「ウェブ|映像|フィジカル」with Link

日本映像学会会報 No.155 に「ウェブ|映像|フィジカル」という文章を書きました.会報はPDFで公開されているのですが,リンクが機能しないみたいなので,リンク付きのテキストを以下に置いておきます.ここで書いたように「日本映像学会」が「映画」や「写真」だけでなく,もっといろいろなジャンルの映像を扱ってくれるようになればいいなと願いつつ.
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ウェブ|映像|フィジカル
水野勝仁

「ウェブ」と「フィジカル」という2つの言葉が,これからの映像のあり方に大きく関わってくるのではないかと,私は考えています.

「ウェブ」といっても YouTubeニコニコ動画などの動画共有サイトではなく,YouTube と同じ2005年に発表された Google Earth をはじめとする,一見すると「映像」と考えられないウェブサービスに注目したいのです.Google Earth を「映像」と書くことに違和感を覚える人もいるかもしれません.それは「ウェブ」上のサービスであって,「映像」ではないと.しかし,Google Earth は膨大な量の画像データをアルゴリズムによって継ぎ目なく表示するデータビジュアリゼーションであり,それは新しい種類の「映像」なのです.Google Earth をはじめとする「ウェブ」で展開する多くのサービスを「データに基づいた映像」と捉えて,映像学の考察の対象に加える必要があると,私は考えています.

Google Earth から2年後の2007年に Google は「ストリートビュー」を開始します.このサービスは,カメラを載せた車が撮影した道路沿いの360度の風景が地図に沿ってシームレスに表示されるものです.これを利用して作られたのが田村友一郎の《NIGHT LESS》(2010)(→動画はここ)です.《NIGHT LESS》は,ストリートビューの画面を一枚ずつスクリーンショットで保存し,それを編集して出来上がったロードムービーです.ここではストリートビューが映像作品の素材となっています.その結果見えてくるのは,ストリートビューには文字通り「夜がない」ということです.それは,ストリートビューが昼間にしか撮影できない仕組みになっているからです.世界をデータ化していく作業の制約が,そのまま映像を規定しているのです.技術的な制約からくるストリートビューの映像に「夜がない」ことが,それを「ウェブ」上のサービスとして利用しているときには問題にならないのに,「映像」として捉えたときには意味を持ってしまうことを,《NIGHT LESS》は示しています.

Google ではなく FacebookTwitter という個人と結びついたウェブサービスを活用した作品として,川村真司,清水幹太らによるロックバンド SOUR のプロモーション・ビデオ(PV)《映し鏡》(2010)があります.PVの内容を簡単に説明します.ブラウザで《映し鏡》のウェブページにアクセスすると,7つのウィンドウが勝手に開き,Facebook/Webcam/Twitterに接続してみることが勧められます.これらの接続が完了すると,Google のトップページがこれまた勝手に現われ,その検索窓に自分の名前が自動入力され,画像検索が行われます.そして,検索結果にある自分の顔などの複数の画像がヒトのかたちになって歩き出したと思うと,Twitter の自分のタイムラインが現われ,そこで歌詞がつぶやかれる,といったふうにブラウザがハッキングされたような感じで,PVは進行していきます.この作品のことをPVと呼びましたが,実際は「ビデオ」ではありません.Facebook や Twitter といったソーシャルメディアが持つ個人データを用いた表現を作り出す《映し鏡》は,それらのサービスが存在している「ウェブ」という媒体でのみ可能な映像なのです.

次に「フィジカル」を取り上げたいと思います.《映し鏡》を制作した清水幹太が《iうるる》(2010)というiPad アプリを紹介しています.このアプリは,iPad に等身大の女性の顔が映し出されて,彼女の目に目薬を差してあげるというものです.iPad に備え付けられたセンサーによって,iPad を傾けると彼女は上を向きます.そこで目のあたりをタッチしてあげると,彼女に目薬がさせます.ただそれだけのことですが,清水はここで iPad の画面の大きさがヒトの顔を表示するのにぴったりの大きさであることに着目します.画面サイズというフィジカルな意味で,このアプリで IPad に表示される女性はリアルな刺激を体験者に与えることになります.つまり,画面の中だけではなく,その外側のフィジカルな部分,つまり iPad というモノとの関係で,映像のリアルさが作り出されるのです.《iうるる》が示す「映像をフィジカルに感じる」という点だけでも,スマートフォンやタブレットのアプリを映像学で考察していく必要性が生じていると,私は考えます.

《iうるる》では画面の外側にフィジカルな要素がありましたが,画面の中,つまり映像そのものをフィジカルに表現した作品が真鍋大度・石橋素による《particles》(2011)です.この作品はレールの上を,LEDを内蔵した多数のボールが動くことで「像」を作り出す作品です.石橋は「モニタやプロジェクターではなく『像』を描き出すシステム」に関心があると言っています.《particles》は,LED内蔵の多数のボールというフィジカルな要素をコンピュータで制御することで「像」を結ぶことに成功しています.ここでは,画面上の「ピクセル」という「点」を精密にコントロールしてきたコンピュータが画面を飛び出して,触れることができる「モノ」を「点」として制御しています.《particles》は文字通り「フィジカルな映像」を立ち上げているのです.

映像は「ウェブ」と「フィジカル」といった要素と結びつくことで,今までとは異なる表現を作りあげています.私たちは,これらの映像表現を分析するための有効な枠組みを持っていません.それゆえに,これらの映像は,その多くが技術的な「新しさ」だけで片付けられてしまいます.しかしその「新しさ」の中には,映像と見る人との関係性や「映像」という概念そのものを問い直す契機が含まれているのです.だからこそ,映像学会で「ウェブ」や「フィジカル」と結びついた映像を積極的に取り上げて,それらを分析するための枠組み=映像学を考えていく必要があると,私は思っています.(みずのまさのり/東京藝術大学 情報芸術センター・非常勤講師)

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