ある日(201204022)のメモ

アートの中にメディアアートを位置づけるのか.あるいは,テクノロジーの中にアート位置づけるのか.どちらでもないような気がしている.アートとテクノロジーのインターフェイスを考えていくことが,大きな意味でのアートとなりつつあるのではないか.

そこで,テクノロジーの一つの変数としてヒトがあり,アートもテクノロジーの変数である.

変数の振り幅を決めるのがインターフェイスというところなのではないか.ヒトとマシン,アートとテクノロジーのどちらかではなく,どちらでもある.どちらもが接している面としてのインターフェイス.

接していると言っても,二つとは限らない.三つの存在が互いに接しているインターフェイスもあるはずである.

そもそもインターフェイスとはなんだろうか.それがわからないから考える.

ヒューマンとポストヒューマンとのインターフェイスを考える.

インターネットとポストインターネットとのインターフェイスを考える.

何を言っているのかが分からなくなってきたが,とにかくまずインターフェイスを考えてから,それに接する事象のことを考えてみる.

gif画像はインターフェイスなのか.gif画像をインターフェイスとして考えるとすると,そこに接している事象は何なのか.事象は,人の行為でありその総体であるポストインターネットとなり,gifを流通させるコンピューターとなる.

歴史の中に位置づけるという行為を放棄する.常に複数の事象が向かい合っているような場所を考えていくこと.
−−
最近,「歴史」ということを意識させられることが多いけれど,私はそこへの意識が薄い.だから,濃密な「歴史」のなかでの対話で,どんどん憂鬱になっていた.ある日のメモのなかで,それらを「放棄」すると書いてあるのを読んで,いまの自分を少しでも「憂鬱」から解放してあげたい.と書いてはみたものの,やはり憂鬱なままです.

このブログの人気の投稿

【2023~2024 私のこの3点】を書きました.あと,期間を確認しないで期間外の3点を選んで書いてしまったテキストもあるよ

マジック・メモ:行為=痕跡=イメージの解体可能性

インスタグラムの設定にある「元の写真を保存」について

映像から離れていっている

出張報告書_20150212−0215 あるいは,アスキーアート写経について

「グリッチワークショップ」を見学して考えたこと

画面分割と認知に関するメモ

カーソルについて何か考えたこと,または,エキソニモの《断末魔ウス》《ゴットは、存在する。》の感想

矢印の自立

アンドレアス・グルスキー展を見て,谷口暁彦さんの習作《live-camera stitching》を思い出しました