マウスとカーソル:カーソルによる選択行為
コンピュータのディスプレイで表現されている世界は,現実の世界ではないという単純な事実を考えなければならない.そこは,もともと,コンピュータが複雑な論理計算を瞬時に行って表示しているものにすぎない論理の世界であったはずである.そして,論理の世界は,ヒトの身体を排除しているものとして,レイコフとジョンソンが批判したものである.4-21) この事実は,コンピュータによって作り出されるディスプレイ世界には,元来,メタファーの基盤となるヒトの身体が存在していなかったことを示しているのではないか.
しかし,レイコフとジョンソン,楠見,久保田の説明では,コンピュータの論理の世界に,いつ,どのようにして,私たちの身体が入り込んでいったのかということは考えられていない.ここから,ヒトの身体が,コンピュータとのコミュニケーションに入り込んでいくプロセスを詳しくみていく必要がでてくる.そして,そこには論理の世界にメタファーが立ち上がっていく様を捉えるという興味深い問題がでてくるはずである.
メタファー形成の基盤となるイメージ・スキーマは,基本レベルの行為の繰り返しによって生じるものであるから,身体経験の基本レベルとコンピュータとの関係から考察していかなければならない.よって,私たちが,デスクトップ・メタファーについて,はじめに考えるべきことは,このメタファーが生み出される前に,ヒトの身体経験がその基本レベルで.コンピュータの論理世界に何らかのかたちで入り込んでいたのではないか,ということになる.この問題への手がかりを,シェリー・タークルは与えてくれる.彼女は,デスクトップ・メタファーを一般化したマッキントッシュのインターフェイスについて,次のように書いている.
マッキントッシュのインターフェイス──実際はその画面──は,実物の机をシミュレートしている.私のアップルⅡの CP/M システム4-22) のような,論理的コマンドで操作される論理的インターフェイスではなく,たとえ二次元とはいえ,ヴァーチャル・リアリティだったのだ.この世界では,空間を進むのと同じように情報の中を進む.実際,マウスを手にして平面上で動かせば,その物理的な動きが,通常は矢印か指の形である指示アイコンによって,画面に反映されるのがわかるだろう.4-23)
このタークルの記述には,「論理的コマンドで操作される論理的インターフェイス」と「ヴァーチャル・リアリティ」という対立がある.論理の世界は,ヒトの身体を排除するのに対して,「ヴァーチャル・リアリティ」は,ヒトの身体を取り込むことで成立する世界である.だからこそ,私たちはその中で「空間を進むのと同じように情報の中を進む」ことができるようになる.そして,論理的に構成された情報に空間の属性を重ね合わせ,私たちの身体が自由に動き回ることが可能になっていることを,私たちは自分が手にしているマウスによって,画面上のカーソルを動かすことで理解できるとタークルは指摘している.このことは,マウスという入力デバイスが,論理的インターフェイスにヒトの身体を取り囲む空間を重ね合わせ,ヒトの身体経験の基本レベルをコンピュータに持ち込んだことを示唆している.
マウスは,手元を見ることなく,ディスプレイ上のイメージを選択するために開発された入力デバイスである.このデバイスが示す身体経験とは何かを考えたい.そこで注目したいのが,マウスを使用するときに,私たちは操作している自分の手を見ることがないということである,マウスは,選択行為のための道具であるにもかかわらず,それを動かす手を見ていては,ディスプレイ上のイメージを選択することができない.何かを選択するということは,それを見て場所を確認し,人さし指や細長い棒なりをその方向に向ける行為を伴っていたので,選択するものを指示する手が視界に入ってくるものであった.しかし,マウスでは,選択するために手は動かしながらも,目はディスプレイに向けられ,マウスと連動して動くカーソルを見続ける.
久保田は,マウスとカーソルの連動が,コンピュータ・インターフェイスを現在のような形にしたとして,「マウスというインターフェイスは,常にその分身である,マウス・カーソルを見ながら操作することを,ユーザーに強いる.そのことは,現在のコンピュータの GUI の主流である,デスクトップ・インターフェイスという視覚指向型のインターフェイスのデザインと密接に結びついている」4-24) と指摘する.そして,マウスとカーソルによって,私たちがディスプレイを一本の指で触れている状態になっていることが,インターフェイス・デザインの可能性を制約していると,久保田は批判している.4-25)
このとき,久保田が,マウスを「二次元的な位置情報センサー」+「1から3つのキー」4-26) として抽象化し,機能だけを取り上げていることに注目したい.マウスに求められている機能は,ディスプレイ上のイメージの選択であるから,位置情報を獲得するセンサーと選択を確定するためのボタンさえあればいいのだが,マウスは「ねずみ」というその名称が示すように特徴的な形態(図4-2)をもつことを忘れてはならない.
図4-2 1987年にマイクロソフトが発表したマウス.
