スケッチパッドで描く,ふたつの手(3)



スケッチパッドで描く,ふたつの手(1)
スケッチパッドで描く,ふたつの手(2)
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4.ボタンを押す手
スケッチパッドの記録映像が示すように,サザーランドは,コンピュータとの対話に,身体を導入した.そこにはふたつの手が映し出されており,右手はライトペンを持ち,左手はボタンを押している.ヒトがペーパー・ウェアとなり身体を忘れることができれば,コンピュータと対話するために,ライトペンも押しボタンも必要ないはずである.なぜなら,コンピュータはヒトの理性や知性と呼ばれる考える能力は必要とするが,身体は必要としていないからだ.よって,ヒトの行為のための道具であるライトペンや押しボタンを導入することは,ヒトとコンピュータとの情報経路に身体というノイズを介入させることに他ならない.しかし,これらの道具がなければ,身体を忘れることができない多くのヒトはコンピュータと対話することができない.ならば,身体の導入をする際に用いる道具を工夫し,ヒトの行為をコンピュータとの対話に合うようにデザインすることで,そのノイズを最小化すればよいのではないだろうか.スケッチパッドの記録映像で,ふたつの手がライトペンと押しボタンを使って描くという行為は,その結果と考えることができるのではないだろうか.

このことを考えるために,スケッチパッドを製図用具の歴史に位置づけた展覧会「想像力の道具:18世紀から現在までの製図用具と技術」のカタログで,W. J. ミッチェルが書いた「結論:即興,道具,アルゴリズム」と題したテキストを参照して,図形を描くことの歴史を概観したい.その中で,ミッチェルは,「フリーハンドで描くことは,パフォーマンス」であり,その技法はパフォーマーの技量に依存するのに対して,製図道具を用いて描くことは「規律正しくモジュール化された複製可能な行為」であり,より複雑な図形を描くことを可能にしたとしている24.そして,製図道具によって記された痕跡は,「ひとりの芸術家の手の動きの記録ではなく,時間を超越したプラトン的な抽象を表しているシンボルとして読まれるものだ25」と書く.つまり,製図道具は誰もが自らの手で特定の図形を正確に描けるひとつのアルゴリズムが,道具という具体的な形になったものなのである.そして,1960年代にコンピュータ・グラフィックスが登場し,すべての図形が「空間や表面を横切る点の軌跡」として描かれるようになり,多くの製図用具は点の位置を算出するアルゴリズムに置き換わり,プログラムとしてコンピュータに導入され,人の代わりに,コンピュータが図形を描くようになっていったと,ミッチェルは指摘する26

ここには道具との関わりの中で,図形を描くという行為から「手」が失われていく過程が示されている.それは,道具と手が結合していくことを意味している.それゆえに,製図道具の導入以後,図形を描く際のヒトの手の役割は述べられていない.しかし,製図道具によって,図形を描くことから描き手独自の手の痕跡はなくなってしまったかもしれないが,手そのものは描く行為の際になくなってはいない.むしろ,右手にペン,左手に製図道具といったように,両手を使うようになったのでその役割は増えたといえる.つまり,製図のためのアルゴリズムを具体化した道具がヒトに要求したことを考えることで,ミッチェルが見逃したものが見えてくる.製図道具は誰もが図形を正確に描くために,ふたつの手を使うことを要求したということである.その要求に応えることで,誰もが図形を正確に描くということを,製図道具はヒトに与えた.そして,数学的に正しい図形を正確に描けることが特徴のひとつであるスケッチパッドもまた,ふたつの手を要求する.それは,個人の手の痕跡を消し,より正確な図形を描くために導入された製図道具を用いて描くときと同じ要求である.しかし,そのふたつの手のうち,製図道具を持っていた手の役割は大きく変わり,ボタンを押すという行為になっている.

