講義ノート:「ヒトとコンピュータとの関係」をめぐるひとつの「歴史」 リンクを取得 Facebook × Pinterest メール 5/19/2012 今年度も東京藝術大学の芸術情報センター(AMC)で「情報美学概論1」を担当させてもらっています.そこで,《「ヒトとコンピュータとの関係」をめぐるひとつの「歴史」》ということを考えていました.そこで使った「ノート」です.誰でもコメントがつけられるようになっています. 講義ノート:「ヒトとコンピュータとの関係」をめぐるひとつの「歴史」 リンクを取得 Facebook × Pinterest メール
名古屋学芸大学メディア造形学部映像メディア学科での特別講義:「自己」を経由しない「処理」の高度化 3/06/2026 名古屋学芸大学メディア造形学部映像メディア学科 の伏木先生に招かれて、大学院授業で特別講義「 「自己」を経由しない「処理」の高度化 」をしてきました。 レクチャーは資料と文字起こしにその様子が記録されています。資料を作っても、そのまま話せないものです。発表をしているときに、一度最後までスクロールされてしまって、焦りました。質疑応答も学生から示唆に富む質問があって、回答するのが楽しかったです。伏木先生の質問には、一瞬頭が真っ白になってしまって、「映像というのはピクセルの操作だと思っていて」という回答をしてしまいました。このあたりも文字起こしに入っています。 「自己が薄くなっている」ということをインターフェイスの歴史から話したのだけれど、それを「悪い」ものとして捉えたくなくて、そもそも「自己」が確立している必要があるのかとかという疑問があって、「私」が何かするではなくて、私とコンピュータ、スマートフォン、AIとが組み合わされた「私たち」が何かをするときに、私の「自己」というのは薄くなった方がいいのではないかということを考えていました。 でも、話しながら、これは大きな矛盾であるということも考えました。それもまた、私が「自己」を意識しすぎなのではないかという考えになっています。私というもの、人間というものが、変わり続けることが重要で、その変わり続けていることを変わり続けているその中から記述するにはどうしたらいいのかということを、「わたしたち」は考えているのだと思います。 近頃、「私」というのは文章の中で区切りが強い気がして、わたし、わたしたちという言葉を使っています。ここでいう文章は日記なので、論文やレクチャーなどではまだ「私」でした。これからもそこでも「わたし」「わたしたち」にしようかな。 レクチャーの後に、3名の発表がありました。わたしの発表内容に惹きつけて、それぞれ発表してくれていて、聴いていて、とても刺激を受けました。即座にいい質問ができなくて、発表をなぞるようなコメントしかできませんでした。わたしと同じような考え方をしているんだというのが、うれしかったからだと思います。メディア体験を身体レベルから考えるということをして、それを発表にまとめていくというプロセスがとても鮮明で、聞いていて、気持ちよかったです。ありがとうございました! レクチャーの後にも、コメントをもら... 続きを読む
インスタグラムの設定にある「元の写真を保存」について 8/03/2013 インスタグラム の設定にある「元の写真を保存」,英語だと「Save Original Photos」という項目が気になる.デフォルトだと「オン」になっているので撮影した写真にフィルターをかけたものと「元の写真」が残ることになる.「オフ」にするとフィルターをかけた写真しか残らない.設定で「オリジナル」が消去される.ここには「オリジナル」という言葉が「軽く」扱われるというか,それが「設定」のひとつの項目になったんだという感じがある. http://en.wikipedia.org/wiki/File:Instagram_versione_(santa_fiora,_peschiera).jpg 「オリジナル」は消去されるが,フィルターをかけた写真は残る.オリジナルが消えているのだから,フィルターをかけたものが「オリジナル」となるのだろうか? 「オリジナル」かどうかというよりも,「インスタグラムらしさ」ということが重要なのかもしれない. この前のトークで ,ラファエル・ローゼンダールがウェブ上の自分の作品に「これがオリジナル!」という意味では「オリジナルはない」ということを言っていたが,インスタグラムという代表的な写真アプリの設定項目を見てみても,ポスト・インターネットという状況では「オリジナル」という言葉を取り巻く環境が変化していることは間違いない. 続きを読む
