのではないか.保護ガラスが割れるだけだから,ディスプレイは機能している.しかし,ヒトは保護ガラスの割れをディスプレイの割れと思う.恐らく,須賀はこのような問題を回避するために,ディスプレイ部分のヒビのみを彫ることにしたのだろう.そうすることによって,ヒビはよりディスプレイに密着する.保護ガラスはディスプレイの一部になる.ディスプレイの上に位置して,スマートフォン前面全体を覆っていたものが,ディスプレイの一部となる.これは保護ガラスが割れたディスプレイを操作している時にも感じる.ヒビによる凹凸によって,普段は意識しないガラスの存在が顕わになる.ディスプレイは画像表示装置でありながら,割れることで,ひとつのモノとして強く存在するようになる.だからこそ,それは木彫として表現することできる.

memo782
鈴木貴之『ぼくらが原子の集まりなら、なぜ痛みや悲しみを感じるのだろう』
誤った経験が起こることが起こること自体も,ミニマルな表象理論からの当然の帰結だ.知覚システムが正常なときには,いあゆる赤いものだけが赤く見える.しかし,たとえば,緑のものをしばらく見つめたあとには,知覚システムが正常な状態ではなくなり,通常は白の表象状態を引き起こす対象が,赤の表象状態を引き起こす.生物の知覚システムが進化の産物であることを考えれば,このような事態が生じることに不思議はない.標準的でない環境でも正しい知覚を生みだすためには,複雑な知覚システムが必要であり,それには多大なコストがかかるからだ.生物に利用できる認知的な資源が有限であることを考えれば,絶対に間違えることのない知覚システムを身につけることは,よい戦略ではない.それゆえ,生物の知覚システムにおいては,標準的でない状況では,ある表象状態を生じさせるべき対象が別の表象状態を生じさせることになるのだ.[110] p.180
[110]モハン・マッセン(Matthen 1998)は,認知的な資源が有限であることが原因で生じる誤知覚を,正常な誤知覚(normal misperception)と呼んでいる.正常な誤知覚は,その名が示すとおり,有限な生物において不可避の現象だ.p.256
エキソニモの「Body Paint」を考えるためにもつかえるし,メディア論の身体の拡張にも使えるかもしれない.テクノロジーの変化によって,これまで標準的とされた環境が変化したときに,別の表象が生み出されていき,「正しい」とされていた知覚が揺らいでいく.それでも知覚システムはできるだけ「正しく」あろうとするので,認識の揺らぎはバグとして判断されて,そのバグを見ない方へと注意が向けられる.

memo783
「見る」ことの集積として写真・画像があった.それは複製することはできても,3Dモデルに貼り付けられたテクスチャーのように互いに貫入することはなかった.写真や画像はレイヤーのように重なることはあった,けれど,テクスチャーのように貫入することはなかった.3Dモデルに貼り付けられた「見る」こと=テクスチャーでは,写真や画像が前提としてきた平面の概念が更新されている感じがあるのではないかのではないか.

3Dモデルに貼られたテクスチャーが「見る」ことの集積だと考えると,アバター同士やオブジェクトが「衝突」した際にあらわれるテクスチャーの「穴」,もしくは,消去されるテクスチャーは何を示しているのであろうか.過去に「見る」ことが,現時点のコンピュータの演算によって消去されて,「穴」のようなものとして示される.その「穴」は何なのか? テクスチャーは記憶や見ることの集積としてあったけれど,「穴」は演算の結果として示されるのかもしれない.

