tumblrmemo600-699

memo600
How to turn lead into gold | Dazed
Create confusion

Citarella’s images combine layer upon layer of visual information until we have no idea what we’re actually looking at. “Combination Game is a term from the media theorist Vilem Flusser, this idea that any and all possible images are part of a larger photographic program: eventually given enough time, all possible combinations will find their way into the world. For that body of work, I started with one initial scene that I restaged and re-photographed over and over, gradually introducing life size prints of previous scenes, adding mirrors and frames, accumulating this archive of variations. I was aiming to confront as many photographic problems as possible. I imagined people encountering the photograph trying to figure out what objects and event first transpired in front of the lens, the reoccurring question: ‘What is real and what is Photoshop?’ Ultimately there’s no answer and we realize that the initial scene itself is most likely a composite and subject to all the same irresolvable questions. I look at these images now and I miss things too. You don’t necessarily remember 'Oh yeah I went there with a layer mask and that’s an effect’.. I think that speaks to the power of these images. Even when we know better we can still fall into that deception. It affects the way we consider the world around us. That’s part of what I’m trying to put forward.”

混乱を創造する
見る者が実際に何を見ているのかわからなくなるまで,Citarellaのイメージは視覚的情報のレイヤーにレイヤーが組み合わさっている.「「Combination Game[組み合わせゲーム]」はメディア理論家のヴィレム・フルッサーの言葉です.この考えはいかなる/すべての可能なイメージは広大な写真のプログラムの一部であるというものです.十分な時間があれば最後には,すべての可能な組み合わせが現実化されます.シリーズの全作品のために,私は何度も設定し直し,再撮影を繰り返した最初のシーンからスタートします.そして徐々に前回のシーンの等身大のプリントを導入したり,鏡やフレームを導入しながら,複数のバージョンのアーカイブをつくっていきました.私はできる限りの写真的問題と向き合うようにしました.写真を見た人が「何がリアルで,何がPhotoshopで加工されたものか?」を繰り返し考えながら,レンズの前の最初のオブジェクトや出来事が何であるかを理解しょうとすることを私は想像しました.究極的には答えはありません.私たちは最初のシーンそれ自体が多分構成されたものであり,すべての同じような答えのない問題の主題だと理解するのです.これらのイメージを今見ると,私もどれがモノなのか,わかりません.「そこにレイヤーマスクがあって,あそこにエフェクトが使われていて…」ということを考える必要はありません.これらのイメージの力について小言を言っているにすぎないと思います.私たちが騙されていると知っていたとしてもです.それは私たちの周りの世界についての考え方に影響を与えています.それは私が提案しようとしていることの一部です.」

memo601
A Conversation with Joshua Citarella

JC: As the series progresses I think that we are, in a way, witnessing the entropic decay of the original scene. It is similar to telescopically observing an event that takes place at a faraway point in the universe; by the time the light (image) reaches our vantage point, it is already a distant, past event. Combination Game is a sort of photographic Big Bang; exhaustively rearranging all of its elements. It contains the implication that if the process were allowed to continue uninterrupted, it may eventually recombine itself in such a vast number of ways as to include all possibilities in the photographic universe. This process of expansion ultimately and inevitably resolves in heat death, the depletion of the last remaining energy from the Big Bang. Here, heat death is not meant to imply a morbid drive in the work, but rather to illustrate the trajectory of its program, a process which borders on infinity but does in fact have a definite and quantifiable endpoint. Combination Game is an allegory toward photographic activity, or rather all technical image activity, whose initiative is to carry out its program and generate all manners of possible and improbable combinations, including every composition of objects down to the mosaic arrangement of the pixels themselves.

JC: シリーズ[Combination Game]が進行していくにつれて,ある意味では,私たちはオリジナルの場面のエントロピーが崩壊していく様子を見ていると,私は考えています.それは宇宙のなかでとても離れたところの出来事を顕微鏡で見ている感じに似ています.光が(イメージが)観測地に届くまでに,それは既に遠くの,過去の出来事です.Combination Gameはある種の写真的ビックバンです.その要素のすべてを徹底的に再配置する.プロセスが中断されないのであれば,写真的宇宙のすべての可能性を含んだような膨大な数の方法で最後にはプロセス自体を組み替えるかもしれないです.このプロセスの拡張は究極的には,そして必然的に熱力学的死をむかえて,ビックバンの最後に残ったエネルギーが枯渇する.ここで,熱力学的死は作品における病的な衝動を示しているのではなく,むしろそのプログラムの軌道を説明するものです.しかし実際には,無限と接するプロセスは明確で数量化できる最終地点をもちます.Combination Gameは写真的活動に対するアレゴリーです.むしろ,すべての技術的なイメージの活動についてのアレゴリーと言えます.それらの活動は自主的にプログラムを実行し,ありそうもない可能ではあるが組み合わせのすべての方法を生成します.そして,それらの組み合わせはすべてのオブジェクトの構成からピクセルそれ自体のモザイク的配置まで至ります.

memo602
どうにかテキストを2つ書いた.頭がボーとしている.次のことをすぐにはじめたいけど,いまは頭がボーとしている.でも,書いたテキストひとつはこれから考えることのはじまりなので,引き続き考えていく必要があるのだけれども,頭がボーとしている.テクノアニミズム,テクノスピリチュアルを考えるキッカケとしてのフルッサーというのはいいのかもしれない.計算的構成に生じる幽霊みたいな.谷口さんの作品について2月中に書きたい.あとはずーっと途中になっているアニメの原稿も2月中に書きたい.ということで,2月はあと2つテキストを書きたい.

memo603
iPadでカメラアプリを立ち上げる.ディスプレイが世界を映す.世界がフレームで切り取られる.ガラスのコップの棒が屈折で歪んで見える.それは単に歪んで見えているだけで,棒は曲がっていない.iPadのフレームで切り取られた世界も歪んだだけで,実際の世界は歪んでいない.本当にそうなのか? 世界も歪んでいるのではないだろうか? 世界は歪んでいない.でも,歪んでしまう.

磨りガラスで外が見えなくなっている展示室.磨りガラスに黒のiPadが1台,張り付いている.そこには「映像」が表示されている.遠くからみると,それは外の風景を表示しているように見える.近づいてみて,それが外の風景だということが確認される.単にiPadのカメラアプリでその風景を表示していただけにすぎない.カメラアプリで外を表示しているだけにすぎない.ちょっとおかしい.そこに映されているものは撮影されるためでなく,単に外の様子を表示しているだけにすぎない.磨りガラスで外は見えない.iPadだけが外の様子を表示ているにすぎない.外の様子と磨りガラスの明るさは対応しているように感じられる.しかし,磨りガラスで外の様子は見えないから,実際にiPadが外の様子を表示しているのかは確かめることはできない.iPadは実際には単に外の様子を表示ているにすぎない.近づいて見れば,iPadのカメラの位置に合わせて磨りガラスに穴が空けられている.だから,やはり,iPadのカメラアプリが単に外の様子を表示しているにすぎない.しかし,磨りガラスから外の様子を見ることはできない.iPadのカメラアプリだけが外の様子を表示している.カメラアプリが外の様子を表示していることを了解していても,磨りガラスにつけられたiPadが表示しているフレーム内の映像は世界から切り離されている感じがする.iPadのフレームに歪んだ世界が表示されている.世界は歪んでいないし,iPadのカメラアプリも世界を歪めてはいない.ただ,磨りガラスに貼り付けられたiPadのカメラアプリが外の様子を表示しているという状況で歪みが起きているにすぎない.歪みだけがそこにある.歪みだけがiPadのフレームのなかにある.

memo604
iPhoneを忘れて,大阪へ.iPhoneに今日の予定のすべてを入れていたから,iPhoneがないとわかった瞬間,家に引き返そうと思ったけれど,もう電車に乗っていたし,ゴダールの映画に間に合わないので,そのまま大阪へ.ゴダールの映画がやっているシネ・リーブル梅田は大阪駅の地図でビルの場所を確認して行けた!

そのあと,展示を見ようと思っていたのだけれど,展示をやっているスペースの名前がわからない.「the three konohana」という名前だったのだけれど,全く思い出せなかった.とりあえず最寄りの駅の「千鳥橋駅」に向かう.住所に「梅香町」とあったような気がしたので,その町名をたよりに歩く.「2丁目」だったような気がするので,そのあたり歩く.でも,ない.そりゃそうです,家に帰って確かめたら「1丁目」だったのですから.雨のなか知らない町を彷徨いました.疲れ果てました.もう帰ろうと昼飯を食べているときに,「雑誌に展覧会のことが書いてあるかも?」と思い,コンビニにいったけれど,今って「ぴあ」のような情報誌がないから,どの雑誌を読めばいいのかわからない.そこで諦めました.

iPhoneに必要な情報を入れ込んでいるから,それがないと自分の機能が8割減くらいになってしまう.iPhoneがないならないで,人に聞くとかすればいいのに,そういった能力も衰えてしまっている.iPhoneがあるから住所とかの地図を予め見ていても記憶に残っていない.あらゆることをiPhoneに頼っていることが判明した半日だった.

じゃ,明日からiPhoneなしでも行けるようにするかというと多分しない.iPhoneを忘れないようにするくらいじゃないかな.そんなもんだと思う.自分の脳力はもう既にiPhone込みがデフォルトになっている.今日のiPhone忘れは風邪を引いて能力が低下したようなものなんだと思います.

memo605
The Universal Texture,CLEMENT VALLA 
http://rhizome.org/editorial/2012/jul/31/universal-texture/

3D Images like those in Google Earth are generated through a process called texture mapping. Texture mapping is a technology developed by Ed Catmull in the 1970’s. In 3D modeling, a texture map is a flat image that gets applied to the surface of a 3D model, like a label on a can or a bottle of soda. Textures typically represent a flat expanse with very little depth of field, meant to mimic surface properties of an object. Textures are more like a scan than a photograph. The surface represented in a texture coincides with the surface of the picture plane, unlike a photograph that represents a space beyond the picture plane. This difference might be summed up another way: we see through a photograph, we look at a texture. This is an important distinction in 3D modeling, because textures are stretched across the surface of a 3D model, in essence becoming the skin for the model.

グーグル・アースに見られるような3Dの画像はテクスチャー・マッピングと呼ばられる処理から生成される.テクスチャー・マッピングは1970年代にエド・キャットムルによって開発された技術である.3Dモデリングにおいて,テクスチャーマップは3Dモデルの表面にあてがわれるフラットな画像で,ソーダの缶や瓶に巻かれるラベルのようなものである.テクスチャーは一般的にはフィールドのとても小さな奥行きをフラットな広がりで表現して,オブジェクトの表面の特徴を真似る.テクスチャーは写真というよりもスキャンにちかいものである.描写平面を超える空間を表現する写真とは違って,テクスチャーで表現された表面は描写表面と一致している.このちがいはこのようにまとめることができるかもしれない:私たちは写真を通して,テクスチャーを見る.これは3Dモデリングにおける重要なちがいである.なぜなら,テクスチャーは3Dモデルの表面に沿って伸ばされるのであって,本質的にはモデルのスキンになるからである.

memo606
読書会メモ
What is interface Aesthetics, or What could be it be (not)? 
Florian Cramer

par.1
「インターフェイス」という言葉の定義の多様性.それと美学がくっつていることでよく意味がわかくなっている.インターフェイスの研究でも「美学」を哲学の用語として使っていくのか? それとも「look & feel」という意味で使っていのか?

par.2
「インターフェイス」の様々な例.でも,どれも「美学」や「コンピュータ・インターフェイス」を単純化することなしに「インターフェイス美学」を語れない.コンピューティングにおいて,インターフェイスはソフトウェア,ハードウェア,ヒトを含めたあらゆる階層にある.ヒトをインターフェイスとして捉えることは危険.インターフェイスという言葉をテキスト,パフォーマンス,メディアという言葉に入れ込むのリスクがある.

par.3
コンピュータのインターフェイスと社会的インターフェイスとを比較して得られることは,コンピュータが認識論的にとても限定された機械だというコンピュータ・インターフェイスの認識論的限定から派生する洞察が得られること.社会・文化への形式的重ね合わせができる.インターフェイスという語が多くの技術的問題を抱えていて,社会的インターフェイス研究を技術決定論から救うことができない.

par.4
コンピュータのインターフェイスは以下の8種類に分類できる.メディアスタディーズは「ヒトとソフトウェアのインターフェイス」を扱ってきた.この定義だと,インターフェイスは「メディア」と同義になる.インターフェイス美学はユーザがコンピュータを通して世界をどのように認識しているかという問題になってしまう.「インターフェイスは美学のひとつのカテゴリー」といった時に,それはテイストの問題ではなく,現象学になっていないだろうか.マノヴィッチはヒューマン・コンピュータ・インターフェイスのみを考えることで,インターフェイスをメディアと美学と同義に扱うだけでなく,現象学と同義に扱っている.

par.5
人文学のメディアスタディーズはインターフェイスを節度をもって扱うと同時に誇張しても使っている.インターフェイスは領域の境界なのだが,メタファーとして考えられ,ギリシャ語の「移す」という意味で使われている.

par.6
ユーザインターフェイスがプログラムインターフェイスと分けられている.かつて,これらは一緒のものであった.[様々な例があげられる]

par.7
見える.聞こえる,タッチできるインターフェイスと隠れたプログラムのインターフェイスとの闘いなかで,美学にひとつの境界線がひかれる.ヒトとコンピュータのインターフェイスとコンピュータとコンピュータのインターフェイスはスムーズに繋がっているのが,コンピュータ的にはうつくしい.

par.8
美学はコンピュータとコンピュータのインターフェイスに存在する.プログラマーがAPIやハードウェアのデザインを「きれい」「醜い」と言っている.18世紀の美学が繰り返される.

par.9
コンピュータ・エンジニアリンにおける美しさは論理的な美しさである.その論理的美しさはフラクタルのような視覚的表現に結びつている.このような美学は,特にブリオーの関係性の美学はコンピュータから用語を借りているにもかからず,ランシエール,ニコラ・ブリオーの美学から遠くはなれたものになってしまっている.これらの美学のギャップは科学と人文学,工学と現代美術の広がるギャップで大きな役割を果たしているだろう.

par.10
1990年代のネットアート以降,「ハッキング」という言葉も別のコンピュータの美学になっていた.エドマンド・バークの『崇高と美の観念の起原』で言われる美学をハッキングに適用した.しかし,それはコンピュータ科学がもっていたピタゴラスの美学とは全く異なるものであった.このような状況はメディアアートをアートシステムから切り離された存在にした.

par.11
現代美術はメディアで定義されるのではなく,システムで定義される.

par.12
アートの作品は自律したモノで評価されるのではなく,アート文脈のなかでの適切なモノ,時,場所で評価される.

par.13
現代美術はテクノロジーの美学とは相容れなくなってきた.なぜなら,現代美術はメディアに興味がないからである.肯定的にみれば,テクノロジー,メディアの美学は「ポスト・メディア」の現代美術システムの盲点に注目しているといえる.インターフェスを社会的なものやアートに活用しない限りにおいて,ヒトとコンピュータ,APIなどの全般的インターフェイスは現代の批判的美学が逃している美と堕落を反映している.さもなければ,技術的に栄光を語っているだけである.

par.14
第2の自然として,技術はカントの自然の美と数学的・力学的崇高の地位を引き継いでいる.

par.15
近代の美学をインターフェイスに応用することは難しい.

par.16
しかし,美学とインターフェイスに関してすべてのマッピングを行うと,カントの美学と論理を思弁的に適用することができる.コンピュータ科学や工学はランシエールの美学にも接続できる.ビル・ビオラの作品への適応もできる.

par.17
インターフェイス・デザインは食品のように現代の美学の盲点になっている.

par.18
関係性の美学がコンピュータ用語を拡張してつかっていること.インターフェイスを社会的インターフェイスとして拡張することは,インターフェイスをコミュニケーションメディアと同義にすることになる.社会的次元は多くのコンピュータとコンピュータのインターフェスから成立している.

par.19
還元主義ではないヒトとコンピュータ,コンピュータとコンピュータのインターフェイスに基づいたヒトとヒトの社会的インターフェイスはない.逆に,すべてのヒトとコンピュータ,コンピュータとコンピュータのインターフェイスは社会的インターフェイスである.インターフェイスという言葉が意味もなく拡がっている.

par.20
インターフェイス美学はメディア・スタディーズとコンピュータ科学で批判的位置を得ることができる.インターフェイス美学を道具として,還元的なサイバネティックスに立ち向かうことができる.美学的判断は,純粋な技術的理由に対して,分析と決定を計算できる形態をもっている.

memo607
ヒューマン・コンピュータ・インターフェイスをヒトと有限状態装置との対話の仕組みだと考えてみたらどうだろうか.サザーランドのスケッチパッドやエンゲルバートのNLSを有限状態装置とヒトとの対話のための仕組みだとして捉え直すこと.もちろん,アラン・ケイが言うコンピュータがメタメディアというアイデアも捉え直すというか言い直す.コンピュータを有限状態装置だと捉えると,マルチウィンドウが出てくるのは当たり前になるし,『融けるデザイン』で渡邊恵太さんがメタメディアへの複数のインターフェイスも有限状態装置がとる状態ひとつひとつに対するインターフェイスと考えることができるのではないだろうか.

memo608
内田聖良さんの修士論文「情報化社会における「余白」の使用法」を読んだ.内田さんがシステムのなかに「余白」を見つけていく活動とその考察が,僕がインターネットヤミ市を考察した感じと近くて,興味深かった.無理にシステムをひっくり返すのではなく,「余白」を見つけて,あわよくばその余白を少しずつ拡げていくこと.ヤミ市のことを考えているときに,内田さんの活動を城さんがSWITCHで紹介していて,ヤミ市と似ているなと思ったのであった.内田さんとIAMASの卒展であったときは「DIS」と活動が似ていると行ってしまったけれど,ヤミ市の方が似ている.DISもポスト・インターネットな活動で,「いたずら」的なものでカモフラージュしているけれど,そこには明確な仮想敵としてハイファッションやアートワールドがある.でも,ヤミ市や余白書店にはそのような明確な敵はいない.そこが魅力なんだと思う.

memo609
マクルーハンの『メディア論』の目次から各種メディアの区分けをやりつつ,実は,その区分けはいずれなくなるものだったことを「テレビ」ところで示したり,第一部の理論編から考える.そのあと,まだ読んでないけど,『アフター・テレヴィジョン・スタディーズ』の若林論考を参照する.マクルーハンが『メディア論』の最後につけた「兵器」「オートメーション」ことについて,若林はどのように論じているのか気になる.すぐに読むとして,ここのふたつは「メタメディア」へとつながる部分だと思う.コンピュータによるメディアの変化をマクルーハンが論じた箇所として読むのがいいのではないだろうか? そして,アラン・ケイ及び,ケイを論じているマノヴィッチを参照する.メタメディアは過去のメディアの焼き直しではなく,あたらしいプロパティを入れ込んだメディアであることを確かめて,最後に,渡邊恵太さんの『融けるデザイン』でのメディアはインターネットひとつになったということを考える.

memo610
三輪さんと対談してから1年半くらいたった.そのあと,私は対談の場で自分が言った「テクノロジーに対して楽観的」ということをだんだんと肯定できなくなっていた.「共進化」という考えのもとヒトがコンピュータとともに進化していくには,ヒトの進化は絶望的に遅いのではないか.「進化」という時間的な出来事の前に,コンピュータが提示する圧倒的な可能空間のなかで,ヒトはいままで築きあげてきた土台を失いつつあると思い始めてきている.「失う」ではなくて,「忘れる」と言ったほうがかもしれない.ヒトのこれまでの「土台」がなくなるわけではなくて,ヒトが「土台」の存在をコンピュータの可能空間のなかで「忘れる」ことが起こりつつあるといった方がいいのかもしれない.

フォルマント兄弟は「人工音声」に歌わせることを「祈り」に結びつけていた.ヒトではないような存在が歌うことが祈りとして機能する.それは歌のはじまりかもしれない,とフォルマント兄弟は言う.そして,兄弟は「人工音声」をMIDIアコーディオンの操作によって歌わせる.岡野さんによるアコーディオンの超絶技巧の演奏がセルオートマトンのようにその領域を増殖していきながら,コンピュータの圧倒的な可能空間をリアル化していく.

memo611
Excommunication: Three Inquiries in Media and Mediation

McLuhan’s own associative writing often moves at light speed, and much media theory from the last few decades has tried to explain the various twisted and turns in his famous maxims and arguments concerning media and material technologies. But here McLuhan’s choice of light is instructive. Media are pure presence for McLuhan, pure positivity. Yet at the same time media such as light are never present in and of themselves. What results therefore is a theophany of media, wherein the medium stands in as a visible manifestation of what is ultimately a mystical or religious relation. Today such a theophany of media finds its expression in the culture industry and its awestruck reverence new media, digital network, and all things computational.  pp.13-14

マクルーハンの連想的なテキスト自体はよく光の速さで話題を移していく.そして,ここ数十年のメディア論は彼の有名な格言とメディアや物質的テクノロジーに関する議論をいろいろな角度から説明しようとしてきた.しかし,ここではマクルーハンが光を選択したことを考えたい.マクルーハンにとって,メディアは純粋な現れであり,純粋な陽性なのである.しかし同時に,光のようなメディアはそれ自身では内にも外にも現われることがない.それゆえメディアの顕現があり,そこではメディアは究極的には神秘的もしくは宗教的な関係の視覚的現れの代わりをはたす.今日,このようなメディアの顕現は文化的産業とその畏怖した敬意をもったニューメディア,デジタル・ネットワーク,コンピュータに関わるすべてのものその表現を見ることができる.

memo612
エヴァン・ロスのあたらしい展示「Voices over the Horizon」のウェブページにあるテキストを読むと「幽霊」とか「見えないもの」とかいう言葉がたくさんでてくる.「スピリチュアル」というテーマでエキソニモや谷口暁彦さんの作品を考えていこうと思っているので,エヴァン・ロスのこの展示も合わせて考えてみたい.

