MASSAGE連載02_「光の明滅」というディスプレイの原型的性質 リンクを取得 Facebook × Pinterest メール 5/18/2016 MASSAGEでの連載「モノとディスプレイとの重なり」の第二回「「光の明滅」というディスプレイの原型的性質」が公開されました. 渡邉朋也さんの《画面のプロパティ》を,gnckさんのテキストを経由して考えつつ,たかくらかずきさんによってtoggetterにまとめられた「メディウム・スペシフィシティを巡って」を参照して,ディスプレイで光が明滅していることについて書きました. 今回のテキストは書き進めて,修正を重ねていくなかで,谷口暁彦さんが作成してくれたイメージのように,自分がディスプレイとともに荒野に投げ出された感じがあります. 次回もがんばります😊 リンクを取得 Facebook × Pinterest メール
【2023~2024 私のこの3点】を書きました.あと,期間を確認しないで期間外の3点を選んで書いてしまったテキストもあるよ 12/18/2024 美術評論家連盟 会報24号の 【2023~2024 私のこの3点】に,「宮下恵太|わたしたちの光、おおらかなしるし」,Apple Pencil Proの「影」,藤倉麻子「Sunlight Announcements / 日当たりの予告群」をあげて,短い文章を書きました🩻 https://critique.aicajapan.com/7886 3つを選ぶときに選んでいい期間を間違えて,以下の3つについても短文を書いたので,ここに載せておきます. 新津保建秀展「消え入りそうなほど 細かくて 微妙な」 MIZUMA ART GALLERY 2023年4月19日 → 2023年5月20日 新津保建秀の写真は目の前の景色だけではなく,撮影者の新津保の,そして,その写真を見る人の認知プロセスをも一瞬止めてしまうような感じがある.私の認知プロセスが止まると同時に,そこに写っている景色の時間が止まる.結果,「写真が時を止めた」と感じる. エキソニモ「On Memory」 WAITINGROOM 2023年7月5日 → 2023年8月6日 この個展は記憶・メモリをテーマにしたもので,撮影禁止だった.記憶は消失もするけど,改変されながらも,残り続ける.「On Memory」に関する私の記憶がテキストデータになって,メモリに記録される.さらに,書くたびに改変される私の記憶を誰かが読んで.別の記憶が生じることを願って,この文章を書いていてる. 余宮飛翔「Mask」 PHOTO GALLERY FLOW NAGOYA 2024年10月5日 → 2024年10月27日 Photoshopでつくられた凸凹のない平面を囲む額縁の凹凸とが私の意識で組み合わされて,瞼を閉じると,作品平面と展示空間とが私の意識に現れる空間においてスムーズにつながり,互いに置き換わることも可能かもしれないと感じさせる状況が,とても新鮮で驚きだった. 続きを読む
マジック・メモ:行為=痕跡=イメージの解体可能性 1/03/2010 フロイトは,自らの記憶と知覚のメカニズムに関する仮説のために,当時,売り出されていた玩具である,マジック・メモという装置を取りあげた.その理由は,この装置のイメージを表示する表面が,「いつでも新たな受け入れ能力を提供すると同時に,記録したメモの持続的な痕跡を維持するという二つの能力を備えている」2-11) からであった.フロイトは,「情報を無限に受け入れる能力と,持続的な痕跡の保存は,互いに排除しあう特性」2-12) と考えていたが,マジック・メモは,その相反する能力を同時に実現する装置であり,その構造は,次のように記されている. このマジック・メモは,暗褐色の合成樹脂あるいはワックスのボードに,厚紙の縁をつけたものである.ボードの上を一枚の透明なカバー・シートが覆っていて,その上端がボードに固定されている.このカバー・シートは,固定されている部分を除いて,ボードから離れている.この小さな装置でもっとも興味深いのは,このカバー・シートの部分である.このカバー・シートは二枚のシートで構成され,シートは二カ所の末端部分を除くと,互いに離すことができる.上のシートは透明なセルロイドである.下のシートは半透明の薄いパラフィン紙である.この装置を使用しない時にはパラフィン紙の下の面は,ワックス・ボードの上の表面に軽く粘着している.2-13) ここから,マジック・メモについてわかることは,大きく分けて,ワックス・ボードとカバー・シートという二つの部分から,この装置が構成されているということである.そして,カバー・シートは,透明なセルロイドの層と半透明の薄いパラフィン紙から構成されているので,全体としては,三層構造の装置ということになる.フロイトは,次に,この装置を使用するプロセスを詳細に述べている. このマジック・メモを使う際には,ボードを覆ったカバー・シートのセルロイドのシートの部分にメモを書く.そのためには鉛筆もチョークも不要である.受け入れ表面の上になにか物質を沈着させて記録を残すのではないからである.マジック・メモは,古代において粘土板や鑞盤に記録したのと同じ方式を採用しているのであり,尖筆のようなもので表面を引っ掻くと,表面がへこみ,これが「記録」となるのである.マジック・メモではこの引っ掻く動作は直接行われるのではなく,ボードを覆った二枚のシートを介して行われる... 続きを読む