マテリアルがそれ自体を示すのではなく,マテリアル同士の関係性を示すものであるとすれば,アバターとオブジェクトの「衝突」「貫入」という出来事が起きた際に,その表面=テクスチャーの関係性が変化する.そのときにテクスチャー=マテリアルの性質が顕わになる.それは「見る」ことの変化であり,「記憶」の変化にもつながっているのではないだろうか.
それは,今では当たり前のことを確認することにつながるだろう.「見る」ことにも,「記憶」することにも,コンピュータが関わっており,その計算から生み出される表象が「見る」ことと「記憶」のあり方を更新している.ただ,ヒトの認識はコンピュータによる見ると記憶の更新に追いつかずに,その表象を単なるバグとして処理してしまう.しかし,「バグ」と見なされるものにこそ,これからのヒトの認識のあり方が示されているのである.

memo784
On Digital Materiality – an essay, Jan Robert Leegte
http://carrollfletcheronscreen.com/2016/07/31/jan-robert-leegte/

This switching of spaces, from the ‘back’, the textual instruction or invocation, to the ‘front’, the execution or manifestation of this text (code) as a website was key in my experience of the spatial character of browser-based working.  

テキストの指示,もしくは,祈りという「背面」から,ウェブサイトとしてテキスト(コード)の実行,もしくは,現われという「前面」へ.このふたつの空間の切り替えは,ブラウザベースの作品の空間的特徴に関しての私の経験で重要なものであった.

memo785
INTERVIEW: VICTOR MORALES
http://www.gamevideoart.org/news/2016/7/3/interview-victor-morales

GVA: Digital games often create parallel, alternative experiences for its users. How do you relate to the complex relation between reality and simulation? How do you address this tension through your work?

Victor Morales: A simulation is also a reality, a limited one but still a reality… To simulate something to make it real. While photography and film “capture” a reality, simulations deploy and project a reality. This is crucial in my work because instead of storyboarding a piece, I normally create a simulation that gives me unpredictable results, thus showing me a reality that I did not know it existed.

Victor Morales: シミュレーションもまたリアリティである.それは限定されたものだけれど,それでもリアリティである… リアルにするために何かをシミュレートすること.写真と映画はリアリティを「キャプチャ」するけれど,シミュレーションはリアリティを展開し,投影する.このことは私の作品にとっては極めて重大なことである.なぜなら,物語る作品をつくるかわり,私はたいてい予期せぬ結果をもたらすシミュレーションを制作するからである.それゆえに,シミュレーションはそんなものが存在するとは考えもしなかったリアリティを私に示すのである.

GVA: How do video game aesthetics affect the overall impact of your work? What comes first, the concept or the medium?

Victor Morales: Video game aesthetics are a blessing and a curse. The mainstream arts tend to dismiss these aesthetics. But it is ok, I believe that eventually, video game engines will open new possibilities that neither film, painting, sculpture nor any of the “established” arts have even thought it existed. The medium and the concept will come simultaneously, like a quantum process. For now in my process, the medium comes first. 

Victor Morales: ビデオゲーム美学は恵みであり,災いである.メインストリームのアートはこれらの美学を相手にしない傾向にある.しかし,それでいい.最後には,ビデオゲームエンジンは映画,絵画,彫刻やその他の「既成の」アートにはなかったとあたらしい可能性を切り開いていくと信じている.作品制作においてメディウムとコンセプトとは,量子プロセスのように,同時に到来するものである.私にとっては今のところ,メディウムが先に来る.

memo786
The Digital Image in Photographic Culture: Algorithmic Photography and the crisis of representation  Daniel Rubinstein and Katrina Sluis

In fact, the old binary model ‘object - image’, has to be replaced by the ternary 'object - unknowable - image’ where the unknowable makes room for the processing operations that convert events in the physical world into something we recognize as an image. This observation applies equally to the analogue and to the computational image.  Location 890

実際,「オブジェクト‐イメージ」という古いバイナリモデルは,「オブジェクト‐不可知のもの‐イメージ」の三項モデルに置き換わってきている.「不可知なもの」では,物理世界の出来事をイメージとして認識できる何かへと変換する処理操作が行われる可能性がを引き起こす.この考えはアナログイメージにもコンピューテーショナルイメージにも同等に当てはまる. Location 890

memo787
Algorithmic Culture: Beyond the Photo/Film Divide, Eivind Røssaak

All programmable objects are composed of digital codes and are subject to algorithmic manipulation. The algorithm is the necessary conversion point in the transformation of the analog image into a digital image. Algorithms are abstract, symbolized, step-by-step instructions normally written in pseudo-code or drawn in flow-chart diagrams.  p.189