メタファーと身体の関係 3/09/2010 1996年に,ダン・ゲントナーとヤコブ・ニールセンは,「アンチ-マック・インターフェイス」という論文を発表した.そこで,彼らは,現在でもGUI デザインを論じる際にバイブルとして参照されることが多い「マッキントッシュ・ヒューマン・インターフェイス・ガイドライン」の原理に,あえて反することで,新たなインターフェイスの可能性を論じている.4-3) マッキントッシュの第一の原理には,インターフェイスは私たちの馴染みの環境を用いたメタファーに基づいているべきだと書かれている.4-4) マッキントッシュの開発者たちは,この原理に則って,現在まで使用されている洗練されたデスクトップ・メタファー(図4-1)を開発した. 図4-1 システム1.1 のデスクトップ そこでは,ディスプレイ画面を「机の上(デスクトップ)」と見なし,「ファイル」,「フォルダ」,「ごみ箱」などを模したアイコンを,マウスで選択し,クリックすることで,コンピュータの操作が可能になっている.この原則に対して,ゲントナーとニールセンは,「ワードプロセッサ」は「タイプライター」にたとえられるが,ワードプロセッサには,タイプライターにはない「やり直し」の機能があるなど,メタファーが示す目標領域(コンピュータ)と基底領域(たとえる対象)とのミスマッチを指摘する.そして,彼らは,このようなメタファーの使用は混乱を招くことになるので,コンピュータ・システムの構造に即した,メタファーに頼らないインターフェイスをデザインすべきだと主張し,言語主体のインターフェイスの提案を行った.4-5) メタファーによる対象の機能のミスマッチを問題視するゲントナーとニールセンに対して,ジョン・キャロルらは,以前から,対象間のミスマッチを含んではいるが,メタファーの使用は私たちの最も基本的な学習へのアプローチのひとつなので,インターフェイス・デザインには不可欠なものだと主張していた.4-6) 確かに,コンピュータを取り巻くメタファーには多くのミスマッチがあるが,それにも関わらず,私たちは,それらを手がかりにして,コンピュータを使い始めて,気がつくと,それらを当たり前のように操作して自分の作業を進めてきたことは事実である. ゲントナーとニールセン,キャロルらは,似ている対象を結びつける言語の機能としてメタファーを論じ... 続きを読む
マジック・メモ:行為=痕跡=イメージの解体可能性 1/03/2010 フロイトは,自らの記憶と知覚のメカニズムに関する仮説のために,当時,売り出されていた玩具である,マジック・メモという装置を取りあげた.その理由は,この装置のイメージを表示する表面が,「いつでも新たな受け入れ能力を提供すると同時に,記録したメモの持続的な痕跡を維持するという二つの能力を備えている」2-11) からであった.フロイトは,「情報を無限に受け入れる能力と,持続的な痕跡の保存は,互いに排除しあう特性」2-12) と考えていたが,マジック・メモは,その相反する能力を同時に実現する装置であり,その構造は,次のように記されている. このマジック・メモは,暗褐色の合成樹脂あるいはワックスのボードに,厚紙の縁をつけたものである.ボードの上を一枚の透明なカバー・シートが覆っていて,その上端がボードに固定されている.このカバー・シートは,固定されている部分を除いて,ボードから離れている.この小さな装置でもっとも興味深いのは,このカバー・シートの部分である.このカバー・シートは二枚のシートで構成され,シートは二カ所の末端部分を除くと,互いに離すことができる.上のシートは透明なセルロイドである.下のシートは半透明の薄いパラフィン紙である.この装置を使用しない時にはパラフィン紙の下の面は,ワックス・ボードの上の表面に軽く粘着している.2-13) ここから,マジック・メモについてわかることは,大きく分けて,ワックス・ボードとカバー・シートという二つの部分から,この装置が構成されているということである.そして,カバー・シートは,透明なセルロイドの層と半透明の薄いパラフィン紙から構成されているので,全体としては,三層構造の装置ということになる.フロイトは,次に,この装置を使用するプロセスを詳細に述べている. このマジック・メモを使う際には,ボードを覆ったカバー・シートのセルロイドのシートの部分にメモを書く.そのためには鉛筆もチョークも不要である.受け入れ表面の上になにか物質を沈着させて記録を残すのではないからである.マジック・メモは,古代において粘土板や鑞盤に記録したのと同じ方式を採用しているのであり,尖筆のようなもので表面を引っ掻くと,表面がへこみ,これが「記録」となるのである.マジック・メモではこの引っ掻く動作は直接行われるのではなく,ボードを覆った二枚のシートを介して行われる... 続きを読む
