スライド:情報美学概論A 第12回 主観的|間主観的|客観的:人称のゆらぎ
東京藝術大学 芸術情報センター:情報美学概論A
第12回 主観的|間主観的|客観的:人称のゆらぎ→スライド
参考資料
クラウド化する世界
アルゴリズミック・アーキテクチュア
FORM+CODE -デザイン/アート/建築における、かたちとコード
ダブルネガティヴスアーキテクチャー|塵の眼 塵の建築 (現代建築家コンセプト・シリーズ)
市川創太×松川昌平[メール対談]
フィロソフィア・ロボティカ ~人間に近づくロボットに近づく人間~
アーキテクチャの生態系――情報環境はいかに設計されてきたか
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主観的、間主観的、客観的 (現代哲学への招待Great Works)
合理性の諸問題 (現代哲学への招待 Great Works)
デイヴィドソン ~「言語」なんて存在するのだろうか シリーズ・哲学のエッセンス
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コメントのコメント
「わからない」ことを講義すること.「わからない」ことを「わかりたい」と思うこと.今回の講義は前でしゃべりながら,いろいろと気づくことが多かった.本当はそれを予め理解して,咀嚼して,もっと分かりやすいかたちで提示すべきなのだが,これが今のところ自分の限界である.そして,未だに講義で気づいたことをまとめきれていない.
テルジディスが『アルゴリズミック・アーキテクチャ』の中で書いているコンピュータの「他者性」と,それに伴う「思考のサイボーグ化」.そして,サイボーグ化した思考がつくりだすあらたなノーテーションとしての「Super Eye」.ヒトが考えが終わったところからはじまる世界の把握.ヒト中心主義から脱却.これは頭,テキストとしては理解できても,まだ実感として理解出来ない.ここで「身体」をもちだすことが,よくないのかもしれないが,それでも「身体」という言葉をだしてしまうこと.
私はテルジディスとは異なる形で,コンピュータは「全くの他者」だと考えていた.ヒトはコンピュータという「全くの他者」とコミュニケーションをするために,両者が触れ合う部分のインターフェイスの改良を行った.マウスというモノや,メタファーという概念を使って,ヒトの身体をコンピュータの論理に組み込んでいくこと.それは「全くの他者」に「身体」を与えることであったと言える.しかし,である.今,コンピュータに組み込まれた「身体」が消失してきているのではないだろうか.コンピュータへの「身体」の組み込みは,マウスとメタファーの組み合わせで始まり,メディアアートでの実験を通して,Wii や Kinect で文字通りの身体を組み込むことで完了してしまった.Wii から Wii U への変化は,櫻井さんの人称の話だけではなく,コンピュータに組み込まれた身体の消失のはじまりとしても考えることができるのではないだろうか.コンセプトビデオにおける Wii U の「わかりにくさ」は,2つの画面の関係の中で,そしてコントローラの形がクラシックなかたちにもどったことから,身体の存在が希薄になっているからと考えられる.
思考がサイボーグ化し,コンピュータに組み込んだ身体が希薄化していくなかで,ヒトは仮想世界を語る言葉の意味をそぎ落とし,一義的に,つまり文字通り|リテラルに受けとるようになっていく.仮想世界を,リテラルな存在として捉え直す.
多くの批判を浴びながらも,ザッカバーグが半ば強制的にプライバシーの概念を変えているのと同じように,アップルや任天堂も半ば強制的に私たちの身体と,それに対する概念を変えてしまっていると思う.テルジディスやダブルネガティブ・アーキテクチャのように「思考」から「身体・モノ」を変えていくこともひとつの方法であるが,私自身は上記の方法を踏まえつつも「身体」から「思考」を変えていく方向から考えていきたいと思っている.
終えて
「身体」から「思考」が変わって,その「思考」が「身体」を変えていく.ここでの「身体」「思考」は確固として明確な輪郭があるものではなくて,「流れ」のような感じ.最終的には,「身体」や「思考」という輪郭を示す言葉すらなくなって「→ →」のように「流れ」のみを示すような感覚があるのではないかと思い始めたところ.