すべてのプログラムされたオブジェクツはデジタルコードで構成され,アルゴリズムによる操作の対象である.アルゴリズムはアナログイメージをデジタルイメージに変換するのに必要な転換点である.アルゴリズムは抽象的であり,シンボル化されており,通常は擬似コードやフローチャート図で描かれたステップバイステップの指示の集まりである.p.189

In The Virtual Life of Film, Rodowick discusses the differences between the analog and the digital as two distinct ontologies. While the analog photochemical process is based on a principle of continuity between input and output, the information processing of the digital image is, ontologically speaking, based on a separation or discontinuity between input and output.  p.190

『The Virtual Life of Film』において,ロドウィックはアナログとデジタルとの違いを存在論的に分析している.アナログの光化学プロセスは入力と出力とのあいだの連続性の原理に基づいているのに対して,デジタルイメージの情報処理過程は,存在論的に言うと,入力と出力とのあいだの分離と非連続性に基いている.p.190

Without this fundamental discontinuity, computer algorithms wouldn’t work. “The ontology of in- formation processing…is agnostic with respect to its output,” as Rodowick phrases it. It is the discontinuity between the input and the output that produces a new space for creativity and imagination – and chance and control. This space is addressed, not by light and shadow as in the photochemical process, but by computer algorithms, which carry out manipulations and alterations. p.190

この根本的な非連続性がなければ,コンピュータのアルゴリズムは機能しない.「情報処理の存在論は…その出力に関しては不可知である」と,ロドウィックは述べている.入力と出力とのあいだの非連続性が,創造と想像,そして,偶然と操作のためのあたらしい空間をつくる.この空間は,光化学プロセスとしての光と影ではなく,操作と修正を実行するコンピュータのアルゴリズムによって上書きされる.p.190

memo788
The Virtual Life of Film, D. N. Rdowick
18. Simulation, or Automatism as Algorithm

This is another way of saying that in analogical media, inputs and outputs are continuous. But the power computers there enormous variety of the functions they serve and the transformations they effect — results from the fundamental separation inputs from outputs. Location 1643
 
別の言い方をすれば,アナログメディアでは入力と出力とは連続的である.しかし,コンピュータは機能が多岐に渡り,多くの変換をもたらす.それは入力と出力との根本的な分離に起因するのである.

The computer is a medium, then. (How could it not be?) And all its automatistic powers are derived from the separation of inputs and outputs required for the interactive control or manipulation of information through programmed algorithmic processed.  Location 1666

そうして,コンピュータはメディウムである.そのプログラムされたアルゴリズム的処理によるインタラクティブな操作や情報処理に必要なすべての自動的な能力は入力と出力との分離から派生するものである.

For the separation of inputs and outputs in digital computing also severs information from the physical world in its duration, or its continuity in time and space. Location 1670

デジタルコンピューティングでの入力と出力との分離は,その持続における物理的世界や時間と空間と連続性も切断するものである.

19. An Image That is Not “one”
Electronic images are inseparable from displays, however, and as such produce a new kind of dynamic “space.” This is a simple observation, but it has important consequences.  Location 1741
電子的イメージはディスプレイから離れることができない.それ自体があたらしい種類のダイナミックな「空間」をつくる.これはシンプルな考えであるけれど,重要な結果をもたらす.

The electronic image, however, is more intimately tied to a display, itself an electronic device. In this respect, the electronic image is not “one,” or identical with itself, since it has no visible presence for us or to us without the aid of a display.  Location 1744

しかし,電子的イメージはそれ自体が電子的デバイスであるディスプレイと密接に結びついている.この観点から,電子的イメージは「モノ」ではなく,それ自体の同一性をもたない.なぜなら,電子的イメージはディスプレイがなければ,私たちのために/に対して,見えない存在だからである.