インターネットの見える部分の「質感」から,見えない部分を考える時期になっているのだろうか.エヴァン・ロスの「見えない」は普段,物理的に見えないインフラの部分を可視化しようとするものだから,エキソニモや谷口さんとは少し違うかもだけど… でも,もともとヒトがオーラとか見えないものを見ようとして使っていたデバイスをiPhoneとかのデバイスに使っているのはとても興味深い.ヒトの見えない部分とデバイスの見えない部分を同じように扱って作品にしていく.見えない存在がそこにあるとして,それを可視化していくということは,見えないからそこに何もないと考えるよりも,いい感じがします.

memo613
2d-3dの問題を春から夏にかけてやって,そのあとスピリチュアルに移る.エキソニモを「スピリチュアル」というキーワードで論じようと思っていた国際会議がリジェクトされた.だから,エキソニモだけではなく,ポスト・インターネットのアーティストまで対象を拡げて論じてみたい.丁度,「ポスト・インターネット」で括られいたアーティストたちの言葉や展示には「錬金術」「より高次の存在」とかいう言葉が使われているし,エヴァン・ロスは「幽霊ハンティング」したし,「スピリチュアル」そのものを題材にした展示もあったりする.国際会議には落ちたけれど,頑張っていってみよう!

memo614
昨日は京都のメディアショップにマテリアライジング展関連のトークを聞きに行った.トークの記録でも再現でもなくて,これは単なるメモなわけですが,とそんなことを書かなくてもいいわけですが,書いているうちにリズムがでてくるかなと思いつつ,書いています.

谷口暁彦さんが言っていた「グリッチは初期パラメーターがちがうだけ」というのは面白いなと思った.初期値がちがえば,その後の処理で出てくるものがちがうのは当然であって,しかも,その処理の結果が見えているということは,処理がうまくいっているのだから,それはデータが「壊れている」ことにならなくて,単に初期値がちがうから結果もちがうということになる.

初期値のちがいでしかないものものを「グリッチ」と呼ぶには,人間にとって都合がよいからであって,コンピュータにとっては適正に与えられたパラメーターから処理をしているにすぎない.「にすぎない」と書くのも人間中心主義的な感じがする.

谷口さんは「ファイルを開く」ことが「シミュレーション」と言っていたけれど,与えられた値からひとつの状態をつくりだしているのだから,これはシミュレーションと呼べるのではないだろうか.コンピュータの有限状態を決定するシミュレーションを,私たちは何回もディスプレイで行っている.その行為に「ファイルを開く」と名づけている.それはコンピュータのひとつの状態を決定する行為になる.「ファイルを開く」という,コンピュータ操作のなかで低次の行為となるようなことも,情報処理のひとつと考えることができる.「低次の行為」と書いたけれど,「ファイルを開く」という処理を「低次の行為」のようにしてくれているコードを書いてくれた人がいたから,それはコンピュータ操作での基本的,簡単な行為になっているだけである.誰かが「ファイルを開く」という行為の状態を決定してくれたから,私たちはその行為を実行できる.

コンピュータ内での行為をあらたにつくることは,コンピュータの有限状態を更に組み替えたことになるのだろうか.コンピュータをモノとして扱えるようになったとき,それはもともとモノであったのだけれど,今のように持ち運びができて,壊れても買い換えられるといった心持ちになれるような状態になったとき,コンピュータでの行為をあらたにつくることは,コンピュータ内であらたに行為をつくることと同じなのだろうか.コンピュータ内の状態は有限であるが,コンピュータそれ自体がある現実の状態は無限というか,定義できない.そのなかでモノとしてコンピュータを扱う場合には,そのモノとしてのコンピュータのパラメーターを有限の数の状態にする必要がある.それは「コンピュータをコンピュータとして定義する」ことで,それはモデル化であって,それもまた人間中心主義になる.

モデル化して世界を捉えることは,人間中心に世界を捉えることになる.しかし,そうしなければ世界を捉えることはできない.言語は「コンピュータはコンピュータ,まな板はまな板」として世界をモデル化して捉えていく.ヒトの理解を超えたような現象には「説明文」「解説文」がつけられる.それらがないと,それを理解できない.マテリアライジング展には多くのテキストがつけられる.多くの言葉が語られる.その行為は,人間を超えたものを,再び人間のもとに置こうとしているかもしれないし,繰返し,展示を行っているということは,人間側に置いたものを,もう一度,人間を超えるとして提示することかもしれない.そのような繰返しになかで「コンピュータはまな板」となる現象がでてくる.

memo615
マクルーハンのメディア論は個別のメディアを扱っているような感じがあるけど,大本にあるは「光」と「電気」でメタメディア的な感じもある.でも,やっぱり個別メディアを論じたもので,その最後にくるのが「テレビ」ではなくて「兵器」なんだと思う.それは「人を殺す」というとても明確な目的をもった「メディア」.メディアが個別に使われることが前提で,そのなかでの明確な目的を示すのが,マクルーハンのメディア論の大部分.でも,そこに「光」と「電気」があるからややこしい部分がある.

コンピュータをメタメディアとして扱うアラン・ケイも,コンピュータというメタメディアを他のメディアと区別して個別に扱うという意味ではマクルーハンのメディア論のなかにある.エンゲルバートもコンピュータを個別に使うことが前提になっているから同じく.

『融けるデザイン』がメディア論として興味深いのは,メディアを個別に使うという発想から抜けている点.ブラウザのなかで展開するFacebookとかTwitterとかのサービスを個別に捉えるのではなく,インターネットという大きな括りで捉えているところがあたらしいメディア論になっている.マクルーハンが「電気」と「光」と言っていた部分に「インターネット」がある.『融けるデザイン』をマクルーハンの「オートメーション」の章と対比させながら考えるといいのかもしれない.

memo616
Aram BarhollのDead Dropsに爆弾制作に関するPDFが入っていて問題になったことを,Barholl自身がブログにあげていた.Dead Dropsはテロなど違法行為に加担する作品ではないけれど,インターネット上の監視が強まる現在では,テロリストたちにとっては格好のデータ移動・コミュニケーション手段になると,Barhollと書いている.ここからBarhollのカッコイイところで,この騒動によってDead Dropsが検閲をしていないことや,暗号化をしていないことが示されたと言っている.この事件を報告するブログのエントリーで,Dead Dropsは少し不便なコミュニケーションツールだけど,デジタル時代の自由でオープンなデジタルコミュニケーションの象徴になったと書く,Barhollはいいな.

memo617
谷口暁彦「滲み出る板」
絵のなかの鏡に映るモノ
絵のなかの窓はどこにある?
絵の存在 平面に射影された空間のなかに吹き込む風
板に転写された机の上の食べ物
板の横の厚みにも転写されている
机の上の板と食べ物が転写されている板は同じなのかもしれない
動く板の上の机と椅子とその映像
そこに貼られた紙に描かれた窓とカーテンと風
板の動きがカーテンを揺らしているのかもしれない.
机と椅子は動いている? 机と椅子を載せた板=床が動いている.板に貼られた窓は止まっている.絵には床が描かれていない.3DCGでは床はないが板のようなものは動いている.
iPadは会場にひとつ

吊られたiPadがサーキュレーターの風を受けて揺れている.そのなかな窓があり,カーテンが風で揺れている.サーキュレーターの風とiPadは同期しているが,なかの窓は同期していない.iPadが映している外の風景とその風景を見せている窓とカーテンがなびいている窓のCGは関係していない.谷口さん曰く,その窓はiPadのなかにとても薄い存在としてある.iPadの裏面はいつも通りの銀色で黒いリンゴマークがある.裏のカメラに手をかざすと自分の手が巨人の手のように見える.手と窓との間に生まれる違和感がいい.読み解くヒントになるかも.あと,この映像には床が写っていない.

展示空間の3DCGのなかにあるカーテンは止まっている.動いていないと言うのが正しいけど,止まっているという感じがする.薄い谷口さんもいる.回る板と机と椅子の感じが滲み出る感じがする.回る机と椅子と動かない壁もいい.ここまできて,最初の絵が気になる.
今回の作品は私がここにいることを忘れさてくるない? あるいは,向こうの世界が向こうにあることを忘れないようにしている.何かを忘れないまま次元の移行が起こる? わからない.
既存の「板」という概念を3DCG空間に入れてしまった展示になっていたのではないだろうか?

memo618
谷口暁彦さんの「滲み出る板」を見に行って,飲み会講評にも行ったけれど,memoを書こうとしても,そのまえのメモで終わるというか,文字列にするにはどこか確信がもてないでいる.

「窓の所在なさ」「所在がない窓」という言葉が思い浮かんで,ここから考えられるかなと思ったのだけど,いまいち進まない.まだ自分のなかで言語化がうまくできないままで,気持ち悪い.

窓って,ドーナツの穴みたいなものなのでは? と思ったけれど,それ以上進まない.気持ち悪い.

窓が閉まっていてもカーテンが揺れている/揺れるということは,インクがなくなってもボールペンは書けるとつながるような感じがするのだけれど,ここでの窓はモノではなくて,イメージの窓だから,イメージのポテンシャルということになると,何でもありのような感じがしてくるけど,そのなんでもアリのポテンシャルを制限するような方向が,インターネットのあとのイメージのあり方のひとつになっている感じがする.イメージのポテンシャルを拡張するために探求するのではなくて,制限していく方向にいった結果として,イメージのポテンシャルが拡張する感じ.その制限の仕方として2Dと3Dという関係があるような気がする.書いているとそんな気がしてきた.

じゃ,「窓の所在なさ」とか「所在がない窓」といった言葉は何なのか? 窓がその存在を制限されているということだろうか.でも,この窓は「壁」にないような感じがするから,窓ということを拡張している感じもするけれども,壁にない窓って,窓なのか? とも思ってしまう.ある平面から滲み出てきたフレームがあって,それを「窓」と名づけているのかもしれない.ということを僕は今,考えた.と書くのはリズムを得るためで,このリズムからどんなことが書かれるのかと書いている時点で,その先はわかっていない.

区切ってみた.わからないから区切ってみた.止まった.

「ある平面から滲み出てきたフレームがあって」は「ある平面から滲み出てくるフレームがあって」の方がいいかもしれない.いや,「きた」の方がいいかもしれない.「ある平面に滲み出ていくフレームがあって」と書いて,それを滲み出て行っている方から見ているという感じもあったりするかもしれない.

memo619
ヒトがアルゴリズムを書いて,サーフェイスだけではなくて,その塊から生まれるサーフェイスを作っていたのに,いつのまにか,またサーフェイスだけが問題となるというか,モデルとサーフェイスが別れるいうか,このふたつを分けておいた方が,モデルにサーフェイスというか,テクスチャをつけるだけだから,どんどんモデル+テクスチャがマッピングされていって,効率がいいといった感じなっている.そんな中でテクスチャを考えるヒトたちがいて,それはモデルとサーフェイスを一緒につくりだすのとは異なった感じで,3dモデルを扱っている感じがする.ヒトがいなくなり自動化した3dモデルを分解することで,ヒトをまた介入させているという感じだろうか.

memo620
「絵に描いた餅」をとってくるような感じが,谷口さんの「滲み出る板」にはあるようなということが思い浮かんだ.とって来れないないような,とってこれるような.あそこにあった窓はとってくるものではないのかもしれないけれど,その先を見るものでもない.もっと書こうと思っていたのだけれど,tumblrのサブブログ消去のことで心が乱れたのでこのくらいでお開き.

memo621
けれども,コンピュータ生成による世界は,実際には,視覚的かつ体系的であるというよりは触覚的かつ集積的である.3D世界を作成するコンピュータグラフィックスの技法で最も一般的に用いられているのは,ポリゴンによるモデリングである.この技法によって作成される仮想世界は,厳密な境界線によって定義されたばらばらのオブジェクトを含んだ真空空間なのだ.コンピュータの空間に欠けているのは,媒体という意味での空間───つまり,オブジェクトと,オブジェクトどうしが互いに与え合う影響が埋め込まれているような環境,ロシアの著述家と芸術家が空間的な媒体と呼んでいるものである.p.355 
ニューメディアの言語,レフ・マノヴィッチ
マノヴィッチがここで書いていることと「ポストインターネット」で取り上げられる作品の3Dの感覚を比較できたら興味深い.Clement Vallaが「ユニバーサル・テクスチャ」で指摘している「テクスチャ」と「写真」の関係は,マノヴィッチの「コンピュータ生成による世界は,実際には,視覚的かつ体系的であるというよりは触覚的かつ集積的である」に通じるところがある.でも,『ニューメディアの言語』が書かれたのはもう15年以上前であるから,マノヴィッチの指摘がそのまま適用できるわけではなく,どこかに更新しているポイントがあるはずで,そこを掬えれば,興味深い2d-3d論ができるはず.

「ばらばらのオブジェクトを含んだ真空空間」をリアル空間に持ち出してしまったのがポストインターネット的な2d-3d観なのかもしれない.ここにはひねりはなくて,まずは持ち込んでみるという戦略があると言えるかもしれない.

memo622
tex-archive mines public models on the community website for Autodesk’s 123D Catch–a software that creates 3D models from photographs. These models form a diverse collection ranging from ancient artifacts to contemporary ephemera. tex-archive extracts the texture maps from the publicly uploaded models. These are 2D images used by the computer to skin the three-dimensional model and make it appear realistic. The result is an image never before been seen by human eyes. Here the nature of the image has changed–from a means to an end. To mark that change, tex-archive catalogues the images in the Library of Congress, via Twitter.

http://clementvalla.com/work/tex-archive/

tex-archiveは写真から3Dモデルを作成するソフト:Autodesk’s 123D Catchのためのコミュニティウェブサイトに公開されているモデルを採掘していく.これらのモデルは古代の遺物から現代の消え行く何でもないモノまで多様なコレクションを形成している.tex-archiveは公的にアップロードされたモデルからテクスチャーマップを抜き取る.これらはコンピュータが3Dモデルを覆って,モデルをリアルにみせるための2Dイメージである.その結果として現われるのは,ヒトの眼がこれまで決して見たことがないイメージである.ここではイメージの性質が「目的を達成するための手段」から変化している.この変化を残すために,tex-archiveはTwitterを経由して,アメリカ議会図書館にイメージのカタログをつくっている.

memo623
ポストインターネットでの2d-3dの関係を考えるために,まず,マノヴィッチの3Dに関するテキストを読んだ.マノヴィッチにとって3Dは「航行可能な空間」であって,ナビゲート,探検する空間になっている.そのあと,藤幡正樹さんのテキストを読んだら,そこにも「探検」とか「洞窟[「形」をめぐる架空の洞窟]」とった言葉がでてくる.

じゃ,ポストインターネットではどうかというと.3Dは単にギャラリーになって見るための空間になっている.もちろんそこで視点は動くのだけれど,「探検」といったニュアンスはなくなっているようか感じがする.3Dモデルのスキンとしてのテクスチャーを自動的に剥がすことで作品が生まれているものだったり,谷口さんの「日々の記録」だったりと,ここでは作者の主体性が放棄されているというか,そこで「イメージ」をつくるのはソフトウェアになっている.もちろん,マノヴィッチと藤幡さんが指摘する3Dもイメージをつくっているのはソフトウェアなのだけれど,そこではその空間を探求したらり,ナビゲートしていこうとする,あるいはナビゲートさせようとする作者主体が強く存在している.3Dに関する表現においては,作者主体への意識のちがいが,ポストインターネットをそれ以前の表現とを分けていると考えられる.

memo624
Software takes command, Lev Manovich

The result is a new way to represent collective experiences using 3D space as an overall coordinate system—rather than, for instance, a narrative or a database. At the same time, Fujihata found a simple and elegant way to render the subjective and unique nature of each video interview—situating each rectangle at a particular angle hat shows where the camera was during the interview. Additionally, by defining 3D space as an empty void containing only trajectories of Fujihata’s movement through the region, the artist introduced the additional dimension of subjectivity. Even today after Google Earth has made 3D navigation of space containing photos and video a common experience, Alsace and other projects by Fujihata continue to stand out. They show that to create a new kind of representation it is not enough to simply “add” different media formats and techniques together. Rather, it may be necessary to systematically question the conventions of different media types to make up a hybrid, changing their structure in the process. p.185

その結果は,例えば,物語やデータベースと言ったものよりも,すべてをひっくるめたコーディネートシステムとして3D空間を使って集団の体験を表象するあたらしい方法である.同時に,藤幡は各々のビデオ・インタビューを主観的でユニークな性質を見せるシンプルで洗練された方法を見つけていた.それは,インタビュー中のカメラの画角を示す長方形にインタビューを表示するということである.さらに,自らがその地域を移動した軌跡以外は何もないように3D空間を定義することで,藤幡は主観性についての追加的次元を導入している.グーグル・アース以後3Dのナビゲーション空間が写真やビデオを含むことは普通のことになった.そのような状況にあっても,アルザスと藤幡の他のプロジェクトは際立っている.それらの作品は単に異なったメディアの形式や技術を「加えた」だけではないあたらしい種類の表現となっている.むしろ,ハイブリッドを構成する異なったメディアの慣習を体系的に問うことが必要かもしれない.そして,その問いのなかでメディアの構造を変化していくのである.
The representation of Earth’s surface that appears in the main Google Map window, called “3D Viewer,” combines satellite photography, 3D elevation data, 3D models of buildings, and the graphics elements familiar to us from modern paper maps (vector graphics and text labels identifying roads, country boundaries, etc.). Importantly, the four types of data are “glued together,” (i.e., rendered directly on top of each), thus appearing as a single visual source. This is a perfect example of a hybrid. The different media types are brought together to create a new representation.  p.193

メインのグーグル・マップウィンドウに現われる地球表面の表示は「3Dビューワー」と呼ばれ,衛星写真,3Dの高度データ,建物の3Dモデルと紙の地図で馴染み深いグラフィック要素(ベクターグラフィック,道路,国境などを示すテキスト)で構成される.重要なことは,その4種類のデータが「くっついている」(例えば,それぞれが直接的に重ねっている)ことである.それゆえに,4種類のデータはひとつの視覚的資料としてあらわれる.これはハイブリッドについての完璧な例である.異なった種類のメディアが集まって,ひとつのあたらしい表象をつくるのである.

memo625
Limbo
The mapping apparatus is almost fully automated. We typically see the input and the output, but the data capturing devices and processing algorithms produce “intermediary” images — images used to make other images (the output). These texture maps are one part of the data used to produce 3D spaces in our internet browsers. But the texture maps themselves are not yet ready for consumption, they are in a data limbo, necessary but usually hidden.

http://www.3d-maps-minus-3d.com

リンボ
マッピング装置はほとんど完全に自動化されている.私たちは大概,入力と出力の部分を見ているのだけれど,デバイスが取り込み,アルゴリズムが処理するデータは「中間の」画像をつくる.それは他の画像(出力)のために使われる画像である.これらのテクスチャーマップはインターネットのブラウザ上で3D空間をつくるために使われるデータの一部である.しかし,テクスチャーマップそれ自体はまだ消費のための用意がされないだけでなく,それらはデータリンボのなかにあり,必要不可欠ものではあるが大抵は隠されている.

memo626
TRANSFER is pleased to present Clement Valla’s first solo exhibition with the gallery. Surface Survey is comprised of digital prints and 3D printed sculptures, structured around concepts of archaeology, computer software, meaning-making, and images that are not meant for human consumption.

To explore these themes, Valla collects digital artifacts produced by software that turns photographs into 3D Models. The arranged fragments are left untouched, exhibiting the software’s process as-is. The work is comprised of both 2D images meant to be processed by the computer (but never seen by humans) and 3D printed fragments that indicate how the software pieces the shapes together.

http://transfergallery.com/exhibitions/2014/04/clement-valla/assets/TRANSFER_Clement-Valla_Surface-Survey_FOR-RELEASE.pdf

TRANSFER はクレメント・ヴァッラの最初の個展を開催します.「Surface Survey[表面の調査]」はデジタルプリントと3Dプリントされた彫刻から構成されており,考古学,コンピュータソフトウェア,意味の生成とヒトが消費するものではない画像についてのコンセプトを巡って組み立てられた展示である.

これらのテーマは探求するために,ヴァッラはソフトウェアが写真から3Dモデルに変形したデジタルな人工物を収集する.並べられた断片はヒトの手が加えられることなく,ソフトウェアのプロセスそのままが展示されている.この作品はコンピュータによって(しかし,ヒトが見たことがない)処理された2D画像とどのようにソフトウェアがそのかたちを接合していくのかを示す3Dプリントされた断片から成り立つ.

memo627
現象をコンピュータの中で構築可能な形に解釈し直す必要があるのです. 
解釈の正しさはでき上がった画像の質に表れます.解釈が間違っている画像に,われわれはリアリティを感じられません. 
このことを裏返しに考えてみると,コンピュータの中に現象を再構築する作業とは,じつは世界をとらえるための新しい方法を研究するのと同じ作業なのではないでしょうか?
藤幡正樹『コンピュータ・グラフィックスの軌跡,藤幡正樹』

この結果として,現象がコンピュータのなかで再構築された.ヒトがコンピュータとともに現象をコンピュータのために解釈し直した.ポストインターネットのアーティストたちは,このコンピュータ向けに解釈された現象をヒト向けに解釈し直しているのではないだろうか.言ってみれば,コンピュータ向け解釈の二次創作を行っているのではないだろうか.コンピュータ向けの解釈は概ね正しくなってきているけれど,その解釈の過程にある一部分を取り出して,解釈の二次創作を行い提示している.そこにはヒトを無視したコンピュータのための現象の解釈が現われる.それをヒトに提示することで,あたらしい表象をつくりだしている.あとは,ヒトがそれを解釈するだけである.

memo628
現象を解釈してコンピュータのなかに移し,それらの解釈を重ねあわせてハイブリッドなあたらしい表象をつくりだしていたのが90年代のインターネットの試みだとしたら,ポストインターネットはその解釈を再解釈しようとしている.そこにはヒト−コンピュータ的な正しさが見られない.特に,ヒトにはそれが正しいのかどうか分からない部分が多々ある.ポストインターネットの作家たちは「正しい解釈」のハイブリッドをどのように再解釈しているのであろうか.その解釈を,クレメント・ヴァッラ,谷口暁彦,ジョン・ラフマンの作品から考える.

memo629
画像とテクスチャー:ポストインターネットにおける2Dと3D

かつて,3DCGの世界は「空虚」であり「真空」であった.その真空空間は「探索」するための空間であった.今も,そこが「探索」するための空間であることは変わらない.しかし,今では,3DCG空間は雑多なテクスチャーで覆われている.

グーグル・ストリートビューは現実世界を実際に走行する自動車から撮影された2D画像をGPSデータに基いて地図にマッピングしていく.膨大な量の画像が3D空間を覆う.いや,画像が空間をつくりだすと言ったほうがより正確であろう.現実世界をモデルとして,そこに世界を撮影した画像を張り付けていく.ここでは世界そのものがテクスチャーに変換されている.

