tumblrmemo100-199

memo100
新年度が始まって「着任」という言葉がTLを流れてきても,自分は昨年度とかわらずに非常勤講師のまま.こういったことは地味にボディブローのように効いてくる.常勤になった人は,それはそれで大変なんだろうなと思うけれど,こちらも焦る.自分がやっていることが大学の枠組みのなかにあるのだろうかも思いつつも,これからもやっていくしかない.
ということで,大学図書館に大澤真幸さんの『電子メディア論』を読みに来た.もう20年ちかく前の1995年の本.これから書こうとしている「攻殻機動隊」のアニメが1996年だから,何かつながりがあるかも.あとはメディア論の基本だから,教科書に引用するにはいいのかもしれない.

memo101
 Brad TroemelのPeer PressureをKindleでちょっとずつ読んでいる.同僚からの圧力,同業者からの圧力.査読みたいなもの.それがTumblrなどの現在のネットで起きている.TroemelはTumblrを「プロダクティブ・システム」とも言っている.そこから何が生まれてくるのか.見ることがつくること.見て,リブログして,それがつくることにつながる.それが同業者,もしくは知らない誰かが見ることになる.

Troemelのテキストは,さあこれか盛り上がるぞ,というところで終わることが多い.Troemel自身も書いているけど,批評とか論文というよりも,宣言文に近い.でも,彼のようにここまで多く書いてくれると,今のネットをめぐるひとつのヒントになる.ひとつの作品に入り込むのではなく,Tumblrなどのシステムに目を向けることで,大きな視点が得られる.そして,それらあたらしいシステムを,ハバーマスなどの文脈につなげる.過去の文脈につなげることは必要かもしれないけれど,あまりしなくてもいいのかなという感じもする.デジタルで閉じることができればいいのか.

Troemelと自分との違いも考えるとすれば,デジタルに閉じることへの意識かな.でも,Troemelはアーティストでもあるから,ここも違う.僕は作品もつらずに,Tumblrなどのシステムと画像の関係を考えている.そこで,過去をできるだけ参照しない.いや,デジタル的にデジタルを考えることをしたい.でも,それをどうやって行なっていけばいいのかはまだわからない.

memo102
デジタルで閉じると書いたけれども,これはパーカー・イトーのテキストを読んでいたときに思ったことで,画像のフィルターで「8ミリ」風ではなくて,今の若い子たちは「インスタグラム」風とかになっているということ.この感覚とGIF論文を書いたときに考えた「選択的認識」を組み合わせて考えたと思っていたら,大澤真幸さんの本に「選択」という言葉がいっぱい使われていて,う~んとなってしまいった.

でも,「選択的認識」はなんて言うか「デジタルに閉じた感じ」を指すというか,GIFというディスプレイに密着した,ディスプレイを通した認識というか,それなら「ディスプレイ的認識」で良かったのではないだろうか.ディスプレイを通して選択的に認識すること.これがもっとも考えていることにちかい言葉の列のような気がする.インターフェイスを額面どおりうけとる,at interface value というのがあったけれど,at display value という感じだろうか.いえ,ちがうかもしれない.ディスプレイに密着している,離れることができなということが,とても重要.至る所にディスプレイがあるということではなくて,ディスプレイによる認識ということが重要.テレビもそうだけれど,テレビは遠くのことが手元に来た感じ.今考えていることは,遠くも近くもなくて,ただほとんどのものがディスプレイに密着していて,その密着が選択的に生じているということ.それが「選択的認識」?

memo103
4月.落ちた公募に誰が入ったのかを見に行くという自虐的な行為を行う時期.自分と彼・彼女とのちがいは何だったのか.そんなことを考えていても,全然生産的でもなく,面白くないので,次にいこう.

考えることが生産的かどうかは別にしても,書き続けていると,それが次につながることがある.1日何回もmemoを書いて,Twitterではなく,文字数を気にすることなく,書き続ける.でも,書いていることは,Twitterよりも密度が薄い感じがする.それがいいなと思う.
近頃,「低解像度」ということを考えているけれども,それは単に「高解像度」の反対語なのだろうか.いろいろなところをパッと見ていくことで見えてくるもの.それをつなげていくこと.こう書くとハイパーテキストのうえに成り立つものだなと思うし,そこから逃れられていないのかなとも思う.逃れる必要もないのかな.だって,ハイパーテキスト的に考えることができている人は,まだいないのかなとも思うし.それを実現したとしても,それが何を意味するのかわからないけれど.

memo104
同じ考えの回りを回っているな.ぐるぐるとしている.ずーっとぐるぐるしている.ひとつの軸がでてくると,そこをぐるぐるしている.そして,回転が速くなって,どこかに飛んでいくか.勢いがなくなって,回転が止まってしまうのか.飛ぶか,止まるか.そのどちらか.できれば,飛びたいな.止まるときの,止まる感じを書くことができれば,それはそれで面白いなと思う.

memo105
「遊戯性とTwitter,そこからのearth.gif」ということを,池田純一さんの本を再読して思った.ベイトソンを読み直してみてもいかもしれない.「遊戯性」ということ,そこでの真偽がペンディングされている状態というのは面白い.ただ,ベイトソンに戻るだけではダメですね… そのあとが大切.ベイトソンを経由してみてのearth.gifが示している世界の認識を考える.
あと,ピアー水平関係からの「peer pressure」を「全球」的に考えてみたい.

memo106
国民健康保険料の支払いが来た.1ヶ月ごとに結構な額を支払うことになる.去年は一括で払ってしまったんだよな.今回はどうするかな.そんなことを書きながら,次に書くことを待っているのだけれど出てこない.

脳と電脳の2つの脳を持つことになったら,どんな感じになるだろうかと考えている.今でもGoogleと接続されたことで,欲しい情報が手に入る状態だけれども,検索のあとに読むということが結構メンドイ.読むには時間がかかる,「あとで読む」にしておくと,あっというまに未読が100近くになっていって,困る.

「あとで読む」としたものが,そのまま残り続ける.単に,「あとで読む」と決めるだけだったら,時間とともに忘れていくものが多いのだけれど,「あとで読む」をネットに記憶させると具体的な数字で,あなたはこれだけ「あとで読む」んですよと示され続ける.それは,忘れないという意味ではいいけれど,ちょっと精神的に不健在な気もする.忘れるべきものは,やはり忘れるべきか.

memo107
Brad TroemelのPeer Pressure を読み終える.Tumblrをあらたな「生産システム」として,アートのあり方も変えるというところがアツイ.そのための図もわかりやすかったと思う.ここにも書かれていたけれど,とにかく「書き手」がないことが問題.Troemelはコンセプチャルアートと今の状況を比較する.それはコンセプチャルアートは文脈がなかっためにアートに受け容れられるためにテキストを多くの作家が書いたということと,今の状況が似ているからということ.確かに,Troemel自身が作家であり,書き手でもある.

日本だとどうだろうかというと,作り手は多いけれども,書き手はほとんどいないという状況だろう.英語圏では,書き手が出てきても,その後が何となくあるような気がする.それは,書くための媒体があるということ.でも,それは隣の芝生は青く見い現象みたいで,Troemelはネットアートに関する2つの媒体RhizomeとArtFCityがあるだけで,それもまた批評的に機能しているかというと,そうでもないとしている.その点,やっと出てきたのがGene McHughのブログ「Post Internet」と書いている.そうだったのかという指摘.

memo108
何を参照していくか.デジタル閉じるだけでは限界がある.ベンヤミンやマクルーハンではないような気がする.ここで言われていた複製技術やメディア論とは異なる場所に来ているような感じがする.ここからでは,考えることができない状況にあることを示せばいいのかもしれない.けれど,否定から入るのは好きではない.もっと昔に行くのか,それとも全く異なる人を探すのか.難しい.デジタルに閉じつつも,開く方法を探さないといけない.そこがGIF論文を書いてみて,見えてきた課題でもある.

memo109
「巨人の肩の上に立つ」とあるけれども,僕が近頃考えていることは「肩の上に立たないこと」です.「ポスト・インターネット」というアート界隈での流れを追っていると,ここだけで「閉じる」ことができるのではないか,いや,「閉じざるを得ない」と考えることがあります.それは,「インターネットが当たり前になった状況」というのは,今までとは全く異なっているのではないかと思ってしまうからです.

「インターネットがすべてを変える」という理想ではなくて,インターネットが普及した結果の状況とそれに対する意識から,そう思うわけです.「インターネットの前と後」ではなくて,「インターネットが当たり前になる前と後」には大きな断絶がある気がする.だからと言って,「前」のことを考えなくていいかというと,もちろん「考えた方がいい」し,「言及すべき」です.でも,そこで「あえて」,「前」に言及しない選択肢もあるのかなと考えるのです.