インスタグラムの設定にある「元の写真を保存」について 8/03/2013 インスタグラム の設定にある「元の写真を保存」,英語だと「Save Original Photos」という項目が気になる.デフォルトだと「オン」になっているので撮影した写真にフィルターをかけたものと「元の写真」が残ることになる.「オフ」にするとフィルターをかけた写真しか残らない.設定で「オリジナル」が消去される.ここには「オリジナル」という言葉が「軽く」扱われるというか,それが「設定」のひとつの項目になったんだという感じがある. http://en.wikipedia.org/wiki/File:Instagram_versione_(santa_fiora,_peschiera).jpg 「オリジナル」は消去されるが,フィルターをかけた写真は残る.オリジナルが消えているのだから,フィルターをかけたものが「オリジナル」となるのだろうか? 「オリジナル」かどうかというよりも,「インスタグラムらしさ」ということが重要なのかもしれない. この前のトークで ,ラファエル・ローゼンダールがウェブ上の自分の作品に「これがオリジナル!」という意味では「オリジナルはない」ということを言っていたが,インスタグラムという代表的な写真アプリの設定項目を見てみても,ポスト・インターネットという状況では「オリジナル」という言葉を取り巻く環境が変化していることは間違いない. 続きを読む
映像から離れていっている 12/25/2011 大名古屋電脳博覧会 に行って, 伊藤明倫さん の《波打つ大地,吹き抜ける瞬き》を見てきた.これは伊藤さんが去年の同じ時期に同じ場所で展示した作品 《瞬きの中,瞬きの外》 と同じ原理を作った作品です.今回の作品へのTextから引用します. 作品へのText1 このインスタレーション作品は,モニターの映像が Fade In, Out することによって生じる明るさの明滅が照明代わりになり,壁に貼られた写真作品を見ることができる,それらの空間的要素すべてを含めた作品となっています. このような構造になっていることから考えられるのは,発光体で光るモニターによって,反射光としてしか認知できない写真が表層してくるという入り組んだ構造である事と,モニターは映像を見せる為に光るのであり,それが照明として機能してしまうことは副次的,もしくは本来意図していない現象であるということなどが上げられます. 展示室に入ると,暗い.その先に,液晶ディスプレイが2台.見る人に背面を見せて,向こう側の壁に向かって光を放っている.光は一定ではなく,不規則に明滅している.明滅する光によって,壁に張られている写真が見える.鳥の写真.ディスプレイと向かい合っている壁,その両脇の壁にも鳥の写真が貼られている.明滅する光の中で写真を見る. 部屋に光を生み出しているディスプレイの黒い背面を見つめる.この黒い物体の壁に面している平面は発光している.黒い物体から発光する光.それが何を示しているのかは,後ろからでは分からない.ただ光っている.それはただの光でしかない.それが写真を見えるようにして,そこに鳥が写っていることを示していくれる.回りこんでディスプレイに発光する面を見てみる.水面が映っている.波が映っている.波が太陽の光を反射している.もしくは光る波.反射光をカメラが捉え,ディスプレイは自ら発光する. この作品をしばらく見ていると,そこにはただの光があると思えた.ディスプレイという「何か」を表示する装置だけれども,そして実際に波を映しているのだけれども,背面から見ていると,そこにはただの光しかない.光の明滅しかない.2011年3月11日から9ヶ月たった今でも,波は津波を意識させる.波でなくても,水を使うことは... 続きを読む
