スライド|情報美学概論A 最終回|終端→

東京藝術大学 芸術情報センター:情報美学概論A
最終回|「終端→」→スライド

参考資料

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エキソニモの《↑》は「〈視覚化を拒む理解〉を視覚を通して行っている」と言えるのではないか,今日,歯医者の治療を受けながら考えた.〈視覚化を拒む理解〉というのは講義でも取り上げた保坂和志さんの言葉であるけれども,それは言葉は言葉の流れでしか理解できるものではないというもので,それを「アート」に当てはめることがいいのかどうかはわからないが,なぜかそう思った.コンピュータという「allo」を経由することによって,〈視覚化を拒む理解〉を視覚化することができているのではないだろうか.ヒトではない「視覚」を示すコンピュータ.体験者が見ているものはヒト単体では〈視覚化を拒む理解〉を示すものであるものが,コンピュータとヒトとが複合体となることで,それが「視覚化」された状況として体験することができるようになる.ここには異なる視覚と異なる身体性があるような気がしてならないけれど,それをはっきりと講義では示すことができなかったし,これからもできないかもしれない.

作品は「文脈」から逃れることができないのかもしれない.メディアアートは今まで「メディアアート」であることで「現代美術」の文脈から逃れることができていたのかもしれないが,また,逆に言えば,現代美術が文脈を逃れるために「メディアアート」に近づくこと.この方法も双方の領域が混じり合うことで出来なくなってきている.現代美術という文脈によって作品の価値が決まってしまうゲームの中にメディアアートが混じり合っていくなかで,すべてが文脈によって理解されようとしているのかもしれない.でも,ヒトの理解は文脈だけで決まるものでもないし,コンピュータという「allo」がそれを許さないであろう.コンピュータはコンピュータで勝手にヒトが予想もしなかったものを示すだろう.それをヒトは文脈に押し込もうとするだろうけれど,やはりそこには収まり切らない部分が出てくると思うので,これからは現代美術もメディアアートも,ヒトとコンピュータとの関係の中で「文脈」に収まり切らない領域を自分で見つけ出し,そこを探索していくのではないだろうか.ヒトとコンピュータとが作り出すその場限り:アドホックな関係のなかに作品を見出していく.それがもしかしたら,「〈視覚化を拒む理解〉の視覚化」なのかもしれない.

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