スライド:情報美学概論A 第6回|インタラクティヴィティとメタファー:イメージを操作してシンボルを作る

東京藝術大学 芸術情報センター:情報美学概論A
第6回 インタラクティヴィティとメタファー:イメージを操作してシンボルを作る→スライド

第4章 カーソルによる選択行為と「ディスプレイ行為」:マウスとメタファー
(私が書いた博論で「メタファー」について考えた章)

関連するメモ
インタラクティヴィティとメタファーに関するメモ
メモ:インタラクティヴィティとメタファー(2)

参考資料
メタファーの記号論 
メディアアートの教科書
科学と芸術の対話―マルチメディア社会と変容する文化〈02〉
ICC インタヴュー・シリーズ 33:ジェフリー・ショー
電子美術論
ヒューマンインターフェースの発想と展開―人間のためのコンピューター
Designing Interactions
消えゆくコンピュータ (〈叢書〉インターネット社会)
接続された心―インターネット時代のアイデンティティ
身ぶりと言葉
アラン・ケイ (Ascii books)
メタファー関連
レトリックと人生
メタファ-思考 (講談社現代新書)

コメントのコメント
仮想世界における身体感覚というのを,私たちは少しづつ実感しつつあるように思われる.今回の講義で「感覚の蓄積」という言葉を使った.それに対して「感覚の蓄積=ゲーム脳?」というコメントが書いてあった.「ゲーム脳」は悪い意味でも使われることが多いが,ディスプレイ上のイメージに身体全体で反応する回路が脳と身体で作られつつあるとしたらどうだろうか.それはある意味,仮想世界に対する反応であり,物理的には直接的に触れることができない世界に対する反応ではないだろうか.私たちは常日頃,コンピュータを使うようになり,ビデオゲームをするようになっている.そこで起こっていることは,イメージに対して身体的に反応するという,今までの人類の歴史にはなかったことである.私たちは,今まで知らなかった世界にあっという間に慣れてしまっている.それはヒトの脳及び身体感覚がとても可塑的なものであるからだと思う.ヒトは何にでも慣れてしまう.私たちは仮想世界をメタファーで探索しているうちに,その世界の感触を確かめることなく慣れてしまったのではないだろうか.現在のメディアアートはその「慣れ」にちょっとした異化作用を加えようとしている.

メディアアートの講義で「メタファー」を取り上げたのは,私が知りたいのが「メディアアートとは何か?」ということではなくて,コンピュータと対峙したときのヒトのあり方を知りたいからです.ヒトはコンピュータとの関係でどのような存在になっているのか? 「ヒトはヒトを設計したわけではないからよくわからない感じがする」というコメントがあったけれど,そうだと思う.ヒトのことを少しでも知るためには,今までの人文学の知を借りることも必要だと思います.

「まるでアイコンのようなモノ」というが,私たちの周りに現われはじめていると思います.はじめは,私たちの世界をまねて,あるいは今日やった認知意味論のように身体経験に基づいた概念を,ディスプレイのイメージ世界,仮想世界に移していったのが,今では,それが現実世界に「帰って」きている.それはもともと私たちの感覚に基づいていたものではあるが,コンピュータの世界を経由しているという点で,従来の私たちの感覚とはやはりどこか異なっているのではないだろうか.「まるでアイコンのようなモノ」を前にしたときの,私たちの感覚を考えてみる必要がある気がします.

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