The appearance of television already marked the disappearance of the image in its photographic appearance. The medium of cinematography is light; the medium of videography is electricity.  Location 1746

テレビの登場からすでに写真的な現われのイメージが消えることは示されていた.映画のメディウムは光であり,ビデオグラフィのメディウムは電気である.

In a sense, there are no new media “objects” or images. A better term might be “elements,” which may vary in terms of their outputs and underlying algorithmic logics. Thus, it bears repeating that electronic art involves not the making of a thing, but variations in a process or transformations of a signal.  Location 1790

ある意味では,ニューメディアの「オブジェクト」やイメージはない.アルゴリズムの論理のもとにあり,出力という点で変化していく「要素」という言葉がより適切かもしれない.このように,電子的芸術はモノをつくるのではなく,信号の変形プロセスにおける変化を伴うということが重要なのである.

Turing test is not whether computer communication will become indistinguishable from human expression; rather, it is already the case that computers consider every action to be symbolic and will not distinguish between human or physical processes and virtual ones. Location 1810
 
チューリングテストはコンピュータがヒトと区別がつかないコミュニケーションをするかどうかというよりも,コンピュータはすべての行為が記号言語であって,その点ですでにヒトや物理的プロセスとヴァーチャルなものとを区別しないものなのである.

Computational algorithms may model processes and aspects of the physical world according to the criteria of perceptual realism. However, these models have no causal relations or references to physically existent objects or states of affairs.  Location 1811

コンピュータのアルゴリズムは知覚的リアリズムに基いて物理世界の処理や様相をモデル化しているかもしれない.しかしながら,これらのモデルは物理的に存在しているオブジェクトや出来事の状態との因果関係も参照関係ももたないのである.

memo789
「厚さをもつ/もたない」は存在論的な話ではなくて,ヒトの認識のことでしかない.けれど,そのヒトに見えている部分=認識をちょっとずつバグらせた結果として,存在そのものも変わるのかなと,ふと考えました.認識の変化が存在を変化させる,というか,その存在の物理条件を明らかにしていくような感じです.あるいは,存在のあり方を変化させる.認識が変化して,存在が変化して,その存在の変化に呼応するように再び認識が変化したときに,はじめて,最初にヒトが認識していたときの存在のあり方がわかるのではないか.

memo790
ディスプレイのガラスが割れると平面が立体化する.立体化した平面は平面には戻れない.そこに薄っぺらい空間が生まれる.しかし,その薄っぺらい空間を模した木彫りにはに光はない.だから,それはディスプレイではない.けれど,それはディスプレイを想起させて,ディスプレイに擬態する.

ということ書いたあとで,須賀さんの《Empty window》はローゼンダールの《Shadow Objects》につながるのかもしれないと思った.「影」というか,平面が立体化する「予感」というか,ディスプレイの立体化を強制的に行う装置なのではないか.モノがそこにあるという「予感」を強制的に物質化する.その際にディスプレイのカバーガラスというもっとも物質的な平面のひび割れという物質的現象を取り上げていると言えるかもしれない.ローゼンダールの《Shadow Objects》のほうが影があり,立体的に感じるところが面白い.ローゼンダールはディスプレイ内の画像を「影」を用いて,モノとして取り出したと言えるかもしれない.

memo791
These Aren’t Wireless Headphones
http://www.slate.com/articles/technology/future_tense/2016/09/apple_s_airpods_aren_t_just_wireless_earbuds_they_re_the_future_of_computing.html

The second big distinction between AirPods and Bluetooth headphones is even more important. The AirPods aren’t just headphones, any more than the first iPhone was just a phone. Between the speaker, embedded microphone, W1 processor, and a bevy of sensor arrays, these earpieces amount to a wearable computer in their own right. 