出張報告書_20150212−0215 あるいは,アスキーアート写経について 2/18/2016 12日は六本木の東京ミッドタウン・デザインハブに行き「 デジタルメディアと日本のグラフィックデザイン その過去と未来 」を見た.展示は「現在までのデジタルメディアとグラフィックデザインの関係を,プレデジタルメディアの時代(70年代以前),CGの時代(80年代),マルチメディアの時代(90年代),ウェブ広告の時代(00年代)に分け,コンピュータを道具ではなく環境として、あるいは素材として制作された先駆的な作品を集め」たものであった.展示方法で興味深かったのは,記録映像や紙媒体での展示ではなく,発表当時のコンピュータを使って作品が体験できるようになっていたことである.また,各時代のキーパーソンのインタビューも行われていて,その映像も視聴できた.時間の都合で,CGの時代の藤幡正樹,ウェブ広告の時代の田中良治のインタビューしか視聴することができなかったが,コンピュータとともに表現の領域を切り開いてきたふたりの言葉はとても示唆に満ちたものであった.藤幡がコンピュータのアルゴリズムに美を見つけていたのに対して,田中はコンピュータをインターネットにつなぐための道具と見なしていた.このコンピュータに対する感覚のちがい,それはまたインターネットという環境に対するちがいでもあるものは,とても興味深いものであった. 13日は午前中に六本木の国立新美術館に「 第19回メディア芸術祭 」を見に行った.アート部門の大賞作品はCHUNG Waiching Bryanによる《 50 . Shades of Grey 》で,これは様々なプログラミング言語で50段階の灰色のグラデーションの画像を制作したものである.ここでのメインは50段階の灰色のグラデーションの画像ではなく,それを生み出すプログラミン言語である.同一画像であっても,プログラミン言語によってその記述方法は全く異なる.全く異なる記述から同一の画像が生みだされるのも興味深いことであったけれど,この作品の展示で一番興味があったのは額装された6つの「プログラミン言語」の横にそれぞれつけられた作者の「思い出」である.そこにはそれぞれのプログラミン言語に対して,CHUNG Waiching Bryanがいつ,どのようにそれを学んだのか,その言語を最後に使ったのはいつかなどが書かれていた.私はほとんどのプログラミン言語を理解することはできなかった... 続きを読む
「グリッチワークショップ」を見学して考えたこと 8/22/2011 東京藝術大学 芸術情報センター で8月20・21日に開催された公開講座「 グリッチワークショップ 」を見学しました. 「データを壊す」ってどういうことなんだろうと疑問から見学させてもらったのですが,とても興味深い内容でした. ucnv さん, 林洋介さんによるグリッジの技術的な講義と 針谷周作 さんによるグリッチの歴史とその可能性を示す講義といった,グリッチをめぐる技術と概念を端的に学べました.ワークショップ参加者は,技術を学んだあとに,グループごとに作品作りをしていたので,単に見学していた私よりもはるかに深く「グリッチ」のことを理解できたのではないかと思います.制作には参加しませんでしたが,私自身もこれから自分がメディアアートを考える上で役に立つような「グリッチ」という概念を得たような気がします. ここからはワークショップに参加した私の個人的な感想です. ucnv さんがグリッチの定義として「データは壊れているけれども再生できる」と言われていて,ここでの「壊れている」って何だろうと思いました. バイナリエディタで画像ファイルを開くと,その画像を構成しているデータが文字と数字ででてきて,この時点で自分的にはファイルが「壊れている」と感じてしまうわけですが,それは,画像を構成するデータの別の見え方であるわけです.「攻殻機動隊」や「マトリックス」で,緑の文字・数字が画面を覆い尽くすことのイメージや,概念では画像データを文字・数字で示すことは知っていても,バイナリエディタで画像ファイルを開くだけで,それが文字・数字ででてくると,やはりそれまでとは違って,やはりそうだったのかということを感じます.その文字・数字を適当なところで消したり,コピペなどで編集,保存して,その画像ファイルを画像として開くと,画像が変な感じになっている.バイナリエディタでやっていることは,自分の感覚からいうと「編集」という行為ですが,その結果生じた画像は「壊れた」と感じる.「編集」から「破壊」が生じるという変な感覚です.さらに,コンピュータにとっては別にそのデータが「壊れている」というわけではなくて,それをデータ通りに画像として表示しているわけです. 元画像 バイナリエディタで編集 (ちょっとした)グリッチ画像 コンピュータはデータは壊れ... 続きを読む