サザーランドは,スケッチパッドを設計する際に,多くの押しボタンを TX-2 に備え付け,「円を描く」「直線を描く」「消す」「コピー」「移動」などの描くための機能を与えた.この TX-2 の入出力のコントロールの柔軟性と,その拡張性の高さによって,自らのアイディアをいろいろと試すことができ,最終的に,コンピュータによる描画を実現することができたと,サザーランドは書いている27.それは,ライトペンだけが入力装置ではなく,押しボタンやトグルスイッチといった新たな入力装置を次々と実装して組み合わせることができたことを意味する.そして,スケッチパッドのユーザは,描くための機能を付与された多くのボタンの中から,ひとつを選択してからライトペンを使って描いた.このボタンを押して描くことと,製図道具を用いて描くこととの違いを明らかにするために,技術哲学者のデービス・ベアードが,『物のかたちをした知識』の中で取り上げている1954年に作られた化学の分析機器に関する広告を参照したい.その広告には「ボタンを押す指,考え込む顔,さらにぐっと考え込む顔」という3つのアイコンが出てくるのであるが,それぞれ次のような意味を持っている.
ボタンと指のアイコンは「押しボタン式の操作を示します --- 人為的なエラーは最小限」と言われている.考え込む顔は,「単純で定型的な人間による操作 --- 人為的はエラーあまりありません」,ぐっと考え込んだ顔は,「技能,注意,判断を必要とする操作 --- 人為的エラーに陥りやすい」とある.機器に仕事をさせれば,簡単になり,人為的ミスに陥りにくくなる.「機器によるエラー」の可能性については言われない.機器は客観的な理想をもたらす28
この3つのアイコンが示すものがそれぞれ,ミッチェルが述べていた製図の歴史における,コンピュータ,製図道具,フリーハンドの各段階に一致していると考えることができるのではないだろうか.フリーハンドで直線を描くことは至難の業であり,定規で直線を描く場合でも,ちょっとしたことでペンの先が定規から離れてしまい失敗してしまう可能性がそこには存在している.しかし,スケッチパッドでは「直線を描く」ボタンを押した時点で,後はコンピュータによって失敗なく直線が描かれることが決定している.製図道具は,正確な図形という「客観的な理想」を得るために最初から最後までヒトの手を必要とするに対して,押しボタン式の操作の場合は,ヒトの行為ははじまりにしか必要がない.あとは,機械やコンピュータが,正確に行為を遂行して「客観的な理想」をもたらしてくれる.ヒトの行為はボタンを「押す」「押さない」というバイナリーデータ化されている.それゆえに,身体が機械に与えるノイズが最小になっている.

このヒトの行為の「バイナリー化」を考えるために,ハイデッガーがタイプライターについて述べた箇所を参照にしたい.ハイデッガーは,ボタンを押すということに直接言及しているわけではないが,彼の考察は,機械と対話することになったヒトの行為に対して鋭い示唆を与えてくれる.
近代人が,タイプライター「で」打ち,このタイプライター「に」「書き取らせる」[diktiert](これは「作詩」[Dichten] と同一語である)のは,偶然ではない.書き方の歴史は,また,言葉の破壊が増大する,一つの主要な根拠なのである.言葉は,もはや,書く手を通して,本来的に行動する手を通してではなく,手による機械的な圧力を通して,次々と入れかわる.タイプライターは,手の,つまり言葉の本質領域から,文字を奪う.言葉それ自身は,何か「タイプライターで打ったもの」になるのである.これに反して,タイプライターで打ったものは書き写したものにすぎず,書かれたものの保存に役立つか,もしくは書かれたものの「印刷」の代用をするだけであり,そうした場合に,タイプライターは,その固有の,限定された意義をもつのである.タイプライターが最初に支配した時代にはまだ,タイプライターで打った手紙は,礼儀にそむくものと見なされた.今日では,手書きの手紙は,急いで読むことを妨げる.そのため古風で,望ましくない事柄なのである.機械によって書くことは,書かれた言葉の領域において,手から地位を奪い,言葉を一種の交通手段に格下げする.それに加えてタイプライターで打ったものは,筆跡を覆蔵し,したがってまた性格を覆蔵するという利点を提供する.タイプライターで打ったものにおいては,すべての人間が,同じように見えるのである(訳文は一部変更した)29
このハイデッガーの議論は,確かに西洋哲学の歴史を背負った言葉への考察であるが,ここでは,その言葉の変化を指摘する際に,彼が同時に記している「書く」という行為の変容についてのみ注目したい.タイプライターの登場によって,ヒトの手はキーをただ押して機械的な圧力を加えるか加えないかということしか行わないものになり,それはもはや言葉を書くという行為を遂行してきた「行動する手」ではないと,ハイデッガーは書く.ここに,ヒトの行為が「ボタンを押す」ということに集約されていくことへの危惧を読み取ることができる.そこで,まず,このハイデッガーの考察を参照して,タイプライターを登場以前,つまり機械による変容を蒙る前の「行動する手」によって行われる行為を「ヒトとしての行為」と呼ぶことにしたい.そして,タイプライターをはじめとする様々な機械によって,「ボタンを押す」というバイナリーデータ化したヒトの行為を「システムとしての行為」及び,そこでの手を「システムの手」と呼んでみたい.

