回路

ヒトとコンピュータとがひとつの回路になったあとで,ヒトはどこにいるのだろうか? コンピュータはどこにいるのだろうか? ヒトとコンピュータの回路は,ヒトとコンピュータとの共進化を止めるというか,このふたつがひとつの存在になるということ.誰のための存在なのか? 「神」をここにもってこないかぎりは,その回路が何のために,誰のためにということはわからない.そもそも「何かのために」回路ができあがるのではないかもしれない.ヒトが回路のなかに入ることは悲観することではなくて,これまでとは異なる思考を見つけることだから,興味深いこと.今までの考えから,あらたしい考え方,思考に移行すること.でも,そこで,これまでの「言語」を使っていていいのか.もちろん,これまで考えられてきた言語の思想を捨てることはできないだろうけれど,それが「レガシー」になって,ヒトとコンピュータの回路としての思考の足を引っ張ることもあるではないだろうか.そうだとしても,ヒトは「言語」を使い続ける.そして,これまでの「レガシー」を引用し続ける.それがコンピュータ以前の思考であったとしても引用し続ける.その思想がコンピュータを生み出したとも言えるけれども,だったら,コンピュータを生み出した人の思想を引用するべきではないだろうか.これまでの「思想」を壊したあとに,また「思想」を語ることを考える.
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エキソニモの「スピリチュアル・コンピューティング」からKevin Bewersdorfの「Spirit Surfing」にとんで,上のGIFに至った.ヒトとコンピュータとがひとつの回路になっている.上の画像だと,ヒトとコンピュータが一組になって,その先にもう一組のヒトとコンピュータがあるけれども,もう一組のところに必ずしもヒトがいなくてもいい.ヒトとコンピュータとのインターフェイスではなくて,ヒトとコンピュータとを含んだひとつの回路と考えること.変化のなかのヒトとコンピュータと考えること.モノではなくて変化であって,それは「神」ではないけれども,大きな回路のなかに入ること.そんな感覚が「スピリチュアル」で,「インターフェイス」という言葉でヒトとコンピュータとは向い合ってきたが,そのあいだにヒトとコンピュータとのあいだにはこのふたつの存在を含んだより大きな回路ができあがりつつある.というか,もともと回路はあったのだけれど,近頃,やっとその回路の存在を感知できるようになってきたと考えてみたらどうだろうか?

われわれは日常,“スイッチ”という概念が,“石”とか“テーブル”とかいう概念とは次元を異にしていることに気づかないでいる.ちょっと考えてみれば解ることだが,電気回路の一部分としてスイッチは,オンの位置にある時には存在していない.回路の視点に立てば,スイッチとその前後の導線の間には何ら違いはない.スイッチはただの“導線の延長”にすぎない.また,オフの時にも,スイッチは回路の視点から見てやはり存在してはいない.それは二個の導体(これ自体スイッチがオンの時しか導体としては存在しないが)の間の単なる切れ目──無なるもの──にすぎない.スイッチとは,切り換えの瞬間以外は存在しないものなのだ.“スイッチ”という概念は,時間に対し特別な関係を持つ.それは“物体”という概念よりも,“変化”という概念に関わるものである.(pp.147-148)
改訂版 精神と自然:生きた世界の認識論,グレゴリー・ベイトソン


ベイトソンの「変化」とホワイトヘッドの「unison of becoming」

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