講義ノート:「ヒトとコンピュータとの関係」をめぐるひとつの「歴史」 リンクを取得 Facebook × Pinterest メール 5/19/2012 今年度も東京藝術大学の芸術情報センター(AMC)で「情報美学概論1」を担当させてもらっています.そこで,《「ヒトとコンピュータとの関係」をめぐるひとつの「歴史」》ということを考えていました.そこで使った「ノート」です.誰でもコメントがつけられるようになっています. 講義ノート:「ヒトとコンピュータとの関係」をめぐるひとつの「歴史」 リンクを取得 Facebook × Pinterest メール
インスタグラムの設定にある「元の写真を保存」について 8/03/2013 インスタグラム の設定にある「元の写真を保存」,英語だと「Save Original Photos」という項目が気になる.デフォルトだと「オン」になっているので撮影した写真にフィルターをかけたものと「元の写真」が残ることになる.「オフ」にするとフィルターをかけた写真しか残らない.設定で「オリジナル」が消去される.ここには「オリジナル」という言葉が「軽く」扱われるというか,それが「設定」のひとつの項目になったんだという感じがある. http://en.wikipedia.org/wiki/File:Instagram_versione_(santa_fiora,_peschiera).jpg 「オリジナル」は消去されるが,フィルターをかけた写真は残る.オリジナルが消えているのだから,フィルターをかけたものが「オリジナル」となるのだろうか? 「オリジナル」かどうかというよりも,「インスタグラムらしさ」ということが重要なのかもしれない. この前のトークで ,ラファエル・ローゼンダールがウェブ上の自分の作品に「これがオリジナル!」という意味では「オリジナルはない」ということを言っていたが,インスタグラムという代表的な写真アプリの設定項目を見てみても,ポスト・インターネットという状況では「オリジナル」という言葉を取り巻く環境が変化していることは間違いない. 続きを読む
マジック・メモ:行為=痕跡=イメージの解体可能性 1/03/2010 フロイトは,自らの記憶と知覚のメカニズムに関する仮説のために,当時,売り出されていた玩具である,マジック・メモという装置を取りあげた.その理由は,この装置のイメージを表示する表面が,「いつでも新たな受け入れ能力を提供すると同時に,記録したメモの持続的な痕跡を維持するという二つの能力を備えている」2-11) からであった.フロイトは,「情報を無限に受け入れる能力と,持続的な痕跡の保存は,互いに排除しあう特性」2-12) と考えていたが,マジック・メモは,その相反する能力を同時に実現する装置であり,その構造は,次のように記されている. このマジック・メモは,暗褐色の合成樹脂あるいはワックスのボードに,厚紙の縁をつけたものである.ボードの上を一枚の透明なカバー・シートが覆っていて,その上端がボードに固定されている.このカバー・シートは,固定されている部分を除いて,ボードから離れている.この小さな装置でもっとも興味深いのは,このカバー・シートの部分である.このカバー・シートは二枚のシートで構成され,シートは二カ所の末端部分を除くと,互いに離すことができる.上のシートは透明なセルロイドである.下のシートは半透明の薄いパラフィン紙である.この装置を使用しない時にはパラフィン紙の下の面は,ワックス・ボードの上の表面に軽く粘着している.2-13) ここから,マジック・メモについてわかることは,大きく分けて,ワックス・ボードとカバー・シートという二つの部分から,この装置が構成されているということである.そして,カバー・シートは,透明なセルロイドの層と半透明の薄いパラフィン紙から構成されているので,全体としては,三層構造の装置ということになる.フロイトは,次に,この装置を使用するプロセスを詳細に述べている. このマジック・メモを使う際には,ボードを覆ったカバー・シートのセルロイドのシートの部分にメモを書く.そのためには鉛筆もチョークも不要である.受け入れ表面の上になにか物質を沈着させて記録を残すのではないからである.マジック・メモは,古代において粘土板や鑞盤に記録したのと同じ方式を採用しているのであり,尖筆のようなもので表面を引っ掻くと,表面がへこみ,これが「記録」となるのである.マジック・メモではこの引っ掻く動作は直接行われるのではなく,ボードを覆った二枚のシートを介して行われる... 続きを読む