そうすると「後」に起こった「あたらしい」ことのみを対象にするようになる.そうして,自分を何か「あたらしい」ことを言っている感じになったりします.けれど,それは単に題材が目新しいものにすぎなかったりします.そこを乗り越えるためには「前」に言及する必要があります.でも,自分の実感としては「前」は「前」でしかなく,「後」への接続には,全く異なるものをつなげているという感があります.

だから,「前」を忘れたフリをして,一度「後」だけで考えると,どこに到達するのか,試してみたいなと思うわけです.それが,「論文」と呼べるかかどうかは,他者の評価によります.でも,一度こうした思い切った「ジャンプ」が必要だと考えたのです.

メディアアートやネットアートにはまだまだ言及すべきテキストが少ない状態です.だから,「前」のことしっかりと記述していくことが必要なのですが,それでも,僕は「後」のことを書いておきたいのです.

memo110
疲れている.特に何をしたということはないのだけれど疲れている.新学期が始まりそうだから,精神的に疲れているのかもしれない.そんなこといっても,まとまったが休みがあるだけもいいとしなければと思いつつも,不安定で先が見えない非常勤講師という立場に疲れているかもしれないと感じている.

ネットアートの紹介記事みたいなものをもう少し多く書きたいなと思い始めている.500字から1000字くらいであっさりと,単に翻訳程度でもいいから書くことをほぼ毎日続けたらどうだろうか.負担になることは確かだけれど,やってみる価値はあるかもしれないと思いつつ.

memo111
ネットアートについて書いた.続けることができるかはわからないけれど,肩の力を抜きながらやっていけばいいのかなという感じもしている.これまでもやってきたことだし.どんどんインプットして,どんどんアウトプットする.これをやっていきたいけど,講義が始まったらどうなるのかなという感じもしている.

伊藤ガビンさんとタナカカツキさんの対談はおもしろい.手が邪魔とか,手が透明になるとか,そういった部分でのインターフェイス論及び,ヒト論は大切だと思う.ヒトを舐めてはいけませんぜ,みたいな感じのインターフェイス論が必要だなと思う.

memo112
アニメ論のためのテスト.アニメーターの人って,すごいと思う.

memo113
アニメ論の初回スライドをつくり,これでいけるのかなと考えつつ,ひとまず終えて,裾上げを頼んでおいたパンツと修理にだしていた靴を引き取りに街へでる.それらを引き取ったのち,いつものお店でごはんを食べて,家に帰り,缶チューハイひとつで酔う.

すこし酔いを覚まして,ネットアート探訪を書く.「待ち時間」についての作品だと勝手に解釈.ネットアートについても書きたいし,インターフェイスについても書きたくなってきた.Googleグラスで,マクルーハンの反射光と透過光を考えるといろいろと複雑になるというところと,スマートフォンによる下向き情報摂取との関係とかを考えたい.

memo114
今日から講義.昨日,早く寝たはずなのに途中で目が覚めてしまい,結局4時ちかくまで寝れなかった.だから,眠いはずだけれど,緊張しているのか,あまり眠くないと書いた途端に眠くなってきた.寝れない間に授業のことを考えたり,Googleグラスとマクルーハンのことを考えたり,プロジェクション・マッピングがなぜ流行っているいるのかを考えたり,次のブログに何を書こうかと考えつつ,そんなことを書いていたら,指導教授が「教授」になったらしい.ということで,めでたい!

memo115
講義を終え,高校で教えていた学生さんたちとお昼を食べる.途中でやめてしまった人も,大学でまた会えてよかった.その後,ある先生がやめたと伝えたら,いたく悲しむ学生さんたち.そのままの流れ,先生にメールして,電話して,会いに行くことになった.僕は行かないけど,これはこれでいい展開だったのではないかと思う.学生さんにここまで好かれているのはうらやましいな.

何度も何度も「コンピュータの歴史」を話していると,どんどん圧縮が強くなってきている感じがする.もうすこし引き延ばして話しても,興味深くなるようにしたい.圧縮すれば,そりゃ面白いよね.

今日,あとは高校で教科会議.また高校の1年がはじまる.

今の大学生は,保育園や小学生でコンピュータと出会っているんだなと今日の講義でわかった.コンピュータに触れてすることがないと,ネットして,そののちにイラストなどを描くようになり,同時にペンタブ導入という流れが多いかな.

memo116
高校のMacが新しくなった.薄いiMac.IllustratorとPhotoshopもCS6になった.でも,いろいろと面倒なこともありそうで,授業がしっかりとできるのか心配でもある.

ネットについて考えることは,僕のなかでは世界の認識の方法を考えることに直結している.そんな感じがする.なんかそんな感じがする.そのくらいのことしか言えないけれど,とにかく認識の問題なのです.ネットとともにある,そしてネットは多様で,僕たちはその一部にしか関わっていないけれど,その一部を選択することで,世界を認識する.全体が見えないのは前提になっている.それを大きな物語の終わりと言うのかもしれないが,ちょっと違うような気もしている.もともとそんなのないとしたらという,「if」の世界.分岐した世界がネットには広がっているのではなのかなと思う.だから,「if」の世界の認識を考える感じ.

memo118
何だかんだで,明日からまた高校が始まる.来週からは木曜のこうぎも始まる.なんか,近頃,常勤への「恨み辛み」を抱いてしまう自分がいて嫌だな.常勤でないからこそ,自由だとも考えることができるけれども,それは続かない自由でもあるわけだし.でも,なんかそう考えるのも嫌なんだな.自由にしていくことに自分が努力していない感じがする.常勤だけがこの先の道ではないと思いつつも,それ以外のことを考えられていない自分がいることも確かだし.自分でできることをしていかないと,足元からどんどん崩れていきそうな感じがしている.怖い.

memo119
「ネットアート探訪」というのはじめて4本のブログを書いた.書くと調べるので,いろいろ知ることになる.その情報量の多さにタジタジになる.そのなかで何が研究で重要かもわからないけれど,面白いことは確かなんです.その面白さと,研究面の重要さとは関係ないのかもしれないけれど,やっぱり面白いことを考えたい.この面白さを知ってもらうために何ができるかを考え,実行する必要がある.まずは,「ネットアート探訪」を続けることからはじめてみよう.ブログに書くのはそれだけではないけれど,「続ける」意識をもつこと!

memo120
高校で今年度初講義.初回にしてはうまく行ったかな.授業がうまくいっても,生徒から慕ってもらえなかったりするので,慕ってもらうことが目的ではないけれど,これからどうなるのか,ドキドキ.あと,自分のことがどうなるのかもドキドキ.

インターネット探訪は今日はお休み.明日もお休みして,明日はインターフェイスについて書きたいな.明治大学の先端サイエンスはとても面白そうだな.ああいったものに憧れるなー.
自分がてきることをしつつ,それが誰かに届くことを願いつつ,よりその精度というか強さ,いや,強さではなくていい良くて,続けることで見えていくことを多くの人と共有できたらいいなと思いつつ寝ます.

memo121
グラスゴー大学でインターネット・アートを研究している博士課程の学生から日本語でメールがきた.僕が書いたエキソニモについての論文が読みたいとのことだったので,その論文を送ったら,とても貴重な情報をもらえた.美術史・芸術学でもインターネットアートが扱われ始めているみたい.メールに書いてあったことだけれども,ネットアートやメディアアートはそれ自体をめぐる文脈が複雑すぎて,これまで放置されていたけれど,やっとそこに歴史的な検討がなされるようになってきたのかな.

「ネットアート探訪」をしていると,膨大な量の情報に打ちのめされる.それとともに,これからはインターネットアートをめぐる歴史がどんどん「歴史化」されていくから,「前」と「後ろ」にどんどん情報が出てくることになる.サンドイッチ状態.圧死してしまう感じする.圧死しないためには何をするべきか.

memo122
寒い.気温的にも寒いけれど,気分的にもどこか先が見えない感があって寒い.何をやってもこの感じを突破できないでいるから,なんか,とても閉塞感がある.外から何か来ることばかりを期待してもダメなわけだから,自分から何かしたとしても,それが空回りしているようで,気持ちが萎えがちになる.けど,そこで萎えてしまったら,終わりだから,次をやろうと思うけれど,それでいいのかなという感じもする.これはきっと新学期が始まったことゆえの気持ちだと思う.けど,それだけで片付けられないものもでてきているのが,35才という歳の問題でもあるんだろうな.

memo123
有機むき甘栗たべながら,ジブリジャズを聞きながら,memoを書いていて,お腹がいっぱいだなー,今日食べたカップラーメンが美味しかったなーと思っている.そんなことで1日が終わっていく.
座談会の直ししていると,自分が「で,」と話し始めることが判明.他の人にはそんな癖がないのに… しかも,自分の話はなんというか,意味不明な言葉のつながりになっているし,他の人の言葉を拾ってないし,後半話してないしで,相当凹む.

