「心」に近い部分で私たちに働きかけるカーソル
Google Chrome の「速い、楽しい。」と題された動画.ここで面白いと思ったのは,Chrome のアイコンも含めてディスプレイ上でブラウザに関係するイメージがすべて木というモノとなっているところ.カーソルも粘土のようなモノで作られている.いつも見ているディスプレイ上のイメージがモノとなって,本物の机の上(デスクトップ)展開されている.そして,アイコンはボタンになっており,ここではクリックするということが,カーソルがボタンを押すことになっている.アイコンはボタン,クリックは押すこととよく結びつけられているけれど,それをそのままストレートにモノで表現しているところが興味深い.
確かにコミカルで面白い動画であるが,なぜわざわざイメージをモノで置き換える必要があったのか.また,「速い、楽しい。」というタイトルを持つこの動画で,実際に「速い」のはブラウザではなくカーソルである.カーソルが速く動こうがブラウザの性能とは全く関係がないではないか.ブラウザの速さを見せるのなら,下の動画の方がそれを上手く表している.時間を圧縮することで,より速さを強調している.時間が圧縮されているため,カーソルも速く動いている.
でも,この動画は味気ない,楽しくない.「楽しい」ということを考えれば,最初の動画の方がそれを伝えている.ここで問題としたいのは,その際に「楽しい」を表しているのが,カーソルということである.この動画上でアイコンやウィンドウ,タブもモノ化しているが,それらの動きはディスプレイ上のイメージを模したものであるに対して,カーソルはイモムシのように動けば,アイコン向かってダイブし,木のウィンドウ上を縦横無尽に動き回り,タブの上でジャンプする.いつもは画面上でいつも左上を指しているだけの←が,これでもかというくらいに好き勝手に動き回っているのだ.
私たちはマウスなどを使って,カーソルを自由に動かす.裏返せば,カーソルは,いつも私たちに動かされている.カーソルは私たちの手の延長して機能しているのではないのか.とすれば,「動かされている」という表現はおかしいかもしれない.手の延長であっても,カーソルは「手」ではなくて,手で持たれたハンマーなどの「道具」に近い,と私は考える.マウスなどが「道具」であって,カーソルはモノとしての実感がないので「道具」と言い難いかもしれない,やはり「道具」だと考えたい.それはモノなのだ.
カーソルはモノであると同時にイメージでもある.それゆえに普通の「道具」とは異なる.私たちの身体はカーソルというイメージによって「動かされている」.私たちはモノにもアフォーダンスという意味で,「動かされている」かもしれないが,それとは異なる仕方で私たちはカーソルに「動かされている」.それは,モノのとしての身体に関係なく,私たちを「動かしている」.心身二元論ではないが,「心」に近い部分でカーソルは私たちを動かしているのではないだろうか.だから,ふたつめの動画においてディスプレイ上のカーソルが私たちの意志とは関係なく動いているときにも,自分が動かしているような感覚を抱いてしまうのだ.
最初の動画にもどると,カーソルはモノとして描かれている.ここでは白い矢印は,ハンマーなどと同じように私たちの身体と切り離し可能な自立したモノである.それを示すかのように,このカーソルはマウスなどとはつながっていない.自立したモノであるから,勝手に動いていても,私たちの身体は反応しない.そして,カーソルが勝手に動くことを受けれてしまうのは,それが「心」に近い部分で私たちに働きかけるイメージだからである.私たちが自由に動く自分を想像できるように,カーソルも動く.だから,カーソルが楽しそうに動くと,私たちも楽しくなってくるのだ.この動画は,カーソルというイメージがモノとして表現されているのだが,それは,私たちにとってカーソルがモノでもあり,イメージでもあることを端的に示しているのだ.