グーグル・ストリートビューはマノヴィッチがアスペンマップに見出した独特の質感を体現している.その質感を,ジョン・ラフマンは2D画像=写真として記録する.グーグルが画像の撮影から合成までの処理を自動化した結果生まれている「テクスチャー」としての風景を,ラフマンは写真を撮るように1場面,1場面スクリーンショットで個別化していく.「世界」というモデルに貼り付けられたテクスチャーをスクリーンショットで一枚一枚の画像として引き離していく《9eyes》で人々が見るのは,画像ではなく,世界のテクスチャーなのである.

ラフマンは絵画を3Dモデルのテクスチャーにする.3Dモデルに絵画を貼り付ける.3Dモデルにテクスチャーを貼るという行為を続けるラフマンは,最終的に現実をひとつの3Dモデルとして捉えて,リアル空間に絵画のテクスチャーを貼り付ける.しかし,この行為は失敗だったとラフマンは言う.リアル空間にテクスチャーを貼る行為はヒトの手が入りすぎるがゆえに失敗だっという.労力をかけずに,ヒトの手仕事感を出すことなくリアル空間にテクスチャーを貼らなければならない.コンピュータ内の3Dモデルのテクスチャーを変更するようにボタン一つで,コンピュータの計算によってリアル空間のテクスチャーを変える必要がある.ヒトの手仕事とコンピュータの計算とのあいだのズレが,ラフマンに「失敗」という言葉を言わせる.

クレメント・ヴァッラはグーグル・アースのテクスチャを採集する.グーグル・アースは地球表面の3Dモデルに衛星写真/航空写真といった2D画像を貼っていく.3Dモデルと2D画像とのあいだにズレが生じる.3Dの凹凸と画像の平面とのあいだにズレが生じる.画像は3Dの凹凸によって引っ張られるが,すべてを覆うことができなくなる.また,グーグルのアルゴリズムが3Dの凹凸を「適切に」解釈できないまま,テクスチャを貼り付けることもある.それらはヒトから見ると「適切」あるいは「正しい」解釈ではないが,コンピュータにとってすべて「正しい」.アルゴリズムがもつ論理的帰結として表示される.しかし,ヒトはそれを「間違った」表象と解釈する.ここにはヒトとコンピュータとの認識のズレがある.ヴァッラはこのズレを採集し,提示する.それはモデルと一致しているように見えないテクスチャーのコレクションである.ヒトが見ている限りでは3Dモデルとテクスチャーは分離している.3Dモデルにリアリティを与えるためのテクスチャーが,テクスチャー単体でヒトの意識にあがることで,3Dモデルのリアリティを崩壊させている.

ヒトの視覚の機構をなぞってつくられた2D画像をコンピュータの3Dモデルのために使った結果,ヒトがこれまで見たこともないような2D画像がつくられ続けている.《tex-archive》はそのようなテクスチャーを集めるプロジェクトである.複数の写真から自動的に3Dモデルを生成するオートデスク社の123D Catchのサイトに集められたモデルから2Dのテクスチャーを抜き取り,それらを平面に展開する.最初は,写真として撮られた2D画像が3Dモデルを覆うために変形し,その変形後の2D画像が3Dから剥ぎ取られる.2D画像も3D画像もヒトのためのイメージであるが,最初に撮影された2D画像は一度3Dモデルのためにコンピュータによって処理される.そのとき,2D画像は見るためのものではなく,3Dモデルを覆うためのものとなる.画像の目的が変更される.目的が変更された後の2D画像は,3Dモデルから離れるとヒトがこれまで見たことがないようなかたちに変形されている.

谷口暁彦は3Dスキャンを日常的に用いた作品《日々の記録》をつくった.日常を3D化すると,そこに現れたのは雑多な3Dであり,その「不完全さ」ゆえにテクスチャーが全面に押し出されて3Dモデルである.テクスチャーの裏側に回り込めてしまうような3Dモデルがそこにある.テクスチャーしかないとも言えるような,モデル不在の3Dモデルとでも呼べるものを谷口はつくる.

「モデル不在」ようなことが,ポストインターネットではひとつの問題となっていると考えられる.ポストインターネットの作家たちがあつかう3D空間は,真空でもなければ,バラバラのオブジェクトがあるわけでもない.いや,原理的には,そこは藤幡やマノヴィッチが指摘したように真空空間があり,バラバラのオブジェクトが点在する空間である.しかし,それらは現在,グーグル・アースやグーグル・ストリートビューが端的に示しているように現実を模した,現実と実続きの雑多なテクスチャーに覆われている.真空空間やバラバラのオブジェクトは雑多なテクスチャーによってその存在を隠されているといえる.

オブジェクト指向プログラミングの「情報隠蔽」のように,テクスチャーはモデルを隠蔽しながら機能している.しかし,そのテクスチャーはモデルあってこそのテクスチャーである.今回取り上げた3人の作家は,そのテクスチャーのみを抜き出さそうとする.それは隠蔽されているモデルを明らかにしたいという意図ではない.ただそのテクスチャーを問題としたいのである.ヒトがコンピュータ上に世界を再構成するためにつくられたモデルのうえに,簡単にリアリティを与えるためにテクスチャーが貼られる.簡単にリアリティを自動的に与えるようなテクスチャーとは何なのか.それは2D画像=写真とは異なるものであるが,その実態はわかっていない.それゆえにポストインターネットの作家たちはそれを取り出すのである.そこに見るあたらしい質感の精査をしているのである.


memo630
ポストインターネットの用語集を書いていて思ったのは,ポストインターネットって,少し残念感があったほうがいいということかな.いや,これは個人的に少し残念感があるポストインターネットが好きだということかもしれない.だから,ポストインターネットがメインストリームになったときには,別のものをまた探す旅にでるのかなと思ったりもしている.ポストインターネットの少し肩の力抜きながらも,全力でコンピュータやインターネットに向かう感覚が,自分は好きなんだなと思った.

memo631
メディアによって拡張した身体が生成した膨大な情報を相互に結びつけ処理していくメタメディアとしてのコンピュータ

メディア論=「人間」の拡張であるが,機械中心のために身体の拡張=身体の延長としてのメディアとなった.カメラのようにボタンひとつ押すという行為の最小化がはじまる
メタメディア論=知能の増強>身体の拡張.最小化された行為が膨大な情報を引き出すようになる.

融けるデザイン=補強増大された知能/コンピュータ・インターネットに身体を融かしていくプロセス,及び.インターネット・コンピュータに滲み出る身体を記述する.

ポストインターネット=インターネット・コンピュータとヒトの隙間に滲み出ている「液体/布」のような存在を取り出そうしている?

memo632
『融けるデザイン』について授業をして,融けるデザインをマクルーハンやエンゲルバート,ケイの知能の補強増大のラインにつないで話していたのだけれど,もっとうまく話せると,もっとシンプルに話せると思ったのに,とても難しかった.融けるデザインがジェイムズ・ギブソンのアフォーダンスを使っている時点で,シンプルに話せるわけではなかったのだ.主客の分離が無くなった果ての言葉をまだ探せてない.そこが難しい.でも,主客分離がなくなり,世界が自分に帰属する,自分が世界に帰属するのが融けるデザインなのだから,ここの部分をもっと考えないといけない.そして,渡邊恵太さんはこのあたりを研究でプロダクトに実装しているのがすごい.smoonだって,軽量できるように勝手に形状を変えるだぞ,その変化を使っている人に意識させずに起こっていたら,その先で掬われるものとsmoonに接続している人の意識は密着したものになっているといえると,掬われるものは掬われるしかアフォードしてないけど,外から情報を足すことによってアフォードに外部情報が入るから,もうそれは情報処理の外部化で,それでも人は身体を複雑に動かすんだぞ,でも掬うしか意識してないだぞ.意識が最小化され,身体は世界のなかでの行為を続ける.それが融けるデザインなのか.

memo633
インターネットへとヒトの感覚が伸びているかのようにヒトの感覚と行為をインターネットに最適化させるようなインターフェイスを設計すること.ヒトがインターフェイスを「自己」の延長にあると錯覚させるほど,ヒトはインターネットに帰属/隷属することになる.

ということを,『融けるデザイン』についての授業準備をしているときに思い浮かんだのでツイートしてみた.前回の「意識が最小化され,身体は世界のなかでの行為を続ける」を改めて考えた結果が上のテキストになるのかな.ヒトは「インターフェイスへ」と感覚を伸ばす必要もなくて,「インターフェイス」を意識せずに,その情報が,単位が,質量がデコードされて,ヒトの感覚に与えられる.渡邊恵太さんの研究だととくに「LengthPrinter: 長さを実体化する1次元プリンタ」にこのことを感じた.だから,この研究の紹介ビデオみていると少し奇妙な感じがする.こんなにうまく情報が,単位がデコードされて,ヒトの感覚に与えられていいのかという感じ.概念がすんなりと実体化されるのはいいのだけれど,そのあいだのプロセスがスムーズすぎて,私の頭が適応できない.このあたりの概念と実体とか,2Dと3Dのあいだの移行を「移行」として取り出しているのが,ポスト・インターネットの作品かもしれない.渡邊恵太さんの研究はこの移行をとてもスムーズにして見せている.あまりにスムーズすぎる.それもまた違和感を覚える.

memo634
Do you necessarily divide between aesthetics and statement… I’m asking because your Brand New Paint Job (BNPJ) series seems to flirt with the fascination of triviality (or kitsch).

あなたは美学とステイトメントをやむをえず分けているのですか… あなたの《Brand New Paint Job (BNPJ) 》シリーズは,平凡さ(もしくはキッチュさ)の魅力へと浮気をしているように見えるものですから,このような質問しています.

No, I am as much influenced by a terrible kitsch I consumed growing up as the great works of literature and art I read and experienced. I think this mix of high and low influences is just part and parcel of modernity. Brand New Paint Job was born out of the desire to discover the formal result of the juxtaposition of a two-dimensional image with a three-dimensional model. I wanted to start conversations between surfaces and their underlying structure. So I forced collisions between the 3D model and 20th century painting to create a two-way road of meaning in which the model says something about the painting and vice versa. In this way, the clash of the cultural weight of a high modernist paintings and a mass produced vehicle is not simply another example of the blurring of the distinction between high and low culture. The object may have a cultural significance on one level (e.g. a tank) and the painting (e.g. a Pollock) on another level so that the questioning of the meaning of the signs unsettles us in yet another way. BNPJ attempts to confront paintings historic fear of becoming a decorative object. BNPJ begs the question has painting becoming just an exclusive wallpaper for the designer chic? The tension between the uselessness of the painting and the instrumentality of the object highlights the diminished division between art and design these days. I think more and more important to look at the world with a historical consciousness. History is “wrapped” around us at all times, even if it has been relegated to the status of surface textures or a glossy layer of paint simply applied over everything, like a paint job. Some people interpret BNPJ as wryly mocking art history, but one can equally see BNPJ as paying genuine homage to it. When I cover a room from wall to wall with a repeating painting, the room becomes a shrine to the painting.

http://jonrafman.com/Rafman_Lodown.pdf

ちがいます.私は文学とアートの偉大な作品を読んだり経験して育ってきて,その際にものすごくキッチュなものを摂取してきて,とても影響を受けています.このような高級と低級なものからの影響の混合は単に現代の一部分になっていると思います.《Brand New Paint Job》は3次元のモデルと2次元のイメージの並列に関する秩序だった結果を見つけたいという欲望から生まれています.私は表面とそれらの下にある構造との対話から始めたかったのです.だから,モデルが絵について何か言ったり,その逆からも何か言われるような双方向の意味をつくるために,3Dモデルに20世紀の絵画を無理やり衝突させたのです.このように高級な現代の絵画と大量生産の方法とのあいだで生じる文化的重みの衝突は,単に高級と低級文化の区別をぼやけさせるもうひとつの方法ではなかったのです.オブジェクト(例えば戦車)はあるレベルでは文化的重要性をもっているかもしれませんし,絵画(例えば,ポロック)は別のレベルで重要性もっていて,記号の意味についての疑問は今でも別の方法で私たちを不安にさせるのです.BNPJは絵画に装飾的なオブジェクトになってしまうという歴史的な怖れを突きつける試みです.BNPJは,絵画が単なるデザイナー的な趣味のよさのための独占的な壁紙になってしまうのかという疑問を解決しているのではないでしょうか.絵画の無用姓とオブジェクトの有用性とのあいだの緊張状態が最近のアートとデザインの区分けの消滅を強調するのです.私は世界を歴史的意識で世界を見ていくことがとても重要だと思っています.歴史はいつも私たちに「巻き付いています」.たとえ,それが表面のテクスチャという状態や,絵かき仕事のように全てのものに単純に適用される絵という見栄えのよいレイヤーに格下げされたとしてもです.ある人はBNPJを美術史に対するひねくれた嘲りと解釈するでしょう.また,ある人はBNPJを作品に対する正真正銘のオマージュとして受けとるでしょう.私が部屋の壁から壁を絵画の繰返しで覆う時,部屋は絵画を祭った聖堂になるのです.

memo635
DRAWING MACHINE by Lucas Blalock

Photographs, for all their flatness, imply a genuinely heterogeneous space; 2D and 3D, a surface plane and a space within, but also metaphors of containment, magic, death, history, and witness, to name a few. In short, the photograph is a far lower level of abstraction than the image, and because of this we can, as viewers, be persuaded to struggle to work back through this abstraction, to try to come to terms with the world pictured. This is the provenance of drawing, this world pictured. And if we think about photography as a limited mimesis, as a poor copy, instead of a good (or indexical) one, then the photographer is not a cataloguer of fact, nor a purveyor of reportage, but instead is participating in this centuries-old activity of drawing the world closer, attending to its conditions, to the terms of our looking, and, in turn, trying to keep the picture from collapsing into image. p.208

Foam Magazine #38  

写真は,すべてそれらのフラットネスのために,純粋に混成の空間を示唆する:それは2Dと3D,表面平面とそのなかの空間,それだけでなく,抑制,魔術,死,歴史,目撃とほんのいくつかあげてみただけだが,多くのメタファーとなっている.つまり,写真はイメージよりもはるかに低いレベルの抽象にあり,そのために見る者としての私たちはこの抽象まで必死に後退するように説得されたり,描写された世界と折り合いをつけるように説得されたりする.これはドローイングの起源であり,この世界は描写されている.そして,もし私たちが,よい(もしくは指標的な)コピーではなく,貧相なコピーとして,限定された模倣として写真を考えたとすると,写真家は事実のカタログ作成者でも,ルポルタージュの提供者でもない.写真家は世界を精密に描くという何世紀ものあいだ行われてきた行為に参加しているのであり,その条件,私たちの見る条件を伴い,そして,今度は,写真がイメージへと崩壊することを妨げようとする者なのである.

http://studyforsculpture.tumblr.com/post/80664935279/20140325

memo636
谷口作品がおもしろいのは,固体から液体へというモノの状態遷移を示しているからではない.モノと情報とを同列に扱い,モノを3D化して表現するようになった後では,モノがモデルとテクスチャというふたつの参照項からできあがっていることを踏まえていて,そのテクスチャのみに固体から液体へという状態遷移を適応させるから,そこでテクスチャとモデルとのあいだにズレが生まれて,テクスチャが流れ落ちていく.

memo637
Google Earth’s textures however, are not shallow or flat. They are photographs that we look through into a space represented beyond—a space our brain interprets as having three dimensions and depth. We see space in the aerial photographs because of light and shadows and because of our prior knowledge of experienced space. When these photographs get distorted and stretched across the 3D topography of the earth, we are both looking at the distorted picture plane, and through the same picture plane at the space depicted in the texture. In other words, we are looking at two spaces simultaneously. Most of the time this doubling of spaces in Google Earth goes unnoticed, but sometimes the two spaces are so different, that things look strange, vertiginous, or plain wrong. But they’re not wrong. They reveal Google’s system used to map the earth — The Universal Texture.

The Universal Texture, Clement Valla
http://clementvalla.com/work/the-universal-texture/

しかし,グーグルアースのテクスチャは浅くもなければ,フラットでもない.それらは私たちが再現されているものを超え空間を見ることになる写真である.その空間は私たちの脳がそこに三次元と深さがあるものとして解釈したものである.光と影のために,そして,その空間を体験したことがあるという知識のために,私たちは航空写真のなかに空間を見る.これらの写真が地球の三次元的地勢に沿って歪んだり,引き伸ばされたりした際に,私たちは歪んだ写真表面を見るとともに,その同じ表面を通してテクスチャに描写された空間を見ることになる.言い換えると,ふたつの空間を同時に見ることになるのである.ほとんどの場合,グーグルアースの二重の空間は意識されない.しかし,たまにこのふたつの空間が著しく異なり,事物が奇妙に,不安定に見え,平面がねじれるのである.しかし,それらは間違っているわけではない.それらはグーグルが地球をマッピングするために使っているシステム:ユニバーサル・テクスチャを明らかにする.

memo638
ポストインターネットというか,今,モノのことを考えていると,モノが情報と同列になって,そのときにはモデルとテクスチャというふたつの参照項=データからモノ=情報が考えられるようになって,それはモノはテクスチャーであるというドゥルーズともちがっていて,モノはモデルとテクスチャーとの密着からできていて,そこでまず最初に問題になったのはモデルで,テクスチャーは問題視されてこなかったけれど,ちかごろ,テクスチャーをたるませたりすることで,モデルとの乖離に注目が集め始めたし,それと呼応するかのようにインターネットをモノ化するときには,布が多く使われるようになったのだが,その布はテクスチャーでモデルはどこかに置いてきているような感じがする.テクスチャーでモデルを覆って,モノを隠蔽してしまう感じであろうか.テクスチャーの逆襲と言えばいいのだろうか,しかし,隠蔽なんて出来なくて,テクスチャーはモデルを透かす.レースのカーテンのようにモデルを透かす.だったら,揺れ続けるカーテンからモデルを取り出せないか,レースのカーテンを彫刻的に扱うために,布が板へと変化するのか,いや,布のたるみを彫刻的にカメラで切り取ってしまって,布の硬化させてしまえば,そこにモデルがなくても,テクスチャーがかたちをつくる.布を硬化させることができるのであれば,布を軟化させることもできる.軟化した布=テクスチャーは液体のように流れだす.モデルと離れて流れだす.流れた布のあとにはモデルが残るが,硬化した布を彫刻として取り出すことはできるのか.硬化した布は板になるとそこには別のテクスチャーが生じるとともに,布がモノになる.布がモノになるまえ,硬化した布に別のテクスチャーが生じ始めたそのときを捉えると,そこにこそ情報とモノとが同列化・並列化した存在がある.

memo639
コンピュータ・グラフィックスは,私たちの視覚のシステムを,コンピュータの内部に模倣し,具体化することからはじまって,フラクタルのように見かけ上の自然ではなく,その生成のルールにまで遡って模倣しようとして来ました.すべてをコンピュータ内で活用可能なデータないしはアルゴリズムとして取り込んできたのです.それは,新しい真実,あるいは本質であるかのようにも見えましたが,それそのものを作成することの不可能性もまたまたはっきりしてきたようです.結局コンピュータ・グラフィックスの歴史は,新しい方法で自然界を捉えるための新しい概念を生成するための過程であったのにすぎないのかもしれません.そういう意味で,すべてのコンピュータ・グラフィックスは,なんら本質をつかんだことにはならないのかもしれませんが,まったく新しい方法を私たちが用いたことによって,対象に対する新しいアプローチが生まれ,結果的に対象そのものに対する私たち自身の認識が変わってしまうことも起こりうるでしょう.この偽造の惑星を見るにつけ,現実の惑星の見え方が,この惑星の1パラメーターの状態に見えるようになってしまうかもしれないと思うのです.p.175 
コンピュータ・グラフィックスの軌跡,藤幡正樹
これは板というイメージが別の物質によって実体化されたモノである.表面を覆い尽くしているイメージが,その下にある支持体とぴったりと寄り添っているために,それがイメージであることがバレにくいだけだ.現在の液晶ディスプレイがこの域に到達できていないのは,構造的にイメージがスクリーンの最表面に出現できないためであり,現在注目されている有機ELディスプレイに期待がもたれているのは,イメージがスクリーンの最表面に出現するからである.おそらく,有機ELディスプレイの出現によって,印刷物のように物質化した(かのような)イメージを自由に扱えるようになるだろう.スクリーンを忘れさせるための口実であったフラットであることが,板を思い起こさせるための仕組みとして利用されることになるだろう.p.220 
こうした事例の究極的な予測を Google Earth は見せている.それは地図が場所を指示する代名詞としての作用をもっていたことの延長線上に出現したページだが,問題なのはそれが自分自身の場所も含み込んでいることである.このページにアクセスして,誰もがすることは,「私の住む場所」を探すことだろう.それを外側から見ること.しかも,ディスプレイ上のイメージとして見ることは,それとこれを同一視しようということであり,現実をイメージと同等の対象として扱うことである.こうなったら,「現実がイメージであることを確認することが,ある種の快感である」と言ってみよう.現実がイメージであることに私たちは安心しているのではないか.現実と向き合うことに飽き飽きしているときに,結局現実がイメージ以上のものでもなく,イメージが現実を凌駕していることを確認することは幸せである.結果として,イメージが作り出す現実と,物質にまみれた現実は,こうしてますます乖離していゆくことになる.p.226 
不完全な現実:デジタル・メディアの経験,藤幡正樹
メインのグーグル・マップウィンドウに現われる地球表面の表示は「3Dビューワー」と呼ばれ,衛星写真,3Dの高度データ,建物の3Dモデルと紙の地図で馴染み深いグラフィック要素(ベクターグラフィック,道路,国境などを示すテキスト)で構成される.重要なことは,その4種類のデータが「くっついている」(例えば,それぞれが直接的に重ねっている)ことである.それゆえに,4種類のデータはひとつの視覚的資料としてあらわれる.これはハイブリッドについての完璧な例である.異なった種類のメディアが集まって,ひとつのあたらしい表象をつくるのである. p.193 
レフ・マノヴィッチ『Software takes command』
ポストインターネットの前提としてGoogle Maps及びGoogle Earthを考えてみる.現実とイメージ,イメージとデータ,モデルとテクスチャーとがアルゴリズムで密着させられて,ひとつのイメージとして提示される.この「ひとつのイメージ」が「現実がイメージであること」を見せつけて,現実とインターネットとがイメージで地続きになっているという認識を生み出し,ポストインターネット的状況をつくった.