お腹いっぱいなら,甘栗食べるのやめればいいのに,封を切ってしったから,この小袋は食べ終えなくてはと思いつつ,食べている.そんなことで1日が終わっていく.

memo124
このバックパック欲しい.白いのがいい.軽いのがいい.パソコン持たないときに使いたい.

memo125
表象07のアニメーション特集を読んだ.土居さんのイントロダクションに感動しつつ,一気に読んだ.アニメ論の講義に組み込もう.と書きつつ,今は「宇宙戦艦ヤマト」の新しいバーションを見ている.これもアニメ.セルアニメでつくられたものが,デジタルで3Dを組み込んだアニメになっている.それにしても,「アニメーション」はどのようにして講義すればいいのか,今だによくわからないでいるので,やりながら,考えていくしかないな.ふー.ただアニメ見ているだけだど,ご飯前の時間がムダだなと思って,このmemoを書いているけれども,やはりそんなときにはあまり考えが進まないな.でも,書き続けることだけは進む.これでmemoも125個.

memo126
こんな感じで使えるのか.メッシュ部分に水筒と傘をいれてという感じかな.

memo127
GoogleのGlassについて考えると,マクルーハンのことが思い出されてしまうのは,古い人なのかもしれない.映画は反射光,テレビは透過光という区分け.Glassは透過光なのか,反射光なのか.ガラスを通るして映像が投影されているとすれば「透過光」だけれども,映像以外の部分は世界のオブジェクトから「反射」した光なわけです.「反射光+透過光」という組み合わせで世界を認識する.

と考えてみると,「反射光」「透過光」という区分けよりも,スクリーンというかディスプレイとヒトとの位置関係が,これまでとは全く異なることになるわけです.今まではスクリーンと向い合っていたのが,Glassだとスクリーンを通して世界を見るわけです.ケータイやスマートフォンは.僕たちとスクリーンとの関係を変えたわけだけれども,それはいつでも手元にあるということだけで,ヒトがスクリーンとの位置関係までは変えていなかったのではないだろうか.強いていえば,スクリーンを前に見るのではなくて,下向きに見るということになった.それはそれで,今まで前を向いて行動してきたヒトには不慣れな行為だったわけです.だから,前を向いて使えるGlassということになるのもわかります.

「下」向きの姿勢がどのような問題を孕んでいるのか考える暇もなく,次は「前」というこれまでの姿勢に,これまでにない「スクリーン越しの世界認識」が組み合わさるわけです.これはどうなっていくのか.ヒトの身体はナメてはいけないので,すぐに透明化していくのかもしれませんが,ここには大きな転換が,それは技術的なものではなくて,世界認識の部分で起るような感じがします.メディア論的には,やっとこさ「ポスト」マクルーハンになるのではないのかな.

memo128
memoを書いて,それをもとにブログを書くという流れを続けている.ここは気楽にダーと書いてみる感じ.memoの番号ついているから,なんかやる気でるし.単純な自分に乾杯.Twitterへの書き込みは減った感じがするというか,ここでダーって書くとだいたい,240−300文字くらいで,Twitterには流用できない.と,ここまで156文字.ちょっとオーバーくらいでした.こうやって書いていると,途中で意義切れして,書けなくなる.と,ここで212文字.僕の思考の勢いが持つのは,250字くらい.そんなことがわかったようなわからないような.

Yuri Norstein Hedgehog in the fog 1975 (by Nick Fracture)
Source: youtube.com

memo129
ハリネズミが川の流れに身を任せるところが好きだなー.何度か書いているけれど,実際に川に流されたとき,身を任せると体が浮かぶんです.霧のなかであっちにいったり,こっちにいったりして後に,川に身を任せるハリネズミに,今の自分の気持ちを重ねてしまった.そして,身を任せる気持ちを忘れていたことに気づいた.流れに任せすぎてもいけないけど,ある程度は任せないと,力みすぎて,溺れる.

memo130
寝る前に考えたことが見事に忘れている感じがする.何を考えていたのか,さっぱりわからない.いい天気で,洗濯をして,仕事へ行く.なんだろう.何を考えていたのだろうか,それすらも忘れているけれども,それでも仕事にだけは行く.何を考えていたのか,それを思い出したいけれども,それすらもできない.周りをぐるりと見回しても,何を考えていたのか,思い出せない.思い出せたのは久保君のこと.いえ,でも,周りのもの見回して書いたのは高校の卒業アルバムの原稿で,久保君は小学生のときの友達.そんなことは思い出されたけれど,寝る前に考えていたことは思い出せないままである.

memo131
講義が本格的に始まる.前期の講義は2つ.そのうちひとつは,今年度からの「アニメ論」.アニメ好きなんだけれど,講義するとなるとまた別物だなーと感じています.多く人が好きで,身近であるがゆえに,何を取り上げるべきなのか,イマイチよくわからない.僕自身が物語的に好きなのを選んでしまっても仕方ないので,学生さんの意見も聞きつつ,「動き」をテーマにできたらいいなと思っているけれども,どうなることやら.

そんな講義の準備で追われるような生活がはじまるのか.学会発表は今回は見送り.そんななか,非常勤講師と常勤の格差についての記事を読んで,これから自分はどうなるのかなと思いつつ.今までは,非常勤講師で笑ってこれたけれど,これからはもう笑えない世界に突入しそう.常勤の人はそれはそれで大変だと思う.けど,大学が増えていくことはこれからないのだから,非常勤と常勤がうまくやっていくには,ワークシェアリングすればいいのではないのかなと思うわけです.どうなんでしょうね.

memo132
脚がしびれるなか,特に何も考えることなく,iPhoneでテキストを打っている.ここからなにかが生まれるというか,なにか考えれるのかもわからないけれど,とにかく打っている.単に打ち続けることから,見えてくることはあるのだろうか? 何でもいいから考えたい,いや,文字を打ちたいのだと思う.この先のどうなるのかもわからない身だからこそ,なんでも書いておきたい.とにかく文字を入力しておく.そして,後で,読み返す.いや,読み返さない.なんでもいい.

memo133
講義初回から重大なミスを犯ししてしまい,ちょっと凹む.すぐに気づいてよかったと思うべきかもしれない.それにしても,自分でつくった講義ブログのURLを間違えるなんて,どうかしている.うーん.

講義が始まった.講義に追われる日々がはじまる.ネットアートのことも,インターネット・リアリティのことも考えたいけれど,まずは講義という時間配分になるな.でも,前期はまだ講義が少ないので,他のことを積極的に考えていきたいな.とりあえず,今日はもう1コマ.
講義で「歩く」という動作をGIFアニメで作成したのだけれど,とても難しかった.アニメーターはすごいなと思う.アニメーターの考え方をみてみたい.この講義,課題がたくさんあるので,どれくらい人が継続してとってくれるのか.

memo134
アニメについての講義が始まった.「動き」について考えることはとても新鮮.ここで学んだことで,次が開けてこないかな.いろいろな点がつながっていくと自分の考えの枠組みを少しは広がる感じがするのですが,どうでしょうかね.

講義が始まったら忙しくなって,気持ちが落ち着くのかなと考えていたけれど,今のところまだまだ焦りがある.このままだとどうなるのかという焦りがある.非常勤講師室で同年代くらいのふたりの女性が話していて,彼女たちもだいたい同じような悩みを抱えていような.「非常勤講師歴30年」は笑い事でもないし,もしかしたら,それができるだけで幸運な時代になってきているのではないかとも思う.深い溜息しかでない.

memo135
高畑勲監督の「おもひでぽろぽろ」を見た.少女時代と大人になってからの色のちがいとか,頬に描かれるひとつの線とかで,全く異なる雰囲気になっていてとてもよかった.こんな風に世界を描くことができるのかぁと思いながら見ていた.高畑監督の最新作も楽しみ.

その後,郵便受けを見に行くと,学会からの送付物あり,封を切ると,査読の不採用通知だった.「不採用」はいつだって,なんだって凹みます.査読コメントにあったように「ひとりよがり」になっていたことは否めないので,そのあたりを書きなおして,夏にもう一回投稿してみようかな.

