A Demonstration of the Transition from Ready-to-Hand to Unready-to-Hand Dobromir G. Dotov, Lin Nie, Anthony Chemero を読んでみた.この論文についての解説は, 「コンピューターと自分は一体」:実験で検証 で読めますが引用してみる. Chemero氏の研究成果は,3月9日(米国時間)付でオープンアクセス誌『PLoS ONE』に掲載された.この実験は,ドイツの哲学者マルティン・ハイデッガーの基本概念の1つを検証する目的で行なわれた. 人間は,扱い慣れた,正しく機能している道具については特別に意識せず,道具の向こうを「透かし見る」ようにして,目の前の課題に意識を向けるものだ,とハイデッガーは唱えた.それはちょうど,靴ひもを結ぶのにいちいち自分の指を意識しないのと同じ理屈だ.すなわち,道具はわれわれ自身なのだと. この概念,「用具的」[他には「道具的」「手許的(性)」「用存的」など.英語では「ready-to-hand」=手の届くところにあること.ドイツ語では「zuhanden」]と呼ばれ,人工知能や認知科学の研究に影響を及ぼしてきたが,これまでこの概念が直接検証されたことはなかった. ということらしい.検証されたかどうかは別にして,自分の関心のあるところを少し書いてみることにしたい.ハイデガーは道具の例としてハンマーというモノを出しているのだけれど,この論文ではマウスとカーソルとでひとつの「道具」を作って実験している.論文の著者たちは次のように,この「道具」のつながりを書いている. ハイデガーの例とアナロジーを示すと,マウスはハンマーの柄の役割をし,スクリーン上のポインターはハンマーの打撃面と同じような役割をする.[ To make an analogy to Heidegger’s example, here the mouse plays the role of the handle and the on- screen pointer figure plays a role similar to that of the hammer striking face. ] このアナロジーは妥当なんだろうか.マウスがハンマーの柄であることはい...
Gene McHugh, Post Internet: Note on the Internet and Art 12.29.09 > 09.05.10 (これは 本 にもなっているし, 全文のPDFもネットあった .)を読みながら,「ポスト・インターネット」って何だろうと考えていたけれど,どこに手をかければいいのかわからないくらいその世界は広大すぎて,何があるのかワクワクしつつも,途方にくれてもいる.自分のためのリンク集を兼ねて思いつつメモを書いてみたい. ポスト・インターネットを巡る言説は, Louis Doulas, Within Post-Internet | PartⅠ で簡単にまとめられているので,これをさらに簡単にまとめてみる.ポスト・インターネットという言葉は,2008年に Marisa Olson というアーティストが インタビュー の中で言ったことがはじまりらしい.インターネット・アートがもはやコンピュータとネットを使ったアートを指すものでなくなり,インターネットやデジタル・メディアに影響力されたものなら,どんな種類のアートであってもそれはポスト・インターネット(・アート)になる.作品がたとえオフラインであっても,ネットなどから影響を受けていれば,それはポスト・インターネットと呼ぶことできる.Olson はインタビューの中で,ネットアーティストのGuthrie Lonergan が Internet Aware art と言っていることにも言及している. そして,最初に挙げた『ポスト・インターネット』というブログを書き続けた Gene McHugh はインターネットはもはや目新しいものではなく,平凡・陳腐(banality)なものになったとしている.次に, Artie Vierkant が2010年に書いたエッセイ, The Image Object Post-Internet では,ポスト・インターネットでは,作家性がユビキタスなものになり,作品への注目が重要になっていると言っている(作品への注目というは,McHugh も言っていて,彼の場合は「承認」という言葉であった) と,Doulas はポスト・インターネットを巡る言説を辿って,それぞれの違いはあるけ...
2007年に書かれたHito Steyerlの「 In Defense of the Poor Image 」には,高解像度画像の劣化版ではなく独自の存在となった低解像度画像のことが書かれている.2007年といえば,iPhoneが発表された年であるが,インターフェイスでの大変動ともともに画像の認識においても大きな変化が起こっていたと考えるべきであろう. 「In Defense of the Poor Image」の出だしの一文「The poor image is a copy in motion.|貧しい画像は動きのなかでのコピーである」は,「貧しい画像」がもともと「コピー」であり,ネットでの画像流通という「動き」に関係していることを端的に表している.「貧しい画像」は低解像度であっても,実際にはコピーではなく,オリジナルの画像であることもあるかもしれないが,「貧しい画像」と呼ばれる低解像度画像が「コピー」に近い存在で,ネットに流通しているという認識が重要なのである. 低解像度の画像に対してはどこかに「高解像度画像=オリジナル」があるという認識が対として存在しているが,Steyerlはこの認識を間違ったもとして糾弾する.低解像度画像は高解像度画像とは異なる存在意義をもつというのが,Steyerlの主張である.ネット上を隈なく「流通」していくことこそが,低解像度画像の存在意義なのである.ネットは通信速度の制約から高解像度画像は流通しにくい.それゆえに,画像は解像度を落とされ,データ量を減らされたかたちで流通していく.画像は流通すればするほど人目につくようになる.このことこそが「貧しい画像」に求められていることなのである.そこには解像度の高さによる画像の真正さではなく.いかに人目につくのかというあらたな評価基準が適用される.このあたらしい評価基準のもとでは「アウラ」の出現もまた変わってくると,Steyerlは主張する.「オリジナル」が示すアウラのように,それがいつまでも確かに存在しつづけるからこその価値ではなく,「コピー」のはかさなさゆえに「アウラ」が生じるとされる.ここで「アウラ」という言葉を双方に適用していいかは疑問であるが,現在において「アウラ」という存在も変わっていることは間違いない. 論考の最後にSteyerlは「貧しい画像」はリアルな存在が放つオリ...