AirPodsとブルートゥースヘッドフォンとの2番目の大きな違いは,より重要である.iPhoneがただの電話ではなかったように,AirPodsはただのヘッドフォンではない.スピーカーと埋め込まれたマイクロフォンとのあいだには,ヘッドフォンの柄の部分にはウェラブルコンピュータと呼べる呼べるようなW1プロセッサーがあり,多くのセンサーが配置されている.

memo792
Compression by Abstraction: A Conversation About Vectors
http://www.newrafael.com/compression-by-abstraction-a-conversation-about-vectors/

I always felt that using a computer, we should not try to depict the world in ways that were possible before, like photography and video. We should find new ways of depicting. I always felt like pixels are an approximation of reality, and vectors are a reconstruction. It is the job of artists to reverse engineer reality into their medium of choice. I chose the computer screen as my medium because I like that these screens are everywhere. Vectors felt like the best solution for bringing impressions from “the real world” to the screen. I’m trying very hard to explain why I think it is better. I just feel like bitmaps and Photoshop filters and pixel displacements and mpeg compressions are trying to be something they are not. But that doesn’t really make sense, you can use them in a way that is truthful. But when I see textures in 3D renderings I just feel like they are trying to be something they are not. Does that make any sense? 

コンピュータを使うとき,私たちは写真やビデオのように以前から可能な方法で世界を描写しようとすべきではなくと,私はいつも思いっています.描写のあたらしい方法を見つけるべきなのです.私はピクセルはリアリティに近似していて,ベクター画像はリアリティの再構成だとといつも感じてます.アーティストの仕事は,選択したメディウムへリアリティをリバースエンジニアリングすることです.スクリーンが至るところにあるので,私はスクリーンを自分のメディウムに選択しました.ベクター画像は「リアル世界」からスクリーンへと印象・効果を移行するための一番の解決方法のような気がします.それがよりと思うのはなぜか,ということを説明しようとすることは,とても難しいです.私はビットマップやPhotoshopのフィルター,ピクセルの置き換え,mpeg動画の圧縮は,それらではない何かになろうとしているとただただ思うのです.しかし,そんなことは理解されませんし,あなたはそれらを本当のものとして使うことができます.しかし,私は3Dレンダリングのテクスチャを見るとき,ただそれらは別のものなろうとしていると感じるのです.いくらかでも伝わったでしょうか.

Vectors do have their limitations. It is really difficult to make something look dirty. Everything always looks clean. 

ベクター画像はその限界を持っています.それはダーティーに見せるのが本当に難しいです.すべてがいつもクリーンに見えるのです.

memo793
「紐」だからと「超弦理論」の本を読んだけれど… 空間が幻想だということがわかったというか,「そうか」という感じを得ただけであった.「だけ」なのか,ちょっとわからない.重力を含む理論と重力を含まない理論が全くの同等って,どゆこと?

「重力」でディスプレイの中と外とを区切ろうとしてきたけど,物理世界の重力も幻想というか,重力ないの理論でも表せられるとなると,ディスプレイの中も外もどっちも幻想でしかなくて,同等になる.もともとディスプレイの中と外とは同等だから,ディスプレイを境にしても自己帰属感が生まれるのか?

memo794
スパイク・ジョーンズ監督の「her」を見た.AppleのAirPodsが発表されたから,インターフェイスの未来を考える参考になるのではないかと思ったのであった.音声インターフェイスって,とても直接的で解像度が高いのではないかと思った.もちろん,映画はスカーレット・ヨハンソンの声だから解像度が高いのは当たり前だけれども…

視覚的インターフェイスはまだまだ改善の余地はあるかもしれないけれど,音声インターフェイスのイヤホンとマイクというかたちはもう改善の余地がないのではないだろうかと思った.音声認識とAIの精度というか,進化は必要だけれども,音声に関するインターフェイスとしては完成されているかもしれないと映画を見ていて思った.イヤホン型のコンピュータはいつでも装着できるし,「音」のインターフェイスだから「盗撮」といった視覚的なプライバシーを犯すという感覚をヒトに与えにくいのはいいかもしれない.けれど,音声インターフェイスが全盛になると,音声のプライバシーへの意識が上がるのかもしれない.

