スケッチパッドで描く,ふたつの手(4)

ボタンを用いてコンピュータとの対話における身体のノイズを最小限にすることは,ヒトの身体を排除してコンピュータとの共生関係を築こうとしたリックライダーらと同じことを,サザーランドも行っているのではないか.確かに,ボタンを押す手だけを考察した限りでは,サザーランドもリックライダーらと同じようにみえる.しかし,スケッチパッドの記録映像には,ボタンを押す手とともに,ペンで線を描く手も映っていることを忘れてはいけない.スケッチパッドはふたつの手の行為の組み合わせによって図形を描く装置なのだ.次に,ペンを持つ手ふたつの手の関係における,ボタンを押す「システムの手」の役割を考えたい.

記録映像に映る右手はライトペンというデバイスを持って,ディスプレイ上に線をとても自然に描いているようにみえる.しかし,スケッチパッドはヒトとコンピュータとの間に情報経路を構築して「描く」行為を行うシステムであり,そこでは「ヒトとしての行為」はノイズにすぎない.それゆえに私たちの描くという行為は「システムとしての行為」へと変換されなくてはならない.だとすれば,ライトペンを持つ手が示す描く行為の「自然さ」が,いささか奇妙なものに感じられてくる.なぜなら,ライトペンというデバイスで図形を描いていく手は,その行為の「自然さ」ゆえにシステム化されたボタンを押す手と正反対の「行動する手」に見えるからである.

身体というノイズからの影響を最小限にして,ヒトとシステムとの間に情報経路を形成する必要があるにもかかわらず,「ヒトとしての行為」を続ける「行動する手」が存在し続けること.さらに,「行動する手」と「システムの手」とが組み合わされて,描くという「ヒトとしての行為」を実現していること.これらのことを考えるために,サザーランドがなぜ「ライトペンで描く」という形態を,スケッチパッドに採用したのかということを見てきたい.

1957年にMITリンカーン研究で,B・ガーリーとC・F・ウッドワードがライトペンの原型を開発し,1959年には多くのコンピュータシステムで普通に使われていた.このことから,1961年からはじめられたスケッチパッドのデザインにおいて,サザーランドがライトペンを採用することは自然な成り行きだったといえる.ライトペンを採用した理由を描画機能に関する技術的な問題であったと.サザーランドは書いている31.しかし,1964年にランド社がタブレットを開発していることから考えると,ライトペン以外の選択肢もあり得たと考えられる.このことは単に技術的問題として片付けられない側面を孕んでいるのではないだろうか.ティエリー・バーディニは,スケッチパッドをタイプライターと結びつけて興味深い指摘を行っている.
スケッチパッドのスタイラスは,ユーザの手と目を画面上の表示と結びつけた.ペンは,杖の先の目と画面上のペンという,両方の役目を果たしていたと言える.したがってこれは,電信技術からタイプライターまで,目で見たものから手でやることを切り離すように進んできた入出力技術の歴史の趨勢を逆転させるものだった32
この後で,バーディニは既に多くヒトがタイプライターによって目と手の切り離しに慣れていたので,情報の入力面と出力面とが別れたランド社のタブレットのアイディアは驚くべきことでなかったと書いている33.タイプライターは「文字を書く」行為を「キーを押す」行為に変えて,ヒトの手をシステム化することで手元を見なくて文字を記すことを可能にした.私たちは「書く行為」をシステム化することで,手の動きを見ることなく制御するようになる.しかし,ランド社のタブレットで問題となっているのは,タイプライターがシステム化した「行動する手」を,目でどのように制御するのかということであり,タイプライターが実現したこととは事情が異なっている.ランド社のタブレットは「行動する手」の代わりの点をディスプレイに映し出し,それを目で確認しながら,見えないところにある手の動きを間接的に制御する.

ランド社のタブレットは,スケッチパッドの影響を受け,それを改良しようとしたものだった.その開発を監督したキース・アンキャファーは,バーディニとのインタヴューで,スケッチパッドと同様にCRTの表面に直接描く方法を試みたが,そこでの問題として,ヒトの手が邪魔になるということを挙げている34.描くための装置を作る際に,描く手を邪魔だと考えることはとてもおかしなことではないだろうか.実際,アンキャファーらは,手と目とを切り離してタブレットというデバイスで描く行為を行う際には,描く手を直接は見えないようにしている.なぜ「行動する手」が邪魔もの扱いされ,隠されなくてはならなかったのであろうか.私はこの問題をまったく逆の方向から考えてみたい.つまり,サザーランドは,なぜ私たちに「行動する手」を見せるのであろうか,と.「行動する手」が描く行為で見えていることは自然ではあるが,バーディニが指摘するようにそれはタイプライターからマウスへと至る入出力技術の歴史から考えると逆転の発想であって,「行動する手」を見えないようにしていくことが優勢だったのである.

