三輪眞弘さんとの対談ためのメモ(3)_ヒトとコンピュータとの共進化

三輪さんとのトークとのために自分の立ち位置を確認する必要があるのではないかと思いつつ,なかなかできないでいるのでとりあえずのメモを書く.

インターフェイス研究で知ったエンゲルバートのヒトとコンピュータとの「共進化」というのが,僕の基本的的スタンスを決定している.コンピュータという「種」が出てきたことによって,人間が「ヒト」という生物種として進化する可能性がでてきた.もちろんコンピュータがなくても進化するものだけれど,「知的」というか「論理」を扱うもうひとつの種が出てきたことで,それまで唯一の種であったヒトにこれまでとは異なる進化の可能性がでてきたということ.

ヒトがコンピュータをつくったと考えるのが普通だが,コンピュータがヒトに自らをつくり出させたと考えても面白いのではないかと思う.現時点ではヒトがコンピュータをつくったということになっているけれども,1000年後には立場が逆になっているのかもしれない.コンピュータがつくられるためにヒトが存在したというふうに.

生物種の「ヒト」ということになると,今朝,エキソニモのセンボーさんが「理解できないほど複雑すぎるものは生物と呼んでいい」という感じのツイートしていて,なるほどと思った.コンピュータが複雑になればなるほどそれは「生物」と見なされる.生物種となったヒトとコンピュータとは共進化していく.インターネットも生態系と呼ばれているから,ここにも生物が生まれている.


トークのタイトルにもなっている「コンピュータがもたらした世界」とは,ヒトが生物種として改めて進化していく世界であり,ヒトと共進化していくもうひとつの生物種としてコンピュータが存在する世界でもあると考えることができるのではないだろうか.ヒトをリセットするわけではないけれど,これまでのアイデアを刷新していく必要はあるのだろうなと思う.そういったものとして「メディアアート」や「ポスト・インターネット」,さらに「インターネット・リアリティ」を考えていく必要がある.

以上のことを書いていたら,東京芸大で去年やった講義のことを思い出した.以下,その講義メモ.

これを読んでいて,エンゲルバートが言う「最小の情報ー複雑なイメージ」というのは三輪さんの逆シミレーション音楽にも通じるところがあるのかなと思った(後今回は関係ないかもしれないけれど,点描画のスーラも最小の情報−規則を厳密に行為で体現した例だと思う).ただ三輪さんの場合は「複雑なイメージ」をヒトが体現するというところが特徴なわけだけど.ヒトはもともと複雑だから「生物」だと言えるのだけれど,さらにもうひとつの複雑なコンピュータが行っていることをヒトが体現したとき,それは何を意味するのか.もともと理解できないほど複雑だから,「更に」ということは起きないのかもしれないけれど,ヒトがコンピュータが行っていることを体現したときに,そのことを言い表す言葉は「逆シミレーション」の他にはまだないのではないだろうか.

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エンゲルバート テルジディス フルッサー
この回のノートの元ネタ→身体|複合体|四人称:ヒトとコンピュータとの関係に関する試論(自分へのツッコミなどありますが…)


ダグラス・エンゲルバート
「ヒトの知能を補強増大させるための概念フレームワーク」(1962年)


cf: Cover Interview:暦本純一 (東京大学大学院情報学環教授、ソニーCSL副所長,AXIS 2012.6 vol. 157
1990年代半ばより、実世界指向インターフェースとして、デジタルとフィジカルの世界をつなげようとしてきた暦本純一氏。それは最新のテクノロジーの使い方において、いかに身体性をオーグメント(拡張)できるかという試みでもあった。今、オーグメンティッド・リアリティ(AR)を超え、オーグメンティッド・ヒューマン(AH)を提唱する氏を、研究室に訪ねた。


ヒトの知的能力の4つの段階
  1. 概念操作:物事を抽象化して概念を作り上がる
  2. シンボル操作:心の概念を特定のシンボルで表現する
  3. 手動の外部シンボル操作:シンボル操作の外部化
  4. シンボルの自動的な外部操作:コンピュータ


ネオ-ウォーフ仮説
  • 「文化のなかで使われる言語ならびに有効な知的活動能力は,その進展過程のおいて,個人がシンボルの外部操作を制御する手段によって直接影響を受ける」とするエンゲルバートの仮説.言語学のサピア=ウォーフ仮説に基づいたもの.


