イメージを介して,モノが「祈る」
エキソニモ《ゴットは、存在する。》
《祈》
《祈》
手を合わせるように,2つのマウスが重ねられていて,Google で「祈り」を画像検索した結果が表示されているディスプレイ上をカーソルが震えるように動いている.マウスという「モノ」が祈るという行為を行っていると,私が認識してしまったこと.それは2つのマウスが手を合わせるように重ねられているということもあるのだけれど,ディスプレイ上のカーソルの動きを見たときに,何かを切実に「祈る」という行為がここでは確実に行われていると思ってしまったのだ.ディスプレイ上のカーソルの動きによって,マウスの重ね合わせの形により確かな意味が与えられた.「祈る」という人間に特有な行為と考えられているものが,マウスというモノとカーソルというイメージとの組合せによって行われている.そして,それを「祈り」だと考えて作品にするエキソニモというアーティストが存在し,それを見てまさに「祈り」だと考える私や,その他の多くの人がいるということ.チューリングテストではないけれど,ここでは人間の行為が,私たちにとって当たり前の存在となったコンピュータ,それを使うためのマウスとカーソルによって行われている.「祈る」行為にもはや人間もコンピュータもないのだと考えた.イメージを介して,モノが「祈る」ことができるのだ.
東京都現代美術館のサイバーアーツジャパンでも,エキソニモは《祈》の別バーションを展示していた.ここでは,マウスではなくキーボードのスペースキーの上にアルスエレクトロニカのゴールデン・ニカ像が置かれている.ディスプレイ上は,Google 日本語入力によって「かみ」が,スペースキーに像が置かれているために,延々と変換されている.Google が私たちのキー入力からのデータから算出した「かみ」の変換は,私たちの意思でもあるけれど,それをまとめているのは大きなデータの流れをまとめる Google であり,その変換を延々と繰り返すしているのは,ここではゴールデン・ニカ像というモノである.私たちは変換のためのデータを提供し続けているが,この作品の中では人間は必要ではない.Google というデータをとりまとめ,それをイメージとしてディスプレイに提示する存在と,キーボードのスペースキーに圧力を加えるモノさえあればいいのである.ここでも,データの流れの中で生じるイメージを介して,モノが「祈る」のだ.
人間ではなく,モノが「祈る」こと.人間を排除しているとかではなくて,ここでは単にモノが「祈る」.これから人間は今まで自分たちしかできなかったと思っていた行為を,コンピュータが生み出すイメージとそれに結びついたモノによってやられていくだろう.でも,「それでいいのだ」ということをエキソニモの作品からは感じるのだ.人間はもはや特別な存在でなく,イメージとモノと等価な存在となるのだ.