論文を書いていて最後になってようやく大枠ができたと思えるので,ここから今度は逆のプロセスで,その枠を固めるように書けばいいのかもしれない.

memo136
GIF論文は,3の初期映画とGIFとの絡みと4のGIFおじさんの記述を削る.そして,2の情動をもっと詳しくやって,それから5のディスプレイに表示されるパフォーマティブが画像としてのGIFにつないで,「選択的認識」について,ああでもないこうでもないと議論しよう.そこからはじめよう.そのために今から少しずつ「選択的認識」ということについて,考えていこう.memoをとりつづけよう.

memo137
「選択的認識」というのは,iPhoneとかで解像度を気にすることなく次々に写真をとって,どんどんいろんなサービスにデータをアップしていくようなものと考えました.ここでは写真を撮影することも「選択」された行為だし,そのあとどのサービスにあげるかも「選択」される必要があるわけで,常に「選択」が行われていて選択されなかったものは,そこに存在しもしないような認識.

じゃ,「選択的認識」とGIFがどう関係しているかというと,それはGIFがディスプレイ平面から引き離すことができない画像というところです.「選択的認識」はディスプレイ経由で起るので,ディスプレイ・ネイティブの画像形式としてのGIFが最もその特徴を表して,ヒトとコンピュータとを同じ認識のもとに巻き込んでいるのかなと考えました.論文を出してしまった後ですが,今ここに書いていることのほうが,いい説明になっているのではないかと思います.このあたりはもっと考える必要があります.

ザ・ブルー・マーブル
earth.gif

「選択的認識」で言いたかったことは,高解像度の認識をするのではなくて,低解像度の認識をできるだけ多く行なっていくという方向性もありなのかなということだと思います.今までは「高解像度の世界=ザ・ブルー・マーブル」だったけれど,膨大な低解像度の認識がヒトとコンピュータとのあいだのズレを埋めていって,その先に「低解像度のデフォルメされた世界=earth.gif」が現われるというイメージです.

memo138
 “exonemo アー ティスト 
「エキソニモ的(  )」 
(  )と(  )の間にある(  )は、時には(  )であったり、またある時には(  )であったりします。そんな(  )の(  )に挑む展示を実行します。”
(via mmmmm-mmmmm)

memo139
「選択的認識」という自分でつくった言葉について考えている.論文を書き終えた後のブログには「ディスプレイを経由した認識」と書いている.けれど,それでは「テレビ」と同じだとも.しかし,そこで「GIF」を手がかりにしていることの意味を考えると,それは「ディスプレイに密着したパフォーマティブな画像」を経由した認識といえる.なぜなら,GIFがディスプレイ上でしか成立しないパフォーマティブな画像だからである.画像ファイルであること,そしてGIFであること.

GIFは256色という限定された色でもある.JPEGが示すような「フルカラー」ではない.色数からみても,ある「選択」が行われることになる.その「選択」から生じるGIFらしさが「質感」になっている.世界を「256色」で認識すること.それが「デフォルメされた低解像度の世界」だと考えていたけれど,「デフォルメ」はいらない感じがする.「低解像度の世界」といったところだろうか.「低解像度」と書いたのであるが,ここでの「解像度」が示すことは画素数などではなく,「現実に近づくではない/現実のように見せる方向ではない」という意味にちかい.藤井直敬さんたちがやっているSRシステムの「現実の質を落とす」という方向性が一番しっくりくる考え.

GIF「アニメ」とついていることから,アニメーションつながりで「選択的認識」を考えると,押井守監督の「レイアウト論」やトマス・ラマール氏の『アニメ・マシーン』の「アニメーション・スタンド」も参考にする必要がある.押井監督やラマール氏は「空間性」のことだけれど,GIFは「時間」を選択的に切り取りループさせることで,ひとつの「オブジェ」のようなものにしているということ.ここで為されている「選択」について考える.

memo140
“音楽が、文章が、画像が情報にしたことで、インターネットは、確かに人の意識を変えている。少なくともわたしにとって、音楽を聴く単位は23分からランダムアクセスに、文章を読む単位は一冊/一章/一節から「一読」になった。画像に至っては「一リブログ」だ。コマ切れのコンテンツを意味化していく過程で、自分がどう変わっていくか……本書ではこう示唆するのみだが、わたしは結構、楽しみにしている。”
わたしが知らないスゴ本は、きっとあなたが読んでいる (via mmmmm-mmmmm)

情報が細切れになる→「選択的認識」に至るというところに使える。細切れになった結果としての「GIF」なのだろうか。そして、GIFとリブログとの関係をも考えなければならない。
あと、細切れになるGIFになる、そしてtumblrのリブログの果てに#seapunkのようにデフォルトになる。「細切れ→デフォルト」は「作り込まない」「作り込む意味がない」ことと結びついているのであろうか。

Source: dain.cocolog-nifty.com

memo141
また,PARKERは「new displays」という画像コレクションのTumblrをやっている.Desktop Residencyで展示されている画像はここからとられている.「new」というところが「new jpegs」や「new aesthetic」を思い起こさせる.自分がやっていることは「ネットアート」ではないが,ネット自体からは大きな影響を受けているという部分がここに現れている感じがする.「new displays」を見続けても何が「new」なのかはわからないが.延々と画像がポストされている感じが「new」なんだとも思う.「延々と」画像がポストされていくこと自体がいまの世界認識のひとつのあり方を強く示している.”

「延々と」という部分がTumblrのいい部分なんだろうな.そして,それが「リブログ」と結びついているというところも.確かに,そこで何が上げられているのかということも大切だけれども,それを「延々と」続けることが重要になってきている.「量」による認識の形成.

memo142
お昼前に大学図書館に行ってきたけど,入れなかった,学外者は1年ごとの更新だった.更新手続きは平日のみだから,すごすご帰る.帰りながら特に何も考えること,ただ歩く.それだけのことのような,小説を書きたいなと思ったのはその後のことだけれども.時系列に出来事を並べることだけというか,書いていること,書けることを,そのまま記しているだけは小説にはならないわけで,テキストにはなるけれど,テキストにもならないか.とかなんとか考えているのは,査読のコメントがキツかったからであります.はい,「粗い」です.その「粗さ」を肯定するような認識として「選択的認識」を提示したのであります.でも,そんなことは認められないです,はい.そんなものです.はい.

memo143
「わんぱく王子の大蛇退治」を見る.平面的な絵で,動く動くという感想しかでてこないが,よかった.「お母さん,大好き」な感じは,今見ているとどうかなーと感じもするけれど,動きと絵はとてもいいなと思った.

しかし,長い間椅子に座っていると腰が痛くなってくる.これはいけない.そして,何も考えることなく,キーボードを打っている感じがする.何かを残したいから文章を書いているのに,これといって何も出てこない.またまたmemoだけが増えていく.

memo144
「In your computer」というネットアートを主に追ってきた人の本を読んでいる.セカンドライフを持ちたアートのことが書いてあった.そこに,セカンドライフのギャラリーについて触れられていた.セカンドライフのギャラリーと今のオンラインのギャラリーではどこか違うのか.セカンドライフのような3D空間を用いたギャラリーもあるけれど,壁紙だったり,Tumblrだったりとギャラリーの形態が多くなっているのかな.Tumblrの登場は大きように思われる.スクロールしていくギャラリー.そこからのリブログ.セカンドライフとTumblrか.

memo145
“OFFLINE ART: new2 is a group show about files, versions and copies that question the idea of endless ‘novelty’ in an era of daily remixing on the Internet. A digital file can be copied endlessly, without any loss of quality, thus enabling a web culture of nonstop creating, sharing and remixing files, which has influenced an entire generation of artists.”

ここで書かれている意識と「選択的認識」の関係を考える.常に更新されているファイルを認識するとはどういうことなのか.今,ひとつ認識しても,次にもうあたらしいファイルができあがっている.その連続のなかで成立する認識.どれを認識するか,いつ認識するか,いつ認識を終えるか.どれもオリジナルであるがゆえに,オリジナルがないような感じになる.

memo146
アラム・バートルのようなアーティストが行っていることを事例にしながら「選択的認識」を考えていくことがいいのかもしれない.最初に大枠としてGIFに集約される「選択的認識」を提示しておいて,それを補強というか支える事例として,バートルがキュレーションした「new2」 やインターネット・リアリティ研究会での「プッシュ通知」を考える.それ以外にも,「選択的認識」が見られる事例を多く集めるためにどんどんネットアートを探訪していくことが必要かと思われる.まず,「new2」 のことについて考えることが必要.

memo147
学生さんからのコメントをせっせと読んでいると,講義が始まったんだなーと思う.こちらがハッとするようなコメントもあれば,とりあえず書きましたよというのものある.この幅がおもしろい.みんながみんな,鋭いコメントだらけだったらうれしいけど,困る.そんな振れ幅のあるコメントをずーっと読んでいる,だんだんアタマがポーとなってくる.ポーとなったアタマでこのテキストを書いている.こんなときだからこそ,なんかいいアイデアが湧いてこないかなー.こない.

memo148
講義が本格的はじまる2回目の前は,とても緊張する.うまくいくかな,時間配分はどうかなといろいろと不安になる.

