出張報告書_12/18-20(別紙)_「どうにでもなる」がゆえに「もう,どっちでもいいよ」とは言えない世界

撮影:永田康祐
出張報告書_12/18-20(別紙)は,東京・八丁堀のmilkyeastで開催された展覧会「無条件修復 第III期」に展示されていた永田康祐の作品を考察したものである.永田の作品は3つあり,それぞれ《裂かれた紙の写真》《4つのオブジェクトによるコンポジション》《石の上に木を落とす/木の上に石を落とす》というタイトルであった.

《裂かれた紙の写真》は,紙の中心あたりで下から中ほどまで裂かれた方眼紙を撮影した画像をプリントされた紙も裂かれた方眼紙と重なるように裂かれている作品である.撮影された方眼紙も裂かれていて,その支持体となる紙も裂かれている.展覧会のタイトルである《無条件修復》から考えると,支持体の紙を修復すれば,撮影された方眼紙も修復されるように思ってしまうが,そうはならない.支持体の紙を完璧に修復すればするほど,方眼紙の裂け目が鮮明に見えてくるだろう.当たり前だが,支持体の紙が保持しているのは「裂かれた紙」だからである.支持体の紙が裂かれているから,物質としての裂け目がイメージとして保持されている方眼紙の裂け目を「修復」していると言うのは言い過ぎかもしれないけれど,それを見えにくくしていることは確かである.

撮影:永田康祐
さらに《裂かれた紙の写真》で興味深いのは,支持体の紙がクリップで挟まれて,そのクリップが釘で留められた状態で展示されていることである.物体としての紙がクリップに挟まれているのに対して,紙にプリントされた方眼紙は釘で直接壁に打ち付けられた状態を撮影されている.方眼紙の支持体となっている紙には余白があって,そこに釘を打ち付けて,展示することもできそうではあるが,永田は紙をクリップで留めて作品を展示する.クリップで挟まれる紙という現象は,紙には表と裏があることを示し,支持体の紙をイメージの方眼紙から引き離し,それがモノであるという当たり前のことを強調する.

《裂かれた紙の写真》ではイメージの方眼紙と支持体のプリント用紙に物質的なちがいはある.しかし,それらは「紙」という言葉で括られる認識において,同一の物性を見ている人に与える.それゆえに,「紙」という物性で2種類の紙は重なりあって,方眼紙とプリント用紙の物質的なちがいは前面にはでてこない.対して,《4つのオブジェクトによるコンポジション》は支持体とイメージの物性が異なる場合があり,このちがいから生じる違和感のバリエーションを示したような作品である.この作品には,板と紙とふたつの石という4つのオブジェクトからつくられたコンポジションが2種類展示されている.ひとつは,損壊したモノがイメージとして支持体に貼り付けられているバージョンであり,もうひとつはイメージは損壊していないが,そのイメージが貼り付けられた支持体が損壊させられているバージョンである.

2つのバージョンの4つのオブジェクトをそれぞれ見ていきたい.損壊したモノがイメージとして貼り付けられたバージョンの「板」は真ん中で割られて箚さくれだった状態を撮影された画像が「く」の字につくられた木の支持体の表面に貼り付けられている.「く」の字の折れている部分に画像の割れる部分が重なっており,一見,単に板が折り曲げられているように見える.一方,支持体が損壊しているバージョンは,板の画像が金属の板にプリントされていて,それが「ぐしゃ」とされたものになっている.こちらには木の板ではありえない折れジワと光の反射がある.支持体とイメージの物性が異なることから生じる違和感が一番大きいのが,この金属の支持体に木がプリントされた「板」になるだろう.

これらの「板」を支えているのが方眼紙を撮影した画像がプリントされた紙が丸められてクリップで留められたものである.イメージが損壊している方は,方眼紙が一度「ぐしゃ」とされた後に引き伸ばされた=修復された状態で撮影されたものがプリントされている.プリントされた紙はきれいに丸められ板を支える柱になっているが,そこに印刷された方眼紙は一度ぐしゃぐしゃにされたシワが刻まれている.支持体が損壊しているほうは,撮影されている方眼紙には歪みはないが,プリント用紙が丸められた後で,外部から力を加えられて「ぐしゃ」と歪んだ柱となって板を支えている.その際に,イメージの方眼紙も柱の歪みとともに歪んでいる.