映画の中ではじめて主人公がOSとデートのようなことをしているところが印象にのこった.iPhoneみたいな装置についているカメラを「眼」にして外界を「見て」.そこから指示を主人公の耳に「囁く」.主人公がとても楽しそうだった.目を閉じていたので,私が思っている以上に楽しかったのかもしれない.

インターフェイスに関していえば,主人公とOSとの関係が少しギクシャクしたときに,主人公がイヤホンを投げ捨てたところが気になった.あの投げ捨て方は,とても気持ちを入れていたものであった.モノをモノとして扱いながらも,そこに感情移入もしている.どこか奇妙な感じがあった.ハードにソフトが載ることで,ヒトにとってのモノの意味が変わってしまうような感じがした.音声を聞かせるモノでしかないイヤホンがOSと結びつくことで,人格を得てしまう.OSの人格がモノに憑依する.モノはモノでしかないけれど,ヒトの認識が変化する.でも,それは認識の変化でしかないから,モノとして放り投げてしまう.ここには,これからモノをどう扱うことになるのか,モノに感情移入してしまうことを感じた.

私たちは既に画面のなかのカーソルやキャラクターに感情移入できたり,自己帰属感を得たりしているので,モノにそういったことを抱くことは当然だし,もう行われているだろう.しかし,「her」で感じたのはモノの「帰属」や「愛着」といったものではなかったような気がする.人格OSだから,帰属や愛着以上のもの感じたのかもしれない.

そもそも音に自己帰属感は生じるのだろうか.耳元で囁かれるだけで,それは世界そのものとなるのではないだろうか.ウォークマンが自己を世界から遮断する装置になったように,音は世界を遮断する装置になる.だとすると,音声インターフェイスはユーザとデータとのあいだに帰属感をつくるものではなく,データがユーザを世界から遮断するインターフェイスとして機能するのかもしれない.

でも,この考え自体が視覚の延長で聴覚的インターフェイスを考えているのかもしれない.「her」も視覚的メディアの映画のために聴覚的インターフェイスをつかっている点では,視覚的世界の延長で聴覚を考えたものだともいえる.インターフェイスの未来は,一度視覚的ものから離れることで見えてくるかもしれない.

memo795
AppleがiPhone7で新色として2つの黒を出してきたこと.私はジェットブラックではなくて,普通の黒にしたのだけれど,その理由は電源をオフにしたときにディスプレイとそれ以外の部分の継ぎ目が見えないからだった.どこからがディスプレイがよくわからないまま,ガラスがアルミに変わる.このつなぎ目のなさにとても引かれた.全体がディスプレイということではないけれど,ディスプレイがどこにあるかわからない板があって,そこに光が入ると,ディスプレイが現れる感じがいいなと思った.

ディスプレイの保護ガラスが割れて,表示されているイメージと密接に関係をもっているようにみえる.でも,それは錯覚でもなく,単に画像をヒビに合わせて表示させているだけのことにすぎない.それでも,画像とディスプレイのガラスとの関係を考えると,ガラスという物理的モノが手前にあって,画像がその奥にある平行の空間性が感じられる.ディスプレイという二次元のものが三次元のものを表示しているのだけれど,ヒビが入るとガラスと画像とのあいだにももうひとつの空間が生まれる.