自動的な外部操作この段階では,ヒトが操作する概念を表すシンボルはヒトの目の前で配置され,移動し,蓄積され,検索され,きわめて複雑なルールに従って処理されることができる.それらはみな,ヒトの与える最小限の情報にたいする迅速な対応として,特別な協調的技術装置によっておこなわれるのであるわれわれがいま想像できるかぎりでは,それは個人がすばやく容易に交信できるコンピュータである.コンピュータには三次元カラーディスプレイが接続されており,その上に,ヒトの指令に自動的に反応してできるイメージの一部ないし全部にもとづく「きわめて複雑なイメージ」が構築できると考えられる.ディスプレイとプロセスとは,有用なサービスを提供するだろうし,これまで想像できなかったような概念をもたらすだろう(たとえば書写技術が現れる前の時代の思考者は,棒グラフ,長い除算プロセス,カード・ファイル・システムといったものを予想することはできなかったはずである)
思想としてのパソコン,pp.166-167


ヒトの与える「最小限の情報」ーコンピュータが構築する「きわめて複雑なイメージ」
ヒトとコンピュータとのあいだの非対称的な関係


「H-LAM/T」システム
「H」はヒト,「L」は言語,「A」は人工物,「M」は方法論,「T」は訓練を示し,「訓練されたヒトが人工物,言語,方法論と共存する」システムのなかで知能増強を行うとされる.


ヒトとその人工物とは,H-LAM/Tシステムにおいて物理的な部分を構成しているにすぎない.システムの究極的な能力は,両者の結合した能力に依存している.この結論は,システムの全ての複合プロセスは明確にヒト・プロセスと人工物プロセスに分解されるという,すでに述べた事柄に示唆されていたものだ.このように H-LAM/Tシステムのなかには二つの別々の活動領域がある.すなわち,明らかに人間的なプロセスが全て生じる「ヒト」という領域と,明らかに人工的なプロセスが全て生じる「人工物」という領域である.いかなる複合プロセスにおいても.二つの領域にまたがりエネルギーの交換を要する協調的な相互作用が行われる(エネルギー交換のほとんどは,情報交換という目的のみのためだが)
思想としてのパソコン,pp.162-163


エンゲルバートは複合プロセスを,ヒトが人工物を使い始めてから何世紀にもわたって存在しているものだと見なしている.だから,そこに新しい人工物として入ってきたコンピュータがシンボルの「自動的な外部操作」という新しい方法をヒトに与え,その思考に大きな影響するようになっていても,複合プロセス自体が変わることはないと考えられている.しかし,コンピュータは複合プロセスのあり方そのものを変えてしまうのような存在ではないだろうか?


コンピュータを今までの人工物の延長とみるか,それとも全く異なる存在だと考えるか?


ヴィレム・フルッサー
『テクノコードの誕生』(=1990年)
→ヒトをカメラなどの装置との「複合体」として考え,「あたらしい人間」のあり方を示す


用語解説
労働:事物を取り出し(製造し),形を与える(情報化する)活動
道具:労働に役立つ,ある身体器官のシミュレーション
機械:身体器官を科学的理論に基いてシミュレートする道具
装置:思考をシミュレートする玩具
プログラム:明晰かつ判明な諸要素で行われる組み合わせのゲーム


まとめますと,装置は数字的な記号を組み合わせるゲームという意味での思考をシミュレートするブラックボックスです.そのブラックボックスのなかでは,それに対して将来人間がどんどん支配能力を失い,どんどん装置まかせになっていかざるをえないほどに,こうした意味での思考は機械化されてしまいます.それは科学的ブラックボックスであり,この種の思考を人間よりもずっと優れた形で遂行するのです.なぜならば,それは人間より優れた形で(より早くそして間違いなく)数に類する記号を扱うものであるからです.完全自動化されていない装置ですら(つまり,人間をゲームの主体として,そして機能従事者として必要とする装置ですら)それに必要とされる人間よりも,ゲームを行い機能する面ではより優れているのです.写真行為について考察する場合はいつでも,この点から出発しなければなりません.(pp. 40-41)

装置とヒトの複合体装置がオペレーターの(たとえば鍛冶屋がハンマーを使うように)使える駒として機能するわけではないし,オペレーターが(たとえば労働者が機械と工場団地の駒であるように)装置の駒として機能するわけでもない.装置の機能とオペレーターの機能は,融合しているのである.(p. 190)