この認識に対して,80年代前後に生まれたアーティストたちは「ひとつのイメージ」を「彫刻的」に操作しようとしている.その操作は「ひとつのイメージ」をモデルとテクスチャー,3Dと2Dに「解体」していくことであり,その解体作業から「現実がイメージであること」がモノに転写されて提示される.そして,イメージの解体作業からつくられたモノからは「非物質化の先にネットワークやインターフェースといった,目に見えないものによる立体性,彫刻性がありうる」ということを透かし見ることができる.
こうした一連のチャレンジには,イメージをモノ化して,彫刻にする作用があると言えるだろう.Google Earth が,現実をイメージと等価の対象としてゆくのに対して,イメージをイメージのまま空間化することで現実を新しく更新する,という言い方でもいいのかもしれない.それは動画像であれば,さらに複雑なことが可能であるし,たぶんインタラクティヴな環境を上手に作ることで,イメージの中の対象物が,モノとして認知されるされるような状態を作ることも可能だろう.それは言葉が生まれる瞬間に立ち会うように,イメージがオブジェクトとして機能してしまうような新しい言語記号の発生に立ち会うことを意味するだろう.(p.230) 
不完全な現実:デジタル・メディアの経験,藤幡正樹
プロジェクション・マッピングが現代の彫刻だと言うと面白くないんだけど,そうした非物質化の先にネットワークやインターフェースといった,目に見えないものによる立体性,彫刻性がありえるかもしれないと考えるのは面白そうかなと.p.89−90
暫定的にですが,コンピュータ上で一度のシミュレーションで完了するもの,つまり単にファイルを開くだけのものを画像/絵画として,逐次リアルタイムにシミュレーションされつづけ,画面が更新され続けるものを立体/彫刻としてとらえるのはちょっとアリかなと思っています.一度で全体が見渡せるものが絵画,周囲を回って見なければならないのが彫刻だという普通の話なんですが,コンピュータ上での計算,シミュレーションの時間的差として現れてくることに着目して何か考えられるんじゃないかと.p.90 
ディスプレイの内/外は接続可能か? 谷口暁彦×HouxoQue
memo640
The new form of photography may have removed the photographer from the mechanical process, but Street View photographs nonetheless remain cultural texts demanding interpretation. This very way of recording our world, this tension between an automated camera and a human who seeks meaning, reflects our modern experience. As social beings we want to matter and we want to matter to someone, we want to count and be counted, but loneliness and anonymity are more often our plight.

IMG MGMT: The Nine Eyes of Google Street View by JON RAFMAN on AUGUST 12, 2009
http://artfcity.com/2009/08/12/img-mgmt-the-nine-eyes-of-google-street-view/

写真のあたらしいかたちは機械的プロセスから写真家を除外していくけれど,ストリート・ビューの写真には解釈を要求する文化的テキストがとどまっている.私たちの世界を記録していくこの方法は,自動化されたカメラと意味を求めるヒトとのあいだに生じている緊張状態という近代からの体験を反映している.社会的存在として私たちは誰かと関係したいし,価値を求めたいし,価値を求められたい,しかし,私たちはかなりしばしば孤独と匿名性な苦境に陥る.

memo641
Stephen Froese: There is also something interesting about the disjuncts in translation from digital model to physical space, especially in an installation like the one at Palazzo Peckham.

Jon Rafman: I actually think that was one of the aspects in which the project failed — the fact that it became so much about the energy and time it took to build it. I don’t like it when labor — how difficult it was to make — becomes the main focus, because it obfuscates the original simplicity of the conceptual gesture, and it just becomes crafty. Sometimes installations can lean too heavily on craft rather than the ideas.

http://jonrafman.com/PU_JonRafman.pdf

Stephen Froese: デジタルモデルからフィジカル空間への移行における分離についての興味深いこともあります.特に,Palazzo Peckhamでのインスタレーションのようなものです.

Jon Rafman: そのプロジェクトが失敗したひとつの側面は,それをつくるの多くの時間がかかって多大な努力をしたことだと,私は本当に思っています.どうやってつくるのかが難しくて,労働にメインフォーカスされたとき,私はそれがそれが嫌いでした.なぜなら,そのことは概念的身振りがもつ本来のシンプルさがうやむやにするからです.そうすると,それは単なる悪賢い偽装にになってしまうのです.時々,インスタレーションはアイデアというよりも偽装的なものに大きく傾くときがあります.

memo642
「布」というテクスチャに3Dモデルの「テクスチャ」として引き伸ばされ,歪んだ2D画像をプリントする.この操作に対する意識をもつことから生まれる感覚があるはずである.そして,この感覚をもとには「平面的な」2D画像が,歪む,引き伸ばされるという操作をされるという「彫刻的」な行為・処理がある.それは2Dから3Dへと座標変換を行うことにすぎないのかもしれない.けれど,そこでの処理は「歪む,引き伸ばされる」という彫刻的な操作への感覚を引き起こす.「彫刻的」な行為・処理ができるから画像が「テクスチャ」になるとも言える.一度,「テクスチャ」に変換された画像は,画像でありながら彫刻的感覚のもとにあることになる.

memo643
テクスチャを透してモデルを見る:ポストインターネットにおける2Dと3D

1.偽造の惑星
モデルとテクステャは分離不可ではないが,テクスチャは3DCGの本質ではない.
2.Google Earth
Google Earthは現実がイメージであることを示した.ここでは3Dモデルとテクスチャとは分離した別ものだと考えられているが,それらは「密着」している.そして,その「密着」ゆえにあたらしい表象となっている.
3.ポストインターネットにおけるテクスチャと3Dモデルの分離
インターネット上のイメージやそれが作り出す空間は,もはやハッキングやコーディングによって開拓しなければならない新大陸ではない.それは単に現実を構成する一つの素材であり,素朴だがフィジカルでリアルな“物質”のような,あるリアリティをもちはじめたように思われる.(p.119) 
ググっても出てこない,ぼくが知りうるネットアートについての歴史の断片,そして最近のこと 谷口暁彦 in IDEA No.366
インターネット上のイメージやそれが作り出す空間を構成する素材の解体がはじまる.その手始めとして,これまで密着していてあたかもひとつの「イメージ」として機能していた3Dモデルとテクスチャとが分離させられる. 
4.テクスチャを透してモデルを見るいくつかの方法
立体・平面が絶対的なものでなくなり,立体は平面に包まれ,平面は立体に従って歪み・伸ばされるものになる.立体を包むために3D→2Dの座標変換が行われ,歪み・伸びた画像がテクスチャである.
テクスチャの貼り方  
2次元の画像を3次元のオブジェクトに貼り付けるには,その座標変換を設定しなければなりません.ここでは,この変換の方式をテクスチャの貼り方として,いくつか紹介していきます.ソフトウェアによって多少呼び名や扱いが異なりますが,基本的な考え方は同じです.いつくか用意されている投影方式からそれらの特性を十分吟味して,オブジェクト形状にマッチするものを選び,投影する軸(XYZ),大きさ,タイリングなどを決め,できるだけテクスチャの伸びや歪みなどの不具合がない,あるいは,できるだけ目立たないように調整するというのが一連の流れになります.(p.28) 
テクスチャ教科書[Texture Imaging]武田哲也
4−1:クレメント・ヴァッラ《The Universal Texture》2012,《The Universal Texture Recreated (46°42’3.50″N, 120°26’28.59″W)》2014

画像平面が示す事物の陰影をコンピュータが処理し3Dモデルを形成される.そして,そのモデルを覆うようにもとの画像がそのテクスチャに変換される.そのときのコンピュータの処理とヒトの認識のズレを取り出す.コンピュータとヒトとのあいだの処理・認識のズレが見られるテクスチャが「布=テクスチャ」に転写され,ウェブカメラで切り取られ,再び画像化される.その際,「テクスチャ オン テクスチャ」にはモデルがないままである. 
 
4−2:ジョン・ラフマン《Brand New Paint Job》2013

2Dテクスチャと3Dモデルとのあいだの操作とそこから生まれる解釈を考える.ボタンを押すような最小化された行為でモデルをテクスチャで包むことが理想であるが,リアル3Dモデルをテクスチャで覆うには「労働」が必要である.この「労働」ゆえに,3Dモデルと2Dテクスチャを並置するというアイデアは偽装的なものになってしまう.コンピュータ内でボタン一つで3Dモデルを包む2Dテクスチャ=絵画は,3Dモデルに従って伸び・歪む.3Dモデルはかたちをかえることはないが,その意味は表面のテクスチャによって変えられている.ラフマンはテクスチャとモデルの分離を前提としてそれらの操作を施し,そこに異なる意味をもたせて「セカンドライフ」を「ファーストライフ」に移すプロトタイプをつくり続けている. 
4−3:谷口暁彦「Study for Sculpture」
非物質化の先にネットワークやインターフェースといった,目に見えないものによる立体性,彫刻性がありえるかもしれない.(p.90) 
ディスプレイの内/外は接続可能か? 谷口暁彦×HouxoQue in 美術手帖 2015年6月号

谷口はあたかも従うべき3Dモデルをもっていないようなテクスチャを提示する.それは「見えないもののテクスチャ」とも言えるようなものである.ヴァッラはテクスチャを「布」というテクスチャに転写して,モデルなのかテクスチャなのかを曖昧なままその存在を保持したのに対して,谷口はモデルがあたかもないかのようにテクスチャのみが硬化することでそこにかたちがつくられていると思わせるような映像を制作する.モデルのあるなしにかかわらず,テクスチャを液化・硬化させる実験のなかで,谷口はモデルなきテクスチャのありかたを示している.


memo644
テクスチャを透してモデルを見てみると:ポストインターネットにおける2D−3D

1.偽造の惑星からGoogle Earthへ
モデル=テクスチャをつくるアルゴリズム 
現象をコンピュータの中で構築可能な形に解釈し直す必要があるのです.
解釈の正しさはでき上がった画像の質に表れます.解釈が間違っている画像に,われわれはリアリティを感じられません.
このことを裏返しに考えてみると,コンピュータの中に現象を再構築する作業とは,じつは世界をとらえるための新しい方法を研究するのと同じ作業なのではないでしょうか? p.2
ハイパーテクスチャー ケン・パーリン
この3次元テクスチャアの考え方では,テクスチャアはただ表面のみにあるのではなく,空間全体に潜在的に拡がっているのです.表面に見える色は,じつは中身のつまった素材(たとえば木や大理石)から,たまたま切り取った面によって見えているといったほうが近いのです.p.47
そういう意味で,すべてのコンピュータ・グラフィックスは,なんら本質をつかんだことにはならないのかもしれませんが,まったく新しい方法を私たちが用いたことによって,対象に対する新しいアプローチが生まれ,結果的に対象そのものに対する私たち自身の認識が変わってしまうことも起こりうるでしょう.この偽造の惑星を見るにつけ,現実の惑星の見え方が,この惑星の1パラメーターの状態に見えるようになってしまうかもしれないと思うのです.p.175 
藤幡正樹『コンピュータ・グラフィックスの軌跡』1998 
モデル>テクスチャ
コンピューター・グラフィックスの世界には,マッピングという技法があります.これは,物質の表面の色彩をそのまま画像ファイルとして保持しておき,これを3次元の物体を構成しているポリゴンに張りつけようというアイデアです.物体の色彩を,そのままその表面からいただいてきて,つくられた形状に張りつけるわけです.これは音楽の世界におけるデジタル・サンプリングと同様の技法で,利用価値はたいへん高いといわざるをえませんが,きわめて直接的な解法であって本質的な解法ではないのです.まさに対象を表面的にしか見ていないということです.pp.81-82 
藤幡正樹『カラー・アズ・ア・コンセプト:デジタル時代の色彩論』1997
テクスチャの貼り方
2次元の画像を3次元のオブジェクトに貼り付けるには,その座標変換を設定しなければなりません.ここでは,この変換の方式をテクスチャの貼り方として,いくつか紹介していきます.ソフトウェアによって多少呼び名や扱いが異なりますが,基本的な考え方は同じです.いつくか用意されている投影方式からそれらの特性を十分吟味して,オブジェクト形状にマッチするものを選び,投影する軸(XYZ),大きさ,タイリングなどを決め,できるだけテクスチャの伸びや歪みなどの不具合がない,あるいは,できるだけ目立たないように調整するというのが一連の流れになります.p.28 
武田哲也『テクスチャ教科書[Texture Imaging]』2004
テクスチャ=立体の表面を包むために3D→2Dの座標変換が行われて歪んだ画像
2005_Google Earth
モデル<テクスチャ/モデルとテクスチャの密着
→あたらしいイメージの生成
これは板というイメージが別の物質によって実体化されたモノである.表面を覆い尽くしているイメージが,その下にある支持体とぴったりと寄り添っているために,それがイメージであることがバレにくいだけだ.p.220
こうした事例の究極的な予測を Google Earth は見せている.それは地図が場所を指示する代名詞としての作用をもっていたことの延長線上に出現したページだが,問題なのはそれが自分自身の場所も含み込んでいることである.このページにアクセスして,誰もがすることは,「私の住む場所」を探すことだろう.それを外側から見ること.しかも,ディスプレイ上のイメージとして見ることは,それとこれを同一視しようということであり,現実をイメージと同等の対象として扱うことである.p.226 
藤幡正樹『不完全な現実:デジタル・メディアの経験』2009
メインのグーグル・マップウィンドウに現われる地球表面の表示は「3Dビューワー」と呼ばれ,衛星写真,3Dの高度データ,建物の3Dモデルと紙の地図で馴染み深いグラフィック要素(ベクターグラフィック,道路,国境などを示すテキスト)で構成される.重要なことは,その4種類のデータが「くっついている」(例えば,それぞれが直接的に重ねっている)ことである.それゆえに,4種類のデータはひとつの視覚的資料としてあらわれる.これはハイブリッドについての完璧な例である.異なった種類のメディアが集まって,ひとつのあたらしい表象をつくるのである.p.193 
レフ・マノヴィッチ『Software takes command』2013

2.ポストインターネットにおけるテクスチャと3Dモデルの分離
ポスト・インターネット
「ポスト・インターネット」という言葉は,2008年にアーティスト・批評家のマリサ・オルソンがインタビューで言ったことがはじまりとされている.このときのオルソンは,この言葉でオンラインとオフラインの区別がもはや成立しないことを意味していた.2011年になると,オルソンは「ポスト・インターネット」は単に「インターネットの後」という意味で使ったほうがいいと書く.わずか3年のあいだに「ポスト・インターネット」が強調していたネットとリアルの区別はもはや意識されることすらなくなり,インターネット以後の表現に対するラベルとして「ポスト・インターネット」が使われる状況になったのである. 
ポスト・インターネット用語20 水野担当分
インターネット上のイメージやそれが作り出す空間は,もはやハッキングやコーディングによって開拓しなければならない新大陸ではない.それは単に現実を構成する一つの素材であり,素朴だがフィジカルでリアルな“物質”のような,あるリアリティをもちはじめたように思われる.p.119 
谷口暁彦「ググっても出てこない,ぼくが知りうるネットアートについての歴史の断片,そして最近のこと」in IDEA No.366,2014
モデル<テクスチャ
≠イメージ
=素朴だがフィジカルでリアルな“物質”
谷口 最近,Googleストリートビューがインターネットにあるトドメを刺したと考えています.現実と異なるオルタナティブな場所としてのインターネットがストリートビューの登場で死んだんじゃないかと.インターネットの中に地球のほとんどが記録され,「現在地ボタン」を押すとブラウザが現在地を取得して「あなたはここにいます」って指示してしまう.現実を指し示し,構成する,ひとつのレイヤーになってしまった.p.91
谷口 僕はインターネットが特別なものでなくなり,現実を構成するいち要素になってしまっても,現実とのズレや齟齬の中に,インターネット固有の場所性を見出すことができるんじゃないかなと思います.ここ数年,ネット上に3DCGで構築したバーチャルなギャラリー空間で行われる展覧会が数多くありました.Chrystal GalleryやBarmecidal Projectsなど,それらの多くでは現実のギャラリー空間を忠実に再現した場所に,ほんの少し現実では不可能な形態や,違和感のある作品を配置して固有の物質性をつくり出そうとしていた.また「An Immaterial Survay of Our Peers」(2010年)という展覧会では,記録写真を捏造することで現実には存在しない展覧会を開催していました.p.91
谷口 むしろ,インターネットと現実の関係が密接になったからこそ,わずかな操作でこうした両者の間の奇妙なリアリズムを生み出せているように思えます.この「間」のリアリティーがポスト・インターネットっぽさなのかなと思います.p.91 
谷口暁彦×HouxoQue「ディスプレイの内/外は接続可能か?」in 美術手帖 2015年6月号
現実とインターネットとの「間」をモデルとテクスチャとの「間」に見ることができるのではないだろうか?
モデル<テクスチャ
≠イメージ
=素朴だがフィジカルでリアルな“物質”
→テクスチャを“物質”と見なすと,モデルとテクスチャの密着が解け,そこにできた隙間にあたらしいリアリティが生じているのではないだろうか?

3.テクスチャを透してモデルを見てみる方法_谷口暁彦の場合
最近「彫刻」に可能性があるんじゃないかと思っています.「彫刻」というジャンルではなく,「彫刻」的な考え方ですね.モホリ=ナギが著書『ザ ニュー ヴィジョン』(1928年)の中で,彫刻がどういう歴史をたどっているかについて書いているんですが,ガラスや透明な樹脂を使った彫刻のようにマッスが希薄になり,そこからモビール的な動く彫刻へ,最後は光や映像のようなものへと,非物質的になっていく変遷が記されているんです.そこでは今で言うところのプロジェクション・マッピングみたいなものも示唆しています.p.89−90 
谷口暁彦×HouxoQue「ディスプレイの内/外は接続可能か?」in 美術手帖 2015年6月号
こうした一連のチャレンジには,イメージをモノ化して,彫刻にする作用があると言えるだろう.Google Earthが,現実をイメージと等価の対象としてゆくのに対して,イメージをイメージのまま空間化することで現実を新しく更新する,という言い方でもいいのかもしれない.それは動画像であれば,さらに複雑なことが可能であるし,たぶんインタラクティヴな環境を上手に作ることで,イメージの中の対象物が,モノとして認知されるされるような状態を作ることも可能だろう.それは言葉が生まれる瞬間に立ち会うように,イメージがオブジェクトとして機能してしまうような新しい言語記号の発生に立ち会うことを意味するだろう.p.230 
藤幡正樹『不完全な現実:デジタル・メディアの経験』2009
プロジェクション・マッピングが現代の彫刻だと言うと面白くないんだけど,そうした非物質化の先にネットワークやインターフェースといった,目に見えないものによる立体性,彫刻性がありえるかもしれないと考えるのは面白そうかなと.p.89−90
暫定的にですが,コンピュータ上で一度のシミュレーションで完了するもの,つまり単にファイルを開くだけのものを画像/絵画として,逐次リアルタイムにシミュレーションされつづけ,画面が更新され続けるものを立体/彫刻としてとらえるのはちょっとアリかなと思っています.一度で全体が見渡せるものが絵画,周囲を回って見なければならないのが彫刻だという普通の話なんですが,コンピュータ上での計算,シミュレーションの時間的差として現れてくることに着目して何か考えられるんじゃないかと.p.90 
谷口暁彦×HouxoQue「ディスプレイの内/外は接続可能か?」in 美術手帖 2015年6月号
モデル<テクスチャ
≠イメージ
=素朴だがフィジカルでリアルな“物質”
→谷口は従うべき3Dモデルをもっていない「見えないもののテクスチャ」とも言えるものをつくる.そのテクスチャは“物質”のように液化・硬化しつつ,「モデル」を透かし見れるような空間をつくりだす.
それぞれの作品や展覧会は,インターネットと現実の空間との間にある齟齬や,緊張関係にその成立条件があったと言える.それは,一つの閉じた窓として成立する絵画や画像ではなく,その作品の周囲をぐるりと見て周ることができる「彫刻」であるからこそ,必然的にその作品の周囲で空気のように充填された空間を巻き込むことになるからだ.そしてその空間は,たんにヴァーチャルか現実かという対立にあるのではなく,その両者が対立と調停を繰り返すような,展開された場としてあるのではないだろうか.p.89 
谷口暁彦「彫刻とポスト・インターネット」のための覚え書き in MASSAGE 10
モデル<テクスチャ
≠イメージ
=素朴だがフィジカルでリアルな“物質”
→テクスチャを液化・硬化させる実験のなかで,谷口はモデルを前提としない理念的なテクスチャを抽出し,そのテクスチャを透してはじめて見える「見えないもの」とそれを取り巻く空間を示す.
(コンピュータのなかに再構成された現象を“物質”化し,その周囲の空間をリアル空間にもってくる試み→滲み出る板?)

memo645
テクスチャを透してモデルを見てみると:ポストインターネットにおける2D−3D_発表メモ 3.33(追加部分)

「モデル=テクスチャ」をつくるアルゴリズムをつくり,現象をコンピュータのなかに再構成する.そこにできるのはもうひとつの惑星であり,パラメーターの変化させればその惑星は地球になりうる.アルゴリズムによってモデルとテクスチャを不分離に含んだ世界そのものをつくりだす.

世界そのものをつくるのではなく,世界のかたちだけをある程度つくって,そこに世界を写しとった画像を貼るというのがテクスチャ・マッピングという手法である.世界を解釈することなく,その表面だけを借りてきて,「世界っぽい」「現象っぽい」リアリティを生み出す.その際にテクスチャとなる画像はモデルの表面を包むために3D→2Dの座標変換が行われて歪むことになる.

アルゴリズムでひとつの世界を再構成された惑星は,2005年にテクスチャでパッチワークされた地球として私たちの前に現れた.「地球っぽさ」を示すGoogle Earthは,地球のモデルに膨大なテクスチャを貼り付けてできあがっている.藤幡はGoogle Earthによって現実がイメージになってしまったと言い,レフ・マノヴィッチはGoogle MAPのデータの密着をハイブリッドなあたらしい表象と呼んだ.いずれにしても,Googleは膨大なテクスチャを密着させることで,もうひとつの地球っぽいものをつくってしまったのである.

