写真家・小林健太さんとのトーク「ダーティーなGUI」のスライドとその後のメモ
スライドのPDF→https://drive.google.com/open?id=0B3RHXdLnqTi-b3JadFRKZWdVRHc
10月の連続トークの最終週は飯岡陸さんのキュレーションする「新しいルーブ・ゴールドバーグ・マシーン」展での,写真家・小林健太さんとのトーク「ダーティーなGUI」でした.
「ダーティーなGUI」というタイトルは「GUIの歪み」というタイトルの講演を考えているときに出てきた言葉でした.そして,今回はその言葉を使って,「クリーンなGUI」としてのラファエル・ローゼンダールと「ダーティーなGUI」としての小林健太を対比させることで,何が考えられるのか,ということを,小林本人と話してみようと考えました.
小林 指が大事な気がしていて.写真って実際の行為は,いろいろ身体を動かすにしても,ボタンを押し込むっていうそれだけで,そのボタンを押し込むっていう行為と,出て来た画像との間に,動作的な分断がある.その感じが面白いと思っていて.一方編集では指先と,そこから延びる筆致に連続性があって.
[投稿|トーク]小林健太「#photo」を巡って|小林健太×荒川徹×飯岡陸×大山光平(G/P gallery)
今回のトークはGUIが中心ではなく,小林の作品と作品制作の行為がメインなので,事前にいくつもの小林のインタビューやテキストを読んだなかで,気になったのが上の言葉でした.撮影の「ボタンを押す」という行為と編集の指で「描く」という行為との組み合わせ.小林は別のインタビューでは「行為をバインドしたいんすよね.撮る行為と,編集する行為を重ね合わせたい」と言っています.
カメラはボタンを押すという最小の行為で,物理世界を画像に移してしまう.物理世界を写し取るためにヒトが培ってきた行為を「ボタンを押す」という最小行為にしてしまったのが,カメラであり,その延長にコンピュータがあると考えられます.だから,私はGUIというシステムはヒトの行為を最小化していく流れにあるものだと考えています.しかし,コンピュータの論理世界にヒトが入り込むには,キーボードの一つひとつのボタンを押す行為によって文字列を入力していくことが最適でしょう.そこになぜわざわざGUIなんてものがでてきたのか.それはヒトの身体性を少しでもコンピュータの論理の世界に移そうとする試みであると考えられます.だから,GUIはヒトの行為を最小化するだけでなく,ヒトがコンピュータとコミュニケーションをするためにヒトの行為を最小限,かつ,均一化していくものだと言えます.
小林はカメラとGUIとをバインドすることで,コンピュータとともにあるヒトの行為の最小化と均一化による表現を生み出していると,私は考えています.それはコンピュータとともにあるヒトの行為を,複雑さを失った貧しいものと考えるのではなく,そこにあたらしい行為の萌芽をみていくことで,コンピュータのクリーンな世界にヒトと物理世界がもつダーティーさを与えていく試みなのですトークの際に,私は小林に「画像に触れている」とき,つまり,ディスプレイに表示されている画像をMacBookのトラックパッドでPhotoshopの指先ツールを操作しているときに,指先はどんな感覚なのかを聞きました.小林は「無感覚かな」と答えました.「グニュグニュ」「ネチョネチョ」といった感覚があるのかなと私は思っていた私にとって,小林の「無感覚」という言葉は新鮮でした.藤幡正樹はコンピュータでデータが喪失する際の感覚を「ヒューララ」と言ったり,コンピュータの世界に触れたヒトの感覚を示す独自の単語をつくったりしていました.これまで画像には誰も触れていないのだから,それを表わす言葉なくてそこにあらたな言葉をつくることは当然の試みだといえます.しかし,小林は「画像に触れる」と言いながら「無感覚」です.「GUIネイティブ」である小林が「無感覚」で触れているという.それはGUIがヒトの行為を最小化かつ均一化していった先にある感覚のありようなのかもしれないです.対象とのあいだにコンピュータが入ることによって,行為が最小化・均質化されていき,そこでは行為とともにある感覚が拡張されるのではなく,最小化・均質化された行為に慣れたヒトにとっては,コンピュータとともにある感覚がなくなっていく.行為はあっても,感覚はない.そして,一度感覚がなくなってしまえば,そこにあらたな感覚をコンピュータから提供できるのではないでしょうか.
小林の行為に焦点を合わせると,彼は実際問題として「画像に触れている」のだろうか.小林が「画像に触れる」 というのは,もうここでは正しくないのかもしれない.小林とGUIというシステムが結合して「画像に触れる」と言うのがいいのでしょう.小林はGUIの一部で,GUIも小林の一部となって,小林とGUIとが複合体として画像に触れる.それはもうクリーンでもなければ,ダーティーでもなくて,コンピュータが提供するクリーンな世界や最小化・均一化した行為にヒトがポジティブに同一化していくことで,ヒトや物理世界のダーティーさをコンピュータに呑みこませてしまうようなことなのかもしれないです.