ヒトとコンピュータとのあいだの図式的知覚を精査して,真正的[リテラル]知覚を把握していくこと
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コンピュータを介して出来上がってきているヒトの身体感覚.身体全てはいらない,一部でいい.いや,そこに想像力がはたらくから,一部の方がいいのかもしれない.
J.J.ギブソンの『視覚ワールドの知覚』に,「図式的知覚」と「真正的[literal]知覚」という言葉が出てくる.
5.視覚ワールドをどのように知覚しているかという問題は,ふたつに分けて別々に考えることができる,ひとつは,実質的あるいは空間的な世界の知覚の問題である.もうひとつは,われわれが通常,注意を向ける有用で意義のある知覚である.最初の世界は,色,きめ,面,縁,傾斜,形,隙間の世界である.第2の世界は,われわれがふだん関心をむける馴染み深い世界であり,物,場所,人々,信号,書かれたシンボルの世界である.前者では,程度の差はあれ,われわれが体験する背景は一定であり,姿勢の維持と移動のための支えがある.ところが後者では,そのとき何をしているかによって刻一刻と変わる.意義のあるものを含んだ世界は,一度にすべてに注意を向けるには複雑すぎるので,その知覚は選択的である.ある種の特徴は著しく目立ち,その他の特徴は無視される.この事実のため,われわれの知覚は歪められ,欺かれると言われることがある.この種の知覚を図式的 schematic とよぼう.これに対して,最初に挙げた種類の知覚は真正的 literal とよべるだろう.図式的知覚を完全に理解するに先だって,真正的知覚を理解しなければならない.なぜなら真正的知覚は,すべての体験に対する基本的な印象のレパートリーを提供するからである.(p.12)
今までヒトは図式的にコンピュータを理解しようというか,使いこなそうとしてきたのではないだろうか.なるべく馴染み深い世界をコンピュータに持ち込むという発想,デスクトップ・メタファー.しかし,近頃はコンピュータをより真正的[リテラル]に把握しようという動きがあるように思われる.
先にヒトの身体を一部だけコンピュータに映したほうが,想像力がはたらくからいいのではないかと書いた.けれども,そこでは想像力がはたらいているのではないのかもしれない.ヒトとコンピュータとの関係の中で,上のイメージの「手」の形をしたアイコンまたはカーソルは,ヒトが行為していくために必要な基本的なレパートリーを示しているだけなのかもしれない.想像力以前の,シンボル以前のイメージ.ヒトとコンピュータとのあいだの図式的知覚を精査して,真正的[リテラル]知覚を把握していくこと.これが今のメディアアートで求められていることなのではないだろうか.