棒状せっけんに似ていたので,一般に「Dove bar」と呼ばれる.
誰が,石けんと同じくらいの大きさで,扱いにくいプラスチックの小さな塊を,何かを指さしたり,操作したり,描いたりするために選ぶのであろうか.私たちは,多くの時間をかけて,鉛筆やペン,ブラシで書くことや,描くことを学んできた.そして,鉛筆をよく削って繊細な形を描き,細かい文字を書いてきた.これらのことを,マウスで行うのは簡単ではない.4-27)
このビル・モグリッジの言葉は,久保田が見逃しているマウスの形態が,私たちに大きな影響を与えていることを示している.久保田は,なぜ,マウスを機能へと抽象化して捉えたのだろうか.それは,マウスと,ディスプレイ上のカーソルを,ひとつのセットとして考えているからだといえる.コンピュータを操作しているときに,私たちの意識は主にディスプレイに向けられるために,自然とカーソルに集中するようになり,それを動かしているマウスへの関心は薄くなっていくといえる.それゆえに,マウスの具体的な形は忘れられ,それは機能へと抽象化されていく.つまり,久保田は,ディスプレイ上のカーソルに見ることに引きつけられて,それを動かすマウスの形やそれを動かしている手を忘れてしまっている.だが,久保田がディスプレイに引きつけられてマウスを握る手を忘れているのと同様に,モグリッジは,マウスに引きつけられてディスプレイ上のカーソルを見る目を忘れてしまっている.マウスは,ペンのように単体で機能せずに,ディスプレイ上のカーソルとセットで機能することを忘れてはならない.
マウスを考える上で重要なことは,手と目が分離しながらも繋がっているということである.この特徴から,この入力デバイスとコンピュータとの間に発生する身体経験を考察する必要がある.
マウスを一般化したマッキントッシュの開発に関わったジェフ・ラスキンは,はじめてマウスを使った女性が,それを持ち上げる例をあげて,マウスの使用方法は,それを一目見て生じる「想像によって得られる直観や自然さには直結していない」4-28) と指摘する.また,メディアアーティストの藤幡正樹も,次のように記している.
(マウスの)発明の要点は,ディスプレイ画面の特定の位置を指し示すのに,直接にディスプレイに触れるような絶対的な位置関係を使わずとも,間接的に相対的な位置関係の指示だけで,それを実現したことである.実際には,対応であって,同一化ではなく,画面とポインターの位置が,人間側に同一化の幻想を作るための装置として使われている.この幻想がユーザーの中で作り出されるまでには若干の時間がかかる.かつてのいわゆるパソコン講習会で,「マウスを上に上げて,メニューを開いてください」と講師に指示されて,本当にマウスを机から持ち上げた年配の講習者がいたという.人間の物への認知の過程をこうしたインターフェイスが揺さぶっていることがわかる.4-29)
ラスキンと藤幡の指摘するように,マウスの形態は一目見ただけでは,それをどのように機能させるのかがわからないことである,さらに,藤幡は,マウスを使うには,同一化の幻想を作り上げなければならないとしている.彼らのマウスへの考察は,久保田とモグリッジの関係を示すと考えられる.なぜなら,藤幡,ラスキンの指摘は,久保田が注目したマウスがディスプレイ上のイメージを指さす選択行為を遂行するために持っている機能と,モグリッジが指摘したマウスの形態とが結びついていないことを明らかにするからである.それゆえに,久保田は機能,モグリッジは形態のみに着目することなったのである.
藤幡とラスキンの例はともに,マウスの形態は「持ち上げる」という行為をアフォードすることを示している.このことは,ディスプレイ上のイメージを選択する道具にとって重要な感覚は「掴んで動かす(grasps and moves)」だとする,マウスの開発者であるダグラス・エンゲルバートの考え4-30)を,マウスが体現していたことを示している.ここでのアフォーダンスは,コンピュータ・インターフェイスの研究で知られる認知学者のドナルド・ノーマンが「物をどう取り扱ったらよいかについての強力な手がかり」4-31) と言う意味で用いている.ノーマンの考えでは,道具に対して私たちが行う行為は,道具が示すアフォーダンスに従うものとされる.
しかし,ラスキンと藤幡の例は,形態が示すアフォーダンスにそのまま従ってしまっては,私たちがマウスを使うことができないこともまた教えてくれる.マウスを,掴んで,そのまま持ち上げてしまったら,私たちは,ディスプレイ上のカーソルを動かして,対象を選択することができない.手元を見ることに集中することなく,ヒトに掴むことを要求するには,一目見ただけで掴むことをアフォードする形態でなくてはならないが,そのまま,そのアフォーダンスに従っては,マウスは機能しない.私たちは,マウスの形態が示すアフォーダンスに従いながらも,マウスをディスプレイ上のカーソルとの関係の中で使わなければならない.