Googleがつくった「地球っぽい」ものは,ネットと現実との関係を変え,ネットとリアルとの区別がもはや意味のないものにしてしまった.その区別のできなさを,藤幡やマノヴィッチは「イメージ」から捉えたが,ポストインターネット世代のアーティスト・谷口暁彦はGoogleが展開する「イメージ」に対して「素朴だがフィジカルでリアルな“物質”のような,あるリアリティをもちはじめた」という感覚を示す.「イメージ」と”物質”という言葉のちがいに「テクスチャ」に対する感覚のちがいが示されている.それはネットとリアルとの関係に対する感覚とつながっているのではないだろうか.谷口の言説をもう少し追ってみたい.

谷口もまたGoogleのサービスのひとつ「Google ストリートビュー」にネットとリアルのあいだの決定的な変化を見ている.インターネットが現実のひとつのレイヤーになってしまったという認識は,藤幡.マノヴィッチに近いものがある.しかし,谷口はそこからさらに,それでもなお,ネットと現実とのあいだのズレ・齟齬のなかにインターネット固有の場所性・固有の物質性を見つけようとする.ネットとリアルとが密接になったからこそ,密着するように重なりあっているからこそ,ほんの少しの操作でそのズレが生まれ,そこに「奇妙なリアリズム」が発生するという,谷口の考えは興味深い.

現実とインターネットと「間」を,谷口やほかのポストインターネット世代の作家たちがつくる表現における「モデル」と「テクスチャ」の「間」に見ることができるのではないだろうか.藤幡・マノヴィッチはモデルとテクスチャの密着によるあたらしい表象をGoogle Earthに見ていたが,谷口はGoogle Earthやストリートビューで展開するイメージを”物質”として扱う.これはモデルを覆うテクスチャを”物質”として捉えてみるという実験なのではないだろうか? テクスチャはモデルのリアリティを強調するために歪んだ画像であったが,ネットとリアルとの区別をしなくなったポストインターネットでは,モデルとテクスチャの意味も変化し,テクスチャという画像=イメージもまた物質のように捉える感覚/扱える操作がでてきていると考えられる.

モホリ=ナギが言った非物質化の先にあるものを,藤幡はナギの考えに沿ったプロジェクトション・マッピングに見出す.プロジェクトション・マッピングという操作は,藤幡が「イメージ」にこだわり続けていることを示している.対して,谷口は「彫刻的」な考えでネットワークやインターフェイスという目に見えない非物質的存在を捉えようとする.そこでは「イメージがオブジェクトして機能する」ではなく,「テクスチャがオブジェクト=モデルなのだ」と言える映像をつくり,それを「彫刻のためのスタディ」というTumblrサイトで発表していた.
谷口は従うべき3Dモデルをもっていない「見えないもののテクスチャ」とも言えるものをつくる.そのテクスチャは“物質”のように液化・硬化して,「モデル」の存在を透かし見せる.テクスチャを液化・硬化させる実験のなかで,谷口はモデルを前提としない現実世界にはなく,コンピュータ・ネットワーク・インターフェイスといったものだけがもつ理念的なテクスチャを抽出し,そのテクスチャを透してはじめて見える「見えないもの」とそれを取り巻く空間を示す.

memo646
発表後,ボーっとしていたのかもしれない.でも,発表で終りなわけではないので,考えつづけるために焼き鳥屋に行って,焼き鳥食べながらブレストしてみた.

谷口暁彦さんの作品で「テクスチャの物質化」が起こって,モデルとテクスチャのあいだに緊張関係というか,その関係に齟齬を引き起こしたとすると,マテリアライジング展3に出品されている作品は,その「齟齬」そのものをというか,モデルとテクスチャで物質化されていない方,それは厳密にはわからないのだけど,境界を生じさせる「空間」が問題になっている感じがする.境界をつくる隙間といってもいいのかもしれない.境界そのものではなく,境界がつくられる空間が問題なっている.それは個展「滲み出る板」からつながる問題意識なのではないだろうか.

そんなことを考えつつ,境界そのものを立ち上げて,そこから空間全体に拡張していく何かをつくりあげたのエキソニモのディスプレイにペイントしていくシリーズではないのだろうかと考ええた.「情報身体」という単語もつ「情報」と「身体」とのあいだのズレや隙間,そこを明確にすることで,情報と身体との区別をはっきりさせるのではなく,逆に,これらふたつが「情報身体」をつくりあげる空間に含まれるという感覚をつくりあげる.立ち上がる境界線が,境界線を含む空間,質感=テクスチャを立ち上げて,その線を空間に含ませるということが起こっているのではないかということを考えた.

谷口暁彦さんとエキソニモの対比するときっと面白いと思いつつも,その前に谷口暁彦さんの作品読解をしつつ,クレメント・ヴァッラやジョン・ラフマンがやっている「テクスチャ on テクスチャ」の質感を考えることが必要なんだろうなと思ったりしている.

memo647
Extracting a parallel instance of the work as a three-dimensional representation of geometric data, Exhibition One offers an opportunity to present an alternate framework that posits the questions: Where does an artwork stop and its documentation begin? What is the function of a prospective image that is decisively not-a-model?

幾何学的データの三次元的表象として作品のパラレルインスタンスを抜き出すことで,Exhibition Oneは「アート作品はどこで終り,どこから記録がはじまるのか?」「断固としてモデルではない将来のイメージの機能は何か?」という問いを強く提示するもうひとつのフレームワークを示すチャンスを提供している.

Chrystal Gallery Exhibition One opens at Gentili Apri and online. 8pm on Tuesday October 5th, 2010.

http://chrystalgallery.info/exhibitionOne.html

memo648
New New Wight is a virtual exhibition space based on the New Wight Gallery located at UCLA. It is conceived as a space for art-making liberated from institutional limitations such as the prohibition of food and plants inside the gallery, but also from the inherent limitations of our material world. The NNW is a space where the only portal required to enter is the internet and where the laws of physics no longer apply.

http://dma.ucla.edu/exhibitions/newnewwight/thegalleryisnaked/index.html

「あたらしい あたらしい 重さ[New New Wight]」はUCLAにある「あたらしい重さギャラリー[the New Wight Gallery]」を母体とする仮想の展示空間です.そこはギャラリーで禁止されている食べ物や植物の持ち込みといった施設の制限から自由になった作品制作をする場所として考えられています.それだけでなく,私たちの物質的世界に固有の制限からも自由な場所になっています.「あたらしい あたらしい 重さ」は,入場するためのたったひとつの入り口はインターネットであり,物理法則が適用されない空間なのです.

memo649
そこはコピーアンドペーストで,クローンスタンプで画像についてツッコミをいれることもあれば,ケバケバしい色のテクスチャが貼り付けられた石を3D空間に見ていたりもする.テクスチャがケバケバしくなっているのに,そこに「石」のかたちを見てしまうのは,テクスチャではなくモデルを知覚のヒントにしているからであろうか.モデル=かたちのほうがテクスチャよりもつよくて,テクスチャは単にモデルに「質感」を与えているにすぎない.だからこそ,テクスチャはいじりがいあるのかも.そして,2次元のテクスチャはコピーアンドペーストしたり,クローンスタンプとかブラシとかPhotoshop的なものでつくられて,Photoshop的な質感を醸し出す.大本の存在をモデルに任せてテクスチャであそぶ.存在はモデルが保証する.別に保証なんてされなくてもいいのだけれど,いや,やはり存在は保証されないといけないのかもしれない.そうしないと認識が難しいのかもしれない.いやいやモデルとテクスチャを2項対立的に考えるのをやめるべきなのかもしれない.でも,やはりモデルは強い感じがするし,どうしてもモデルの存在を見てしまう.モデルを見るまえの,テクスチャだけを見ているほんの少しの時間を拡張することで,今までにない,それはコンピュータ以前にはなかった質感を認識できるのかしれないのかもと思ってみたりしているけど,そのあたらしい認識は一瞬しかない.テクスチャは透けて,そこにモデルが見えてしまう.モデルが見えることで,テクスチャが改めて認識される.そう考えると,テクスチャを透かしているその認識に意識的になることはとても難しいのかもしれない.デジタル時代の物質性,あるいは,単にPhotoshopのブラシという言葉あった.物質性とブラシは物質繋がりだけれど,Photoshopのブラシが意味するのは,ブラシが描いたピクセルだろう.そうすると物質とイメージが結びつく.ダイレクトに結びつく.でも,それが何を意味しているのはわからない.「デジタル時代の物質性,あるいは,単にPhotoshopのブラシ」という意識そのものを考えた方がいいのかもしれない.

memo650
3D空間のチープさというか,あえてのチープさ,リアルにしました感はなんなんだろうか.超リアルにがんばりましたではなく,デフォルト的なリアルさ.いや,デフォルト的なリアルさってなんだ! こういった周りくどい質感が気分っぽい.どれも確定,断言できない感じですすでいく,「っぽさ」の連続.もう「っぽい」もの意外をしらなかったりするから,「っぽい」がリアルとか言ってしまうのはなしで,それはあくまでも「っぽさ」であって,その「っぽさ」をどのように確定・断言すること言葉をつくるのかが問題になっているのだろうか.でも,「っぽさ」は「っぽさ」を重ねていくことが一番その「っぽさ」を語れるのではないのだろうかとも思う.

memo651
モデルを見ないでテクスチャだけを見てみるとして,テクスチャを操作してみると,そこにモデルはやっぱりあって,そのモデルのあり方に興味があるのかもしれない.
それにしても,3Dギャラリーで展示されるオブジェクトのなかに必ずといっていいほど「布」があることが気になる.「テクスチャ オン テクスチャ」という言葉から,3Dギャラリーのオブジェクトのあり方,モデル,モデルではないモデルのあり方とか考えられたら面白いかもしれない.

今日一日で考えたことが書き出してみたら,大した長さにもならず,大したことでもなかった.と,書いているうちに大した考えが出てこない.そのくらい疲れている.疲れているから考えが出てこないわけでもないので,とりあえず寝ます.

memo652
Jan Robert Leegte《Google Maps as a Sculpture》http://www.googlemapsasasculpture.com が気になる.Google Mapsがテクスチャでしかないことを身も蓋もなく表している.立方体に貼り付けらGoogle Maps.それは立方体のテクスチャとして機能している.立方体に質感を与えるものになったGoogle Mapsを操作すると,ブラウザの枠内に展開されるGoogle Mapsそのものとは異なる自己帰属感を得ることができる.自分の行為と連動しているのはGoogle Mapsで変わりがないのだが,立方体というモデルがそこに作用してきて,Google Mapsを触りながら立方体に触れているように感じられる.立方体というブツがクルクルと周ることで存在し,周囲の空間をもひとつの作品として提示する.正対しているときは小さな平面となる.そのときは物質感が極端になくなる.テクスチャそのものがイメージになっている.しかし,それが少しでも動き出すとテクスチャはブツとなり,そこに彫刻性が生まれる.Google Mapsのテクスチャを「彫刻」にしてしまうJan Robert Leegteの発想はとても面白い.彼の言葉も興味をそそる.

The work is yet another iteration in the ongoing personal quest to grasp the materiality within the computer. Or as I have began to name it: hypermateriality.

http://www.domain-gallery.net/domain_gallery_janrobertletgee.html

この作品はコンピュータ内の物質性を掴もうと継続して行っている個人的探求のもうひとつの繰返しである.もしくは,私が「ハイパーマテリアリティ」と名付け始めたものである.

memo653
Fenêtreprojectis the name of an on-going collaboration between Francesca Mangion & Dustin  Cauchi. As Fenêtreproject the duo work within parameters that can be described  as a hybrid form of curatorial /editorial/convening/creative practice. This approach sheds light on the practical and conceptual space between curatorial  and creative practices and its diffusion, dispersal and  eventual  reconfiguration into online spaces. Fenêtreproject’s main output takes the form of online/ offline events.  These curated shows & events function as an on-going research project that deals with online / offline spaces and the virtualization of the physical and narratives related to the assimilation of information.

http://www.fenetreproject.org/about_us

FenêtreprojectisはFrancesca MangionとDustin Cauchiが現在行っているコラボーレションの名称である.Fenêtreprojectisとしてふたりの仕事はキュレーション/編集/展示の開催/創造的実践のハイブリッド形態と記述されるパラメーターのなかで行われる.このアプローチはキュレーションや創造的実践のあいだの実践的,概念的空間に光を当てるともに,それ自体を拡散させ,最終的にはオンラインスペースで再構成される.Fenêtreprojectisの主なアウトプットはオンラン/オフラインのイベントの形態をとる.これらのキュレーションされが展示やイベントはオンライン/オフライン空間と情報の融合と関連した物質性・物語性の仮想化についての現在進行形の調査プロジェクトとして機能する.

memo654
Explains Papamargariti, “Everything can fit to the never ending fragmented landscape as long as it is reflective, refractive and shiny. The most complex texture activates the perception of a twisted materiality in which the organic element is re-embedded to the artificial language while the overwhelming production of these objects creates an instant immersion to a new ‘virtuality’, composed from distorted abstract morphological schemes.” Although she claims, “no sense of scale is necessary at this uncanny n-dimensional field,” New Nosthetics exists within the kind of anything-goes parallel plane that makes us want to leave a trail of digital breadcrumbs just to find our way out.

http://thecreatorsproject.vice.com/blog/no-sense-of-scale-is-necessary-in-morphological-film-new-nosthetics?utm_source=tcpfbus

Papamargaritiは次のように説明する.「すべてのものはそれが反射していて,屈折していて,輝いている限り決して終わることがない断片化した風景に適合する.最も複雑なテクスチャは,人工的な言語に再び埋め込まれた有機的な要素をもつ捻れた物質性の知覚を活性化しているあいだ,これらのオブジェクトの膨大な量の生産が,ゆがんだ抽象的な形態学システムから構成されるあたらしい「仮想性」への即席の没入感をつくっている」.彼女は「不気味なn次元領域ではスケールの感覚は必要ない」と主張するが,私たちがたどってきた足跡を辿るためのデジタルなパンくずを残そうとさせる何でもありのパラレル平面のなかにNew Nostheticsは存在している.

memo655
A new digital dazzling kingdom of objects keeps rising. Everything can fit to the neverending fragmented landscape as long as it is reflective, refractive and shiny. The most complex texture activates the perception of a twisted materiality in which the organic element is re-embeded to the artificial language while the overwhelming production of these objects creates an instant immersion to a new ‘virtuality’, composed from distorted abstract morphological schemes. Attention: no sense of scale is necessary at this uncanny n-dimensional field.

https://vimeo.com/104172004

ひとつのあたらしいデジタルのきらびやか王国でオブジェクトが現れ続ける.すべてのものはそれが反射していて,屈折していて,輝いている限り決して終わることがない断片化した風景に適合する.最も複雑なテクスチャは,人工的な言語に再び埋め込まれた有機的な要素をもつ捻れた物質性の知覚を活性化しているあいだ,これらのオブジェクトの膨大な量の生産が,ゆがんだ抽象的な形態学システムから構成されるあたらしい「仮想性」への即席の没入感をつくっている.注意:不気味なn次元領域ではスケールの感覚は必要ではない.

memo656
メディア芸術カレントコンテンツに展評を書いた「act natural」を授業で取り上げて話している.モデルとテクスチャの流れから,act natural を見ている.リアルギャラリー空間をコピーした3D空間ということが,モデルとテクスチャの関係から改めて考えてみると面白いかったりするというか,リアル空間をコピーすることで,3Dモデル空間で行わていることがいちいち複雑担っている感じがする.この「いちいち複雑になっている」感じというのは,どこかよかった.うまく話すことができないけど,リアルにしても,ネット,3Dモデル空間でも,それって当たり前でしょ! ということが,双方に対して言えなくなるような感じがする.リアルでは当たり前だけど,それをコピーした3Dモデル空間では当たり前ではなくて,3Dモデル空間では当たり前だけど,リアルをコピーした3Dモデル空間では当たり前にやられると,少し困るみたいな感じ.あと,リアル空間をコピーして,ペーストしたのが3Dモデル空間なんだけれど,そこには⌘C+⌘Vのようなボタン操作できない「労働/作業」感があるから,その空間はどうしても「⌘C+⌘V」で増殖できない感じがある.「労働/作業」感を忘れることができないから,もともとあるリアル空間を尊重してしまうというか,リアル空間が主で,コピー3D空間を従と感じてしまう.「act natural」でやっていることは,この主従関係の逆転から生じる自然の行為とは何かということなんだろうけど,空間はリアルとネットの主従関係のままに底にあるような感じする.だからこそ,双方にとっての当たり前が当たり前ではなくなっているのだろうが,どこかひっかかかるなと思って,授業で話していた.今回の授業ですべて終わらなかったので,次の授業で話しているときに何かわかるかもしれない.

memo657
東京出張でsoboに行って「BACON / unknown dào fú」を見てきた.木枠にスゥエットのテクスチャが貼ってあって,「布/テクスチャ」がここにもあったと思いながら楽しくながら写真を撮りまくってしまった.知覚で見るとスゥエットなんだけれど,遠くから見ていると,中国の赤い品々のなかでスゥエットのグレーはとても落ち着いた「色」というか「モノ」としてそこあった.全体としては赤とグレーの落ち着いた? ちょっとちがう.「ネットっぽい」という言葉を使わないで展示の雰囲気を伝えるにはどうしたらいいのだろうか.もちろん画像も使わないで,その雰囲気を伝え得ること.普段は柔らかいスゥエットが少し硬い表面として見える.このことが会場の雰囲気を決めている? いやスゥエットは「石」のようなブツとしてそこにあったような.いや,もう少し柔らかい雰囲気.やはり,スゥエットはスゥエットというテクスチャの雰囲気でそこにあったような気がする.それ以外の中国の赤い品々や赤い糸が巻かれた缶や落ちているペットボトルが雰囲気をネットっぽくしているけれど,優しげなスゥエットのテクスチャがその「ネットっぽさ」を拒絶している感じがする.

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gallery COEXIST-TOKYOで開催された展覧会「大気(air):旋律(air)」に「ポストインターネット・アート」を代表するアーティスト・谷口暁彦氏が出品しているため視察を行った.「ポストインターネット・アート」の定義はまちまちであるが,私はインターネットが当たり前になった状況で,リアルとインターネット,及び,インターネット体験を可能にするスマートフォンやタブレット,コンピュータのインターフェイスとの関係を改めて考察している作品のことを指すと考えている.

谷口氏は2014年制作の作品《嵌め殺し》を出品していた.この作品の外観は,天井から吊るされたiPadがサーキュレーターの風によってフラフラと揺れているものである.フラフラと揺れているiPadの背面カメラがリアルタイムに会場の様子をディスプレイに映し出し,その上に「窓と風でたなびいているカーテン」の3Dモデルが重ねられている.宙に浮いたように見えるiPadは「薄い板」という形状から,それ自体がひとつの「窓」のように機能しおり,その「iPad=窓」のなかにもうひとうの3Dモデルの窓がある.3Dモデルの窓はiPadのディスプレイに正対して配置されているのではなく,少し斜めに画面上に配置されている.そのため,3Dモデルの窓は「iPad=窓」が映し出す風景のなかでどこか所在が掴めない独立した存在のように見える.そして,窓につけられた3Dモデルのカーテンは揺れていて,それはiPadを揺らしているサーキュレーターの風と連動しているように見える.しかし,実際は3Dモデルのカーテンとサーキュレーターの風は全く関係していない.それでも,見る人はリアル世界にあるサーキュレーターの風がiPadのなかに入り込み,3Dモデルのカーテンを揺らしているように感じてしまう点が,この作品の興味深いところである.
「嵌め殺し」とは「開閉できない窓」を指す言葉で,通常は採光目的の「開ける」ことができない窓に使うことが多い.しかし,谷口氏の作品に存在する3Dモデルの窓は「通風」を目的とした「閉める」ことができない「嵌め殺し」の窓であり,リアル空間とiPadがつくる3D空間とのあいだに「風を通す」状況を提示していると言える.リアルとインターネットとの関係を改めて問うという意味で,谷口氏の《嵌め殺し》はポストインターネット・アートのひとつと考えられるのである.

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オンラインギャラリーについての講義をしたあとで,Joshua Citarellaの作品解説へといったのだけれど,うまく話せなかった.オンラインギャラリーでリアルを模したギャラリーをつくることで,オンラインとリアルとのちがいが強調される.この延長でJoshuaの「Compression Artifacts」を考えてみようとしただけれど,難しかった.リアルでの展示を記録して,リアルの方を「ない」ことにしてしまう.そうすることでネットのみにリアルの記録だけが残ることになる.ポストインターネットのNY派がよく使う手法ではある.Joshuaはリアルを燃やしてしまい,ネットにあげる画像はPhotoshopで加工する.リアルはいくつもつくられる.リアルはPhotoshopでつくられる.それが画像として提示される.3Dモデルではなく,写真の延長としての画像として提示される.

ここまで書いてきて,「写真の延長としての画像として提示される」という考えがいけないのではないかと思った.3DモデルのテクスチャをPhotoshopでつくっていると考えた方がいいのではないか.リアルもひとつの3Dモデルだと考えれば,モデルとテクスチャが密着した「リアルという3Dモデル」のテクスチャをPhotoshop=ソフトウェアで加工していると言える.そのときリアルは3Dモデルのテクスチャの初期値になっているだけで,あとは自由に改変可能性に開かれている.モデルは変わらないけれど,テクスチャのみが変わる.画像においては3Dモデルはすべてテクスチャと変換されるから,テクスチャの変化はモデルの変化でもあると考えることもできるのではないだろうか.ここまで考えたあとで授業をしたら,もう少し上手く話せただろうか.でも,ここまで書けたのは授業で話したからだから,聞いてくれた学生さんに感謝.

memo660
テクスチャとなったリアルの重ねるかたちで3Dモデルを置いてみる.リアル3Dモデルからその表面=テクスチャだけを抜き取るのが写真=画像.

3Dモデルのオンラインギャラリーを覗きこむことは昔も行われてきた.今,それをまた多くやられていることの意味を考える.スマートフォンやタブレットで透かして世界を見ていると錯覚させるかたちが重要なのではないだろうか?

反射光で見ていることにはなるが,どっか世界を透過している感じを与えているという感覚が興味深いのかもしれない.枠を透して世界を見る.カメラで世界を枠付けるのではなく,枠そのもので世界を切り取ること.薄い板というかたちから考える.

反射ではなく透過で考えること.重なりを透かすこと.両面から見えるようにすること. 調整レイヤーとテクスチャは同じかもしれない.