撮影:永田康祐
「板」は紙だけでなく「石」にも支えられている.その「石」はひとつは3Dプリントされたものであり,もうひとつは「石」のテクスチャを紙にプリントしたものを「ぐしゃぐしゃ」と丸めたものである.この「石」だけが2Dのプリントではなく,3Dプリントを用いているため「板」と紙とは異なる損壊の様相をみせている.イメージが損壊しているオブジェクトとして提示されている3Dプリントされた「石」は,いくら見てもどこが損壊しているのかわからず,それは一見,そこらで拾ってきた「完璧な」石にみえる.自然界の石の形が様々なため,3Dプリントされたものが損壊した石からつくられたものかは判別できない.「石」の色が奇妙なところがあるが,色もまた元々のものかどうかを判別することが難しい.また,データ上で「損壊」を加えたとすると,それは板や紙のようにモノを損壊したものとは異なるものになってしまう.あるいは,3Dスキャンの精度の問題で,スキャンするという行為そのものがモノを「損壊」することになっているのかもしれない.では,支持体が損壊したコンポジションに加えられている紙の「石」はどうだろうか.見た目は「ぐしゃぐしゃ」となっていて損壊しているように見えるが,これは元の石に近づけるように施された「修復」ではないだろうか.石は「ぐしゃぐしゃ」と丸めることはできないが,紙は丸めることができる.紙の物性を活かして「石」として見せる.これは「損壊」というよりも「修復」と言えるだろう.そうすると,紙の石は「石」としては壊れていないことになり,それは石になっている紙が「石」の支持体としても損壊してないことになる.紙は「石」になるべき修復に用いられているのである.ただここで「石」となるために「ぐしゃぐしゃ」と丸められた紙というモノは損壊していると言える.この「石」が示しているのは,モデルとテクスチャからなる3Dデータを用いると2Dのように支持体とイメージの表面とを明確に分離することが困難になるということではないだろうか.いや支持体とイメージの表面とを分離することはできるのだけれど,それを「損壊」した状態にすることが2Dよりも難しいのであろう.

撮影:水野勝仁
最後に,3Dの「石」が載っているもうひとつの「石」を見てみたい.この「石」は2Dとして扱われている.この「石」は石版のような石の表面を撮影したものである.イメージが損壊しているバージョンでは,石がふたつに割られていて,それぞれを撮影した画像が石の割れ方に合わせるようにカットされたふたつのガラスにプリントされている.カットされる前のガラスを完全体と見なすならば,ここでは支持体にも損壊が起きていると見なすことができるけれど,割られた石と一致することが支持体として「完全」であると見なせば,カットされたガラスにはどこにも損壊は生じていないとも考えることができる.これは「無条件修復」展のテーマとしてある「どこを/いつを元」にするかという問題に結びつく.支持体が損壊しているバージョンでは,2Dの石はディプレイに表示されていて,そのディプレイが物理的に破壊されている.そのため,ディプレイは石をほとんど表示できていない.ディプレイの物理的損壊なので,石の画像データはディプレイまでは正常に伝えられている.にもかかわらず,それはもう石としては認識できなくなっている.この損傷の激しさはこの石だけが木や紙もしくは金属といったモノにプリントされることがないから起こると考えられる.ここでの「石」は画像データとしてピクセルに伝えられる情報としては損壊ない状態で確かに存在しているのであるが,その発現が物理的に損壊されている状態にあるのである.プリントという行為から離れた「石」ではイメージと支持体の問題が,情報と物質の問題に変わっている.

撮影:永田康祐
《石の上に木を落とす/木の上に石を落とす》は,タイトル文字通りのことが2つのディスプレイに映されている映像作品である.映像は「石」と「木」が白い空間のなかに置かれている状態からはじまる.映像はしばらくのあいだ全く変化しない.突然,石/木の上に木/石が落ちてくる.そのとき,石は木によって「クニャ」と凹み,木は石によって「バラバラ」にされるという,石と木とがそれぞれ現実ではありえない状態になる.この作品を繰り返し見みていると,永田のディスプレイの作品とそれ以外のモノの作品の感触のちがいが感じられてくる.ディスプレイでの作品は映像作品ということになるだろうけど,とてもモノ的な感触を受けるものである.しかし,それはやはり《4つのオブジェクトによるコンポジション》と同じような感触とはどこかちがうものである.ディスプレイ=映像ということが影響していることは確かで,それは言うまでもないことなのけれど,そこをあえて言った上でディスプレイに現れるモノの存在を認めるべきだという感触が,《石の上に木を落とす/木の上に石を落とす》にはある.
《石の上に木を落とす/木の上に石を落とす》には重力も設定されており,モノは貫入せずに衝突する.そこには私たちがいる物理世界と同じものが設定されている.しかし,木と石が衝突したときにモノの物性が通常とは異なっていることが判明し,石は石ではなく,木は木でない世界がそこに現れる.それでも,石のテクスチャは石であり,木のテクスチャは木であるから,それらは衝突しはない限りは,石,木として見えているし,衝突したあとも石のようなもの,木のようなものとして見えている.しかし,衝突した瞬間,その世界は石のようでありながら石ではなく,木のようでありながら木ではない存在がある世界が現れる.衝突した瞬間,ディスプレイに映るのはシミュレーションの世界であり,ピクセルの光と論理・計算で構成された「どうにでもなる世界」へとその様相を変える.けれど,映像がシミュレーションによる「どうにでもなる世界」だと判明したあとも,目の前にそれらがあることを否定できない感触があり続ける.それは《裂かれた紙の写真》《4つのオブジェクトによるコンポジション》とは異なる感触ではあるが,石のようなものと木のようなものが確かにそこにある感触だけは残り続けるのである.