ここで,マウスというディスプレイ上のカーソルとの関係をもつ道具を使うことを考えるために,アフォーダンスに対して独自のアプローチをする哲学者,ルース・ギャレット・ミリカンを参照したい.ミリカンは,アフォーダンスに対して,「決定的に重要な問いは,アフォーダンスを知覚することのうちに,そのアフォーダンスに従うことによって到達する最終の状態を表象することも含まれているのかどうかということである」4-32) として,最終の状態は,アフォーダンスによっては表象されないというのがミリカンの考えである.ここで,マウスを使用するということを,ミリカンの考えから,改めて考察していく.
まず,マウスを使用するために考えなければならない最も重要なことは,ディスプレイ上のカーソルとの連動である.だが,マウスの形態には,この連動をアフォードするものはない.その形態が示すのは,「掴む」ということであるから,マウスだけを見て,行為を遂行すると,それを持ち上げてしまうということが起こっても仕方がない.マウスを使うには,私たちは,マウスが示す「掴む」というアフォーダンスに従いつつも,その外部にあるディスプレイにも関心を向けなければならない.ディスプレイ上のアイコンやカーソルなどのイメージは,「見る」ことを,私たちにアフォードする.マウスの「掴む」と,ディスプレイの「見る」ことは,それぞれのアフォーダンスに従っているだけでは機能は,このふたつのデバイスが属するシステムの機能を果たすことはできない.マウスとディスプレイを組み合わせて使用するという最終の状態を,私たちが思い描けたとき,その表象のもと,マウスを使うことができるようになるといえる.このとき,私たちは,マウスの「掴む」というアフォーダンスに従いつつも,最終的には,その関係から離れ,ディスプレイ上のカーソルを含めた一連のイメージとの間に,関係を持つようになる.コンピュータを使用するために思い描いた最終の表象をもとに,マウスから,ディスプレイ上のイメージへと,アフォーダンスを知覚する対象を切り替えるのである.4-33)
さらに,「アフォーダンスの知覚において,目標が知覚されている,あるいは思考的に表象されていると言えるような意味での「目標」は,場所だけである」4-34) という.ミリカンの指摘は,マウスから,ディスプレイへと関係を移した際に,私たちの行為が,直接的にアフォーダンスに従っていることを示す.なぜなら,私たちがディスプレイ上で行うことは,目標としてのアイコンが示す場所にカーソルを動かしていくという,場所を指さす行為だからである.このときは,アフォーダンスが,最終的な表象と直接的に結びついている.
このアフォーダンスの直接性に引きずられて,久保田は手を忘れ,目に集中してしていったといえる.私たちは,ディスプレイが示すアフォーダンスの直接性を確認した上で,モグリッジが注目したマウスの形態という手の部分に戻ることで,藤幡が指摘したマウスによる認知への揺さぶりを,より明確に理解することができると考える.
ティエリー・バーディニが指摘するように,マウスは,プラニメーターというよく知られている工学的原理に基づいているため,画面上のカーソルを制御するには,ホイールを入れる空間が必要であった.4-35) その結果,私たちが現在使っているような手全体で掴むことを必要とする形になった.しかし,80年代半ばに,スチュワート・カードは,マウスのメカニズムが機械式から光学式になり,従来の形態を踏襲する必要がなくなったので,新しいコンセプトに基づいた様々な形態の「マウス」のデザインを行っている.そこでは,指を中心にしたペン型や,オーディオのボリュームのような形態(図4-3)が試された.4-36) カードの試みにかかわらず,マウスは,形態においては,エンゲルバートとイングリッシュが開発したものとほぼ同じままである.
図4-3 スチュワート・カードのデザインによるペンマウスとパックマウス
このように考えると,マウスはその形態にこそ大きな意味を持っていることがみえてくる.ダイアン・ホッジスとケンイチ・アカギは,人間工学的にマウスを考察した中で,ヒトは,マウスの一方の側面に4本の指,その反対の側面に親指を添えて,掴むようにもつことを観察実験から明らかにしている.4-37) さらに,アンケートから,マウスに求められているものが「掴みやすさ」であることを示している.4-38) ホッジスとアカギの指摘から,マウスで重要なのは,それを手全体で掴んで動かす身体感覚だと考えることができる.
このことから,マウスを使用する感覚は,鉛筆で絵を描いたり,文字を書いたりするときとは異なるものになる.この違いを明確にするために,古生物学の観点からヒトの行為を考察し,「道具は動作をめぐってしか存在しない.ふつうそれには,動作をめぐる意味ぶかい痕跡があるので,動作のよい証人になる」4-39) と書く,アンドレ・ルロワ=グーランを参照したい.なぜなら,行為が示す身体感覚の意味を考えるために,ヒトの行為の歴史を振り返る必要があると考えるからである.そして,ここで確認したいのは,マウスを掴むように持っているときの感覚が,私たちの身体にとってどのような意味を持っているのかである.ルロワ=グーランは,手に特有な行為を「爪がもっている傷つける働き」,「指と掌による把握動作」,「指相互による把握動作」とに分類して,4-40) 手の行為の歴史を次のようにまとめている.