テレビを見ていたら「選択的摂食」という症状があることを知った.「選択的」という言葉がもつ「否定的」なニュアンス.これをポジティブに考えていきたい.反転した世界認識.クッキーとチョコバーと牛乳だけの世界.それを延々と食べ続ける世界.その世界から見えてくるもの.「選択的摂食」の人がシェフをやっているという事実.ここから見えてくるものはなんだろうか.体験できないことは,他のことで補える.何を選択するのかということ.何が選択できないのかということ.

memo149
バスで東京に向かい中.エキソニモの作品を見に行く予定.その他の予定は未定.作品を見て,頭をドライブさせていきたい.とにかく深い溜息がでる.将来への不安からだろう.どうするかわからないので,「ネットアート探訪」などをはじめて見た.今を追い続けるに,過去との接続も必要.でも,なかなかできない.今を並べて行くだけで,いっぱいいっぱいになってしまう.

memo150
エキソニモ 風景2013
インタラクティブではない
作品に手を触れないでください
通知だけが鳴っている
ガラスに触れることはできない
一枚のガラス
ディスプレイに映っている通知、予定の通知,Twitter
Googleがひとつの風景ではなくなり,プッシュ通知の群れが風景になっている.だから、黒枠のみが壁に描かれている.
電気を供給するための電源ケーブル.
通知は無線.
コードの先にあるのがマウスではなくなったことの意味.
私たちが動かすマウスではなく,私たちを動かす小さなディスプレイの群れ.
たまに起こる通知の連鎖の騒がしさが面白いけれど, 今ここで大きな地震が起こったら.僕のiPhoneもこれらの群れとともに緊急地震速報を僕に通知してくるのだろうか?

memo151
Domenico QuarantaのIn Your Computerを読み終える.2000年代のネットアートの状況が書かれていた.最初のほうに「セカンドライフ」が出てきて時代を感じつつ読み進める.後半は,ペトラ・コートライトなどもでてきて「ポストインターネット」な感じ.そして,ネットアートの初期と現在のあいだのちがいというのを感じられた.

Quarantaは「ネットアート」という言い方にこだわっていて,「ポストインターネット」は何を言っているのかよく分からないのでダメという感じ.

「オリジナルとコピー」の問題を,ヴァルター・ベンヤミンとボリス・グロイスを使って論じているところは,とても参考になった.ただ問題意識が少し,僕とは違う感じで「見えないオリジナルが存在する場所」について書かれていた.ネットアートの「URL」がひとつのオリジナルの「場所」になるのではないだろうかというのが,Quarantaの見解.

Quarantaが書くペトラ・コートライトはまさに「選択的認識」を実践しているアーティストという感じであった.コートライトについて自分で考えたときは,全く分からなかったのだけれど,改めて考えてみたら,あたらしい発見があるのかもしれない.

memo152
実家でCSIを見つつ,ビールを飲んでいて,ふーと溜息をつく.この先のことを考えると,溜息をついてしまう.ここでいつも繰り返し書いているように,自分がすることをしていくしかないのだけれど,それがどうなっていくのかを考えてしまう.何もならなくても,知りたいから,好きだからやるという感じで,これまでやってきたけれど,ある程度の歳になってくると,その先には暗い闇が待っている感じがしてくる.実際にはそこに闇はないのかもしれないけれど,ちょっと離れているとそこに何かがあったとしても,闇しか見えないので,とても不安になってくる.不安になったまま進むしかないのだけれど,いや,進むしかない.と考えても,自分が進んでいるのか,その場で足踏みをしているのかもわからない.とにかく足を動かすことからはじめるしかない.

memo153
先を見過ぎてもいけないし,全く先を見ないわけにもいかない.前を見なくてはならないのだろう.でも,ここで下を向くことをするのもいいのではないだろうか.自分がどのような地面に立っているのかを見つめること.前でも,下でも,しっかりと見ることが必要なんだと思う.そこからです.

memo154
名古屋へのバスは渋滞をノロノロと進み中.いつになったら着くのやら.iPhoneを見つつ,気持ち悪くなったら寝るを繰り返す.このメモを書いたら寝ようかな.世の中のひとつの存在として渋滞を移動中.

memo155
こんな感じになるまで靴を履きこみたいな.そのためにはまず手前の短靴を買う必要がある.

memo156
佐々木友輔さんの『新景カサネガフチ』をUstreamで見ていて,唐突に新海誠さんの『ほしこのこえ』のことを思い出して,あれって,「ケータイ」だったから成り立つんだよな,「スマートフォン」じゅ成り立たないのなとなったところで,『新景カサネガフチ』でいきりなり「マリンバ」の呼び出し音とともにiPhoneが移りまして,やっぱりここには愛着なんてものが生じにくいよな,ディスプレイというガラスには愛着が生まれにくいよなと思いつつ,握り締めるにもちょっと向いてないし,その点「ケータイ」は握りしめやすいし,ディスプレイは小さいから覗きこむし,だからなんかプライベート感でるし,テンキーにはしっかり触れられるしなと思ったしだいであります.

memo157
溜息をつくをやめた.出そうになったら,息をとめるただそれだけ.仕方ないと片がつくことではないけれど,と書くと何かあったみたいだけれど,実際には「これっ」ということがないからこそ,溜息をついていた.自分ではどうしようもならない状況に知らないうちに入り込んでいた,あるいは知りつつ入り込んでいて,見て見ぬふりをしていたのが今の状況だとしたら,溜息をついてもそれは何の解決にならないところか,さらにダメになっていく.だから,溜息をつくのをやめた.

memo158
「選択的認識」のことを考えつつも,これといって決め手がないまま過ぎていっている.そのあいだ電脳化についても考えていた.電脳化は「選択的認識」を突き詰めて,それを頭蓋骨のなかにいれてしまったものだと考えると,「選択的認識」がコンピュータのものではなく,ヒトのものになっていくといえる.何かを保存するときは,保存先を考える.名前をつける.そんなことを電脳が行なってくれる.僕たちは気にしない.それは今の脳も同じかもしれない.けれど,世界を認識するときに,ここまでディスプレイ越しに認識したときはないし,撮影して終わりではなく,撮影した画像がコピーにコピーを重ねながら流通していくというのもあたらしい出来事ではないのだろうか.専門家だけではなくて,それを一般の人も行なっているという意味ではあたらしいことが起こっている.選択され,保存され,コピーされ,流通され,コピーされつつリブログされていく画像.テキストもそうかもしれない.でも,画像.流通することが一番の画像.流通するということも考えずに,そう考えないまま,そうしてしまえる「自然さ」があたらしい.

memo159
学生さんたちから送られてくるGIFアニメを見ていると,うまいなーと思う.あと,よくやってきてくれるなーとも思う.ありがたい.アニメ論をやって,批評などは教えられないから,アニメを体感するというか,アニメとは何だろうかとうことを考える講義をしてみたいと試行錯誤しながら行なっている.アニメを描くことでその難しさというか,独特のつらさみたいものが感じられたいいなと思う.

memo160
I need to write some memos in English in order to expand my world. I love the internet. This text is a test for Ginger. I don’t know whether Ginger is well or not for improving my English skill until I have used it for a while.  

memo161
講義準備を終えるともう夕方.何もしないままにGWは終わっていく.どこかに行きたいとかはないけれども,もう少し上手く時間をやりくりして,英語でテキストをどんどん書きたいなと思いつつある.このままでは何も変わらわない感じがするし.

英語のテキストではないことを書こうとしたのだけれど,それを忘れてしまった.とても腹が減っているからでしょう.重要だった気がするし,ハラヘリに影響されるくらいだから,大したことないことかもしれない.きっと後者でしょう.