MacBook Proのディスプレイのコーティングが傷ついた.一番手前なのでカーソルはその傷の下を動くことになる.カーソルは傷つかない.ディスプレイが傷ついている.ディスプレイを透過できない.その傷だけが「モノ」として,私の視線を集める.ディスプレイ全体がモノであるのだが,傷ついたところだけテクスチャが変わっている.その変化の仕方が興味深いけど,とても(´・ω・`)な感じです.

memo661
ARAM BARTHOLL
What are you waiting for?
sculpture, 
acrylic screen print on wood , 600 x 185 x 90 cm
2014

What are you waiting for? represent the hands of Duke Nukem impatiently asking the player to continue to play while cracking his nuckles in a short four frame animation. Duke Nukem is an early first person shooter computer game and was very popular in the years after its release in1996. Very typical for the game genre the hands of the character appear in the foreground of the screen. In fact they represent the hands of the player in point of vision reaching into the digital game space.

The pixel image of the hands is converted into a low resolution half tone screen print grid and manually printed on pine wood boards.

アラム・バートル
あなたは何を待っているのか?
彫刻
板にアクリルによるスクリーンプリント,600 x 185 x 90 cm
2014

「あなたは何を待っているのか?」は,4コマの短いアニメーションで拳をならしながらプレイヤーがゲームを続けるのかをいらいらして待つデューク・ヌケメの手を表わしている.デューク・ヌケメは初期の一人称のシューティングコンピュータゲームで,1996年の発売以来人気を保っている.スクリーンの前景にキャラクターの手が現われるゲームジャンルで典型的なものである.実際,その両手はプレイヤーの手を表していて,プレイヤーをデジタルゲームの空間へと導く.

両手のピクセルイメージは低解像度のハーフトーンスクリーン印刷のグリッドに変換され,パイン材の板に手作業でプリントされた.

http://datenform.de/what-are-you-waiting-for-eng.html
Creative Commons license by-nc-sa 3.0

memo662
ARAM BARTHOLL
Point Of View
installation, c-print on pine wood cut outs
2015

アラム・バートル
視点
インスタレーション,カットされたバイン材にCプリント
2015

‘Point Of View’ questions the current paradigm shift of perspective. What is the role of the hand held screen framing our everyday life? How has gaming shaped the representation of our digital self?

《視点》はパースペクティブにおいて現在起こっているパラダイムシフトを問題にしている.日常生活を切り取っている手で持つことができるスクリーンの役割は何なのか? ゲームの体験が私たちのデジタルな自己の表象をどのように形成するのか?

Over the past 100 years the screen has moved constantly closer to our eyes. Most people today spend significantly more time looking at smart-phone screens than at computer screens or TVs (not to mention the cinema screen Games have been an important driving motor for the development of digital culture in the past four decades. The first person view popularized by early computer games like Doom and Duke Nukem has now entered the real world with the growing popularity of head-mounted cameras. GoPro and Google Glass users generate a constant stream of pictures with their hands in view like a digital avatar. A whole range of digital glasses are poised to enter the market. The Oculus Rift promises the classic idea of cyberspace an immersive reality, while people in public extend their body with a selfie stick. Is the view leaving our body now? Will the picture frame finally disappear?

過去100年以上ものあいだ,スクリーンは絶えず私たちの目に迫ってくるものであった.今日,ほとんどの人々はコンピュータやテレビ(ゆうまでもなく映画のスクリーン)よりもスマートフォンの画面をよく見ている.そして,過去四半世紀において,ゲームはデジタルカルチャーの進展に重要な役割を果たしている.ドゥームやディーク・ヌケメのような初期のコンピュータゲームよって人気を得た一人称の視点は,今ではヘッドマウント・カメラが人気になるとともにリアルの世界にも進出してきている.GoProとGoogle Glassを使っている人はデジタル世界のアバターのような視点の映像を彼ら自身の手でつくりづけている.全方位の領域がみえるデジタルメガネが市場にでる準備もできてる.Oculus Riftがサイバースペースに没入するという古典的なアイデアの実現を約束する一方で,人々は自撮り棒によって公の場で自身の身体を拡張している.今,視点は私たちの身体から離れつつあるのか? 画像の枠は最終的には消え去るのであろうか?

Let’s enjoy the last years of looking at each others screens in public transportation or over the shoulder in Let’s Play gaming videos. The point of view is changing.

公共交通機関でお互いのスクリーンを見ている,あるいはゲームをしているのを肩越しに見ている最後の数年間を楽しもう.視点は変わりつつある.

http://datenform.de/point-of-view-eng.html
Creative Commons license by-nc-sa 3.0

memo663
重なり 透過 テクスチャ 調整レイヤー 状態遷移と言ったキーワードから2d3dをまとめ直すのか.テクスチャ論というものが書けるのか.「重なり」と「調整レイヤー」のレイヤー部分のちがいはあるのか.重なりがレイヤーという感じがするのだが,レイヤーだと密着感がない.そこを明確にするといいのかもしれない.

memo664
Kim Laughtonが「テクスチャ」を配布していた.ロバにそのテクスチャを当てていた.テクスチャは平面的で,そこにどこかクレメント・グリーンバーグを思い出したりしながら,グリーンバーグのテキストを読んだりしていた.そこからブログを書こうとしたのだけれど,書く前に寝てしまった.今日はほとんど寝ていた.考える前に寝てしまった.その結果のこのmemoである.だからどうしたということもなく,ただただテキストを書くということだけで,ここまでキーボードを打ち続けている.

「テクスチャ」をリアル3Dモデルから剥ぎ取って,平面的なものをディスプレイに表示する.この変換に興味がある.「テクスチャ」をリアル3Dからはぎ取るなく,ディスプレイを「なし」にして,ディスプレイの枠だけでも,なんとなく3Dモデルからテクスチャを抜き出している感じがする.ようはフレームがあれば,3Dモデルからテクスチャを抜きだせるのではないだろうかということです.そのテクスチャはCG3Dモデルに当てはめるようなテクスチャとは異なるけれど,写真=画像の多くはリアル3Dモデルから3Dデータを抜き取ったテクスチャなのだろう.それを「遠近法」などのスタイルで平面に展開しているから馴染みの風景がそこにあるように見えるだけすぎない.

memo665
エキソニモのBody Paintと谷口暁彦さんの「滲み出る板」を対比させて授業で話した.エキソニモは身体とデバイスの「境界線」をあえて強調して,そこでの境界線のゆらぎを示すの対して,谷口さんは「境界線」が明確ではないけれど,デバイスがリアル空間とのあいだでインタラクションを起こしているような状況をつくることで,デバイスとリアル空間とがあたかもつながっているかのような「錯覚」をつくる.境界線を示させると人はそこに注意を向ける.だから,その揺らぎを検知しやすい.というか,それは認識のメカニズムから強制的に意識を持っていかれる.対して,境界線がないとどこに意識を向けていいのかわからないまま,気がつくと自分の身体を含んだ空間全体とデバイスとそこで展開している3D空間との関係がおかしなことになっている.エキソニモでペイントで谷口さんがスクラプチャーという対比もある.エキソニモの作品を見ているときの意識が強制的に持って行かれて,身体が置いてけぼりになる感覚と,谷口さんの作品を見ているときのどこにも行き場のない意識とリアル空間にある身体という感覚の対比もあるような気がする.

memo666
Vacant Roomは「平面性」を考える展示になっているのではないか? それはモデルに貼り付けられる「テクスチャ」というかたちのあたらしい「平面性」なのではないか? 360度の画像を球形のモデルの張りつけ,それをスマートフォンのディスプレイという平面を透して見る.スマートフォンを動かすと連動して画像も動くから,つい立体的なものとして展示を考えてしまうのが,ここには立体的な世界=モデルと平面的な世界=テクスチャとのズレがいくつも生じている.展示を長く見ているとそのズレが奇妙な感じをつくりだす.スマートフォンを目の前に掲げながら展示室の壁の方に歩いていっても,ディスプレイ内の絵画には近づけない.展示室を歩き続けるとスマートフォン内の「空間」と展示室空間とが大きくズレていく.大きくズレるのだが,いつ,どのようにズレが生じたのかがハッキリとはわからない.今まで展示空間の立体モデルに張り付いていた平面的テクスチャがいつのまにか剥がれて,ディスプレイのみに張り付くようになった感じである.テクスチャが貼り付く先を展示空間からディスプレイに変える瞬間,リアル立体モデルを放棄する瞬間はわからない.ディスプレイに貼り付いたテクスチャは今も球形3Dモデルには貼り付いているのだけれど,それでもリアル立体モデルである展示空間から剥がれると,どこか落ち着かない感じになる.それはリアル立体モデル=展示空間の360度画像を撮影して,その表面をテクスチャとして引き剥がしたものを,忠実に展示空間に再現した立体モデルではなく,球形モデルに貼り付けているからくることのズレから生じるのかもしれない.リアルから一度引き剥がされたテクスチャはどんなかたちにも貼り付けられる.このときにテクスチャは歪む.歪んでもいい画像がここに現れている.画像はテクスチャとしてモデルに張りつける用途を持つようになる.平面が立体に奉仕するが,立体のリアリティは平面によって生まれる.私たちは結局は立体に貼り付けられた歪んだ平面を見ている.

memo667
東京神保町のSOBO Galleryで開催されている「Vacant Room」の展示は「空っぽの部屋」というタイトルが示すように展示空間はほとんど空っぽであった.「ほとんど」というのは作品はなかったが,展示台と展示説明のための紙があったからである.説明に書かれたように展示を見るために指定のURLにスマートフォンでアクセスすると,ディスプレイに「Vacant Room」の展示が現れた.自分がいる空間と同じ空間のなかに作品が展示されており,スマートフォンを上下左右に動かすと,その動きに連動してディスプレイ内の空間も動く.目の前のリアル空間には作品はないが,リアル空間と私の眼のあいだにあるスマートフォンのディスプレイには作品が表示されている.ディスプレイ内の作品をよく見ようとして近づこうと,スマートフォンを持って作品の近くに行こうとするが作品はある程度までしか大きくならない.2本の指でピンチアウトして拡大しても解像度が低く,作品の詳細は見ることができない.作品を見ようとリアル空間を動き続けると,右の壁にディスプレイを向ける左の壁の作品が表示されるといった感じで,リアル空間とディスプレイ内の空間の対応関係がズレてくる.

「空っぽの部屋」を空っぽにしているのは部屋の360度画像とそれをフレームで切り取るスマートフォンである.展示空間は一度確かに展示がされておりその様子が360度の撮影ができるカメラで記録されている.コンピュータによって360度つなぎ合わされた画像は球形のモデルに貼り付けられる.鑑賞者は球形に貼り付けられた画像のなかに入ったようなかたちで,自分のスマートフォンで球形の一部を四角いフレームで切り取っていくのである.リアル展示空間は球形ではないが,スマートフォンで切り取りながら見る画像空間は球形である.リアル空間にいながら,スマートフォンを注視しながら作品をみていると,視点はリアル空間からスマートフォンと連動して動き続ける360度画像に移行していき,手に持たれたディスプレイが視点の基点となる.ディスプレイ内の視点を動かし,そのあと自らの視界をその視点に合わせていくことになる.ディスプレイ内の360度画像に視点がフォーカスしたとき,それまでのリアル空間は文字通り「空っぽの部屋」になる.鑑賞者の意識がスマートフォンのディスプレイの枠に集中されるからである.その際に鑑賞者の身体はリアル空間にあるのか,ディスプレイ内画像空間にあるのか.ディスプレイ画像によって身体行為が誘発されているとすれば,鑑賞者の身体はディスプレイの枠内にあるのだろう.

「Vacant Room」展の他にはG/P gallery Shinonome「THE EXPOSED#9 passing pictures」展,NADIFF「THE COPY TRAVELERS by THE COPY TRAVELERS」展,音楽喫茶 茶箱「VR×DJ Spatial Jockey 」というイベントの視察を行った.「VR×DJ Spatial Jockey 」はオキュラスリフトというヘッドマウントディスプレイをつけてクラブミュージックを体験するというものであった.視界を全て覆うオキュラスリフトの体験は,「Vacant Room」の自分の眼の視界ともうひとつのディスプレイの視界とのあいだに距離があるものとはまた別のものであった.こちらは視界が覆われて,映像世界が自らの視界そのものになっているので,その世界で見たいものがあったら自分の視界を動かせばいい.つまり普段と同じように動けばよかった.これと対比すると,「Vacant Room」のシステムは見たいものを見るときに,まず自分とは異なる視点であるディスプレイを移動させて,そこを自らの眼であとから見るという体験であったことがわかった.

memo668
「Vacant Room」は展示の記録写真であって,Virtual Reality=VRとはあまり関係がないような気がしてきた.インタラクティブなVRだと思うのは,360度写真とスマートフォンが連動しているからだから,確かしにVR的要素はあるのだけれど,それは大したことではない.というか,VRだと見る人に思わせておいて,単なる写真であって,だから,ピンチアウトで拡大できたりする.これは「写真」というよりも「カメラアプリ」でリアルタイムにリアル空間を見ているときの感覚に近い.でも,拡大はできたと思って,スワイプして画像を動かそうとするとできない.ここでの画像は「写真」ではなくて,リアカメラからのリアルタイム画像のようになっている.

2Dでありながら3Dという感覚を醸し出しつつ,見る人の意識が3Dに行こうとするとそれを妨げる仕掛けがいくつもしてある.仕掛けは「カメラアプリ」のようなリアルタイム映像と「写真」として表示される画像とのあいだの行き来であったり,ホワイトキューブを再現したVRと思わせつつも360度写真であって,作品に寄ることができないというか,スマートフォンを固定しながら前後に歩いても,上下に屈伸運動してもディスプレイ内の映像は変化しない=写真のようだったりするものである.これらの体験をしていると,展示を見ていてそれが3Dだと認識しそうになると同時に2Dに引き戻されるという感覚になって,2Dでも3Dでもある/ないような「Vacant Room」に連れて行かれる.

この感覚はJoe Hamiltonの作品《Indirect Flights》にちかいものがある.この作品は航空写真のコラージュの上にもうひとつ金網やサッシ,絵具,筆跡といった平面的質感を強調するモノのコラージュが重ねられている.Googleマップのようにドラッグしてふたつのレイヤーを動かすことができるけれど,ふたつのレイヤーの動きはそれぞれ異なる.この作品を見ていると,航空写真を見た際生じる立体的な感覚が常に阻害される感じがする.ディスプレイに映っている映像が3D的なものであろうと,そこに見ているものは物質的に2Dのディスプレイでしかないのだから,3Dなんてそこにはない.あるのは徹底的に2Dの重なりでしかない.「重なり」が3D的要素であるのだけれど,しばらく画面を動かさないでいると,そこにはふたつのレイヤーの重なりが消えたような画像が現われる.それをまた少し動かした瞬間,《Indirect Flights》も2Dでも3Dでもある/ないような「Vacant Room」に連れて行かれるような感じがする.

memo669
インターネットとインターフェイスをモダニズム的に捉えることはまだ十全にはやられていない.ハッキングvsデフォルトを経た今だからこそ,デフォルトの次の段階としてモダニズム的なメディウムの見方が必要なのではないか.リアルとの対比からインターネットやインターフェイスを「あえて」意識して,それらのデフォルを意識して使用していたポストインターネットから,リアルとインターネットの違いもさして意識しないようになった.インターネットがアクセスするものではなくなり,現象としてただそこにあり,出来事としてただそこで起こり,行為としてただ為される状態になりつつあるからこそ,インターネットに対して自己言及的意識をもつことは必要なのではないか.インターネットというネットワークのネットワーク,インターフェイスという異なる領域の界面という実体がない,見えないものに対して「現象・出来事・行為」を意識的に探っていくことが必要なのではないか.

memo670
スクリーンとかディスプレイとそこにあるCPUとか,いや,CPUを含んだ平面の平面性をモダニズム的に考えることが必要なのかもしれない.考えることはたくさんあって,やり残していることもいっぱいあって,どうしていいのかわからないけれど,興味あるものをとことん追求していくと,それが前の関心とつながることがあるから,今は,CPUを含んだ平面の平面性をモダニズム的に考えることをやってみよう.夏休みといっても,それほど自由な時間はないけど,ucnvさんとのトークの振り返りを考えていくと,モデルとテクスチャを追求していたときにわかりそうだった,谷口暁彦さんの滲み出る板について書けるかもしれない.ここが書けるとexonemoのbody paintシリーズも書けるかもしれない.まずは,CPUを含んだ平面の平面性をモダニズム的に考えつつ,そこに現象としてあるインターフェイス,インターネットをできるだけそのまま使っている作品を考えよう.

memo671
ucnvさんとのトークで「アーティ・ヴィアーカントの画像はそこにあったものをそのまま映していて,そこで生成されているわけではない」というようなことをucnvさんが言ったことがずっと気になっている.ヴィアーカントのイメージオブジェクトで展示の記録として撮影された画像は,そこで起こっている現象をそのまま記録している.もちろん3次元を2次元に変換するときの欠損はあるけれども,それでもそこで起こっている現象をそのまま記録している.

その後,Photoshopでその画像が加工される.このときヴィアーカントはスタンプツールを主に使って,その展示会場で一度記録された色情報以外のものを使っていないということを,ucnvさんの指摘で気付かされた.これはとても大切なことような気がしている.展示空間を記録して,それを加工しているというのはこれまでの写真の見方で,ヴィアーカントは展示空間のスキャンして,デジタル化して,色情報が集積された平面にしていて,そこにもともとある色情報のみを使うことをルールにしているのかもしれない.スキャンというデジタルの現象をそのまま扱う.そこで生まれた情報のみを扱うという感じだろうか.スキャンによって空間を色情報をもった平面=テクスチャに変換する.そこでは空間も作品も備品といった名前はなくなり,色情報になる.ただ,そこにあるものを以外は使えない.一度のスキャンという現象でうまれる情報だけを扱うこと.

「Vacant Room」での360度写真で感じたことは,見えない部分が生まれるということ.それは一度では見ることがなくなる.「フレームの外」が生まれること.現実も視点からしょうじる視界フレームによって「フレームの外」が生まれる.写真は「フレームの外」をなくして,「フレームの中」だけにする.360度画像には「フレームの外」がある.この感じが,空間をスキャンして色情報として「フレームの中」に閉じ込めるヴィアーカントのイメージオブジェクトと似ている.

「フレームの外」を感じさせる「Vacant Room」と「フレームの中」だけの「イメージオブジェクト」が似ているというはどういうことか.似ているというよりも,それが両立し得るのがデジタルという現象なのではないか.「Vacant Room」のとなり「イメージオブジェクト」があっても,それがデジタルという現象として両立する.「フレームの外」と「フレームの中」が両立する.「フレームの外」と「フレームの中」がそこにあって,それを示すディスプレイとピクセルがそれぞれそこにある.それぞれがただそこにあることを可能にしているのがデジタルという現象なのではないか.ユニット化してそれぞれに組み込み可能なのはコンピュータ内だけで,ヒトのスケールというは物理空間ではディスプレイを介して,それらはひとつになることはできずに,ただそれぞれが別個にそれぞれとしてある.

「Vacant Room」と「イメージオブジェクト」が両立するのは,一度だけのスキャンということだろう.リアル空間を一度だけスキャンする.そして,できる限りそのスキャンで生じた情報=テクスチャのみを使って修正を行う.このデジタルの現象をできるだけそのまま扱うという態度が,このふたつの作品がつくる「フレームの外」と「フレームの中」を両立させる.

デジタルの現象をそのまま扱うということは,モダニズム的な態度だと私は考えている.リアルな現象をデジタルの現象に還元していくと言い換えることもできるかもしれない.トークでも話したのだが,ポストインターネットの後にくるのは「モダニズム的態度」で.インターフェイスやインターネットを考えることだと,私は考えている.それはおそらくリアル空間のなかで考えるべき問題なのだと思う.インターフェイスやインターネットというデジタルな現象をできるだけそっくりそのままリアル空間に持ち出すことから生じる差異を捉えていくことが重要になりつつあるのではないだろうか.ヴィアーカントのイメージオブジェクトが「フレームの中」にある「空間」をPhotoshopによる操作で「かつて空間だったもの」に変えてしまうように,リアル空間にデジタルな現象をもちこむことによって,リアル空間の意味が変化し,そこからデジタルな現象を考察する.私たちはリアル空間に慣れているので,デジタルな現象を扱う際には,現象いちどリアル空間を透す必要があり,そのことでデジタルな現象を理解できるのではないか,と,今,私は考えていた.

memo672
東京・初台にあるメディアアートの展示施設NTTインターコミュニケーション・センター(ICC)で開催されているキッズプログラム「しくみのかたち アイデアのかたち」で行われた谷口暁彦氏のアーティストトークに参加した.谷口氏はメディアアートを代表する5作品をミニチュアとメディアアートの説明を行うマンガからなる《たにぐち部長の美術部3D -メディア・アート編- 》を出品していた.残念なことにマンガの方は「近日公開予定」であった.

アーティストトークで谷口氏は作品をつくっているときに,子供向けの学習まんがを意識したと言っていた.メディアアートというとインタラクティブの部分を強調した「魔法の美術館」のようなものが子供向けとして開催されているけれど,谷口氏はインタラクティブであるかどうかは関係なく,大人向けの作品を子供向けにつくり直すのではなくそのまま提示したかった.その際に,子供向け学習まんがはその表現は子供向けになっているが,そこで描かれている現象・事実は「子供向け」に翻訳不可能でそのまま提示されていることを参考にしたとのことであった.この問題意識は今回の出張で視察した「正しいらくがき」展の出品作家であるyang02氏にも通じるものがあった.

ミニチュアで表現されている5作品はICCの学芸員の畠中実氏と相談して選定したとのことであった.これらの作品を見ていくことで「メディアによる人間の知覚の仕組みが問い直し/インタラクティブな環境での身体性の強調/複数の感覚を組み替えていくインタラクションの複雑化/インターネットという目に見えないものの提示/ディスプレイに拡張される身体」というメディアアートにおける身体のあり方の流れを追うことができるようになっている.最後には,ミニチュアのなかに設置されたカメラを通して,自分の身体をミニチュアの世界に入れ込むことができる仕掛けもしてある.この仕掛けには現実にはないもうひとつの空間からつくってしまい,そこに入り込むという谷口氏自身の作品のテイストが強く出ていた.

