今日は,佐藤雅彦さんとユーフラテスが制作した映像についてのスライドを作っていた.その中で,「日常にひそむ数理曲線」の中に,YCAM でやったワークショップの写真が載っていた.
この写真についての説明を佐藤さんは次のように書いている.
その中のひとつのチームは,庭に出て,重心をマークしてあるトンカチを高校生に投げさせ,その映像を撮影した.その映像を,一コマ一コマ再生し,高校生にその重心の位置をテレビの画面に直接,丸いシールを貼らせることで記録していった.一番簡単なワークショップであった.そして,知識としては当然,放物線の軌跡が現れると知っていた.自分たちにとっては確認的な作業であった.しかし,3〜4枚貼られても,まだ意味を発言させなかった小さなシールは,12〜3枚をすぎる頃から,まるで見えない力を発するかのように,その姿を現し,我々の目を釘付けにさせた.(pp.60-61)
その時,「理」が姿を現した,佐藤雅彦
この文章の中で,「一コマ一コマ再生」というところと「テレビの画面に直接,丸いシールを貼らせる」というところがとても気になった.「一コマ一コマ再生」 は,今では誰もが映像を一コマ一コマのレベル,あるいはもっと細かいレベルで簡単に操作できるようになったことと,マイブリッジやマレーの連続写真を思い起こさせてくれた.そして,「テレビの画面に直接,丸いシールを貼らせる」というのは,とっても身近なインタラクティブな作業だと思った.さらに,点の連続でトンカチの重心の軌跡を抽出していくことは,マレーのある意味不気味な連続写真にもつながる要素を持っているのではないだろうか.それはマイブリッジの馬の連続写真のように事象の「表面」を切り取るのではなく,その「深層」を表現している.
マーシャル・マクルーハンが「テレビ映像は参加,対話,深層を強調することによって,アメリカの教育に緊急計画の新しい必要性をもたらした (p.346)」と『
メディア論』で書いているが,佐藤さんやユーフラテスが行っていることは,まさにこのことなのではないか.アラン・ケイがマクルーハンからの影響で,コンピュータをパーソナル・ダイナミック・メディアとした捉え直してから,「参加・対話・深層」はコンピュータの十八番になってきたが,コンピュータが前面に出てこない映像においても,この3つのことを十分に表現できることを,佐藤さんとユーフラテスの映像は示している.
映像は事象の「表面」を切り取るものとして使われてきたが,その「表面」を捨象することで,「深層|アルゴリズム」を事象から抽出して,それを具体的に示すことができる装置にもなれる可能性がある,ということを,佐藤雅彦さんとユーフラテスの映像は教えてくれる.