サマーウォーズ:身体とアバターのデザイン(3) 7/22/2015 ポストシンボリックコミュニケーション 最後にOZのアバターのもうひとつの可能性を考えてみたいと思います.それは「コミュニケーション」についてです.今までの考察で暗黙に前提にしていたことがあります,それは今では多くの人が「インターフェイスの非対称性」を自分の感覚として持っているということです.作品のなかでも,若い人に限らず,老若男女誰もがOZにログインして,アバターを操作している.そして,作品を見ている人も特に何の違和感もなく「OZのアバター」といったものを受け入れられるし,それについて考えるもことができる.つまり,ゲームやコンピュータの体験:「インターフェイスの非対称性」が一般化した今だからこそ,サマーウォーズという作品は生まれたのです.このことの意味はしっかりと考える必要があります.次の引用は,マリオの生みの親として有名な任天堂の宮本茂さんの対談での細田さんの発言です. 細田 本当に,その社会情勢がもたらしたのがあの映画の設定だったと思うんです.そうじゃなければ,とてもああいう設定で普通の人が活躍するってことはできなかったと思いますね.アクション映画はやっぱり,特別な人が活躍するものみたいな部分があって.『マトリックス』じゃないけど,「キミは選ばれし人だ」とか言われないと活躍できない.でも,DSがこれだけ広まっているという世界的な状況があれば,DSや携帯も含めてそこからアクセスできる身近な道具を使うことによって,普通の人でも活躍できるアクション映画が成り立つんじゃないかと.(p.169) 「PLUS MADHOUSE 03:細田守」キネマ旬報社,2009年 ゲームやコンピュータが当たり前の存在となって,選ばれた誰かがヒーローになるのではなく,誰もがヒーローになれる作品が生まれた,というふたりの話はとても興味深いです.では,誰もがヒーローになれる作品の舞台になっているOZについて改めて考えてみたいと思います. 細田監督作品の特徴と言われる記号的表現.その効用のひとつが,色や形態などを単純化する記号を使うことで,表現にある種のスピード感が得られることだ.単純化とは表現力に制限を加えることだが,その反面,視認性がアップする.たとえばその性質は交通標識などによく現われていて,標識に向かい合った人間はその表示内容にすぐさま反応することが求めら... 続きを読む
矢印についての寄せ集めメモ 11/30/2010 「矢印」について考えたいと思っていて,Youtube で見つけた動画.いろいろなところに矢印があるな. 以前,教えてもらった廣村正影さんの矢印関する仕事も気になる. 矢印 意識と行動予測の視覚化 去年銀座で展覧会やったときにいくつかのムービーをつくったんですね。矢印っていうのは面白いなって思ってサインをやることになると矢印たくさんつかうじゃないですか。それで矢印が動いたらどうなるんだろうなって思ったんですよ。人間の頭に矢印をつけて歩いてもらったらどう見えるんだろうなって思ったんですよ。頭に矢印ついてると、興味がある方向に少しぶれたりするんじゃないかなって思ったんですね。 地球大学クリエイティブ 第2回 廣村正彰「意味のコンテクストをデザインする 」from tamalog (C)廣村正影 2次元(2 dimension)の平面的とも言えるサインデザインが、3次元(3 dimension)の空間の中に位置付けられたときにいかなる視覚効果をもたらすかということに注目し、これまでの「サイン計画」や「VI計画」の概念を取り払い、様々な建築家や写真家とのコラボレーションを手がけてきた異色のクリエイター・ 廣村正彰 。 今回の展覧会では、1階では「矢印→」や「アルファベット」をモチーフに、矢印という記号それ自体が、空間の中で動きをもった表情を得ることによって、平面にはない新たな意味をもつのではないか。 http://www.tokyoartbeat.com/event/2007/5284 2次元と3次元のあいだを移行する「矢印→」.カーソルも含めてというか,カーソルから派生して出てきた「矢印→」そのものへの興味をどう研究に結びつけるか.アートの領域では,クレーとか,荒川修作とデュシャンとかも「矢印」を考えるうえで重要.アートとかデザインとか区別せずに,「矢印→」を中心にしてそれらをリンクさせていければおもしろことになりそう. 矢印は位置と向きと長さの3つの情報を同時に表すことができる記号だ。だから力や運動の位置、向き、大きさを過不足なく表すことができる。ふむ、そう考えるとサインに使われている矢印はたいてい情報が余ってるな。 https://twitter.com/yam_eye/status/27793247926 その際... 続きを読む