サザーランドは,スケッチパッドを開発した3年後の1966年に,次のようにコンピュータを用いた描画行為について述べている.
コンピュータが解釈したスタイラスの動きと,押しボタンやタイプライターのキーボードからオペレーターが与える指示を入力の基本とする描画システムでは,それらのデータから,コンピュータは,メモリの中に,描画を構成する.そして,プログラムがCRTディスプレイ上に描画を映し出す.普通のペンとちがって,スタイラス自体は何もディスプレイの表面に痕跡を刻むことはない.「ペンの先」と「紙」の間には,コンピュータが存在している.描画は,コンピュータのメモリに直接組み立てられるので,複雑なパターン認識のプログラムは必要ない35
「描くことが,ペンの先と紙の間にあるコンピュータのメモリに組み立てられる」と,サザーランドが書くことはどのようなことなのであろうか.スケッチパッドでは線を描くという行為が,「ボタンを押す」という行為と「線を描く」行為に分節されている.スケッチパッドでは,私たちはまずボタンを押してこれからどのような行為をするのかを,予めコンピュータに教える必要がある.そして,ボタンを押して描き始めると,「線を描く」行為はトラッキング・プログラムによって補足され,ライトペンの位置が1ミリ秒から3ミリ秒の間隔で反復して計算され,予測される.その結果として,ヒトが自らの「行動する手」で描いたようにリアルなものとして,ディスプレイに図形が描き出される.つまり,「行動する手」による描画行為は,「システムの手」が開いた経路の中でのみノイズが最小化され,数学的な確率の世界で機能するようになるのだ.こうして,「ヒトとしての行為」は,コンピュータによって予測され,組み立てられ,システム化されていく.スケッチパッドは「ヒトとしての行為」を細かく切断して,それをデータとして取り込み,「システムとしての行為」にする予測・組立を行うものなのである.

この原理は,タブレットでも同じである.スケッチパッドもタブレットも「ヒトとしての行為」が発するノイズを最小化して,数学的世界に取り入れ,新たな「システムとしての行為」として組み立てる.それは,ヒトとコンピュータとが対話できるようにひとつの経路を構成していくことにほかならない.ここで,サザーランドが「感覚を納得させるヴァーチャル・エクスペリエンスを組み立て,設計するが可能であることを予言した36」ことを思いださなければならない.「ヴァーチャル」という言葉に対して,吉岡洋は次のように書く.
「ヴァーチャル」には「仮の」というような意味はなく,正確には「事実上同じ効果をもつ」という意味である.いいかえればヴァーチャル・リアリティという概念の背後には,「効果が同じならばそれは現実とみなしてよい」という,徹底してプラグマティックな,哲学的判断ともいえるものが潜んでいる37
さらに,その根底には「コンピュータは思考するか? という哲学的な問いを,コンピュータは人間に対して,自分がコンピュータだと見破られない対話をすることができるか? という工学的な目標に置き換えた38」チューリング・テストの考え方があると吉岡は指摘する.ここから,サザーランドがスケッチパッドで行ったことは,チューリング・テストのようにヒトとコンピュータとの対話の中で,「線を描く」という「ヒトとしての行為」と同じ効果をもつ「システムとしての行為」を工学的に作り出すことだったと考えられるのだ.よって,ライトペンを持つ手は,ヒトとコンピュータとの対話の中で,システムに吸収されていく存在であると同時に,その模倣された効果ゆえに従来の行為の形態を保ったままの「行動する手」でもあり続けているともいえる.このことは,タブレットでも同じである.それゆえに,タブレットの開発者たちは「行動する手」でもあり「システムの手」でもある奇妙な手を邪魔なものとして,見えないところへ配置するようにスケッチパッドを「改良」したのだ.

タイプライターはシステム化した手を見ない方が効率的に文字入力ができる仕組みをつくり,タブレットは「行動する手」でもあり「システムの手」でもある手を見えないようにシステムを構築した.対して,スケッチパッドの記録映像は,ヒトとシステムとの間を行き来する奇妙な手をふくめてすべてを私たちに見せる.ペンとボタンとを組み合わせて描くことのすべてを見せることは,スケッチパッドにおいて「ヒトとしての行為」がその形態を保ったまま成立するために,コンピュータとの共生へと差し出される「システムの手」が必要不可欠な存在であることを示している.つまり,スケッチパッドの記録映像には「ヒトとコンピュータとの対話におけるヒトの行為のすべてを見せる」というサザーランドの選択が,「ふたつの手」というかたちで映っているのである.

6.ふたつの手を見る
私たちは,スケッチパッドの記録映像に,コンピュータとの共生に差し出されたボタンを押す「システムの手」とライトペンで描く「行動する手」でもあり「システムの手」でもあるものを見る.この記録映像に映るふたつの手が私たちに示しているものは,コンピュータという異なる存在との対話の効率を最大化するために「ヒトとしての行為」と「システムとしての行為」を同時に行わざるを得なくなったヒトの身体なのである.「行動する手」でもあり,「システムの手」でもあるライトペンを握る手は,「ヒトとしての行為」がその形態を保ったままシステムに吸収されていく過程を,私たちに見せる.つまり,線を描くための行為を行っているふたつの手を同一平面に集約することで,スケッチパッドの記録映像が見せているものは,ヒトとコンピュータとの対話において変容したヒトの行為のすべてなのである.

31 Ivan Sutherland, preface by Alan Blackwell and Kerry Rodden (September 2003). ‘Sketchpad: A Man-Machine Graphical Communication System’, Technical Report No. 574, University of Cambridge, UCAM-CL-TR-574, p. 55.
33 前掲書,154頁.
34 前掲書,152頁.
35 Ivan Sutherland, ‘Computer inputs and outputs’, Scientific American, September, 1966, p. 95.
38 同上書,239頁.

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