タグを打っていたら思い出した.もうひとつのブログに海外からのアクセスがちょっと増えるときがあるということだった.だから,英語で書けることは書いたほうがいいのかなと思ったのであった.

memo162
 “Alex Chung expressing frustration with Wittgenstein limits of language: an animated #GIF is so much more expressive than writing “Awesome!” @rhizomedotorg #7on7htc”

http://www.flickr.com/photos/62764099@N00/8666248680/

ウィトゲンシュタインが示した「語りえないことについては人は沈黙せねばならない」という限界へのいらだち.GIFアニメの方が言語よりも語れる.ならば,GIFアニメ検索エンジンをつくる.こうした思考の流れと実装,とても興味深い.

memo163
 “Their existence as a fragment doesn’t serve as a preamble to the restoration of the whole: it perpetuates a continuation of the fragmentary, as emphasized by its endless looping, its pure existence for its own moment without a need to desire to belong to another stream of narrative.”
http://rhizome.org/editorial/2012/nov/20/gifability/

このテキストを読んでいて,この部分を忘れていたことを恥じる.GIFと「選択的認識」との関係を探る上で重要なことが書かれている.GIFはループに留まり,物語に属さない独自の瞬間のための純粋な存在であると書かれている.

memo164
“From there the duo took a peculiar but somehow logical course, moving from Tom Cruise to Ryan Gosling to Rosalind Krauss to Marcel Duchamp’s film Anemic Cinema, and then onto boobs, The Shining, Lana del Ray, Werner Herzog’s film Heart of Glass, and hypnosis. Where their heads met was at “the limitations of language” and “getting beyond that” through images and looping. In the end, their affinities resulted in Giphnosis, a pseudo startup company and self-help program.”

http://blog.art21.org/2013/04/25/100-artists-paul-pfeiffer/

GIF→ループ→クラウス→デュシャン,そこにウィトゲンシュタインが絡んでくる.そして,その組み合わせからできたのがシャイニングでの包丁女と5匹の猫が無意識へ作用するGIFアニメ.ループ映像の強烈さは,そのことへの無知とともにある.

memo165
1:38: Chung and Pfeiffer introduce GIPHNOSIS: reprogramming yourself using GIFs in your subconscious. ”In a way GIPHNOSIS already exists: it’s news media.” - Pfeiffer. Chung and Pfeiffer’s GIPHNOSIS is collection of downloadable screensavers to reprogram your mind. Two choices: Shelley Duvall with a knife or five surprisingly coordinated kitties.”

http://rhizome.org/editorial/2013/apr/20/liveblog2013/

GIFアニメを使って無意識をリプログラムするという発想が,たとえ冗談だとしても,いや,冗談だからこそ面白い.

memo166
Miltos ManetasのIn My Computerを読み終えました.Miltos Manetasは「NEEN」を提唱した人.NEENはギリシャ語「まさに今」ということらしい.ネットアートのひとつのムーブメントになった.僕は「NEEN」という言葉から,「ニュータイプ」という言葉を連想した.人類が宇宙に出てあたらしい感覚を身につけた「ニュータイプ」を生みだしたように,インターネットから「NEEN」が生まれる.本のなかでは見つけることができなかったけれど,あるインタビュアーがMiltos Manetasに「あなたはコンピュータを地球におけるあたらしい種と言っている」と言っていた.僕自身も同じように考えているので,Miltos Manetasからヒントがもらえそう.そして,「NEEN」からも.

memo167
新海誠さんの「ほしのこえ」でインターフェイスについて考えると何が見えてくるだろう.ポイントは「ケータイ」だと思われます.今では「ガラケー」と呼ばれるような種類のケータイを使っている未来の高校生.2002年から考えた未来.2002年にはiPhoneはでていなかったという単純な事実.私たちの想像力.身近であるがゆえに飛躍できない想像力.ケータイの未来は想像できなかった.

いや,本当に想像できなかったのだろうか.想像できたのかもしれないと仮定して,新海さんが「あえて」ケータイは2002年のままのかたちを残したと考えてみると,そこから何が見えてくるだろうか.2007年に発表されてその後のスマートホンの原型となった「iPhone」と新海さんが描くスティック型のガラケーとのちがい.それはインターフェイスの「モノ」としてのありかたではないだろうか.「触れられるモノ」という感じ.こうかくと,タッチパネルのiPhoneの方が「触れている」ではないかと言われるかもしれない.でも,それは「触れる」というよりも「タッチ」ではないだろうか.「タッチ」は「触れる」ではなくて,「触れる」は「タッチ」ではない.この微かな差がガラケーとスマートホンにあるように思われます.「握り締める」という感覚のありなしという感じでしょうか.それが,宇宙に引き裂かれるはじめてのふたりの若い恋人の話を支えている感じがするのです.

memo168
 “ツールの話で言うと、After Effectsで完結する作品を作ってるんですけど、そこには理由があって。デビッド・オライリーっていうアイルランドのCGアニメーション作家がCGの在り方について問題提起している文献「アニメーション基礎美学」に凄い衝撃を受けたんです。要は、CGっていうのは基本的にどんなものでも再現出来るんだけど、それは一方で凄く危険な表現で、例えばプラグイン使ったりだとか、手描きの素材、撮影したビデオ素材なども組み合わせられて出力を拡張出来るんですよ。アニメーションにおいて作家のアイデンティティは、メディアの制約があること、例えば砂でやると砂でしか出来ない表現があると同時に、砂だと出来ない表現があるじゃないですか。そういうような手法が持っている制約があるからこその恩恵があって、CGの弱点は実はそれがないことだっていう、その問題提起に凄い衝撃を受けて、じゃあ、自分に何が出来るかって言ったら、After Effectsで完結させることで出来ないことを敢えていっぱい作って、そこから生まれる思考やAE特有の質感が出来ると思ったんです。たとえるなら真剣振りかざしてるような侍を相手に、木刀で勝っちゃうような人になりたいなって(笑)。”

http://white-screen.jp/?p=17624

制約・制限・選択することの美学とそこから生じる質感.なんでもできるからの脱却.

memo169
“最近の話題っていえば、white-screen.jpの「Tell Your World」のインタビューを見たんですけど、今ああいうニコニコ動画を中心にしたアニメとかゲームの文化にマジで影響を受けて作品にしてる人が、僕らの下にいるっていうことが衝撃的っていうのを、ティモテの社長と話してて。今、ニコニコ動画の文化にどっぷりハマってるのって中学生とか高校生じゃないですか。その子たちが美術とか音楽とか作りたいって興味を持った時にどういう表現が出てくるのかっていうのは凄く興味深いです。”

http://white-screen.jp/?p=17624

日本の映像における「インターネット・リアリティ」的表現はこれから出てくるのかもしれない.
memo170
 “あとは、Vimeoとかニコニコ動画とか、動画投稿する場所でYouTube以外にも濃い文化圏が生まれているっていうのは凄い面白い。一方で文化圏が変わるとその中で評価されているものも全然違うし、ものづくりに対する思考の型も全然違うと思うので、そういう文化圏を飛び越えたものをこれから、文化圏の違う人と組んだら面白いものが出来るんだろうなって思っています。”

http://white-screen.jp/?p=17624

動画共有サイトによる文化の違い

memo171
 “3DCGアニメーションにおける技術は目をくらませるほどのスピードで進化している。新しいツールやテクニックが毎年付け加えられ、この進化に耐えぬき、時代遅れにならずにいられる作品は多くない。こういったことはあらゆる発明に際して起こりうることだが、それを「高速拡張美学辞典」と名付けることにしよう。あらゆるアニメーター、デジタル・アーティストが内的に保有している辞典のことだ。3DCGのリアリズムは毎年ゆっくりと洗練されていくので、こういった人々の内的な辞典はアップデートされ、以前のものは突如としてすべて時代遅れになり、スタイル化されていく。一方でプロではない観客の内的辞典は同じものでありつづけ、アップデートは長い時間をかけて行われる。かつては観客をそのリアリズムによって驚かせていた3DCGアニメーション作品は、今ではその効果を持つことができず、間違ったもののように思えてしまう。ちょっとした美学的矛盾に気付く観客は少ないが、しかし、数年すればその観客の数は増えるだろうし、10年か15年もしてしまえば、観客は誰もが無意識にそれに気付き、笑いものにするようになることをわれわれは経験から知っている。もちろん、悪い美学を偽って通用させることもできるだろうし、新たなエフェクトや技術によって観客の目をくらませることはできるだろう。映画史というものは本当は美的な杓子定規でしかない。何を残し、何を忘れるのかについて、かなり選択的なのである。”

http://www.animations-cc.net/criticism/c014-basicanimation03.html

選択的美学から生じる質感と常にあれもこれも拡張していく美学との対比を考えることができるのではないだろうか.

memo172
 “この論考で、CGアニメーション界に現れた新星デイヴィッド・オライリーは、「一貫性」こそが芸術作品のオリジナリティーの鍵であるという考えのもと、その達成のために、無制限の自由が可能になるCGというメディアにおいて、あえて制約を設けることで創作に励んでいることを明らかにする。映画監督をはじめとした人々の言葉が引用されていることからも明らかなように、この作業が持つ有効性は、CGアニメーションに留まらないアニメーション一般(いや、芸術創造一般)にまで及ぶようにも思われる。個人的には、(ときおり青臭さも感じさせるものの)アニメーション創造における理論をきちんと言語化して提示してくれた同世代の作家が出てきたことに最大限の敬意を表したい。”

http://www.animations-cc.net/criticism/c014-basicanimation01.html

土居さんのイントロ.CGアニメーションにおける「制約」から生じる質感.同世代の作家

memo173
このバランスがいい.

memo174
やはりこの靴がほしい.そして履き倒したい.

memo175
Brad Troemelの「The word “Remix” is corny」を読んだ.リミックスは「古臭い」ということなんだけれど,Toremelはリミックスをふたつに分けていて,ひとつは「A→Bリミックス」.これは今までどおりのリミックス.オリジナルがあって,そこから派生していくもの.これが古臭いということ.もうひとつは「プログレッシブ ヴァージョニング progressive versioning」は何がオリジナルか,その由来がわからなくなるようなリミックス.「リミックス」というより,作品のバージョンを変えてしまうということ.ここでは誰が,いつ作ったのか関係ないことにある.この背景にはTumblrのリブログのなかでキャプションが抜けていくことがあるのでしょう.