2046年の携帯電話と2007年のスマートフォンのあいだにある変化(1) 7/07/2015 2046年の携帯電話 新海誠監督のSFアニメ「ほしのこえ」を「インターフェイス」の観点から見ると何が見えてくるでしょうか.「SF」というジャンルには近未来を予測した様々な「インターフェイス」がでてきますが,「ほしのこえ」では主にミカコとノボルをつなぐ「携帯電話」を扱いたいと思います. ノボルとミカコの物語は2046年が舞台です.2046年の中学生3年生がもっている携帯電話は,大きな液晶タッチパネルで操作するスマートフォンとは異なり,小さな液晶ディスプレイと多くのボタンを備えたものです.2046年という未来であるにもかかわらず,「ガラケー」とも呼ばれる古いかたちの携帯電話を持っているのはおかしいと思う人もいるでしょう.しかし,現在のスマートフォンのかたちを決定づけたアップル社のiPhoneが発表されたのは2007年ですから,「ほしのこえ」が発表された2002年には液晶タッチパネルを備えた携帯電話は一般的ではなかったことになります.2002年にはiPhoneがまだ存在していなかったけれど,今(2015年)では携帯通信機器の主流は,ノボルとミカコがもつような携帯電話からタッチ型インターフェイスのスマートフォンへとシフトしました.この事実は「ほしのこえ」を考察する上で重要な意味を持ちます. 「ほしのこえ」はSFなので,iPhoneのようなタッチ型インターフェイスの携帯電話の登場を正確に予測する必要はありません.なぜなら,SFは「サイエンス」という言葉がついていても,あくまで「フィクション」なので,現実的な未来の予測に囚われる必要はないからです.しかし,SFは現実世界の正確な予測ではないけれど,単なる絵空事でもありません.SFと現実とのあいだには独特なつながりがあります.例えば,『SF映画で学ぶインタフェースデザイン』には携帯電話に関する例が挙げられています. SFに見られるフィクションの技術によって,ファンは来るべき刺激的な何かを期待します.顕著な例は,『宇宙大作戦』の通信機です.1960年代後半,一般的な通信機といえば,トランシーバーないしは壁にコードにつながっているお姫様型電話だったころ,『宇宙大作戦』に登場した通信機によってモバイル電話の期待が高まりました.その使い方は電話というよりもややトランシーバー寄りではありましたが,初期の... 続きを読む
スケッチパッドで描く、ふたつの手(1) 3/30/2010 1.記録映像に映るふたつの手 ひとつの動画ファイルがある.そのファイルを再生すると,1962年の夏に撮影されたアイヴァン・サザーランドが開発したシステム「スケッチパッド」の映像が,グラフィカル・ユーザ・インターフェイスの基礎を築いたアラン・ケイによる説明とともに映し出される.そこでは黒い画面に白い線が,ペンで描かれていく.ケイが紹介していることからも,このスケッチパッドが,コンピュータの歴史の中で大きな影響力を持っていることが伺えるが,実は,このシステムに実際に触れた人はごく限られている.アラン・ブラックウェルとケリー・ローデンは,サザーランドの博士論文の電子版の前文で,スケッチパッドは,マサチューセッツ工科大学(MIT)のリンカーン研究所でカスタマイズされたマシン,TX-2 でしか動かなかったので,その影響力は,論文と使用状況を撮影したこの記録映像によって広まったと書いている 1 . その記録映像には,ディスプレイ横にあるボタンを押す手とディスプレイにライトペンと呼ばれるペンで線を描いていく手が映っている.また,これらふたつの手がまったく映っていないときに,白い線が規則的に動くということも記録されている.描く手を必要とせずに線が動いているのであるが,その線の動きには摩擦や空気抵抗が感じられない.そして,この摩擦や抵抗のなさは,ライトペンで線を描いている際にも同様にみることができる.