スケッチパッドで描く、ふたつの手(1) 3/30/2010 1.記録映像に映るふたつの手 ひとつの動画ファイルがある.そのファイルを再生すると,1962年の夏に撮影されたアイヴァン・サザーランドが開発したシステム「スケッチパッド」の映像が,グラフィカル・ユーザ・インターフェイスの基礎を築いたアラン・ケイによる説明とともに映し出される.そこでは黒い画面に白い線が,ペンで描かれていく.ケイが紹介していることからも,このスケッチパッドが,コンピュータの歴史の中で大きな影響力を持っていることが伺えるが,実は,このシステムに実際に触れた人はごく限られている.アラン・ブラックウェルとケリー・ローデンは,サザーランドの博士論文の電子版の前文で,スケッチパッドは,マサチューセッツ工科大学(MIT)のリンカーン研究所でカスタマイズされたマシン,TX-2 でしか動かなかったので,その影響力は,論文と使用状況を撮影したこの記録映像によって広まったと書いている 1 . その記録映像には,ディスプレイ横にあるボタンを押す手とディスプレイにライトペンと呼ばれるペンで線を描いていく手が映っている.また,これらふたつの手がまったく映っていないときに,白い線が規則的に動くということも記録されている.描く手を必要とせずに線が動いているのであるが,その線の動きには摩擦や空気抵抗が感じられない.そして,この摩擦や抵抗のなさは,ライトペンで線を描いている際にも同様にみることができる.今から,40年以上も前に撮影され,サザーランドのアイディアを多くの人に伝え,スケッチパッドを「個人によって書かれた最も影響力のあるコンピュータ・プログラム 2 」という地位にまで押し上げたこの映像は,何を示しているのであろうか. 私は,以前,スケッチパッドが「変換」という原理でイメージを生み出す装置であることを示した 3 .それは「痕跡」との一致という原理を逃れたイメージを描けるということである.この映像で,手が全く映し出されていないときに線が規則的に動くという,ある意味,マジックとも言えるようなシーンは,そのことを示している.このマジックは,後にケイが「最初のコンピュータ・グラフィックス・プログラムだということばかりでなく,スケッチパッドにはすばらしい面がたくさんあった.単に何かを描くための道具でなく,常に正しい法則に従って描くプログラムだったね.スケッチパッドで正方形を描こ... 続きを読む
「グリッチワークショップ」を見学して考えたこと 8/22/2011 東京藝術大学 芸術情報センター で8月20・21日に開催された公開講座「 グリッチワークショップ 」を見学しました. 「データを壊す」ってどういうことなんだろうと疑問から見学させてもらったのですが,とても興味深い内容でした. ucnv さん, 林洋介さんによるグリッジの技術的な講義と 針谷周作 さんによるグリッチの歴史とその可能性を示す講義といった,グリッチをめぐる技術と概念を端的に学べました.ワークショップ参加者は,技術を学んだあとに,グループごとに作品作りをしていたので,単に見学していた私よりもはるかに深く「グリッチ」のことを理解できたのではないかと思います.制作には参加しませんでしたが,私自身もこれから自分がメディアアートを考える上で役に立つような「グリッチ」という概念を得たような気がします. ここからはワークショップに参加した私の個人的な感想です. ucnv さんがグリッチの定義として「データは壊れているけれども再生できる」と言われていて,ここでの「壊れている」って何だろうと思いました. バイナリエディタで画像ファイルを開くと,その画像を構成しているデータが文字と数字ででてきて,この時点で自分的にはファイルが「壊れている」と感じてしまうわけですが,それは,画像を構成するデータの別の見え方であるわけです.「攻殻機動隊」や「マトリックス」で,緑の文字・数字が画面を覆い尽くすことのイメージや,概念では画像データを文字・数字で示すことは知っていても,バイナリエディタで画像ファイルを開くだけで,それが文字・数字ででてくると,やはりそれまでとは違って,やはりそうだったのかということを感じます.その文字・数字を適当なところで消したり,コピペなどで編集,保存して,その画像ファイルを画像として開くと,画像が変な感じになっている.バイナリエディタでやっていることは,自分の感覚からいうと「編集」という行為ですが,その結果生じた画像は「壊れた」と感じる.「編集」から「破壊」が生じるという変な感覚です.さらに,コンピュータにとっては別にそのデータが「壊れている」というわけではなくて,それをデータ通りに画像として表示しているわけです. 元画像 バイナリエディタで編集 (ちょっとした)グリッチ画像 コンピュータはデータは壊れ... 続きを読む