複合体でのヒトは「〈能動的〉な処理者(〈英雄〉)でも,〈受動的〉な被処理者(〈被虐者〉)でもない.かれは,[自分の使える] 駒[ファンクション]として作動[ファンクション]する諸機能[ファンクションズ]〈装置〉の駒[ファンクション]として作動[ファンクション]する(フルッサー,p.191)というかたちで機能する


フルッサー:ヒトとカメラとの複合体
エンゲルバート:ヒトとコンピュータとの複合プロセス
ヒトとコンピュータとの複合体


カメラとコンピュータとの共通点
  • 「ボタンを押す」という単純な行為が,複雑な結果を生み出す
  • 「最小の情報」→「極めて複雑なイメージ」


ヒトが「最小の情報」しか生み出せないようにするために,「手」の自由度を制限する装置としてインターフェイスを考えてみる.


ex. 鉛筆→タイプライター→キーボード→ソフトウェアキーボード

近代人が,タイプライター「で」打ち,このタイプライター「に」「書き取らせる」[diktiert](これは「作詩」[Dichten] と同一語である)のは,偶然ではない.書き方の歴史は,また,語の破壊が増大する,一つの主要な根拠なのである.語は,もはや,書く手を通して,本来的に行動する手を通してではなく,手による機械的な圧力を通して,次々と入れかわる.タイプライターは,手の,つまり語の本質領域から,文字を奪う.語それ自身は,何か「タイプライターで打ったもの」になるのである.これに反して,タイプライターで打ったものは書き写したものにすぎず,書かれたものの保存に役立つか,もしくは書かれたものの「印刷」の代用をするだけであり,そうした場合に,タイプライターは,その固有の,限定された意義をもつのである.タイプライターが最初に支配した時代にはまだ,タイプライターで打った手紙は,礼儀にそむくものと見なされた.今日では,手書きの手紙は,急いで読むことを妨げる,そのため古風で,望ましくない事柄なのである.機械によって書くことは,書かれた語の領域において,手から地位を奪い,語を一種の交通手段に格下げする.それに加えてタイプライターで打ったものは,筆跡を覆蔵し,したがってまた性格を覆蔵するという利点を提供する.タイプライターで打ったものにおいては,すべての人間が,同じように見えるのである.ハイデッガー全集54巻 パルメニデス,マルティン・ハイデッガー,p.138.

知覚的な障害実は,われわれは仮想空間において知覚的な障害をもっているのである.データで形成されている仮想世界に触れるには,ツールを介す必要があり,そのツールの限界がすなわち,われわれの限界となるのだ.それらのツールとは,例えばモニターやスピーカーやプリンタにあたるのだが,これらの機器は,誰もが均等に経験できる技術をめざす工学分野が発明したものなわけだから,それを介して仮想世界に触れるとしても,誰もが似たような体験しかできないことになる.毛利悠子,ゴッホってなんだろう?SITE / ZERO:情報生態論|いきるためのメディア,第2号,2008,p.23.



仮想空間が現実空間より劣っているから,今のインターフェイスなのではない.今のようなインターフェイスなのは,現実空間が仮想空間より劣っているから



✕仮想<現実
◯仮想>現実

しかし,それは「障害」なのか?
「仮想>現実」だと,私も思う.だが「ボタン」を押すというようなことが「障害」とは思わない.
このように考えてみたらどうなるだろうか?
コンピュータは仮想世界という異なる世界のあり方を,ヒトの「手」の介入を極力なくすことで成立させている


ヘイルズが指摘する「脱身体化」という幻想をつくり出す源.しかし,すべてを排しているわけではなく,あくまでも「極力」である点が重要.コンピュータに対してのヒトの行為は,今までの観点からすれば「矮小化」されているように見える.つまり,「障害」をもっているように見える.しかし,それは「あたらしい行為」のはじまりなのかもしれない.


→「障害」となっているのは,コンピュータとの複合体として「最小の情報」を生み出す身体的行為の可能性を考えることを妨げているヒトの「思考」なのではないだろうか



コスタス・テルジディス
『アルゴリズミック・アーキテクチャ』(=2010)
コンピュータを全くの他者「allo」を捉え,「allo」との接続によるヒトの思考のサイボーグ化を示す.