今から,40年以上も前に撮影され,サザーランドのアイディアを多くの人に伝え,スケッチパッドを「個人によって書かれた最も影響力のあるコンピュータ・プログラム 2 」という地位にまで押し上げたこの映像は,何を示しているのであろうか. 私は,以前,スケッチパッドが「変換」という原理でイメージを生み出す装置であることを示した 3 .それは「痕跡」との一致という原理を逃れたイメージを描けるということである.この映像で,手が全く映し出されていないときに線が規則的に動くという,ある意味,マジックとも言えるようなシーンは,そのことを示している.このマジックは,後にケイが「最初のコンピュータ・グラフィックス・プログラムだということばかりでなく,スケッチパッドにはすばらしい面がたくさんあった.単に何かを描くための道具でなく,常に正しい法則に従って描くプログラムだったね.スケッチパッドで正方形を描こ... 続きを読む
Surfin' に見たふたつのデスクトップ───永田康祐《Sierra》と山形一生《Desktop》 6/17/2017 Surfin' を見てきた.永田さんの《Sierra》は「乱層のデスクトップ」という感じ,と書いてみて,すぐに「乱層」ではないなと思った.平面の重なりで,デスクトップという普段は静止画のところに動画が流れることで,ひとつ土台が崩れるというか,デスクトップが平面ではなく映像となることで,前提が崩れるというか,メニューバーやドックの奥にデスクトップがあることが,もうひとつだけ奥に行っているような感じがした.何が言いたいかというと,「デスクトップ」という平面が無効化されて,その奥に映像が流れていると感じたということなんだろう.「デスクトップ」がなくなってしまっている.けれど,その他のカーソルやウィンドウは通常通りである.だからこそ,少し感覚が狂う感じがある.失われた地面の上で通常通りの行為を行うという感じだろうか.永田さんの作品によく感じる平面がパラレルに重なっていく感じを,ディスプレイのデスクトップを基準に,その前面と背面でミニマルに行なっている感じがした.となると,それはディスプレイのデスクトップという平面での前面と背面との重なりが強調されると同時に,ディスプレイというモノとそれが置かれた空間における3次元的な重なり,ディスプレイとその裏側に置かれたMac Pro,ディスプレイ下からケーブルが伸びるヘッドフォン,もうひとつの平面であるトラックパッド,そして,それらを操作するヒト,ヒトがいる展示空間といったものが平面的に重なり合っている感じがでてくる.そこでは,ディスプレイのデスクトップ基点の重なりが確かにあると感じつつも,その重なりがあやふやになっているので,3次元空間で起こるモノの重なりが不思議に思えてくる.3次元を投影したデスクトップという2次元が消え去って,その重なりがあやふやに強調されて3次元的になって,その感覚が3次元に投影されるなかで,次元が折り重なるというか,2次元と3次元とが等価に投影し合うというありえない状態が生まれているのかもしれない. 永田さんの《Sierra》を見た後に,けど,この重なりは時間差で起こっている感じがある.机の上に形成された「痕跡」が,おそらく,かつて,そこに垂直に近い角度で「デスクトップ」が表示されていたことを示している.作品にはディスプレイはないけれど,ノートパソコンが置かれていただろう痕跡から,ディ... 続きを読む
カーソルについて何か考えたこと,または,エキソニモの《断末魔ウス》《ゴットは、存在する。》の感想 1/26/2010 講義でカーソルについて話した.講義ではエキソニモさんの《断末魔ウス》,《ゴットは,存在する》の《gotexists.com》を見た.その講義への学生のコメント. -- カーソルよりも物理的に破壊されきづついているマウスの方が可哀想に思いました 《ゴットは存在する》を見てなんだか不思議な感じがした。ゴットについての検索結果がずらりと出ているにも関わらず、それらにカ-ソルを合わせて見ようとすると見られない。いつも当たり前に出来ている事が出来ないと言う事の不思議さが、とても新しく、面白いと思った。 なんだか無機物なのにカバーを外して中身がどんどん剥き出しになる過程が有機的で気持ち悪いと感じました パソコンの画面にカーソルがあるのは当たり前だったので、深く考えたことはありませんでした。断末魔ウスについては、マウスは無機質な物なのにあそこまで無惨に壊されると痛々しかったです。無意識の内に感情移入しているんでしょうか。 