霊長類から人間にいたるまで,把握作業の性質が変わっているわけではい.ただ目的が多様化し,遂行のしかたが繊細になっていくのである.ものを把握する,こねたりものを受けるのに手を使うという,指・掌による動作は,手だけによる技術には,あいかわらず基本的であるが,霊長類においては,皮剥ぎ皮むきを可能にしている指相互の動作が,糸つむぎのような巧妙な動作を要する技術の場合にいちじるしい重要性をおびることになる.4-41)
この分類から考えると,マウスは何かを手全体で掴むという基本的な「指と掌による把握動作」,ペンはより洗練された「指相互による把握動作」によって操作される道具と位置づけることができる.だから,より洗練された「指相互による把握動作」を伴うペンで行う作業を,マウスで行うことは難しいのは,ヒトを含めた生物の手がたどってきた行為の歴史からみても必然だといえる.ペンではなく,マウスを使用することは,手の行為の歴史からみれば,以前からあったより古い行為に属する手のはたらきを用いていることになる.よって,マウスは,「指と掌による把握動作」という基本レベルの手の行為が示す,特定の行為のために洗練される以前の原初的な手と道具の関係がもっていた感覚をコンピュータに持ち込んだといえる.そして,マウスが「指と掌による把握動作」というより基本的な手の行為に基づいているからこそ,ディスプレイ上のカーソルを動かすために必要な行為が,ものを握って動かすという誰でもすぐにできる簡単なものになっていることは強調すべき点である.それゆえに,ほんの少しマウスを使うだけで,ディスプレイ上の上のカーソルと,それを動かす手の位置が離れていることは克服されるといえる.
ディスプレイ上のイメージに目を向けている間も,手全体でものを掴むという感覚は,マウスを操作している限り,常に手とマウスの接触面から生じている.しかし,私たちは,この接触の感覚が生じているところを,あまり見ることがない.マウスは出来るだけ,ディスプレイを見続けながら作業を行うために開発された道具だからである.それゆえに,手とマウスの接触による「掴む」という身体感覚は前面に出てはこない.私たちは見続けているディスプレイ上のイメージに,アフォーダンスの知覚を求めるようになり,指さしによる選択行為を行う.つまり,マウスを掴む,動かすというアフォーダンスを達成した後,この経験を退けて,新しいアフォーダンスをディスプレイ上のイメージに求めるようになる.このことは,私たちが,原初的な手の感覚を持ちながら,ディスプレイ上のイメージに新たなアフォーダンスを知覚することを意味する.マウスとディスプレイ上のカーソル,アイコンの間で,アフォーダンスが受け渡される.その結果,「掴む」という原初的な行為と「指さし」というアフォーダンスの直接的な知覚に基づく行為が結びつけられた選択行為が生じる.
マウスが示す認知の揺さぶりは,カーソルによる選択行為を遂行するために必要な行為が,手の原初的な行為とアフォーダンスの直接的な知覚に基づく行為であったために,私たちの身体がどちらに従えばよいのかわからなくなったことに起因していると考えられる.しかし,私たちは,アフォーダンスを受け渡すことを身につけることによって,この認知の揺さぶりを容易に克服することができるのである.
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4-21)
4-22)
CP/M(Control Program for Microcomputer,シーピーエム)は,パソコン用のシングルユーザ・シングルタスクのオペレーティングシステム (OS) である.デジタルリサーチ(Digital Research Inc.,業者ゲイリー・キルドール)によって開発された.出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
4-23)
4-24)
4-25)
同上書,pp.46-47
4-26)
同上書,pp.45-46
4-27)
図4-2
Ibid., p.114
4-28)
4-29)
藤幡正樹,「メディア・アートの未踏領域」インターコミュニケーション,Vol.14, No.1,NTT出版,2005,p.116
4-30)
William K. English, Douglas C. Engelbart and Melvyn L. Berman, `Display-Selection Techniques for Text Manipulation’, IEEE Transactions on Human Factors in Electronics, Vol.HFE-8, No.1, 1967, p.14
4-31)
4-32)
4-33)
同上書,pp.226-227
4-34)
同上書,pp.268-269
4-35)
4-36)
Moggridge (2006), p.45
図4-3
Ibid., p.45
4-37)
Diane Hodes, D. & Kenichi Akagi, K.`Study, Development, and Design of a Mouse`, Proceedings of the Human Factors Society:30th the annual meeting, 1986, p.900
4-38)
Ibid., p.903
4-39)
4-40)
同上書,p.235
4-41)
同上書,pp.236-237