次に,ハイデガーが「タイプライターで打ったもの」は,言葉を「交通手段」に格下げすると指摘していることを考える.この「交通手段」となった言葉に求められているのは,書いたヒトの個性を示す筆跡などではなく,急いで読むことを妨げないこと.つまり,情報伝達の効率性である.タイプライターは,書くという「ヒトとしての行為」をシステム化したが,あくまでヒトからヒトへの通信のためのものであったので,この変化が示すものがはっきりとは見えてこない.しかし,この言葉の格下げはヒトがコンピュータという全く異なる存在とコミュニケーションを行う際に,必要不可欠なことなのだ.なぜなら,ヒトがコンピュータと対話を行うためには,情報伝達路そのものを構築しなければならないからだ.つつまり,ボタンを押すというバイナリーデータ化したヒトの行為から,次々と作り出されていく「交通手段」に格下げされた記号の連続によって通路つくなければ,対話そのものがはじまらないのだ.つまり,コンピュータとの対話には,ヒトはバイナリー化した行為を行う「システムの手」を持たなければならないのである30

以上のことから,スケッチパッドの映像にボタンを押す手が,なぜ映っていたのかを説明することができる.それは,ペーパー・ウェアとなってコンピュータと対話が出来ないヒトのために,サザーランドが「描く」という「ヒトとしての行為」を,ペーパー・ウェア的な「押す」「押さない」という「システムとしての行為」になるようにデザインしたことを示しているのだ.つまり.ボタンを押す手は「行動する手」ではなく,バイナリー化した行為によってコンピュータと対話するための経路を開く「システムの手」なのだ

24 W. J. Mitchell, ‘Conclusion: Improvisations, Instruments and Algorithms’ in Tools of the imagination: Drawing tools and technologies from the eighteenth century to the present, Susan C. Piedmont-Palladino ed. (New York: Princeton Architectural press, 2007), p. 117.
25 W. J. Mitchell, Conclusion, p. 117.
26 Ibid., p.117-118.
27 Ivan Sutherland, preface by Alan Blackwell and Kerry Rodden (September 2003). ‘Sketchpad: A Man-Machine Graphical Communication System’, Technical Report No. 574, University of Cambridge, UCAM-CL-TR-574, p. 11.
28 D・ベアード『物のかたちをした知識』松浦俊輔訳,青土社,2005年,314頁.
29 M・ハイデッガー『パルメニデス』北嶋美雪, 湯本和男, アルフレド・グッツオーニ訳,創文社,1999年,314頁.
30 キットラーは,タイプライターとコンピュータとの結びつき,コンピュータは,「タイプライターによるブロック文字の標準配置図を計算可能性という技術そのものへと転換した」ことで発展したと書いている.F・キットラー『グラモフォン フィルム タイプライター』石光泰夫・石光光子訳,1999年,369頁.

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