「薄さ」を与えられた平面:藤幡正樹の作品における平面の諸相
名古屋大学大学院文学研究科付属日本近現代文化研究センターが発行する『JunCture』第2号に「「薄さ」を与えられた平面:藤幡正樹の作品における平面の諸相」が掲載されました.
この論文は藤幡正樹の作品《禁断の果実》《Beyond Pages》《未成熟なシンボル》における「平面」の性質を GUI の「平面」などとと対比しながら考察したものです.
はじめに
コンピュータと出会い、コンピュータ・グラフィクスにとりつかれてとうとう十年経ってしまった。私にとってアニメーションというメディアがコンピュータへの入り口であったなら、立体物を作ることはそこからの出口であるのかも知れない1。このテキストは、アーティストの藤幡正樹が今から20年前に書いた「四次元からの投影物:デュシャンのオブジェからアルゴリズミック・ビューティーへ」の冒頭部分である。しかし、藤幡はこの立体物《禁断の果実》(1990)を作った後も、ZKMのパーマネントコレクションになった《Beyond Pages》(1995-97)ほかコンピュータを用いた作品を作り続ける。そして、いまでは日本のメディアアートを代表するひとりとなっている。藤幡正樹と言えば、コンピュータを用いたインタラクティブな作品を誰もが思い浮かべる中、2006年にアニメーション作品《未成熟なシンボル》が発表される。自らコンピュータからの出口と書いた《禁断の果実》の制作後もコンピュータを使い続け、インタラクティブな作品で世界中の評価を得た藤幡が2、なぜインタラクティブではないアニメーション作品を作るのであろうか。きっかけから言えば、平面性という問題なんです。トランプは平面でできています。写真などをはじめとするイメージ画像というものは、平面であることが前提になっていますので、平面的な物はイメージと実体のあいだの行き来が可能ですが、立体的な物は扱い難いんです。その意味で、テーブルとトランプという組み合わせは、イリュージョンを作りやすいということがあったんです3。《未成熟なシンボル》をつくるきっかけのひとつに「平面性」の問題があったと藤幡は述べている。アニメーションという平面から作品を作り始めて CG に行き着き、CG を立体化した彫刻を作り、インタラクティブな作品を数多く作った後に、再び平面へと至る藤幡の作品形態のプロセス。「平面的な物はイメージと実体のあいだの行き来が可能」という藤幡の物とイメージに対する認識。作品形態のプロセスと「平面」への問題意識から、藤幡がコンピュータと「平面」の関係を作品で提示しようとしているのではないかと、私は考えるようになった。藤幡は新しい技術を使いながら、アートにおいて最も古い問題のひとつである「平面」の問題を考察している。そこで本論考は、藤幡作品における「平面」を考えるために、CG を立体化した《禁断の果実》、インタラクティブな本の作品《Beyond Pages》、アニメーションに回帰した《未成熟なシンボル》を取り上げて、今まで考えられてこなかった藤幡の作品における「平面」を考えていく。これらの作品のおける「平面」を考えるために、コンピュータを用いた藤幡の作品《禁断の果実》と《Beyond Pages》は、アートにおいて情報技術との関係もある平面概念のひとつである「フラットベッド絵画平面」と、新しい平面をつくりだしたグラフィカル・ユーザ・インターフェイス(GUI)から、それぞれの作品の「平面」が示す意味を考察する。アニメーション作品《未成熟なシンボル》は、投影されたイメージのトランプとリアルな物としてのトランプの関係から「平面」の意味を考察する。これらの作品での試みから、藤幡は平面に「薄さ」を与えて、「薄さ」を与えられた平面を組み立てていることを明らかにする。そして最後に、藤幡がコンピュータという新しい技術を通して、その可能性を追求してきた「平面」が、村上隆が提唱し東浩紀が奥行きを与えた「スーパーフラット」と、「次元のあいだを行き来する」という点で相同性を示すことを指摘する。