「人間の思考では想像もつかないこと」とは,今では可能な考え方とされているが,以前は知られていなかったことを指している.しかしながら,コンピューテーションの世界では,どこまでが不可能なのか,その範囲がいまだに定義されていない.膨大な量の計算,組み合わせ解析,ランダム性,再帰性などを含んだコンピューテーションの能力(これらのごく一部の例であるが)は,これまでの人間の思考には存在しなかった,新しい「思考」のプロセスを示している.コンピューテーションの仕組みに基づく,こうした「アイディア・ジェネレータ」は,単に人間の想像力の限界を押し広げるだけでなく,人間の思考の潜在的な限界を指し示すという,深い特性がある.かつて「想像もつかない」とされたものは,存在の可能性と無関係であったがゆえに,想像されないままだったのかもしれない.(p.42)コンピュータはヒトの思考の枠組みを押し広める.その限界を見極めるようなポイントに,私たちはいる.それは自らの思考の限界を知ることであり,まさにヒトの「復元ポイント」となるべきところかもしれない.


脱ヒト中心主義・ヒトの思考のサイボーグ化


しかしながら,仮に人間中心主義という前提を取り払い,人間の思考と全く同じではないものの,似たような働きをする知的な行為主体を導入した場合,「デザイン」という営為に対して,別種の解釈が可能になるのではないだろうか? このような可能性を考えてみれば,人間の思考は,本質的にコンピューテーションを備えた知的な存在によって拡張,補完,結合されることになる.それは,人間の存在とは独立した別の存在だ.以降,それを「他者性(otherness)」と呼ぶことにしたい(ギリシャ語では“allo”と呼ばれる).そのような存在を,人間の思考から切り離して考えられるのは,その存在の起源からして予想も想像もできず,不可解な性質を持つからである.言い換えれば,人間の思考が機能しなくなったところから,その存在が始まるのである従って,その主体による知的な行動はすべて偶然や事故や偽りなどではなく,むしろ人間の理解を超えた複雑さを持つ別の論理(allo-logic)の産物なのである.このような“allo-reasoning(別の,異種の,論理的思考体系)”を手にすることは,人間の思考のサイボーグ化なのかもしれない.機械的,電気的に接続するという意味ではなく,知的に接続するという意味においてのサイボーグ化である.(pp.48-49)


ref:ギリシャ語の“allo”は,「何か別のもの」の表現であると定義できるが,これはメタファーではなく,現実に未知の何かと関係している.理性を否定し,代わりの未知を探求することで,まだ知られていない,とらえどころのないものへ向かう入口に目を向けることができる.定義上,“allo”は,もし~ならば(in-then)が成立しない場合に発生する論理(a-logical)である.非論理的で例外的,かつ意味をなさないものなのだが,はじめに設定した論理が適用範囲を超える可能性を示してもいるのだ.“allo”は,人間のものではない,人間の知識の欠落している部分を記述し,説明し,予測するために,人間自身が発見したものである.そして,人間の理性の終端をも示す.“allo”は,"is"の反対語であり,「その他すべて(every thing else)」なのだ.(p.59)


もうひとつの存在としてのコンピュータ
  • 存在の起源からして予想も想像もできず,不可解な性質を持つ
  • 人間の理解を超えた複雑さを持つ別の論理(allo-logic)の産物


思考のサイボーグ化:全く理解できない論理をもつ存在と自らの思考を接続すること


コンピュータが人工物ではなく,「コンピュータ」という独立した存在になっている.ヒトが理解することができない存在として「コンピュータ」を考えること.ここにテルジディス/フルッサーとエンゲルバートの違いがある.


コンピュータとの関係において,ヒトの知能の増強はない.そこにあるのは,コンピュータによるあたらしい思考とヒトの思考との接続だけである.


ref. ヒトとコンピュータとの複合体における「自由」
かれは,自分と写真機を区別することがもはや無意味であるような,複雑な動きのなかに在るのだ.そうした動きのなかで下される決定は,〈人間的〉でもなければ〈機械的〉でもなく,装置+オペレーター複合体の決定である.決定する能力があることを〈自由〉と呼ぶなら,写真家は写真機のおかげで自由だとも,写真機があるにもかかわらず自由だとも,写真機と一緒に自由だとも,写真機に逆らって自由だとも言えない.かれにとって,自由とは,写真機の駒として決定することなのだ.(フルッサー,pp.234-235)

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