その発想を思いついた人がすごいと思いました。 マウスがたくさん壊されて、無機物といえどかわいそうでいたたまれない気持ちになりました。 自分も普段PCを触って、必ずと言っていいほど使っているマウスが壊れていくのは、なんだか非日常的ですさまじかったです。 シュールレアリスムとはこのことを言うのかと思い、すこしだけ切なくなりました。 カーソルはたまにどこにあるのかわからなかったり、押したいところでないところに教えてしまうことがある。 映像は面白かったが少し怖かった。何を表現したかったのかがあまり伝わってこなかった映像だった。 マウスは今ではほとんどが赤外線を使用しており、使用感もボール式よりもなめらかになってすごく良くなったと思う。 これからは指先の細かな動きで操作出来るマウスが出ると思う。 あの矢印をもっと可愛いデザインにしてほしい。 カーソルは、基本的に矢印と手の人差し指で表されていますが、未来のカーソルには、動物の手や人の顔などでも表示されるとおもしろそうだと思います。 いろんなアイコンにカスタムできるけど 結局シンプルかつわかりやすいので矢印が一番よいと思う カーソルをマウスで動かすのは、いつもちょっと難しいなぁと思います。 パソコンの画面のフィールドと実際のマウスを動かす机とは別物なので… Ma... 続きを読む
お仕事の告知:大阪のdddギャラリーで「指を置く」展のギャラリートーク 3/17/2014 大阪のdddギャラリーで開催中の 佐藤雅彦さんと齋藤達也さんによる「指を置く」展 のギャラリートークに出演します! お時間がありましたら,是非お越しください!!! ー 「コンピュータにとっての『指を置く』」 日時:2014年3月25日(火) 5:00-6:30p.m. 出演:齋藤達也+水野勝仁(インターフェイス、メディアアート研究者、4月から甲南女子大学講師) 会場:なんばSSビル 定員:70名 入場無料 3月10日(月)より受付開始します. ※参加ご希望の方は こちら よりお申込いただけます. 続きを読む
マウスとカーソル:カーソルによる選択行為 3/11/2010 コンピュータのディスプレイで表現されている世界は,現実の世界ではないという単純な事実を考えなければならない.そこは,もともと,コンピュータが複雑な論理計算を瞬時に行って表示しているものにすぎない論理の世界であったはずである.そして,論理の世界は,ヒトの身体を排除しているものとして,レイコフとジョンソンが批判したものである.4-21) この事実は,コンピュータによって作り出されるディスプレイ世界には,元来,メタファーの基盤となるヒトの身体が存在していなかったことを示しているのではないか. しかし,レイコフとジョンソン,楠見,久保田の説明では,コンピュータの論理の世界に,いつ,どのようにして,私たちの身体が入り込んでいったのかということは考えられていない.ここから,ヒトの身体が,コンピュータとのコミュニケーションに入り込んでいくプロセスを詳しくみていく必要がでてくる.そして,そこには論理の世界にメタファーが立ち上がっていく様を捉えるという興味深い問題がでてくるはずである. メタファー形成の基盤となるイメージ・スキーマは,基本レベルの行為の繰り返しによって生じるものであるから,身体経験の基本レベルとコンピュータとの関係から考察していかなければならない.よって,私たちが,デスクトップ・メタファーについて,はじめに考えるべきことは,このメタファーが生み出される前に,ヒトの身体経験がその基本レベルで.コンピュータの論理世界に何らかのかたちで入り込んでいたのではないか,ということになる.この問題への手がかりを,シェリー・タークルは与えてくれる.彼女は,デスクトップ・メタファーを一般化したマッキントッシュのインターフェイスについて,次のように書いている. マッキントッシュのインターフェイス──実際はその画面──は,実物の机をシミュレートしている.私のアップルⅡの CP/M システム4-22) のような,論理的コマンドで操作される論理的インターフェイスではなく,たとえ二次元とはいえ,ヴァーチャル・リアリティだったのだ.この世界では,空間を進むのと同じように情報の中を進む.実際,マウスを手にして平面上で動かせば,その物理的な動きが,通常は矢印か指の形である指示アイコンによって,画面に反映されるのがわかるだろう.4-23) このタークルの記述には,「論理的コマンドで操作される論理的イ... 続きを読む