テレビはディスプレイが割れたら買い換えるはず.でも,スマートフォンは買い換えない人が多い.それは見るものでありながら,見るだけのものではないから? 修理が高いからというのもあるけれど,割れたディスプレイのまま使い続ける人が多いのはなぜなのか.画面を見ているけれど,それは大きな問題ではなく,そこから情報を得れれば,ガラスのヒビに見ることが多少阻害されようが問題ないということかもしれない.割れてヒビの入ったガラスは平面的ではなくなり,モノの主張をする.立体的になる.けど,情報を見ているときは,見ることを多少阻害しつつも,平面でありつづける?


memo 796
AirPodsがでて,なぜかApple WATCHが気になり始めた.腕にコンピュータをつけて,耳にもコンピュータをつける.気がつくと,身体の各部位にコンピュータが着けられている.あるときは音で,あるときは振動で,あるときは画像で情報を受け取っていく.そんなところにAppleの未来を感じたりする.画面のなかのスムーズさを物理世界でも実現するように,モノは限りなくスムーズにされていき,画面のなかの情報を操作しているかのようなスムーズさをモノに与える.同時に,ワイヤレスでモノとモノとがつながっていって,グラフィカルな感触以外の感覚も情報とともあるかたちへと変えていく.

memo797
小林健太とラファエル・ローゼンダールの作品について考えていて,そこでは「グラフィカル」であることが重要な気がしている.では,「グラフィカル」とは何かということになると,それは「GUI」の「G:グラフィカル」で,そこは平面でありながら,重なりをもっているような「薄ぺらい空間」なのではないだろうか.

そこではオブジェクトの重なりを影が示す.その影は事前についている場合もあれば,事後というか,出来事が起こった瞬間につく場合もある.出来事が起こった瞬間に影が着くというは当たり前のような気がするので,つかない場合もあるけど,影がついた場合と同じように,それを受けれる薄っぺらい空間がグラフィカルであることなのだろうか.このあたりを物理世界に引っ張り出したのが,ローゼンダールの《Shadow Objects》なのだろう.

では,グラフィカルな空間が身体に馴染むという小林の場合はどうだろうか.グラフィカルが身体に馴染む.この言葉自体,とても興味深い.薄っぺらいに空間に馴染んでいるといことだろうか.薄っぺらい空間,ピクセルがつくる空間に馴染む.ピクセルを馴染ませる.こう言いたいところもがあるが,これはまた違う話しだろう.小林は指先ツールを使って,画像に触れる.そこにGUIの歪みは生じているのか? 画像に触れるという欲望は誰もが持つだろ.では,実際に触れてしまう人はどのくらいいるだろうか? 小林だって実際には触れていない,と言う人もいるだろうけど,実際に「指先」で触れていると,ここで考えることが重要.実際に画像に触れていると考えることが,GUIの歪み.物理世界の先に非物理的世界があり,そこに「触れる」ことに馴染むこと.非物理的世界に触れることに馴染んでいると言う意識.そのことは何を示すのか.

GUIやゲームに馴染むこと.それは非物理的世界に触れることに馴染むこと.当たり前のこと.当たり前になった結果として,小林の作品を見る.Photoshopの加工がそのままになること.「そのまま」ではなく,それは画像に触れた結果である.モノに触れれば,そこに何かしらの痕跡がつくように,Photoshopで画像に触れれば,そこに痕跡がつく.それは「痕跡」でしかない.その痕跡を「歪み」と見てしまう認識の方が歪んでいる.物理世界はピクセルに変換され,ピクセルは物理的ちがいをなくして,ひとつの平面として扱う.ひとつの平面に触れることに馴染むこと.平面が示す奥行を無視すること.奥行を感じずに平面に触れ続けること.モノとモノとのあいだを無視すること,あるいは感じないこと.画像のなかのモノとモノとのあいだを感じないで,指でそこに触れること.いや,画像がピクセルのひとつの平面だと感じつつ,同時に,ピクセルのオブジェクトが個別に存在していることを了解したうえで,その一であり多であるディスプレイの平面に対して,改めて,指を当て続けてみること.それがグラフィカルな空間に馴染むということではないだろうか.ディスプレイを一であり多であるものとみなし,そこに指を当てて,あるはフィルタであぶりだすように,一と多とのあいだにゆるやかな繋がりをつくること.