撮影:水野勝仁 アニメーション制作:Google
《石の上に木を落とす/木の上に石を落とす》はシミュレーションによって世界が変わるだけで,そこにモノがあることは変わらないことを示しているのではないだろうか.シミュレーションの世界は「どうにでもなる」がゆえに「もう,どっちでもいいよ」とは言えない世界になっていると考えられる.「もう,どっちでもいいよ」というのは,永田も展示していた「マテリアライジング展Ⅲ」での渡邉朋也のエッセイのタイトルである.渡邉はエッセイで次のように書いている.


昨年,「マテリアライジング展Ⅱ」に参加した際に今回同様のエッセイにおいて,情報と物質は互いに不可分であり,もし両者の「あいだ」をつくることができるとしたら,それは自分自身であるという主旨のことを書いた.今でもその思いは変わらないのだが,自分が「もう,どっちでもいいよ」と思った時,不可分なそれらが分離まではしないにせよ,ずれていくような感覚がある.情報がほとんど生起しない物質,固有の物質に依存しない情報,そうしたものが同時に発生しようとするような.


渡邉が記述する世界は物質があり,情報があり,そこに自分がある.そして,その自分が「もう,どっちでもいいよ」と言える世界であり,そう言ったときにも物質と情報はそれぞれの仕方であり続ける.それは「自分」がいなくてもよい世界ではなく,あくまでも自分がその判断を「もう,どっちでもいいよ」と下しても,物質も情報もあり続ける世界である.対して,永田のシミュレーションの世界は「どうにでもなる」世界であるけれど,そこでは「どっちでもいい」と言えない.なぜなら,シミュレーションの世界では,その世界を構成するすべてのパラメーターを決定する必要があるからである.たとえ「もう,どっちでもいいよ」と思いながらでも,パラメーターの値を決定する必要がある.「どうにでもなる」世界では「どうにでもなる」がゆえに,すべてのパラメーターを次々に決めていかなければ世界が画定されないのである.そしてその膨大な決定を引き受けたピクセルが光ることで,見る人に世界が認識される.そして,それを見ているヒトもどっちでもいいとは言えず,どこか態度を決められているような感じがあり,それは認識の半分をディスプレイにもっていかれているような感じがある.永田が判断を下して確定していった「どうにでもなる」世界を見ることで,「もう,どっちでもいいよ」の世界の境界が確定していく.つまり,こちら側の物理世界が改変されて「どうにでもなる」世界に組み込まれていくのである.それは「情報がほとんど生起しない物質,固有の物質に依存しない情報」と言われている情報と物質との関係が「どうにでもなる」パラメーターに置き換えられた世界であり,その世界がディスプレイのピクセルの光とともにある感触を見る人にもたらすのである.そして,その感触を通してディスプレイに映るものはそこに存在しているのである.

ここまで書くと,《石の上に木を落とす/木の上に石を落とす》を見たあとに《4つのオブジェクトによるコンポジション》を見ると,それがシミュレーションの世界からでてきて「どうにでもなる」世界からの派生物のように思えるように,「もう,どっちでもいいよ」の世界が損壊するような感じなったのだが,会場でそういう感触を受けることはなかった.現時点では「どうでもなる」世界はディスプレイを通してしか発現しないものであり,それはディスプレイなしでは「もう,どっちでもいいよ」に介入することはできないのだろう.モノと重力とそれに縛られた私たちの身体がつくる世界もまた強固に画定しているのである.しかし,少しずつ「どうにでもなる」けどそれゆえに決定も多い世界の感触が物理世界に入り込んできていることを,《4つのオブジェクトによるコンポジション》は示している.さらに言えば,「もう,どっちでもいいよ」の世界がどのように画定しているのかは私たちはまだ知らない.その意味では「どうにでもなる」世界の方がその領域を強固に画定しているとも言える.だから,「どうにでもなる」世界を次々と画定していくことで,こちらの「もう,どっちでもいいよ」の世界を画定していけるはずである.そして,その試みのひとつが「無条件修復」展での永田の3つの作品であり,それは世界そのものも修復できることを示すとても興味深い試みなのである.

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