小林健太「自動車昆虫論/美とはなにか」のトーク:本当に美だと感じているものに近づくことができるのではないだろうか
小林健太「自動車昆虫論/美とはなにか」のトークを聞いてきた(トークのメモ).小林が低解像度の美学と言っていて,そこに「退屈」という言葉を出していた.小林の「退屈」を,セミトラやエキソニモの千房が書いていた「退屈」との対比.千房はセミトラの本に寄せたテキストで次のように書いていた.
ものを作るという行為は本来「退屈」を減らす行為なのではないか.目の前の美しさに目を奪われれば,退屈は失われていく.しかし,美しさを目前にしながらも退屈を感じてしまう,そんな二重化された感性をもつことによって,構造的に表(スクリーン)と裏(ソースコード/データ)から成り立っているデジタルな世界から現れて来た彼らが,本当に美だと感じているものに近づくことができるのではないだろうか.(p.7)
半透明な記憶から,千房けん輔 『セミトランスペアレント・デザイン』
ディスプレイ(表)とプログラム・コード(裏)とを重ね合わせると「美」と「退屈」とが重なりだす.セミトラの展示はコードの再帰構造をディスプレイ,そして,物理世界に取り出してくるところに退屈さと美をみつけていた(再帰のなかで現われるピクセル感_セミトランスペアレント・デザインの「退屈」展(1)).それはテクノロジーのあたらしさがもつ面白さや美ではなく,コンピュータの特質を物理世界に引っ張り出してきた美であり,退屈さなのだろう.それはどこかヒト以外の論理が働き,理解できないような状況をつくりだしているのであろう.
小林の「退屈」はコンピュータを基準面とした表と裏との重なり合わせででてくるのではなく,「GUI」というディスプレイレベルでの「退屈」となる.トーク相手の山峰潤也(水戸芸術 館現代美術センター 学芸員)が小林のことを「GUIネイティブ」といったように,小林はディスプレイのグリッドシステムに退屈を感じている
では,ソースコードと重なり合うことないディスプレイのグリッドシステムのみの退屈とはなんだろうか.小林は「画像感」と言っていた.ビットマップによる区切られた感覚であり,物質を分割するグリッドシステムに退屈を見出す.けれど,ここで興味深かったのが,小林は文字も分割システムと言っていて,さらに,文字が「あいうえお表」のようにグリッドに配置されていると指摘していたことである.確かに,文字も世界を分割していく.その文字をさらにグリッドシステムに当てはめ,分割する.文字の線形の分割をグリッドシステムに重ね合わせると,理解が促進される.理解が最適化される.このように書くと,小林の退屈は「ヒトの理解が最適化される」ことになるのだろう.小林はグリッドシステムよって最適化されたヒトの理解を壊していく.
小林にとって「構造的に表(スクリーン)と裏(ソースコード/データ)から成り立っているデジタルな世界」から生まれる退屈は美と重なり合ったものではなく,それは単に退屈なものであり,そこを破壊すべきものである.そこには美と重なり合った退屈としてのコンピュータの論理に立つソースコードが操作可能なものとして残されていない.それゆえに,美はディスプレイのグリッドシステムに捕らわれているものになる.低解像度の美学は,まずはその事実を見出すために,グリッド=ピクセルを見つめ,そこに美を見出すか,そのグリッド自体を破壊して,美を解放するしかない.グリッドシステムを徹底的に見つめつづけ,それを破壊することで,あらたな思考が生まれる.そこに来るべき次の美も生じる.
ここで小林と対比させたいのは,ヒトの論理とは別のものとしてコンピュータの論理を物理世界に現出させてきたエキソニモが,新作《A Sunday afternoon》で,ディスプレイそのものを塗りつぶしてしまっていることである.ディスプレイを絵具でフィジカルに塗りつぶしという行為を行って,グリッドシステムを潰している.しかし,ディスプレイを塗りつぶした色はディスプレイのピクセルから採られたものである.ピクセルというグリッドシステムから採られた色が,ヒトの行為を介して,グリッドシステムそのもの潰してしまうのである.さらには,エキソニモはもともとソースコードやデータといった「裏」の部分を操作していたユニットだった.このことから,エキソニモの行為が直接,小林の考えにつながるとは考えられない.しかし,小林とエキソニモはとともに,グリッドシステムやコンピュータという別の論理を経由して,フィジカルな行為に至っていることは考えてみる必要があるだろう.
アラン・ケイは「Doing with Images makes Symbols」というスローガンでもって,GUIの基本を設計していった.エキソニモがシンボルを用いてイメージを操作して,小林がシンボルでつくられたイメージを操作していたとするならば,ここで「Doing=操作」,フィジカルな部分を見つめなければならない.単純にヒトの身体に回帰にするのではなく,グリッドシステムやコンピュータの別の論理で操作可能になっているヒトの身体を介して,グリッドシステムやコンピュータをハックすることが可能かどうかを試さないといけないのである.それは恐らく,ヒトの思考をハックして,今とは異なる回路をつくることを意味する.ヒトとコンピュータとはひとつの回路となって,別の何かに変わる必要があるのかもしれない.