画面分割と認知に関するメモ 2/05/2011 画面分割についてのスライドを作っていて,アメリカのドラマ「24」が初期のころはよく画面分割を使って緊迫感をだしていたのに,その手法が徐々に使われなくなっていたことを Wikipedia で知る. なぜだろうと思いつつ,マイク・フィグスの「 時代×4 [About Time 2] 」を見る.これは4分割された画面で同時に物語が進んでいく短編映画で,「 10 Minutes Older 」というオムニバスの映画のひとつである. 画面を4分割して,物語で進んでいくと,段々のそこで起こっていること全てを認知することが難しくなり,認知限界を超えることを実感した.「24」は,リアルタイムという軸があるから,ために画面が分割されても,それは空間的に離れているところで「同時に」物事が起こっていることを示すために有効だが,そこで「リアルタイム」という軸が外れてしまうと,見ているヒトは分割された画面の関係性が分からなくなってしまうのではないだろうか.そこで,「24」で画面分割が使われなくなったことには,認知限界が関係しているのではということを考えた. 24 時代×4[About Time 2] レフ・マノヴィッチが画面分割はユーザ・インターフェイスの「GUI」からの影響であると指摘している.「ひとつのスクリーンにひとつのイメージ」というのが画面構成の論理であったが, GUI を構成する要素であるビットマップ方式のディスプレイがこの論理を破綻させたと,マノヴィッチは考えている.ビットマップ以前に,映画では電話をかける場面などで画面分割を行っていたが,大々的には行われていなかったとはいえるので,マノヴィッチの指摘には賛成である.そして,画面分割を「空間的モンタージュ」と呼び,これまでの「時間的モンタージュ」に変わるものだとし,「空間的モンタージュ」は,GUI の画面を占拠して,そこでは何も消えることがない「記憶」の場として機能していると,マノビッチは考える. my desktop マルチウィンドウシステムにもつながる,パーソナル・コンピュータの大元のアイデアであるヴァネバー・ブッシュのメメックスは2画面を備えた装置として描かれている.メメックスは増大する情報量に対処するために作られた装置であった.ブッシュは膨大な情報に対するヒトの認知限界を考え,メメックスを開発... 続きを読む
マウスとカーソル:カーソルによる選択行為 3/11/2010 コンピュータのディスプレイで表現されている世界は,現実の世界ではないという単純な事実を考えなければならない.そこは,もともと,コンピュータが複雑な論理計算を瞬時に行って表示しているものにすぎない論理の世界であったはずである.そして,論理の世界は,ヒトの身体を排除しているものとして,レイコフとジョンソンが批判したものである.4-21) この事実は,コンピュータによって作り出されるディスプレイ世界には,元来,メタファーの基盤となるヒトの身体が存在していなかったことを示しているのではないか. しかし,レイコフとジョンソン,楠見,久保田の説明では,コンピュータの論理の世界に,いつ,どのようにして,私たちの身体が入り込んでいったのかということは考えられていない.ここから,ヒトの身体が,コンピュータとのコミュニケーションに入り込んでいくプロセスを詳しくみていく必要がでてくる.そして,そこには論理の世界にメタファーが立ち上がっていく様を捉えるという興味深い問題がでてくるはずである. メタファー形成の基盤となるイメージ・スキーマは,基本レベルの行為の繰り返しによって生じるものであるから,身体経験の基本レベルとコンピュータとの関係から考察していかなければならない.よって,私たちが,デスクトップ・メタファーについて,はじめに考えるべきことは,このメタファーが生み出される前に,ヒトの身体経験がその基本レベルで.コンピュータの論理世界に何らかのかたちで入り込んでいたのではないか,ということになる.この問題への手がかりを,シェリー・タークルは与えてくれる.彼女は,デスクトップ・メタファーを一般化したマッキントッシュのインターフェイスについて,次のように書いている. マッキントッシュのインターフェイス──実際はその画面──は,実物の机をシミュレートしている.私のアップルⅡの CP/M システム4-22) のような,論理的コマンドで操作される論理的インターフェイスではなく,たとえ二次元とはいえ,ヴァーチャル・リアリティだったのだ.この世界では,空間を進むのと同じように情報の中を進む.実際,マウスを手にして平面上で動かせば,その物理的な動きが,通常は矢印か指の形である指示アイコンによって,画面に反映されるのがわかるだろう.4-23) このタークルの記述には,「論理的コマンドで操作される論理的イ... 続きを読む
