見ているモノは触れているモノか?(3)
例示
カーソルは私たちに何を示しているのか.画面上の←は,自らの位置と指さす方向を私たちに教えてくれる.しかし,よくあることだが,カーソルは何も指していないことがある.その指さすところにアイコンもなく,指さす方向にもなにもなく,ただディスプレイ上にある←.こんなとき,カーソルは全く機能を果たしていないといえるが,私たちはそのことを気にもしない.それは,私たちが画面上のイメージを見るだけでなく,手元でマウスに触れているからである.機能を果たすことなくディスプレイ上を漂っていカーソルは,マウスとつながっていることでいずれ機能を果たす可能性をもったイメージとして受け入れられる.だから,いつか機能するという可能性のもとにあるから,カーソルは常に何か指さしている必要はないのである.カーソルという←は「見る」ことに関する属性だけなく,←と結びついたマウスに「触れる」ことから生じる属性もあるのだ.カーソル:←における「見る」と「触れる」の関係を考えるために,ネルソン・グッドマンの「例示」という概念を参照したい.
ちょうど,洋服屋が見本に使う布切れが色や生地や織りを例示するように(形や寸法はこのかぎりではない).それゆえ表出も例示も,あることと同時になすことの問題であり,属性を所有することおよび属性を指示することの問題である.
世界制作の方法,ネルソン・グッドマン
私は,マウスや他のポインティングデバイスと結びついたディスプレイ上のカーソル:←という記号は「あることと同時になすことの問題」を示していると考える.「ある」ことが「見る」ことと,「なす」ことが「触れる」ことと結びついている.
カーソルの機能を考えるために,カーソルの形を見てみたい.「←」という形は,何かを指さすことやその先を見るように私たちを促す.ここから「←」の形をもつディスプレイ上のイメージであるカーソルに,「指さし」という機能が与えられる.しかし,カーソルは何も指ささないことがある.その形から「指さし」の機能を示しながら,何も指ささないカーソルをディスプレイ上に見て,この「←」は他のことを例示している可能性が出てくる.指すための形をしたカーソルが何も指していないけれど,周りには指させるような記号がある.ここから,この←は動かせるではないかということがでてくる.周りとの関係から,←は新たに「動く」という機能を持つ可能性を示す.ただ描かれただけの←なら,「動く」ことは可能性のままで終わる.しかし,ユーザ・インターフェイスではカーソルはマウスとつながっている.私たちはマウスに触れて,それを持って動かし,←が動くのを見る.そして,カーソルは,その形が示す「指さし」という行為をディスプレイ上で遂行していく.
ディスプレイを見ているだけなら,カーソルは「指さし」と「動く」という機能の可能性を例示しつつだた「ある」だけである.それらの機能は「できるかもしれない」という円環に閉じ込められ,ただ←の形だけがディスプレイ上にある.私たちはマウスに触れることで,この可能性の円環に介入し,カーソルを機能させることができる.←という記号が「ある」ことを見て,カーソルとして機能を「なす」ことをマウスに触れることで実現する.マウスを通して見ている記号に触れることで,←が示す可能性の円環に介入してそれを実際に機能させる.
実際に「動き」,他のイメージを「指さす」カーソルは,動いている中でその形を←から他のものに変える.例えば,突然,←が七色の風車に変わってしまう.見ている記号が変化しても,触れているマウスは変わらずに手元にあるという関係が変わらない.しかし,記号の変化は,私たちの行為を変える.カーソルが七色の風車に変わると,←の形による「指さす」という機能がなくなる.実際,私たちはマウスを通して風車の形をしたカーソルを動かせても,何も指させなくなる.そのために風車が長く回り続けると,私たちはマウスから手を離す.触れることが見ることに介入したように,見ることが触れることに介入してくるのである.カーソルは字義通りの意味で「あることと同時になすこと」を実現している記号なのである.