茅ヶ崎市美術館で開催されている「正しいらくがき」展も子供を強く意識した展示であった.yang02氏と菅野創氏による《SEMI-SENSELESS DRAWING MODULES》は気温や騒音など周囲の環境に反応しながら絵を描くドローイングマシンである.今回の展示では,札幌国際芸術祭2014でドローイングマシンが描いた絵を高校生や小学生が模写をして,さらに,その模写の動きをデータ化して,今度はドローイングが人間が描いた絵を模写をするということが行われている.作品を見ていて興味深かったのは,ドローイングマシンは「ハート」や「星」といったモチーフを描いてにもかかわらず,模写をしている人間の絵には「ハート」や「星」が描かれるということである.そして,これらもともと存在していなかった「ハート」や「星」をドローイングマシンが模写をするとそこに明確なかたちがあらわれず,どこか「亡霊」みたいな感じで「ハート」や「星」のようなものが描かれるのである.yang02氏によると,これはモーションキャプチャーの解像度が低いことで起こるとのことだった.ハードウェアの限界と捉えるよりも,モチーフが描かれていないものに,勝手にモチーフを描く人間に対して,またそのモチーフを無意味化するようにかたちを溶解させるドローイングマシンという流れのなかで,人間とドローイングマシンとのあいだの創造性の相違を考察すると興味深い.

その他に,《SEMI-SENSELESS DRAWING MODULES》の新作が展示されている21_21 DESIGN SIGHTの「動きのカガク」展,積み重ねた写真を彫るNerholの個展,写真と技術との関係を扱った「「Another Room」テクノロジーとアート写真が融合する場所 」を視察した.

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Nicolas Sassoon: It was about that. It was also about producing an exhibition that can be seen by people who were following this community… 6 or 7 years ago there was a wave of exhibitions that happened in New York and LA and Berlin, where a lot of Internet or Net-based artists started manifesting their work in space. The novelty was exciting, but the quality of exhibitions was sometimes low because you can’t ask somebody who works mainly on his computer to negotiate a gallery space and the production of objects right away. It takes time and experience, trial and error, to find out exactly how you want to manifest your work in space. Do you even want to manifest your work in space? Does it even make sense? That was around 2009/2010. Now we’re in 2015, things are a bit different, and many artists have had the time to deal with this question of the manifestation of their work in space.

http://decoymagazine.ca/internet-art-in-vancouver-a-conversation-with-nicolas-sassoon/

ニコラス・サスーン:そのことについてです.このコミュニティ(インターネットアート)を追っている人たちが見ることが出来る展覧会を開催することについてもです.6−7年前にニョーヨーク,ロサンゼルス,ベルリンで展覧会が多く開催されていました.そこでは多くのインターネットやネットで活動するアーティストが自分の作品を空間に展示し始めました.あたらしさは刺激的だったけれど,展覧会の質は時々低いものがあった.それはギャラリー空間でうまく展示する主にコンピュータで制作する人やオブジェクトを正しい方法で制作している人に尋ねることができなかったからです.どうしたら正確に空間で作品をすることができるのかを探り当てるには,試行錯誤しながら時間と経験が必要です.それでもあなたは空間に作品を展示したいですか? それが意味があることでしょうか? それが2009/2010年のことです.今は2015年です.物事は少し変わっていて,多くのアーティストは空間に自分の作品を展示することに関するこの疑問を解決してきました.

>これはカナダ・バンクーバーの話だけれども,「東京」に関して言えばどうなのだろうか.「インターネット アート これから」が開催されたのが2012年で,この展示が上手く言ったかどうかの検証も必要だけれども,世界でいち早くポストインターネット的な展示をしたと思う.それが,メディアアートの展示施設と世界から見なされているICCで行われたこと,そして,エキソニモや谷口暁彦,渡邊朋也といったアーティストを含むグループが企画していることは考える必要がある.ここで提示された「インターネットっぽさ」というものを拡張して展示したの上妻世海キュレーションのふたつの展示だろう.

ここまで書いてきて,ふと,「東京」はポストインターネットではなくて「インターネットっぽさ」を探していたのではないだろうかと思った.「インターネット アート これから」でメインに題材のひとつは「質感」という明確ではないが,たしかにそこにある感覚であったし,上妻世海の展示は会場に「インターネットっぽさ」が溢れることが目指されていた感じがする.ポストインターネットのなかでは,「東京」は言語の壁もあって,Tumblrは画像のコミュニケーションであらゆる壁を超えてしまうが,展示は言語の壁を越えることができず,どこか認識しづらい対象になっていたのではないだろうか.TumblrやTwitterなどではおもしろじ現象が起こっていて,その面白さから作品もつくられたが,それが「ポストインターネット」という流れ・トレンドには反映されることがなかった.しかし,近頃,インターネットヤミ市が世界的に拡散していることからも,「インターネットっぽさ」が「ポストインターネット」のなかに入り込んでいっている.もしくは,「インターネットっぽさ」が「ポストインターネット」という状況を変えてしまうのかもしれない.

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「インターネット アート これから」が2012年に開催されたことの意味を考える.この展示は「ポストインターネット」のなかでどのような位置づけになるのであろうか.「インターネットのあと」の質感を巡る展示.イメージオブジェクトをめぐる展示.ポストインターネットの概観するテキストはあったが,ポストインターネットの質感そのものを巡る長いテキストがなかった展示.作品がインターネットにあまりつながってなかった展示.2つの時計が同期した展示.言い換えると,リアルとネットとが一度同期したと感じあとの展示.この展示がICCで展示された流れ.みえないちから→可能世界空間論→インターネット.この流れはメディアートとアートとの関係が再考された展示の流れなのではないだろうか.展示作品や展示形態を変えることが予め組み込まれた展示.まとまったテキストは書かれなかったけれど,座談会やインターネットリアリティ研究会によるGoogle docs,Twitterなどなどテキストが多くの残された展示.後に開催される上妻世海によるふたつの展示の比較から見えてくるものはなんだろうか? ドメスティックであることとポストインターネットとの関係性.ポストインターネットの流れを確認したが,結局,その流れとは別の展示になっていた.メディアートの流れででてきたのが「インターネット アート これから」で,ポストインターネットはコンテンポラリーアート/アートワールドとの関係ででてきたのかもしれない.インターネット・コンピュータを用いての作品制作のなかで出てきた感覚を巡る展示と,意識的にインターネット・コンピュータを作品制作のなかに組み込むことで新規性を出してきた展示との違い.新規性を語るための説明のテキストと感覚を言語化する難しさと伝わらなさ.「インターネット アート これから」はメディアートの流れが「ポストインターネット」という言葉を使って,コンテンポラリーアートの流れに接続した展示だったのかもしれない.「ポストインターネット」という言葉が既にあって,その言葉を軸にしてICCの展示のフレームを変えてしまったのではないだろうか.ネットアート1.0がポストインターネットを取り込んで,リアルに接地した展示もあったが,そのちょっと前にICCで同じような展示が行われたとも考えることができる.

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ポストインターネットは終わりつつあると言われているけれど,日本・東京ではどうなのであろうか.ポストインターネットはリアルとネットを等価値で扱うとしていたが,そこでは「場所」が問題となることはなかった.ニューヨークであれ,パリであれ,ストックホルムであれ,東京であれ,北京であれ,どこでも展示が開催され,それらはすべてネットで展開された.そして,ネットの方を見ることが当たり前になり,そこで評価がくだされている.リアルの展示の価値が下がり,ネットの展示の価値が上がり,これらが等価値になったといえる.
展示場所でも「場所」は問題にならないが,作品の表象からも「場所」は消えていった.作品はソフトウェアのデフォルトの機能でつくられたり,ストックフォトで制作されていたりする.みんなが見ているインターフェイスとネットのどこかで見ているストックフォトの組み合わせ.作品の表象から場所性が消え去っている.それはいつも見ているインターフェイスであり,どこかで見たストックフォトのようなものでしかないし,それがポストインターネットの特徴となっている.いや,それはインターネットとインターフェイスというポストインターネット世代が常にいる「場所」だと考えることもできる.彼ら・彼女らはそこにいる.では,そこから「東京」はどのように見えるのだろうか?

Googleの画像検索,Tumblr,Instagram,Flickrで見えてくる「東京」.それはPhotoshopで,Cinema4Dなどのソフトウェアでいかようにも操作可能な「東京」である.溢れる画像とその操作可能性がつくるもうひとつと言わず,複数のバージョンの東京,パリ,ニューヨーク,北京,ハンブルク,ロンドンがつくられる.複数のバージョンの都市は,複数の経路でネットを流通し,その属性が次々と剥がれていき,どこかの都市と似たようなものになり,最後には都市のようなものとしてどこかの画像に使われたりしている.都市はどこにでもあり,これでもあれでもあるような画像になっている.

ネットから「東京,パリ,ニューヨーク,北京,ハンブルク,ロンドン」といった固有名はなくなっていくが,リアルには固有名は存在し続ける.いや,リアルでも固有名はなくなりつつあるのかもしれない.リアルとネットとは等価値なのだから.ネットとつながっていれば,そこがどこであれ関係ないのであって,どこかの都市というよりもハッシュタグの方が重要になってきているのかもしれない.Googleにとっては都市よりも単に位置情報が重要なように,存在がどんどん数値化されていくなかで都市はなくなるのかもしれないし,ポストインターネット世代のアートはこのような状況から生まれている.

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ディスプレイの上に絵具を塗るという行為によって作品がインターネットで拡散していくことが難しくなる.インターネットに最適化した作品とその拡散と比較すると,ディスプレイに絵具を塗った作品はインターネットでのプレゼンスは低くなる.このことが東京におけるポストインターネットのひとつの特徴となっている.ディスプレイへの意識が強い.ディスプレイの内/外の一体化への願望とそれを引き離してしまうディスプレイ自体への意識.ディスプレイ内の空間の改変による作品の新規性とインターネットへの最適化を測った欧米のポストインターネット作品.このあいだに東京/日本と欧米のポストインターネットの意識の違いがある.東京はインターネットに密着しているがゆえにインターネットを意識しづらく,その現れであるディスプレイやインターフェイス,そして身体に意識がむかった.,欧米はインターネットとのあいだに距離があったから,インターネットを意識しやすくそこでの最適化の試みがアートワールドでのあたらしさにつながった.

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キャラ文化,ストリート.メディア/ネットアートの3つの流れがディスプレイへの直接ペイントを行い「ポストインターネット」という言葉でひとつにまとめられるところが「東京っぽい」のかもしれない.そして,これらの作品はネットに最適化していないどころか,ディスプレイではその本質が見えないものであるためにネットでその質感を伝えることが難しいものになっている.

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アーティ・ヴィアーカントの「イメージ・オブジェクト」は,リアルの空間とインターネットの画像流通の関係を論じたテキストで,ポストインターネット世代のひとつのマニフェストと読むことができる.ヴィアーカントはテキストと同名のプロジェクトで作品も制作している.ネット上での流通する画像とギャラリーで展示されるオブジェクトとに優劣をつけることはないという自らの考えを実践して,ヴィアーカントは作品の記録画像をPhotoshopで改変した画像をネットに拡散させていく.ギャラリーにはPhotoshopで制作された鮮やかなグラデーション画像をもとにつくられたレリーフが展示してあるのだけれど,ネットにアップされた画像はPhotoshopのコピースタンプツールでギャラリーの壁面や床の一部をレリーフのグラデーションに置き換えたものになっている.ヴィアーカントは作品を拡散させるためにインターネットを選択し,ネットで話題になるように作品を最適化した結果として,リアルと密接に関係しつつもどこかズレた「空間」を示す画像をつくっている.Photoshopのコピースタンプツールを使って空間の一部を「複製」して,同一空間に多くの複製空間を配置して,奥行を喪失した独特な「空間」をつくっていると言える.

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TR: I like thinking about the materiality of digital work. That is why I love screens as opposed to projections, because you can get close and see that tiny flickering pixel. I try to draw attention to the physicality of the screen. For example, I love 1 pixels lines, because they appear so hard and razor-sharp, and they illustrate exactly where those pixels are. Whereas a smooth gradation creates more of a liquid effect. I also like figuring  out ways to impart a feeling of warmth and craftsmanship to my work, which can be a challenge with digital media. I want to be generous to the viewer. Sometimes that requires a deliberately excessive aesthetic: opalescent , sparkling and abundant. I want my work to touch the viewer, like and advertisement, but hopefully with a critical edge.

TR: 私はデジタル作品のマテリアリティについて考えるのが好きです.私がプロジェクションと対称的なスクリーンを好む理由はここにあります.なぜなら,近寄って小さな明滅するピクセルを見ることができるからです.私はスクリーンの物質性に注意を引こうと試みています.例えば,私は1ピクセルのラインが好きなのですが,それはそれらがとても硬質でカミソリのような鋭さを見せ,ピクセルがそこにあることを正確に示すからです.その一方で,滑らかなグラデーションは硬質というよりもむしろ液体用な効果をつくりだす.私は自分の作品にあたたかさやクラフツマンシップを添える方法を考えることも好みます.私は鑑賞者に気前よくありたいのです.時々,「オパール色の,きらきら輝く,大量の」といった故意に過剰な美学を必要とすることもあります.私は作品で,広告のように,鑑賞者に触れたいのです.しかし,願わくば鋭い感覚で触れたいとのです.

TR:  I tend not to differentiate between virtual, mental and physical space, and I see the images I make as a hybrid of them. I think a lot about that moment of immersion when consuming media, when I forget my surroundings and am totally inside of the image. I am still not sure if it is a binary switch or if there is a moment of transformation; either way, it’s beautiful. To really be immersed you have to surrender to the image.

TR: 私はバーチャル,メンタル,フィジカルのそれぞれの空間を区別しない傾向にあり,自分が制作した映像をそれらのハイブリッドとして見ています.メディアを消費する際の,周囲のことを忘れ,映像のなかに完全に入り込む没入の瞬間について多く考えます.私はまだそこにバイナリースイッチがあるのかどうか,移行の瞬間があるのかどうか確かではありません.そのどちらの方法も,美しいです.本当に没入するには,映像に身を委ねなければなりません.

I Love Screens, Tabor Robak interviewed by Cecilia Alemani, MOUSEE, December 2013, pp. 126-129

http://moussemagazine.it

memo680
THE ART WORLD TO COME

2015
The fashion for click-and-buy online art sales continues to grow: 75 per cent of established collectors are now said to buy ‘off the Jpeg’.

「クリックして購入」がオンラインアートの売買で引き続き増えている.著名なコレクターの75%が「Jpeg画像」にお金を払ったと言っている.

(中略)

2025
The print-out-your-own-master-pieces vogue sweeps the globe as the hysteria around 3D printer art reaches a climax. Almost everyone has an 'original’ of Rodin’s The Kiss in their living room now.

「あなた自身の傑作をプリンアウトする」という流行が,3Dプリンタアートが最高潮に盛り上がっ狂乱のなかで地球全体に急速に広まった.今ではほとんどすべての人がロダンの《接吻》の「オリジナル」を居間に置いている.

(中略)

2038
The word 'original’ is removed from the Oxford English Dictionary and all traces of the term and references to the concept are deleted by Google. 

「オリジナル」という単語がオックスフォード英語辞典からとり除かれた.そして,Googleによって単語に関する形跡とその概念への言及はすべて削除された.

(以下略)

Elephant Magazine, What Is Post-internet Art? Issue 23 Summer 2015
http://www.frameweb.com/magazines/elephant

memo681
「デジタル時代の物質性
あるいは
単にPhotoshopのブラシ
あるいは
単にブラシ」

というようなタイトルにしたけれど,タイトルは気に入っているけれど,何を話すのかは前の人の発表しだいかもしれない.それでいいかな.アナログ/デジタルということでもなくて,デジタルがデフォルトになったときにディスプレイやインターネットをメディウムと考えている人たちがどのように表現をしているのか,そして表現をしていくのかを示せればいいのかと思う

memo682
「アートとしてのインターフェイス」というのは「インターフェイスのモダニズム」とも考えることができるのだろうか.そのとき,「インターフェイスの純粋性」とは何か? ヒトとの関わりを絶ったところに現われるものか? でも,それでは「インターフェイス」という言葉が使えないのではないか? では,渡邊恵太さんが言う「自己帰属感」がMAXな感じが「純粋さ」なのか? でも,これは「透明性」という言葉が与えられている感じがする.インターフェイスは純粋さをもとめると,それは単にメディウムとして存在するものとなり,インターフェイスという機能を失うのか.そこにも残るインターフェイス性というものがあるのか.そんなことを感がえてみたらいいのかもしれない.

memo683
シンポジウムの振り返りを書こうとしたのだけれど,どうも頭がスカスカしていて書けないでいる.「問題提起」という形で,普段の研究発表と違って,発表がある1点に収斂していかないかたちだったらからか,考えをそこから進めることができない.

自分の発表はあれとして,シンポジウムそのものからは「物質性」というテーマがでてきたような気がする.ポストメディウムといわれていたり,ポストインターネットとかいわれているなかで,改めて,写真の「物質性」であるとか,インターフェイスの「物質性」に意識が向き始めているのかもしれない.デジタル技術やネットワークによって融けていったメディウムを把握するために,物質に注目する.その物質は情報=コンテクストとセットの物質であって,情報=コンテクストがなければ,それは写真としても作品としても機能しなくなっている.

このようにシンポジウムを振り返ってみたあとで,改めて自分の発表タイトル「デジタル時代の物質性 あるいは 単にPhotoshopのブラシ あるいは 単にブラシ」を考えみると,デジタル時代の物質性というのは物質+「情報=コンテクスト」で,それは3Dモデルだとモデル+テクスチャということにあって,ここから,「情報=コンテクスト」=テクスチャということになるのかと考えみたりする.デジタル時代の物質性は「情報=コンテクスト」であるテクスチャに覆われたものであって,そのモデルそのものは存在していてもいなくても,ある程度のかたちを形成していれば,あとはテクスチャがリアリティをつくりだすということかもしれない.モデルは高精細である必要はないけれど,テクスチャは高精細であったほうがいい.粗いモデルであっても,テクスチャをでその存在=物質の「リアリティ」を補完できる.

memo684
渡邊恵太さんの『融けるデザイン』に出てくる「自己帰属感」は,カーソルをずっと考えていた私には「そうだったのか!」とガッテンするような言葉だった.カーソルを自分の分身とかいって,指の延長と捉えるものが多かったなかで,自分と連動することで生じる「自己帰属感」が,カーソルと自分とをつなげるというのは身体的な理解を促す発見であった.あくまでも「帰属している」だけで,分身でもないから,カーソルがどんなに変化しても関係ない.そこに「自己帰属感」が生じていれば,カーソルがどんなに変化しても問題ないのである.カーソルを分身や指の延長として捉えていては,ディスプレイ上のカーソルの変化は説明できない.

「自己帰属感」でひとつ気になるのは物理的身体とディスプレイ上のカーソルがいとも簡単につながってしまうことである.こんなにも簡単にふたつの存在がつながってしまっていいのだろうか? 渡邊さんはいともと簡単に身体とカーソル,物質と情報を結びつける.それは単にテキストで書かれているだけでなく,彼の場合はプロトタイプからの体験から導き出された結果である.考えるだけなら,物質と情報は簡単に結びついてきた.しかし,それを体験として提示することはこれまであまりなかったし,それを明確に言葉にしたのは渡邊さんがはじめてだと思う.ただ,言葉でもプロトタイプでもふたつの異なる存在が簡単につながってしまうというところが気になるのである.

身体とカーソル,物質と情報といったふたつの世界がつながるということは,とても不思議なことではないだろうか.「インターフェイス」というのは界面であって,ふたつの存在がそこでは前提となっているから,渡邊さんがそれらをあっさりと結びつけるのはインターフェイス研究としては問題がないし,この前提を疑うことは必要ない.ただ,ここで一度このふたつの世界・存在のあいだにあらわれる「インターフェイス」自体を疑って見てみたい.ふたつの世界がつながること,あるいはつながっているふたつの世界をもういちど引き離して別々にすることから生じる不思議さを考えてみたい.

エキソニモはインターフェイスが立ち上がる瞬間,あるいはインターフェイスがインターフェイスではなくなった状態を提示する作品をつくっている.まずは,エキソニモが「カーソル」を取り上げた作品《断末魔ウス》と《Desktop BAM》を「自己帰属感」で考えてみたい.ここから出てくるのは「自己帰属の呪術性」といったものだと予想されるのだがどうなるだろうか?

memo685
ポストインターネットから再びインターフェイスの研究に戻りつつある.アートのメディウムとしてのインターフェイス.「モダニズムの絵画」ではなくて,「モダニズムのインターフェイス」と言った感じだろうか.

memo686
Dances for Mobile Phones (series)
Single channel videos
2015

“Dances for Mobile Phone presents the surface of a screen as our most immediate access point into the Internet’s physicality. Our mobile touchscreens are perhaps our most intimate connection to the Internet, rarely leaving our sides. Here, video recordings show everyday people performing everyday tasks on their mobile devices. Shot with a full-spectrum infrared and ultraviolet camera built by the Cleveland Paranormal Society to document disembodied human energy, pixels ordinarily visible to the human eye become invisible, and those signals normally invisible are made visible. In obscuring the digital interface, the new and unnatural movements we have adopted become all the more apparent. By contrast, the only illumination visible from the phones is the ordinarily invisible infrared beam, emitted from LEDs in the top section of the phone near the earpiece and used primarily for facial recognition. This illumination is controlled not by the user, but by the device, and displayed together these works prompt the question of who or what is controlling our gestures as well.” ~ Carroll/Fletcher

http://www.evan-roth.com/work/dances-for-mobile-phones/

モバイルフォンのためのダンス(シリーズ)
シングルチャンネルビデオ
2015

「モバイルフォンのためのダンスは,インターネットの物質性への最も直接的なアクセスポイントとしてスクリーンの表面を提示する.モバイルのタッチスクリーンはおそらく私たちにとって最も親密なインターネットとのつながりであり,それは珍しく私たちの側に残されたものである.この作品は,毎日人々がモバイル機器に対して行っている日々のタスクをビデオで記録したものである.脱身体化したヒトのエネルギーを記録するためにクリーブランド・パラノーマル協会が組み立てたフルスペクトル赤外線/紫外線カメラで撮影された映像は,普段ヒトの目に見えているピクセルが見えなくなり,普段はモバイル機器の見えない信号が見えるようになっている.デジタルインターフェイスの光を奪うことで,私たちが受け容れたあたらしく不自然な動きが明らかになる.対照的に,唯一モバイルフォンが発していて見ることができる光は普段は不可視な赤外線の光であり,モバイルフォン上部の受話器の近くのLEDから発せられたもので,主に顔面認識に使われるものである.この光はユーザではなく,デバイスによってコントロールされている.不自然な動作と普段は不可視な光を一緒に見せることで,この作品は私たちのジェスチャーを制御しているのは誰もしくは何なのかという問題を提起している.」~ Carroll/Fletcher

memo687
Apple, iPhone, iOS7, textures, flat, colors, screen, pixels
アップル,iPhone,iOS7,テクスチャ,フラット,カラー,スクリーン,ピクセル

By now you’ve probably seen Apple’s updates mobile software, iOS7. I received a few emails from friends saying iOS7 looked a lot like my work. I don’t know if that’s true, but Apple is moving away from using textures and I never used textures in my work.