NICOGRAPH 2025で「エキソニモの《Body Paint》における立体視効果の生起条件と印象の変化」を発表しました 12/25/2025 イラストレーターのガトーさんによる実験説明のイラスト 11月30日に広島で開催された芸術科学会の NICOGRAPH 2025 で「エキソニモの《Body Paint》における立体視効果の生起条件と印象の変化」を発表しました。この発表は、甲南女子大学心理学部の星野貴俊さんとの共同研究です。星野さんのゼミ生の卒論をブラッシュアップして、今回の発表となりました。 研究を発表しようとなったのですが、お互いに入っている学会も違うし、どうしようかとなりました。そんなとき、芸術科学会は「非会員」でも発表できるということを知ったので、発表を申し込みました。ロングペーパーでの発表を申し込みましたが、残念ながらショートペーパーでの採択となりました。 発表を終えて、ホッとしながら出張報告書を書いていました。日程を確かめるために、NICOGRAPH 2025のページに行くと、私たちの論文が「優秀論文賞(ショートペーパー)」になっていました。「非会員」だと、こういった表彰制度があるのも知らないですし、たとえあっとしても、「非会員」は審査から除外されるものだと思っていたので、とても驚きましたし、芸術科学会は懐が深いなと感じました。 ということで、発表をして、賞ももらいました。 研究のために作品の映像データの提供や、実験用に作品のカラーバリエーション制作を快く許可してくださった エキソニモ のお二人には感謝しかありません。 星野ゼミの学生さんたち、論文のためのイラストを描いてくれた、私のゼミの学生でもある、イラストレーターのガトーさんに感謝です。 そして、何よりも、私から《Body Paint》の視覚効果を認知科学的に解明したいという急な申し出にのっていただき、3年近い時間をかけて、卒論の指導や論文の執筆をしていただいた星野さん、ありがとうございました! 最後に、論文( ロングペーパー )( ショートペーパー )のPDFです。 ー 星野先生(心理学科)と水野先生(メディア表現学科)の共同研究論文が 芸術科学会にて優秀論文賞に選ばれました 続きを読む
スライド|情報美学概論A 最終回|終端→ 8/02/2011 東京藝術大学 芸術情報センター :情報美学概論A 最終回|「終端→」→ スライド 参考資料 エキソニモ 可能世界空間論:空間の表象の探索,のいくつか ICCのエキソニモとメディアアートへの私見 ssuge さんのツイート 包まれるヒト―“環境”の存在論 (シリーズ ヒトの科学 4) iPhoneアプリ〈arrow to ggg〉 クワクボリョウタ《10番目の感傷(点・線・面)》 クワクボリョウタ インタヴュー by 原田優輝 国立国際美術館年間スケジュール「世界制作の方法」 コメントのコメント エキソニモの《↑》は「〈視覚化を拒む理解〉を視覚を通して行っている」と言えるのではないか,今日,歯医者の治療を受けながら考えた.〈視覚化を拒む理解〉というのは講義でも取り上げた保坂和志さんの言葉であるけれども,それは言葉は言葉の流れでしか理解できるものではないというもので,それを「アート」に当てはめることがいいのかどうかはわからないが,なぜかそう思った.コンピュータという「allo」を経由することによって,〈視覚化を拒む理解〉を視覚化することができているのではないだろうか.ヒトではない「視覚」を示すコンピュータ.体験者が見ているものはヒト単体では〈視覚化を拒む理解〉を示すものであるものが,コンピュータとヒトとが複合体となることで,それが「視覚化」された状況として体験することができるようになる.ここには異なる視覚と異なる身体性があるような気がしてならないけれど,それをはっきりと講義では示すことができなかったし,これからもできないかもしれない. 作品は「文脈」から逃れることができないのかもしれない.メディアアートは今まで「メディアアート」であることで「現代美術」の文脈から逃れることができていたのかもしれないが,また,逆に言えば,現代美術が文脈を逃れるために「メディアアート」に近づくこと.この方法も双方の領域が混じり合うことで出来なくなってきている.現代美術という文脈によって作品の価値が決まってしまうゲームの中にメディアアートが混じり合っていくなかで,すべてが文脈によって理解されようとしているのかもしれない.でも,ヒトの理解は文脈だけで決まるものでもないし,コンピュータとい... 続きを読む