画面分割と認知に関するメモ 2/05/2011 画面分割についてのスライドを作っていて,アメリカのドラマ「24」が初期のころはよく画面分割を使って緊迫感をだしていたのに,その手法が徐々に使われなくなっていたことを Wikipedia で知る. なぜだろうと思いつつ,マイク・フィグスの「 時代×4 [About Time 2] 」を見る.これは4分割された画面で同時に物語が進んでいく短編映画で,「 10 Minutes Older 」というオムニバスの映画のひとつである. 画面を4分割して,物語で進んでいくと,段々のそこで起こっていること全てを認知することが難しくなり,認知限界を超えることを実感した.「24」は,リアルタイムという軸があるから,ために画面が分割されても,それは空間的に離れているところで「同時に」物事が起こっていることを示すために有効だが,そこで「リアルタイム」という軸が外れてしまうと,見ているヒトは分割された画面の関係性が分からなくなってしまうのではないだろうか.そこで,「24」で画面分割が使われなくなったことには,認知限界が関係しているのではということを考えた. 24 時代×4[About Time 2] レフ・マノヴィッチが画面分割はユーザ・インターフェイスの「GUI」からの影響であると指摘している.「ひとつのスクリーンにひとつのイメージ」というのが画面構成の論理であったが, GUI を構成する要素であるビットマップ方式のディスプレイがこの論理を破綻させたと,マノヴィッチは考えている.ビットマップ以前に,映画では電話をかける場面などで画面分割を行っていたが,大々的には行われていなかったとはいえるので,マノヴィッチの指摘には賛成である.そして,画面分割を「空間的モンタージュ」と呼び,これまでの「時間的モンタージュ」に変わるものだとし,「空間的モンタージュ」は,GUI の画面を占拠して,そこでは何も消えることがない「記憶」の場として機能していると,マノビッチは考える. my desktop マルチウィンドウシステムにもつながる,パーソナル・コンピュータの大元のアイデアであるヴァネバー・ブッシュのメメックスは2画面を備えた装置として描かれている.メメックスは増大する情報量に対処するために作られた装置であった.ブッシュは膨大な情報に対するヒトの認知限界を考え,メメックスを開発... 続きを読む
矢印の自立 1/29/2010 The World's Biggest Signpost from adghost on Vimeo . ノキアのナビゲーションサービスのプロモーションのためにつくられた巨大な矢印.携帯から位置情報を送ると,矢印が動いてその方向を指すもの.情報を送った人は,矢印の先に何があるかも想像することができるので何を指しているかわかるけれども,多くの人は,そこに流れるメッセージを読んだとしてもこの矢印の先にあるモノを想像できないなのではないだろうか.でも,矢印の方向に私たちの注意は向いてしまう. 矢印の先に注意を向けるということを,私たちはごく自然に行っているが実はそれはつい最近になって生まれた行為らしい.矢印は,長い間,「モノの動く方向を示す」という意味しかもっていなかったが,今世紀に入って,矢印が示す意味が多様化してきてると,以下のように書かれている. 矢印の意味をほんの少し調べただけでも,現在の記号的な教えを示す矢印のなかから,たちどころに7種類もの違う意味で使われている矢印を見つけることができる. 1.動きの向き 物体の動きであったり,動かす必要がある物理的な動きの向きを示す. 2.物理的な変化,変容 ある状態や状況に置かれているところから別のものに変化,変容することを示す. 3.ディメンションの提示 通例としては距離を示したり,数量,重量,時間といったいろいろな寸法とともに使われる.距離を表したり,重量を示す. 4.連結関係を示す 例えば組み合わせにすべき部品と部品を示す矢印.この場合,昔の医学書や科学書で見られるものと同じく,結合線(破線)と同一の意味を持つ.この矢印は,現在使われている矢印と同じくさまざまな起源から生まれてきたことを示す. 5.注意を喚起 どこを見るべきか,図版の特定の場所を示すために使われる. 6.連続性を示す 現代の科学技術では,機能を使ったり,ある要素と要素を組み合わせるには,多くの手順を経る必要がある.そうした一連の手順において,矢印で次にするべき段階を示す. 7.特定の意味を持つ 矢印が教え示す意味は,必ずしもいつも明確とは限らない.また仮に明確でなくとも,意味は持っている.例えば「電気」や「リサイクル」に使われている記号がそれにあたる.(pp.19-20) 矢印の起源と多様化 in 矢印の力:その先にあるモ... 続きを読む