あなたは今までに多分アップルがアップデートしたモバイルソフトウェア iOS7を見ただろう.私は私の作品がiOS7ととても似ているというを言う友人のメールをいくつか受け取った.私はそれが本当かどうかはわからないけれど,アップルがテクスチャを使うことをやめたことと,私が自分の作品にテクスチャを使わなったことは確かなことである.

I think textures on a screen are of a denial of material… a screen is made out of pixels, and those pixels can display a range of colors. But the pixels can’t move in 3 dimensional space, they are always on a flat surface. Screen images are really about as flat as it gets. There is no texture.

スクリーン上のテクスチャはマテリアルを否定することになると私は思っている.なぜなら,スクリーンはピクセルから出来ていて,これらのピクセルは多くの色を表示できる.しかし,ピクセルは3次元空間を移動することはできない.ピクセルは常にフラットな表面にある.スクリーン上の画像は本当にフラットなのである.そこにはテクスチャはない.

Painters have always dealt with texture, because they’re working with atoms, not bits. They can use metallic colors, thick paint, thin paint, different canvasses… There are no neon colors on a screen, there are no metallic colors on a screen. You can take a picture of gold, you can upload that picture to a computer, but screen colors are built from 3 colors and those are the limitations. No gold. I’ve always been interested in maximizing those limitations, not denying them.

画家は常にテクスチャを扱ってきた.なぜなら,画家はアトムを扱っていたのであって,ビットを扱っているのでないからである.画家はメタリックカラーを使うことができ,厚塗り・薄塗りができ,異なるキャンバスを使うことができる.スクリーンには蛍光色もなければ,メタリックカラーもない.あなたは金色の写真を撮ることができ,コンピュータにその写真をアップロードすることもできる.しかし,スクリーンの色は三原色からできており,それらは光っている.そこに金色はない.私はいつもこれらの限界を最大限に活かすことに興味があり,その限界を否定したことはない.

If you think a bit more, even making flat images doesn’t make much sense. A flat image of a car is a lie, the car on the screen is not a real car, it’s an image of a car. So there’s no real difference in using an image of a texture or using an image of a car.

もしあなたがもう少し考えるなら,フラットイメージをつくることさえ特に意味は無い.自動車のフラットイメージは嘘であり,スクリーン上の自動車はリアルではない.それは自動車のイメージなのである.そこにはテクスチャの画像を使うことと自動車の画像を使うことのあいだには真のちがいはない.

When you really break it down, I don’t know what is the most honest way of using a computer to make images. Computers think in electrical signals, so that would be it?

あなたが本当にそれを破壊したとき,私はコンピュータを使ってイメージをつくる最も正直な方法が何なのかがわからなくなる.コンピュータは電気信号で考えていて,だからコンピュータなのだ.

The real issue is that humans and computers are very different and don’t really understand each other.

本当のことはヒトとコンピュータはとてもちがっていて,お互いを真には理解できないのである.

http://www.newrafael.com/apple-iphone-ios7-textures-flat-colors-design-screen-pixels/

memo688
「フラットデザイン」はひとつの理想であって,いつまでも辿りつくことはできないものなのかもしれない.辿り着く必要がない理想といった方がいいのかもしれない.そこに辿りついたときには,コンピュータを操作することはできないのではないか.操作するには手掛かりがすくないのかもしれない.リアル由来のメタファをどこまでそぎ落とせるのかということは興味深いが,ヒトは身体を持っている.これは外せない.ここからは一歩も外にでれない.いや,本当か? フラットデザインをテコにしてこれまでとは違う感覚を得ることもできるのではないか? できることなら,そちらに賭けたい.でも,フラットにはマテリアルが必要のような気もするし,デザイナーはそちらにいくだろう.フラットデザインのような作品をつくるラファエル・ローゼンダール.彼の作品を体験しているときの明瞭さとスカスカさがフラットデザインの本質なのかもしれない.「明瞭さ」はわかりやすいといったことではなくて,もうすこし違ったことなんだけど,うまく言葉にできない.

memo689
9月10日に関西国際空港を飛び立ち,羽田・成田を経由して,その日のうちに無事にニューヨークのJFK国際空港に着いた.その日はホテルに直行した.11日は12日に「インターネットヤミ市NY」が開催されるKnockdown Centerに行き,今回のインターネットヤミ市の運営をしているChris Romero氏,及び,ニューヨーク在住のアーティスト・エキソニモと彼らが所属しているインターネットの秘密結社「IDPW(アイパス)」のメンバーによる設営を手伝った.そして,12日はインターネットヤミ市NYの視察を行った.会場全体の雰囲気は日本のインターネットヤミ市よりも「インターネット」の感じが強いと感じた.とても抽象的な感じではあるが,日本ではインターネットを経由したユースカルチャーといった人たちも出店していたのに対し,ニューヨークのヤミ市ではGIFアニメーションをモチーフとしたものやアイコンの刺繍,インターネットで「ミーム」と呼ばれ流通している画像を印刷したものなど「インターネット」そのものを扱ったものが多かったという印象である.さらに,私が普段インターネットで作品を見ているRafaël Rozendaal,Clement Valla,Rollin Leonardといったアーティストたちが出店していたものも新鮮であった.また,「Printed Web」というインターネット・アートの保存のためにウェブサイトをそのまま印刷して本にするプロジェクトも出店しており,資料としてすべての商品を購入した.当日は12時から20時までの長時間の開催であったが,来場者は途切れることなく多くの人がリアルにダウンロードされたインターネットを楽しんでいた.

13日はCity Hall Parkで開催されていた「Image Object」と題されたパブリックアートの展示の視察を行った.この展示は,ポストインターネットで重要な作家であるArtie Vierkantが提示した「Image Object」という概念をそのままタイトルに使っており,リアルとヴァーチャルの関係性を扱った彫刻展になっている.Vierkant自身も《Image Object Tuesday 20 January 2015 4:24PM》を出品していた.さらに,New Museumにも行き,90年代からピクセルを意識した絵画を描いていたドイツの画家Albert Oehlenの展示を見た.

14日はDia BeaconとMoMAの視察を行った.Dia Beaconはインターネットアートとは全く異なるミニマリズムの物質的な作品を見て,インターネットの物質性及びネットアートに適した展示施設とはどんなものになるのかを考えた.MoMAではデザイン部門にGoogle Mapの「ピン」が展示されていたことが印象的であった.また,MoMAはゲームの収集もはじめており,来場者がプレイ出来る状態で展示がなされていた.

15日はニューヨーク市内のギャラリーを視察した.先ほども触れたArtie VierkantがMesler/Feuer及びFeuer/Meslerとふたつのギャラリーで展示を行っていたので見に行った.ひとつの展示は「Image Object」プロジェクトの展示であった.このプロジェクトはリアルに展示された作品の記録画像をVierkantがPhotoshopで改変してネット上げることで,リアルのオブジェクトとネット上の画像の序列を問うものとなっている.今までネット上で改変された作品(画像)しか見てことがなかったので,ギャラリーでリアルのオブジェクトを見ることができたのは研究をすすめる上で大きな収穫であった.また,この日の夜には研究対象であるアーティストユニット・エキソニモとの情報交換も行った.

16日にJFK空港から帰国した.

memo690
フラットデザインを考え続けているけど,やはりスカスカな理想というところに落ち着くつ.ここでの「スカスカ」はいい意味で.電子書籍を読んでいるときのスカスカさにちかい.物質感がないということが影響しているのかもしれないし,影響していないのかもしれない.そんなことはわからないけど,とりあえずスカスカな理想という感じ.もっとポジティブな感じな感じの言葉を見つけてみたい.

あとは,Windows 8.1 ユーザー エクスペリエンス ガイドライン に書かれている「"真のデジタル化" とは,アプリが画面上のピクセルにすぎないという事 実を踏まえることです」というのは,ズバリ,フラットデザインな感じ.「アプリが画面上のピクセルにすぎない」と言い切る.ピクセルにすぎないと考えるところからはじまるデザイン.ピクセルに対する経験を得てきた私たちだけれど,ピクセルは光.光と身体.この関係を問うこと.動く身体と光の関係を考えること.光に指を置いてみること.そんなことを考えていくと,理想としてのフラットデザインがあって,Windows8の失敗もでてくるのかもしれない.でも,僕はWindows8を使ったことがない.体験が蓄積されていない.OSXのYosemiteはフラットではない.それでいい.理想は実現できない.理想は失敗する.折衷案がいい.でも,理想を語ることは,ひとつの思考実験だから,実験はすべき.そんなことを考えている.

寝る前にもっとちがうことを考えていたような気がするのだけれど,忘れてしまった.あと,50年後のボタンについて考えることも必要かもしれない.これは英語のテキストであったことを引用しよう.今のボタンではなく,50年後,100年後のボタンはどうなっているのかということ.

あとは,デジタルの経験というけれど,赤ちゃんはいきなりフラットデザインになるわけで,それでも使えるということはどういうことか.ピクセル操作を生まれてすぐにしてきた世代とメタファ世代とのあいだにどんな感覚のちがいがあるのだろうか.

memo691
フラットデザインをコンピュータからの反逆と考えてみたらどうだろうか? ヒトの身体経験などいらない.コンピュータにはコンピュータの経験があるだ,ボケ! みたいな感じ.それは言い過ぎだとしても,フラットデザインで,どこを押されるかわからないということは,なにか,今までのヒトの経験を拒絶している感じもある.それはデザインの問題ではなくて,フラットデザインというピクセルベースのデザインの大きな課題のような気がする.ここをどのようにクリアしていくかの提案をGoogleがしているのも面白い.コンピュータベースのGoogleがマテリアルデザインを出していること.アップルは特に何もせずに,Googleが明確にマテリアルデザインを出してくるところに,メタファーの後,スキューモーフィズムを経て,今のインターフェイスのデザインの面白さがある気がする.身体を閉め出しつつ,タッチは必要とするけれど,それはどうすればいいの? ピクセルにちょっことだけマテリアルを足しますね,みたいな.必要最低限のマテリアルをたす.その必要最低限はヒトのためなのか,それともコンピュータのためなのか,おそらく双方のため.無駄なリソースを使わないため.

memo692
フラットデザインについて考えているけれど,スキューモーフィズムからの切断でフラットデザインを考えるしかない.それしかない.あとはどのくらい抽象化するか.一度,モダニズムちがいでアートにいって,ローゼンダールにいって,デザインに戻ってくるしかないような気がする.デザインでは英語で議論されつくされているフラットデザインにあらたな面を見るには「モダニズムの絵画」に行くしかない.スイスデザインではなく,グリーンバーグにいってみる.スーラも使うのか? それはない.でも,あるかも.でも,ない.

memo693
ボタンを押す.マウスをクリックする.物理的に押す.アイコンがダブルクリックされる.この感覚を捨てる.タッチはこの感覚を捨てる.ガラスにタッチ.タップ.名前も変わった.フラットデザインはこの感覚を反映させたもの.ラファエル・ローゼンダールの作品はどこでもクリックできる.それでいい.アプリのUIは特定の場所をタップしてもらう必要があるから,ローゼンダールのような画面構成はできない.当たり前.でも,ここには考えるべきことがあるような気がする.光,ピクセルで表現することの根本がある気がするのだが,いまだに言葉が出てこない.

もともとUIのボタンはイメージであり,それが機能をもっているということで奇妙な存在だった.その奇妙さのままボタンであることをやめる.ボタンであることをやめてもなおイメージであり機能をもっていること.それを示したのがローゼンダールの作品だと考えてみると,面白い.いま,根本に触れた気がした.そんな気がした.一瞬だけそう感じた.

でも,一瞬だけだった.この一瞬に引きづられ続けていいのか迷い始めた.「ボタンであることをやめてもなおイメージであり機能をもっていること」と「どこ押せばいいか謎」はつながっている気がする.でも,このつながりを考えると「 5秒でわかるフラットデザイン」がどんどんわからなくなっていく感じがする.

memo694
Compression by Abstraction: A Conversation About Vectors
http://www.newrafael.com/compression-by-abstraction-a-conversation-about-vectors/

Rafaël Rozendaal: Vectors are based on mathematical equations. The equations are perfect. No matter how we try, we can never render a perfect circle in any medium. And even if we did, our imperfect eyes would not be able to register its perfection. Do we have to accept that such shapes can only exist in our mind?

ラファエル・ローゼンダール:ベクター画像は数学の等式に基づいている.等式はパーフェクトである.私たちはいかなる方法でも,いかなるメディウムでもパーフェクトな円を表現することは決してできない.たとえもしできたとしても,私たちの不完全な目はその完全さを認識することができないだろう.そのようなかたちは私たちの心のなかでのみ存在することを受け容れなければならないのだろうか?
RR: As long as I can remember, I’ve been drawing. I enjoy converting thoughts into lines. I have an affinity for “abstraction in service of reproduction.” What I mean is that in order to make images that are easily copied/transmitted, artists have invented different ways of simplifying. Think of Egyptian reliefs, Japanese woodblock prints, early Mickey Mouse, early video games. In all these cases the medium forced artists to simplify. Vectors are honest about the fact that they are computer imagery. It is clear that they are made on a computer, they’re not trying to be real. I would describe my work as “lossless image compression by making human decisions.” I don’t let a digital camera decide how to compress an image, it is my choice how I convert thoughts and perceptions and feelings into lines. Isn’t lossless a beautiful idea?

RR:覚えている限り,私は描いてきた.私は考えを線にすることを楽しんでいる.「再生産のための抽象」という考えがいいと思っている.この言葉が意味することは,より簡単にコピーされて伝わっていくイメージを制作するために,アーティストはシンプルにする別の方法を考えてきた.エジプト人のレリーフや,日本の木版画,初期のミッキーマウスやビデオゲームを考えてみよう.これらすべてはメディウムがアーティストに単純化することを強いている.ベクター画像はそれらがコンピュータの画像であるという事実に誠実である.ベクター画像がコンピュータで制作されることは明白である.それらはリアルになろうとしない.私は「ヒトの判断で制作されたロスレスのイメージ圧縮」として自分の作品を説明するだろう.デジタルカメラにイメージの圧縮を決定されるのではなく,私が考えと知覚と感情を線に変えることを決断するのだ.ロスレスというのは美しいアイデアではないだろうか?

I always felt that using a computer, we should not try to depict the world in ways that were possible before, like photography and video. We should find new ways of depicting. I always felt like pixels are an approximation of reality, and vectors are a reconstruction. It is the job of artists to reverse engineer reality into their medium of choice. I chose the computer screen as my medium because I like that these screens are everywhere. Vectors felt like the best solution for bringing impressions from “the real world” to the screen. I’m trying very hard to explain why I think it is better. I just feel like bitmaps and Photoshop filters and pixel displacements and mpeg compressions are trying to be something they are not. But that doesn’t really make sense, you can use them in a way that is truthful. But when I see textures in 3D renderings I just feel like they are trying to be something they are not. Does that make any sense?

コンピュータを使うということは写真やビデオのように以前から可能だった方法で世界を記述すべきではないと,私はいつも考えていた.私たちはあたらしい記述方法を見つけるべきなのである.私は常にピクセルはリアリティの近似であり,ベクターは再構築だと思ってきた.アーティストの仕事は,リアリティを選択したメディウムにリバースエンジニアリングすることである.私はコンピュータのスクリーンを自分のメディウムに選択した.なぜなら,スクリーンはどこにでもあるからである.私はそれがよりよいものであることを一所懸命に説明しようとしている.ビットマップ,Photoshopのフィルター,ピクセルの置き換え,mpeg圧縮はそれらではない何かになろうとしていると感じている.しかし,このことはほとんど理解されない.あなたはそれらをリアルの方法で使用できるから.けれど,3Dレンダリングのテクスチャを見ると,私はそれらが何かちがうものになろうとしていると思ってしまう.分かってくれるだろうか?

Vectors do have their limitations. It is really difficult to make something look dirty. Everything always looks clean.

ベクターは限界をもっている.それは何かを汚く見せることが難しい.すべてが常にクリーンに見えるのである.

memo695
彼らの言葉を理解するには「インターフェイス美学」を提唱するセーレン・ポルド(Søren POLD)が、コンピュータが作り出すイメージはメディアでもあり道具でもあるというキメラ的(複合的/多義的)な性質をもっていると指摘していることが関係しているかもしれない(★9)。つまり、コンピュータやインターネット以前は「オブジェクトはオブジェクト」「イメージはイメージ」と「AはAである」としか言えなかったものが、それらの登場以後、ロナガンの(実際の物体として存在しえない)「オブジェクトではないオブジェクト」や、ヴィアーカントが示す「オブジェクトでもありイメージでもあるイメージ・オブジェクト」といったこれまで矛盾するとされていた関係や要素がさまざまに融合して存在するようになっていると考えられる。このことからポスト・インターネット時代のアートは、今までは考えることができないような要素が結びついた事象が溢れている世界を対象としているといえるだろう。 
「ポスト・インターネット」の質感

というようなことを前に書いたのですが,これはポストインターネットに限ったことではなくて,フラットデザインなどのインターフェイスにも通じているところもあるというか,そっちの方がもっとややこしいになっているのではないかと思う.ポストインターネットでは「オブジェクトでもありイメージでもあるイメージ・オブジェクト」だが,インターフェイスデザインでは,「イメージでしかないイメージ・オブジェクト」になっている.「オブジェクト」が消えてしまってもなお,その機能だけが残っているような感じ.どっちがいいというわけではなくて,リアルを意識するポストインターネットとスキュモーフィズムへの反動としてリアル,メタファから撤退しているインターフェイスとのちがい.フラットデザイン的な感覚がまたアートに流入してくることももう起こっているんだろうなと思う.ポスト・イメージオブジェクトといったことが起こり始めているのかもしれないし,それは淡々と作品をつくりつづけるラファエル・ローゼンダールの作品に既に示されているのかもしれない.

memo696
Jony Ive: The man behind Apple’s magic curtain

http://www.usatoday.com/story/tech/2013/09/19/apple-jony-ive-craig-federighi/2834575/

Federighi says iOS 7’s new look is inextricably linked with technological advances. 
フェデリギはiOS7のあたらしい外観はテクノロジーの進化と密接な関係があると言う. 

“This is the first post-Retina (Display) UI (user interface), with amazing graphics processing thanks to tremendous GPU (graphics processing unit) power growth, so we had a different set of tools to bring to bear on the problem as compared to seven years ago (when the iPhone first launched),” he says. “Before, the shadowing effect we used was a great way to distract from the limitations of the display. But with a display that’s this precise, there’s nowhere to hide. So we wanted a clear typography.”

「これははじめてのポスト・レティナ(ディスプレイ)UIであり,GPUの性能がとても上がったおかげで得た驚異的なグラフィック処理によって実現したものである.すなわち,私たちは(最初のiPhoneが発売された)7年前に比べるとグラフィックの問題に関連するツールは別のものになっている」と彼は言った.「以前はディスプレイの限界を隠すには影の効果を使うことが最も有用な手段だった.しかし,レティナのような精細なディスプレイでは,隠すところはどこにもない.だから,私たちははっきりとしたタイポグラフィが欲しいんだ.」 

memo697
夏の終わりごろから立て続けてに依頼された4本のテキストを書いたので少しボーっとしているといきたいところですが,授業で3Dプリンタがはじまったので,その運用方法をどうするか頭を悩ませています.ひとりで授業して,20人くらいのデータをプリントして,プリンタのメンテなどもしてとなると,それだけで大変です.プリントしながら他の授業準備をすればいいのだけれど,プリントしているとなんだか落ち着かないので,あまり上手く準備出来ません.困ったものです.

授業以外にも研究をしたいので,その時間をどう確保するか.デザイナーの後輩からもらった宿題もあるので,それを考えないといけないし,引き受けた担当分の翻訳もしないといけない.まだまだ忙しい.

エキソニモや谷口暁彦,ラファエル・ローゼンダールといったアーティストの作品とともにある未来を考える.現状の分析ではなく,これらの作品とともにある未来を考えてみることが必要だと思う.彼らの作品が指し示す未来,それは大きくはアート未来であるような気がするし,それが「ポストインターネット」と呼ばれていたのかもしれない.でも,「ポストインターネット」におさまらい未来が彼らの作品にはある気がする.ヒトとコンピュータとの関係,ヒトとウェブとの関係の未来がそこにある気がする.「あたらしい唯物論」とかも勉強しながら,彼らの作品を論じたい.

memo698
弟の結婚式で渋谷にいる.授業準備をホテルでしている.授業準備,3Dプリントと時間が過ぎていくけど,それだけではいけない.自分が何を伝えたいのかを考えなければならない.

メディアアートやインターフェイスを考えること,実装ではなく,それらを考えることの意味を考えること.そこから伝えられることは何なのであろうか.作家論で終わってはダメで,コンピュータとともにある世界のアートのかたちを伝える? いや,アートは関係なくて,ヒトとコンピュータとの関係を伝える.そうなるとエンゲルバートらのヒトとコンピュータとの共進化ということを軸に考えるべきなのかもしれない.いや,いまはもう共進化ではなく,ヒトとコンピュータとがそれぞれ単独進化しているというか,コンピュータの単独進化をヒトがどのように受け止めていくか,コンピュータの自律を受け容れたり,それを眺めるきっかけとしてのアートというあり方があるのではないかということを示せればいいのかもしれない.

memo699
memoが書けないでいる.出張にも行ったのだから,書かないといけないと思っているのだが,書くところまでいかない.書き続けることで考えてきたのに,書かないということは,考えないことで,考えないということは書けない.書くために大きな枠組みが必要なのかもしれないと考えつつも,それが見つけ出せていない.もう少し考えよう.もう少しmemoを書こう.そこから枠組みを見つけよう.

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