5層のレイヤー

これは,たしかに写真的な経験だ(「それは=かつて=あった」[ロラン・バルト]!).90年代に中高生だった私は目眩を覚える.その目眩は,元の写真面/その上に配される文字面/それを印刷した雑誌誌面/それを再撮影した写真面/それを印刷した《re-construction》の紙面という,5層のレイヤーによって非接触的に距離化され,等質化されている.(P.91)
平倉圭さんのホンマタカシさんの展覧会「ニュー・ドキュメンタリー」のレビューはとても刺激的だった.その中で気になった文章が上のもの.今のニューメディアと呼ばれるものにつながる表現手段のひとつの起源と考えることができる,写真というメディアが作り出す5層ものレイヤー.ホンマタカシさんが作り出し,平倉さんが言語化した「5層のレイヤー」というのは,現在のコンピュータをひとつの軸として作られているメディアアートの作品が作品として成立する状況を示しているのではないか,と私は考える.

で,この上の平倉さんのテキストをエキソニモさんの《断末魔ウス》で受けた私の衝撃をもとに書き換えたのが下のものになります.
これは,たしかに情報美学的な経験だ(「永遠に死なない存在」[エキソニモ]!).90年代からコンピュータに触れ始めた私は目眩を覚える.その目眩は,元の世界/その上に配される情報/それを構成する数学的世界/それを再びメタファーで覆った世界/それを再びリアルに感じる世界という,5層のレイヤーによって非接触的に距離化され,等質化されている.
世界がまずあって,そこに情報というレイヤーができある.それはコンピュータのGUIのディスプレイだと座標データに基づいた数学的世界というか数の世界.それがデスクトップ・メタファーというイメージの世界で覆われていて,それをリアルに感じる.特にカーソルというメタファーではない文字通り(リテラルに)「カーソル」でしかないものにまでリアルを感じるという衝撃.そこには何かに触れているようで,実は何にも触れ得ないような感覚があって.それが「5層のレイヤーによって非接触的に距離化され,等質化されている」ということなのではないか.

でも,触れている.カーソルと繋がっているという感覚がある.それは,カーソルという存在が「5層のレイヤーによって非接触的に距離化され,等質化されている」平面|表面をひょいひょいと行き来しているからかもしれない.それゆえに,カーソルは5つのどの層にも属するような感覚を私たちに与える.そしてこの身軽さから,カーソルはこれまでとは異なるもうひとつの平面|表面に作り出し,そこに属しているのではないかという可能性を,私たちの意識に生じさせている.

今までの5つの層に収まるのではなく,新たな別の層を感じさせるのが,それはとても難しいことだが,メディアアートと呼ばれる作品のこれから果たすべき役割なのだと,私は考えている.

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