第12回 主観的|間主観的|客観的:人称のゆらぎ→スライド
参考資料
クラウド化する世界
アルゴリズミック・アーキテクチュア
FORM+CODE -デザイン/アート/建築における、かたちとコード
ダブルネガティヴスアーキテクチャー|塵の眼 塵の建築 (現代建築家コンセプト・シリーズ)
市川創太×松川昌平[メール対談]
フィロソフィア・ロボティカ ~人間に近づくロボットに近づく人間~
アーキテクチャの生態系――情報環境はいかに設計されてきたか
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主観的、間主観的、客観的 (現代哲学への招待Great Works)
合理性の諸問題 (現代哲学への招待 Great Works)
デイヴィドソン ~「言語」なんて存在するのだろうか シリーズ・哲学のエッセンス
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コメントのコメント
「わからない」ことを講義すること.「わからない」ことを「わかりたい」と思うこと.今回の講義は前でしゃべりながら,いろいろと気づくことが多かった.本当はそれを予め理解して,咀嚼して,もっと分かりやすいかたちで提示すべきなのだが,これが今のところ自分の限界である.そして,未だに講義で気づいたことをまとめきれていない.
テルジディスが『アルゴリズミック・アーキテクチャ』の中で書いているコンピュータの「他者性」と,それに伴う「思考のサイボーグ化」.そして,サイボーグ化した思考がつくりだすあらたなノーテーションとしての「Super Eye」.ヒトが考えが終わったところからはじまる世界の把握.ヒト中心主義から脱却.これは頭,テキストとしては理解できても,まだ実感として理解出来ない.ここで「身体」をもちだすことが,よくないのかもしれないが,それでも「身体」という言葉をだしてしまうこと.
私はテルジディスとは異なる形で,コンピュータは「全くの他者」だと考えていた.ヒトはコンピュータという「全くの他者」とコミュニケーションをするために,両者が触れ合う部分のインターフェイスの改良を行った.マウスというモノや,メタファーという概念を使って,ヒトの身体をコンピュータの論理に組み込んでいくこと.それは「全くの他者」に「身体」を与えることであったと言える.しかし,である.今,コンピュータに組み込まれた「身体」が消失してきているのではないだろうか.コンピュータへの「身体」の組み込みは,マウスとメタファーの組み合わせで始まり,メディアアートでの実験を通して,Wii や Kinect で文字通りの身体を組み込むことで完了してしまった.Wii から Wii U への変化は,櫻井さんの人称の話だけではなく,コンピュータに組み込まれた身体の消失のはじまりとしても考えることができるのではないだろうか.コンセプトビデオにおける Wii U の「わかりにくさ」は,2つの画面の関係の中で,そしてコントローラの形がクラシックなかたちにもどったことから,身体の存在が希薄になっているからと考えられる.
思考がサイボーグ化し,コンピュータに組み込んだ身体が希薄化していくなかで,ヒトは仮想世界を語る言葉の意味をそぎ落とし,一義的に,つまり文字通り|リテラルに受けとるようになっていく.仮想世界を,リテラルな存在として捉え直す.
多くの批判を浴びながらも,ザッカバーグが半ば強制的にプライバシーの概念を変えているのと同じように,アップルや任天堂も半ば強制的に私たちの身体と,それに対する概念を変えてしまっていると思う.テルジディスやダブルネガティブ・アーキテクチャのように「思考」から「身体・モノ」を変えていくこともひとつの方法であるが,私自身は上記の方法を踏まえつつも「身体」から「思考」を変えていく方向から考えていきたいと思っている.
終えて
「身体」から「思考」が変わって,その「思考」が「身体」を変えていく.ここでの「身体」「思考」は確固として明確な輪郭があるものではなくて,「流れ」のような感じ.最終的には,「身体」や「思考」という輪郭を示す言葉すらなくなって「→ →」のように「流れ」のみを示すような感覚があるのではないかと思い始めたところ.