「プログレッシブ ヴァージョニング progressive versioning」では最終形が前提とされていないとあって,このあたりは常にファイルが更新されていくという「new2」と通じる部分がある.息をするようにファイルをコピーして,バージョンを変えていくこと.その意識と背景を考えることが必要.

また,Toremelは参照していないけれど,ネルソン・グッドマンの「バージョン」と組み合わせて考えてみても面白いかもしれない.

memo176
Seven on Seven の映像を見ていて,GIFのループに対するAlex Chungのコメントが面白かったから,彼をネットで探したけれど,彼自身の言葉で書かれたものは見つからなかった.読んでみたかったのに,残念.ループ映像に対して,私たちは今だに言葉を持っていないと言い切れるAlexの言葉はいいなと思う.話し方も落ち着いていてよかった.

memo177
Seven on Seven 2013: Paul Pfeiffer + Alex Chung
ウィトゲンシュタイン
言語の限界
言語 バイパス
あたらしい言語をつくる
awesome! の言語
あたらしい視覚的言語 GIFアニメ=ループ映像
ループ映像の魅力
ロザリンド・クラウス
ピュアな映像
視覚的無意識
ループ映像
セクシャリティ
エレクトリックチャージ
セックス in and out
原始的な感覚への刺激
ループ映像に対して言葉をもたない
経験が凝縮される
進化的な機能?
記憶との関係
繰り返し見られる悪夢
ゾンビ=ループ説! Alex Chung
繰り返しとは何か?
デジタルがあたらしい時間意識をつくった
それがループ
ボブ・マーリー?
ループ・ファンクション 21:00
映像,音楽
Seven on Seven はループファンクション
催眠的=ゾンビ
リプログラム
プログラミング言語とループ 再帰?
GIPHOSIS GIF+催眠術?
無意識への作用
GIFの力を用いて無意識へ訴えかける
ループ映像は定義されていない・理解されていない
プログラミングする人にとってのループ?
あたらしい言葉をつくる
あたらしい方法のコミュニケーション
memo178
Seven on Seven 2013: Fatima Al Qadiri + Dalton Caldwell
情報過剰について
データドレッド 不安
プッシュ通知
デジタルデットクス
「今」に生きる
ニュースの質 アップデート
バックグラウンドノイズ
you got a mail!
通知のサウンド
オフにしてスタンドアローンになれるか
ポジティブ通知・サウンド
バイアス
フィジカル
Constant Update.com
イメージの使用について
テキストをシンボルとして使う
メディテーション
「デジタル的不安」_いい言葉がない
インフォーメション・コーリング
若い世代はどうか?
世代によって技術との関わりはちがう
若い人はどんな技術でもつかう
若い世代は普通になっていく\

memo179
wombat at higashiyama zoo

memo180
whitemenwearinggoogleglass:
http://mashable.com/2013/04/30/google-glass-future/

これがカッコイイとは,現時点では少数意見かもしれない.でも,今のカッコ悪いは,未来でもカッコ悪いとは限らない.

There are not so many people who think it looks good now, however almost all will think that in the near future. 

memo181
ピクサーの歴史を読んだ.何度も挫折しつつも,信念を貫いて成功していく物語だった.挫折してもくじけないことが重要.それよりも信念を突き通すことが重要.これが難しい.特にやっていることが今までにないことになると,それを評価する基準がないので,挫折しがちになる.そのなかで信念を突き通せるのかどうか.価値基準を変えるということはとても難しいが,やりがいがある仕事である.そんな仕事をしたい.

memo182
「選択的認識」についての考えが停滞している.何でもここに結びつきそうで,すべてがここをスルーしそうでもある.ブラッド・トロメルのテキストをいつくか読んだけれど,彼の考えは「選択的認識」を考えるときには外せない感じがする.Tumblrから認識を考えている感じ,これは僕が彼の書いているものから受ける印象.Tumblrというのはひとつのフレーズで,現在のインターネットから生じている認識の変化を言語化している印象を受ける.ネットはどんどん変わっていく,そこに並走して言葉をつけていくことはとてもむずかしく,おもしろい.

memo183
 “消費速度の早さはすごく感じますね。Tumblrのアーカイビングには、紙媒体は絶対に勝てないんですよ。紙媒体自体もスキャンされてデジタルデータになっちゃったりして。現状だとGIFアニメは有効手段だな、と思ってます。ただの画像だったら1秒で消費しまって、よっぽど良いと思ったときには右クリックなどで保存する。だけど、GIFアニメは立ち止まらせる力があるんですよね。グラフィック単体で立ち止まらせるっていうのは、相当至難の業ですよ。YouTubeはワンクリックしなきゃいけない分、ちょっと弱いじゃないですか。そういう意味でGIFアニメって今のビジュアル文化の中ではいちばん最強のフォーマットなんじゃないかなって思ってますね。もちろんデメリットもあって、色の再現度が低いとか、重いとかそういう弱さはあるんですけど、だから高解像度でGIFよりも色数が多いみたいなフォーマットができたら、主役になれるんだろうなと思います。”

http://cats-forehead.jp/feature/editor-vol3-furuya-3.html

編集者の古屋蔵人さんのインタビュー.TumblrとGIF.GIFがビジュアル文化で最強フォーマットということ.あくまでも,現時点でということだけれど.最後に,「高解像度」が出てくるけれど,やはり解像度は大きな問題なのかな.GIFが持つ人を立ち止まらせる力と解像度は関係あるのかないのか,このあたりを考える必要もある.ここでマクルーハンの「ホットとクール」の区分けをもってきてもいいのかもしれない.時代遅れと思われていたGIFが復活したように,マクルーハンが低解像度のGIFとともに復活し「ホットとクール」の分類が有効になる.「ホットとクール」はファイル形式にこそ有効な区分けかもしれない.ディスプレイ全体,メディア全体は高解像度化していくなか,ファイル単位で「ホットとクール」の区分けをしていくことは,これまで見過がしていた部分が見えてくる可能性がある.ホットなディスプレイのなかにクールなファイル形式の画像があるという状況は,実に興味深い.

memo184
[インターネット アート これから]——ポスト・インターネットのリアリティ
アーティスト・トーク パーカー・イトー【前半】
[Internet Art Future]—Reality in Post Internet Era
Artist Talk: Parker ITO [First Half]
−−
コミュニケーションにおけるディレイ
はやいタイプでもコミュニケーションにはディレイが生じる.
インターネットの時代は「加速の時代」
アーティ・ヴィアーカント
すべてはリミックスだと.
リミックスカルチャー
アーティ:イメージオブジェクト
アーティとのディスカッション・コラボレーションした論文はA+
RGB Forever
Photoshop RGB スペクトラムの色
Pixel celabration
40くらいの花火の映像 on Youtube
After Effects,レイヤーをつかう
PaintFX.biz
誰か一人に作品が属しているわけではない.
オンラインとオフラインのあいだで揺れる
Tumblrすてべのものをひとつのところへ持ってくる
スーパーセクシー
JPEG ドキュメンテーション オンライン
JPEGのドキュメンテーションが重要
美術館がつまらない
ペインティングをしてオンラインで見てもらう
オンラインで出会う
オンラインを通して出会う
インターネット上のアイデンティ
画像に親しさを覚える
オイルペインティングとデジタルとが一箇所で出会う
イメージの流通とアイデンティ形成における3つの段階

memo185
(via Charting New Territory in the Art Blogosphere)
The labels for each of the 11 works on AFC Selects are presented in a very computer aesthetic. And a specially designed AFC site — which is not public yet — shows potential collectors more information about each artist. (photo by the author for Hyperallergic)
Priced at $650, AFC Selects is available starting today in an edition of 100 and nine have already been sold.
−−
USBメモリーに作品を入れて売るというところはあたらしいことではないけれど,その説明のために「デスクトップ」をそっくりそのまま真似ているところが,どこかリアルと仮想とが逆転していて面白い.データを売るのだから,説明もデータのままにするのではなくて,データが示す「かたち」をモノ(紙)にして机の上に置いてある感じがなんかよい.こうやってモノ(紙)のとなりにiPadがあると,iPadがなんか弱い感じがする.