アンドレアス・グルスキー展を見て,谷口暁彦さんの習作《live-camera stitching》を思い出しました 3/29/2014 名古屋から神戸に引っ越しました.それで国立国際美術館に アンドレアス・グルスキー展 を見に行きました.グルスキーの作品を一言で言うと「大きい」.それは写真として「大きい」ということですが,とにかくに大きい.普通の写真を見る距離でグルスキーの縦構図の作品を見ると見上げるかたちになるので,クビが痛くなります.このあたりはとても重要かと思われます.神の視点の前ではヒトは小さなものだなと,クビの痛みともに感じられるからです. といっても,グルスキーも神ではなくてヒトですから,その大きな作品を「チチンプイプイ」と言って簡単につくっているわけではなく,コンピュータで複数の画像をくっつけてつくっているわけです. パリのモンパルナス地区に位置するアパルトマンを捉えたこの作品は,グルスキーがデジタル技術によるイメージ加工を始めた頃に制作されました.二つの撮影ポイントから映された画像を組み合わせて一つの画面を作り出すことで,写真家は,建物の全体を正面から眺めることができ,かつ,アパルトマンの窓の中の一つ一つの世界を見ることの出来るイメージを完成させました. アンドレアス・グルスキー展パンフレット(国立国際美術館) ふたつ以上の視点が入り込むから作品を見ていると混乱してきます.「あっちの視点で見ていると思ったら,いつの間にかこっちの視点に移動している」ということを写真でやられると僕の視覚はついていけずに混乱して気持ち悪くなったりしました.でも,グルスキーの作品で多い神の(上からの)視点において気持ち悪くなることなく,首の痛みだけを無視すれば自分も神になったような感じを味わっているような気がします.「神のような感覚」を味あうだけなら,グルスキーではなくて,もっと広大な俯瞰視点をとれて,自由に動き回れるGoogle Earthの方がいいかなという感じでもあります.グルスキーとGoogle Earthを比較するなんてと思うかもしれませんが,これらは「画像」として同等なものだと思います. 上の画像は「アンドレアス・グルスキー」とGoogleの画像検索してみたものです.なんで画像検索をしたかというと,多く人がこんな画像でグルスキーの作品を見ていると思われるからです.グルスキーの作品をネットで見るとちっとも大きくありません.クビも痛くなりません.神の視点と... 続きを読む
京都工芸繊維大学_技術革新とデザイン_インターフェイスの歴史 7/27/2015 スライドのPDF 授業メモ マーシャル・マクルーハンの『メディア論』はメディアによる「人間の拡張」を論じたものである.メディアの変化によって,ヒトの身体が拡張するともに,意識も変化していくとマクルーハンは論じた.それは,マクルーハンが機械の時代=身体の拡張と電気の時代=意識の拡張のはざまに生き,機械と電気という2つの技術を同時に生きたからである.ただ,マクルーハンが生きた時代の多くは機械の時代であり,それゆえに彼のメディア論は「身体の拡張」が主に扱われている.そのなかで,メディア論の最後の3章「31 テレビ 臆病な巨人」「32 兵器 図像の戦い」「33 オートメーション 生き方の学習」では機械と電気の技術の戦いが描かれ,電気時代のヒトの意識のあり方が強く描かれている. マクルーハンのメディア論と同時代にアメリカでは今日のコンピュータ・インターフェイスに至る研究開発が行われてた.アイヴァン・サザーランド,ダグラス・エンゲルバート,アラン・ケイというコンピュータ科学者によるインターフェイス研究開発とその思想は,マクルーハンが論じた電気時代のヒトの意識のあり方を,コンピュータというメディアを用いてあらたに考えたものと考えられる.サザーランド,エンゲルバート,ケイはコンピュータ用いて「ヒトの知能をいかに補強増大していくのか」ということを考えていた. ヒトの知能補強増大という思想に基づいたインターフェイス研究開発のなかで,ケイはコンピュータを「メタメディア」と定義し,これまでのメディアをひとつの場所で受け入れる傘のようなものと考えた.「メタメディア」は単にこれまでのメディアをコンピュータというひとつの場所に集めるだけではなく,コンピュータ特有のプロパティが既存のメディアに与えられていった.それらはこれまでのメディアをメタファーとして使いながらも,全く異なるものになっていた.そして,あたらしい行為があたらしい思考方法導くという考えのもとエンゲルバートが開発し現在でも広く使われている「マウス」とケイの「メタメディア」という考えが結びついた現在のGUIは,複数のメディアがもっていた多種多様なヒトの行為を「ボタンを押す」という最小限な行為にしてした. ここで,ヒトの知能補強増大のひとつの結果としてインターネットがで... 続きを読む