エキソニモの《スーパーナチュラル》で感じた不穏さについてのとりあえずのメモ

エキソニモ《SUPERNATURAL》を,「ニュー・ドキュメンタリー」の中で展示されたホンマタカシ《re-construction》と比較する.双方,世界をカット&ペーストしていることでは,変わりがない.作品の中に複数の層が存在する複雑さも同じであろう(平倉圭さんの「ニュー・ドキュメンタリー」展のレヴューから考えた「5層のレイヤー」.ここではエキソニモ《断末魔ウス》だが,《SUPERNATRUAL》も同じように分析ができると思う).しかし,写真で世界を切り取るか,ユーストリームというアプリで世界を切り取るかという,メディアのちがいがある.それは,ヒトが作品の中に取り込まれるかいなかの違い.作品に取り込まれるような想像力云々ではなく,文字通りに作品の中に取り込まれることのちがい.それは前提としている世界の違いかもしれない.

プログラムが世界をカット&ペーストしていることを,当たり前に受け止めて,そこに可能性を見出すこと.

エキソニモの《SUPERNATURAL》で感じた不穏さは,世界がカット&ペーストされていることからくる(エキソニモの作品の「切り貼り」について→「ひとさじの記号論」by ジュディ・アニア)それは,世界のプログラムを改変すること.ただ重要なことは,カット&ペーストで世界のプログラムを改変することを感じられるほど,カット&ペーストが私たちに馴染んでいることである.カット&ペーストで,世界/モノゴトが変わる感覚が,コンピュータを使用するヒトの身体に蓄積している.それゆえに,世界とともにヒトもまた直接的に変化させられる.だから,強く不穏さを感じたのかもしれない.

少しづつ考えていきたい.夏休みの宿題を見つけた感じ.

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