Source: hyperallergic.com
(via SLN:log* » Simulated Reality)

ところが、instagramにはsimsの中でのまさに日常の風景が投稿されており、instagramのフィルターと相まってパッと見現実と区別がつかないものもある。instagramというリアルな日常を切り取るシステムに非現実が浸食していきていて、普通の写真でよく撮られるような構図と同じような写真が投稿されている様子は相当不思議だ。

memo186
こちらもリアルと仮想とがごちゃませになった感じ.instagramが「リアル」の8ミリフィルムなどを模倣したフィルターをつくって,8ミリを知らない世代はそれを「instagram」独自のフィルターだと思ってつかう.リアルか拝借したものが,デジタルのオリジナルになる.そのデジタルのフィルターがデジタルにかけられると,リアル感が出てくる.「フィルター」をかけることに世界のあり方がかわってしまう.

Source: cbc-net.com

memo187
(via あきこの部屋 » SXSW interactive 2013レポートその3 【テキサスの見本市&Maker faire】)
1960年代に広告はアートディレクターとコピーライターによって現在のかたちの元となる革命を起こしたわけですが、これに「Code」(プログラム)を加えてさらなる革命を起こそうということなんだそうです。

《art | copy | code》という3つの並びは最高にいい.60年代からの遺産からの決別のためにも「code」というあたらしい言葉が必要.「世界制作の方法」を「世界実装の方法」へと変えていくこと.そこをしっかりと観察していくこと.
Source: cbc-net.com
memo188
“「映像」をめぐるとても大きな問いです.私も映像はヒトにとって大きな役割を担っている思います.しかしです,映像はヒトと同じように世界を「すべて」のかたちで認識しているものだと思うのです.ピントをどこに合わせるという問題があったとしても,それを見る人はその一点だけに集中しなければならないことはありません.ヒトが自分の認識に似たものをつくり出して,それによってさらに自らをより「ヒトらしく」したのかもしれません(もしかしたら逆で,映像が世界を「すべて」で認識して,それを見続けたヒトが世界を「すべて」で認識するようになってしまったのかもしれませんが…) けれど,コンピュータを介した映像=インターフェイスは,見る人に「一点」を見ることを促してきます.それは今までは少し異なる体験であり,これはヒトの側へ引きこまれていたヒトを少し別の存在の方へ,コンピュータの側に連れだそうとしているのかもしれません.世界の構造はまた少し変わり始めているような気がしています.”

「The EyeWalkerの制作にあたって」を読む

自分が以前書いたテキストに今考えている「選択的認識」につながる記述を見つける.「すべて」ではなく「1点」を見つめること.それがヒトをコンピュータの側に連れ出すことにつながる.「すべて」を見るのではなく,「1点」を多く見ていくことが「選択的認識」となる.「1点」を見るごとにそこに「操作」が入ってくる.世界のインターフェイス化?

Source: touch-touch-touch.blogspot.jp

memo189
これは是非,読みたい.すぐにKindle化してください.ブラッド・トルメル以後のネット,アート,世界認識.トルメルやアーティなどの「ポスト・インターネット」界隈の身内の本かもしれないけれど,彼らの意識は「インターネット・リアリティ研究会」ともつながっているし,ここには確実に「次」があると信じている.

memo190
これからは「追いついていけなくなる」ばっかりなんだろうな.インターネットについても,その他についても.その中で,いかに考えていくかを模索していかなくてはいけないなということを,風呂に入っているときに思った.風呂に入っているときに思ったことは,上に書いたことと少し違う感じだったのだけれど,だいたいそんな感じ.「追いつけない」「ついていけない」「置いて行かれる」,そんななかで考えていくこと.

置いていかれていくなかで,そこから「先」を眺めて,考える.これは今もそうなのかもしれないけれど,もっと絶対的に置いていかれるという感じがある.もうどうやってもわからないという気持ち.そこから再び考えることを行うには,どうしたらいいのか.

memo191
筆箱に使えないだろうか.

memo192
MacBook AirにMoney Finder とレーニンのステッカーを貼ってみた.ステッカーを貼りたくても,どこかで躊躇してまって貼れずにいたのだけれど,Money Finderのロゴが「M」が重ねったようにもなっていて,自分のイニシャル(MM)のように見えるので貼ってみた.1個貼ったら,もう1個という感じでレーニンステッカー.Money Finderとともに資本主義ではない感じ.今まで躊躇していたことをやってしまったので,この感じで「次」に行きたい(と書いてしまうくらい,何か焦っている).

memo193
靴が合わないのか足に水ぶくれがいたるところにでてしまっている.歩くことを増やししたことも関係していると思われるのだが,なにしろ痛い.どうしたものかと思いつつ,以前,サンダルだけでシンガポールに旅行して,どうしようもないほどに足が痛くなったを思い出している.そんな足を抱えながら,明日も講義.

memo194
「選択的認識」という単語手がかりにしてポスト・インターネットを考えてみたいと思い始めて,はじめて「単著」という枠組みを意識した.マクルーハンやフルッサーを参照しつつ,それをインターネット・リアリティで組み直してというか,別のものにしてしまいたい.ネットアートやメディアアートからメディア論の更新を行いたい.そんな気持ち.

memo195
「リミックス」という言葉が「オリジナル」の所在を暗に示しているとすると,マノヴィッチが示す3つのリミックスでは何が「オリジナル」と考えられているのか.恐らくそれは「過去」「ローカル」「文化」であり,「現在」「グローバル」「コンピュータ」はそのカウンターなのではないか.

2つの軸を持ち出すことが,トルメルとは異なるところかもしれない.「progressive versioning」と「リミックス」とのあいだにある意識の変化を考えるのに,トルメルとマノヴィッチとを対比させてみる.そこから「選択的認識」を考えること.

memo196
「過去」ではなく「未来」からのリミックス.[「論理」に導かれるリミックス]=プログレッシブ・ヴァージョニングなのか? ここの相違を考えることは重要.マノヴィッチは「背景」を書いている感じがする.「理想」というべきことを現場から導き出す.トルメルは「理想」なき現場のあり方をそのままの状態で言語化しているのかもしれない.

memo197
リミックスとプログレッシブヴァージョニングとの違いは「参照」への意識と「現在」のあり方.後者は「現在=期限の消去」のみの感じ.前者は「過去」と「未来」につながりを持つ.
ここでの「リミックス」はレフ・マノヴィッチの考えから.マノヴィッチをひとつの基準として,トルメルと対比させてみると面白いかなと.トルメルはマノヴィッチに言及しないのは,自分が「(ニュー)メディア」側ではないと認識しているからかもしれない.トルメルはマノヴィッチではなくバルトやマクルーハンを参照する.

マノヴィッチの「リミックス」のもとにあるのは「モジュール化」という考え.様々なコンテンツが「モジュール」になっている.そして,そのモジュールがどんどん小さくなっていくということ.しかしここでの「モジュール」は,テッド・ネルソンが考案したハイパーテキスト・システム「ザナドゥ」のように参照関係がしっかりと構築されていることが暗に前提されているように思われる.なので,マノヴィッチは「参照関係」については言及しない.対して,トルメルは「プログレッシブヴァージョニング」で参照関係を解体し,「起源」を消失させる.この意識のちがいは大きい.

また,マノヴィッチは「リミックス」の後にくるものはわからないと明言している.次に来るものがわからないからこそ,「リミックス」とは何かをしっかりと認識すべきだとしている.

memo198
これもいいな.「白」がいいらしい.

memo199
近頃書くペースが落ちている.いかん.とにかく書き続けるなかで,出てきたものを拾っていく.そうすれば,何かが出てくるはず.そのためには書かねばならぬ.ちょっとしたことでも書く.何でも書く.とりあえず書く.トルメルの基本が打倒,資本主義だというのも書く.このあたりは面白い.無名性による資本主義の打倒.ミームとしてのアートにはお金は払えない.面白い.もっと小さな認識でいい.それを組み合わせて,ひとつの本にしたい.体系でも,ハイパーテキストでもなく,何なんだろう.言葉を探すところから考える.

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