memo798
このピカチュウはどこに激突しているのか.割れているガラスか.いや,そうではないことは自明で,誰もそんなことはまともには考えない.でも,ピカチュウがガラスに激突しているとおも思ってしまう.思ってしまうだけで,そうではないことをはわかりきっている.じゃ,ピカチュウはどこに激突しているのか.それは単に,透明な板に激突しているように描かれているにすぎない.では,なぜ透明な板を想定するのか.グラフィックが物理的ガラスと半ば一致するような感覚が生まれることは考えるべきで,その際のガラスのひび割れができるモノ感によって,グラフィックが「汚された」=見にくい感じは,小林健太さんの作品を考える際に重要な気がする.「汚された」というのは,ローゼンダールのクリーンを前提としていて,ヒトが触れたモノ,というか,物理空間とそのモノがもつ性質をグラフィックが示すことということに近い.

memo799
小林健太の作品をボタンを押すという「行為の最小化」と,その後,平面に指を置いて,なぞるという「行為の均一化」とのバインドとして考えみたらどうだろうか? 「行為の均一化」のほうは編集作業であり,基本的には指を平面を置いて,動かすことで,画像に変化をあたえている.

この平面に指を置いて変化あたえることが,佐藤雅彦+斎藤達也の「指を置く」につながるかもしれない.指を置くことで「因果性の捏造」が起こり,「次元の混交」が起こる.これらは小林健太の作品,特に映像作品に起こっていることだと,私は考えている.三次元が二次元になり,そこに指が置かれて,画像に触れられる.小林は画像に触れている.画像に触れて,画像の二次元であり三次元でもある平面に,もうひとつ二元次元であるような,三次元であるような紐というか回路を描いていく.絡み合った回路を見るとき,私たちの脳内では物理空間とは異なった思考回路が生まれる.小林が画像に触れるという因果性が捏造され,捏造とは思えないような直接性をもって,そこに示される.それはGUIのようにもうそこにある.GUIが隠蔽するような因果性の捏造そのものをあぶり出すように,小林は指で平面をなぞって,次元を混交させていく,GUIが次元を混交させたように.クリーンに整序されたGUIは,その世界では二次元と三次元とが混交していることを示さない.しかし,そこでは影によって二次元上に三次元がエミュレートされ,私たちは平面をなぞって,その三次元を操作さいている.この奇妙な感じはGUIのクリーンさによって,それは最小化された行為と均一化された行為を導き,これらの行為がGUIをクリーンにしている.ラファエル・ローゼンダールは,そのクリーンさを「影」と「モノ」として,物理空間に持ち込んだ.ローゼンダールはできるだけ「行為」をしない.だから,クリーンなGUIを物理世界に持ち込める.対して,小林はクリーンなGUIを形成する最小化された行為と均一化された行為をバインドして,ディスプレイに向かい.それはGUIに向かい合う私たちが通常行っている行為であるが,小林はこれらの行為をバインドして,まさにひとつの行為だと意識しながら,画像に向かうことで,画像に触れる.それは,GUIがこれらの行為によって,締め出してきた,ヒトの行為というダーティなものをクリーンなGUIの世界に持ち込むことを意味する.

小林は最小化された行為と均一化された行為をバインドして,クリーンなGUIにヒトのダーティな行為を持ち込む.なぜなら,クリーンだと思われているGUIは,もともとヒトの身体感覚をコンピュータの論理空間に重ね合わせたものであるから,それは元来ダーティな物理世界と地続きなのだ.ヒトの行為そのものが最小化されて,均一化されていくなかで,それは徐々にヒトを締めだしクリーンになっていった.しかし,最小化/均一化された行為もまたヒトの行為なのだと思ってしまえば,それらの行為を経由して,ヒトのダーティさはGUIに入り込む.

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